オランダ領東インドにおける
アラブ人協会イルシャードの 教育活動
アフマド・スールカティーの
改革主義思想とその影響
山 口 元 樹
Ⅰ. は じ め に
本稿は、 インドネシアのアラブ系住民によって結成されたイスラー ム改革主義組織イルシャード (「導き」 の意) のオ ランダ統治期における教育活動に対して、 設立者・指導者であるスー ダン出身のアーリム、 アフマド・スールカティー
( 1943) の思想が及ぼした影響を分析するものである。
東南アジア島嶼部に少数ながら居住するアラブ人の大半は、 18世 紀後半から第二次世界大戦までの間にアラビア半島南部のハドラマ ウト地方 (現イエメン共和国) から移住してきた者とその子孫で、 ハ ドラミー ( ) と呼ばれる。 アラブ人は、 インドネシア社会に おいて特異な地位を占めてきた。 オランダ統治期に設けられた住民 区分では、 アラブ人は華人らとともに、 「外来東洋人(
)」 に分類された。 華人と比べると人口は圧倒的に少ないが(1)、 アラブ人には、 「原住民 ( )」、 すなわちプリブミ ( )(2) のマジョリティとイスラームを共有しているという特徴がある。 ア ラブ人は、 イスラーム教育の近代化を早くから推進したり、 インド ネシア最初の大衆組織イスラーム同盟 の結成に貢献 したりするなど、 特に20世紀前半のインドネシアにおけるイスラー ム改革主義運動の初期の段階で顕著な活躍を見せた(3)。 形成期の インドネシア社会におけるイスラームの位置付けを考える上で、 ア ラブ人の存在に注目する意義は大きいと言えるだろう。
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インドネシアのアラブ人によって結成された主要なイスラーム改 革主義組織が、 本稿が取り上げるイルシャードである。 イルシャー ドは、 1912年に設立されたムハマディヤ や1923年 に設立されたプルシス ( イスラーム統一協会) と 並ぶオランダ統治期から存続するイスラーム改革主義組織である。
この組織は、 社会福祉、 とりわけ教育の分野で活動し、 非宗教科目 を含むカリキュラムや学級制を取り入れた近代的なイスラーム教育 機関をインドネシア各地に開設してきた。
1990年代以降、 東南アジア島嶼部を含めたインド洋世界各地に離 散するハドラミー移民に対する研究者の関心が高まっている。 クラ レンス=スミス は、 その背景としてディアス ポラ研究全般の興隆を指摘する(4)。 東南アジアのアラブ人を対象 とした近年の研究も、 「ハドラミー研究」 という枠組みをとる傾向 にあると言える。 それらの研究の多くは、 「移民」 と 「受け入れ社 会」 の関係で言えば、 ハドラマウトとの結び付きの緊密さといった、
移民としての独自性の保持の面に焦点を当てている。
イルシャードについても、 基本的に 「ハドラミーの組織」 として 論じられてきた。 近年ではモビニ=ケシェー が、
オランダ統治期のイルシャードの活動を、 「ハドラミーとしての自 己認識の覚醒の時期」 という文脈の中で考察している(5)。 モビニ=
ケシェーは、 イルシャードの教育活動がハドラミーとしての自己認 識を生み出すことにおいて果たした役割を、 アンダーソン
の 想像の共同体 における 「巡礼」 という概念を用いて説明す る(6)。 アンダーソンによれば、 植民地の公教育制度がバタヴィア (さらにはハーグ) を最終目的地とする 「巡礼」 の感覚をプリブミの 間にもたらし、 インドネシア人としての自己認識の形成において大 きな役割を果たした。 その一方で、 イルシャードによる教育活動は、
モビニ=ケシェーの議論によれば、 植民地の公教育制度とは分離し ており、 「巡礼」 の最終目的地もバタヴィアではなく中東 (主にカイ ロ) であった。 その結果、 イルシャードの学校の卒業生には、 イン ドネシア人とは異なる、 ハドラミーとしての自己認識が形成された オ
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とする。
この研究の問題点は、 イルシャードを 「ハドラミーの組織」 とし て一面的に理解していることである。 一方、 イルシャードはインド ネシアのイスラーム改革主義運動全体に大きな影響を与えたにもか かわらず、 その 「イスラーム改革主義」 の側面には十分な注意が払 われていない。 このことは、 設立者・指導者でありながらハドラミー ではないスールカティーが、 イルシャードの活動の中に位置付けら れていないことに端的に表れている。 スールカティーは、 アブドゥ
フ やリダー に代表される中東のイ
スラーム改革主義運動の影響をインドネシアにもたらした先駆者の 一人と評価されてきた(7)。 しかし、 アブドゥフとリダーの間にも 思想的な違いがあるように、 イスラーム改革主義はひとつのものと して捉えるべきではなく(8)、 スールカティー自身の改革主義思想 の特徴を検討する必要がある(9)。
さらに、 これまでの研究全般において、 インドネシアのアラブ人 が 「受け入れ社会」 に統合・同化していく過程が十分に議論されて いないことも問題である。 近年では、 ラッファン がイン ドネシア・ナショナリズムにおけるイスラームの位置付けの再考を 試みているが、 彼は20世紀前半のアラブ人 (ハドラミー) の活動を、
「ジャーワの地における外来の運動 (
)」 と捉えている(10)。 イスラームに着目しつつも、 アラブ人 は異質なものとして扱われ、 結局のところ従来のナショナリズム研 究と同じように、 プリブミを中心とした議論になってしまっている。
以上のような問題意識に基づき、 本稿では、 スールカティーの改 革主義思想の特徴と、 それがオランダ統治期のイルシャードの教育 活動に及ぼした影響を考察する。 その中で、 東インド (インドネシ ア) のアラブ人が、 イスラームを紐帯として 「受け入れ社会」 と結 び付いていく動きを明らかにしていきたい。 なお、 従来の東南アジ アのアラブ人を対象とした研究では、 「ハドラミー」 と 「アラブ人」
は同義語のように用いられてきたが、 本稿では、 ハドラミーではな いアラブ人のスールカティーを中心に取り上げるため、 両者を峻別
