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O 北朝に於ける民望の意義について

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北朝に於ける民望の意義について︵矢野︶

北朝に於ける民望の意義について

 魏々︵56︶鄭義傳を見るに︑ ﹁以下河南民望︒爲州里所信︒﹂とい

う記事があり︑鄭義は民望であったという︒民望については︑嘗て

宮川氏が﹁かつて官に仕えた者の子孫であると認められれば士望と

呼ばれるが︑然らざれば民望と呼ばれた︒民の身分の豪族である︒﹂

と詮明された︵﹁北朝に於ける貴族制度上東洋史研究第八巻第四号︶︒けれども響は必ずしも

宮川氏の設に從い得ないので︑敢えて筆者の見解を述べて大方の批

判を乞いたいと考えるのである︒勿論後述するところによつて明か

となる如く︑宮川氏の見解を全面的に否定するわけではないが︑今

少しく廣く解してみたいと思っている︒

 さて︑民望なる言葉は︑南朝に於ても用いられた言葉であるが

する︒ (講 曹U3毅景仁伝︶︑今擁宜上︑主として北朝關係資料によることと

 望とは一体どのような意味のものであろうか︒既に竹田龍児氏が

指摘せられた恕︵﹁唐代士人の郡望について﹂史学第廿四巻第四号︶︑善意墨壷雛で

あり︑時代的な攣遷が考えられる︒ではまつ︑望の原來的な意味ぱ

どのようなものであったのか︒それは恐らく︑ ﹁断劉残北顧之意︒

絶餐塵之心﹂︵魏書50尉元伝︶とか︑﹁旛急︒饗繕紳之望︒﹂︵力感伝︶

とか︑琴箋事窒︒必奏朝野眺望︒L︵羅攣とか︑﹁︵斬︶

準將作乱︒以藁玉髄杢響簿望︒謀之垂.﹂︵断書02  ユ劉自伝︶或は

﹁暑虫類望也﹂︵三国志魏志︵15司馬朗伝︶﹀等と見える如く︑﹁のぞむ﹂と か︑﹁のぞみ﹂.・とか︑﹁のぞむところのもの﹂﹁のぞまれるもの﹂ という如きであろう︒康煕字典によるも關係ありそうな意味は︑以 上の範園を出でないようである︒  このような意味が宗族に算して用いられる場合には︑既に早く三 國時代から︑ ﹁︵杜︶畿謂零雨︑萢先日︒衛︑萢河東之身開︒﹂

(魏 u16杜畿伝︶とか︑無代に於いても﹁等差東蔓﹂︵羅馴︶とか︑

或は北朝に撃ても﹁世祀⁝謂司徒崔薄日︒天下諸杜︒何処望高︒﹂

(魏 u子︶皐︑﹁世為初︒以崔氏︒世事東崔︒地寒渾一︒尊書︒﹂

じ︑或は︑﹁雍秦二州護︒自酌徒己來︒戌窪役下話︒﹂︵曙載 (魏 z王伝︶とち如く摂られて︑宗族の格式の高さを示す用蒙生

旧記︶とか︑顯組至円齊︒徒其肇於代︒L︵魏書48高允伝︶量える聖︑ 族望︑望族なる用法が生じて有力宗族を示している︒けれどもごの

場合であっても︑全く原図的な意味がなくなってしまっているわけ

でもないようであるが︑民望という言葉も亦︑このように韓化しつ

つも尚原罪的な意味を多少のこしているものとして考えられるよう

である︒  民望について考える前に︑これに類した言葉を調査してみると誠

に多種多様に存する︒一汝墨例するのは煩に堪えないので︑二︑三

の例に止めた馨︑例えば︑人望︵裏書の三遷伝︶︑朝望︵鋸鶴︶︑叢︵藷 蕪Y糞難業灘伝︶︑肇囎醤二選霧任撲︶

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璽︵晋書53懲懐太子伝︶︑墜︵撞鐵縢︶舞ある︒これらは人聞にあ

