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軽業と偶然性

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Academic year: 2021

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(1)

八九 一   五寸宙に浮く身体   彼ははたして空を飛翔する夢を見ただろうかと問うてみたくなるような人が日本の歴史をふり返ったときには驚く ほど少ないと感じる︒もちろん近代であれば︑すでに堀切直人が試みていたようにたとえば佐藤春夫や谷崎潤一郎の 離陸への意志といったものを︑あるいは稲垣足穂にあらわな天翔る飛行機への憧憬をとり上げ︑彼らの飛翔願望を論 じることは可能であろうが︑前近代の︑とくに古代のこの国の人間へ発する言葉としては︑その問いはどこか上滑り な 時

アナクロニズム

代錯誤 を感じさせるものがある (

︒ かりに﹁飛翔への渇望は︑ 人類そのものと同程度に古い﹂ 1 ) (

この問いに対して日ごろの思いのたけを軽やかに語ってくれそうではあるが︙︙︒ 思えないのである︒ ただし例外として少なくとも一人︑ 平安後期に生きた藤原 成 通 (一〇九七~一一六二) であれば︑

しげみち

わが国においては伝統的にこの種の願いが想像力の鋳型を形づくるにあたってなにほどかの貢献をなしたとはあまり のだとはしても︑ 2 )

  そう考えるのは︑なにもわたし一人だけではないらしく︑すでに澁澤龍彦が﹁空飛ぶ大納言﹂と題しこの成通を主 人公に仕立てて︑ エッセイとも小説ともつかぬ魅力的な文章を書いている︒ ﹁おそらく︑ 彼は重力の支配をのがれて︑ 軽業と偶然性 ──院政期精神史のひとつの試み(一)──

尾    形    弘    紀

(2)

九〇 大 地 から 足 を 離 してしまうということに︑幼 児 から 異 常 な 執 念 を 燃 やしていたような 人 物 ではなかったろうか﹂ (

成通の心のうちをおしはかる澁澤は︑ と 3)

だから成通にとって︑鞠とは飛翔願望のシンボルであり︑とりも直さず︑自分自身と同一視されるべき鍾愛のオ ブジェにほかならなかった︒鞠に運動をあたえるのは自分の足だが︑その自分はむしろ︑鞠の力によって上方へ ひっぱりあげられているような気がしていた︒鞠のおかげで︑地上を軽々と飛び立つことができるような気がし ていた (

︒ 4)

と 論 じていた︒鞠 とは 蹴 鞠 のそれ︒成 通 は 周 知 のごとく 蹴 鞠 の 世 界 で﹁鞠 聖﹂とまで 称 えられるその 道 の 名 人 であ る (

︒ 5)

  彼の常人離れした身の軽さにまつわる逸話は諸書に散見されるが︑たとえば﹃今鏡﹄によれば︑日ごろある女のも とに通っていた成通は︑彼をとらえようとする男たちの厳重な警戒を尻目に築地をひょいと飛び越えて︑やすやすと 彼女に会いに行ったという︒そうした彼の振舞いについて同書は︑

おほかた︑早業をさへならびなくし給ひければ︑そりかへりたる沓はきて︑高欄のほこぎの上歩み給ひ︑車のま へうしろ︑築地のうらうへ︑とどこほる所おはせざりける (

︒(巻六﹁藤波の下﹂ ︑雁がね) 6)

と 一 言 で 語っている︒ ﹁早 業 をさへ﹂という 語 調 からもうかがわれることだが︑彼 はその 身 軽 さを 発 揮 する 蹴 鞠 はも ちろんのこと︑笛 や 和 歌︑漢 詩︑今 様︑乗 馬 などにも 天 賦 の 才 を 示 したことが 同 書 からうかがわれる (

を想起したくなるほどの多芸ぶりだが︑公任にくらべこちらはもっと荒あらしく野生的な異能というべきだろう︒ ︒三 船 の 才 7)

  彼のほとんど神話的振舞いとでも評しうる﹁早業﹂の多くをいまに伝えてくれる書物としては︑蹴鞠の伝書である

(3)

九一 軽業と偶然性(尾形) ﹃成通卿口伝日記﹄をまずは挙げることができる︒彼の逸話のいくつかを以下に列記しよう (

︒ 8 )

○宮中にある下侍︹侍臣の詰所︱︱引用者注︒以下同様︺で︑台盤や人の上に乗って鞠を蹴り上げてみせた話︒台 盤 の 上 で 鞠 を 蹴 る 音 はしても 台 盤 に﹁沓 のあたる 音 を 人々にきかせず﹂ ︑また 肩 や 頭 に 乗 られた 者 もせいぜい ﹁鷹を手にすへたる﹂ほどの肩の重み︑ ﹁平笠をきたる心地﹂がするくらいの頭の重みにすぎなかったという︒こ れは︑それを見た侍の一人が﹁涙を落してほめ感じたり﹂というほどの美技であったらしい︒ (二七条)

○父宗通とともに清水寺に参籠した際︑あの舞台の高欄の上にのぼって鞠を蹴りつつ何度か往復してみせた話︒こ れを聞いた父は激怒して息子をすぐに寺から追い出し︑ 家にもひと月ほど寄りつかせなかったという︒ (二八条)

○坊門殿において︑牛車を四本の懸りの木のうちの一本︹あるいは二本︺に見立てて蹴鞠を行った話︹後述するよ うに︑のちに 定 型 化 された 通 常 の 蹴 鞠 の 会 においてはコートの 四 隅 に﹁懸 り﹂と 呼 ばれる 樹 木 が 植 えられてい た︺ ︒牛 車 の 向 こう 側 に 鞠 がそれても︑車 の 下 をすばやく 走 りくぐって︑鞠 を 落 とすことなく 庭 の 中 央 に 戻 して みせた︒人びとは﹁早業不思議也﹂と騒ぎたてたが︑父宗通はそれを見て﹁是ほどの事になりぬれば︑ともかく もいふべきにあらず﹂とあきれ顔だったという︒ (三一条)

  これらの逸話を一話のうちにまとめて収録している﹃古今著聞集﹄にはまた別の話もあって︑屋根の上に寝そべっ たところからやおら転がり落ち︑軒端で何事もなかったように座ってみせるという猫のような敏捷ぶりを披露するこ ともあったとのこと (