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する。 主な史料として依拠したのは、 イルシャーディー ( イ ルシャードの会員・支持者) ら東インドのアラブ人が20世紀前半に編 集・発行した定期刊行物(11)とイルシャードの冊子である。 スール カティーは大部の著作を残していないが、 これらの史料には彼の記 した論考のほか、 演説や記者との会見の記録も掲載されている。 イ ルシャードの教育活動に関する情報もこれらの史料から得ることが できる。
Ⅱ. イルシャード結成
ここでは、 まず、 スールカティーが東インドにやって来てイルシャー ドを結成するまでの概要を説明し、 次に、 結成時のイルシャードの 性格について検討したい。
スールカティーの生年・出生地については諸説あるが、 1875 76 年にスーダンのドンゴラ近郊のアルクー島で生まれたとするのが有 力である(12)。 彼の家は学者の家系で、 父ムハンマドはカイロのア ズハルで学んだ経験を持つ。 スールカティーは父親から学問の手ほ どきを受けた後、 いくつかのクルアーン学校に通った。 父親と同じ ように、 彼もアズハルで学ぶつもりであったらしいが、 マフディー 運動による混乱のためにカイロに行くことを断念、 代わりにヒジャー ズへ赴き、 マディーナとマッカに約15年間滞在して学問を修めた。
スールカティーが改革主義思想の影響を受けた経緯は十分に明ら かではないが、 次の2点は重要だと考えられる。 ひとつは、 近代の 改革主義者たちに大きな影響を与えたイブン・タイミーヤ
やイブン・カイイム・ジャウズィーヤ
の著作、 さらにアブドゥフの著作やリダーが主宰する雑誌 マナー ル を、 ヒジャーズ滞在時に読んだとされることであ る(13)。 もうひとつとして、 短期間ではあるものの、 マッカのファ ラーフ学校 という近代的なイスラーム教育機関 に教師として勤めたことがあげられる(14)。 スールカティー自身は 伝統的なイスラーム教育しか受けていないようであるが、 この学校 の教師として近代的な教育活動を経験したと考えられる。
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1911年、 スールカティーは、 バタヴィアを中心に活動していたジャ ムイーヤト・ハイル (「慈善協会」 の意) に、 付属の 学校の教師として雇われて東インドに渡った。 ジャムイーヤト・ハ イルは、 1901年にバタヴィアのハドラミーたちによって設立された 組織であり、 当時バタヴィアとバイテンゾルフ (現ボゴール) で近 代的なイスラーム学校を運営していた(15)。
イルシャードは、 スールカティーとジャムイーヤト・ハイルの指 導部の間に生じた対立を背景に結成された。 この対立の原因となっ たのは、 一般にサイイド ( ) やシャリーフ ( ) などと呼ば れる預言者ムハンマドの子孫の特殊性をめぐる問題である。 ジャム イーヤト・ハイルは、 ハドラミーの中でもアラウィー とい う名の預言者の一族が指導的な地位を占めていた。 ハドラマウトで は、 シャリーファ ( アラウィーの家系の女性) と預言者の一族 ではない一般のムスリムの婚姻は、 配偶者間の系譜の対等性 ( ) を満たさないという理由で固く禁止されていた(16)。 ところが、 東 南アジアの移住地では、 この規制を無視する婚姻が行われるように なっていた。
1913年にソロで開かれたある会合の中で、 スールカティーは、 イ スラームにおいてすべての信徒は平等あるという見地から、 一般の ムスリムとシャリーファの婚姻を合法とする見解を述べた(17)。 彼 によれば、イスラームは、「公正と平等の宗教( )」 であり、 その法規定はすべての信徒を等しく扱うため、 系譜の対等 性は婚姻において考慮すべき条件に含まれない。 人間の優劣を決め るのは、 系譜のような 「その人物の血や肉の生得的な性質 (
)」 ではなく、 「獲得的な性質、 足跡、 教育の良さ ( )」 である。 このようなスールカティー の見解は、 預言者の子孫の優越性を認めないものであり、 ジャムイー ヤト・ハイル内のアラウィーたちの反感を買うことになった。
すべてのムスリムの平等性を強調するのは、 スールカティーに限 らず、 イスラーム改革主義者全般に共通して認められる特性として 指摘される(18)。 1905年にシンガポールで、 預言者の子孫を称する
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が系譜の真偽が疑わしいインド出身のムスリムとシャリーファの婚 姻の合法性が問題になった時、 同地の マナール の読者から見解 を求められたリダーは、 そのような婚姻も合法となり得ると答え た(19)。 その根拠としてリダーがあげているのも、 「イスラームの聖 法は公正と平等の聖法 ( )」 であり、 信徒は対 等に扱われるということである。 一般に、 改革主義者たちは、 多神 崇拝 ( ) に結び付くような慣行を非難する一方で、 唯一の神の 前ではすべての信徒が出自にかかわりなく対等な立場にあることを 強調するのである。
ジャムイーヤト・ハイルと訣別した後、 スールカティーはバタヴィ
アで、 「導きのためのイスラーム学校 」
という私塾を開いた。 これがイルシャードの学校の始まりである。
「イルシャード」 という名称は、 リダーが1911年にカイロで開設し
た 「宣教と導きのための学校 」 に由
来するものとされる(20)。 アラウィーの指導的立場に反対するハド ラミーを中心とするスールカティーの支持者は、 彼の学校の活動を 支援していく目的で、 「改革と導きのためのアラブ人協会
」、 すなわちイルシャードの協会を結 成したのである。
イルシャードの協会と学校がそれぞれ 「アラブ人」 と 「イスラー ム」 を名称に掲げていることは、 大まかに言えば、 この組織が結成 時に持っていた2つの性格を示唆している。 イルシャードの協会は、
アラブ人、 特に 「ハドラミーの組織」 という性格が顕著である。
1915年に公布された協会の規約は、 活動の目的として、 「イスラー ムの信仰と一致したアラブ人の慣習 ( ) を普及さ せること」 や 「アラブ人の共同体 ( ) に読み書き の教育をすること」 をあげている(21)。 会員資格は東インドのすべ てのムスリムに開かれていたが(22)、 協会の結成に携わったのはす べてハドラミーである。 オランダ統治期を通してハドラミー以外の 者に協会の指導部の要職が任されることはなかった。 設立者・指導 者であるスールカティーさえも協会の運営には関与しなかった(23)。 オ
