「企業城下町」における
地域自治の発展と自治体行財政(上)
−長崎県香焼町と
巨大造船所立地を中心として−
宮入興一
I はじめに−問題の所在−
II 大企業進出と地域経済社会の変容 1・巨大造船所の香焼進出とその背景 2・造船所立地の地域経済社会への影響
(1)巨大造船所進出と地政への経済的波及効果
(2)巨大造船所開発と社会的損失 III 巨大企業の進出と現代的地域自治
1・今日の地域開発と地域自治の民主的発展
2・地域開発における官僚統制と民主的地域自治の発展(以上 本号)
Ⅳ 大企業にたいする民主的規制・管理と自治体行財政(以下 次号)
Ⅴ 巨大造船所立地の財政収入効果と財政自主権
Ⅵ おわりに
I はじめに−問題の所在−
近年,高度成長期以来の地域開発を代表する外来型の拠点開発は,都市政 策だけではなく産業政策としても失敗であったことが,各地の調査研究によ
1)
って明らかとなってきた。そのため,最近では,こうした企業誘致による
「外来型開発」ではなく,各地域の国有の資源,技術,産業,教育,福祉,
文化などを基底においた「内発的発展」とこれをめぐる 2つの途の対抗が現 われている2)しかしその一方,日70年代半ば以降の構造不況と日本資本主義 の80年代再編策が追求されるもとで,電子機器なと守の先端技術産業やエネル ギ一関連部門等を中心として,再び外来型開発が装いも新たに各地に絞生し はじめているc
こうした外来型開発の典型の1つは,いわゆる「企業城下町」におけるそ れである。ここで「企業城下町」とは,地方工業化による地域開発の一典型 として,巨大独占体の立地戦略に基づいて進出した単ーまたは少数関連大企 業(事業所)によって,地域経済の根幹を握られている中小の地方企業都市 のことである4)企業城下町においては,立地大企業の多くはモノカルチャー 的に地域経済を支配し,これをテコとして,地域の労働力,土地・水等の資 源,環境から,多くの場合地域社会にまで専一的な支配をおよぼし,地方自 治体の行財政をも従属させている5)このため,企業城下町においては,外来 型開発に特有のマイナス効果が,最も端的に現われ易い。
なぜ,いま「企業城下町」を問題にするのか。その根拠は,第1に,それ らの都市が,産業と地域の, 80年代における新たな再編(スクラップ化と
「合理化J)の波を最も痛烈に受けているからである。水俣市に典型的に示 されているように,企業城下町の多くは,そこに君臨する大企業が長年にわ たり地域独占や環境破壊による公害を住民に与え続けてきた6)これにくわえ て, 70年代半ば以降,オイル・ショックを契機として構造不況がはじまると,
その影響は,高度成長の先端を走った鉄鋼,化学,造船などに最も強く現わ れた。今日,これら産業の企業城下町は,いずれも構造不況地域に陥り,城 主企業の徹退,規模縮小[""合理化」の徹底によって地域ぐるみ深刻な打撃 を受けている7)これらの都市の民主的再生は,今日焦眉の課題といってよい。
第2に,そうした古い企業城下町の再編が進む一方,新しい80年代型の企 業城下町がビルドされはじめているからである。この典型は[""テクノポリ ス構想、」に代表される先端技術産業のための新しい企業都市づくりであろう。
テクノポリスは, 日本資本主義の80年代戦略[""総合安全保障戦略」の主要 な柱の1つ[""技術立国」の地域的受け皿づくりと言ってよい。)テクノポリス
構想、は,地方定住のための総合的・自主的「都市づくり」を標模してはいる が,内実は,先端技術産業を基軸とする「技術立国」の拠点地域形成に主眼 があるc この80年代型企業都市,企業城下町づくりの意義と問題点の解明に
ふ企業城下町研究は重要な示唆を与えてくれるであろう。
第3に,企業城下町の問題は,単にその地域だけの問題にとどまらない。
その問題のあり様は rわが国の地域・自治体問題の困難さ,複雑さを『先取 り』した形で提示してきたし,現に提示している」)からである。今日,わが 国の巨大企業は本工,臨時工,パート労働者,下請企業労働者を「無権利・
低賃金」労働者として企業組織的に編成・管理するだけではない。とくに70 年代半ば以降,大企業は,企業内労働組合や下請企業群を企業の地域支配戦 略のテコとしても活用するようになった10)労働組合を主体とする地域組織や 従業員自己啓発組織の地域奉仕活動,企業内施設の地元開放,文化行事や祭り への寄付や参加から町内会・部落会の役員立候補に至るまで,すなわち福祉,
