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「歌うアイステッズヴォッド」における労働者の身体 ―

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「歌うアイステッズヴォッド」における労働者の身体

‑19世紀後半 におけるウェールズ民衆のイメージに関する考察 一―

The Worker's Body in the Choral Eisteddfod; the Image of the Gwerin in the late 19th Century Wales

Kazuya MORINO

(平成 12年10月 10日受理)

0.イン トロダクシ ョン

本論 は、Morino(1995)に 続 くもの として、18世紀末 に復興 されたウェールズの民族文化大 祭アイステ ッズヴォッド(eisteddfod)が 、ウェールズにおける民族的アイデンテ ィティの構築 や「伝統文化」の発展 に果た した役割 を跡付 けようとするものである。

19世紀 は産業革命の進行 と共 に労働者階級の台頭が英国で見 られた時期である。南部の炭鉱 地帯 を中心 に産業化 してい くウェールズにおいて、アイステ ッズヴォッドは労働者 を内側 に取 り込む ことにより、新たなナショナル 0イ メージを作 り出 してい く。民衆、ウェールズ語で言 うところの「 グウェリン」 (gwerin)の ウェールズの登場である。本論では、上流階級の音頭取 りの もとで文学的祭典 の色合いの濃かったアイステ ッズヴォッドが、19世紀の中盤か ら後半 に かけて、 コーラル 0コ ンペティションの要素 を増や しなが ら「民衆」のアイステ ッズヴォッド ヘ と移行 してい く過程 を考察 していきたい。

アイステッズヴォッドは、ウェールズ語定型詩のコンテス トを中心 に、文学的創作や音楽の 演奏・ コーラスな どを競 うウェールズ文化の祭典で、その起源 はバル ドと呼ばれる詩人の競技 (13世)に さかのぼるとされ、現在では、ロイヤル・ ナショナル・ アイステッズヴォッド の名の もとに、年1回、南北 ウェールズで交互 に場所 を変 え開催 されている。先の論考では、

18世紀後半 に活発化するウェールズの文化復興運動のいわば白眉 としてアイステ ッズヴォッド が復活 され、 ドルイ ド(古代 の神官)や古代遺跡な どのイメージを借 りることで「伝統」や「権 威」を演出 しなが ら、19世紀中盤 に南北 ウェールズを統一する規模の、「ナショナルな」式典 と

して整備 されていった経緯 を跡付 けた。 ここでは、アイステ ッズヴォッドを媒体 に生産 され る

「 ウェールズ」のナショナル・イメージの根拠 は、 ドルイ ドやバル ドが表象する古代 に置かれ、

そうしたイメージの発信者 となったのは主 としてジェン トリや国教会の高位聖職者、あるいは ロン ドンの富裕 なウェールズ系住民であった。

一方、19世紀半ばか ら一般化す る「 ウェールズ人」の自己定義 は、ウェールズ語 を話 し、ノ ンコンフォー ミス ト (非イングラン ド国教会教徒)である労働者、つまリグウェリンを中心 と した ものになっている。従 って、上述 したような初期のアイステ ッズヴォッドと、19世紀後半、

ノンコンフォー ミス トを中心に行われた新 しい「民衆」のアイステ ッズヴォッドの間には一見

︲ n

 n

(2)

森 野

大 きな断絶があるように思われ る。だが果た して本当にそうであったのだろうか。

一般的には、上・中流階級 による「上か らの」アイステッズヴォッド、 ドルイ ドのバーディッ ク・ アイステ ッズヴォッドが労働者 を中心 とす るアイステ ッズヴォッド、グウェリンのコーラ ル・ アイステ ッズヴォッドヘ移行するのは、1847年 の「ブルー・ ブックス」 (the Blue Books) の影響 として捉 えられてきた (たとえば P.MOrgan,1983)。 ブルー・ ブックス とは、ィングラ

ン ドの教育視察官が まとめた3巻か らなるレポー トの ことで、 ウェールズ住民 は教育、モラル の水準が低 く、それはウェールズ語のモノグロッ トであることに原因があるとの報告がなされ ていた。ブルー・ ブックスはノンコンフォー ミス トを中心 としたウェールズの教育者 0社会改 革論者 らに衝撃 と義憤 を与 え、 ウェールズ大学や国立図書館の建設運動 に発展 してい くととも に、ナショナル 0ア イステ ッズヴォッドについて も、民衆の教化 と科学・ 知識 0近代的産業の 発展の場 として活用 してい くための改革がなされてい くことになる。 ノンコンフォー ミス トの アイステ ッズヴォッドにおける労働者のクフイアの活躍 は、 ドルイ ドやバル ドの古代イメージ に典拠 した初期のアイステ ッズヴォッドが、ブルー・ ブックス という外圧 により、 きわめて ド ラマティックかつ根本的に内容上の変化 を生んだ事 を端的に示 した もの と従来は解釈 されてき た。 しか し19世紀後半 におけるグウェリンのアイステ ッズヴォッドヘの移行 は、そのような歴 史上のある一点 を指 し示す ものではな く、実際には、それ までの上流階級 を中心 とする文学的 祭典 としてのアイステ ッズヴォッドとい う大枠 を崩 さないで、あるいは二つが両立 しなが ら、

グウェリンのアイステ ッズヴォッドヘ移 っていったのであ り、根本的にアイステッズヴォッド の概念が変わって しまったわけではない と思われる。本論では、この二つのアイステ ッズヴォッ ドを橋渡 しす る存在 として、1830年代のアベルガヴニー(Abergavenny)の アイステ ッズヴォッ ドを考 えるところか ら始めたい。

1. Abergavenny1830s

MorinO(1995)で示 したように、近代的アイステ ッズヴォッドの復活 は18世紀末のロンドン に端 を発 してい る。バル ドの後継者 を自称 す るイオ ロ・ モルガヌーク (̀Iolo Morganwg', Edward Williams:1747‐ 1826)がロン ドンのプ リムローズヒル (PrimerOse Hill)で ゴルセッ (Gorsedd)というバル ドの儀式 を復活 した (実はイオロによる発明)と きだ。 この稀代の詐 欺師 をウェールズヘの望郷の念か ら支援 したのが、ロン ドン在住、ウェールズ出身のロンドン・