れば人望であり︑朝にあれば朝望であり︑民間にあっては士望であ

り︑又才能があれば才望であり︑徳があれば徳望であったことを示

しているので︑例えば証書︵79︶謝石傳に︑石在職務証文刻︒既無他

才望︒直以宰相弟︒兼有大勲︒途居溝顯︒﹂というところによつて

明かな如く︑才望は才と望ではなく︑軍に才能と置換えにもよい言

葉であって︑他の場合と難も同様である︒然るに︑引書︵78︶丁潭傳

には︑﹁王些些謂孔康有二才而無公望︒丁世康有公望而公平︒﹂と

見え︑ 同書︵76︶虞駿傳にも︑ ﹁王導常謂駿日︒孔愉有公才而無公

望︒丁潭有公望而無公才︒兼之者︑其在島乎︒﹂と紅藍ている︒

この場合は︑才と望とがはっきりわけられでいるので︑公転は公た

るの才と考えられるが︑公望とぱ一体何如に考うべきであろうか︒

ところが︑同じく丁潭傳に︑ ﹁︵賀︶循日︒郎丁令職望清重︒實三

審授︒長野淳貞輝︒私有隙正︒聖明所簡︒才量宜之︒途爲狼邪王郎

中令︒﹂と見える︒輩に公望という場合には︑前述の宗族の格の高

さを示す意味のものとして︑公たりうる望族と考えられないこと

はないが︑羽島は人物貞輝にして清重の職望たる一これも軍に職そ

のものを指すこと明かである︒−郎中当たり得るというのであるか

ら︑王導のいった意呼は︑ ﹁専断は公たるに相愉しい人望のある人

物だが︑それ丈の才能はない﹂と考えねばなるまい︒それは例えば

晋書︵81︶桓宣傳に︑﹁宣望實倶喪︒兼以老疾︒﹂と見える如く︑庚

翼の指揮下にあって石面龍の部下との職に敗れた出日颪︑ ﹁望賢﹂と

もにななくなったわけで︑﹁他からのぞまれることも︑その實質も

なくし︑之に加えて老疾であったので﹂︑とい・う如ぎによっても推

察される︒︵回書16伝単参照︶

 以上の如く︑士望とか︑才望とか熱しても︑原來的な意味を失つ

北朝に於ける民望の意義について︵矢野︶ たものでないことが明かである︒勿論三國志︵15︶張既傳︑動注所 引︑三三三旧注に︑﹁︵張︶既述︵游︶殿邦之宿望︒互違選言︒﹂ とある宿望の如ぎは︑郡の有力者たる南殿をさすわけで︑それは 矢張り郡に於て人汝から望まれるという意昧に於て地方に於ける 名望家であったのであり︑首望とか族望といったところで︑同様 な性質のものと考えて差支えなかろう︑では民望とは具体的に如 何なるものであろうか︒魏志︵−o︶の筍或傳には︑ ﹁因此時︒奉面 一從民望︒大順也Q﹂とあるが︑これはいうまでもなく民の﹁のぞ み﹂である︒然るに︑同書︵8︶公孫贋傳によるに︑ ﹁︵劉︶虞宗室知 名︒民之望也︒途推虞遅退︒造三囲虞︒﹂とあり︑同書︵23︶斐潜傳 の斐注所課恵帝起居注には﹁︵妻︶顧領有遠心︒薄墨名士也︒︐一日民 之逐一Q﹂とあるのは︑民から﹁望まれるところのもの﹂の意であ ろう︒劉虞にしても︑過越にしても天下知名の人物であり︑民衆か ら名士として望まれていたが故に︑ ﹁民之望﹂と見られたこと明か である︵三国志魏志13王気伝装丁所引︑三輔決録注︶︒勿論三國志魏志︵U︶楽照優﹁︵葡︶ 藪謂早百︒今濃州反︒惟有此三塁︒ ︵陳︶罫書以重兵臨也︒非有以 深結一心︒一城必動︒君民四望也︒殆可︒﹂とみえる﹁民之望﹂は 天下知名の士ではないが︑地方における名望家であり︑地方民衆の のぞむところであったであろう︒けれども薙に注目しておくべきは 彼等が決して庶民ではなかったことであるQ  では︑北朝における具体的な姿はどうであったかQいま︑聖書に よって二︑三の例を示せば︑ ﹁華南璽首及引田民望︒入密信書世 蓮︒塁壁議内附︒﹂とか︵誓書16陽平王伝︶︑及武泰二年粛宗主︒大都督 爾朱黒將向京師云云慶立︒平家有忠勲︒且兼民望Q陰勘忍通︒しと か︵魏書−o孝荘本紀︶︑﹁︵太和︶二‡・.・三月・.+丑Q詔︒諸州中正藁藩 之塁年五+呈︒守素衡門者︒授以婁︒﹂や︵魏書7下高祖本紀︶︑更に︑

