啓蒙思想は宗教を批判できるのか
後藤正英
1.はじめ に
近年のヨーロッパでは、アラブ世界と EU の関係やヨーロッパ内部のイスラーム教徒の問題を めぐって、近代ヨーロッパが生み出した宗教理解の意義が改めて問い直されている。近代的な宗 教理解の枠組みはヨーロッパの啓蒙思想のうちに淵源をもっ。宗教をめぐる現代の状況を理解す
るためには、啓蒙思想の宗教理解に注目することが必要で、ある。
啓蒙主義は、一つの時代区分としては、バロックとロマン主義の聞に挿まれた時代を、つまり は、おおよそ 1 8 世紀の全体を意味している。しかし、啓蒙主義に関しては、一つの時代区分に限 定されるものではなく、人類の普遍的思想であり永遠の課題であるという見方も存在しうる。た とえば、カントは、有名な r r 啓蒙とは何かj という問いへの答え J ( 1 7 8 4 ) という小論の中で、
r r われわれは現在啓蒙された時代に生きているのかj と問われるならば、『そうではない、しか し、おそらくは啓蒙の時代に生きているだろう』というのが答えである J ( V i l l 4 0 ) と述べてい る。「啓蒙された時代 J とは区別された「啓蒙の時代 J という表現のうちには、永遠の課題とし ての啓蒙という主張を読み取ることができる。
1 8 世紀後半に生きたカン卜は、それまでの啓蒙主義運動が何を求め続けてきたのかをは っきり と意識化した人物である。その場合、カントは、啓蒙主義の思想を「批判j という言葉によって 特徴づけようとした。「批判(Kri此) J という言葉は、語源的には、「裁き j という意味をもっ古 代ギリシャ語の( C r i s i s ) に由来する 。「批判」という 言葉 は、長い間、古典的テキストや聖書の 批判的評価に関わる文脈で用いられていた。 「批判」という 言葉が、テキス トとの関係に限定さ れず、より一般的に「理性に基づく吟味や検討」という意味で用いられるようになったのは、ド イツ語圏ではカント以降のことであるとされる
i。
よく知られているように、カントは、啓蒙主義の時代精神が「批判 J を根幹に据えている点に ついて、『純粋理性批判 jの中で次のように語っている。
「現代は真の意味で、批判の時代である。あらゆるものが批判に服さざるを得ない。宗教はそ の神聖さによって、立法はその尊厳によって、通常はこの批判を逃れようとする。しかし、その 時には宗教も立法も当然疑惑をよびおこすことになるし、真心からの尊敬を要求することができ なくなってしまうのである。理性は、理性の自由で公明正大な吟味に耐えることができたものに のみ、その純粋な尊敬を捧げるのである J ( I V , XI ) 。
I Vgl. Lex
i k o n d e r A u f k L a r u n g : D e u t s c h L a n d und Europa ,
herausgeg巴benvon Werner Schneiders,
Munchen:C .
H. Beck,
2001, c
1995,
S.224‑225.啓蒙主義の思想は、伝統や権威を理性によって批判的に再検討しようとした。いかなる領域も ただ昔から存在しているという理由だけではその存在根拠を証明したことにはならないのであり、
理性による吟味を経て、はじめてその現代的意義と普遍妥当性を保証されることになるのである 。 特に、啓蒙思想がその批判的検討の対象としたのは宗教であった 。 しかし、この場合に注意しな ければならないのは、啓蒙思想による宗教批判は、基本的な方向性としては、無神論に見られる よう形での宗教の全否定を目的としたわけではなかったということである 。 もちろんフランスの 啓蒙思想の場合には文字通りの無神論的傾向をもつものも少なくなかったが、少なくともイギリ スやドイツの啓蒙思想のうちに見られたのは、宗教を理性に適うものとするための建設的な批判 であった。啓蒙思想は、宗教のうちに忍び込む迷信、偏見、倣慢、狂信を批判することで、本物 の宗教と偽の宗教を区別しようとしたのである 。
本稿では、 1 8 世紀の啓蒙思想における宗教批判は、 1 7 世紀の宗教戦争に見られたような狂信や 熱狂を批判するために行われたものであり、宗教そのものへの批判ではなかったという点に注目 する 。その上で、啓蒙主義的な宗教理解の現代における有効性という問題についても考えてみた