ウェルシュだった。彼 らの創始 したグィネズ ィギオ ン協会 (Gwyneddigion Society)は 、ウェー ルズのアイステッズヴォッドの開催 にかかわ り、1819年 にはアイステッズヴォッドとゴルセ ッ ズの儀式 はカマーゼン (Camarthen)で結びつ くことになる。 この とき、地元 ウェールズか ら バ ックアップしたのは、バージェス主教 (Bishop Thomas Burgess:1756…1837)を中心 とし たイングラン ド国教会の面々だ。 ノンコンフォー ミス トの影響で民衆の心が離れていった と感

じていた教会 は、アイステ ッズヴォッドで民衆の心 を勝 ち取 ろうとしたのだった。

1819年のアイステ ッズヴォッドの成功 により、その後 ウェールズ各地で様々な規模のアイス テッズヴォッ ドが開催 されるようになる。 とりわけ南 ウェールズのマーケッ トタウン、アベル ガヴニーで は1834年 か ら1853年 の間 に10回のアイステ ッズ ヴォッドが開かれた。アベルガヴ ニーでのアイステッズヴォッドは、ジェン トリや聖職者による「上からの」アイステッズヴォッ ドではあったが、「民衆」が重要な構成要素 として登場 していた点、注 目すべ きである。そして 民衆のクローズ・ アップは、主催者の一人であるラノーバー夫人 (Lady Llanover,Augusta

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Hall:1802…1896)の労働者 に対す る関心のあ り方 と無縁ではない。

ラノーバーの家 は、昔なが らのジェン トリや国教会の主教 といった上流階級ではな く、産業 革命の生み出 した新興 ジェン トリであ り、労働者 に対す る興味が より強かった と推察 される。

夫人の夫ベ ンジャミン・ ホール (Beniamin Hall:1802‐ 1867)はアベルカー ン (Abercam)に

炭鉱及び製鉄所、 リムニー (Rhymney)に製鉄所 を所有 し、1832年 モ ンマス (MOnmouth)の

M.P.に 選 ばれ、1838年 には準男爵、1859年 にはラノーバー男爵になっている1。 産業革命の生み 出 した典型的な新興 ジェン トリであ り、ノンコンフォー ミス トのシンパだった。 この時代 ロマ ンティシズムを背景 に農民の理想化 されたイメージが登場 して くるが、 ラノーバー夫人の場合 はたんなる民衆 に対す るロマンティックな関心 ばか りではなかった と思われ る2。 夫の工場で雇 用す る労働者の教育や福祉、健康、生活の向上 といった問題 は、工場の生産性 にもかかわるこ

とであったか らだ。お りしもラノーバー夫人がアベルガヴニーでアイステッズヴォッド開催 に かかわった1830年 代 は、中流階級が労働者の健全な娯楽 について問題提起 をしだす時期である (Croll,1992,18)。 新興 ジェン トリに とって も、「健全 さ」(̀respectability')は旧来の支配階 級以上 に敏感 にな らざるをえない ところであった。 ラノーバーは自分の抱 く「健全 さ」の基準

を労働者 にも要求 し、 ウェールズ民衆のイメージ作 りに腐心することになる。

ラノーバー夫人 が労働者 に目を向 ける先導役 となったの は、 トマス・ プライス (Thomas Price:1787‑1848)である。1847年 のブルー・ブックスを遡 ること4半世紀前、彼 はウェルシュ プール (Welshpool)の アイステ ッズヴォッドで、 ウェールズ語 を話す教養あるグウェリン像 を 提供 している。

The Welsh language is at the present day to the Welsh peasant a much more cultivated and literary rnediunl of knowledge than English is to the Englishman of the same class...Show me anotherlanguage in the world in which such a body of knowledge is found in the hands of the coFrmOn people。 (Quoted in G.Evans, 1988,224).

彼 は、クムデ ィ(Cwmdu)に ウェールズ語 で教育 す る学校 を設立 し、それ に触発 された ラノー バ ー夫人 は、スラン ドヴェ リ校 (Llandovery College)の 用地 をウェールズ語での教育 を条件 に買 い求 めて い る。 また ラ ノーバ ー夫人 は自分 の敷地 内 に ウェール ズ語 で サー ヴ ィス を行 う チ ャペル を建 て るな どウェールズ語 の振興 を常 に考 えていた3。

さ らに、 ラノーバ ー夫人 は「 モ ラル高 い」 ウェールズ民衆 の身体 を包 む「民族衣装」 も創造 してい る(森野、1998)。 アベルガヴニーのアイステ ッズ ヴォッ ドで は、開会 にあた って街 の沿 道 に夫人考案 の「民族衣装」をま とった民衆 が居並 び、陽気 な歓声 と共 に到着す る主教、M.P.

な どの来賓 を歓迎 してい る4。 グゥェ リンのアイステ ッズ ヴォッ ドヘ の橋渡 しとして、アベルガ ヴニーで は民衆 が、 この ような形 で表舞台 に立 ったのであ る。 ただ し上流階級 の庇護 を素直 に 受 け入れ る、モ ラル正 しい「 きれ いな」民衆 が意 図 されていたので はあったが。

民衆 に焦点 を当てた という点で、 この「民族衣装」の「創造」はアベルガヴニー0アイステ ッ ズヴォッドの大 きな成果の一つであるが、 この他 にも「民族衣装」同様、民衆 を指 し示す表象 として トリプル・ ハープの「創造」があった。 トリプル・ ハープは、普通のハープより小 さ く 手 にもつ ことのできるもので、16世紀イタ リアに起源があるとされる。 ラノーバー夫人 は、 こ

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れをウェールズ古来の「伝統的」楽器 として復活 させ ようとしたのである。ジェン トリの館 に 雇われたハーピス トが弾いていたのはペダル式のハープだった。 そのような職業的ハーピス ト の楽器 としてではな く、 ウェールズー般民衆の奏でる「民族楽器」 として、 トリプル・ ハープ は「創造」 されたのである。夫人 は トリプル・ ハープを作 る工場 を建て、アベルガヴニー・ ア イステッズ ヴォッドの賞金 として も提供 してい る。1838年 アベ ル ガ ヴニーの アイス テッズ ヴォッドでは、ブ リジェン ド(Bridgend)生まれのジョン・ トーマス(JOhn Thomas̀Pencerdd Gwalia':1826‑1913)が弱冠12歳 で優勝、 トリプル・ハープをもらっている。彼はその後 ロン ド