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これとは対照的に、 イルシャードの学校は、 アラブ人やハドラミー に限らない、 すべてのムスリムに開かれた性格が強い。 スールカティー がバタヴィアで開いた学校の教師の多くは、 彼と同じように、 ハド ラミー以外のアラブ人であった(24)。 また、 その学校には、 アラブ 人だけでなく多くのプリブミの生徒が通っていた。 1917年に在籍し ていた生徒数は、 アラブ人が70名、 プリブミが80名である(25)。 当 時の人口比から考えればアラブ人の生徒の割合は大きいが、 プリブ ミの生徒の数も決して少なくない。
イルシャードの学校が持つすべてのムスリムに開かれた性格は、
スールカティーの唱える 「平等主義」 と一致したものだと言えるだ ろう。 この 「平等主義」 とイルシャードの 「ハドラミーの組織」 と いう性格は、 潜在的には対立するものである。 以下では、 イルシャー ドの教育活動の展開を、 両者の関係を軸に分析していくことにした い。
Ⅲ. 2つの 「巡礼」
イルシャードの教育活動は、 モビニ=ケシェーが論じているよう に東インドの公教育制度から分離したものだったのだろうか。 興味 深いことに、 イルシャード結成から1920年代半ばまでのスールカティー の教育に関する言説からは、 「巡礼」 という観点に立てば、 最終目 的地の異なる2つの考えが読み取れる。 ひとつは、 イルシャードの 学校を東インドの公教育制度に対応させようという、 東インドの内 部に向かうものであり、 もうひとつは、 中東アラブ地域の教育機関 に生徒を送るという、 東インドの外部に向かうものである。
. 東インドの公教育制度への対応
1910年代後半、 イルシャードは支部と学校を増加させていく。 そ のような中、 スールカティーは、 1919年3月に、 イルシャードの学 校の改革案を協会の指導部に提出した(26)。 その中で注目すべきな のは、 学校間の教育内容を統一するとともに、 「政府の初等教育の
プログラム ( )」 を導入するとい
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う提案である。 すなわち、 スールカティーはイルシャードの学校を 東インドの公教育制度に対応させることを意図していたのである。
しかし、 彼の改革案は、 この時点では協会の指導部の同意を得る ことができなかった。 政府の初等教育のプログラムを導入する理由 としてスールカティーがあげているのは、 プリブミ社会の要望に応 えることである(27)。 イルシャードの学校が卒業生に 「政府の証書 ( )」 を発行し、 役所や企業に就職できるようにし なければ、 「プリブミのもとでのイルシャードの評判(
)」 が悪くなり、 プリブミの生徒が集まらなくなってし まうと彼は説明している。 この背景として、 20世紀初めの東インド では 「倫理政策」 によって学校教育が普及し、 社会的上昇における 学歴の重要性が増していたことが指摘できる(28)。 ところが、 東イ ンドのアラブ人は、 全般的に公教育を受けることに消極的であった。
アラブ人の多くは、 植民地政府による教育が自分たちの宗教を崩壊 させるものと見做していた(29)。 また、 アラブ人の大半は自営の商 人であり、 その子弟は家業を継ぐのが一般であったため、 学歴から 得られる社会的上昇の機会に対する関心も概して低かった(30)。
スールカティーの提案が実行に移されるのは、 ようやく1920年代 半ばを過ぎてからのことである。 1927年4月に、 スールカティーを 議長として第1回イルシャード教師会議がバタヴィアで開かれ、 そ の中でイルシャードの学校を部分的に公教育制度に対応させること が決定された(31)。 すなわち、 初等学校 ( 4年制) を2種類に分け、 一方は従来通りのアラビア語を教授用語とする学 校とし、 もう一方を植民地の公教育制度における 「連鎖学校(
)」 にするというものである。 この学校では、 教授用語はオラ ンダ語となり、 アラビア語と宗教諸学は追加的に教えられる。 連鎖 学校の卒業生は、 公教育制度におけるエリート向け初等学校である オランダ語原住民学校 ( ) を卒業したの と同等の資格を得ることができる。 しかしながら、 連鎖学校導入の 試みは、 結局のところ失敗に終わってしまう。 会議の同年及び1929 年に、 スラバヤ支部が連鎖学校を開設したものの、 いずれも短期間 オ
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で閉鎖されてしまった(32)。 それ以降、 イルシャードが連鎖学校を 開設しようとする動きは見られない(33)。
このようにイルシャードの学校を植民地の公教育制度に対応させ る試みが中々進まなかった大きな要因として、 教育活動をめぐるイ ルシャード内の見解の相違があげられる。 スールカティーがプリブ ミの生徒も積極的に集めようとしたのに対して、 イルシャーディー の中には、 イルシャードの教育活動は第一にハドラミーのためにあ るべきだと考える者がいたのである。 1920年代後半、 あるハドラミー がバタヴィア校を訪れた際、 スールカティーに生徒の数とアラブ人 の生徒の割合を尋ねた。 スールカティーは、 「彼らはすべてムスリ ムであり、 ムスリムは兄弟である。 我々は彼らのうちの誰ひとりと して区別したりはしない」 と応じた。 しかし、 この人物が納得せず にしつこく尋ねたため、 スールカティーはとうとう、 「生徒の中の ジャワ人の子弟 ( ) に対するアラブ人の子弟の割合 は30 である」 と答えた(34)。 バタヴィアの人口比から考えれば、
依然としてアラブ人の生徒の割合は小さくないが、 この人物は、 スー ルカティーの返答に衝撃を受け、 「我々の民ハドラミー (
)」 が教育に熱心でないことを嘆いている(35)。 彼のように、
イルシャードを 「ハドラミーの組織」 と見做す者が、 プリブミ社会 の関心に合わせたスールカティーの提案に進んで同意したとは考え 難い。
スールカティーがイルシャードの学校を植民地の公教育制度、 つ まり東インド内の 「巡礼」 に対応させようとしたのは、 「平等主義」