︒ 9 )

  いま最後に挙げた逸話からとくにうかがわれるように︑彼の振舞いにはなんらかの意味や目的があってしたものと いうより︑それ自体の楽しみから思わずやってしまったものといったおもむきがある︒そうした彼の無心の︑という

(4)

九二

か 無 邪 気 な 軽 業 への 意 志 がみごとに 実 を 結 んだのか︑鞠 場 における 彼 の 姿 は 同 時 代 の 花 園 の 左 大 臣 こと 源 有 仁 (一一〇三~四七)に次のように語られている︒

其︹成通の︺ 躰︑ 上より物を下げて︑ 土より五寸ばかり上がりて︑ 浮きて見ゆ︒ おほよそ万人みな消えて見ゆ (

︒ 10 )

  その直前には︑ 当時のいわゆる下臈鞠の代表者というべき達人の源九(源基経︒ 法名蓮実︒ ﹁とんばう返り﹂ の名手︒ 生 没 年 不 詳)が 登 場 し︑彼 についても 有 仁 は﹁源 九 躰 宛 如 舞 蝶(源 九 の 躰︑ 宛

さなが

ら 舞 ふ 蝶 の 如 し) ﹂と 讃 嘆 を 惜 しんで はいないものの︑さすがの源九も﹁拾遺納言︹成通を指す︺に並びては︑さしも劣りて見えしは︑彼卿上なき上手な り﹂と評していて︑成通のほうに軍配をあげている︒

  地上から五寸浮いている男!   有仁の目には成通はそうした 奇

あやし

異 の者として映った︒彼のあまりにたくみな足さば きをそのように形容したのだといってはあまりに味気ないはずで︑少なくとものちの蹴鞠のプレイヤーは︑この不思 議の状態にまで行きつくことを修練の目標とはしたのである (

︒ 11 )

○︙︙足踏みは︑ 拍子を違へず︑ 庭の上に浮べるが如く有るべしと云々︒ (﹃革匊要略集﹄ 巻第四︑ 行儀︑ ﹁身躰事﹂ )

○只身をかろく︑足を浮かべて︑虚空を歩やうに心をかくべし︒ (﹃内外三時抄﹄練習篇﹁身躰﹂ )

○足踏は︑ 詮ずるところ︑ 庭上に浮びて滞るところなく︑ やすやすとして︑ しかも念ある也︒ ︹中略︺ 浮

うかぶ

といふは︑ 水鳥の波の上を往反し︑かつを虫︹ 水

あめんぼ

黽 のこと︺とて︑水の上にある虫の池面を進み退くがごとし︒これらは一 分の相似たるとたとふる也︒凡詞に述べがたく筆に書きがたし︒拾遺納言の鞠庭に立たれたるは︑物を上より釣 り下げて︑地の上五︑ 六寸ばかり上がりたるやうに見えけりといふも同じ︒ (同書︑同篇︑ ﹁足踏﹂ )

(5)

九三 軽業と偶然性(尾形)   のちに﹁鞠聖﹂として神格化される彼の姿は浮遊する身体として表象されている︒だから問いたくもなるというも のだ︑あなたは飛翔する夢を見たことがあるだろうか︙︙︒   さきに 挙 げた﹃口 伝 日 記﹄の 二 九 条 には 次 のような 話 が 見 える︒蹴 鞠 では︑ ﹁ 雲

くも

いり

﹂といって 鞠 をひたすら 高 く 蹴 り上げその高さを比べあうような余興を行なうことがあるが︑あるとき成通の蹴った鞠は空高く上がり︑文字どおり 雲の中に入ってしまって︑ついに戻ってくることはなかったという︒

空にて早風やありけん︑見えぬ程に巻揚られて︑其鞠雲の中へや入にけん︑見えずしてやみにき︒不思議の事に あらずや︒

  澁澤とともに鞠は成通の﹁飛翔願望のシンボル﹂にして彼の 分

ダブル

身 だとしたとき︑このときの鞠はもはや物理法則を 無視してしまい︑ついに地上に帰ってくることがなかったのだから︑彼のそんな願望あるいは夢を完全なかたちで実 現してみせた格好になっている︒かたや本身たる成通自身はどうだったのだろうか︒おそらく澁澤が語っていたほど には彼の境遇︑すなわち蹴鞠道が好んで語るさまざまな奇事の発生源となるいわば 神話上の

0000

彼の境遇は︑けっしてし あわせなものでなかったようである︒どうも彼はみずからが蹴り上げたあの雲入の鞠とは対照的に︑ギリシャの神イ カロスよろしく重力にあらがいえず地上に墜落したものらしい︒本論の最終的な目標は彼のこの失意の一部始終を目 撃しおおすことにある︒しかしそのことは追い追い述べてみることとして︑ひとまず蹴鞠がおかれていた社会状況に ついて︑この遊戯が一躍流行し成通も活躍していた院政期に焦点をあてて概観し︑そのうえで当時におけるこの遊戯 がもっていた象徴的意味を確認することからはじめなければならない︒

(6)

九四

二   狂

オルギア

騒 の時代

  蹴 鞠 とは︑よく 知 られているように︑中 空 の 鞠(鹿 皮 をなめして 造 られる)を﹁ 鞠

まり

﹂﹁ 鞠

まり

にわ

﹂と 呼 ばれるコート で 地 面 に 落 とさないようにして 蹴 りあうものである (

と︑さきに述べた懸りの木の存在が︑蹴鞠を考える際の重要な二要素とされている ( たある会ではじつに二〇〇〇回余りまでつづいたらしい︒この鞠を蹴り上げる回数( ﹁ 鞠 数 ﹂)をかぞえるということ

まりかず

状をした壊れやすい皮袋を蹴る当時の人びとの技術は驚くほど高いというべきで︑承元二(一二〇八)年に行なわれ けていられるかを競うものである︒実際に声に出してかぞえはじめるのは五〇回目からだというから︑あのやや楕円 り︑その後ほかの七人のいずれかに蹴りわたして︙︙ということを順次繰り返し︑皆で何回地に落とさずに蹴りつづ たのは﹁ 数 鞠 ﹂という遊びかたで︑一人がだいたい三回まで独りで(サッカーでいうリフティングのようにして)蹴

