﹁天稚御子像﹂の変遷に関する一考察
︱﹁天若日子﹂から﹁天稚御子﹂へ︱勝俣隆
中世小説﹁天母御子﹂の﹁天稚系﹂﹁七夕系﹂のいずれにも︑主
人公として︑﹁天稚御子﹂が登場する︒この墨黒御子が︑古く︑古
事記や日本書紀の﹁天若日子︵天稚彦︶﹂に由来することは︑従来から指摘されてきた通りであろう︒しかしながら︑記紀神話の﹁天
若日子︵天稚彦︶﹂と中世小説の﹁天々御子﹂は︑その性格等︑微
妙な点に差異があることも︑また事実である︒それ故︑いかなる経
緯を経て︑上代の文学から︑中世の文学へと︑魚串御子像が継承され︑また︑推移してきたのかは︑十分な検討が待たれる課題であろ
う︒本稿は︑様々な観点から︑この課題について︑考察を加えてみ
ようとする試みである︒
一︑記紀神話の﹁裏革日子︵天稚彦︶﹂像
中世の﹁天稚御子像﹂の原型となった︑上代の﹁天若日子︵天稚
彦︶﹂像から︑先ず考察したい︒後代の変化した姿の意味を探るに
は︑先ず︑原初の姿を正しく理解する必要があるからである︒
古事記の天若日子は︑次の如く描かれている︵←︒ 是を以ちて高御産白日神︑天照大御神︑亦諸の黙坐に問ひたまひしく︑﹁葦原中国に遣はする天学士神︑久しく復奏さず︒亦何れの神を使はさば塞けむ︒﹂ととひたまひき︒爾に思金神︑答へ白ししく︑﹁天津国玉神の子︑天治日子を遣はすべし︒﹂とまをしき︒故爾に天濃墨迦古謡︑宿世波波矢を天若日子に賜ひて遣はしき︒是に天若日子︑其の国に降り到る即ち︑大国主神の女︑下墨比売を嬰し︑亦其の国を獲むと慮りて︑八年に至るまで復奏さざりき︒故爾に天照大御神︑⁝⁝﹁天若日子久しく復奏さず︒又理れの神を遣はしてか︑天華日子が滝留まる所由を問はむ︒﹂ととひたまひき︒爾に諸の神及び思金神︑﹁錐︑名は鳴女を遣はすべし︒﹂と答へ白しし時に︑詔りたまひしく︑﹁汝行きて天若日子に問はむ状は︑﹁汝を葦原中国に使はする所以は︑其の国の荒振る神等を︑言趣け和せとなり︒何にか八年に至るまで復奏さざる︒﹂ととへ︒﹂とのりたまひき︒ 故塁に鳴女︑天より降り到りて︑天若日子の門なる湯津楓の上に居て︑委曲に天つ神の蹴りたまひし命の組置ひき︒爾に天
佐具売︑此の鳥の言ふことを聞きて︑天若日子に語りて言ひし
く︑﹁此の鳥は︑其の鳴く音甚悪し︒故︑射殺すべし︒﹂と云ひ
勝 俣﹁天稚御子像﹂の変遷に関する一考察
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第五十五号
二
進むる即ち︑天馬日子︑天つ神の賜へりし天再呈士弓︑天之加
久矢を持ちて︑其の錐を射殺しき︒爾に其の矢︑錐の胸より通
りて︑逆に射上げらえて︑天安河の河原に坐す天照大御神︑高
木神の御所に奔りき︒是の高木神は︑高御産巣山神の別の名ぞ︒
故︑高木神︑其の矢を取りて試したまへば︑血︑其の矢の羽に
著けり︒是に高木神︑﹁此の矢は︑天若日子に賜へりし矢ぞ︒﹂
と告りたまひて︑⁝⁝﹁謁し︑掛構日子︑命を診たず︑悪しき
神を射つる矢の至りしならば︑天若日子に中らざれ︒賢し邪き
心有らば︑天若日子此の矢に麻賀州︒﹂と云ひて︑其の矢を取
りて︑其の矢の穴より衝き返し下したまへば︑天若日子が朝床に書し高胸坂に中りて死にき︒⁝⁝
故︑天若日子の妻︑下照比売の刷く声︑風の与響きて天に到
りき︒是に天在る天蓋日子の父︑天津国玉神及其の妻子聞きて︑降り来て実き悲しみて︑乃ち其処に喪屋を作りて︑面立を岐佐
理持と為︑⁝⁝日八日置八夜を遊びき︒
此の時︑阿遅志貴高日子根神到て︑天保日子の喪を弔ひたま
ふ時に︑天より降り到つる懸崖日子の父︑亦其の妻︑⁝⁝﹁我
が子は死なずて有りげり︒我が君は死なずて坐しけり︒﹂と云ひて︑手足に取り懸りて実き悲しみき︒其の過ちし所以は︑此
の二更の神の容姿︑甚能く相似たり︒⁝⁝是に阿遅志貴高日子
根神︑大く怒りて日ひしく︑﹁我は愛しき友なれこそ弔ひ来つれ︒何とかも吾を帯き死人に比ぶる︒﹂と云ひて︑⁝⁝肖りて
飛び去りし時︑其の伊呂妹︑高比売命︑其の御名を顕さむと思
ひき︒故︑歌ひしく︑
天なるや 弟棚機の 項がせる 玉の御統 御統に 宝玉はや み谷 照渡らすとうたひき︒此の歌は夷振なり︒ 阿遅志貴高 日子根の神ぞ
ここでは︑天若日子は︑天津国玉神の子で︑天上の高天原から︑
地上の葦原中国を平定するために遣わされた神であることが明記されている︒この天若日子は︑大国主神の女︑下照比売と結婚し︑天
つ神の命令に従わず︑葦原中国を我が物としょうとした逆臣として
描かれている︒最後には︑自らが蒔いた種で命を失うことになる︒
一方︑日本書紀本文には︑次のようにある︒
故︑高皇産霊尊︑更に諸神を会へて︑当に遣すべき者を問は
せたまふ︒余日さく︑﹁天国玉の上天稚彦︑是壮士なり︒試み
たまへ﹂とまうす︒是に︑高皇産霊尊︑天稚彦に天鹿児思及び天羽羽矢を賜ひて遣す︒此の神︑亦忠誠ならず︒来到りて即ち
顕国玉の女子下照姫︑亦の名は高姫︑亦の名は稚国玉︑を婁り
て︑因りて留直りて曰はく︑﹁吾葦原中国を駅らむと欲ふ﹂と
いひて︑遂に復命さず︒是の時に︑高齢産霊尊︑其の久報に来ざることを怪びて︑即ち無名雄を遣して︑豪しめたまふ︒其の
雑飛び降りて︑天稚彦が門の前に植てる湯津接木の秒に止り︒時に天探女見て︑天稚彦に陥りて曰はく︑﹁奇しき鳥来て杜の
抄に居り﹂といふ︒天稚彦︑乃ち高持産霊尊の賜ひし天聴児弓・
天羽羽矢を取りて︑錐を射て等しつ︒其の矢雄の胸を洞達りて︑
高皇産霊尊の坐します前に至る︒時に高皇産霊尊︑其の矢を見
して曰はく︑﹁是の矢は︑昔我が天稚彦に賜ひし矢なり︒血︑
其の矢に痴れたり︒蓋し国神と相戦ひて然るか﹂とのたまふ︒
是に︑矢を取りて投げ下したまふ︒其の重落ち下りて︑則ち天
稚彦が胸上に中ちぬ︒時に︑天稚彦︑新嘗して休臥せる時なり︒矢に中りて立に死ぬ︒⁝⁝天稚彦が妻下調姫︑突き泣ち悲哀び
て︑声天に達ゆ︒天国玉︑其の契ぶ声を聞きて︑則ち夫の天稚
彦の已に遜れたることを知りて︑乃ち疾風を遣して︑戸を挙げ
て天に致さしむ︒便ち喪屋を造りて積す︒⁝⁝八日八夜︑暗び
契き悲しび歌ぶ︒