ンで勉学 を積み、ヴィク トリア女王のハーピス トを経て王立音楽学校のハープの教授 になった ほか (Stead,1998,116‐7)、「ペ ンケルズ・グワリア」のバル ド名でウェールズ人 にも親 しまれ、

ロン ドン・ ウェル シュとして故郷の音楽文化振興 に尽 くす ことになる。

トリプル・ハープの推進者である、 ピアニス トにして作曲家 ブ リンリー・ リチャーズ(Brinley Richards:1817‐ 85)も、ラノーバー夫人同様、上流階級 と労働者 を橋渡 しする社会的地位 にい た といえる。 リチャーズは、教会のオルガン奏者で音楽店経営者の息子 としてカマーゼンに生 まれ、1834年 カーディフ城 のアイステッズ ヴォッドで ウェールズ民謡「スル ウィン・ オ ン」

(̀Llwyn Onn')(The Ash GrOve)の変奏曲で賞 を取 り、ニューカ ッスル (Newcastle)の 爵 を始め とする人々の後援 を得て、ロン ドン、パ リで音楽 を学んでいる5。 ゥェ̲ルズ生 まれ と

はいえ、彼 はアング リカンで中流階級、 ウェールズ語 も話せず、活動の場 はロンドンだった。

しか し1863年 には、ケイ リオグ (̀CeiriOg')(John ceiriog Hughes)の 詩6を もとに「 プ リンス・

オブ・ウェールズよ永遠 なれ」(̀God Bless the Prince of Wales')を つ くり人気 を博 し、ウェー ルズでのアイステッズヴォッドにたびたび審査員 としてやってきている。ジョン・ トーマス同 様 ロン ドンにいて、ウェールズか ら奨学金やパ トロンを得てやって くる才能 ある音楽家のネッ トワークの中心で もあった。 ジ ョン・ トーマスは、1872年 ロン ドン・ ウェルシュ・ コーラス連 (London Welsh ChOral Union)を結成 している。

コーラル・ トラディションとの関連で述べるならば、1837年 のアベルガヴニーのアイステッ ズヴォッドでは、マ リア・ ジェーン・ ウィリアムズ (Maria Jane Williams)が 、南 ウェール ズの民族音楽曲集 (Ancient National Airs of Gwent and Morganwg)を 編纂 し賞 をとった ことも挙 げてお く必要がある。 これは1844年 に出版 され、それ以降相次いで出版 される一般向 けウェールズ音楽曲集の端緒 となる。た とえば1845年 には、ジョン0トーマス (JOhn Thomas,

̀Ieuan Ddu')の 動 ι αttιttα%″s′π′、1848年 には、前述のバルズ・アラウの ZttJs力 助 ψιγ が続 き、1860年 代 には同様の音楽集が多数出版 された。これ らの集大成 とも呼べるべ きものが、

1873年ブ リンリー・ リチャーズによる「 ウェールズ歌曲集」6物邸 グ ラJas)であ り、 これ は第一次世界大戦 まで聖書 と並ぶ存在 として、「谷」(南ウェールズ炭鉱地域の総称、後述)で

は一家 に一冊おかれるようになる。 リチャーズ自身は労働者 と直接かかわることはなかった と 思われるが、彼の歌曲集 は、 このような形でウェールズ労働者の間にコーラル・ トラディショ ンを培 うのに一役買った といえよう。

Betts(1978,16)も指摘するように、 ラノーバー夫人 らが主催 したアベルガヴニーのアイス テ ッズヴォッドはあ くまで もジェン トリのための ものであ り、彼 らの行 うスピーチはほとん ど の場合、英語だった。 しか し、1860年 になって「谷」の発展 とともにウェールズ語 を話す労働 者が合唱隊 となってアイステッズヴォッドの壇上 に上がろうとした時、その布石は、すでにア ベルガヴニーを通 じて用意 されていた といえる。民族衣装に正装 して祭典 を彩 る民衆、 トリプ

(5)

ル・ハープによる民謡の演奏 といった ものは、 まだたぶんに、上流階級の空想の中の理想的「民 衆」イメージにす ぎなかったが、それ らが、炭鉱労働者が集 まり、生活の場が形成 され る「谷」

の音楽文化やチャペルの活動 と有機的に結びつ くことにより、後期 のアイステ ッズヴォッドは 新たな展開を遂 げることになる。

2. Va!!eys1860s

南 ウェールズの「谷」 は、産業革命の影響 をウェールズにおいて もっ とも典型的な形で表象 する場所である。地図を開いてみると、スウォンジー (Swansea)、 カーディフ(Cardiff)、 ニュー ポー ト(Newport)な どの港へ向かって、い くつ もの渓谷が南北 に平行 に走 っているのがわか る。炭鉱 を中心 とした これ らの「谷」 は、産業革命の中心 として19世紀多 くの労働者 を近隣か ら招 き寄せた。上水道の整備 もままな らず、炭鉱夫たちはの どの癒 しをアル コァルに求 める。

飲 んで騒 いで問題 を起 こす。 これが新興中流階級の懸念 となる。た とえば、1847年 、 ドーラス (Dowlais)には200軒のパ ブがあった。1854年 マーサ・ タ ドヴィル (Merthyr Tydfil)には、

クールー・バ ッハ (cwrw bach)と呼 ばれ る不法酒場 を除いて も506の 酒場があ り、川岸の不法 地帯 は、「チャイナ」 (̀China')と 呼ばれていた。1860年 には、カーディフ、マーサ・ タ ドヴィ ル、スウォンジー、ニース(Neath)に は1700人 を超 える売春婦がいた とされ る(N.Evans,1988,

15)。 この時期の 物 ′磁ノγ働ク鶴sは、酔 っ払いの行状 に対する中流階級の批判 にことかかない。

「チャイナ」の売春婦 に とって も酒 は麻薬のように作用 した ことがわかる。

Ann Jenkins a China prostitute called upon me..。 she is forty years of age, married and lived with her husband several years before he gave hilnself up to drink ―not giving her any support and at tiFneS abused her shamefully¨ .and falling into bad company she began to drink to excess and at last gave herself up to prostitutiono National Library of Wales 1/1S4943(B):