かずまり

鞠は一果︑二果とまるで果物のようにかぞえるのが流儀である︱︱を追いかけあうのである︒鞠の会で多く行なわれ レイヤーは八人おり︑それぞれがこれらの木の両脇に陣取って︑庭の中心に向かって立ち︑一個の鞠︱︱正確には︑ に 桜︑巽(南 東)に 柳︑坤(南 西)に 楓︑乾(北 西)に 松 を 据 えるというのが 故 実 になっていた︒ ﹁ 鞠 足 ﹂つまりプ

まりあし

は樹木が設けられるのが普通であった︒ この木を﹁ 懸 り﹂ といい︑ のちの時代には︑ (飛鳥井流によれば) 艮(北東)

かか

︒この 鞠 場 は 多 くの 場 合 邸 宅 の 南 庭 が 用 いられ︑その 四 隅 に 12 )

︒ 13 )

  蹴鞠という遊戯にはその成立に関して不明の点が多い︒史料を見ると︑その起源神話として黄帝が叛逆神である蚩 尤 を 涿 鹿 の 野 で 破った 逸 話 がしばしば 引 かれており(蹴 鞠 で 用 いられる 鞠 はこの 戦 いで 敗 死 した 蚩 尤 の 生 首 だとい う) ︑古 くより 蹴 鞠 は 中 国 伝 来 のものと 観 念 されていたことがうかがわれる (

ついては即断できない︒ かの遊戯に淵源をもつのはおそらく間違いないとしても︑後者が前者の形式にどれほどの影響をあたえているのかに ては重視される懸りの木の存在はどうやら中国の事例には見られないようであるから︑日本の蹴鞠が中国のなにがし ︒ただし︑たとえば 日 本 の 蹴 鞠 におい 14 )

(7)

九五 軽業と偶然性(尾形)   また日本においてそれがいつごろから行なわれるようになったのかについてもよくわかっていない︒初出例として ﹃日 本 書 紀﹄皇 極 天 皇 三 年 に 見 える 中 大 兄 皇 子 と 中 臣 鎌 子 が 親 密 になるきっかけとなった 周 知 の 場 面︑つまり 法 興 寺 の槻の木のもとで行なわれた﹁打毬﹂がよく引かれるが︑これが蹴鞠であるか︑文字どおり打毬(騎馬で曲杖をもっ て毬を打つポロ風の競技)であるかははっきりとしない︒史料において︑のちの形式とほぼ同様の蹴鞠の会について の 記 事 が 見 えだすのは︑どうやら 延 喜 年 間(九 〇 一~二 三)からのようであるが (

期こそ画期となるきわめて重要な時代だったといえる︒ (一 二 〇 八)年 四 月 一 三 日 の 鞠 会 が 行 なわれたのは 後 鳥 羽 院 のころであったから︑蹴 鞠 という 遊 戯 にとってこの 院 政 月 六 日 条) ︑蹴 鞠 の 様 式 や 故 実 が 確 立 し︑またのちに﹁長 者 の 御 鞠 会﹂として 称 えられるほど 盛 大 で 大 規 模 な 承 元 二 から 蹴 鞠 を 実 践 した 天 皇 として 最 初 に 記 録 に 残っているのは 後 白 河 院 であるし( ﹃山 槐 記﹄治 承 三(一 一 七 九)年 三 なことがらまでも記されるようになるのは︑あの成道の生きた一一世紀後半の院政期以降のことといってよい︒みず だけを書き留めたようなごく簡単な記述がほとんどである︒なんといってもさまざまの逸話とともに鞠を蹴る技術的 ︑ただそれも 鞠 が 上 がった 回 数 15 )

  この院政期は︑荒あらしいもの︑いかがわしいもの︑きたならしいもの︑下卑たもの︱︱ともかく既存の価値観念 からすれば"民衆的"と形容するほかない 異

アノマリー

例 なものがかつてないほどに社会の表舞台へと湧出し︑京に住む貴族た ちをも巻き込んで︑世界全体がとめどなくつづく 狂

オルギア

騒 のうちに放りこまれたかのような時代であった︒滑稽な物真似 やあやしい奇術を売り物にした猿楽者︑世間を流浪しつつ剣舞をしたり人形を操ったりして生活する 傀

くぐつ

儡 つかい︑新 奇の今様をうたいつつみずからの性をも 鬻

ひさ

いだ白拍子など︑ちまたを歩けば﹁課役なきをもて一生の楽と為﹂すさま ざまの﹁浪 人﹂を 目 にすることができたはずだし (

(一一〇五)年のみずからの日記のなかで春の陽気にうかされた人びとを描写して︑ 者 の 目 を 否 が 応 でも 猥 雑 な 外 なる 世 界 へと 向 けさせたはずなのである︒そして︑ときの 貴 族 藤 原 宗 忠 が 長 治 二 学世界を席捲しはじめていた﹃今昔物語集﹄のような説話文学が世間の奇事異聞をせっせと採集していたから︑その ︑その 騒 擾 を 嫌って 書 物 のうちに 沈 潜 したとて︑当 時 すでに 文 16 )

(8)

九六 凡 そ 近 日 万 木 花 開 き︑衆 人 遊 興 す︒或 は 和 歌 を 詠 み︑或 は 鞠 を 上 げて 興 あり︒毎 日 毎 夜 人々走 ること 狂 ふが 如 し (

︒ 17 )

と記していたことから知りうるように︑ほかでもなく蹴鞠もこの狂騒のうちにいた︒無理もない︒これよりはやく︑ 清 少 納 言 が﹁遊 びわざは︑小 弓︒碁︒さま 悪 しけれども︑鞠 もをかし﹂と 記 していたように (

れがはしきことの︑さすがに 目 覚 めて︑かどかどしきぞかし﹂と 源 氏 に 語 らせていたように ( ︑また 紫 式 部 も﹁乱 18 )

なもの〉と 感 じられたのであろう ( ば〈 堂 上 的 なもの〉をよしとする 風 からすれば︑蹴 鞠 のもつ﹁乱 れがはしき﹂雰 囲 気 はどうしようもなく〈 地 下 的

とうしょうじげ

︑当 時 の 貴 族 のいわ 19 )

し 出 して︑ ﹁四 五 十 度 計 リ 返 シ 立 テケル﹂ ︱︱四︑ 五 〇 回 も 指 先 で 宙 返 りさせたのだという ( を掻き上げるための道具︒日ごろ腰差しの刀の鞘に設けられた 笄 櫃 に収めておいた)をとりだし︑井戸の上に手をさ