是より先︑天稚彦︑葦原中国に在りしときに︑味霜葉彦根神
と当身しかりき︒故︑味霜高彦根神︑天に昇りて喪を弔ふ︒時に︑此の神の容貌︑正に天稚彦が平生の儀に類たり︒故︑天稚
彦が親属妻子皆謂はく︑﹁吾が君は猶在しましけり﹂といひて︑
則ち衣帯に蓼ぢ親り︑且喜び且働ふ︒時に味霜高彦根神︑盆然作超して曰はく︑﹁朋友の道︑理相弔ふべし︒故︑汚凝しきに
悼らずして︑遠くより赴き尊ぶ︒何為れか我を亡者に誤つ﹂と
いひて︑⁝⁝帯劒かせる大葉刈︑⁝⁝を抜きて︑喪屋を研り朴
せつ︒此即ち落ちて山と為る︒今美濃国の黒印川之上に在る喪
山︑是なり︒︵神代下︑第九段︑本文︶
日本書紀本文でも︑古事記とほとんど同内容で︑天上界から遣わされた天稚彦は天上界にとって反逆者であり︑自業自得で命を落と
す︒これは︑日本書紀の一書第一でも︑同様である︒
天照大神︑天稚彦に書して日はく︑﹁豊葦原中国は︑是吾が
児の出たるべき地なり︒然れども慮るに︑残賊強暴横悪しき神
言有り︒故︑前議づ往きて平げよ﹂とのたまふ︒乃ち天鹿児弓 及び天真鹿児矢を賜ひて遣す︒天稚彦︑勅を受けて来降りて︑則ち多に曇霞の女子を嬰りて︑八年に経るまで報命さず︒故︑天照大神︑乃ち思兼神を召して︑其の来ざる状を問ひたまふ︒時に︑思兼神︑⁝⁝﹁且錐を遣して問ひたまふべし﹂とまうす︒是に︑⁝⁝錐を使して往きて卸しむ︒其の錐飛び下りて︑天稚彦が門の前の湯金蝿樹の抄に居て︑鳴きて曰はく︑﹁天稚彦︑何の故ぞ八年の間︑未だ復命有さぬ﹂といふ︒時に皇神有り︒天探女と堰く︒其の錐を見て曰はく︑﹁鳴声悪しき鳥︑此の樹の上に在り︒射ころすべし﹂といふ︒天稚彦︑乃ち天神の賜ひし天位児弓・天真鹿児矢を取りて︑便ち射しつ︒則ち矢︑雄の胸より達りて︑遂に天神の所処に至る︒時に天神︑其の矢を見して曰はく︑﹁此は昔我が天稚彦に賜ひし矢なり︒今何の故にか来つらむ﹂とのたまひて︑乃ち矢を取りて︑呪きて曰はく︑﹁若し悪き心を以て射ば︑天稚彦は︑必ず遭害れなむ︒若し平ぎ心を以て射ば︑無豪くあらむ﹂とのたまふ︒因りて還し投てたまふ︒即ち其の矢落ち下りて︑天稚彦が高胸に中ちぬ︒因りて立に死れぬ︒⁝⁝時に︑天稚彦が妻子ども︑天より降り来て︑枢を将て上り去きて︑天にして喪屋を作りて磧し実く︒是より先︑天稚彦と味増高彦根神と友善し︒故︑味五重彦根神︑天に登りて喪を弔ひて大きに臨す︒時に此の神之形貌︑自つからに天稚彦と恰然相似れり︒故︑天稚彦の妻子等︑見て喜びて日はく︑﹁吾が君は猶在しましけり﹂といふ︒⁝⁝時に味霜高彦根神︑盆りて曰はく︑﹁朋友喪亡せたり︒故︑吾即ち来弔ふ︒如何にぞ死人を我に誤つや﹂といひて︑⁝⁝喪屋を重り倒す︒そ
の屋堕ちて山と成る︒此則ち美濃国の連山︑是なり︒⁝⁝時に︑
勝 俣﹁天稚御子像﹂の変遷に関する一考察
三
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第五十五号
四
味霜高彦根神︑光儀容面しくして︑二丘二谷の問に映る︒故︑
喪に会へる者面して曰はく︑或いは云はく︑味霜高彦根神の妹
下照姫︑衆人をして丘谷に映る者は︑是味新高彦根神なりと⁝⁝
知らしめむと欲ふ︒故︑歌して曰はく︑
天なるや 弟織女の 頸がせる 玉の御統の 穴玉はや み谷 二渡らす味雨雲彦根
又歌して曰はく︑ 天光る夷つ女の い渡らす思量石川片淵片淵に
網張り渡し 目ろ寄しに 寄し寄り来ね 石川片淵
此の両首歌里は︑今夷曲と号く︒
日本書紀一書第一でも︑天稚彦像は︑変化がないと言って良い︒
さらに︑祝詞﹁崇神を遷し歴る﹂には︑次の如くある︒
誰の神をまつ遣はさば︑水穂の国の荒ぶる男手を神権ひ平げ
むと︑神繋り議りたまふ時に︑諸の神意皆量り申さく︑天の穂
日の命を遣はして平げむと申しき︒ここをもちて天降し遣はす
時に︑この神は返言申さざりき︒次に遣はしし健三熊の命も︑
父の事に従ひて返言申さず︒また遣はしし天若彦も返言申さず
て︑撃つ鳥の狭によりて︑平庭に身上せにき︒
祝詞の﹁天若彦﹂も︑天の神々の命に従わず︑鳥を射た狭で︑身
を滅ぼしたとする点で記紀と同様の描き方と言えよう︒
摂津国風土記逸文にも︑天稚彦の記事があるが︑これは︑下河辺
長流︵一六二四一一六八六︶の﹁続歌林良材集 上﹄にある記事で︑ 秋本吉郎氏に拠れば︑﹁国名風土記に同じ記事があり︑古代の風土記の記事とは認められない﹂︵大系本頭注︶ということなので︑ここでは︑上代の資料としては扱わない︒ 以上の上代文学の天稚彦像を要約すると︑次のようになろう︒①天稚彦は︑天津国玉神の子であって︑妻子が天上界に居た︒②天稚彦は︑天上界から葦原中国平定のため派遣された神である︒③天稚彦は︑地上界︵葦原中国︶でも︑大国主神の足下照姫と結婚 して︑家庭を持っていた︒④天稚彦は︑天の探女と密接な関係を持つ神である︒⑤天稚彦は︑天つ神の命に従わず︑葦原中国を我が物にしょうとい う悪しき心を抱いたため反逆者として殺された神である︒⑥天稚彦は︑阿遅志貴高日子根神︵味工高彦根神︶と親しい仲であ り︑その容貌も良く似ていた︒⑦天稚彦は︑天の神より︑天製麻迦古塔と天之導波矢︵天の波士弓 と天之加久矢︶を賜った弓矢との関係が深い神と考えられる︒⑧天稚彦は︑天の黒髪に唆され︑天神の使いの雑を射殺するという 点で︑聖なる弓矢を正しく使用せず︑天罰を受けた︒ 天稚彦については︑以上のような特徴が抽出できるであろう︒ このことが︑後世の天稚彦︵天稚御子︶の伝承と如何に関わるのか︑以下︑検討したいと思う︒
二︑中古・中世の文学作品に見られる天稚御子像
中古の作品で︑最初に天稚御子について述べているのは︑古今集
仮名序の古注︵2︶であろう︒
このうた︑あめつちの︑ひらけはじまりける時より︑いでき
にけり︒︵あまのうきはしのしたにて︑めがみをがみとなりた
まへることをいへるうたなり︒︶しかあれども︑世につたはる
ことは︑ひさかたのあめにしては︑したてるひめにはじまり︑
︵したてるひめとは︑あめわかみこのめなり︒せうとの神のか
たち︑をかたににうつりて︑かやくをよめるえびすうたなる
