『水鳥記』 の周辺
著者名(日) 黒木 千穂子
雑誌名 大妻国文
巻 32
ページ 81‑98
発行年 2001‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001388/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
﹃ 水 鳥 記
﹄ の 周 辺
黒
木 千 穂 子
はじめに
﹃水鳥記﹄は︑慶安元年に川崎の大師河原で実際に行われた酒合戦の様子を︑酒茶論・酒餅論といった異種合戦ものにな
ぞらえ︑おもしろおかしく描写したもので︑刊本は寛文七年中村五兵衛版︵改題本﹃楽機嫌上戸﹂/宝暦十四年︶と︑寛
文・延宝頃刊の江戸松会版とがある︒両刊本は別版で︑京版は二冊本に︑松会版は三冊本になっている︒このころ︑出版
文化の中心はいうまでもなく京都であり︑江戸においては草子の類を独自の板木をもって出版することは希な事であった
らしい︒そのため松会版は︑江戸生まれの草子出版の初期の例としても注目される作品であるといえる︒しかし︑
好事家を除き︑これまで研究は内容も含めてほとんどされてこなかった︒ところが最近︑酒合戦の当事者である川崎大師 ︵ 注
2
︶部の
河原の名主︑大蛇丸底深こと池上太郎右衛門幸広が没して三五O年になるのを記念して︑川崎の郷土史会が記念行事を催
したり︑研究書︵﹁大師河原酒合戦﹄/古江亮仁氏/平成十年/多摩川新聞社︶が出されたりするなど︑地道な調査も行わ
れて
きて
いる
︒
﹃水
鳥記
﹂の
周辺
J¥
J¥
しかしながら︑これまでの調査はいずれも川崎の池上方の資料を中心としたもので︑版本における作者となっている茨
木春期については︑伝記も含めてそのほとんどが不明のままとなっているのが現状である︒茨木春朔の調査は︑﹃水鳥記﹄
の研究にとって︑重要な課題の一つであるといえよう︒そこで調査した結果︑これまで紹介されてこなかった逸話の存在
ゃ︑また︑茨木春期の子孫にあたられる伊舟城仁氏が所蔵される﹁家譜﹂を見いだした︒これにより︑茨木︵伊舟城︶家
および春朔の伝記についてもおぼろげながら明らかになってきた︒そこで本稿では新出の資料を中心にして︑これまで紹
介されてきた資料ももう一度まとめなおして示し︑今後の研究の足がかりとしたい︒
既に紹介されてきた資料
﹃水鳥記﹄の研究は︑江戸時代を含めてこれまで好事家の調査によって紹介された資料を中心に行われてきた︒しかしこ
れまで︑それらの資料を考証した研究はない︒
﹃水鳥記﹄の記事が見えるもっとも古い資料は︑享保十一年梅花軒三休子による﹃梅花軒随筆﹄であり︑このあとに︑山
東京伝﹃近世奇跡考﹄︵以下﹃奇跡考﹄︶︑間宮士信﹃地黄坊事跡考﹂︵以下﹁事跡考古がある︒まず︑上記文献を中心とす
るこれまでの研究の基になっていた事項を確認しておきたい︒資料としてはそのほか︑﹁江戸砂子﹄など地誌の類も酒合戦
についてや茨木春朔の墓所について等の記事を収めるものがあるが︑ここでは略した︒しかして︑上記の記事から明らか
になるのは︑概ね次の二点である︒
①江戸大塚に住居し︑酒井雅楽頭忠清に仕えたこと︒
﹃梅花軒随筆﹄には︑﹁大塚の地黄坊樽次と云酒を好める人は茨木春策と云儒医なり︒酒井雅楽頭忠清につかへ三百石を領
したるもの也﹂︑﹁武州大塚の屋敷に住居し︑左伝の講尺をせしとき江戸中の儒者共群参して聞けり﹂と・あり︑﹃奇跡考﹄に
は︑﹁慶安の頃︑江戸大塚に︑地黄坊樽次と云人あり︒実名茨木春朔︑某侯の侍医なり﹂とある︒また﹃事跡考﹄には︑﹁地
黄坊は俗称伊舟城春策といふ酒井河内守の侍医にして歌よみなり﹂︑﹁春策江戸大塚にすみしといふ﹂︑﹁樽次は本名伊舟城
春朔と号す︒酒井河州侯の儒医にして歌よみ也﹂とある︒ちなみに︑筆者が確認できた厩橋︵前橋︶藩の分限帳でもっと
も早い時期のものは延宝年間で︑寛文十一年没の春朔を確認することはできなかった︒
②江戸谷中妙林寺に葬られたこと︒
﹃奇跡考﹄に︑﹁樽次の遺骨を葬りしは谷中三崎妙林寺なり︒樽次の法名は信善院日宗と云﹂とあり︑﹃事跡考﹄には︑﹁春
策墓は谷中妙林寺に有﹂また︑﹁樽次遺骨を葬りし所は谷中妙林寺也︒法名親善院日宗と号︑日蓮宗也︒妙林寺は改宗あり