し
、。
2 . 今日の世界における宗 教をめぐる状況
(1) 9.11 以後の世界における宗教をめぐる主要な事件
今日の世界において、宗教問題を意識しつつ戦争や紛争を見ていく場合には、次の二つの点に 留意する必要がある 。
第ーには、宗教が原因となって発生しているように見える現象が、実は宗教とは無関係である かもしれない可能性について慎重に検討することである 。つまり、どこまでが宗教間対立である ように偽装されたものなのか、という観点をもつことが肝要である 。 ここで必要とされているの は、宗教とそれ以外の領域を厳密に区別する視点である 。
第二には、第一の点とは矛盾するように見えるかもしれないが、政治的利害と宗教間対立が複 雑に絡みあう実態を、ありのままに凝視することである 。たとえば、政治問題がいつのまにか宗 教問題に変化し、宗教問題がいつのまにか政治問題へと変化してしまうような事例に注目するこ とが求められることになる 。 こうした事例は、かつてヨーロッパ諸国において宗教改革がおこっ たときの様々な要因と経過を思い起こすならば容易に理解されるだろう。この場合に必要となる のは、宗教とそれ以外の領域の載然たる区別ではなくて、両者の間の密接な関係性と反転可能性 への眼差しである 。
ところで、 9 . 1 1 以後の世界を見渡したとき、宗教に関わる主要な事件としては次のものを挙 げることができる 。主なテロ事件や戦争と併記しつつ列挙すれば以下の通りである 。
. 2 0 0 1 年 9 月 1 1 日 アメリカ同時多発テロ 。
. 2 0 0 3 年 3 月 1 9 日 イラク戦争開戦。同年 5 月 1 日には米大統領から戦闘終結宣言が出されたが、
その後も現在までイラク囲内の混乱が続いている 。
. 2 ∞ 4 年 3 月 1 1 日 スペインのマドリ ッ ドで同時多発テロ 。イスラーム過激派の犯行によるとさ れる 。
. 2 ∞ 4 年 9 月 2 日 フランスで「宗教シンボル禁止法」が施行され、公立学校におけるイスラー ム教徒のスカーフ(ヴ、エール)着用が全面的に禁止された。
. 2 0 0 4 年 1 1 月 2 日 オランダで、ムスリム女性の人権侵害を批判した映画を政策した映画監督の ゴッ ホ氏 ( 画家のゴッホの末商)が、モロ ッコ系移民のイスラーム主義者によ って暗殺される 。 その後、オランダ圏内でイスラーム教徒への攻撃や嫌がらせが続出した。伝統的には移民に寛 容な社会であったオランダで、ここ数年、不寛容の現象が目立 っている 。
. 2 0 0 5 年 7 月 7 日 ロンドン同時多発テロ 。イスラーム過激派の犯行によるとされる 。
.2006年 1 月 ~ 2 月 2 0 0 5 年 9 月にデンマークの新聞に掲載された預言者ムハンマドの風刺漫画 をめぐ って、イスラーム各国で反発が湧き上がる 。
. 2 0 0 6 年 8 月 1 0 日 ロンドンで旅客機爆破テロ未遂事件。
. 2 0 0 6 年 9 月 1 2 日 ローマ法王は 2 0 0 6 年 9 月 1 2 日にドイツのレーゲンスプルク大学で講演をおこ なった。講演の主要なテーマは、宗教をサブ・カルチャーにしてしまう現代への警鏡、宗教に おける理性の役割の強調、暴力のために神や宗教を利用しようとする人々への批判にあ った。
しかし、ローマ法王が、暴力の正当化に宗教を利用する人々を批判する際に、東ローマ帝国末 期の 皇帝マヌエル二 世パレオロゴス ( 1350 ~ 1 4 2 5 ) がイスラーム教を引用した発言 ( 1 ムハ ン マドが新しいこととしてもたらしたものをわたしに示してください。あなたはそこに悪と非人 間性しか見いだすことができません。たとえば、ムハンマドが、自分の説いた信仰を剣によ っ て広めよと命じたことですJ )
2を引用したことが、イスラーム社会からの抗議運動をまねく結 果とな った。
( 2 )宗教をめぐる最近の事件において何が問題となっているのか
ここでは「ムハンマドの風刺画問題 J と「宗教シンボ J レ禁止法j に絞 って問題の所在を確認し ておこう 。