べし︒これらは︑もじのかずもさだまらず︑寄のやうにもあら
ぬことどもなり︒︶
ここに﹁あめわかみこ﹂とあるのは︑明らかに︑古事記の﹁天若
日子﹂︑日本書紀の﹁天稚彦﹂を指すものと言える︒﹁あめわかひご﹂が﹁あめわかみこ﹂とされた最古と思われる例が︑この古今集仮名
序古注の用例である︒古事記︑日本書紀の該当部分は次のようにあ
る︒まず︑古事記では︑
かれ あぢしきたかひこねのかみ いか と さ とき そ いろ 故︑阿遅志貴高日子根神は︑盆りて飛び去りし時︑其の伊呂
も たかひめのみこと そ み な あらは おも かれ うた妹︑高比売命︑其の御名を顕さむと思ひき︒故︑歌ひしく︑
あめ をとたなばた うな たま みすまる みすまる 天なるや 弟棚機の 項がせる 玉の御統 御統に あなだま たに ふたわた 穴玉はや み谷 黒闇らす こ うた ひなぶりとうたひき︒此の歌は夷振なり︒ あぢしきたか ひこね かみ阿遅志貴高 日子根の神ぞ︒
とある︒古事記では︑歌の詠者が﹁高比売命﹂とされ︑﹁したてる
ひめ︵下照比売︶﹂ではない︒しかしながら︑大国主神の系図の描
写においては︑次のようにある︒
かれこおほくにぬしのかみ たきりぴめのみことめとうこ 故︑此の大国主神︑⁝⁝多紀理毘売口を訂して生める子は︑
あぢすきたかひこねのかみ つぎ いもたかひめのみこと また な したてるひめのみこと阿遅鉗高日子根神︒次に叢叢比売命︒亦の名は下光比売命︒
それ故︑古今集仮名序古注が古事記を参照したとも採れる︒一方︑
日本書紀本文には︑該当歌はないが︑一書第一には次の如くある︒
とき あぢすきたかひこねのかみ よそひうるは ふたをふたたに あひだ 時に︑味霜高彦根神︑光儀華下しくして︑二二二谷の間に
てりわた かれ も つど ひとうたよみ い ある い あぢ映る︒故︑喪に会へる者証して曰はく︑或いは云はく︑味
里離屡棚襯の嬬穫鷹郷・.獄.耀をして良彿に.曝︒く都は・鳳嚇
すきたかひこねのかみ し おも かれ うたよみ霜高彦根神なりといふことを知らしめむと欲ふ︒故︑回して
い
日はく︑ あま をとたなばた うな たま みすまる あなたま 天なるや 弟織女の 頸がせる 玉の御山の 穴玉はや
たに ふたわた あぢすきたかひこね み谷 二渡らす 味霜高彦根
勝俣﹁天稚御子像﹂の変遷に関する一考察
五
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第五十五号
またうたよみ又画して曰はく︑︵筆工︶
こ ふ た うた いまひなぶり なつ此の一首一一は︑今夷曲と号く︒
この書紀一書第一では︑歌の詠み手を﹁艘騰雛﹂と明示する︒こ
の点︑明らかに︑古事記よりも︑書紀一書第一との関係の方が深い
と判断される︒さらに︑古今集仮名序古注では︑﹁せうとの神のか
たち︑をかたににうつりて︑かやくをよめるえびすうたなるべし︒﹂
とあった︒﹁えびすうた﹂は︑既に指摘されているように︑古事記 ひなぶり ひなぶりの﹁夷振﹂︑書紀一書第一の﹁夷曲﹂のいずれかの誤読と見なせるから︑この点は︑記紀のどちらも可能性がある︒しかし︑﹁せうと
の神のかたち︑をかたににうつりて︑かやく﹂とある部分で︑
﹁をかたに﹂とあるのは︑当然︑﹁長谷﹂のことと判定されるが︑古
事記には︑歌詞の中に﹁たに︵谷︶﹂は出てきても︑﹁をか︵丘︶﹂ あぢすきたかひこねのかみの語彙は見いだせない︒一方︑書紀一書第一では︑﹁味霜高彦根神︑
よそひうるは ふたをふたたに あひだ てりわた光儀華客しくして︑二丘二谷の問に映る︒﹂とあって︑﹁をか
︵丘︶﹂が明示され︑かつ︑﹁うつりて︑かやく﹂という表記に︑
書紀一書第一の原文にある﹁映﹂の字の訓みと思われる訓が示され
ている︒以上の点から判断すれば︑古今集仮名序古注の当該部分が︑
古事記ではなく︑日本書紀一書第一を参考にして書かれたことは︑
ほぼ明らかと言えよう︒
つまり︑古今集仮名序古注の﹁あめわかみこ﹂は︑古事記の﹁天
若日子﹂ではなく︑日本書紀一書第一の﹁天稚彦﹂から来ているこ
とも恐らく間違いないことになろう︒その場合︑﹁彦﹂を﹁みこ﹂
と縮むことは自然ではないから︑﹁あめわかひご﹂を仮名書きした
六
時に草体の﹁ひ﹂と﹁み﹂を混同した可能性があろう︒
ただ古今集仮名序古注は︑あくまで古い歌の例として下照媛の歌
を出しただけだから︑天稚彦や三月御子が如何なる存在かについて
は︑詳しいことを知ることは︑ここからは不可能である︒
次に︑宇津保物語では︑次のような例が見られる︵3︶︒
さるを︑俊蔭︑仇の風・大いなる波に会ひて︑輩を滅ぼして︑
一人︑知らぬ世界に漂ひて︑年久しくなりぬ︒しかあれば︑不
孝の人なり︒この罪を免れむために︑倒さるる木の片端を賜は
りて︑年ごろ労せる父母に琴の声を聞かせて︑そのめいとなさむ﹂と言ふ時に︑阿修羅︑いやますますに怒りて言はく︑﹁汝
が累代の命をとどめむとても︑この木一寸を得べからず︒その
ゆゑは︑世の父母︑仏になり給ひし日︑天稚御子下りまして三
年掘れる谷に︑天女︑音楽声をして植ゑし木なり︒⁝⁝阿修羅︑木を取り出でて︑割り木作る響きに︑天稚御子下りまして︑琴
三十作りて上り給ひぬ︒かくて︑すなはち︑音楽卜して︑天女 たなばた下りまして漆塗り︑織女︑緒繕り︑すげさせて︑上りぬ︒
室城秀之氏は︑﹃うつほ物語
いて︑次のように注している︒ 全﹂の頭注の中で︑天日御子につ
﹁天稚御子﹂は︑天人の一人で︑音楽の神と考えられ︑織女
とも密接に結びついて伝承された︒
実際︑宇津保物語における天稚御子からは︑琴を作る木を植える
ために︑谷を掘削し︑成長した木から琴を制作する︑音楽神的性格
を確かに読み取ることが出来る︒
﹁狭衣物語﹂にも︑よく知られているように天質御子の描写が見
られる︒
もて悩みながら吹き出で給へる笛の音︑雲の上まで澄み上る
を︑上を始めたてまつりて︑候ふ人︑すべて九重のうちの人︑
聞き驚き︑涙を落さぬはなし︒⁝⁝いたく惜しみ給ふ笛の音を︑
や・残すことはなふ吹澄まして︑