て天台に転ず﹂とある︒この谷中にあったという妙林寺は︑現在は廃寺となったものか︑移転したものか不明のため︑墓
石についてや寺歴その他を確かめることができない︒なお︑﹃奇跡考﹄﹃事跡考﹄ともに小石川祥雲寺に樽次の石碑があり︑
更にはそこに辞世の句が彫られている旨記されているが︑これは樽次方の水鳥のひとり﹁一一一浦樽明﹂のものであり︑茨木
春朔
に関
係は
ない
︒
そのほか﹃梅花軒随筆﹄で注目すべき記事は︑春朔の命名に関して︑﹁儒は林道春の門人︑医は吉田策庵の弟子ゆへ師の
名を一字づ︑取て春策と名づく﹂とするものと︑春朔の息子に関して︑﹁地黄坊が子共コ一人あり︒嫡子次郎太夫も次男も下
戸なり︒妾腹の末子上戸ゆへ蜂竜の大盃をゆずりけるとぞ﹂の二つである︒同様に︑﹃事跡考﹂で注目すべきは︑子孫に関
しての︑﹁予︵間宮土信︶が同僚山本雅直が祖母は伊舟城八左衛門が娘なり︵﹁八左衛門は七右衛門が事なるべし﹂と割書︶
八左衛門は樽次が子にして酒井雅楽頭の臣也︒雅直と云︒祖母伊舟城時に妙林寺祖父春朔の墓へもうでし事ども覚えたり
と︑今猶伊舟城何某酒井家に事へて国詰なれども寒温の書状往来たへざるよし﹂という記事である︒これら三点は後載の
資料とともに第三節で検討する︒
﹃水
鳥記
﹄の
周辺
人
)¥
四
郷土資料および伊舟城氏所蔵文書
第一節で確認した資料以外に︑茨木春朔が仕えた上野国厩橋
︵前
橋︶
藩お
よび
︑
呈ギの~£そ
芸:後
主'1皮
巴 の子
『 孫 Q;iが
墨色仕
ごった立与え
謂亡勢伊
古i
霊
堅 : ; 月
亙う藩
土によるものと思われる資料にも︑その名が登場している︒まず取り上げるのは︑
であ
る︒
﹃直泰夜話﹄は︑姫路藩酒井家に仕えた勅使河原三左衛門直泰の著したとされる随筆で︑酒井家の制度や領内での出来事
を約四百ほど記述している︒本書は︑伝本が多くあるようで︑ほとんどが個人蔵ということもあり︑筆者もいまだそれら
の本文を見比べるには至らないが︑収録話数の多いとされる一本をここでは採用することにした︒なお︑これは前出﹃事
跡考﹄の記事の中にも﹁直泰夜話云﹂として︑春朔の出自が﹁元来最上家之浪人﹂である旨が紹介されている︒
﹁直
泰夜
話﹄
第四十七話
一︑最上衆と申すは︑出羽山形六十万石の大名︑最上源五郎殿断絶被致候節︑彼の家の牢人どもを隆興院様へ被召抱
候を申し候︒
本城豊前大山内膳楯岡七郎右衛門宮崎六兵衛武子助太夫八森藤左衛門志賀治兵衛
瀧 沢
八左衛門右の者共は彼の家の筋目有る歴々なり︒其の外豊前・内膳が願ひにて儒者或は自分の与力︑或は家来等も御家人に被
召出者之候︒左の通り︒
儒者伊舟城春作原田大膳原田藤右衛門布川左次右衛門松岡勘右衛門山家主計岩松九右衛
門
貴志惣右衛門吉岡利助
其の外追って可加
第二百六十一話
一︑
同君
︵大
昌院
忠清
︶
の御代︒伊舟城春朔と云う儒医あり︒元来最上家の牢人にて隆興院︵忠世︶様の御代︑被召
出︒甚だ大酒にて地黄坊樽次と異名す︒江戸小石川祥雲寺に春朔の石碑あり︒正面に不動の像︑右に酒徳院酔翁樽枕
居士と刻す︒辞世の歌二首あり︒
みな人の道こそかわれ死出の山打越し見れば同じ麓路
南無三宝数多の樽を呑みほして身はあき樽と帰る古る里
右は酒門の高弟︑和泉屋佐助が立てる塔なり︒実の墓は谷中の妙林寺にあり︒信義口院日宗と有るなり︒
次に﹃六臣護筆﹄であるが︑これは前橋藩主であった酒井家が︑寛延一一年︵一七四九︶姫路に転封されたのち︑六名の
﹁ 王
4 J
家臣によってまとめられた酒井家歴代の記録で︑静嘉堂文庫本には題築に割書で﹁酒井雅楽頭家臣官暇記﹂と恥引でまた︑
︵ 注目 ︶
﹃六臣語筆﹄は姫路市立城内図書館所蔵の﹁酒井家史料﹂にも収載されるが︑姫路市立城内図書館によると︑これは静嘉堂
文庫本と別本ではなく︑﹁酒井家史料﹂がまとめられる際に︑静嘉堂文庫本が参考にされたらしいとの話が伝わっている由
で︑両書を比較すると内容上ほとんど一致する︒しかし静嘉堂文庫本には︑﹁酒井家史料﹂には未記載の記事もあり︑左記
第二話目の春朔逸話がそれに当たるもので併せ紹介する︒記事は春朔の人柄を示す貴重な資料といえよう︒
﹃六
臣謹
筆﹄
一︑直泰夜話にも言ふ処の伊舟城春朔は︑地黄坊樽次と狂名して大塚屋敷に住居しけるが︑自作之水鳥記と云ふ書︑
著したり︒大師の河原の池上太郎右衛門底深と云ふ者と酒合戦之書なり︒其中春朔事は六位の大酒官地黄坊樽次と名