こうがいびつ

鞠を﹁ 極 ク 微 妙 ク﹂ 蹴るという﹁春近﹂ なる者が︑ 若い女のまえでひとついい格好をしてやろうと︑ 刀の鞘から 笄 (髪

いみじめでたこうがい

︒その 点 では﹃今 昔 物 語 集﹄にささやかながら 興 味 深 い 説 話 が 採 られている︒ 20 )

業として観念されていたものかもしれない︒ ではちょっとした 手 妻 遣 い よろしく気のきいた芸を見せているわけで︑当時にあっては蹴鞠も散楽などと同様の軽

プレスティディジテイター

︒蹴 鞠 の 名 人 もこの 場 面 21 )

  この時代を象徴する大騒動があったことはよく知られている︒永長元(一〇九六)年七月に勃発したいわゆる﹁永 長の大田楽﹂である︒この年の春に︑死穢の蔓延を理由に恒例の松尾社の祭礼が延引されたが︑これに納得しない民 衆の間からその後自主的な田楽運動が起こり︑次第にその勢力を増してゆき︑ついには夏の祇園御霊会をもとりこん で一大騒動へと発展したのである︒この騒ぎを大江匡房は︑

一城の人︑ みな狂へるが如し︒ けだし霊狐の所為なり︒ その装束︑ 善を尽し美を尽し︑ 彫

かざ

るが如く︑ 硺

みが

くが如し︒ 錦繍を以て衣となし︑金銀を以て飾となす︒富者産業を傾け︑貧者跛してこれに及ぶ (

︒ 22 )

(9)

九七 軽業と偶然性(尾形) と評している︒富める者が財産を蕩尽し︑逆に貧しき者が不釣り合いにも金持ちの真似をするいわば﹁さかしまの世 界( reversible world )﹂(バーバラ・バブコック)が 現 出 したのであった︒その 当 時 の 貴 族 たちもこの 狂 騒 に 無 関 心 で いられず︑数日にわたってこれに巻き込まれた︱︱というより白河院の近臣を中心に三〇人ほどの貴族が参加して︑ どうやらむしろ積極的にこの騒動に関与せんとしたらしい︒この点に触れて井上満郎は︑新たな政治システムである 院 政 は︑その 当 時﹁摂 関 政 治 期 の 文 化 へのアンチテーゼとして﹂新 たな 文 化 のスタイルを 模 索 しており︑ ﹁前 代 の 摂 関政治との差を際だたせるための自己主張のひとつとして田楽に注目した﹂のだとしている︒すなわち﹁摂関文化の もっていなかった庶民文化の吸収という方法﹂を院みずからが採用することによって︑この騒動を自分の"腹"のう ちに収め︑民衆の暴力的なまでのエネルギーをして彼個人の権威を荘厳するアクセサリーの一つにしてしまおうと考 えたというのである︒そのためには︑院の目下の仇敵というべき摂関家の枢要の地位にある者こそ駆り出される必要 があった︒

院関係者だけではこの田楽の政治的な意味がないのである︒院政を中心にして︑摂関家機関の中で重要な意味を もった 位 置 にいる 人々を 結 集 して︑いわばその 院 政 への 従 属 を 文 化 的 に 創 りあげていくことが 目 的 なのであっ た︒田楽という︑表面的には政治と何のかかわりもないような活動に参加していくうちに︑徐々に内側から院政 への服属につながるような雰囲気の中にくみこまれていくのである (

︒ 23 )

  この騒動をもって自己を飾らんとする白河院の意図がどれほど成功したのかについては︑深沢徹による有力な反論 もあり︑ 軽々しく評価をくだすことはできない︒ 深沢も指摘しているように︑ 院がこの騒動を呑みこもうとした途端︑ 大の田楽好きであった愛娘の郁芳門院媞子が急死してしまい︑ 悲嘆にくれる院は突然出家してしまうからである (

らの政治システムを鎧おうと図ったことは間違いないと思われる︒思えば院はこの年の四月に︑国忌の最中(おそら しかし少なくとも井上がいうように︑白河院がこうした民衆的なもの︑あるいは野生的で荒あらしいものをもって自 ︒ 24 )

(10)

九八 くは前述した死穢を原因とした天下触穢の状態にあったと思われる)にもかかわらず︑流鏑馬を行ない︑世間の非難 を 一 身 に 浴 びていたのだった (

ずにいられなかったのがこの院であったらしいのである︒ ︒既 存 の 祭 礼 はたやすくないがしろにしても︑田 楽 を 見︑流 鏑 馬 を 眺 めることはせ 25 )

  だから次に確認すべきは︑この上皇の放恣を可能にした院政とはそもそもどのような政治システムなのか︑そのな かにあって上皇とはどのような存在なのかということであるかもしれない︒が︑即座に問いをまぜかえすことをいう ようだが︑おそらくはシステムなるものをもたないことこそ院政の重要な要件だったように思われる︒石母田正はい う︒

この院政というデスポティズムは︑古代国家の危機を内乱・簒奪・王朝交代という形で解決したものではなかっ たから︑その機構はなんら独自の体系と法を必要としないのであって︑律令制の片隅に建てられた矮小で貧弱な 建築物で十分であった︒それは律令体制における天皇制の転化した形態にすぎなかった (

︒ 26 )

  古代にあって政治上のシステムとされるものの一切は前代の摂関政治において︑さらに根本にさかのぼっていえば 律令政治において︑天皇を中心に組織立てられてきたものである︒院政はそれにほとんどなにも付加しない︒ただそ うした既存の体制に対し︑一口でいえば︑院庁という(律令制にもとづく諸機関に比して)小規模でプライヴェート な 家 政 機 関 と︑ (律 令 的 価 値 体 系 では 濾 過 しえない 人 間 臭 い 澱

おり

をもった)上 皇 のもついわば 実 存 的 な 力 能 とをもって 対峙したのが院政であったらしい︒

  院 のもつ 権 力 は︑究 極 的 には"天 皇 の 父"であるということにのみ 帰 着 するのであって (

とはきわめて象徴的な出来事というべきだろう ( 式にのっとった政治の正道から逸脱する存在ではないとの宣命を発した途端に急死してしまったとされるが︑このこ 源 泉 をもつものではない︒ ﹃古 今 著 聞 集﹄によれば︑後 三 条 院 は﹁律 令 式 格 にたがはず﹂と︑つまりわたしは 律 令 格 ︑律 令 制 のうちにその 27 )