まず「風刺画jの問題から考えてみよう 。たしかにヨーロッパには、かなり踏み込んだ仕方で、
権力者や権威を風刺し榔撤する伝統がある 。 もちろん多くのイスラーム教徒も近代的な宗教理解 の重要性(言論や出版の自由の価値)は認識している 。 しかし、いかに 言論の自由にもとづく批 判が重要であるとはい っても、批判の対象への 一定の配慮は必要で 、 あろう 。イスラーム教徒たち が問題にしたのは、まさにこの点であ った。彼らは「ムハンマドのカリカチュアを書かれること が偶像崇拝を禁じるイスラーム教徒の心を傷つけることへの配慮のなさ」を批判したのである 。
「風刺画 J の問題に関しては、イスラーム教徒たちは、「なぜイエス・キリストではなくて殊更 にムハンマドだけをカリカチュアの対象にするのか。ここには不公正が存在するのではないか」
という問題提起もおこな っている 。「 宗教シンボル禁止法 J をめぐ っても、イスラーム教徒の問
2
カトリ ッ ク中央協議会のホ ー ム ページに掲載されて いる「教皇ペネデイ ク ト 一六世のレー ゲンスプル ク大学で の講演 J の 邦訳より引用した。ア ド レスは以下の 通りであ る 。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpnlfeature/newpope/ben巴message I 43.htrn
には同様の問題意識が存在する。つまり、「なぜ(小さな)十字架のアクセサリーなら許容され て、スカーフは許容されないのか」という問題である。これは、「ヨーロッパは近代の価値観を 本当にイスラーム教徒に対しても公平に適用しているのか」という問題であるといえる。
最後にもう一点指摘しておくなら 、今日 、 ヨーロッパのキリスト教世界とイスラーム世界の関 係において問題となっているのは、「プロテスタントが支配的な地域において成立した近代ヨー ロッパの宗教理解を、それ以外の宗教(現代では特にイスラーム教)にそのまま当てはめようと することには、どの程度の有効性があるのかj という大きな問いである。この間いは、宗教学の 世界においても、過去20 年来、盛んに論じられるテーマとなっている。
3 . 1 8 世紀の啓蒙主義の時代を考えるための前提
‑18 世紀の啓蒙主義は 1 7 世紀の宗教戦争の時代を乗り越えようとした一
「啓蒙 J という言葉は、理性の光によって無知や迷妄を照らし出すことを原義とする。ドイツ 語 (A u f k l 且 r u n g ) 、英語 (E n l i g h t e nm e n t ) 、フランス語 ( Lumi と r e s ) 、いずれの国の言葉でも、「啓 蒙 J という名詞は「明るくする j という意味をもっている。啓蒙主義の時代の思想家たちは、理 性の光に照らして、理性的なものと非理性的なものを分離しょっとした。この場合、非理性的な ものとは、熱狂、偏見、狂信といった対象を意味した。 1 8 世紀の啓蒙主義の時代に先立つ 1 7 世紀 のヨーロッパは、宗教戦争と過酷な宗教的迫害の時代であった。ここに見られたのは、まさに宗 教をめぐる非理性的な現象であった。
まず、 1 7 世紀の宗教戦争に関して主要三カ国(ドイツ、イギリス、フランス)の状況を簡単に 振り返っておこう。
①ドイツ ( 3 0 年戦争、ウエストフアリア条約)
1 6 1 8 年から 1 6 4 8 年まで30 年の長期間にわたってドイツを舞台に全ヨーロッパを巻き込んだ戦争 が継続した。この戦争は、カトリックとプロテスタントの対立を起点としながら 、最終的には 、 フランス、ドイツ、スウェーデン、ボヘミア、デンマークといった国家聞の戦争へと展開した。
この時期に戦争の影響でドイツの人口は 2 1 0 0 万人から 1 300 万人へ激減したと言われる。ドイツの 国土は荒廃し、多くの一般の農民が犠牲になった。
3 0 年戦争は1 6 4 8 年のウエストフアリア条約の締結をもって終結した。その結果、どの宗教を選 択するのかという問題は、それぞれの領邦の支配者に委ねられることになったが、これはドイツ
の統ーを遅らせる原因ともなった。
②イギリス(英国国教会の成立、ピューリタン革命、名誉革命)
エリザベス 1 世によって英国国教会が正式に国教化されたことによって ( 1 5 5 9 年にローマ・カ