来︑晋の劉伯倫が再来なりとたわむれたる事なと書たり︒此春朔が墓は谷中妙林寺也︒法名信義口院日宗ト号︒日蓮宗也︒
比寺後に改宗して天台と成る︒又小石川祥雲寺一石塔有︒是は夜話之内二見へたり︒辞世一一首ヲ彫付たり︒此塔は酒門之
﹁中
小鳥
記﹂
の周
辺
八五
f︑ ︑
4︑
一︐ ノ﹂ ノ
高弟二市播州出石之産和泉屋左助菅の任口と云し者︑後に剃髪して浅草諏訪町に有て義三坊と名乗けるが︑小石川之祥
雲寺ノ住寺懇意に依而︑其頃酒門之連中を語らひて建たる石塔の由︑此任口ト云は芝居υ行て︑地黄坊ト酒宴せんとて︑蜂
と龍との盃を持参して呑させと云ひて︑互に不省呑しとなり
一︑伊舟城春朔といへる御医師は︑大塚御屡敷ニ住居けるよし︒或時当家の町人大病一一而療治を受候所︑追日全快一一而︑何
がな厚く札を致度心懸候へ共︑春朔も一物有医師なれば致方にこまり︑其比は殊の外雲雀流行日右の町人舞雲雀を
二三拾両ニ耐求持参いたし︑此度之御礼難申候へど︑依之此鳥御慰にもなれかしと持参仕り候旨述ければ︑平奈川連受納致︑
今暫拍候へとて︑酒肴等振廻︑其上右之雲雀を焼鳥ニ申付候問︑給候へとて出しければ︑右の町人も甚迷惑致けるとか
や︵句読点は私に付した
次に︑﹁摘古採要﹄︒国書総目録では﹁武家故実﹂の書とされ︑序文によると文政十年︵一八二七︶に松下高徐という人
物によってまとめられた︒酒井家史料本︵五編十冊︶と国会図書館本︵二冊︶の二本があり︑国会本の二冊は︑酒井家史
料本の初編上下の二冊にあたるが︑記事の移動や増減はない︒ここに示す系図は未紹介の資料で︑詳しくは第三節で述べ
るが︑特に春朔の息子に関する記載は注目すべきものである︒
﹃摘古採要﹄初編下巻
十七
地黄坊樽次の事
︵前半は﹃江戸砂子﹄・﹃直泰夜話﹄に載る三浦樽明石塔の記事転載の為略す︶
又彼家の系譜を見るに左の如し
伊舟城市兵衛某初弥平次
伊舟城春作初助四郎
寛永元年十二歳ニ而弐拾人扶持被下置御小姓ニ被召仕︒同十四年新知百石被下置︒寛文十一年五十四歳ニテ病死︒信
普院日宗︒江戸谷中日蓮宗妙林寺ニ葬︒
伊舟城左大夫惟次
初大
虎
父春作の儒業ヲ相続すべき器量無之問︑如何様ニも以御目矩被召仕可被下旨相願候付︑新知被召上︑御中小姓ニ被
召出︑弐拾人扶持被下置る︑と也︒
初小
虎
伊舟城伝八喜里
養子伊舟城八左衛門知影伊舟城弾助景品百三十石百二十石
伊舟城七郎右衛門景福伊舟城久太夫景中百二十石百二十石
伊舟城甚十郎伊舟城第二二九十石六十石
彼家の系図を以て見れば春作と記し小姓を勤仕して医業の事をしるさず︒されど江戸砂子直泰夜話なんといえるもの
に︑春期としるせり︒恐らくは彼家に春朔の名の朔の字を書伝へざるにや︒いかさまにも儒医にて春朔としるせるは
当れるやうに覚ゆ︒又かの樽次が自ら戯作したる水鳥記の絵巻物を見るにその画中に医師の姿に図せるあり︒世の開
板せる水鳥記にも同じく医師の姿に画たる也︒両様共に模様俗の鉢には無りし︒樽次みづから作れる草紙とあれば徒
らに斬髪には画くまじき︒今その一ところを抜て誼とす︒
画︵一丁半略す︶
﹃水
鳥記
﹂の
周辺
人 七
J¥
J¥
また春朔は林家の弟子たる事はたしかに彼家の譜にもしるして︑林春斎の門に入て春の一字を賜はりし故︑春作と言
たるよし見ゆ︒また此春作は小姓にはべりし頃︑隆輿君あるとき側の者に太平記をよませて聞給ひしに︑誰ぞ此太平
記を暗諦するものゃあるべきかと尋給ひしに︑春朔小姓にて御まえにありしが速に太平記を暗請したり︒君彼の年若
くして気臆のすぐれたるを賞し給ひ︑林春斎の門人になし給ふとなり︒此話人のしらざる談なれば愛に載す︒此事も
彼家の譜に詳かにしるしぬ︵句読点は私に付した︶
資料内容の検討は第三節に回すとして︑次に新出の﹁家譜﹂の翻刻を載せる︒所蔵者の伊舟城家は︑前出の資料﹃摘古
採要﹄の系図に示すところの︑春朔の二男である伝八家の直系の子孫にあたられる名家である︒なお︑伊舟城伝八は︑延
宝八年︑前橋藩主酒井忠清の大老職罷免に伴い︑翌九年二月忠挙の家督継承と同時に︑忠挙の弟忠寛に分知されて成立し
た伊勢崎藩への移動が命じられて伊勢崎藩士となり︑やがて江戸表から伊勢崎の地に移り住んだ人物で︑享和元年︵一八
o