に基づいてアラブ人だけでなくプリブミの生徒も受け入れるためだ と言える。 しかしながら、 そのことは、 イルシャードの 「ハドラミー の組織」 という性格と必ずしも一致するものではなかったため、 スー ルカティーの意図の実現は阻害されることになったのである。
. 「カリフ論」 における教育機関の構想
興味深いことに、 イルシャードの学校を東インドの公教育制度に 対応させようとしていた同時期に、 スールカティーは、 「巡礼」 と
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いう観点に立てば、 東インドの公教育制度から分離する考えも示し ている。 20世紀初め、 特に1920年代にオスマン朝のスルターン制と カリフ制が相次いで廃止された頃、 世界各地のムスリムの間でカリ フ制の問題に対する関心が高まっていた。 1924年5月から6月、 スー ルカティーは、 自身が主宰する雑誌 イスラームの至宝
に 「カリフ論」 を発表し、 その中で、 新たなカリフ制 に付随し、 イスラーム世界の中心となる教育機関を中東アラブ地域 に設立する構想に言及している(36)。 この教育機関は、 世界中のす べてのムスリムによって費用が担われ、 イスラーム世界の各地から 優秀な生徒を集めて、 それぞれの地域に戻ってカリフの代わりを務 めるカーディー ( 法官) やムフティー ( 法勧告を提出す る法学者)(37)を育成するというものである。 スールカティーは、 こ の教育機関が実現したならば、 イルシャードの学校の卒業生も入学 することを想定していたと考えられる。
イルシャーディーの間では、 スールカティーの教育機関の構想を 実現させようとする動きが見られる。 1926年2月にバンドゥンで開
かれた第5回東インド・イスラーム会議 に
おいて、 イルシャードのスラバヤ支部は、 マッカ近郊の都市ターイ フに 「大学 ( )」 を設立することを提案している(38)。 提案 の内容はスールカティーの示した構想と概ね同じであり、 この 「大 学」 には 「世界中のイスラーム学校 (
)」 を卒業した者が入学でき、 卒業生は各地で 「イスラームの 宣教師( )」 となるというものである。
しかし、 最終的にカリフ制は再興されず、 スールカティーの考え たような教育機関も実現には至らなかった。 結局、 イルシャーディー の主な留学先となったのは、 アズハルやダール・アル=ウルーム があるエジプトのカイロである。 20世紀前半のカイロ はイスラーム世界の近代的な教育の中心地であり、 そこには東南ア ジア各地から多くの学生が集まっていた(39)。 1930年代半ばには、
イルシャーディーのグループも含めて40名ほどのハドラミーの学生 がカイロに滞在していた(40)。
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スールカティーの 「カリフ論」 に関してもうひとつの重要な点は、
その中に彼の思想的な特徴を読み取ることができることである。 カ リフ制の再興とともにイスラーム世界の中心となる教育機関を設立 するという考え自体は、 スールカティーの独創とは言い難い。 彼の 論考が発表される少し前、 1922年から1923年にかけてリダーが マ ナール で発表した 「カリフ論」 の中でも、 類似した教育機関の計 画が示されている(41)。 但し、 リダーのものと比べると、 スールカ ティーの 「カリフ論」 と教育機関の構想には明らかな違いがある。
リダーの 「カリフ論」 には、 前述の 「平等主義」 と矛盾するアラ ブ主義的傾向が表れている。 リダーは、 カリフの条件としてクライ シュ族(ムハンマドの出身部族) の出自をあげている(42)。 この条件自 体は古典的なスンナ派法学に従ったものであるが(43)、 それに関す るリダーの議論は、 アラブ人がイスラームにおいて占める中心的・
指導的立場、 アラブ人の非アラブ人に対する宗教的な優越といった 考えと結び付いている。 また、 リダーのアラブ主義的傾向は、 「カ リフ論」 の中でイスラームにおけるアラビア語の絶対性を強調して いる部分にも表れている(44)。 彼によれば、 アラビア語はすべての ムスリムを統一する言語であるのに対して、 他の言語は 「人種の連 帯意識 ( )」 につながるものであり、 イスラーム共同 体に分裂をもたらす要因になる。 そして、 非アラブ人がイスラーム に奉仕することができるのは、 結局 「その言語 (アラビア語) の程 度に応じてのみ」 なのである。 このようなアラブ主義的傾向は、 リ ダーだけではなく、 多くのアラブ人の改革主義者に共通して認めら れる特性である(45)。
これに対して、 スールカティーの 「カリフ論」 は、 アラブ主義的 傾向を示さず、 「平等主義」 で一貫している。 彼は、 カリフの条件 としてクライシュ族の出自をあげず、 「人種 ( )」 や 「出身部族 ( )」 を考慮する必要はないと論じている(46)。 それどころか、
彼によれば、 能力のあるムスリムの間に競争を生み出し、 「イスラー ムの公正さ ( )」 を示すためには、 「ムスリムの中の最も 質素な家 ( )」 からカリフが誕生することさ
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え望まれるのである。 また、 スールカティーはリダーと異なり、 ア ラビア語以外の言語の相対的な重要性を認めている。 彼も、 アラビ ア語がすべてのムスリムの共通言語であり、 イスラームを正しく理 解するために必要であると述べている(47)。 但し、 スールカティー の構想する教育機関では、 「宣教に不可欠な諸言語 (
)」 が教えられるとされている(48)。 この 「諸言語」 とは、 東 インドの場合で言えば、 ムラユ語やオランダ語のことを指している と推察される。 実際、 スールカティーは自身のアラビア語の著作を、
それらの言語に翻訳して出版している(49)。
スールカティーが 「カリフ論」 で言及している教育機関は、 「巡 礼」 という観点に立てば、 イルシャードの学校を東インドの公教育 制度に対応させようとする考えとは最終目的地が異なり一見矛盾す る。 しかしながら、 いずれの考えも、 アラブ人であれプリブミであ れ、 すべてのムスリムがイスラーム共同体の対等な立場の構成員で あるという理念に基づいたものだと言うことができる。
Ⅳ. ハドラマウトかインドネシアか