教育,文化,イデオロギーから自治組織に至るまで,企業による地域支配は 系統的に展開されている。その上に,大規模な「企業ぐるみ選挙」等の政治 的支配網をはりめぐらし,首長や議員を出して自治体運営への介入と私物化 が企図される。いまやこうした事態はコンビナートを含む企業都市一般に共 通していると言えょっ。しかし企業城下町においては,それは既に60年代後 半から先取り的にはじまり,今日では最も典型的に展開されている。また,
これらの企業組織は,いまや臨調路線に基づく「地方行革」の地域推進組織 の一翼をも構成するに至っている。今日,企業城下町と,民主的自治体の樹立 によるその超克の途の究明は,地域自治と地域民主化の発展にとって欠くこ
とのできない課題であろう。
そうであるとすれば,第4に,こうした現状のもとにある「企業城下町」
をそれとして考察すると同時に r企業城下町」における民主的自治体の確 立こそが,巨大企業による地域支配や地域独占を克服して,住民のくらしと 地域自治の砦となることの意味と,そのための政策の基本や課題を明らかに することは,今日,焦眉の研究課題と言うべきであろっ。この課題は,従来 の地域・自治体問題の研究では,非常に不十分にしか果たされてこなかった。
本 稿 の 課 題 は 企 業 城 下 町 」 に 樹 立 さ れ た 民 主 的 自 治 体 が , 一 体 , な に に依拠しながら,かつどのようにして,地域開発に伴う官僚統制を排し,ま た大企業による地域独占と地域支配を除去して,企業活動にたいする民主的 規制や管理を徹底させているか。こっして大企業の支配と寄生,社会的損失 の転嫁を極力排除し,また,財政自主権を行使しながら,どのように住民の くらしの基盤づくり,地域づくりのための物質的基礎を確立し,地域自治の 発展を培っていくか。それらの展開の道筋と今日的限界および今後の課題を 明らかにすることである。
以上のような問題意識と課題設定のうえに,本稿では,主要な考察対象を
こうやさ
長崎県香焼町とそこへの巨大造船所立地の問題に限定したい。こうした対象 の限定は,一面では,上述のような課題を一般的に展開できるまでに至って いない従来の研究の遅れを反映してはいるが,他面では,次のような積極的 な意味を持っている。
第1に,香焼町は, 1970年前後に三菱重工業の世界最初・最大の100
万ト
ン・ドックを擁する造船所が進出した典型的な,外来型開発による企業都市 である。第2に,他方で同町は,今日まで,全国最長, 10期30余年に及ぶ民 主的自治体としてもよく知られている。したがって,香焼町の事例は,立地 大企業による地域独占と地域支配の企図,これを促進する国や県の地域自治 への集権的官僚統制に対して,地域住民と民主的自治体が,いかに大企業と 公権力体の支配に抗しつつ企業活動への規制・管理を通じて住民のくらしの 基礎条件と地域づくりを保障し,地域自治を発展させているかについて,豊 かで生きいきとした表象を与えてくれるであろう。第3に,香焼町は I福 祉と教育の町」としても周知であるが,これは戦時中に勃興した新興財閥資かわなみ
本・旧川南造船所による地域支配と,これに対する民主的自治体の成立と無関 係ではない。川南造船所の没落後,この跡地を利用して進出したのが三菱の 巨大造船所であり,香焼は文字通り「企業城下町」としての歴史をひきづっ てきた。それ故にまた,そこに成立した民主的自治体は当初から,住民の生 命とくらしの破壊にたいする共同社会的機能の再建を最も重要な課題とせざ るをえなカ為ったのてやある。)
以下では,企業都市・香焼町を典型的事例として,現代的地方自治の民主 的発展の視点から,巨大造船所立地の背景と地域経済社会への影響 (II節),
外来型地域開発に伴う官僚的統制とこれに対する地域自治の民主的発展 (III 節),進出大企業にたいする民主的規制・管理と町行財政との関係 (N節),
財政自主権の行使による住民の生活条件保障のための物質的基盤の確立 (V 節 )tこついて順次に解明し,最後に,そこにおける自治体活動の今日的限界と 行財政政策の課題について明らかにしたい。
〔注〕
1 )この点については,宮本憲一編『講座 地域開発と自治体』全3巻,筑摩書房, 1977
・79年 公害研究.19巻3号(特集=コンビナート総点検), 1980年1月,の各論稿,
北日本新聞社編集局編「幻の繁栄一新産都市二十年の決算〈富山・高岡の場合).1勤草 書房, 1984年,など参照。
2 )いわゆる「内発的発展」とその2つの途については,宮本憲一『現代の都市と農村』
日本放送出版協会, 1982年,の第7章 と 終 章 を , ま た 内 発 的 発 展 」 論 に 検 討 を 加 え たものとしては,自治体問題研究所編「地域と自治体 第13集 特集=地域づくり論の 新展開』自治体研究社, 1983年,の各論稿,重森暁「地域的不均等と内発的発展j,