こ五月に成った﹃家臣進退存亡縦紘一録﹄に詳しい︒これは︑伊勢崎藩成立時からの家臣の動静を調査した記録で︑そこに﹁伊舟域伝八/新知百石/元〆相勤︑正徳六年隠居︑家督体小十郎江八拾石被下︑改宇右衛門御小納戸相勤候︑不調法
有之永之御暇被下︑後年帰参被仰付拾人扶持被下︑御勘定奉行より伊勢崎大目付相勤候︑養子小十郎改市兵衛大目付︑元
〆相勤候︑御扶持方拾五人扶持︑後二致変死︑跡式半減養子八十之進れ被仰付︑段々御加扶持被下当時市蔵改名︑江戸にて
大目付相勤罷在候﹂の記載がある︒
さて︑現当主である伊舟城仁氏のご厚意により︑この度貴重な資料の閲覧をお許し頂いた︒以下の﹃水鳥記﹄︵写本︶・
﹁家譜﹂が︑その資料の一部である︒﹃水鳥記﹄の写本は︑上中下の三冊本で下巻最終了末に﹁一一一月吉日松曾開板﹂とあ
り︑松会版を筆写したもので︑筆写時期は江戸中後期であろうと思われる︒本文は刊本と比べて内容の移動や増減︑訂正
︵ 注目 ︶
等はない︒ただし︑上巻の見返しに墨書きで九行にわたり樽次についての記載があるので︑左に翻字した︒次に﹁家譜﹂
であるが︑これはこれまで全く知られていなかった茨木春朔︵伊舟城春作︶と父伊舟城市兵衛の出自に関して記述されて
︵ 注目 ︶
おり︑おそらくはこれが唯一の資料であろう︒まずは左に示す︒なお︑句読点は私に付した︒
﹃水鳥記﹄上巻見返し
地黄坊樽次は幼名伊舟城染之助と云︒酒井賢君に仕へて後大塚下屋舗に住す︒故に大塚の住地黄坊と云云︒幼少の時
不幸にして父に後れしに君の御めぐみ深く三歳より扶助し給ひ︑八歳より近仕し命を得て林道春に随ひ後に春の一字
を給り︑伊舟城春作と改む︒二人の男子あり︒幼とき兄を大虎︑後八左衛門︑弟を小虎︑後伝八と君より名付給へり︒
春作若き時より連歌はいかいを好みそのうへ医道に志あって世にもてはやされL
と云
々︒
﹁家譜﹂︵末尾に写真を一部掲載した︶
本国常陸国伊舟城郡寺田庄/いつの頃よりか茨城郡と書改候よし
伊舟城市兵衛
生国出羽最上家一勤仕︑最上源五郎殿断絶一日︑以旗本今村伝四郎様井本城豊前日入ニ向忠世君御代︑弐百石ニ而被召出︑
︵日i m
︶前橋住居︑最上之家中十七人被召抱候也︑依之最上十七騎と申候也︑然処最上より召置候厄介︑若袋平蔵と申者︑
前橋御家中若年之衆之鎗術など指南致候付︑市兵衛申候﹇虫損﹈︑新参者之厄介として︑不遠慮なる事ニ候問︑御盤⁝
用之旨叱り候処︑右市兵衛夜話之帰宿を待受︑闇打仕掛候得ば︑平蔵返り討ニ逢候也︑去ながら市兵衛義も深手にて
卒去いたし︑前橋柿宮︵﹁禅宗﹂と傍書︶長日日寺ニ葬候︑法名剣山西空居士︑干時寛永コ一年丙寅年︑五月廿八日卒ス
二代
目士
口次
伊舟城春作
幼名助四郎︑父横死の節︑幼少ニ付︵﹁此時十二歳﹂と頭書︶御目見前と申︵﹁大昌院様御代﹂と傍書︶︑新家の義故︑
知行被召上︑別段ニ被召出︑幼年より御小姓相勤︑江戸詰ニ相勤候︑至而物
μ
是守
人ニ
越候
一付
︑林
家江
御門
弟二
被仰
付︑
段々
出性仕︑春作と改名仕候︑其後新知百石被下置候︑寛文十一亥四月七日︑於江戸卒去︑法名信善院日宗居士︑江戸
谷中
法花
宗妙
林寺
葬ル
︑寿
五十
七歳
一両
卒ス
﹃氷
烏記
﹂の
周辺
人 九
。
九妻小笠原信濃守殿家士渡部喜左衛門娘︑貞享元子年八月十四日卒ス︑法名浄林院︑同寺ヘ葬
三代目惟次伊舟城左大夫
幼名大虎︑元禄十六年未十一月十三日卒ス︑法名是信院遭見居士︑江戸本郷丸山本明寺地中本行院へ葬ル
三代目より己後︑本家当主伊舟城七右衛門れかわる
二 男 重 吉 伊 舟 城 伝 八
後重澄ト改︑幼名小虎︑十八歳之時別段ニ被召出︑其後忠寛ノ君御附ニ被仰付︑元禄コ一午年九月八日︑於御前当分御金
奉行被仰付︑同役料壱人扶持被下︑同五年申ノ三月四日︑於御前御勘定奉行被仰付︑金拾両二五人扶持高ニ被仰付︑
宝永元申年六月九日︑願之通リ神原庄左衛門甥小十郎養子被仰付︑同年八月廿二日新知百石被下︑於御前御元〆役︑
御勘定奉行兼候而相勤候様被仰付︑尤御組外支配被仰付︑正徳六申年正月廿一一一日︑願之通リ隠居被仰付︑同年享保改
元︑同年十月六日行年六十七歳ニ内卒ス︑法名貞応院江戸本郷丸山本明寺江葬
三 妻
代 何目 方
孝
3
よi数?り 参 候 不 相 知 候 幼 名 小 十 郎 宇 右 衛 門 伊 舟 城 市 兵 衛
実神原氏三男︑享保元申八月家督八拾石ニ被仰付︑但十二歳より御側ニ被召仕︑其後御納戸被仰付︑享保八卯年十一