1920年代末から1930年代末にかけて、 イルシャードは大きな転機 を迎える。 この頃になると、 「世俗主義」 の台頭を警戒して、 教育 活動に関するスールカティーの言説には明らかな変化が見られる。
一方、 東インドのアラブ人社会は、 帰属意識の問題を争点に二分し ていく。 そのような中で、 イルシャードは活動の方向性を最終的に 決定していくことになる。
. スールカティーの見解の変化
1920年代末になると、 スールカティーは学生が東インドの外に出 て学ぶことに否定的な見解を示すようになる。 1928年に行われた ダフナー の記者との会見の中で、 彼は、 東インドの ハドラミーにとっての 「留学生団 ( )」 の必要性 と派遣先について意見を問われた。 これに対する彼の答えは、 「私 の考えでは、 ハドラミーの共同体 ( ) は、 差し オ
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迫って必要なときを除いて、 決して外国に留学生団を送ってはなら ない」 というものであった。 その理由として彼があげているのは、
海外で学んだ者が 「彼らの根本的な原則( )」 を棄て、
「死に到る社会的な伝染病( )」 を持ち帰ってく るということである。 スールカティーは、 もし学生を海外に派遣す るのであれば 「監督者 ( )」 を同行させなければならず、 東イ ンドで学問が学べる限り外国に行くべきではないと述べている(50)。 それでは、 ここでいう 「根本的な原則」 と 「死に到る社会的な伝 染病」 とは何を指しているのだろうか。 同時期に行った演説の中で、
スールカティーはトルコに端を発するイスラーム世界の危機的な状 況を論じている(51)。 彼によれば、 トルコ人の若者の一部は、 ヨー ロッパ留学から帰ってくると、 「彼らの父祖の慣行や東洋人として の性質、 それどころか宗教までも (
) 失ってしまった」。 そしてトルコでは、 「イスラーム とムスリムに敵対する思想的な革命 (
)」 が起こり、 その影響はイスラーム世界各地に広まりつつ ある。 このことから、 上述の会見で述べた 「根本的な原則」 とは特 に宗教 (イスラーム) のことを、 「死に到る社会的な伝染病」 とは、
当時のトルコに見られる反宗教的な考え、 いわゆる 「世俗主義」 の ことを指していると推察される。 すなわち、 スールカティーが海外 留学に否定的な見解を示すようになったのは、 学生が 「世俗主義」
の影響に感化されることを危惧したためである(52)。
また、 この時期のスールカティーは、 イスラームとともに東イン ド社会におけるアラブ人の立場にも危機感を募らせている(53)。 1920 年代末までに、 東インドにおけるナショナリズム運動は、 イスラー
ム同盟から共産党 、 そして国民党
へと主導権が移り、 その性質はプリブミを中心 とした 「世俗的」 なものになっていった。 アラブ人は運動から排除 されていったのみならず、 アラブ人 (ハドラミー) 意識に固執して インドネシアに帰属意識を示さない者がいたり、 金貸しを営む者が いたりしたことなどから、 サルトノ やスカルノ
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といった国民党の指導者たちによる批判の対象にもなった(54)。 さ らに、 アラブ人とプリブミのイスラーム指導者たちの間にも溝が生 じていた。 その一因となったのは、 ちょうどリダーが 「カリフ論」
で示したのと同じように、 アラブ人がしばしば非アラブ人であるプ リブミのムスリムを自分たちよりも劣った存在と見做していたこと である(55)。
スールカティーは、 上述の演説の中で、 東インドのアラブ人の立 場とイスラームを護るために、 プリブミのムスリムと協力関係を築 くようにイルシャーディーに訴えかけている(56)。 彼によれば、 「ア ラブ人がしなければならないことは、 プリブミのムスリムと混じり 合い、 一致することである。 なぜなら、 彼らと団結し、 お互いに助 けあって義
ただ
しいことを行い、 信仰を深めていくことによって以外、
我々に成功はないからである」(57)。 スールカティーは、 イスラーム には 「特定の人種性 ( )」 はなく、 「ジャワ人のウラマー ( )」 がアラブ人よりも劣っていることなどないと 述べ、 アラブ人とプリブミが対等な関係であることを強調している。
これらのことから、 1920年代末になると、 スールカティーは関心 の対象を東インドに据えた 「現地志向」 を明確に示すようになった と言えるだろう。 彼は、 イスラーム世界に広まる 「世俗主義」 と東 インドにおけるアラブ人の立場に対する危機感から、 学生の海外留 学、 つまり東インドの外部に向かう 「巡礼」 に否定的になるととも に、 東インド内におけるアラブ人とプリブミのムスリムとの関係を 今まで以上に重要視するようになったのである。
. アラブ人社会の帰属意識をめぐる問題
1920年代末から1930年代にかけて、 東インドのアラブ人社会では、
ハドラマウトかインドネシアか、 という帰属意識の問題をめぐって 次第に亀裂が生じていった(58)。 1920年代末頃から、 東南アジア各 地のハドラミーの間で、 後進的な 「祖国」 の改革に着手すべくハド ラマウトに進出する動きが目立ってくる。 1930年代には、 イルシャー ディーの一部もハドラマウトで学校の設立を試みている。 しかし、
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その一方で、 アラブ人社会の中には、 ハドラマウトではなくインド ネシアに帰属意識を持つグループも存在した。 このグループは、
1934年にスマランで、 イルシャードの学校の卒業生であるバスウェ ダン を指導者に、 インドネシア・アラブ人協会 (党) [ ] (以下 ) を結成した。
のメンバーは、 インドネシア・ナショナリズム運動との連帯を模索 する一方で、 インドネシアに帰属意識を示さないイルシャーディー たちと激しい論争を繰り広げた。
従来の研究では、 イルシャードと の対立は次のような構図 で理解されている。 すなわち、 イルシャードは 「純血」 ( ) のハドラミーが中心の組織であり、 イルシャーディーはハドラマウ トを祖国 ( ) と見做していたのに対して、 は 「混血」
( ) のハドラミーの組織であり、 その