︒ 人びとは彼の死を﹁その宣命のゆゑにや﹂ と評したというから︑ 28 )

(11)

九九 軽業と偶然性(尾形) ﹁律 令 式 格﹂に 自 己 の 権 威 の 根 拠 をもたないはずの 上 皇 がそのように 強 弁 したとき 途 端 にわざわいがふりかかったと いうこと自体︑院政の実態がこの言挙げにいかに矛盾するものであったかを如実に明かしている︱︱このことを当時 の人びとはよくわきまえていたようである︒もっとも︑じつのところ上皇たちもみずからの基盤の薄弱を痛感してい たのであって︑だからこそあれほど頻繁に参詣や巡礼︑行幸のたぐいを繰り返したのだったし︱︱たとえば後白河の 熊 野 御 幸 は 歴 代 最 多 でじつに 三 四 回 にものぼる!︱︱︑あきれるほど 執 拗 に 造 寺 造 仏 を 重 ねたのだろう︒たえざる 示

デモンストレーション

威 は彼の地位のあやうさが求めるものでもあった︒

  みずからの日記﹃玉葉﹄において︑九条兼実は信西(藤原通憲)による後白河批判を書き留めている︒

先 年︑通 憲 法 師 語 りて 云 く︑ ﹁当 今︻法 皇 を 謂 ふなり(すみつき 括 弧 は 割 注 を 示 す︒以 下 同 様) ︼︑和 漢 の 間︑比 類少なきの暗主なり︒謀叛の臣傍らに在るも︑一切覚悟の御心無し︒人︹信西を指す︺之を悟らせ奉ると雖も︑ 猶以て覚らず︒此くの如きの愚昧︑古今未だ見ず未だ聞かざるものなり︒但し︑其の徳二つ有り︒若し叡心︑果 たし遂げんと欲する事有らば︑敢て人の制法に拘らず︑必ず之を遂ぐ︻此の条︑賢主においては大失なれども︑ 今 は 愚 暗 の 余 り︑之 を 以 て 徳 となす︼ ︒次 に︑自 ら 聞 こし 食

し 置 かるる 事︑殊 に 御 忘 却 無 し︒年 月 遷 ると 雖 も︑ 心底に忘れ給はず︒此の両事︑徳となす﹂と云々 (

︒(寿永三(一一八四)年三月一六日条) 29 )

  あまりに有名な後白河評である︒きわめて手厳しい言葉が並ぶが︑才気にあふれた信西らしく院の権力の特質を確 実に把握したものといえる︒ ﹁制法﹂ つまり既存の政治システムを無視した無根拠の恣意︑ または彼一人が﹁御忘却﹂ しないということのみによって︑かろうじてそれが先例として機能しうるような気まぐれな決めごと( 法

のり

以前の" 宣

られたもの" )︙︙ (

コトバによってこそ︑その権力性が起動するような政治のかたちが︑この時代たしかにあったらしいのである︒ ︒前 代 の 政 治 システムより 見 ればあまりに〈偶 然 性〉に 満 ちているというほかないそのような 30 )

(12)

一〇〇 このデスポットをとりまくものは︑ 収奪した財産の惜しみない濫費︑ 行楽と寺院の濫立︑ 権謀術数︑ 悪徳と腐敗︑ 気まぐれ︑無気力︑淫乱と耽溺であり︑それは一言でいえば︑日本の支配階級の歴史において前後にその比をみ ない頽廃の時代であった (

︒(石母田正) 31 )

  このころを一言でいえば〈偶然性〉の時代とでも形容できるかもしれない︒先例とすべき前代のあらゆる必然的な るものがいったん御破算とされた時代の謂いである︒歴史の転換期などという手垢にまみれた形容句が想い起こされ る︒為政者の実存的な欲望そのままの︑権力のきわめて 始

プリミティヴ

原的 なあるいは幼児的ですらある表現が︑この時代につか の間社会を覆ったわけで︑こうしたある意味では繊弱な政治のかたちがそんじょそこらで具現するはずはたしかにな い︒院政が成立したタイミングに関して︑やはり石母田は次のようにいう︒

︙︙藤氏一門は︑もはやこの一般的な古代国家の危機に対応するだけの主導性とイニシアティヴと政治力を完全 に喪失していた︒藤氏以外の官僚・貴族も︑前記のようにみずから結合し︑権力を組織し得るような性格のもの ではなかった︒唯一の可能な力である武家の棟梁は︑まだその形成過程にあり︑それも国家の機構の一部として の資格において︑地方の武士団とかぎられた範囲の結合をなしつつあったにすぎないという根本的な弱点があっ た︒すなわち一言でいえば国家の破綻と危機が深刻になりながら︑しかもそれを根本的に解決し変革すべき主体 的条件が︑つぎの権力を担当すべき階級的主体が未成熟であるという条件のもとにおいて︑このデスポティズム (院政)は可能でもあり︑必然でもあったのである (

︒ 32 )

三   やまとだましいと武士

  このような時代︱︱すでにあるものの衰退が痛感され︑同時にまだないものの未熟も自覚される時代︑先例なるも

(13)

一〇一 軽業と偶然性(尾形) のがもはやなんら権威をもちえず︑あらゆる出来事はつぶつぶと独立して〈偶然性〉に満ちたものと感じられる時代 にあって︑人はどのような行動規範をとりうるだろうか︒規範をもたない行動をとることをなかば強いられていた院 一人はともかくとして︑彼以外のすべての人びとはなにを拠りどころとして行為しえたろうか︒石母田と同じく︑歴 史の転換期なるものを眼差して︑ある西洋史家が次のようにいっていたことが思い出される︒

中世の思考が︑感覚なお濃く残り︑しかも中世のかたちが︑ことばが規範力を失いつつあるとき︑中世後期の人 びとは︑一方では︑いぜんとして中世のパターンにあてはめて現実を理解しながらも︑なおすくいとられずに残 る現実の事態を︑だからといってそのまま見すててはおけず︑はなはだ実際的にこれを処理する技術を見につけ るべく強いられたかのようである (