トリックから分離、 1 5 6 3 年に英国国教会の39 箇条の制定)、それ以外のキリスト教内部の諸派が
異端として扱われることになった。 1 7 世紀には、宗教的に多様な背景をもっ人々によって構成さ
れた議会と親カトリック的なスチュアート王朝との闘争状態がつづいた。クロムウェルのピュー
リタン革命(1 6 4 9 ) によって、カトリック以外のキリスト教内部の諸派に対する寛容政策が実施 された。 しかし、かつては迫害の対象であったピューリタンたちも、現実にはそれほど寛容では なかったことは付記しておく必要がある 。
クロムウェルの死後に、より聞かれた形の王政が復活した(王政復古) 。その後、王が再カト リック化を目論んだために、議会が反発し、スチュアート朝の王ジェームズ 2 世をフランスへ追 放しオランダから新しい王を迎えることで名誉革命 (1688‑1689) が実行された。これによって、
イギリスで 1 5 0 年間にわたって続いた市民戦争、宗教戦争は終結した 。議会制とプロテスタテイ ズムが国家の主流となり、(制限された範囲で)宗教的寛容と出版の自由が認定された。名誉革 命に勝利した後に、イギリスでは、穏やかな形で啓蒙主義運動が進行した。
③フランス(ユグノ一戦争、ナント勅令の公布、ナン ト勅令の廃止)
フランスでは、 1 5 6 2 年から 1 5 6 8 年にかけてユグノ一戦争が断続的に継続した。カトリックとプ ロテスタント (ユグノ ー)の対立から生じた内乱であり、一種の宗教戦争の様相を呈した。ヴア シーでのプロテスタントの大虐殺 ( 1 5 6 2 ) に始まり、ナント勅令の公布 ( 1 5 6 8 ) まで続いた 。ア ンリ 4世のナント勅令の公布により、フランスでは、カトリックを国家の宗教としつつも、プロ テスタントにもカトリックと同等の権利が与えられことになった 。
しかし、その後、 1 6 8 5 年にナント勅令はルイ 1 4 世によって廃止されてしまった。 フランス国内 のプロテスタントは徹底的に弾圧され、多くの宗教難民が国外へと逃れることになった 。一方で、
ナント勅令の廃止は、ヨーロッパ各地で宗教的自由や宗教的寛容をめぐる議論を活発化させるこ とになった 。つまり、ナント勅令の廃止がールイ 1 4 世にとっては皮肉な結果であったといえるが ーヨーロツノ T 全体に啓蒙主義運動の機運を広げたので、ある
oナント勅令の廃止の結果として、フランスは一気に絶対主義国家への道を歩むことになった。
フランスでは、啓蒙主義運動は、絶対主義国家における唯一の別の選択肢として存在し、当初は 秘密裏の地下活動として展開されることにな った 。
1 8 世紀の啓蒙主義運動は 、 1 7 世紀ヨーロ ッパの宗教的・政治的状況に対する一つの回答として 存在した 。 1 8 世紀の啓蒙思想家たちが考えようとしたのは、 1 7 世紀に出現した宗教戦争をどうす れば防ぐことができるのかという問題であった。啓蒙主義の時代には、普遍的理性や人間性が希 求され、人間の善性を信じようとするオプテイミズムの思想が流行したが、その前史には過酷な 宗教戦争の時代があったことを忘れてはならないだろう。 1 8 世紀の啓蒙思想家たちがおこなった 宗教批判は、宗教そのものへの批判というよりは、宗教戦争を発生させてしまう狂信や偏見に対 する批判として存在したのである 。
3
V g l . S c h o e p s , J u l i u s H . , Auf dem Weg z u r G l a u b e n s f r e i h e i t , i n :
Die missgluckre Emanziparion, 地
geund lrrwege deursch‑ jiidischer Geschichre, B e r l i n : P h j l o , 2 0 0 2 , c 1 9 9 6 , S . 1 9
4 . 1 8 世紀の啓蒙 主義における宗教理解
ここでは、 1 8 世紀の啓蒙主義における宗教理解の特徴を、次の六つの点に要約した上で確認し ておこう 。
( 1 )哲学者の宗教論