1856年か らは警察がすべての州や郡 に置かれ ることになるが、中流階級 として も労働者たち にまっとうな娯楽 を与 える必要に迫 られ る。 ここで選 ばれたのが、音楽である。音楽 はヴィク トリア時代 の もっ とも健全で、もっ とも有効 な社会操作の手段 と考 えられていた(Best,1979)。

ウェールズのみな らず英国全土 に目を移 してみて も、19世紀 における労働者の娯楽 としての音 楽文化の隆盛 には目を見張 るものがある。 ヨークシャーな どヴィク トリア朝の炭鉱 0製鉄業地 帯では、労働者のブラスバ ン ドが活躍す る (これは現在で も言 えることであ り、た とえば『ブ

ラス』 とい う映画 によ く描かれている)。

労働者のバ ン ドに関す る最 も古い記録 は、1817年 、 ウェールズのグウェン ト (Gwent)の

レイナ (Blaina)の 製鉄所で結成 された もの とされる(Do Evans,1986)。 その後1844年 には「カ ヴァルスヴァ・ ブラスバ ン ド」(Cyfarthfa Brass Band)が 、カヴァルスヴァの製鉄所 を所有 していたロバー ト・ トムプソン・ クラシェイ (Robert Thompson Crawshay:1817‑79)によっ て設立 されている。 自分が建 てた壮大 なカヴァルスヴァ御殿 (Cyfarthfa Castle)で 客 をもてな すのが当初 の目的だった とはいえ (Ho Williams,1980,106)、 カヴアルスヴァ・ バ ン ドを中心 に音 楽 はマーサ の労働 者 の 中 に確 実 に根 付 い て ゆ く。チャール ズ・ ディケ ンズ (Charles

Dickens)が編集す るロン ドンの雑誌 に載 った以下のような記述がそれを示 している。

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184      

森 野 和 弥

When visiting Merthyr was exceedingly puzzled by hearing boys in the Cyfarthfa works whistling airs rarely heard except in the fashionable banr。。ms,。 pera houses or drawing rooms.He afterwards discovered that the proprietor of the works, Mr Robert Crawshay, had estabHshed among his workers a brass band.¨ (Iゐ郷ι力θ″ l後,%お,May ll,1850)

クラシェイは、楽団員 に揃いの衣装 をあつ らえ、優秀 な団員 にはバ ン ドを優先できるように 楽な仕事 を与 え、才能のある者 と見ればイングラン ドか らもリクルー トし(Herbert,1988,62)、

レベル向上 に努めた。その甲斐あって、カヴァルスヴァ・ バ ンドは1860年 ロンドンのクリスタ ル・ パ レスで優勝 している。

英国全土では労働者の音楽文化 といえば、 この時代、カヴァルスヴァのようなブラスバ ン ド が代表的だ。 ウェールズの場合、ブラスバ ン ドも盛 んではあったが、中核 を担ったのは、むし ろコーラスだった。1872年 及び73年 、南 ウェールズ・コーラス連合 (South Wales Choral union) がクリスタル・パ レス (Chrystal Palace)で 優勝 した ことは「歌の国」ウェールズの名 を不動 の ものにする。 ウェールズにおけるコーラスの隆盛 には、アイステッズヴォッドとチャペル と いうウェールズ独特の文化装置が大 きな役割 を果た していたのである。

3.チャベル とアイステッズヴォッ ド

3‑1  「谷」の音楽文化

アイステ ッズヴォッ ドの起源 はバル ドの祭典 と考 えられていた。バル ドとはハープを弾 きな が ら朗誦す る吟唱詩人 の ことであ り、 もともとアイステッズヴォッドと音楽の結びつ きは強 かつた といえる。19世紀後半にかけてのアイステッズヴォッドは、そこにさらにコーラスの競 技会 とい う要素 を付加することで、中世の詩の韻律規則 などを知 らない一般大衆で も参加で き、

賞 を競 うことができる、いわば「歌 うアイステッズヴォッド」に変容 してい く。詩人たちがチェ アの獲得 を求 めて詩 の技 を競 い合 うとい うスポーツ的要素があった ことか ら、アイステッズ ヴォッドはしばしばウェールズのオ リンピックの名で呼ばれた。アイステッズヴォッドでコー ラスのコンペティションが行われるようになると、観客席の労働者が自分たちのクワイアの勝 敗 を巡 って興奮 し、その様子 はフッ トボールの試合のようだった と言われる。独唱部門の賞 は、

ハープを伴 った伝統的なペニス リオン (penillion)に 限 られていたが、1858年 ごろにはハープ なしで もいい ことになった。1867年 カマーゼンのアイステッズヴォッドではコーラスにも賞金 が与 えられ るようにな り、マーサ・ タ ドヴィルのクフイアが優勝 している (J.H.Davies,1975,

132)。賞金額 は当時 としてはかな り多かったようで、血気盛 んな労働者たちの競争心 を くす ぐっ てぃた7。 ナショナル・アイステ ッズヴォッドで高尚な内容の ミサ曲が歌われていて も、観客の 方は勝敗 をめ ぐって賭 けに熱中 している(Go Williams,1998)。 ひいきのクフイアが負けた場合、

審査員の身 も安全 とはいえず、会場か ら宿への往復 に護衛がついた とい う (Stead,1988)。

アイステ ッズヴォッドの このような大衆化 を可能 にしたのは、チャペルを基盤 とした「谷」の 音楽文化であ り、その中心 はカノン渓谷 (CynOn Valley)に位置するアベルダレ (Aberdare) の街である。カノンでは1801年 か ら51年 にかけて人 口が、1486か ら14998に 急増 している。石炭 の産出は1841年 には12000ト ンだったが、1870年 には200万 を超 え、アベルダンは1870年代 ロン (Rhondda)が急激 な産業化 を迎 えるまでは、南 ウェールズ炭鉱地帯の中心 として機能 して

(7)

いプヒ。

「谷」へ と労働者が集中 して くると共 に、南 ウェールズの村々の歌 も「谷」へ と集 まってきた。

それ らは最初パ ブな どで歌われるだけだったが、やがて「谷」の出版文化 と結びつ き、村の歌 は 印刷 され、「谷」の街で売 られることになる。廉価 なバ ラー ドシー トの形で売 られた、 これ らの 歌 とは別 に、音楽 をより「 リスペ クタブル」な労働者の娯楽 とすべ く、 さまざまな出版活動が 19世紀後半の「谷」では準備 されていった。