いなづまの光に行かむ天の原はるかに渡せ雲のかけはし
と音の限り吹き給ふは︑げに月の都の人も︑いかでか聞き驚かざらん︒楽の潔いと近ふなりて︑﹁紫の雲たなびく﹂と見ゆ
るに︑天稚御子︑角髪結ひて︑言ひ知らずおかしげに︑芳しき童姿にて︑ふと降りる給に︑いとゆふのやうなる物を︑中将の
君にかけ給と見るに︑我は︑﹁この世の事﹂とも見えず︑︵めで
たき御有様も︑︶いみじくなつかしければ︑この笛を吹くく︑
さし寄りて︑御門の御前に参らせ給ひて︑
九重の雲の上まで昇りなば天つ空をや形見とはみん
といふままに︑︵中略︶二天稚御子に引きたてられて直なんと
するを︑御門・春宮も︑﹁なにしに﹂﹁か・る事を﹂﹁せさせつ
らん﹂とくやしう︑手を捉へさせ給へは︑此御子も︑いみじく
心苦しく思し煩ひたる気色にてうち泣きて︑﹁何事も︑この世
には余りだるに︑笛の音さへに忍びがたさに︑迎へに降りたるに︑十善の君の︑泣くく悲しみ給へば︑えひたすらに︑今
宵︑率て止らずなりぬる﹂⁝⁝ この﹁狭衣物語﹄では︑狭衣中将の笛の妙音に天稚御子が天降るのであって︑妙音に天降る音楽神天盛御子のモチーフが明瞭に認められる︒さらに︑﹁狭衣物語﹄においては︑天稚御子が笛の名手たる狭衣中将を天上界に連れて行こうとしており︑中世小説﹃あめわかみこ﹂天稚系で︑天稚御子が︑若君を天上界へ連れさる描写と似ている︒但し︑天稚 御子が下る対象は︑琴の妙音ではなく︑笛の音の素晴らしさである点が︑他の例と異なるところである︒ 梁塵秘抄︵巻二・五六一︶では︑次の例が見られる︒
しば み奥山に繁弾く音の聞こゆるは天花御子の召す音そよく
しば 二句目の﹁繁弾く﹂は︑﹁しきりに弾く﹂あるいは﹁柴引く﹂の
意とも採れるが︑今一つ落ちつかない︒﹁しば弾く﹂は﹁しは﹂と
﹁こと﹂の草体の誤りで︑﹁琴弾く﹂が正しいとする三谷栄一・関根
恵子両氏の説を採用すれば︑奥山で天稚御子が弾いているのは琴と
なり︑伝統的な二身御子像と繋がりが出てくる︵︑v︒この説は︑新日本古典文学大系では採用していないが︑もう一度検討に値する説と
思われる︒ 鎌倉時代物語の一つ﹁小夜衣﹂にも︑天稚御子の描写が見られ
る︵5︶︒
松風の音にひきあひて︑しやうのことのねかすかに聞ゆ︒・⁝: ヰへ ねアリ 更行ま・にすみまさりておもしろきに︑あめわか・みこのめで
給けん琴のねも︑限あれば是にはまさらじと︑あまの羽衣今や
とおぼしやらる・に︑⁝⁝
勝俣﹁天稚御子像﹂の変遷に関する一考察
七
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第五十五号
八
宮が山里の姫君が琴を弾くのを忍び聞きし︑あまりの妙なる調べ
に︑天稚御子が降臨して︑姫君を天上界へ連れ去るのではないかと
危惧している場面である︒ここでも︑天稚御子は︑妙音に天降る音
楽の神であり︑また︑琴の名手を天上界へ連れ去る役目を担ってい
ることが明示されている︒
三谷栄一氏﹁物語文学史論﹂に拠れば︑平安・鎌倉時代は︑﹁妙
音に誘われる神の降臨を感ずる時代﹂であり︑まさに︑その神の代
表が天下御子であったと言える︵6︶︒
この妙音に天降る音楽神天稚御子像は︑室町時代の中世小説﹃あ
めわかみこ﹄に受け継がれていることは︑既に拙稿で︑指摘した通
り︵7︶である︒
これは︑﹁あめわかみこ﹂の諸本において︑天芝御子が姫君の許へ天降る理由を︑﹁御すかたを見まみらせて﹂︵国立国会図書館蔵
﹃あめ若物かたり﹂︶・﹁身の御かたちすぐれさせ給ふゆゑ﹂︵明暦元
年版﹁たなはた﹂︶・﹁扱もうつくしきすかたかな﹂︵京都大学文学部
蔵﹁あめわか物語﹂︶の如く︑姫君の美貌に求めている中で︑琴の
妙音に由来すると作る伝本が二本あるからである︒
即ち︑慶応義塾図書館蔵﹁雨わかみこ﹄では︑
きみのきんのねのあまりにおもしろかりしかは︑
たくて参りたり︒
と作り︑東北大学附属図書館蔵﹁あめわかみこ﹄には︑ き・すてか
あまりにきんの音のおもしろく侍りて︑あくかれ出て︑何と なくちかつきたてまつり︑
とある︒この二本には︑妙音に天降る音楽神丁稚御子のモチーフが
明瞭に遺存する︒これは︑この二本の本文の伝来が由緒正しいこと
を示すのみならず︑この音楽神天稚御子のモチーフが室町時代にも
生き残っていたことを物語っている︒
天稚御子像の変遷を考察する場合︑その変化も重要なことは言を
待たないが︑普遍的性格は︑さらに重視すべきであろう︒そして︑
まさに︑この音楽神としての天稚御子像は︑平安時代から室町時代
までは︑明らかに大きな水脈として流れていることになろう︒
それでは︑この音楽神天稚御子の姿は︑何時から存在するのであ
ろうか︒天蓋御子の前身である平銀日子︵天稚彦︶には︑音楽神としての要素が見出されるのであろうか︒次にそれを検討したい︒
三︑記紀神話の天平日子像
先の記紀神話の記述で︑天若日子︵天稚彦︶は︑天の探女の取り計らいで︑天から遣わされた鳴女という雄を矢で射て︑その矢が天
上界の高木神と天照大神の許に届く︒高木神が︑その矢を天上界に開いた穴から投げ返すと︑朝床に寝ていた天若日子の胸に当たって
天若日子は命を落とす︒この説話と︑音楽神天稚御子との関連は︑
見出されるだろうか︒
先ず︑天若日子が錐を射るのは︑天智慧売に︑雄の鳴く声が良く
ないと唆されたからである︒
爾に天心具売︑此の鳥の言ふことを聞きて︑天若日子に語り
て言ひしく︑﹁此の鳥は︑其の鳴く男爵悪し︒故︑射殺すべし﹂
﹁其の鳴く音甚悪し﹂とされた雑の声は︑実際の錐の声がケンケ
ンと喧しくて︑お世辞にも美しいとは言えないという客観的事実に
基づくだろうことは想像に難くない︒つまり︑若し︑鳥の声を歌唱
という面から見れば︑音楽的には劣等な点しか付けられない種類の
ものと言える︒仮に︑天若日子に音楽神的要素が既に存在したので
あれば︑音楽的に評価できない声で鳴いている錐に我慢できずに︑
射殺してしまったという解釈も成り立ちうる︒勿論︑天佐具売は︑
﹁天探女﹂という表記が当てられるように︑事物の変化を見て︑吉
凶を判断した一種の巫女と推測されるので︑この場合も︑天から訪