~高
知論議(社会科学).118号, 1983年12月,を参照。3 )最近, 自治省は,地方自治体の企業誘致の現状と問題点をまとめたが,石油ショック 以来沈静化していた企業誘致政策が最近活発化し新企業誘致時代の到来」といえる ほど活発な誘致施策が行われていることが判明したと伝えられる(r企業誘致を再評価 一地方自治体,福祉より経済重視にj,
~毎日新聞.1
1984年7月22日)。なお,その具体的 内容については,上関克也「地方自治体の企業誘致施策の現状についてj,~地方財務』
365号, 1984年10月,参照。
4 )わが国の企業都市の類型化には多様な方法が存在しよう。島崎稔氏は,工業都市を産 業構造から,
( 1 )
機械・金属・化学工業を中心とする「重化学工業都市j,( 2 ) r
繊 維 工 業 都市j,( 3 ) r
その他の工業都市」に類型化を試みている(同「戦後日本の都市類型化の 試みj,r中央大学90周年記念論文集・文学部山 1975年9月)。一方,中村精氏は産業構 造視点と都市工業のあり方という地域視点とから,(1)先端産業都市,( 2 )
工業集積都市地 帯,( 3 )
コンビナート都市,( 4 )
企業城下町,( 5 )
地場産業都市,の5
タイプに類型化してい る(同「産業構造の変化と都市の対応j,r
都市問題.170巻6号.1979年6月, 19‑21ぺージ)。また,中村孝俊氏は,ほほ同様の視点から巨大企業立地の視点をも加味して,
( 1 )
高度成長期に農漁村地域に巨大コンビナートが形成されてはじめて工業地帯と工業都市 が形成された地域(京葉,鹿島工業地帯など),( 2 )
古くからの工業地帯に巨大コンビナ ートが形成され一層巨大な工業地帯となり,また管理中枢機能としての都市が存在する 地域(京浜,中京,阪神工業地帯など),( 3 )
古くから一定の産業立地に優位な条件をも って巨大企業が存在していた「企業城下町J,( 4 )
巨大企業は存在しないが内陸工業地帯 で重化学工業化の波とともに都市化の影響をうけた地域社会(長野県諏訪地方等)など に分けしかし,これら諸類型の問の移行関係の法則性を見出すことは容易ではない」(同『日本の巨大企業」岩波書庖, 1983年, 65ページ), と言われている。
たしかに,都市の類型化や類型間の移行関係を究明することは,都市論の重要な課題 の
l
つであろう。しかし,都市の性格は,産業構造や都市工業の性質によって大きく規 定されてはいるが,交通・通信や歴史的・地理的・文化的等の要因,行財政など上部構 造のあり方によっても大きく規定される。したがって,都市の類型化は,それとして先 験的,マクロ的になされるだけでは極めて不十分であって,そのためには,各類型の典 型的な諸都市の調査研究が不可欠である。こつした観点から,本稿では「企業城下町」一般を視野にいれながらも,後述のように,直哉的には本稿テーマに即する典型的都市 として長崎県香焼町を研究対象としている。なお,一般に企業城下町とされる都市には,
例えば,釜石市,君津市(以上新日鉄),豊田市(トヨタ自工), 目立市(日立製作所),
新居浜市(住友化学),水俣市(チッソ),延岡市(旭化成)等々がある。
5 )都市化の進展につれ,そこに立地する企業と地域社会との係わりが多様かつ密接にな ってくるのは産業革命以来の一般的傾向といわれる。しかし,戦後, とりわけわが国に おいては,大平洋ベルト地帯がコンビナートを中心とする広大な工業地帯と都市ベルト に変貌するや,巨大企業の支配力が地域社会の隅々にまで浸透していった。これは,宮 本憲一氏が指摘されるように,生産の社会化の最高度の発展を背景として生産資本と社 会資本の結合が緊密化するにつれ,巨大企業の資本蓄積が地域開発という公権力体の経 済活動を不可欠とするに至ったからである(同「独占体と地域開発一地域独占論をめぐ って一J(儀我壮一郎先生還歴記念論文集編集委員会編著『経営経済学の基本問題』ミ ネルヴァ書房, 1979年, 128‑131ページ)。特にわが国の場合には,支配的産業構造が資 源・社会資本多消費型の素材供給産業に転換し,産業立地改策としての地域開発が大企 業から強〈要請されたことがこの傾向を促進した。企業城下町においては,城主企業に よる支配力と影響力が圧倒的に大きい。それだけに,企業と地域社会との支配ー従属関 係,負担転嫁関係は一層鮮明であるといえよう。