O η

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北朝に於ける民望の意義について︵矢野︶

﹁︵和亭六年︶九月⁝丙午︒⁝今制︒刺史︑守宰到官之日︒仰自発民

慧信︒以爲響︒﹂︵騰讐紀︶舞見える︒覆の二選︑地方の

民望を墾げて地方官とし︑在地勢力を末端官僚に編成しようとする

ものであろうから︑これらに先立って行われた︑﹁︵永興︶五年⁝二

月⁝庚午⁝詔︒分造使者︒尊母逸◎其豪門書写︒爲州間所推者︒及

有丈武才幹︒臨三瀬決︒或有先賢之世膏︒徳行清美︒學優義博︒可

爲人師者︒各令詣京師︒當適才叙用︒以喪家︒﹂︵引書3太宗本紀︶というと

ころのものと同一趣旨であると考えられるQこの詔には︑豪早智族

のみならす︑優秀な人材を採用するとはなっているが︑具体的には豪

族彊門であったに相違ない︒とすれば︑民望なるものも︑子爵には

在地豪族であったと考えて大過あるまい︒先述の嚢陽民望というの

も︑南朝治下の嚢陽の土蒲勢力が内附しようとしたものであろう︒

 撚るに孝荘本紀の場合は如何に解すべぎであろうか︒これが州里

の豪族でないことは明かであって︑孝荘帝の父は高声の弟彰城王総

であるが︑孝荘本紀によるに︑﹁帝家有忠勲︒且兼民望Q﹂とある

から︑それは彰城王について言われたことと解すべきである︒彰城

王の傳︵魏書21下︶覧るに︑例えば王が馨られた時のことに書︑魏

既有大功於國︒無罪毒害︒百姓宛之︒行路士女︒流涕題言日︒高令

公柱殺如此O賢王在朝︒貴賎莫不喪氣Oしと見えるところによって も︑彼が一般民衆の敬愛するところであったことを知る︒これが︑ 彰城王が︑忠勲あるのみならす︑民望を兼ねるといわれる所似であ

ろう︒この場合の民望は︑善管や斐顧が﹁民之動転﹂といわれたと

ころと至く同一のものであることは明かであって︑天下の民衆の望

むところのものを指していると見るべぎである︒然らば民望という

場合︑ ︵1︶︑原來的な意味をそのままに︑民衆ののぞむところとい

う場合と︑︵2︶︑︵1︶の如き意味を含みつつも︑尚具体的には重宝 における土着勢力を指す場合とがあったと考うべきであろう︒前述 配管の場合は︑勿論後者として考えられる︒然るに︑階書︵66︶装政 傳によるに︑ ﹁藝大業紅熱︒此民望也︒若殺之Q町民州不可下突︒ 因得縄︒﹂とみえる︒これは荊州を園んだ野師を拒むため︑王琳と 共に梁師を率いていた斐政が︑捕えられて殺されようとした時のこ とである︒この民望は如何に考うべきであろうかQこれを︵1︶の 如き意にとれば︑嚢政は天下の民衆の望むところであったか否かが 問題となるし︑ ︵2︶の場合と考えれば︑政が三州の在地勢力であ ったか否かが明かにせられねばならぬQ勿論斐政は天下知名の士で はない︒一方︑荊州の在地勢力であるという確たる証擦もない︒併 し筆者はこれは︵1︶の場合ではないかと想定する︒理由は以下の如 くである︒即ち︑直酒は捕えられた後︑巡演城下に引立てられ︑ ﹁ 王僧辮は自立しで帝王となり︑上領の勢力は孤弱で援けに直ること はできない︒﹂と告げよと迫られたのに︑彼は反って︑ ﹁援兵大至︒