れた鳥を見て︑その声を聞いて︑吉凶を判断しただけとも取れる︒
しかし︑天若日子が︑その天佐具売の判断や助言に従っているの
は︑天竺日子自体が︑同様な判断をして︑天皆具売の指示を適切な
ものと了解したからであろう︒やはり︑そこには︑﹁其の鳴く音甚
悪し﹂と感じる音楽神的要素を看取できなくもない︒
また︑宇津保物語では︑大樹と琴と天蚕御子という連鎖が見られ
たことは︑上述の通りである︒この︑記紀神話の天若日子の物語で
は︑そうした要素は見られないであろうか︒
古事記の記述で注目されるのは︑次の記述である︒
天命日子︑天つ神の賜へりし天浦波士弓︑天之加久重を持ち
て︑其の錐を射殺しき︒爾に其の矢︑錐の胸より通りて︑逆に
造上げらえて︑天安河の河原に坐す天照大御神︑高木神の御所 に逮りき︒是の高木神は︑高御産心底神の別の名ぞ︒故︑高木神︑其の矢を取りて見したまへば︑血︑其の矢の羽に著けり︒是に高木神︑﹁此の矢は︑天若日子に賜へりし矢ぞ︒﹂と告りたまひて︑即ち諸の神等に示せて要りたまひしく︑﹁黙し︑天若日子︑命を誤たず︑悪しき神を射つる矢の至りしならば︑天若日子に中らざれ︒寒し邪き心有らば︑天若日子此の矢に麻賀礼︒﹂と云ひて︑其の矢を取りて︑其の矢の穴より衝き返し下したま
へば︑天若日子が蘭曲に算し高胸章に中りて死にき︒
この一節で︑天若日子が射た矢は︑高天原の天照大御神︑高木神
の許に届くが︑その矢を手に取り︑投げ返すのは︑天照大御神では
なくて︑高木神である︒矢という軍事的な物件の扱いは︑男性と推
測される高木神が執り行っただけかも知れないが︑今まで︑高御産巣日神の名で活動していた神が︑この条になって︑急に名称を変え
るのは︑やはり不自然としか言いようがない︒ここには︑名義変更
をした何らかの理由の存在を想定すべきであろう︒
かつて︑神田典城氏は︑高木神が文字通り高木を意味し︑天若日
子が︑高木神からの返し矢で命を落とすのは︑高木に雷が落ちるイ
メージを描いたものだと論じられた︵8︶︒老眼である︒高木神が高木を意味する神であるというのは︑納得できる説である︒この部分で
高御産巣日神から高木神へと名称が変更されたのは︑高木を意味す
る名義であることが必要とされたからであろう︒
高木と言えば︑直ぐに想起されるのが︑大樹伝説である︒高木神
とは︑大樹の神格化であると見なすことは不当ではあるまい︒
大樹伝説と琴が深い関係にあることは︑既に拙稿で論じたところ
勝 俣⁝﹁天稚御子像﹂の変遷に関する一考察
九
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第五十五号
一〇
である︵9︶︒高木神が大樹の神格化であれば︑大樹と天若日子の関係
が既に古事記の中に見出されることになる︒
それでは︑大樹や天若日子︵天稚御子︶と深い関係を持つはずの
琴との関係はどうであろうか︒
記紀神話の賎隷日子︵天稚彦︶の段には︑琴との関係は直接描か
れていない︒だが︑関係を暗示するものが無いわけではない︒
是に天若日子︑其の国に降り到る即ち︑大国主神の女︑下照
比売を坐し︑亦其の国を獲むと慮りて︑八年に至るまで復奏さ
ざりき︒
天若日子が地上に天降ってすぐに結婚した相手は︑﹁大国主神の
女︑下照比売﹂であった︒この大国主神が︑根の堅州国から持って帰ったのが︑生太刀︑生弓矢と︑天の聖霊であった︒この場面︑古
事記は次の如く作る︒
爾に其の神の髪を握りて︑その室の橡毎に結ひ置けて︑⁝⁝
其の翠雲世理毘売を負ひて︑即ち其の大神の生大刀と生弓矢と︑
及其の天の驚異を取り持ちて逃げ出でます時︑其の天の詔高樹
に携れて地動み鳴りき︒故︑其の寝ませる大神︑聞き驚きて︑
其の室を著したまひき︒然れども︑橡に結ひし髪を解かす問に︑
遠く逃げたまひき︒故爾に黄泉比良坂に追ひ至りて︑遙に望け
て︑大穴美男神を呼ばひて謂ひしく︑﹁其の汝が持てる生大刀・
生弓矢を以ちて︑汝が庶兄弟をば︑坂の御器に追ひ伏せ︑亦河の瀬に追ひ擾ひて︑意礼大国主神と為り︑亦宇都志国玉神と為 りて︑其の我が女須世理毘売を嫡妻と為て︑宇迦能山の山本に︑底津石根に宮柱布石斯理︑高天の原に氷厚多迦斯理て居れ︒是の奴︒﹂といひき︒
ここで︑大穴牟遅神は︑﹁天の詔琴﹂を取って逃げ出すが︑何故
この琴の名が﹁天の詔琴﹂という﹁天﹂を冠する琴であるのか︒こ
の点については︑いまだ十分に納得できる説明がなされていない︒
これを︑文字通り︑天上世界を表わす﹁天﹂と取れば︑何故︑地下
世界と思われる根の堅州国に天上世界に関係する言葉が出てくるの
かが解明されねばならないことになろう︒根の堅州国については︑
諸説あり︑地下世界ではないとする見方も存在するが︑筆者は︑様々
な根拠から︑根の堅州国は︑地上がそのまま地下に再現された︑明
るい地下の他界と考えている︵n︶︒ 地下世界が︑天上世界と関係を持つとすれば︑地下世界が天上世
界と︑何らかの形で︑繋がっているという見方が介在する必要があ
ろう︒先に拙稿で述べたように︑根の堅州国は︑木の国︵紀伊国︶
の直下に存在する異郷であったと推測される︵n︶︒それ故に︑大穴牟
皇神の根国訪問課は︑木の国を経由して実行されるのである︒木の
国の直下に根国があることは︑樹木の木と根の関係に相当すること
も先に論じたところである︵mv︒その場合︑根国とは︑樹木の根によっ
てしっかりと支えられた地下世界と言えた︒この樹木は︑木の国に
生えた樹木であるが︑さらに言えば︑天上世界にも届く大きな樹木︑
所謂大樹に支えられていると言う見方も出来ないことはない︒ これも︑先に拙稿で述べたことであり︑ウノ・ハルヴァや︑ミル
チャ・エリアーデによって︑既に論じられていることでもあるが︑
大樹︑所謂世界樹︑宇宙樹は︑地下世界︑地上世界︑天上世界の三
領域を連結する機能を持つところに大きな特色がある︵u︶︒
例えば︑エリアーデは︑次のように説明している︵蛇︶︒
1︑宇宙論的に大地の中心に生え︑天高く思える大樹たること︒