6 )舟場正富氏は次のように指摘されている。「水俣病の悲惨さは,たんにその病状の深 刻さや死亡率の高さ,患者発生が大量に及ぶことなどの事実のみでは説明しされるもの ではない。そこには,地域に君臨してきた巨大な独占企業体による長年にわたる人権無 視,人間破壊が積み重ねられているのであ(る)Jcr水俣に限らず, 日本の公害都市のほと ん ど は , そ こ に 君 臨 す る 企 業 の 強 い 支 配 下 に お か れ て き た の で あ り 地 域 独 占 』 と 称 されるこのような企業に巨大な超過利潤を吸いあげ.られてきたのであるJ. と(同「チッ ソと地域社会J(宮本編,前掲書〔注1] 2巻).38‑39ページ)。
7 )高度成長を主導した鉄鋼,石油化学などの素材供給型産業や造船業などの労働集約的 な組立産業が中心となった企業都市は,多かれ少なかれ軒並み構造不況地域に陥った。
なお,鉄鋼については,横倉節夫「巨大独占企業の経営と新しい地域社会の形成
千 葉
県君津市・木更津市・富津市,新日鉄J(北川隆吉編『日本の経営・地域・労働者」上 巻,大月書居.1980年).また「東北経済JJ71‑74号.1982‑83年 , に 特 集 さ れ た 福 島 大学地域開発研究会による釜石市研究の諸論稿,さらに二宮正司「日本鉄鋼業と社会資 本J(置塩信雄他編 r日本の鉄鋼業』有斐悶.1981年)。石油化学については,帯万治「工 業都市の構造と労働者の地域生活J(北J11編 , 上 掲 書 ) の 鹿 島 コ ン ビ ナ ‑~.山口卓志
「愛媛の地域開発と「構造不況』一好対照の今治と新居浜J(自治体問題研究所制.iJ Ii
掲書(注2))の新居浜市。造船業については,村上雅康『造船工業地域の研究一相生
・因島両地区の場合』大明堂.1973年,田浦良也「地域経済と失業問題一造船不況下の佐 世保市J.Ii都市問題JJ69巻10号.1978年10月,等を参照。
8 )蔦川正義「テクノポリス構想、は地域開発かJ.Ii日本の科学者.n19巻10
号.
1984年10月, 10ページ。9 )坂野光俊「巨大企業と地域・自治体J. Ii地方財政研究所所報JJ5号.1984年11月 3 ページ。
10)柴坦和夫・金子勝「日本の国家独占資本主義と支配構造のメカニズ、ムJ(柴垣他編「講
座
今日の日本資本主義 4 JJ大月書庖.1982年)41‑49ページ。また,北川編,前掲 書(注7).上・下巻,向笠良一他編「巨大工場と労働者階級』上・下巻,新日本出版 社.1980年,の各論稿を参照。11)日険的な軍閥新興資本ともいうべき旧川南工業(造船所)と地域社会との関係につい ては,香焼町史編纂委貝会編「香焼町史一経済100年 の 歩 み 一JJ1982年,中里喜昭『香 焼島」晩聾杜.1977年,の中でもある程度まで論じられている。しかし川市時代の「企 業城下町」の分析は,三菱の巨大造船所進出に伴う企業と地域社会との関係にも軽視で きない重要な影響を及ぽしている。したがって,その分析は本研究の不可欠の前提であ る。しかし本稿では本格的に展開するゆとりがないので,必要な限りで論じざるをえな
い。なお,この課題は,別稿において果たす予定である。
II 大企業進出と地域経済社会の変容
1. 巨大造船所の香焼進出とその背景
今日の企業立地が,企業の国際的視野をふくむ立地戦略によって基本的に 規定されていることは明らかである。しかし,企業の立地戦略自体,立地地 域における用地,用水なとeの基盤的稀少資源や社会資本の効率的利用を,そ のための重要な要件としている。したがって,これらを供給する地域開発と いう名の公共活動や,地域開発を呼びおこす地域問題の展開をも,今日の企 業立地は背景に置いているのである。ここではまず,三菱の巨大造船所の香 焼進出とその背景について,企業の立地戦略だけではなく,地域経済の側面 からも要約しておこう。
香焼町は,長崎湾口に突き出した面積わずか4.6krn2,人口 5千人余の小都 である。 1968年,県の第1次長崎外港計画によって香焼‑長崎市深堀間約
o .8krn2が埋立てられ陸繋化するまでは,湾口のー小島であった(後掲図1, 参照)。しかし,町の歴史は,明治期以来, 日本資本主義の限界的縮図とも称 すべき大きな地域社会の変貌をとげてきた?とりわけ,第二次大戦時におけ る新興軍閥資本・川南工業所の「東洋一」を誇称する造船所進出により,香 焼は軍部と国策を背景とする典型的な「企業城下町」となった。明治以降く
りかえす資本主義企業の勃興と衰退をとおしてすでに解体過程にあった農漁 業の基盤は,ここにおいてはぽ完全に堀り崩され,土地・水などの基礎的稀 少資源や労働力は文字どおり独占された。川南による地域支配は,国策と軍 部の権力を背後に置いていたが故に,地域社会から自治体行財政に至るまで,