1 8 世紀には、神学者にかわって哲学者が時代精神を現す寵児となった。啓示ではなくて、人間 理性が宗教理解の前提になった 。彼らは、神学者に独占されない形で宗教について自由に語るこ
とができる言説空間を求めようとした 。
この時代の代表的哲学者は以下の通りである 。 ドイツでは、ライプニツツ、ヴォルフ 、メンデ ルスゾーン 、レッシング、カントといった人々が活躍した 。イギリスにおいて啓蒙思想の担い手 となったのは、ロック、パークリ、ヒュームといったイギリス経験論の哲学者や、アダム・スミ スやベンサムといった経済思想家である 。なお、ホッブスやハーパート ・ チャーペリーといった 1 7 世紀の哲学者も啓蒙思想の先駆者と見る場合がある 。 フランスでは、ヴォルテールやモンテス キュー、 『 百科全書』の刊行に力を尽くしたデイドロやダランベール、さらにはルソーが啓蒙思 想家として活躍した。イタリアの啓蒙思想家の中ではヴィーコの名が広く知られている 。
(2 )自然科学と宗教の分離
自然科学を論じる場合に、聖書との整合性が次第に重要な問題ではなくなっていった 。このよ うな状況変化の一つの背景としては、神を論じる場所が、自然現象から人間の自由意志に関わる 領域(道徳や歴史)へと移行したことを指摘することができる 。それは、カントの場合にも典型 的であって、カン ト は自然神学に対する道徳神学の優位を主張した 。
( 3 )政教分離
国家と宗教(特に教会)の分離という点に関しては、ロックの『市民政府二論 J ( 1 6 8 9 ) や『寛 容に関する書簡 J ( 1 6 8 9 ) が大きな影響力をもった。 ロックは、政教分離の必要性を唱え、市民 権が宗教の帰属性とは独立に与えられるべきことや、魂の問題について国家や教会が強制権を もってはならないことを主張した 。 『寛容に関する書簡jの執筆の目的は「キリスト教徒同士の 相互寛容」にあったが、同書の中では 、イスラーム教徒やユダヤ教徒への宗教的寛容についても 言及されている。
( 4 )反儀礼主義としての啓蒙主義
啓蒙主義運動は 、 全体として、プロテスタントの側からのカ ト リック批判という性格を色濃く もっていた 。そのため、啓蒙主義の思想家たちは、内面的良心 を重視し、儀礼 を厳しく批判した。
これは、ユタ"ヤ教の律法への 批判にもつながっていった。
キリスト教側の啓蒙主義者たちとは違って 、ユダヤ人の啓蒙哲学者モーゼス・メンデルスゾー
ンは、啓蒙主義の思想に共感しながらも、同時にユダヤ教の儀礼的律法を守ろうとした 。これは メンデルスゾーンの啓蒙思想のユニークな点をなしている 。
( 5 )普遍的宗教論への志向と「宗教」という一般概念の誕生
啓蒙主義の時代には、普遍的理性にもとづく宗教理解が強調された。その背景としては、次の 二 つの理由を指摘することができる 。①大航海時代以降、イエズス会の宣教師たちを中心にして キリスト教(あるいは聖書にもとづく宗教)以外の宗教に関する知見がもたらされた 。その結果、
「キリスト教=唯一の宗教」という前提が崩れることで、キリスト教以外の諸宗教のみならず理 神論や無神論でさえも包含することができる「宗教」という 一般概念が誕生した 。②宗教戦争に 疲弊した人々の聞に、宗派の違いを超えた普遍性を求める要求が生じた。
( 6 )理性と一致する宗教
宗教(キリスト教)が人間の普遍的理性と 一致すべきであるとする主張は、ロックやカントの 思想のうちに見出すことができる 。 しかし、彼らは宗教を完全に理性の内部へと吸収しようとし たわけではなかった 。 ロックやカントは、理性を超えた領域(啓示)を宗教のうちに容認した。
彼らの主張の眼目は、理性と宗教の一致 ( 合致)であって、宗教の全面的な理性化 ( 合理化)で はなか った。
ロックは、『人間悟性論(人間知性論) J ( 16 8 9 ) では、理性によって聖書の全内容を把握しよ うとはせず、(理性を超えて ( a b o v e ) はいるが、決して理性に反して ( a g a i n s t ) はいない領域と しての)超自然的な領域を承認した