ノンコンフォー ミス ト、エヴァン・ グウィス ト (̀Ieuan Gwyllt',John Roberts:1822‑77) は1858年 アベルダンで滅た多勧 γ(The Patriot)を編集 した後、隣町マーサ・ タ ドヴィ ルで ycだ aoγ L  (The welsh Musician)を刊行 している。「谷」の労働者の音楽的 関心 にこたえるためだった。以前のウェールズの大衆音楽雑誌が短命だったのに対 し、 これは 労働者の読者 を意識 して作 られていたため、1861年 3月 創刊か ら1873年 まで続いた。た とえば、

古典 コーラス曲にウェールズ語の歌詞 をつけた り、ウェールズ語で音楽用語が解説 されていた。

ハイ ドン、ベー トーヴェン、モーツァル ト、あるいはヴェルディの歌曲、ロンドンのコンサー ト記事 な どが並び、労働者たちの音楽的素養 を高めることが意図 された。 また当時、 ウェール ズ国内では各地の音楽協会 によって数々のコンサー トが開かれていた。 ウェールズの外か ら音 楽家がやって くるのはもちろんの こと、 ウェールズの労働者たち も、労働災害 に遭遇 した同僚 を救 う資金集 めに、あるいは学校 の建設資金 の足 しに とコンサー トを開いていた (Ambrose

1973,197)。 ycだα %に は、 こうしたウェールズ各地の様々なコンサー トの様子が

掲載 されている。 この雑誌 を含め、 ウェールズ全域で、1852年 か ら95年 の間に14の音楽雑誌が 創刊 されている。 これ らの出版 メディアはクラシック音楽の知識か ら身近 な音楽情報 まで様々

な音楽情報 を伝 えることにより、労働者層 に音楽 を浸透 させていったのである。

3‑2  チャベル と音楽

ウェールズで は、 ノ ンコンフォー ミス トのチャペルが1800年 か ら1850年 にか けて1300か ら 3800に 膨れ上がっている (G.Williams,1998,21)。 それに加 えアベルダンでは、成長 を続 ける 炭鉱産業の中心地 として、19世紀中葉 には大人数収容可能 な建物が次々 と完成 してい く。国教 会派の教会、ニュー・ マーケ ッ ト・ ホール (New Market Hall,1852)そ して1500人 収容可能 なテンペ ランス・ ホール (Temperance Hall,1858)な どである (Ambrose,1973,192)8。 れの建造物 は大人数 の観客 を集 めての コンサー トや コーラス競技会 を可能 にした。 ノンコン フォー ミス トにとっては、チャペルは単なる集会所で、たいてい平屋の簡素な代物だった。従 っ て、 コンサー トやアイステ ッズヴォッドな ど娯楽性の強い催 しにもあまり抵抗な く使用するこ とができたのである。 そしてほ とん どのチャペルには舞台が格納 されていて、必要な ときには 出 してきて使用 した (ToJ.Morgan,1980,118)。 オペ ラな どの劇場設備 を要するものは ミュー ジック・ ホールの出現 を待つ ことになるのだが、チャペルの この融通無碍な点 は、音楽演奏の ための恒常的な建築物が登場するまでの橋渡 し的存在 として機能 し、音楽文化の大衆化 に貢献 した といえる。 このような建物で、1859年 エヴァン・ グウィス トが、おそらくは最初の「カマ ンヴァ・ガニ (cymanfa ganu)」 と呼ばれ る賛美歌 を歌 うフェスティヴァルをアベルダンで行 っ ている (Ambrose,1973)。 グウイス トがカマ ンヴァを開いた意図は、宗教的、教育的見地か ら 会衆の歌のレベル と知識 を上 げることだった。同様 の意図か ら、チャペルでは「アスゴル0ガ

(ysgol gan)」 という歌の稽古 も開かれるようにな り、チャペルは、信仰 そして音楽文化の

(8)

森 野 和

中心 として機能 してい くことになる。そして このような賛美歌 を歌 う祭 りを可能 にしたのは、

新 しい楽譜読み取 り法だった。

1860年 代 に至 るまでのウェールズは宗教 リバイバルの時代である。新 しい指導者たちは、歌 の中に新 しいメッセージを込めることにより労働者 に教 えを伝 えようとした。 この目的に大 き

く貢献 したのが、簡便 な楽譜読み取 り法 トニ ック・ ソルファ方式である。ノンコンフォー ミス ト、 ジョン・カーウェン (JOhn Curwen)に よって1841年 、 日曜学校で紹介 された この方式 は、

1862年 エ レザー・ ロバーツ (Eleazar Roberts:1825¨ 1912)に よってウェールズ語 に翻訳 され、

1860年 代宗教的情熱の下 に瞬 く間にウェールズに広 まっていった9。 お りしも労働者階級 は文字 の読み方 をチャペルの 日曜学校 な どで習い始めた ときであ り、それに加 えて普通の五線譜 を読 む ことな ど至難の業だったであろう。 ソルファを通 じて音楽に親 じむようになった者 も多かっ た ようだ (Lewis,1976‐77)。 前述の音楽誌 ycだ d。″の物効 にも1866年 8月か ら1873年 の 最終号 まで、 トニ ック・ ソルファ方式でメンデルスゾー ンな どの曲が紹介 されている。1859年

には、エヴァン・ グウィス トのL″ attαπ q脇%JJa″(Congregational Hymn Book) が トニ ック・ ソルファ方式で出版 されている。459の 賛美歌、詠唱歌、聖歌 を収録 し、「19世紀 ウェールズで出版 された もっ とも重要な一冊」( the mOst important book published in

nineteenth‐century Wales")(G.Williams,1998,27)と される。彼 は1861年 にも 勧節ψ ケ P滋%′ (Treasury of the Children)と いう歌集 を出版 している。 ノンコンフォー ミス トの伝統 が トニ ック・ ソルファとい う新 しい技術 と出会い、ウェールズ音楽文化の核 を形成 してい くわ けである。 トニ ック・ ソルファ方式な くして労働者の「歌 うアイステッズヴォッド」はあ りえ なかった といえよう10。