メンバーにとっての祖国 ( ) はハドラマウトではなくインド ネシアであったというものである。 しかしながら、 実際には、 同時 期のイルシャードの内部にも、 東インド社会に適応しようとする動 きが見られることを見過ごすべきではない。
イルシャードの学校を植民地の公育制度に対応させる試みは、
1930年代に入っても継続されている(59)。 その結果、 イルシャード は1938年までに、 バタヴィア、 スラバヤ、 トゥガルにオランダ語ア ラブ人学校 ( ) やオランダ語原住民学校 といった公教育制度に従った初等学校を開設していた(60)。 それら の学校からは、 公教育制度の中等教育課程に進む者も現れている。
1938年頃、 イルシャードの学校 (おそらくバタヴィア校) から6名の 生徒が 「政府の証書 ( )」 を獲得し、 うち3名はム ハマディヤの運営するミュロー ( 公教育制度の中で普通中学校 に相当) に入学している(61)。
また、 1938年にイルシャードのバタヴィア本部が発行した冊子で は、 植民地の公教育制度に対応した中学校を開設する提案がなされ ている(62)。 その中では、 イルシャードが単独で中学校を設立でき ない場合には、 「いずれかのプリブミのイスラーム組織 (
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三 二 六
)」 と共同で取り組もうと述べられており、
プリブミのムスリムとの協力関係を重視する姿勢が示されている。
さらに、 上述の公教育制度に対応したイルシャードの学校には、
多数のプリブミの生徒が在籍していた。 同冊子は、 イルシャードの 学校がアラブ人だけでなくすべての 「インドネシアのムスリムの子 弟 ( )」 に開かれていることを宣伝している(63)。 実際のところ、 1938年頃にバタヴィアのオランダ語アラブ人学校に 在籍していた生徒の80 は、 「インドネシア人の子弟 (
)」 によって占められていた(64)。
このように、 イルシャーディーの一部がハドラマウトに教育活動 を広げることを試み、 と対立していた時期も、 イルシャードの 内部は、 「ハドラマウト志向」 の一色に染まっていたわけではない。
それと同時に、 スールカティーが唱えるような 「現地志向」 も併存 していたと理解するべきである。
イルシャードが活動の方向性を最終的に決定する上で大きな契機 となったと考えられるのが、 1939年にスラバヤで開かれた25周年記 念大会である(65)。 この大会でイルシャードの有力者たちが行った 演説からも、 プリブミとの協力関係を重視する 「現地志向」 と、 ハ ドラマウトでの教育活動を重視する 「ハドラマウト志向」 がイルシャー ドの内部にあったことが読み取れる。 後者の代表として、 スールカ ティーの高弟でイルシャードの指導的人物であったスラバヤ校の校 長ウマル・フバイス (66)は、 イルシャーディー に 「祖国」 であるハドラマウトで積極的に活動していくように熱心 に呼びかけている。
これに対して、 スールカティーは、 大会の最後に行った演説の中 で、 「現地志向」 を支持し、 「ハドラマウト志向」 に反対する立場を 明言している。 まず、 スールカティーは、 と和解し、 協力して いくようにイルシャーディーに求めている。 彼によれば、 のメ ンバーの大部分は、 「イルシャードの学校の卒業生やその原則や教 育が魂に影響を及ぼした者たち」 であり、 彼らの成功はイルシャー ドにとっても利益となるものである。 さらに、 スールカティーは、
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イルシャードがハドラマウトで教育活動を行うことをはっきりと否 定している。 その件については既にハドラミーたちとの間で話し合 いをして決着がついており、 ハドラマウトにおける教育の普及に携 わるのは、 イルシャードではないと彼は説明する。 その役割を担う のは、 ハドラミーの中でイルシャーディーの多くが所属するカスィー リー部族の者たちによって結成された 「カスィーリー改革協会
」 という別の組織である(67)。
結局、 イルシャード内の意見の大勢を占めたのは、 スールカティー の唱える 「現地志向」 である。 25周年記念大会の決定によれば、 イ ルシャードの学校は、 アラビア語を教授用語とする学校、 オランダ 語アラブ人学校、 そしてムラユ語を教授用語とする学校の3種類に なる。 新たにムラユ語 (インドネシア語) 学校を組み込む決定をした ことからは、 イルシャード内で東インド (さらにはインドネシア)社 会に適応しようとする考えが強くなっていたことが分かる。 さらに、
この大会の頃、 イルシャードは、 正式名称から 「アラブ人」 を外し、
「改革と導きのためのイスラーム協会
」 と名乗るようになった(68)。 このことは、 イルシャードが
「ハドラミー (アラブ人) の組織」 ではなく、 東インド (インドネシ ア) のイスラーム改革主義組織を志向するようになったことを象徴 している。 その後、 イルシャーディーの中にはハドラマウトで活動 することを選んだ者もいたが(69)、 ウマル・フバイスを初め多くの 者はスールカティーの意見に従い、東インド(インドネシア)に残った。
Ⅴ. おわりに
以上の分析から、 スールカティーのイスラーム改革主義思想はイ ルシャードの教育活動に対して決定的な影響を及ぼしたと結論付け られるだろう。
スールカティーの改革主義思想の重要な特徴として、 リダーら他 のアラブ人の改革主義者と異なり、 アラブ主義的な傾向を示さず、
より一貫して 「平等主義」 を主張している点が指摘できる。 この
「平等主義」 は、 イルシャードに、 アラブ人やハドラミーに限られ 東
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ない、 すべてのムスリムに開かれた性格を与えている。 特に注目す べきなのは、 イルシャードの学校にすべてのムスリム、 つまりアラ ブ人だけでなくプリブミの生徒も受け入れるために、 スールカティー が東インドの公教育制度への対応を主導していたことである。 この 考えは、 イルシャードの 「ハドラミーの組織」 という性格と齟齬を きたしつつも、 オランダ統治期を通して漸次的に実現されていった。
イルシャードの教育活動は、 東インドの公教育制度から分離してい たわけではないのである。