月廿四日字右衛門と改名︑伊勢崎勝手ニ被仰付︑同年十二月廿五日被仰出候者︑常々営ニ不応処︑今朝御湯被召候節︑
御茶部屋日罷設御間ニ︑食召し候段︑不届思召候︑依之永之御暇被下候
寛保三成年十二月廿三日帰参︑九両一三人扶持︑御車小姓被仰付候︑無理御給人ニ被仰付︑大目付御役被仰付大坂御
城番之節御供仕︑御嶋軽役相勤候︑其後若殿様忠温君御所被仰付候刷︑拾両高ニ被仰付︑於本所御屋敷御元〆大御目
付奥年寄兼相勤候処︑乃老年伊勢崎勝手相願候処︑願之通被仰付︑拾人扶持高伊勢崎大目付被仰付︑宝暦十二午年
引越候処︑同年壬四月三日病死干時七十二歳︑山王村︵﹁伊勢崎﹂と傍童回︶本明寺江葬︑法名新智院︵以下一代略す︶
資料の検討
第二章に示した資料から新しく分かったのは︑①伊舟城家の出自︑②春朔の命名︑③春朔の年齢︑④系図についての四
点で
ある
︒
①伊舟城家の出自については︑﹁家譜﹂に︑初代伊舟城市兵衛は﹁生国出羽最上家ニ勤仕︑最上源五郎殿断絶ニ付︑以旗本
今村伝四郎様井本城豊前口入ニ而﹂とあって︑元和八年に最上義俊が改易に処せられた後に︑前橋藩主酒井忠世に召し抱えら
れたことが分かる︒しかもその時︑﹃直泰夜諮問﹄の言︑つ酒井公お預けになった本城豊前の尽力があったことが裏付けられる
とともに︑最上家と因みのあった幕府大目付今村伝四郎の口添えがあったという記事にも注目する必要があろう︒さらに︑
この市兵衛が不慮の事故で亡くなったことが知られ︑その時二代目である春朔はまだ十歳前後ということになる︒となる
と﹃直泰夜諮問﹄第四十七話にいうところの︑本城豊前・大内内膳が願い出て出仕がかなったという儒者のひとりに﹁伊舟
城春作﹂の名があるのは︑時間的につじつまが合わないことになる︒また︑﹃奥羽永慶軍記﹄巻コ一七﹁奥羽両国名有る陪臣
の事﹂に載る︑石高二万六千石から千石までの主だった家臣及び陪臣十九名の中には︑伊舟城市兵衛の名は見えない︒た
だし︑注︵日︶に示した月報が載せる資料には︑﹃直泰夜話﹄第四十七話と同様の︑﹁曲霊前・内膳が願にて儒者︑或者自分
之与力︑或者家来等之御家人に被百抱候者有之以﹂という記述があるから︑あるいはここでいう儒者とは﹁伊舟城市兵衛﹂
であったかとも考えられ︑とすると二代続いての儒者であった可能性も浮かんでくる︒
②春朔の命名については︑﹃梅花軒随筆﹂に﹁儒は林道春の門人︑医は吉田策庵の弟子ゆへ師の名を一字づ︑取て春策と
名づく﹂とあり︑また︑﹃摘古採要﹂には﹁伊舟城春作﹂として︑﹁恐らくは彼家に春朔の名の朔の字を書伝へざるにや︒
いかさまにも儒医にて春朔としるせるは当れるやうに覚ゆ﹂︑﹁春朔は林家の弟子たる事はたしかに彼家の譜にもしるして︑
﹃水
鳥記
﹂の
周辺
九
九
林春斎の門に入て春の一字を賜はりし故︑春作と言たるよし見ゆ﹂とあって︑さらには﹃水鳥記﹄︵写本︶の表紙見返しに
﹁林道春に随ひ後に春の一字を給り︑伊舟城春作と改む
o
﹂と記す︒即ち儒学の師が﹁林道春﹂であ
るの
か﹁
林春
斎﹂
であ
るのか二説に分かれるcまず︑名字である﹁伊舟城﹂であるが︑通常は読み間違えのない﹁茨木﹂を用いたと考えられる︒
﹁春朔﹂については︑﹁家譜﹂等の文書では﹁伊舟城﹂姓の時は︑﹁春作﹂の用字で書かれているようである︒﹁朔﹂および
﹁作﹂の字についてもう一説は︑﹃梅花軒随筆﹄がいうように﹁吉田策庵﹂の﹁策﹂の字を頂いたとするものだが︑注︵8︶
に記
した
よう
に︑
四代将軍の侍医吉田策庵は実在するものの︑﹁春策﹂と書くのはこれまでのところこの資料のみなので何
とも判断出来ない︒このような点から考えても︑﹁さく﹂の字については︑それほど注意されていないという印象を受ける︒
の字は異同が無いので︑問題となるのは儒学の師が林親子のどちらであったかとなるが︑これも断定で
その
一方
で﹁
春﹂
きない︒以下は憶測だが︑茨木春朔と林春斎の生年は︑春朔は系図から元和元年︵あるいは元和四年︶︑林春斎は元和四年
で︑ほぼ同年生まれとなる︒春朔が林家の門人になった時の年齢は不明だが︑酒井忠世公に﹁八歳より近仕﹂︵﹃水鳥記﹄
表紙見返し︶し︑また﹁年若くして記臆のすぐれたる﹂︵﹃摘古採要﹄後半部︶によって主命により入門したことを考えれ
︑は︑少なくとも十代前半には門人となっていた可能性が高い︒