︒ 33 )

  もとより見ている国は違う(こちらは中世フランスである)が︑文中の﹁中世﹂という語を﹁古代﹂と替えてやれ ば︑堀越孝一のこの一文はそのままで日本の古代末の︑すなわち院政期の人びとの心の問題に密接する事態をとらえ たものになると 読 める︒堀 越 は︑フィリップ・ド・コミーヌ( Philippe de Commynes )におけるサンス( sens )と いう語のふくらみを論じるなかで︑この語をまさに﹁はなはだ実際的に﹂現実の事態を処理する﹁技術﹂として︱︱ すなわち︑事 に 臨 んで﹁便 宜 方 策︑巧 みな 遣 口﹂を 工 夫 する 能 力︑時 に 応 じての 機 敏 な 判 断 力﹂ ︑換 言 すれば﹁常 に 実践を前提とする︑これこれしかじかの場合にはどのように判断し行動したらよいのかについての︑非常に大きな部 分を教育と経験に負うている人間の能力﹂ (

としてとらえている︒ 34 )

  興味深いことに︑日本の古代末においてもそれと同質の判断力が求められたとおぼしい︒それこそがいわゆる﹁や まとだましい﹂であろう︒古 代 から 中 世 初 頭 にかけて︑この 語 が 用 いられているテクストは﹃源 氏 物 語﹄ ﹁少 女﹂巻 を 嚆 矢 として 六 例 ほどが 存 在 するが︑いまわれわれが 問 題 としている 平 安 後 期 の 使 用 例 としては︑ ﹃今 昔 物 語 集﹄の 興味深い説話を挙げることができる︒ 明法博士の清原善澄という男は﹁道ノ才ハ 並

ならび

無クシテ︑ 古ノ博士ニモ 不

おとら

劣 ヌ者﹂

(14)

一〇二

であったが︑晩年に家へ強盗が入ってしまう︑その折の話である︒善澄自身は縁の下にもぐりこんだのであやうく難 を逃れたが︑手当たり次第に物は盗まれ︑あるいは打ち壊されて家中がめちゃくちゃにされてしまった︒善澄はあま りの口惜しさから縁の下をぬけだし︑帰ってゆく盗賊らの背中に捨てぜりふを浴びせる︱︱﹁おまえらの面はしかと 見 届 けた︒夜 が 明 けたらすぐにも 検 非 違 使 に 駆 けこんで︑かたっぱしから 捕 えさせてやるわい﹂ ︒これを 聞 いた 盗 賊 どもはすぐさま引き返し︑善澄の頭を刀でさんざんにかち割って殺してしまう︒話末の評語には︑

善澄 才

ざい

ハ 微

めでた

妙 カリケレドモ︑ 露

つゆ

︑ 和

やまと

だましひ

無カリケル者ニテ︑此ル心幼キ事ヲ云テ死ヌル也トゾ︙︙ (

︒ 35 )

とあり︑ここに﹁やまとだましひ﹂と訓みうる﹁和魂﹂の語が見えるのである︒

  諸 家 の 指 摘 してきたように︑この 語 は﹁才﹂ (漢 才)と 対 比 して 用 いられ︑ ﹁学 問 的 知 識 をいう﹁漢 才﹂に 対 して︑ 繊 細 ですぐれた 情 緒・精 神 を 意 味 する 語﹂ (

いるのである︒ したかもしれない日常的な道理をもってそれに臨んだところに︑この男のやまとだましいの欠如が端的にあらわれて という意味が含まれているらしいことである︒偶然的で特異な出来事に面会したにもかかわらず︑ふだんならば通用 語には︑ 盗賊が入るという不可測の事態に際会して︑ それにうまく対処するために用いられる﹁機敏な判断力﹂ (堀越) と 考 えられる︒ただ 本 話 の 解 釈 として 注 意 しておいてよいことは︑この 36 )

  どうもこれまでの﹁やまとだましい﹂の 語 の 理 解 は︑ (はるかのちの 時 代 において 変 に 武 張った 意 味 をになって 使 われていた履歴をひとまず視野に入れないこととすると)この語がもつ粗野で野生的な一面をやや軽視してきたので はないだろうか︒たとえば 斎 藤 正 二 はこの 語 に 関 して︑ ﹁摂 関 時 代 社 会 に(とくに︑その 宮 廷 社 会 に)緊 密 なる 関 わ りをもつ 人 物 についてのみ︑その 有 無 いかんを 問 われる︑なんらかの 精 神 的 能 力﹂であり︑ ﹁宮 廷 以 外 の 生 活 圏 にあ る武士だとか農民だとか僧侶だとかに﹁やまとだましい﹂ の自覚があったとは全く想像し得ない﹂ と述べている (

しかし︑この語が用いられる圏域のもつ性格は多くの場合たしかに貴族的だとはしても︑少なくともこの時代におい ︒ 37 )

(15)

一〇三 軽業と偶然性(尾形) てその意味内容自体はけっしてそれにおさまるものではなく︑むしろこれを逸脱して﹁やまとだましい﹂なる語を知 らないはずの﹁武士﹂や﹁農民﹂の世界へと踏み込んでいるように感じられるのである︒   たとえばこの時代の文学世界の象徴としていま見た仏教説話集にこだわるなら︑そうした﹁機敏な判断力﹂は貴族 よりもむしろ武士が保持している(べき)ものとしてとらえられている︒たとえば﹃古今著聞集﹄には︑よく知られ た 頼 光 主 従 による﹁鬼 同 丸﹂退 治 の 逸 話 が 収 められている (

の︑彼らのような一級の武者どもはたやすく身の危険を察知するとでもいいたげな筆致である︒ 彼らは二度にわたって︑自らの危険を回避していることに注目したい︒なぜ気づいたのかはけっして語られないもの 見破られた鬼同丸は牛のからだをぬけだし憤然として一行に襲いかかり︙︙と︑話はもう少しつづくのだが︑ここで "四天王"の一人渡辺綱が︑なぜ気づいたものやら( ﹁いかが思ひけむ﹂ )︑やおらその牛の死体に矢を放つのである︒ てそのなかに 入 り︑目 だけ 外 に 出 して 一 行 が 来 るのはいまかと 待 ちかまえる︒しかし 今 度 は 頼 光 につき 従っていた をあきらめるが︑翌日彼ら一行が鞍馬へ出かける道中で再び頼光を襲おうと︑路傍の牛を引き倒し︑腹をかっさばい 大きに︑ 貂 よりも小さきものの音こそすれ﹂と呼ばわって鬼同丸の奇襲を防いでしまう︒鬼同丸はそこでの頼光殺害