一層激しく及ぼされたのである。
第二次大戦後,軍事冒険資本的本性から脱皮できない虚業の川南資本は,
何度も破産一再建を繰りかえしたのち, 1955年にはほぼ完全に倒産する。唯 一残った)11南の旧子会社・香焼炭坑も, 1960年代のエネルギ一転換という国 策のもとで64年にはスクラップ化され,造船,炭鉱にコークス業を加えた香
焼町のかつての三大産業はことごとく崩壊してしまった。その結果は,深刻l な失業による飢餓と貧困,人口の激しい流出で、あった2)香焼町は,すでに旧 川南造船所を差押えていた。しかし,長年にわたる川南の町税滞納と地域経 済の崩壊のために, 1964年12月,ついに財政再建準用団体の指定をうけるま でに窮迫するのである。
一方,県経済は, 60年代半ばには大きな転換期をむかえていた。総じて,
戦後の長崎県経済の発展は,炭鉱業,造船業の二つの産業を核として推進さ れてきた3)だが, 60年代に入るや,炭鉱業は国のエネルギー転換政策のもと で限界炭鉱としての弱体性を露呈し,急速にスクラソプ化されていく4)また,
もともと低劣な条件を抱えた農業だけでなく漁業も,沿岸漁業の衰退につれ て, 60年代初頭には総じて限界に達していた。こうして,主導産業は専ら造 船業に求められるに至ったのである。だが造船業とても, 60年代半ばには,
県経済の発展に及ぼす主導力を相対的には低下させていた5)炭鉱業や農漁業 の衰退につれ,産炭地や全国一の数を誇る離島を中心に過疎化が進み, 50年 代半ば以降,人口の県外流出も急増しはじめていたのである6)
その結果,県経済の造船業への偏重による産業的,地域的不均衡と衰退化 に対して, これを企業誘致により是正し,低成長│生からの打開を謡った地域 開発政策が登場する。こうした県レベルでの地域開発の鳴矢となったものこ そ「第l次長崎外港計画J
( 1
961‑70年度, 63年6月決定,以下「外港計画」とも略記)に他ならない7)外港計画は, (1)長崎港に大型外貿港湾を新設し,
(2) iこれを中心に工業団地,住宅団地の開発,交通通信施設の整備により周 辺部の開発をもあわせて行い国際的港湾都市の形成)1を図ることを目的に掲 げていた。「言十函」は,開発の論理としては,上述のような地域問題の発生に 対応して,外国貿易, とくにその背後に育成されるべき輸出産業, とりわけ
これまで産業の基軸をなしてきた造船業ではなしそれに代る新たな輸出産 業の構築によって,バランスのとれた産業的発展への寄与を目的としていた と推察される9)だが主夫には,外港計画は,当時新産業都市の指定から漏れ た長崎県が起死回生の一手としてうった拠点開発に他ならない。たしかに,
「五十画」には公共埠頭や木材港の新設も謡われてはいる10)しかし事業の中心
は,長崎市深堀と香焼町間79万m2(当初76.8万m2) の海面埋立による工業用 地の造成にあった(図1)。外港埋立工事は1966年11月にはじまり68年3月に は完成するが,
Cア
工業用地に実際にやってきたのは新たな輸出産業ではなく,
図1 長崎外港計画の概要と造船所立地の位置関係
( 長 崎 市 )
/
小ケ倉柳公共埠頭用地
197,500m'木村港用地
80,OOOm'一 一 一 既 存
p
十
画 道路
道 路(注)長崎外港計画は, 1968
年
10月現在。
他ならぬ三菱の巨大造船所であった。
三菱の香焼進出の最初の動因は, 1964年6月の三菱系三重今工の合併であ るう)合併を促進した要因は,第1に, 日本経済は当時開放体制への移行段階 にあり,激烈な競争を背景に進む機械メーカーの総合化志向のもとで,三菱 系同業資本聞の競合を回避して巨大化と「合理化」を追求することにあった了) だが,第2の一層切迫した要因は, 63年来のマンモスタンカー・ブームの開 始が,造船各社に巨大ドソクの建設を迫っていたことであろう13)長崎造船所 は,三菱重工業本社の中枢管理のもと,効率化のため造船専門化と大規模化 の追求を至上命令とされたのである。だが,長崎造船所は当時すでに手狭に なりはじめていた。その上タンカーは急速に超大型化し,巨大ドックの建設 は不可避となっていた。 1967年3月,国税庁,香焼町などが差押えていた旧 川南造船所の一括公売に際して三菱資本は単独落札するが,その背景は以上 の如きものである。