2︑当該の大樹が︑その枝・幹・根等を通して︑天上・地上・地下
の三領域を連結すること︒︵大樹を伝わって三領域の往来が可能
なこと︒︶3︑大樹が宇宙の永続性・豊穣性・神聖性の象徴であること︒ とあり︑また︑
樗ユグドラシルの下からは︑三方に三つの根が出ている︒一
つの根の下にはヘルが住み︑もう一つの根の下には霜の巨人らが︑三つ目の根の下には人間たちが住む︒︵グリームニルの歌
︹三こ︶
とあって︑地下に張ったユグドラシルの根が三つの世界を支えてい
ることが描かれる︒﹁スノリのエッダ﹄では︑
これに依れば︑根の堅州国を支える樹木は︑地下に根を張り︑地
下の根の堅紙国を支えると共に︑地上には︑木の俣を作って︑地下
と地上の出入口を形成し︑さらには︑天高く伸びて︑天上世界に届
く大樹である可能性が指摘できるのである︒もし︑この仮説が正しeければ︑何故馬地下世界の宝物である﹁天の詔琴﹂に﹁天﹂の修飾
語が冠されているかも理解できよう︒大樹から作られる琴が︑天上
世界の神々の神託を伺う呪物であったように︑当該の﹁天の詔琴﹂も︑天上世界に到達している大樹の根から作られた琴であり︑天上
世界の神々の神託を伺う呪物であるが故に︑﹁天﹂を冠されている
可能性があるとと推測されるからである︒
ここで想起されるのが︑北欧伝説の大樹ユグドラシルであろう︒
﹃エッダ﹄には︑
九つの世界︑九つの根を地の下に張りめぐらした名高い︑
の世界樹を︑わたしはおぼえている︒︵巫女の予言︹二︺︶
勝 俣⁝﹁天稚御子像﹂の変遷に関する一考察
か
すると︑ガングレリがいった︒﹁神々がおもにおわすところ︑
あるいは薄湿はいずこにあるのですか︒﹂バールは答えた︒﹁それは︑樗の大樹ユグドラシルのそばなのだ︒神々は毎日そこで
裁きをすることになっている﹂すると︑ガングレリがいった︒
﹁この場所についてはどのようなことがいわれていますか︒﹂す
ると︑ハーンがいった︒﹁その格というのは︑あらゆる樹の中
でいちばん大きく見事なものなのだ︒その枝は全世界の上にひ
ろがっていて︑天の上につき出て聾えている︒三つの根が樹を支えて︑遠くまでのびているのだが︑その一つはアース神のと
ころ︑もう一つの根は霜の巨人のところ そこは昔奈落のロ
のあったところだが︑三つ目のがニブルヘイムの上にあるのだ︒﹂
大樹に支えられた三つの世界という考えは︑大樹に支えられた根
の信州国を思い起こさせるものがあろう︒さらに︑﹃エッダ﹄では
=
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第五十五号
一二
天の甕える尊い樹の下に︑ヘイダムルの角笛が隠されている
のを︑わたしは知っている︒︵巫女の予言︹二七︺︶
とあって︑世界滅亡の折に︑危険を告げるために鳴らされる角笛が
大樹ユグドラシルの下にあることが歌われる︒これは︑大樹の根で
支えられた根の堅州国に天の詔琴があることに匹敵しよう︒勿論︑
遠く時代も地理も離れた日本神話と北欧神話が相互に影響関係にあ
る可能性は極めて小さい︵B︶︒しかし︑人間の発想法︑神話的思考法
の類似によって︑大樹の下に楽器がある︑あるいは大樹の一部から
楽器が作られるといった類似した発想が生まれたのではなかろうか︒
さて︑根の妻戸国から︑琴を持ち帰った大穴粛学神が大国主神と
名を変えて︑﹁胸章の奥津宮に坐す神︑多紀理工売命を干して生める子﹂が︑﹁阿魔鉦高日子根神﹂と﹁妹高比売命︑亦の名は下光比
懇命﹂であることになる︒その﹁下光比売命﹂と結婚したのが︑他
ならぬ天地日子である︒この琴を持ちかえって地上の支配者となっ
た大国主神の娘と結婚することによって︑天若日子も間接的に琴と
関連を持つようになろう︒ 以上の如く︑記紀神話においても︑天若日子と大樹・琴の関係が
朧気ながら浮かんで来る︒それ故︑当該の大樹・琴・天稚御子三者
の関係は︑既に︑上代文学にその骨格が出来ていた可能性もあろう︒
実際問題として︑大穴牟遅参の根国訪問諌と︑中世小説﹁あめわ
かみこ﹄﹃七夕﹄は︑密接な関係にある︒
古事記の該当部分は︑次のようである︒
即ち喚び入れて︑其の蛇の室に寝しめたまひき︒是に其の妻 須勢理毘売命︑蛇の比礼を其の夫に授けて云りたまひしく︑
﹁其の蛇咋はむとせば︑此の比礼を三たび挙りて打ち援ひたま
へ︒﹂とのりたまひき︒故︑教の如せしかば︑蛇自ら静まりき︒
故︑葺く寝て出でたまひき︒亦来る日の夜は︑呉公と蜂との室
に入れたまひしを︑且呉公署の富盛を授けて︑先の善教へたま
ひき︒故︑帯く出でたまひき︒
これに対して︑七夕系﹃あめわかみこ﹂の本文では︑次のように
ある︒︵引用は国立国会図書館蔵﹁七夕の由來﹄に拠る︒︶
おに⁝⁝四方をとちたるくらを開ければ︑長三丈計なるむか
て千万︑くらよりはひたり︒いたはしけもなく︑姫君をとって︑くらのうちへなけ入て︑をのれは蔵の前に︑ばんをしてみたり
けれ︒むかて⁝⁝人かのかうはしきことをよろこひ︑姫君の御手足にとりつきけるを︑かの袖をもつて三と学習へはおそれて
さらにはたらかす︑むかてのあしなへ︑魚のくかにあかれるこ
とくにて︑いきつきかねたる有様なり︒⁝⁝又あるくらをあけ
けれは︑たけ一言はかりなるくちなはを数千疋こめをきたり︒
﹁このくらへをしいれん﹂とて︑行けるに︑なをしの袖をひそ
かにとりいたし給へは︑くちなはとも︑これを見てかうへをさ
け︑夏の天にあへるみ・つのことく︑⁝⁝
七夕系において︑天上世界を訪れた姫君に対して︑天端御子の父
である鬼から︑種々の難題が出される︒その中に百足の室や蛇の蔵に閉じ込められる場面があるが︑それは︑まさに古事記の大穴牟遅
神が︑速須佐之男命から与えられた試練に相当する︒その上︑その
百足や蛇の害を防ぐために天稚御子から与えられた﹁天稚御子の袖﹂
は︑大穴牟破風が軍勢理面容から与えられたヒレに該当する︒三度
振って害を払うのも︑全く軌を一にするものである︒この点は既に
指摘があるが︑中世小説﹃たなぼた﹄と︑古事記の大穴牟遅神の根
国訪問課と密接な関係を有することは否定できないと思われる︵猛︶︒