1920年代半ば頃のスールカティーは、 東インドの外部、 つまり中 東アラブ地域に向かう 「巡礼」 の考えについても言及していたが、
1920年代末になると、 東インドを対象とした 「現地志向」 をはっき りと示すようになる。 同時期から1930年代の東インドのアラブ人社 会は、 ハドラマウトかインドネシアか、 という帰属意識の問題に揺 れており、 イルシャードの内部にも 「ハドラマウト志向」 と 「現地 志向」 の双方の動きが見られる。 しかし、 1930年代末になると、 イ ルシャード内の見解は、 スールカティーが唱えるような 「現地志向」
に大きく傾き、 教育活動も東インド (インドネシア) に対応したも のを目指すようになった。 イルシャードは最終的に、 「ハドラミー の組織」 という性格を否定し、 「受け入れ社会」 である東インド (インドネシア) に統合する方向に導かれたと言えるだろう。
日本軍政と独立革命を経てインドネシア国家が成立した後も、 多 くのアラブ人はインドネシア国籍を得ることを選択した。 「受け入 れ社会」 に統合する方向に進んだイルシャード、 さらにはアラブ人 全般が、 独立後のインドネシア社会の中でどのようにして自分たち の場所を見つけ、 受け入れられていったのかを明らかにするために はさらなる分析を要する。 これについて筆者は別稿を準備中であり、
そこで論じることにしたい。
註
(1) 1930年の国勢調査によれば、 東インドにおける華人の人口は1233 214 人、 アラブ人の人口は71 335人である。 7 ( オ
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1935) 48
(2) プリブミは、 現在のインドネシア語で、 外来の人々に対して土着の 住民を指す。 アラビア語で同様の意味を持つ も、 本稿で はプリブミと訳した。
(3)
1800 1924 ( 1994)
6 (4)
( )
( 1997) 1 18 ハドラミー移民に関 する近年の研究動向については、 新井和広 「ハドラマウト及びハドラミー 移民研究展望」 イスラム世界 65 (2005):28 36を参照。
(5)
( 1999)
(6) 4 「巡礼」 という概念については、 ベネディクト・アン ダーソン (白石隆・白石さや訳) 定本想像の共同体:ナショナリズムの 起源と流行 (書籍工房早山2007) 196 200を参照。
(7) 例えば、 (
1961) 30 34
( )
( 1997) 295 308を見よ。
(8)
( 2003) 9
( 2007) 29
(9) スールカティーに関する専論として、
( ) (
1999)
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(1911 1943) 8 1 (2001) 57 86などがあげられるが、 イルシャー ドの活動におけるスールカティーの位置付けは曖昧である。
(10) 189 195
(11) 20世紀前半に東南アジアでアラブ人によって編集・発行された定期 刊行物については、
1914 1942 152 2 (1996) 236 256
( 2003) で紹介されている。
(12) スールカティーの生年・出生地に関する諸説については、
59を参照。 以下、 東インドに到来する以前のスール カティーの経歴については、 特に断り書きがない限り、 彼の実弟の記述
である ( )
(
2000) 25 37に基づく。
(13) (
1973) 64
( 1977) 110
(14) 63
(15) ジャムイーヤト・ハイルの歴史や活動については、
( 1953) を見よ。
(16) 配偶者間の系譜の対等性を考慮することは、 古典的なイスラーム法 において一般的であるが、 ハドラマウトでは婚姻の規制が特に厳格に守
られていたとされる。 ( )
6 (1957) 503 517 (17) この問題に関するスールカティーの見解は、
( [1915]) にまとめられている。
(18) 大塚和夫 近代・イスラームの人類学 (東京大学出版会2005) 第10 章を参照。 大塚は、 ゲルナー の議論に基づいて18世紀のワッ オ
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ハーブ主義運動から現代のイスラーム主義運動までに共通する特性を論 じている。
( ) ( 1969) 127 138
(19) 東南アジアのアラブ人社会における論争とリダーとの関わりについ ては、 拙稿 「アラウィー・イルシャーディー論争と中東の指導者たち:
1930年代前半における東南アジア・ハドラミー移民社会の内紛と仲裁の 試み」 オリエント 49 2 (2007) 91 109を参照。
(20) 109
(21)
( 1919) 12 13
(22) 13 但し当初は男性のみ。 規約のアラビア語版では、 単に 「人 物 ( )」 と記されているが、 ムラユ語版では、 「男性 ( 2)」 と明 記されている。
(23) 63 68
(24) イルシャードのバタヴィア校の教師については、 例えば、
2 ( 1979)
307 308を見よ。
(25) 生徒の人数は、 1917年に 報評 に数度掲載されたイ ルシャードの学校の広告に基づく。 例えば 2 36 ( 15 1917) 1を見よ。
(26) スールカティーの提出した改革案については、 ( ) 268 272を見よ。
(27) ( ) 271 272
(28) 深見純生 「「印欧人」 の社会政治史」 東南アジア研究 35 1 (1997) 49 52;弘末雅士 東南アジアの港市世界:地域社会の形成と世界秩序 (岩波書店2004) 180
(29)
( 1988) 19
(30) 82 東インドのアラブ人の職業について
は、
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三 二
〇
( 1939) 147 に簡潔にまとめられている。
(31) 1 ( 12 1927) 1 2 会議の決
定は、 6 ( 16 1927) 4に掲
載されている。
(32) 5 6 ( 1929) 111 2 16 ( 1929) 11
( 1936) 11
(33) この要因のひとつとして、 1920年代末になると連鎖学校という制度 自体が廃れたことが考えられる。
( 1938)
336
(34) ここでの 「ジャワ人 ( )」 という言葉は、 プリブミ全般を指 していると考えられる。 事実、 イルシャードの学校には、 スマトラやカ