︵H n
︶ 十月︑十七歳の時であり︑ほほ同年の春朔を入府してすぐに門人にしたとは考えにくい︒以上のことから︑春朔の儒学の 一方︑林春斎が江戸に下ったのは寛永十一年︵一六三四︶
師は林春斎ではなく︑林道春となろう︒
③春策の年齢については︑実はこれまで全く分かっていなかった事柄であって︑つまりは大師河原での酒合戦の時の年
齢も不明だったわけである
c
ところが︑資料から彼の没年齢が判明したのである︒これもこ説があり︑一説
は﹃
摘古
採要
﹄
の系図に﹁寛文十一年五十四歳一テ病死﹂とあり︑もう一説は﹁家譜﹂に﹁寿五十七歳一﹂で﹂とある︒二説の差はわずかに
三歳で︑これにより春朔の酒合戦当時の年齢が一二十一歳もしくは三十四歳となり︑これまで言われていたよりもずっと若
くなる︒相手方の池上太郎右衛門が酒合戦当時六十九歳であるので︑無謀とも言える合戦であったといえよう︒
④第二章に示した資料でもっとも注目すべきは︑茨木︵伊舟城︶家のふたつの系図である︒ひとつは﹃摘古採要﹄︑もう
ひとつは﹁家譜﹂である︒﹃摘古採要﹄のものは︑春朔の長男である﹁左大夫惟次﹂の家の系図であり︑一方の﹁家謹巴は
二男﹁伝八﹂の家のものである︒二男﹁伝八﹂については前に述べた通り︑伊勢崎藩へ移ってからの動静であるが︑該﹁家
譜﹂の記事は分限帳等で確認できる︒右は︑その後の代についてもいえることで︑さらに﹁家謹巴を裏付けた形となった︒
しかし︑長男﹁左大夫﹂の方はというと︑これまでの調査の限りでは︑長男﹁左大夫﹂が確認できるのみで︑その後の出
仕先も不明である︒おそらくは藩主の転封にともなって姫路藩に移ったものと思われるが︑確認できなかった︒つまり﹁摘
古採要﹄の系図がこの家の存続を示す唯一の資料となっている︒ただし︑第一節末尾で触れた﹃事跡考﹂で登場する︑山
本雅直の祖母﹁伊舟城八左衛門が娘﹂︵﹃寛政重修諸家譜﹄では雅直の母﹁酒井雅楽頭家臣伊舟城人左衛門知影が女﹂︶は︑
両系図では未詳だが﹁八左衛門知影﹂は﹃摘古採要﹄の系図で春朔の長男惟次の養子と確認できる︒しかし︑その娘が雅
直の母となると︑時間的にはぎりぎりのところとなる︒また︑﹃事跡考﹂が注をするごとく︑﹁八左衛門﹂ではなく﹁七右 ︵ 注μ︶
衛門﹂とすれば︑﹃摘古採要﹄の系図でいう﹁養子伊舟城七郎右衛門景福﹂にあたるとも考えられるが︑こちらは反対に雅
直との年代が近付きすぎるか︒長男左大夫惟次の家系については︑なお後考を期す︒
おわりに
以上︑資料紹介を中心に︑これまでほとんどが謎に包まれていた茨木春朔について述べてきた︒調査によって出自や没
年齢が断片的ではあるがようやく明らかになってきた︒しかし︑郷土資料にはまだ未見のものもあるので︑春朔の長男﹁左
大夫惟次﹂の家についても含めて︑新しいことが分かり次第報告していきたい︒また︑今回は触れられなかったが︑これ
らの資料と﹃水鳥記﹂本文との関わりについても問題があるのだが︑これらについては別稿を期したい︒
﹁水
鳥記
﹄の
周辺
九
九四
注
筆者は未見だが︑酒合戦が行われた年について﹃大師河原酒合戦﹄︵古江亮仁氏/平成十年/多摩川新聞社︶によれば︑池上家が所蔵する写本﹃水鳥記﹄︵池上本︶に慶安二年とある旨の記載がある︒版本では︑慶安元年︒近代以降では︑森銑三氏が後出﹃梅花軒随筆﹄を紹介した文章があるのみであろう︒﹃森銑三著作集﹄続編第二巻︵中央公論社︶︒板本には︑作者名の記載は無い︒︵注l︶の古江亮仁氏は︑池上本を地黄坊樽次自筆の原本とされている︒享保十一年︵一七二六︶に梅花軒三休子が五十五歳で書き上げた︑四冊から成る随筆︒古今東西の事件や逸話を二四O
ほど
集め
かずのぷている︒国会図書館蔵︒梅花軒三休子は︑名を上坂平次郎といい︑奥州棚倉藩主内藤豊前守弐信に仕えた︒酒井忠清は︑四代将軍家綱の時の老中で︑寛文六年︵一ムハ六六︶四十三歳で大老職に就任︒延宝八年︵一六八O
︶︑
将軍
が綱
吉に
代替わりすると共に職を解かれ︑翌天和元年︑五十八歳で没した︒屋敷が江戸城大手門前にあったため﹁下馬将軍﹂の異名があ
る︒酒井忠世の孫で︑第四代厩橋︵前橋︶藩主︒
この分限帳の原本は︑現在所蔵が不明となっている︒ただし︑伊勢崎市立図書館には﹁延宝年中酒井雅楽頭忠清公御代御家中分限帳﹂と題する筆写資料が残されており︑これで確認した︒谷中妙林寺は現在所在は不明である︒寛永期の﹃寺院本末帳﹂天台一に︑﹁碑文谷法華寺末牽ヶ寺/豊島郡谷中三崎/日登山宝重