oカントも、晩年の宗教に関する著作 『 単なる理性の限界内における宗教 J ( 1 7 9 3 )の準備草稿 では、宗教が単なる理性のみにもとづくものではないことを強調している 。たとえばカントは次 のように語っている 。 「表題について 。 表題は、『単なる理性にもとづく宗教 J (Re i l g i o n a u s b l o s s e r V e r n u n f t ) とすべきではない。なぜなら、おそらく理性だけから生じた宗教は存在しないので、
単なる理性に基づく宗教というのは、単なる理想、だろうし、その場合は、私はあまりにも理性に 頼りすぎて、しかも私の領域をきわめて狭めてしまうことになったであろうから J ( XX , 9 1 ) 。
さらにカントは、 1 7 9 3 年 5 月 4日のシュトイトリーン宛ての書簡では、 『 単なる理性の限界内 における宗教jにおいては「キリスト教と最も純粋な実践理性との可能な 一致 (diem 句 l i c h e Ve
陀 ‑i n i g u n g ) が問題であった J ( V I , 4 2 9 ) とも述べている 。 このように、カントは、宗教の全面的 な理性化を主張したわけではなかった 。カントの主張はもう少し控え目なものであ った。カント は、歴史的宗教と理性が「可能性において」 一致している部分についてだ け語 ったのである 。
4
この言い方は、 言 うまでもなく、 『 人間情性論j第 4 巻、第1 7 章に見 ら れる規定である 。
5 . カントの啓蒙主義的な宗教理解について
( 1 )カントの啓蒙の定義
カントは r r 啓蒙とは何かj という問いへの答え jの中で、啓蒙主義のスローガンについて次 のように語っている。
「啓蒙とは人聞が自分自身に責めのある未成年状態から抜け出すことである。未成年状態とは、
他人の指導なしには自分の悟性を用いる能力がないことである 。この未成年状態の原因が悟性の 欠如にではなく、他人の指導がなくても自分の悟性を用いる決意と勇気の欠如にあるなら、未成 年状態の責任は本人にある。したがって啓蒙の標語は、『あえて賢くあれ ! J r 自分自身の悟性を 用いる勇気をもてリとなる J (v 田, 3 5 ) 。
この場合の未成年状態とは、肉体的成長などの自然、的な意味ではなくて、精神的な意味で用い られている。しかも、何らかの理由によって能力が欠けていることが批判の対象となっているわ けではない。能力があるのに使用しようとしない点が批判されているのである。カントは、自主 的に思考することで精神的な意味での未成年状態から脱出することを要求した。カントは、啓蒙 の対象は特に宗教における未成年状態に向けられている、と主張した。
「私は、啓蒙の主眼点、つまり、人聞が自らに責めのある未成年状態から抜け出すことの主眼 点を、特に宗教に関する事柄に置いてきた。(中略)宗教上の未成年状態は何にも増しでもっと
も有害なだけではなく、もっとも不名誉なものでもあるからである J ( v 皿 , 41) 。
(2 )カントの宗教批判の意味
カントは、単に自明性や伝統に由来するという理由だけでは宗教を正当化することはできず、
一度は理性による 批判を通過させねばならないことを主張した 。わかりやすく言えば、宗教につ いて一度は自分の頭で考えてしっかりと吟味すべきである、と主張したのである。もちろん、宗 教を批判するときの理性は、理性自身の自己批判を前提にしている。
たしかにカントは、啓蒙主義の立場に依拠して、宗教への批判を語った。しかし、ここで強調 しておく必要があるのは、カントの批判の対象は、宗教に敵対する要素(唯物論、無神論、無信 仰、狂信、懐疑論)にも及んでいることである 。カン トは 『純粋理性批判』第二版序文の 中で次 のように述べている
o「この批判によって、 一般に害を及ぼしうる ような、唯物論、宿命論、無神論、自由思想的な 無信仰、狂信、迷信といったものばかりでなく、専門学派にとって危険だが、公衆には入り込む のが困難なたぐいの、観念論や懐疑論といったものも、根こそぎにされることができる J ( 皿 ,
x x x v ) 。
ここから、カントの批判は、宗教の全面否定的な批判ではなくて、真の宗教を樹立するための 批判であることが明らかになる 。カン トは宗教に関する独断論(宗教の独断的な肯定)と懐疑論
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