さらに言えば︑﹁七夕﹂で︑姫君が︑野原へ千頭の牛を連れてい
き︑草を食ませて︑牛舎に返すという難題を課せられたのも︑大穴
牟遅番の神話との関連を見いだせる︒これは︑本来︑彦星の仕事で
あった牛飼いの仕事が︑姫君の難題に転嫁させられたという三谷栄
一氏の指摘が正しいだろうことは勿論である︒三谷氏は︑﹁七夕﹂が﹁古今集注﹄巻落の﹁銀河紅葉を橋にわたせばや織女つめの侠を
しもきつ﹂の注に掲載された乾陸魏長者潭に由来するものとされた︒
その乾許諾長者課では︑当該部分は︑次のようである︒
梵天王⁝⁝われに千頭の牛あり︒それを七日があひだひきか
はんや︒さらば彼女にあふ事をゆるすべし﹂⁝⁝彦星は七日千
頭牛をひきかひければ︑彦星をば牽牛と云也︒
一方︑﹁七夕﹂は︑次の如く作る︒ 千疋のうしの我ま・にはなるへき︒﹂と⁝⁝かなしみ給ふ︒﹁まことやき・しことあり︒﹁あめわかみこ︒﹄とたにとなふれは︑ようつのしやうけをまぬかる・と聞えけん物を︒﹂とて︑牛やのまへにて︑﹁あめわかみこく﹂ととなへ給へは︑千ひきのうしとものへに出て︑おもふま・に草をはみて︑又もとのうしゃにたちかへりぬ⁝⁝
乾衆心長者謳では︑単に﹁彦星は七日千頭牛をひきか﹂うのみで
あったのに︑﹁七夕﹂では︑何故︑姫君は︑﹁牛を野へにつれ行︑草
をかふ﹂のか︒これも︑大穴牟遅神の根国訪問潭での試練と突き合
わせると理解できるように思われる︒
根国訪問課では︑蛇や呉公の試練の後︑次の如き描写が見られた︒
亦鳴鏑を大野の中に射入れて︑其の矢を採らしめたまひき︒
故︑其の野に入りし時︑即ち火を以ちて其の野を廻し焼きき︒
是に出でむ所を知らざる間に︑鼠来て云ひけらく︑﹁内は富良
種良︑外は二夫須夫︒﹂といひき︒如此言へる故に︑其処を踏
みしかば︑落ちて隠り入りし問に火は焼け過ぎき︒爾に其の鼠︑
其の鳴鏑を咋ひ持ちて︑出で来て奉りき︒其の矢の羽は︑其の
鼠の子等皆喫ひつ︒⁝⁝爾に其の矢を持ちて奉りし時︑
きしんいふやう︑﹁我此ほとしもっかへなくして︑千疋のうしとものうへにのぞみしなり︒西翠を野へにつれ行︑草をかふ
へし︒さなくは︑いのちをうしなはん︒﹂とせめけれは︑⁝⁝
﹁⁝⁝せめて五疋三ひきならは︑いかにもつれていつへきに︑ 右の記述では︑野に射た矢を無事に持って帰ることが難題として課されている︒一方︑﹁七夕﹄では︑﹁牛を野へにつれ行︑草をか﹂い︑さらに︑﹁もとのうしゃにたちかへ﹂ることが難題として課されているのである︒つまり︑矢と牛とで異なるとは言え︑どちらも
勝 俣﹁天稚御子像﹂の変遷に関する一考察
一三
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第五十五号
一四
一端野へ出たものを︑また許の場所へ無事に持ち帰る︵連れ帰る︶
点で共通しているのである︒
三谷栄一氏の論の如く︑乾陸魏長者謳が︑﹃七夕﹄の基になった
ことは大筋で認めるべきであるが︑﹃七夕﹂で︑姫君への難題とし
て牛を野へ連れて行き︑無事に牛舎へ戻すことが出てくるのは︑大
穴牟遅神の根国訪問潭の影響を見ることが分かりやすいと考える︒
直前に出てくる蛇の室︑呉公の室の記述と並んで出てくる野中の矢
を無事に探して持ち帰る記述が︑﹁七夕﹂の作者に影響を与えただ
ろうことは十分にあり得ることと思われる︒
それにしても︑何故︑大穴牟傷神の根国訪問諌の説話が﹃七夕﹂
に取り入れられたのであろうか︒急撃で検討したい︒
四︑﹁七夕﹄と七夕伝説の関係
此の点については︑出雲朝子氏が︑注目すべき発言をされてい
る§︒氏は当該の下照姫の歌が中世の知識階級の問で︑天稚彦の妻
の歌として著名であり︑特に古今集の仮名序の古注にあったため︑
権威づけられ︑その注釈が多く行われたことが関係すると指摘され
る︒さらに︑中世の知識階級にあっては︑大国主神が天稚彦の父で
あるという観念が普遍的にあったから︑古事記の根国訪問課との関
わりも出てくると言われる︒基本的に首肯できよう︒
中世において︑古今集の権威は絶大であったから︑その仮名序で︑
このうた︑あめつちの︑ひらけはじまりける時より︑いでき
にけり︒しかあれども︑世につたはることは︑ひさかたのあめ にしては︑したてるひめにはじまり︑
とあれば︑その歌の始まりとされる﹁したてるひめ﹂の歌が注目を
集めない訳はない︒そして︑﹁したてるひめ﹂の夫である天稚彦や︑
﹁したてるひめ﹂の父である大国主命も︑当然注目を集めるはずで︑
それが︑大国主命︑即ち大穴牟遅神の根国訪問潭との関わりを齎し
たということは︑大いに有り得ることであろう︒
さらに︑記紀神話の天若日子︵天稚彦︶の物語において注目され
るのは︑七夕伝説と関わりがあると思われる描写の見られる点であ
るが︑出雲氏は︑この点に関しても︑下中姫が﹁をとたなばた﹂の
歌詞を通して︑織女星と同一視され︑その夫である天稚彦も必然的に彦星に比定されたという︒それ故︑乾陸魏説話の彦星を逆に天稚
彦に変えれば︑所謂﹃天稚彦物語﹂が成立すると指摘する︒この見
解も恐らく正鵠を得たものであろう︒従来︑七夕と天稚御子の関わ
りについては︑民俗学的側面からのアプローチが多かったが︑出雲
氏の中世の古今集の注釈書等に見られる解釈からのアプローチは︑
より説得力のあるものと言えよう︒
しかしながら︑天稚彦︵天稚御子︶が七夕の彦星に比定されるの
が︑中世に入ってからか否かは︑一該に言えない面を持とう︒
先にも述べた通り︑既に宇津保物語にも︑天稚御子と織女が並ん
で登場している︒例えば︑中村忠行氏は︑次の如く述べる︵・6︶︒
しかも尚注目すべきことは︑天稚御子が織女と関係を以て語られてみることである︒さうしてそれは室町時代になったと思
はれる天稚御子に︑二種の﹁天稚御子物語﹂があって︑ともに
七夕傳説と結びつけられて語られてみることよりすれば︑天稚
御子を牽牛に附會した傳説が他にあり︑更にこれを罪なる天人としてみる様なことが︑はやくからあったものではないかと思
はれる︒尤も天稚御子を牽牛に附會した屡説の萌芽とみるべき