院妙
林寺
﹂と
ある
︒
吉田策庵は吉田宗以︒小児科の医師として法橋に任ぜられた吉田宗活︵機庵︶の男︒寛永十八年︵一六四一︶二十七歳で父の遺
跡を継ぎ︑四代将軍家綱の侍医となった︒寛文元年︵一六六こ隠居するも︑延宝八年︵一六八O︶五代将軍綱吉の子徳松の侍医となる︒元禄七年︵一六九四︶七十九歳で没した︵﹃寛政重修諸家譜﹄四二九︶︒正保元年の役職武鑑﹁屋敷付﹂に﹁吉田策庵
老/日本橋のにし北のかしはた﹂とある︒また︑﹃徳川実紀﹄常憲院殿実紀附録巻下に︑策庵は小児の名医だが︑将軍綱吉の勘気
を蒙っていたため︑徳松の治療に加わることが出来なかったとの話が見える︒すえとよここでいう山本雅直は︑はじめ御鷹匠でその後寛政六年︵一七九四︶に御裏門切手番頭となった乙幡宇兵衛季豊の四男で︑母は﹁酒井雅楽頭家臣伊舟城八左衛門知影が女﹂である旗本︒のち︑放鷹で功のあった山本雅常の養子となり︑寛政十年︵一七九八︶
二一
十一
歳の
時︑
山本
家を
継い
だ︵
﹃寛
政重
修諸
家譜
﹂一
三一
一・
一三
一七
︶︒
勅使河原三左衛門直泰は︑︵注6︶で示した分限帳で﹁五百石/御番頭/勅使河原三左衛門﹂としてみえる人物か︒後出の﹃家臣進退存亡縦迩録﹂︵注国︶に﹁五百石/年寄/勅使河原三左衛門/不応思召︑被成御戻候﹂とあることからすると︑延宝九年二月
伊勢崎藩成立と共に前橋藩から伊勢崎藩に移ったか︒なお︑著者については︑直泰一人ではなく︑何名かの酒井家家臣とする説
注 注 注 4 3 2 注
注
5
6
注i主
7
注
8
9
注10
﹃水
鳥記
﹄の
周辺
九五
九六 注 11
もある︵渡辺敦氏/﹁群馬文化﹂八二号/昭和四十年十二月︶︒本文は︑﹃直泰夜話﹄︵宮下藤雄校注/昭和四十一年/会員頒布︶の活字本によった︒宮下氏の解説︵まえがき︶によると︑原本
には﹁巻末に天明六年︵一七八六︶六月斉藤幸当によって筆写された旨の記事がある﹂との記載がある︒
︵ 注
2︶で森銑三氏も︑﹁﹁地黄坊事跡考﹂に引く所の﹁直泰夜話﹂によると伊原城はもと最上家の浪人で︑忠清の祖父忠世の代
に酒井家に抱えられたのだといふ﹂として︑引用している︒ここに名前の見える人物について︑以下簡単に記す︒
﹁最上源五郎︵義俊︶﹂は︑最上義光の孫で第三代山形藩主︒元和三年︵一六一七︶十二歳の時家督を継ぎ五十数万石の藩主となるも︑家中の内紛が続き︑元和八年︵一六二二︶近江一万石に改易された︒寛永八年︵一六4こ二十六歳で没した︵﹃寛政重修
諸家
譜﹂
八十
︶︒
﹁隆興院︵忠世︶様﹂は︑厩橋︵前橋︶藩主で︑時の老中の一人︒︵注5︶で示した酒井忠清の祖父に当たる︒
﹁本城豊前﹂は︑楯岡満茂︵のち︑本城満茂︶といい︑最上家の親戚筋に当たる筆頭の重臣である︒﹃奥羽永慶軍記﹂巻三九﹁郎
等共
︑諸
国預
と成
るの
事﹂
によ
れば
︑一
克和
八年
︵一
六二
二︶
最上
家改
易の
際︑
﹁本
庄豊
一前
守父
子は
酒井
雅楽
頭﹂
とあ
って
︑酒
井忠
世にお預けとなった旨記されていて︑後酒井家に無役三千石で召し抱えられた︒また︑﹃直泰夜話﹂第二九二話に﹁本城豊前は隆
興院様御代︑元和八戊年︑千石の御合力にて御客分に被差置候︒嫡子団右衛門︑是れ又御客分なり︒後には頼みにて後城代被仰
付候︒右豊前は最上出羽守義光以来の老臣にて四万五千石を知行す︒本名は由利なり﹂とある︒﹁大山内膳﹂は︑最上義光の六男﹁光隆﹂で後に家臣となって大山姓を名乗り︑主家改易に際し酒井家に預けられた︵﹃寛政重修
諸家譜﹄八十︶︒前出﹃奥羽永慶軍記﹄巻三九の﹁大山内謄進家忠﹂にあたるか︒その他の人物については︑今村義孝氏が紹介された資料︵戦国資料叢書﹃奥羽永慶軍記﹄の月報﹁最上氏没落の悲劇﹂/昭和四十一年/人物往来社︶によって︑八森藤左衛門・原田大膳・原田藤右衛門・山家主計・貴志惣右衛門・吉岡利助は︑その名が確
認で
きる
︵布
川三
郎兵
衛・
松岡
十左
衛門
の二
名の
名も
類似
︶︒
右月
報に
よれ
ば︑
﹁年
月未
詳の
﹁本
城文
書﹂
︵個
人蔵
︶の
中に
﹁豊
前・
内膳が願にて儒者︑或者自分之与力︑或者家来等之御家人に被召抱候者有之﹂という記事も紹介されている︒