そ→であるとすれば,先述の長崎県による外港埋立は,少なくとも着工時 には,三菱の香焼進出を暗黙の前提として遂行されていたと評価すべきであ ろう14)三菱は,旧川南造船所と新工業用地を合せて香焼に巨大造船所を建設 し,これを長崎造船所と一体的に結合することによって,長崎湾を世界最大 の造船拠点として地域独占しようとしていたのである。香焼工場の中心,100 万トンドックを擁する造船所は1970年9月起工, 72年10月に竣工するが, 72 年には早くも 1号船を完成している。建設当時の香焼工場の概要は表1の如
くである。
表1 三菱重工業香焼工場の概要
① 名 称、三菱重工業株式会社長崎造船所香焼工場他
② 所在地 長崎県西彼杵郡香焼町18θ番地(ボイラー工場,研究所の一部は長崎市に所在)
③ 面積,設備 a 面積
香焼造船工場 香焼ボイラー工場
技 術 本 部 長 崎 研 究 所 香 焼 支 所 計
(参考飽ノ浦幸町工場
敷地面積(造成面積) 1,193,600m'
397,000m' 122,500 m' 1,713,100 m' 886,980m'
建屋面積 225,600 m' 113,300m'
19
, 700~'
358,600m' 399,900m')b 設備
香焼造船工場(図①)
総敷地面積
1,
193,
600m'建屋面積
225,600m' 主要設備建造ドック
長×幅×深 990m X100m X14.5
‑9.55m
~.放傾斜っ
き主要設備 口長尺チューブ曲げ用N C 連続ベンダ
口TIG自動溶接機,プレ ッシャウエルダ 口専用X線テレビ ロステンレス鋼管用方、ス焚
連続閏j容体化熱処理装置 火炉壁,節炭器チューブ工場 主塔載クレーン 600ton門形クレーン│ 使用設備 口P P Mパネル溶接機
2
基
│ 口フィン付節炭器管用溶接 建 造 可 能 最 大 船 約1,000,000重量tonI
機修繕ドック 長×幅×深
クレーン
王ポンプ
最大入渠船 その他設備
岸壁設備 東1,2
号 岩 壁
クレーン
東
3号 岸 壁
クレーン
北岸壁
400 m X 100 m X 14 . 5 m (渠口) 1 : 400
微傾斜っき
ジブクレーン2
基
(85ton, 40ton) 40,000m'jhx 3台
(排水時間約3.5時間)約500
,000重量ton自動出入渠装置,大 形フラップゲート,
高圧洗浄装置, 自動 盤木装置,塗装用機 械装置
683m(長) 10.5m (深) ジブクレーン1
基
(35ton) 400m (長) 1O.0m (深) ジブクレーンl
基
(35ton) 370m (長) 10.0m (深) 香焼ポイラ工場(図②)
敷地面積
397,000m'建家面積
113,300m' 過熱器,再熱器チューブ工場口専用X線テレビ,大形マ グナ検査設備
口大形ノfネル用吊上,反転 装置
口スノfイラルフインチュー ブ溶接機
パイプヘッダ工場
主要設備 口MIG自動溶接装置 口N Cヘッダ孔明機 口高周波ノfイプベンダ 口自動温度制御付熱処理炉 口大形ヘッダチューブ,プ
レハブ化設備 技 術 本 部 長 崎 研 究 所 深 堀 香 焼 支 所
敷地面積
122,500m'建家面積
19,700m'(図③)
主 要 設 備 耐 航 性 能 試 験 水 槽 船体構造強度実験室 塗装海水実験室
④
主な業種
燃焼実験室 伝熱実験室 耐風拡散汎用風洞
内燃機実験室
造 船 工 場 新造船,修繕船 香焼ボイラー工場
ボイラ一等製造
E
コ三菱革r.I削
l地
:ニコ間連工場111地
〔付図〕三菱香焼工場およびその関連工場配置図
。
(資料)長崎県企画理事「地方都市開発整備構想等調査報告書(その3)
長 崎 港
〈工業立地の都市化に及ぽす影響度調査>.1.1976年3月.38‑39ページ。
〔注〕
1
)江戸幕藩体制下で唯一の開港・長崎港の入口に位置する要衝の島であった香焼に,資 本主義的生産様式による近代産業が本格的に成立するのは.1890年代からである。石炭 の採堀は江戸期にもあったが,明治に入ると小規模ながら企業生産に移行し,それとと もにコークス生産が興きた。 1894年からは三菱資本による横島の炭坑開発が行われたが,せ い み
8年後には廃坑となった。しかし,香焼本島では,後に大阪方、スと合併する大阪舎密に より炭坑開発が1900年頃から本格化し,近代資本による石炭産業が確立する。 1902年に は,松尾鉄工所(造船)が進出し,ここに,造船,石炭,コークスという,産業資本に よる香焼島の三大産業の確立をみるのである。
日本資本主義は後進性と急進性を特徴とし,後進地帯を支配する古い地主制の利益と 妥協して,早くから対外膨張政策をとってきた。日露戦争,第一次世界大戦は香焼の三 大産業の拡大の契機となった。しかし,第一次大戦後の恐慌のなかで,造船と炭坑はそ の限界的性格を露呈して倒産した。香焼は,コークス企業がわずかに余命を保つだけと