急自運︒﹂と諮に向って告げたのであった︒︵晴書66裟政伝︶その爲に

殺されようとした時︑察大業の言ったものが前述の言葉である︒此

の非常の場合に予ては︑王琳︑斐政は返字人士の待ち望んだところ

の人物であり︑民望と見られるに相呈しい人物であろう︒荊州人心

の牧掩という意味からならば︑周側としては軍なる一土着勢力の生

殺に拘泥する筈もなく︑矢張り︵1︶の場合と見るべきであろう︒こ

のように︑これも亦︵1︶の場合であると見れば︑魏産血來北朝を通

じてこの二つの用法が行われたと見るべきである︒

 さて︑宮川氏が取上げられた第二の場合の民望について︑少しく 老妻加えよう︒宮川氏も既に指至れた如人畜︶︑在地勢に

は︑民望と呼ばれたものの外に︑念望︑族望と呼ばれたものもあり

同じく土着勢力であって︑その中に身分的遠忌の分化が行われてい たようである︒今︑それを明かにするために︑金石薬包︵29︶直話龍

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清即興︑同書︵30︶敬史尊邸を資料とする︒張工龍清薄墨は︑北魏正

光三年正月の建立︑敬史君碑は興和二年の建立で東魏時代のもであ

るから︑二者共に北魏時代の地方實情を知る手掛りとなりうる︒

 先づ張猛龍清子碑から考察するに︑碑陰に記された︑艶聞碑建設

關係卿名を記した形式を略述すれば︑前列に郡申正︑申正︑郡吏︑

縣令等を記した次に︑

 魯駐車望等   孔文章︑章苓⁝⁝︵計三十名︶

 ︵下級郡吏僚名︵客︶︶

魯縣族望 南陽縣族望

翌夕族望 陽一路族望

一図族望 新町縣族望 □累 層黄牛 徐伯援 臭安世 篤伯日

田忘烏 ロ從援⁝⁝︵計四十一名︶  高文景⁝⁝︵計九名︶       ︵一名︶

一刀   ︵二名︶

陳道樹⁝⁝︵計三名︶

   ⁝⁝︵計二十一名︶

と見える︒細書︵06中1︶諺志によれば︑空前には︑魯︑蕩︑郷︑

陽不︑新陽の五平がみえるだけであるが︑此碑によれば︑その外に

弁識があったと思われるQ

 いまこの碑について考察するに︑これが頚古碑である關係からか︑

割判の有力者達が︑公式的な行政的︑肚會的秩序に從って名を蓮ね

ていることは先づ注意しておかねばならぬ︒さで︑この記録によっ

て士望︑族望についてみるに︑士気は魯郡全体に關して記され︑族

望は各粒子に記されている︒縣に於ても︑魯縣の如く極めて多いと

ころと︑都島の如く一名に過ぎない縣もある︒從って士望と呼ばれ︑

族望と呼ばれた人達の間には︑一四丁禽的身分の相違があったであ

ろう︒地形志では各縣の戸口は不明であるが︑魯郡全体で戸門前五

千一百六十とある︒士望に罪する家は三十戸︑族望に属するものは

北朝に於ける民望の意義についてハ矢野︶ 七十七戸である︒この二字も亦爾者の肚會的身分の相違を思わせ る︒  さて︑早耳の身分的階暦性を最もはつぎりと示すものは︑碑に見 られる記載序列である◎前述の如く︑議案の次に願望があげられ︑ 次に下級郡吏があげられ︑その次に族望がある︒これは︑郡の士望 といわれる人汝は︑行政官としての縣令の上に名を蓮ねることは出 來ないにしても︑その置生的地位は高く︑その故に下級郡吏の上に 名を蓮ねたものであろう︒士望とは元來は前述の如く︑士人聞に於 けるのぞまれるものとしての意味をもつていたであろうが︑それが 韓.