3‑3  アイステッズヴォッ ドと音楽文化

「谷」の労働者の娯楽 として音楽が普及 したのは、上述のように音楽 を通 じての宗教的教化 やモラル、教養の向上 といったノンコンフォー ミス ト指導者の思惑によるところが大 きい。労 働者の歌 はチャペルやテンペ ランス 0ホ ールな どでの合唱 を通 じて リスペ クタブルな音楽へ と 変容 し、次第 にその発表の場 をアイステッズヴォッドに移す ことになる。労働者のコーラス も アイステ ッズヴォッドの壇上では、 ウェールズ歴史中の英雄 を歌 ったカンタータなど高尚なも のを歌 うのである。

このようなカンタータの例 としては、オフイン・ アラウ (Owain Alaw)の 「タウィソグ・

カム リ」″卵Qgの%)(The Prince of Wales,1862)がある。 これには1858年 スランゴ スレンのアイステ ッズヴォッドでチェアを獲得 したケイ リオグが歌詞 をつけている。同 じく、

ウェールズ最後の大公 を題材 に、前述のジョン・ トーマスことペ ンケルズ・ グワリアも「スラ ウェリン」物膨″π)を作曲。 これは、1863年 のスウォンジーでのアイステッズヴォッドのた めに書かれた ものである。以下、数多 くの国民的カンタータが作曲され、ナショナル・ アイス テ ッズヴォッドで歌われ、あるいは審査曲にな り広 まってい く。オワイン 0ア ラウの「グウィ ル 0グ ワリア」(Oηα″αJグα)(ウ ェールズの祭)、 J・ D・ ジョーンズ (J O D OJones)の 「ス リス・アル シール」(LJys 4効 物γ)(アーサー王の宮廷)、 1864年スランディ ドゥノ(Llandudno) でのアイステ ッズヴォッドで歌われたマーサのエ ドワー ド・ ロレンス (Edward Lawrence of Merthyr)の「ハーンフの包囲」 (説電cグ H物続め 、1866年 チェスター (Chester)ではペ ン ケルズ・ グワリアの「ニース谷の花嫁」(動ι Bttacグ物 物 施 滋が 、そして1870年 にはリー

(9)

(Rhyl)でエオス・ブラ ドウェン (Eos Bradwen)の 「オフイン・グ リン ドゥール」α勿 α″滋F)が歌われている。

現在 ウェールズ国歌 とされる「わが父祖の国」(̀Hen Wlad Fy Nhadau')は 「谷」の培 っ た労働者の音楽文化がアイステッズヴォッドを経てより広範 なナショナル・ ソングヘ と発展 し ていった好例である。1856年 ポンティプ リッズ(Pontypridd)の 機織業者 ジェイムズ父子(Evan and James James)に よってつ くられた この曲は、最初 は「谷の歌」(̀Song of the Valley')

と呼ばれ、労働者のコーラスで愛唱 されていた。 その後、1858年 のスランゴスレンでのアイス テ ッズヴォッドで歌われ、一般 にも広 く知 られ るところとなる。「わが父祖の国は、バル ドと歌 び とたちの くに」 と続 くこの歌 は、「歌の国」 としてのウェールズのナショナル・イメージを大 衆化す るのに寄与 した。

「谷」の労働者 を集 めたアベルダレ統一 クフイア (Aberdare United Choir)が 、スウォン ジーのアイステ ッズヴォ

'ド

で一位 を獲得 したのは、1863年 の ことだった。ナショナル・ アイ ステ ッズヴォッド以外 にも1860年代 を通 じて、様々な団体がアイステ ッズヴォッドを主催 し、

そこで労働者の合唱が活躍する。 これ らのアイステ ッズヴォッドは、従来のインではな くチャ ペルやテンペ ランス・ ホールで行われた。ノンコンフォー ミス ト運動の影響で飲酒 に変わる労 働者の余暇活動 として計画 されたか らである。 ウィリアム0グリフィズ (William Griffiths,

̀Ivander')は 、1860年 9月、毎年行われていたニース祭 り (Neath Fair)の日に合わせて、テ ンペ ランス祭 (Temperance Festival)を 行い、彼の率いるテンペ ランス合唱隊 (Temperance Choir)な どが参加 している (Go Williams,1998)。 あるいは、1863年 にスウォンジーで開かれ た 日曜学校主催のアイステッズヴォッドでは、鉄道会社が17両 の特別列車 を仕立て、アベルダ ンか ら1300人 を送 り込んでいる。スウォンジーでは、午前中は海辺で遊 んだ りする日程が組 ま れていた (Ambrose,1973,195)。 現在で もそうであるが、チャペルでのアイステッズヴォッド ではお茶の時間があ り、ディナーを用意する場合 もあった。労働者 は集い、友人たち と語 らい、

新 しい洋服 を見せ合い、た らふ く食べ る。そして歌 を通 して自分たちが同 じ文化 に属す ること を確認 し合 う。現在のアイステッズヴォッドの原型が出来上がってきた といえる。

鉄道が ここで大 きな役割 を果たす ことになる。 このような催 しは、1853年 ニース谷鉄道(the

Vale of Neath Railway)に よってアベルダレとマーサが、ニースそしてスウォンジー と結ば れていなかった ら不可能だっただろう。1840年 か ら1870年 にかけてウェールズの鉄道網が顕著 な発展 を見せ る (Jenkins,1992,225,244)。 以下 に述べる、 ロン ドン、ク リスタル・ パ レスで の南 ウェールズ・ コーラス連合の勝利 は、18両 の特別列車がクワイアをロン ドンまで連れて行

くことによって可能 となったのである11。

4。 Crystal Pa!ace

南 ウェールズ音楽文化の中心アベルダンの栄光の頂点 を飾 るのが、1872年 、73年 のロン ドン、

クリスタル0パレスでの南 ウェールズ・ コーラス連合の優勝であ り、 この快挙 は「歌 うアイス テ ッズヴォッド」 によって養われたウェールズ労働者の音楽 レベルを英国全土 に知 らしめるこ

とになる。

クリスタル 。パ レスは1851年 、大博覧会 (Great Exhibition)の ために建設 された ものだが、

博覧会以降はヘ ンデル・フェスティバル(Palace's Handel Festivals)、 英国ブラスバ ン ド・チャ ンピオ ンシップ (National Brass Band Championship)な ど音楽関係の催 しに使われていた。

(10)

野 和 弥

1860年には、前述のカヴァルスヴァ・ バ ン ドが優勝 している。クフイアのコンペティションを 計画 したのは、ウェールズに祖先 を持つ とい うウィラー ト・ ビール (Willert Beale:1824‑74) だった。ナショナル・ アイステ ッズヴォッドや フランスの大 コンクール (Grand Concours of