ものは︑古事記に於ける天若日子と高比責との唱和︑﹁天なる
や弟棚機の⁝⁝﹂のうちにも見出されうるものであるから︑さ
うした傳説が他にあったとすれば︑その所傳は可成り古い時代からのものであり︑琴との結びつきなども案外存してみたので
はあるまいか︒
引用文中︑﹁天若日子と高比費との唱和﹂とあるのは︑﹁阿遅志貴
高日子根神﹂と﹁天若日子﹂を誤ったものと思われるが︑天若日子
と七夕伝説との付会伝説が︑かなり古いものでないかという指摘は
注目に値しよう︒
記紀の記述では︑下照姫と阿遅志貴高日子根神が︑織女と彦星の
関係にあると言えば言えるのであるが︑下照姫と天稚彦︵天若日子︶が夫婦であることから︑中世の注釈書を待たずに︑天若日子が彦星
であると見なされていた可能性も十分に存するのである︒
重畳御子は︑楽器の妙音︑就中︑琴の妙音に対して天降る天人で
あるが︑七夕に琴を演奏するという習慣は古くから存したことが知
られている︵耳︶︒天稚系において︑天稚御子の再来は︑若君三歳︵写
本によって︑五歳︑七歳もあるが︑種々の点から︑三歳が本来のも
のと言える︵18︶O︶の七夕の日であるが︑それは︑古く︑七夕に天稚
御子が天降るという伝承を踏まえた記述かも知れないのである︒
七月七日は︑古くから︑この歪ならぬ異郷の住人と出会える日で あったからである︵玲︶︒また︑下墨姫の歌が中世の解釈を待たずとも︑七夕伝説そのものを上代から詠んだものである可能性も否定できない︒角革志貴高日子根神が盆って飛び去った時︑高比売卜︑即ち下弦姫が︑其の御名を顕わそうとして歌った歌は︑次の通りであった︒
天なるや穴玉はや
︵古事記︶ 弟棚機の 項がせる 玉の御統 御統にみ谷 二渡らす 阿遅志貴高 日子根神ぞ
この歌は︑書紀の歌もほぼ同様であるが︑七夕伝説と関係がある
のではないかということは︑古くから指摘されてきたことである︒
﹁天なるや 弟棚機の﹂という表現からは︑天上世界の織女がすぐ
に想起される︒また︑﹁阿遅霜︵志貴︶高日子根神﹂という名義は︑
﹁立派な釦の︑高く輝く太陽の子﹂︵西宮一民氏﹁神名の釈義﹂﹁集
成古事記﹄所収に拠る︶であると言われる︒この立派な鋤が唐鋤で
あれば︑牛馬に牽かせるものであるから︑牽牛星との距離は極めて近くなる︒味霜高彦根神が︑天上界で輝く神であることは通常︑雷
神の特徴とされ︑確かに︑そうした解釈も可能であるが︑牽牛星の
輝きであるという見方も不可能ではない︒仮に弟棚機が織女星︑味
霜高彦根神が牽牛星を表わすのであれば︑まさに七夕伝説そのもの
に他ならないと言えよう︒
宇津保物語で︑天質御子と織女が並んで現われるのも︑かなり古
くから︑下照姫が七夕の織女と混同され︑一方︑同母兄の重言志貴
高日子根神や︑この神と良く似た夫の天若日子が︑七夕の彦星に比
定されていたためではないかとも思われるのである︒
勝 俣﹁天稚御子像﹂の変遷に関する一考察
蓋
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第五十五号
一六
たとえそうでなくても︑﹃七夕﹄の作者が︑当該部分から七夕伝
説を直に想起した可能性も十分にあり得ることを考慮すれば︑必ずしも中世の知識人の解釈を待たなくても良いことになる︒いずれに
せよ︑中世小説﹃七夕﹄と記紀神話の大穴牟遅神・天若日子︵天稚
彦︶の物語は︑想像以上に深い関係を持つと推測されるのである︒ あろう︵・︒︶︒また︑中世小説﹃あめわかみこ﹂並びに﹁七夕﹄とも︑本文自体の考察をさらに精密に行う必要がある︒これらは︑今後の課題として︑今回は︑おおよその傾向を述べるに止めておきたい︒
注
結び
以上︵記紀神話の天業日子︵天稚彦︶とその後の文学に現われる
天界御子の関係について︑下立姫の歌︑大穴牟遅神の根国訪問潭︑
大樹伝説︑琴︑妙音に天降る音楽神のモチーフ︑七夕伝説等との関
わりから考察してきた︒ その結果︑音楽神天稚御子のモチーフは︑記紀神話の中にも︑あ
る程度見出すことが可能であり︑それは︑室町時代の﹁あめわかみ
こ﹂天稚系にも受け継がれていることを述べた︒一方︑七夕系で︑天界御子が彦星と付会されていることは︑古くから︑下骨導が織女
に比定されたために︑夫の天稚彦が彦星に比定されたためか︑ある
いは︑出雲朝子氏の論のように︑中世の知識人の解釈に拠って︑そ
うした付会がなされたと見なすのが適当であろうと論じた︒天稚系
は音楽神の要素を︑七夕系は︑彦星の要素を︑それぞれ持ちながら︑
七夕に係わるという点では︑相互に僅かとは言え交渉も行いながら︑
天稚御子像が︑伝えられてきたように思われる︒便ち︑上代文学の
天若日子︵天稚彦︶像と中古以降︑中世小説﹃あめわみこ﹂﹁七夕﹂
に至る天綴御子像は︑確かに繋がりを持っているのである︒
民俗学的な面からの考察は今回は省略したが︑当然︑行うべきで ︵1︶引用は︑古典大系本に拠る︒以下︑日本書紀・祝詞・狭衣物語・梁塵 秘抄等も同じ︒
︵2︶古今集仮名序の古注は︑何時成立したものか明らかでないが︑仮名序
成立から程遠くない時期に作られたものという前提で論じたい︒前提
を覆す資料が見つかれば︑再検討の余地がある︒
︵3︶引用は︑室城秀之氏﹁うつほ物語 全﹄おうふう︑平成七年十月刊に
拠る︒︵4︶大系本﹁狭衣物語﹄の補注四七に拠る︒
︵5︶﹁小夜衣﹄の引用は︑古典文庫本に拠る︒
︵6︶三谷栄一氏﹁天才御子の物語と七夕物語﹂︵﹁物語文学史論﹄︑有精堂
出版︑昭和四十年十月︶に拠る︒
︵7︶拙稿﹁申世小説﹃あめわかみこ﹄の本文に関する一考察I﹂慶応大学
蔵﹁雨わかみこ﹄について一﹂︵静岡大学人文学部﹁国文談話会報﹄
二六号︶・﹁中世小説﹁あめわかみこ﹄と散逸物語﹁夢ゆゑ物思ふ﹄
︵﹁国語と教育﹄第十三号︑長崎大学国語国文学会︑昭和六三年十一月︶・
﹁東北大学附属図書館蔵﹁あめわかみこ﹄の翻刻及び解題﹂︵長崎大学
教育学部人文科学研究報告第三八号︑平成元年三月︶・中世小説﹁あ
めわかみこ﹄天晶系研究の現在︵長崎大学教育学部人文科学研究報告
第五三号︑平成八年六月︶等