なり,大戦期に
3,
500人を起した白人口は,約
15年後の
1935年には
1,
800人まで半減し,
島は「失業の村」と化したのである。しかし, 日本資本主義が日中戦争から第二次大戦 へと突入する中て"香焼の産業は再び息をふき返した。それが次に述べる
1936年の川南工 業所の香焼進出である。香焼経済の歴史は,後進性と急進性を,それ故にまた侵略性を 特徴としてきた日本資本主義の歴史のなかで,戦争を節目に隆替を繰りかえしながら,
まさにその限界的縮図の性格をもって特徴づけられてきたといえよう。なお,香焼にお ける資本主義的生産様式の発展の概観については,河地貫一「限界炭坑島の資本主義的 展開序説一長崎県香焼島の実態調査を中心として一
J, 1"経営と経済.J
48巻2号 ,
1968年
7
月,参照。
2
)国勢調査によれば,すでに
1960年において,香焼町の全就業者
3,
013人のうち
2,
595人 , 実に
86%が雇用者である。香焼は,明治以来の資本主義化の波のなかですでに完全な
、労働者の街。となっていた。こうした状況下で,これまで香焼経済を支えてきた造船
・炭坑・コークスの三大産業が
60年代半ばまでに残らず崩壊してしまったのである。労 働者は職場から投げ.だされ,失業者の多くは島を去っていった。人口は
1961→
64年の
3年間で,
9,
532→
4,
996人と半減する。一方,島に残った人達にまっていたのは飢と貧困
であった。生活保護率は
1966年には
210%。に達し,実に住民
5人に
l人は生活保護者で あった。その他の町民も大部分が保護基準以下か,これと大差のないボーダー‑ライン 層で占められていた。
3
)周知のように,戦後日本の「高度成長」は,これを支えた素材加工型重化学工業の,
産業基盤を中心とする社会資本多需要的特質,原燃料と市場の海外優先的特質のために,
経済効果を求める企業の立地戦略から大都市圏を中心とする太平洋ベルト地帯に集中 的に展開された。このため,大都市固から遠く離れた最西端の長崎県では,繊維,食料 品などの軽工業は言うまでもなく,化学や鉄鋼などの重工業においてさえ,限界企業の スクラップ・ダウンや停滞が進行した。こうしたなかで,県経済の発展の主軸は,戦前 からの立地基盤をもった造船業と炭鉱業に求められていったのである(志村賢男「戦後 における産業経済の発展
J(長崎県史編集委員会編『長崎県史・近代編』古川弘文館,
1976年)576‑583
ページ)。
はくしょう せいひ
4
)長崎県の炭鉱は,県の北部と西部に展開した北松炭田と西彼炭田が中心で,
1960年に は合せて約
32,
000人の労働者を雇用していた。しかし,中小炭鉱の多い北松炭田は
60年 代前半の僅か
5年間に,鉱数
105→
33と
7割の炭鉱が閉山し,雇用者は
2万人から
5千 人強にまで激減した。比較的大手の多い西彼炭田でも,同期間に 9→ 6と ,
tの炭鉱が閉 山した。現在では北松炭田は皆減,西彼炭田でも高島,池島の
2炭鉱を残すのみである。
5
)たとえば,長崎県の人口
1人当り工業出荷額指数(全国
=100.0)をとると,
1954年
の
58.0から.
61年には
46.8にまで
10ポイント以上落込み,全国的高度成長のもとで逆に 長崎県経済の地盤沈下は苦しかった(Ii工業統計』各年度)。
6
)長崎県の人口は
1950年代から社会減をはじめているが.
1950 ‑ →
55年.
1955→
60年 ,
196か→
65年の各減少率は.
3.6%. 6.2%. 12.0%と , 社 会 減 の 速 度 を 高 め て き た (I i 長 崎県の人口』各年度)。
7
) な お , 長 崎 県 レ ベ ル の 最 初 の 地 域 開 発 計 画 は 第
1次県勢振興計画
J(1961‑65年度) である。しかし,この計画は,国の所得倍増計画に対応させた部分的,一般的な性格が 強い。だが,この同じ時期に,農漁業・炭鉱業などの衰退,造船業への偏重,過疎開題 などの地域問題が深刻化した。この地域問題の深刻化に対応して本格的に打ちだされた 開 発 計 画 こ そ 第
2次県勢振興計画
J(1966‑70年度)に他ならない。長崎外港計画は その目玉といってよい。
8
)長崎県長崎港開発総局「長崎外港計画のあらまし(改訂版).1
1968年
1月 6ページ。
9
)志村,前掲論文(注
3). 611‑612ページ。
10)
長崎外港計画は. (1)小ケ倉柳公共埠頭建設.