リマンタン出身の生徒もいた。 66
(35) 5 ( 9 1927) 2 1930年のバ
タヴィアの人口約435 000人のうち、 アラブ人は6 000人強 (全体の約1 4 )
と見積もられる。 (
1987) 88 109 スールカティーの述べた数字に基づけば、
バタヴィア校のアラブ人の生徒の割合は約23 である。
(36) 8 9 ( 1924) 408 10
( 1924) 501 510 イスラームの至宝 にはアラビア語版とムラユ語 版があるが、 ムラユ語版には論考の前半部分までしか掲載されていない。
以下の内容は基本的にアラビア語版に基づく。 スールカティーは教育機 関の場所について明言していないが、 新たなカリフはマッカを本拠地と しなければならないと述べているため、 教育機関の設立される場所もマッ カ付近だと推察される。
(37) ムラユ語版に 「ムフティー ( )」 とあるため、
の複数形と判断し、 一般的ではないが と読んだ。
(38) 2 8 9 ( 25 4 1926) 3
(39) 1920
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三 一 九
9 (1970) 73 87
(40) 2 2 (
2001) 345 346
(41) 24 2 ( 16 1923) 109 111 (42)
23 10 ( 18 1922) 737 744
(43) スンナ派法学におけるカリフ論については、 中田考 「イスラーム法 学に於けるカリフ論の展開」 オリエント 33 2 (1990):79 95を参照。
(44) 24 2 118 120
(45) 例えば、
( 1983) 11
117 2 (1997) 253 277を 見よ。 ハッダード は、 リダーの唱えるアラブ人の優位は、 人 種的なものというより宗教的なものであり、 「アラブ宗教ナショナリズム
( )」 という表現が適切だとする。
(46) 10 508 509 インドのイスラー
ム改革主義の思想家・政治家で、 ヒラーファト運動の指導者であったアー ザード ( 1958) も、 自身の 「カリフ論」 において、
すべてのムスリムは平等であるという論拠に基づき、 カリフはクライシュ 族出身者でなければならないとする規定は無効であると論じている。 アー ザードの 「カリフ論」 は、 マナール にアラビア語訳が掲載された。 ク ライシュ族の規定に関する議論については、
23 10 ( 18 1922) 752 757を見よ。 興味深いことに、 スー ルカティーは、 カリフに相応しい人物の一人として、 リダーらとともに アーザードの名前をあげている。
(47) 8 9 416
(48) 419
(49) スールカティー自身はムラユ語もオランダ語もできなかったようで、
翻訳では友人や弟子の助けを借りている。 ムラユ語では、 イスラームの
至宝 のムラユ語版の他、 (
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三 一 八
1933) が、 オランダ語では、
( 1932) がある。
(50) 2 3 ( 1929)
14 15 (51)
2 4 ( 1929) 5
(52) もっとも、 前節で述べたように、 1920年代末以降もイルシャードの 学生はカイロには留学しており、 スールカティーも彼らの留学に必ずし も反対していないようである。 例えば、 ラシーディー (ジャワ 人。 インドネシア共和国初代宗教大臣) はイルシャードの学校を卒業し た後、 スールカティーの推薦状を携えてカイロに渡っている。 但し、 彼 は、 その推薦状を持ってスールカティーと交友のあったタンターウィー・
ジャウハリー のもとを訪れている。
(
1972) 89 カイロには彼のような 「監督者」 がいたため、 スール カティーは留学を認めたのではないかと思われる。
(53) 2 4 5
(54)
20 (1931) 176 178
(55) 139 191 193
194
(56) 2 4 5 6
(57) 「お互い助け合って…信仰を深めていく」 はクルアーン5章3節から の表現。 翻訳では井筒俊彦訳 コーラン (上) (岩波書店1964), 143を 参照した。
(58) 以下の内容は、 6 7に基づく。
(59) 前述のイルシャードのスラバヤ支部による連鎖学校開設の試みと1932 年代頃にバタヴィアで設立されたイルシャードのオランダ語アラブ人学 校については、 モビニ=ケシェーも脚注の中で言及している。 しかし、
公教育制度に対応させようという考えは、 イルシャードの中で 「少数意 見」 であったとし、 その重要性を認めていない。
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82 47
(60) ( 25 1938) 413 415
(61) 14 ( 1938)
15 この論説はスールカティーによるもので、 彼が 「我々の学校 (単数) ( )」 と述べていることから、 これはイルシャードのバタヴィ ア校のみを指していると推測される。
(62)
( 1938) 30 この冊子はアラビア語とムラユ語の部分からな り両者の内容は異なる。 該当箇所はアラビア語の部分。
(63) 6 該当箇所はムラユ語の部分。
(64) ( 25 1938) 414
(65) 以下、 25周年記念大会については、
31 ( 1939) 30 36に基づく。
(66) ウマル・フバイスについては、
1 ( 1990) 25 31を参照。
(67) カスィーリー改革協会は1931年にバタヴィアで結成された。
6 ( 1932) 304 305 (68) 25周年記念大会で書記を務めたアフマド・マフフーズ
氏によれば、 名称の変更は同大会で行われた (インタヴュー、
2009年2月19日、 スラバヤ)。 確かに25年を記念した冊子には、 「導きの
ためのイスラーム協会 」 という名称が使われ
ている。 但し、 この冊子には、 インドネシア独立についての言及がある ことから、 冊子自体はインドネシア独立宣言以降に作成されたものと考 えられる。
( ) 24
(69) 3 ( 1966)
36
(慶應義塾大学大学院文学研究科後期博士課程) 東
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