てん

だ者ではない︒すばやく身の危険に感づき( ﹁頼光も直人にあらねば︑早くさとりにけり﹂ )︑ ﹁天井に︑いたちよりも 持主だった︱︱︑逃げ出すどころか屋敷の天井に忍びこんで︑頼光の寝首を掻こうとする︒しかしさすがに頼光はた 酒に酔い寝てしまったのをよいことに︑鬼同丸は夜陰にまぎれて縄や金ぐさりを引きちぎり︱︱彼は超人的な怪力の ︒一 度 は 彼 を 捕 えて 縛 りつけていたものの︑頼 光 らが 38 )

  仏 教 説 話 集 においては︑ (多 くは 悪 しき 状 況 を 打 開 するため)即 座 の 機 敏 な 判 断 力 が 求 められる 現 場 に 立 つ 存 在 と して︑誰よりも武士が選ばれる︒それはもとより彼らのもつ武の力を恃んでのことでもあった︒たとえば屋敷のなか で(不 吉 とされる)辰 巳 の 方 角 にある 柱 の 節 穴 から︑ ﹁者 の 霊

りやう

﹂かと 疑 われる 得 体 の 知 れないものが 小 さな 手 で 手 招 きをしたなら( ﹁其 ノ 木 ノ 節 ノ 穴 ヨリ 小 サキ 児 ノ 手 ヲ 指 出 テ︑人 ヲ 招 ク 事 ナム 有 ケル﹂ )︑人 はどうするだろうか (

ので︑ ﹁ 征 箭 ﹂(実 戦 使 いのとがり 矢)を 穴 深 くに 差 し 入 れたところ︑その 奇 事 はぴたりとやんだのだという︒この 話

そや

ある 者 は︑ひとまず 穴 に 経 巻 をくくりつけたり 仏 の 絵 像 をかけてみたりしたが︑ ﹁小 サキ 児 ノ 手﹂はなおも 出 てくる ︒ 39 )

(16)

一〇四 の語り手は︑仏教者らしく﹁征箭ノ 験

しるし

︑当ニ仏経ニ増リ奉テ恐ムヤハ﹂と︑経典や仏画よりたった一本の矢の効験の ほうがまさっていることを訝っている︒あるいはある日に鬼がわが家にやってくることを知らされたら︑その者はど のように対策を講じるだろうか (

はただただあきれ﹁奇異ノ気色シテナム有ケル﹂という体だったとか︒ てきたから︑どうせ死ぬのならと大きなとがり矢で鬼を射ぬいて退散させてしまった︒面目がつぶれた格好の陰陽師 を門に立て︑邪気をしりぞけるという﹁桃ノ木﹂を切って道を塞いだものの︑けっきょく鬼はずんずんと屋敷に入っ ︒ 播磨国の一人の若者は︑ さしあたっては陰陽師の言いつけどおりに﹁物忌ノ札﹂ 40 )

  ﹃今昔物語集﹄

に見えるこれら二つの話は共通の構造をもっている︒ 人びとは予断のゆるされない奇事に際会して︑ 当初は降魔調伏のいわば古典的な手段というべき仏法あるいは陰陽道に頼っている︒しかしその効果があやしいと見 るやすぐに 弓 矢 を 手 にするのである︒ "辟 邪"の 徒 としての 武 士 の 呪 術 的 力 に 注 目 して︑髙 橋 昌 明 が﹁当 時 弓 は︑武 勇の象徴だけでなく︑邪霊をはらい眼にみえぬ精霊を退散させる力のある呪具として︑さまざまに用いられた﹂と述 べているように (

語 る﹃宇 治 拾 遺 物 語﹄の 小 話 が 思 い 出 される ( の弓を枕もとにすえたところ︑それまで物の怪に悩んでいた白河院は途端に﹁物におそわれ﹂ることがなくなったと ︑弓 はこの 当 時 魔 の 侵 入 を 避 ける 恰 好 の 道 具 としてしばしば 用 いられた︒八 幡 太 郎 義 家 の 黒 塗 り 41 )

したときその 男 がしばしば﹁大 刀 ヲ 抜 テヒラメカ﹂すという 描 写 が 見 えるが ( ︒弓 矢 だけではあるまい︒同 じ﹃今 昔﹄にはおそろしい 怪 異 に 直 面 42 )

土記﹄ に出てくる蛇のように身が伸び縮みする剣や ( ︑これなどもおそらくは﹃播 磨 国 風 43 )

いうべきだろう︒ などにまで遡及しうるような︑刀をたんなる道具というより呪具としてとらえたことに由来する説話上の定型表現と ︑ 古墳時代の遺物としてしばしば出土するいわゆる﹁蛇行剣﹂ 44 )

  しかし困難事に際して武士がいわば重宝された理由はおそらくそれだけではない︒いま見た二つの説話が収録され ている﹃今昔物語集﹄の巻第二七は人の死霊や鬼をはじめ︑物の精霊︑狐狸︑ 迷

まど

わし神︑ 産

うぶ

︑山の神など︑およそ ありとあらゆる霊鬼・妖怪のたぐいが惹き起こすさまざまの怪異譚を採録しているが︑全四五話のうちじつにほぼ半 分にもおよぶ二二話で︑武士(あるいは武士的な剛の者)または武器が登場し︑それらの怪異に対峙しているのであ

(17)

一〇五 軽業と偶然性(尾形) る︒これは︑おそらく武具のもつ辟邪の力に加えて︑彼らのもつとっさに機転をはたらかしうる判断力や︑困難を処 理する一種の実務能力とでもいうべきものが︑あれらの不可測の存在に直面する際にはなによりふさわしい能力であ ると 当 時 観 念 されていたことを 明 かしているはずである︒つまり 彼 らはこの 時 代 に 要 求 される sens あるいはやまとだ ましいの具現者と見なされていたのである (

︒ 45 )