France)に触発 され、イングラン ドで も同様の催 しを開 こうと考 えたのである (ToA.Davies,

1972)。 1872年 ロン ドン、クリスタル・パ レス会社 は、同年の夏に、ナショナル音楽祭 (National Music Meeting)を 開催す ることを予告する。1872年 2月17日、南 ウェールズの著名 な音楽家 たちがアベルダンに集 まり、夏のク リスタル・ パ レスの大会 に出場するため、南 ウェールズ・

コーラス連合 を結成することになった12。 ここで指揮者 に選 ばれたのが、カラ ドグ (CaradOg) ことグ リフィス・ リース・ ジョー ンズ (Griffith Rhys Jones)で ある。

カラ ドグの名声 は、アイステ ッズヴォッドと切 り離せない。1834年12月 アベルダンの トレカ ノン(TrecynOn)の労働者街 に生 まれている。父親 は鍛冶屋で自分 もその道 を歩んでいた。1853 年 クームアヴォン (Cwmavon)の アイステッズヴォッドに17名のクワイアを組織 し優勝す る

(T.A.Davies,1972)。 クフイアの名前「 コール0カ ラ ドグ・ アプ・ ブラン」 (̀COr Caradog ap Bran')に ちなみ、以後彼 はカラ ドグ と呼ばれ るようになる。1861年 にはアベルダレ連合 クワイ アの指揮者 としてアベルダンのナショナル 0ア イステッズヴォッドで一位 を獲得 している。 と はいえ、ブ リンリー・ リチャーズな どとは異な り、ロン ドンの音楽学校 はおろか、正規の音楽 教育 も受 けた ことはない労働者だった。

クリスタル・ パ レスの競技会のためには、指定曲を8つ覚 え、当日は初見で1曲歌わなけれ ばな らなかった。200か ら500人 という大人数 を集め、 リハーサルをし、ロンドンまで行 く費用 も莫大 な ものだった。通常アイステ ッズヴォッドでは80か ら100人編成のコーラスが指定曲2つ を歌 うことを考 えれば、難 しさが想像で きる。勝つ ことはもとより参加するだけで も至難の業 だった。 これを可能 にしたのは、 リハーサルをお金 を払 って聴 きにい く人々の存在だった。各 地 に散 らばった少人数のクフイアを合体 したのが南 ウェールズ・ コーラス連合だった。 リハー サルはそれ らのクワイアを一箇所 に集め、スウォンジー、カーディフ、ァベルダレなどで行わ れた。 その都度入場料収入 を得て、クリスタル・ パ レスヘの費用にしていた。カエルフィリー (Caerphilly Castle)で行 った リハーサル に は12000か ら15000人 くらいが集 ま り (J.H.

Da宙es)、 コーラスの面々は、 まさにウェールズ大衆 に支持 されるヒーローだった ことがわか る。

1872年 、450の 声でベー トーベ ンのハ レルヤ (̀Hallel面ah to the Father')を 歌い、アベルダ ンに凱旋 した とき、カラ ドグはバーディック・ チェアに座 っている。アイステッズヴォッドで 詩人 に贈 られる栄誉の象徴が、労働者の指揮者 に捧 げられたのである。グウェリンのアイステッ ズヴォッドを象徴する出来事だった といえる。新聞は当日の出来事 を熱狂的に報 じている。

On the arrival of the train at 8.30p.rn.the excitement became intense...loud cheers were given by the assembled thousands,intellllingled with the bursting of fog signals,the firing of cannon and what with the ringing of bells and the playing of bands the scene may be more easily ilnagined than described.

みιttπ ππ6,July,19,1873)

1897年 、 カ ラ ドグはアベルダ ンの墓地 に埋葬 された。民衆 の ヒーロー、 カラ ドグの銅像 は、

(11)

1920年 7月10日 アベルダンのヴィク トリア広場 に立て られた。戦士で も政治家で もない人物、

労働者のクフイア と共 に、アイステ ッズヴォッドに育て られた鍛冶屋の指揮者が、19世紀 ウェー ルズの倉J造したグウェリン像の代表 として、アベルダンの街 に鎮座 している。

5。 まとめ

クリスタル・ パ レスの勝利 はウェールズに「歌の国」 と呼ぶに値す る証明書 を与 え、現在 に いたるウェールズの「ナショナル0イ メージ」 を形成 した とされる。バーディック・ チェアに 座 るカラ ドグは、 しか し、バル ドの祭典 としてのアイステ ッズヴォッドと労働者 を中心 とした

「歌 うアイステ ッズヴォッド」の間に著 しい乖離があることを示 しているわけではない。むしろ それはアイステ ッズヴォッドに参加 した労働者のコーラス と王侯貴族の前で己の技 を披露する バル ドとの共通点 を物語 るといえよう。バル ドとは歌 うことを職業 とする詩人、吟遊詩人であ り、高貴 な人々の前で「バル ドである」事 を証明す るのがアイステ ッズヴォッドだった。労働者 も舞台の上で整然 と整列 して、ヘ ンデルな どの高尚な曲を歌 うことがで きる「 リスペ クタブル」

な存在であることを示す必要 を感 じていたのである。実際に炭鉱で働 く労働者 と対比 してみれ ば、労働者が二つの身体、つ まり炭鉱で額 に汗 して働 き、地元のパ ブで自分たちが故郷の田舎 か ら携 えてきたバ ラー ドを歌い踊 る黒い顔 の身体 と、アイステ ッズヴォッドやチャペルのテン ペ ランス祭で正装 して歌 う「 きれいな身体」の二つを演 じ分 けていた ことがわかる。その意味 で、「歌 うアイステ ッズヴォッド」はアベルガヴニーのアイステ ッズヴォッドの延長上 にあると いえる。