なお
︑﹁
伊舟
城春
作﹂
につ
いて
︑﹃
直泰
夜話
﹄の
別本
であ
る﹁
姫陽
秘鑑
﹂本
には
︑﹁
伊舟
城美
作﹂
と記
載さ
れる
︒﹃
摘古
採要
﹄や
︑
後出資料﹁家譜﹂によると春朔の父は市兵衛であるが︑これが﹁美作﹂と同一であるかは未詳である︒また﹁美作﹂とするのは
他の資料にはなく︑ここは﹁春﹂を﹁美﹂と誤写したかとも考えられる︒
注
1 2
注
1 3
i主
1 4
全四冊からなり︑序文によると寛政十一年︵一七九九︶から享和二年︵一八O二︶にかけてまとめられた︑酒井家歴代の記録で︑筆者として﹁松下高保﹂以下六名が載る︒六名が代わる代わる筆記していったようで︑筆跡が数種類に分かれている︒﹁酒井家史料﹂とは︑明治に史料編纂所が姫路藩主であった酒井家が蔵していた古文書を編年体でまとめた史料である︒現在︑姫路市立城内図書館が原本を所蔵しているが︑そのすべてがマイクロフィルムに収められていて閲覧できる︒なお︑前橋市立図書
館でも同じマイクロフィルムを所蔵している︒
﹃伊
勢崎
市史
﹄資
料編
一︒
装頗︵袋綴三巻三冊︶︑表紙︵薄標色無地︶︑寸法︵二八・八×二0・0
糎︶
︑挿
絵︵
無︶
0
縦約一五糎︑横約一九三糎の巻紙で︑桐箱入り︒箱には蓋部の表に﹁巻物﹂とあり︑箱部の底面︵外側︶に﹁天保七丙申年/申
三月中前後天相済/伏見又四郎︵花押︶﹂と墨書きがある︒今村伝四郎は︑二代将軍秀忠の代に三六OO石を領し下回奉行を勤めた今村正長︒はじめ御書院番で︑のち大坂夏の陣で功績があり加増︒元和六年︵一六二O︶御日付として出羽に赴き︑最上家改易の後︑同九年御使番になる︒寛永四年︵一六二七︶家督
を継ぎ︑下回奉行になった︒承応二年︵一六五三︶︑六十六歳で没した︵﹃寛政重修諸家週間﹂八四二︒﹃徳川実紀﹄巻五二﹁元和六年三月十八日﹂の条に︑﹁最上源五郎義俊が家土等争論おだやかならず︒よて今村伝四郎正長︑石丸六兵衛定政に︑出羽の最上監使命ぜられ暇給ふ﹂とあり︑元和八年の最上家改易の二年前から最上家と因みのあったことがわかる︒
未詳
︒
小笠原信濃守︑家士渡部喜左衛門ともに未詳であるが︑小笠原信濃守については﹁寛政重修諸家譜﹄で年代等ふさわしいだろう人物は︑﹁小笠原長次﹂︵巻一八九︶である︒長次は元和元年︵一六一五︶に生まれ︑寛︑水六年︵一六二九︶信濃守に叙任され︑
豊前国上毛︑下毛︑宇佐三郡に八万石を領す︒寛文六年︵二ハ六六︶五十二歳で没した︒
前掲の資料﹁摘古採要﹄が示す系図によれば︑三代目左大夫惟次の次代は︑八左衛門知彰となっている︒
鈴木健一氏﹃林羅山年譜稿﹄︵平成十一年/ぺりかん社︶︒
山本雅直︵注9参照︶の生年は︑明和五年︵一七六八︶︒春朔の長男︑左大夫惟次が没したのは﹁家譜﹂によれば元禄十六年︵一
七O
一二
︶で
︑そ
の養
子八
左衛
門知
影の
生没
年は
未詳
なが
ら︑
知影
の娘
が雅
直の
﹁母
﹂︵
﹃寛
政重
修諸
家譜
﹄一
一一
一一
一−
一一
一一
一七
︶と
するのは︑時間的にやや無理があろう︒﹃事跡考﹄にあるように﹁祖母﹂であったとしてもぎりぎりのところか︒
注
1 5
1
玉Y
王I
王1 8 1 7 1 6
注
1 9
2
注 注1 2 0
j主 注 注24 23 22
﹁水
鳥記
﹄の
周辺
九七
九
}\
︿付記﹀脱稿後︑山形市にある財団法人最上義光歴史館から︑﹃新稿羽州最上旧家臣達の系譜﹄︵小野末三氏/平成十年︶が出版され︑こ
れに伊舟城市兵衛に関しての記載があることを知った︒旧臣の楯岡長門守満慶についての項目の中に︑注︵
8︶でも触れた﹁本
城文書﹂の内︑元和九年六月の本城豊前︷寸書状があり︑そこに﹁本城豊前守家中/同︵本城︶伊船城市兵衛﹂の記述のあること から︑伊舟城市兵衛は︑最上氏家臣の筆頭本城豊前守の家臣であり︑最上家にとっては陪臣であることが分かった︒とすると︑
第三節で触れたように︑本城豊前守の口添えにより酒井家への仕官が成った理由も納得がいく︒郷土資料を再調査することで︑
また新しい事実の発掘が成るかもしれないが︑ひとまずは筆を置くことにする︒
※
調査にあたり資料の閲覧を許可下さった各所蔵機関に感謝いたします︒また︑貴重な資料の閲覧および撮影を快諾下
さった伊舟城仁氏に深謝申し上げます︒