(2)毛井首木材港建設.
(3)深堀香焼工業用 地造成計画の
3つの計画を中心軸として,これに関連する道路,用水,住宅団地等の諸 施設の整備計画からなると説明されており. (1)の背後地には
8.7haの工業用地を.
(2)に は
8.0haの木材工業団地を造成することになっていた。しかし,輸出産業の工業団地や 木材団地への企業立地は進まず,今日に至るも利用されていない。なお. ( 3 ) は海面埋立 により第
l期計画では
76.8haの工業用地を造成することになっており,まとその土取場 跡に,工業団地従業員用の住宅団地
43.5ha. 1,
748戸の建設が予定されていた(長崎県,
前掲書(注
8). 8ページ)。
11)
志村,前掲論文(注
3). 561‑562ページ。
12)
三菱重工業株式会社編「三菱造船株式会社史.1.
1967年
6月.180‑184ページ。
13)
当時,三菱系各社は,三菱造船が長崎に,三菱日本重工が横浜に,それぞれ
20万tド ックの建設を計画していた。三菱
3重工の合併は,この建設計画の企業問調整を当面の 課題として進められたのである。その結果,巨大ドックの新規建設地は長崎に決定した。
これにともなって,長崎造船所は,これまで進めてきた造機を含む総合機械工場の方向 から,再ひ造船専門工場へと再編成され,専門化と巨大化を伴った「合理化」が推進さ れた。注目すべきは,資本の集中による独占の強化が,地方への工場分散により,バラ ンスのとれた地域経済の複線型発展ではなく,遂に立地企業の専門化と巨大化を進め,
地域経済のモノカルチャー的な単線型再生産構造を強めたことである。その結果,地域 経済は不安定性を増し,地域問題は激化していく。
14)
当時の佐藤勝也知事は, 後に,新聞記者の質問に対してこう答えている一一「外港計画で
生まれる新造成地について,三菱には何の話もしていないよ。……川南跡地も,実は県で 買おうと思っていたが,三菱が,買わせてほしい,といって来たんだ。」。ところが,三 菱重工業の古賀紫一会長(当時)になると,話は反対となる一一「立神に30万トンドック を39(1964)年につくった。少々大きな船の注文がきても,当分はこれで大丈夫と思っ ていたのに,あっといっ間に世界は30万トン級に入ってしまった。そこで今度こそ長も ちするやつをと思い, ドックや工場配置をレイアウトさせた。 40(1965)年, 41 (1966) 年と2年ぐらいかかったと思う。/県からは41(1966)年5月ごろ,香焼と深堀をつなぐ から三菱で、使ってくれといってきたが,その気はないと返答した。知事からさらに,広 い道も作ってやるから, という誘いもあったが,そのときはお断りした。川南跡地につ いては,県などから,他の企業に買われては困る,三菱で買ってくれ, と話があったυ (1新風土記 (98)J, Ii朝日新聞J1974年3月19日夕刊)。ここには,立場の違いはあれ,
川南跡地と外港埋立地の処理をめぐる当時の両者の背景がよく示されている。知事は,
企業誘致や「地場企業の育成」のメドのつかぬままに,用地を三菱に一括譲渡したいと 考え,三菱は,造船マンモス化の加速度的な進行に直面して,巨大造船所の建設地とし て同工業用地をできるだけ有利な条件で入手しようとしていたのである。
2. 造船所立地の地域経済社会への影響
それでは,巨大造船所を擁する三菱重工業香焼工場の立地は,香焼地域の 経済社会にどのような影響を与えたであろうか。次に,この点を,地域への 経済的波及効果と社会的損失とに分けて概括的に明らかにしておきたい。
(1) 巨大造船所進出と地域への経済的波及効果
地域開発の論理によれば,開発の効果の主軸は,企業進出に伴う地域経済 への波及効果によって,雇用の増大や地元企業への産業連関効果および、財政 効果などが達成されるというものである。ぞこでまず,大企業の香焼進出が 地元雇用や地場企業に与えた影響からみていこっ。結論的にいえば,世界最 大級の巨大造船所の立地にもかかわらず,地域の雇用や企業への経済的波及 効果は,その規模と比べて非常に限定的なものであった。
第1に,雇用効果については,造船業は素材供給型産業と比べれば労働集 約的であり,相対的な雇用効果は大きいのが普通である。表2にみられるよ