「 きれいな身体」 は資本家 ジェン トリやブルジ ョワ階級が労働者の身体管理のために必要 と した ものばか りではない。ヽブィク トリア朝英国全体で、福音主義や禁酒運動が労働者 にリスペ クタブルな市民の役 を振 り当てる中、ウェールズでは、ブルー・ ブックスの提示 した野卑で無 教養なウェールズ民衆像 に対抗するために、労働者の「 きれいな身体」 は、なおの こと求めら れたのである。それは、労働者 自身の意識 の中で内面化 され、賛美歌や合唱曲をハーモニー も 美 しく歌 う教養高いグウェリンヘ と、 自らの社会的・ 文化的主体 を規定す る。酔 っ払い、下品 な歌 をがな り立て、卑猥 な冗談 を言 うことも現実 には当然 あっただろうが、その一方で、 日曜 学校や トニ ック・ ソル ファ学校で音楽的教養 を積む ことを自らに求める労働者の二面性 は、産 業化 を背景 に社会的上昇 をもくろんで きた新興 ジェン トリや中流階級 自身の持つ二面性 で も あったろう。ジェン トリ及び中流階級が復興 したバル ドのアイステ ッズヴォッドと、その後の、

ノンコンフォー ミス トによるグウェリンのアイテ ッズヴォッドは、舞台に上が るのが当代 きつ ての詩人・ハーピス トであれ、炭鉱労働者のクワイアであれ、「 リスペ クタブル」 を演 じる点で は同質だった と言 える。アイステッズヴォッドは、 ウェールズ人が、イングラン ドに比肩で き るようなナショナル・ イメージを演出 し、広 く英国全土 に流通 させ ることがで きた とい う点に おいて (イ ラス トレイティッ ド・ ロン ドン・ ニ ューズで取 り上 げられ るウェールズに関する話 題の多 くは、アイステ ッズヴォッドに関することだった)、 1ヒ類 のない文化装置だつた。19世紀 を通 じて、古代衣装 をまとった ドルイ ドが統帥す る祭典、そしてバル ドのチェア リングの儀式 がアイステ ッズヴォッドの一般的イメージとして定着する一方、産業革命の進展 によってジェ ン トリや中流階級の前 に大挙 して出現 した労働者たちが、 ドルイ ドやバル ドとともに、 このナ ショナルな舞台 を飾 るにふさわ しい役者 として壇上 に並ぶ ことになったのである。

(12)

森 野 和 弥

注】

1.彼の父 (同じくベ ンジャミン・ホール:1778‑1817)は 、南 ウェールズの鉄鉱王 クラシェイ (後)から鉄工所 を一部譲 り受 けた。1806年 か ら1812年 までデボン(Devon)、 1812年 ら1814年 まではウェス トベ リ(Westbury)の M.P.に 選 ばれている。1814年 には地元の在地 ジェン トリを向 こ うに まわ して グ ラモーガ ン (Glamorgan)選 出 の議 員 に当選 した

(Fraser,1961)。

2.民族衣装の復活 について も経済的な側面 を忘れてはいない夫人だった。 ウールで織 られた 衣装 を桧舞台に出す ことによ り、イングラン ドのコッ トンに対 して地元 ウェールズのウー ル産業 を振興 させ るということもあった (森1998)。

3.動物汐励グ θπ М多

"s,Dec.2,1854.参照の こと。

4.fJ」Os姥虎″ιθ%あπN多

"s,Oct.25,1845。 参照の こと。

5.1770年代 にはハー ピス ト、エ ドワー ド・ ジョーンズ (Edward Jones)(̀Bardd y Brenin') が ス ラ ンゼ ル ヴェル (Llandderfel)か ら、1807年 に は作 曲家 ジョン・ パ リー (John

Pary(̀Bardd Alaw'))が デ ンビー (Denbigh)か らロン ドンでの勉学 に向かってい る (Stead,116)。

6.ケイ リオグは愛国的イメージ作 りに天賦の才 を発揮 した。1858年 記念すべ きスランゴスレ ン (Llangollen)の アイステッズヴォッドの リエインゲルズ (rhieingerdd)(love poem) 部門で賞 を取 った「マヴァヌウィ・ ヴァハ ン」(̀Myfanwy Fychan')は、14世紀 を舞台に

した恋愛詩で、ハ ウェル (Hywel)と いう詩の巧みな羊飼いが、領主の娘マヴァヌウィの 愛 を勝 ち取 るというものである。ハ ウェルの名 は、中世 ウェールズの賢王ハ ウェル・ ザー (Hywel Dda)を連想 させ、マヴァヌウィは、スランゴスレンの街 を見下 ろす、 ピクチャ レスク絵画の素材で もあったディナス・ ブラン (Dinas Bran)の城 に住んでいる。 ウェー ルズのイコンをち りばめつつ、ブルジョワのパーラーで演 じられるようなウィッ トに飛ん だ会話 もで きる、モラル高い恋人たち、そしてグウェリン像 を描 き出した。ブルー・ ブッ クスに対するウェールズ側の返答 といえた。

7.も ともと「谷」では小 さい採掘場が点在することにより、それぞれの採掘場 を中心 とした 小 さな村が、チャペル とインを中心 に独 自の文化 を形成 していた。 このような村人意識が クワイア間の競争意識 をいっそう盛 り上 げた ことと思われる。

8.マーサでは、1856年 にはテンペランス 0ホ ールが建て られ、1868年 にはグラモーガンとモ ンマスのテンペ ランス・ コーラス連合 (Temperance Choral Union of Glamorgan and MonmOuthshire)が で きている。1862年 には10のクワイア と700人 の団員が所属 している。

9.カーウェンは、1869年 には トニ ック 0ソ ルファ学校 を設立 している。修了証書や免許証 を 発行 し、王立音楽学校 な どへは行 くことので きない労働者たちに とっては大学に相当する ものだった。ロン ドンにあった この学校ではウェールズ出身者の上ヒ率が多かった。(F.T.S.

C。)

10.1881年マーサ・ アイステッズヴォッドの審査員だったJ・ スペ ンサー・ カルウェン (Mr.J.

Spencer Curwen)は、ウェールズにおけるアイステ ッズヴォッドとチャペルの結びつ きを 伝 えている。

The subjects were, of course, Biblical. It is impossible to dissociate Welsh music

(13)

from Welsh theology and religion;indeed,Welsh music can only be understood by realising the intense Calvinistic faith of the people;their deep study of the Bible;their system for Sunday Schools。

(yの

αθγ,vol.5,1882,287)

11.運賃 の割 引 もあった (A.Da宙es,1972)。 鉄道 の重要性 に関 して は、Ambrose(1973)も

指摘 してい る。

12.y cγαα

2惚

1872,23.参 照 の こと。

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