サして士としての階層たる有力宗族を指すものとなったものであ

ろう︒一方︑族望は郡の下級吏僚の下に名を蓮ねていることからみ

て︑一般庶民における有力者であったと思われる︒先に指摘した如

く︑この碑の公式的な記載序列からみて︑以上の如く考えるのは無

理ではないであろう︒

 ︐更に︑士望三十人の中で最も多いのは王氏で九人︑次は一一五人

章氏三人︑條氏二人︑謹聴二人︑他は各一人乃至不明者である︒即

ち︑王︑孔︑章などの同族勢力が魯郡に分布していたと思われる︒ ところが族望については︑魯縣に於て張氏八人︑顔氏四人︑王氏三

人の如くで他は各種の姓であり︑汝陽縣では彰氏︑孫氏二人︑新陽

縣では田氏九人︑雷氏六人︑梅氏二人の如くで︑黒星に於て︑強調

有力な同族を擁していたと思われるが︑注すべきは︑男望と族望と

の姓が殆ど異っていることで︑このことは爾者の闘に殆ど血縁寸恩

がなかったことを証するものである◎從って又︑それらは翠黛土着

勢力であり乍らも︑士に属する階暦と庶民としての魚棚とは戴然た

る分化を示していたと考えてよいであろう︒

 ただここに不思議に思われるのは︑貞糊氏族志淺雀における魯郡

の條には︑夏︑孔︑車︑唐︐曲︑粟︑齊の七十があげられているの

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北朝に於げる民望の意義について︵矢野︶

みで︑ここに寛げられた士望と一致するのは僅に孔氏のみであるこ

とである︒士望中の孔氏はいうまでもなく孔子の子孫の一族であり

章氏は都魯の大儒といわれた章賢の子孫であろうことは殆ど誤り

ある窪︵筆者末発表論交章氏研究︶︒然・︒にこれらの士漿贔氏族志に孔氏

以外全く見られないのは︑一体如何に解すべきであろうか︒貞観初

年までの僅か百余年の間に︑王氏︑章氏等の没落︑他氏の勃興等が

あったとすべきであろうか︒若し駆りとすれば︑余りにも臥しい榮

枯盛衰とすべきであるが︑果して左様であろうか︑未だ筆者の解し

得ないところである︒

 次に︑敬皮君碑をみるに︑前碑と異って︑故頴川太守梁洪雅の建

つるところの暉静寺を︑敬顯傭が修造したのを讃めたたえる碑であ

って︑寺を中心とした極めて庶民的な形の下で建てられたもののよ

うである︒それでも碑陰に蓮らねられた姓名の早牛には︑概ね太守︑

翁忌︑斎宮高級吏僚の官職名が記され︑牛ばごろから︑民望︑都民

望の語が︑種汝の下級吏僚と思われる人六と共に記されている︒誠

に雑然たる書法であるが︑これば寺を中心とした慈恵的結合である

から︑行政的︑或は穂落的身分は余り強く出されていないが故であ

ると思われる︒この碑にあげられている民望は三十名︑都民望は陳

樹一名である︒民望の中で多い姓は孫氏六人︑飯氏三人︑韓氏三人

趙氏三人︑宋氏二人︑軽羅二人で︑欠落の爲不明なるものが多少あ

るにしても︑孫氏を除ぞけば︑それほど同族が多いわ0︐でもない︒

けれども︑これらは︑金石葦・編の編者王剥も推定している如く︑﹁皆 郡人痘毒﹂であること繍襟桑穣︶︑前述の素勢とし

ての民望たること問題あるまい︒

 この民望が︑魯郡に於ける士望にあたるか族望にあたるかは不明

であるが︑この記録が何等公式的記載ではないことからみて︑恐ち

く爾者を含んだものと震えてよいのではあるまいかQ地域差がある から.聖岳なことばいえないにしても︐︑魯郡が一萬五千余戸の中︑ 士望︑族望合せて百七家であるに封.して︑頴川郡は戸八千三百九十 六︵鰭志︶であるのに︑量︑都塁合せて三+豪にすぎない ことからも察せられる︒但し都民望なるものが一名だけであげられ ているのは︑特に名望家と目された家なのであろうか◎州主簿︑州 都︑別駕︑論功曹に夫汝陳氏が見えるのもこの推定を裏附けるもの であろう︒貞観氏族志残月によるに︑穎川郡には︑陳︑筍︑韓︑ 鍾︑許︑庚︑庫の七宝が見える︒.陳氏が最高の家柄であり︑韓︑許 氏等と共に唐代まで績いたものと思われるが︑孫氏︑趙氏なでは姿 を噂している︒  さて︑ここでも一度士望︑族望︑民望聞の關係について振返って みよう︒今までに筆者の得た結論は︑士風は士階層に噂し︑族望は 庶民に厨し︑民望は何れをも含むということである︒宮川氏は前 述の如く︑民望は庶民の豪族であるとされるが︑それは誤りであ る︒上述の推定のみならす︑前孔鄭蒙の如きも亦民望と呼ばれて いるが︑鄭裁の家が禁陽血温の門閥に属することは明かな事實であ って︵周嘉猶﹁南北世系表︑及筆者︑未発表論交郵氏厨究︶︑鄭氏を腱属するとするのは塞 に聞違である︒從って︑民望という時は重い意味での在地勢力とす べきであって︑士望︑族望を含むものと見るべきである︒  さて然らば︑士望︑族望という場合︑張猛二重にみた如く制然た るものがあるのか否か︒かかる疑問を起さざるを得ないのは︑前引 高冗傳の︑﹁顯祀不青黛︒徒其族望於代︒﹂というのに写して︑同 じ事件に書婁伯縫は︵魏書24︶﹁三従青齊三蓋︑共︵崔︶道固守 城者︑勲百家於桑乾︒立亭齊郡於軍城西北北新城︒﹂と記してい るからである︒ここでは族望と士望とを同様に用いているのであっ て︑而も高倉傳の族望が︑實際には士人を指しているであろうこと は︑隠事傳に広いて︑﹁雨意士人︒流移遠至︑牽皆飢寒︒﹂とて︑

(6)

士人の流離を指摘していることからも推察される︒資料としては時 袋降るので蕩とはいえないかも知れ塗が︑文苑菱︵609︶の唐

賂太子太師崔公聯道碑に︑ ﹁榮傘寿濫之三子︒⁝趙郡藁蓑三四子︒ 士誇+四人覆︒﹂とあるものが︑太震悪難︶首引の堅

塁異には︑ ﹁以⁝.音響︒⁝⁝趙郡︑随西二李等七予想族望︒阯

盟旧 K姓爲婚︒﹂とみえて︑士魂と族望とが同様に用いられているこ

とも参照すべぎであるGこのように見れば︑士望といい︑族望とい

っても張猛龍碑の場合の如く︑常に判然と旺別せられたわけでもな

いようである︒

 更に︑魏書︵50︶慕容白曜傳をみるに︑高允傳︑崔玄伯傳と同じ事

件について︑ ﹁乃徒二城民望於下館︒朝廷置亭齊郡懐旧︑露安二

縣︒以居之︒自余悉爲奴碑︒分賜百官︒﹂とみえる︒民望が士望︑

族望を含むという前述推定によれば何も不思議ではないが︑この場

合並に鄭氏にみる如く︑同一の入汝が士望︑族望︑民望と三檬の構

呼を與えられていることからみれば︑當時一般にはこれらの用語に

はそれほど嚴密な旺別は老えられなかったのであろう︒では︑筆者

の碑文による推定は誤であろうか︒筆者はそうは考えない︒民闇に

於て杜會的階層をはっきりさすべぎ必要のある場合は︑士望︑族望

の如きは嚴格に涯別されたであろう︒けれども元來それらの言葉は

﹁望﹂即ち︑他からのぞまれるものであるところに重点があったの

であって︑從って輩に﹁江東首望﹂とか︑﹁河東之望﹂とかいわれ たわけであり︑士望︑族望︑民望何れも土着の人汝から仰がれる﹁

望族﹂であったことは同様で︑從って土着の士であった場合は何れ

の言葉も用いられ得たわけであろう︒ただ︑土借勢力中でも士庶を

明かにする必要のある場合︑士に屡するものを特に士望と構したと

考えることはできないであろうか︒  爾宮川氏の言及せられなかった構呼として郷望なるものがあっ

北朝に於ける民望の意義について︵矢野︶

た︒例えば金石績編︵1︶の寧州刺史﹁嚢龍顔碑に︑︑郷望標於四姓︒し

と見えるところによって民望︑士望と同様に用いちれた里国なるど

とを智︵葦陽国志︑︵4︶南申志︑三国志蜀志︵13︶李恢伝︑三二78毅瑛伝参照︶︒

 以上︑民望について述べたが︑それには二つの用法があり︑これ

を土着勢力と見る場合でも士庶の庶の意に解すべきではなく︑士庶

何れにも通する民器の土着勢力として解すべきことを指摘し得たと

思う︒

¢ め

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