  同書には︑武士が登場する際には彼らを紹介する一文のうちにきまって次のような表現が見られる︒

○心極テ太クテ 思

おもばかり

量 賢ク︑身ノ力ナドゾ極テ強カリケル︒見目ナドモ吉ク︙︙ (

︒(陸奥前司橘則光の形容) 46 )

○見目ヲ 鑭

きらきらし

々 ク︑ 手聞キ︹利きの意︺ 魂太ク思量有テ︑ 愚ナル事無カリケリ (

坂田公時らの形容) ︒(源頼光の郎等︑ 平貞道︑ 平季武︑ 47 )

○ 長 高 ク 見 目 鑭 ラカニシテ︑力 強 ク 足 早 ク︑魂 太 ク 思 量 リ 賢 クテ︑並 無 キ 手 聞 ニテゾ 有 ケル (

大紀二なる者の形容) ︒(平 維 時 の 郎 等︑ 48 )

  武士は主に三つの側面から描写される︱︱① 見た目のきらびやかさという肉体表面の美質︑② 手 利 き す な わ ち 武 具を用いる腕前のたくみさ︑あるいは怪力といった肉体の実際上の特質︑③ 豪 胆 さ や ︑﹁ 思

おもばかり

量 ﹂がすぐれているとい う精神的な内実︑の三つである︒いま注意したいのは最後の点で︑賢いということがいま挙げた三つの例にかぎって もすべてに 見 られるのは︑おそらくは 彼 らのもつ(貴 族 から 見 て)独 特 の"知 性" ︱︱けっしてブッキシュなもので ない︑現実のなかでこそつちかわれた野生的な実践知のようなもの︑すなわちやまとだましいこそが︑彼らを特徴づ ける重要な要素としてとらえられていたことを示しているはずである (

︒ 49 )

  武 士 は 本 来 芸 能 者 であった︑とは 歴 史 学 があらためておしえてくれることであるが (

︑彼 らのもつ 武 芸 というひ 50 )

(18)

一〇六 とつの芸能も︑そうした知性にもとづいて世界と対峙するための彼らなりの知恵のかたちであったと見なすことがで きる︒換 言 すれば︑ 〈偶 然 性〉の 時 代 にあって 世 界 に 遍 満 する 不 可 測 的 事 態 ときりむすぶための︑当 時 にあってはき わめて重要な 技

アート

芸 なのであった︱︱いやそもそも︑およそあらゆる芸能・技芸は︑新奇な不可測的・偶然的事態が蔓 延する世界と︑日常における必然なるもののうちに安住した世界との"接線"上で行使されるものであるのかもしれ ないが (

︒原始以来の武の呪力はそのためにこそ利用されているのである︒ 51 )

四   〈偶然性〉をあそぶこと

  ところで︑武士の性格や活躍を描写した史料のうちには︑しばしば蹴鞠の世界におけるあの成通のそれを彷彿とさ せるような記述の見えることがある︒まずは古代の正史よりそのいくつかを引いてみる︒

○ 従 四 位 下 治 部 大 輔 興 世 朝 臣 書 主 卒

しゆつ

す︒ ︹中 略︺書 主︑儒 門 に 長 ずと 雖 も︑身 は 稍

やうや

く 軽 捷 なり︒高 き 岸 を 超 躍 し︑ 深き水を浮び渡る︒猶武芸の士に同じ (

︒ 52 )

○右兵衛佐兼信濃介従五位下紀朝臣最弟卒す︒ ︹中略︺ 最弟︑ 武芸の士たり︒ 膂力人に過ぐ︒ 高きを登り深きを渉る︒ 軽捷なること 耦

たぐ

ひ少し (

︒ 53 )

○ 散 位 従 四 位 上 文 室 朝 臣 巻 雄 卒 す︒ ︹中 略︺巻 雄︑幼 くして 勇 力 有 り︒書 を 読 むを 好 まず︑便 ち 弓 馬 を 習 ふ︒尤 も 馳 射 を 善 くす︒ ︹中 略︺身 体 軽 捷 にして︑甚 だ 意 気 有 り︒嘗 て 戯 れて 騰 躍 し︑脚 車 に 駕 せし 牛 の 額 を 踏 みて︑超 越して車の 後

しりへ

に立つ (

︒ 54 )

(19)

一〇七 軽業と偶然性(尾形)   いずれの 卒 伝 も 個 人 の 身 の﹁軽 捷﹂ ︱︱漢 籍 に 明 確 な 出 典 が 見 出 せない 語 という (

からかかっている木の枝ぶりに気づいて︑配下の﹁久清﹂なる者に︑ 貞任らが川の向こう岸にある峻険な衣川の関にこもってしまい攻め込むことができなかった際︑清原武則が川に両岸 どは成通が牛車を懸りの木に見立てて蹴鞠を行なったあの逸話を彷彿とさせる︒実際にも前九年の役の折には︑安倍 ︱︱をいい︑とくに 最 後 の 例 な 55 )

両岸ニ 曲

まがり

タル木有リ︒其枝河ノ面ニ覆ヘリ︒汝ヂ身軽クシテ飛ビ超ル事ヲ好ム︒彼ノ岸ニ伝ヒ渡テ︑ 蜜

ひそか

ニ敵ノ方 ニ超入テ︑其ノ楯︹衣川の関を指す︺ノ木ニ火ヲ付ヨ (

︒ 56 )

と命じており︑実践の場において武士の﹁軽捷﹂が戦闘の重要な要素となっていたことが知られる︒

  もとよりこのこと 自 体 はとりたてて 特 筆 すべきこととはいえないかもしれない︒諸 書 に﹁伏 物・越 内・水 練・早 態・相撲・笠懸﹂ (﹃承久記﹄上) ︑あるいは﹁早態・力持・水練・飛越・早走﹂ (﹃異制庭訓往来﹄大蔵卿寺主御坊宛正 月 七 日 書 状)と 見 えるように︑ ﹁早 態﹂はむしろ 熟 達 が 要 求 される 武 士 の 重 要 な 修 練 項 目 の 一 角 をなしていたからで ある (

えて 女 のもとに 通った 成 通 とまったく 相 似 た 逸 話 を 採 録 していることなども 考 えに 入 れると ( ︒しかし﹃古 今 著 聞 集﹄がさきにも 触 れた 源 義 家 の 若 いころの 姿 として︑警 戒 をよそに 築 地 を 軽々と 飛 び 越 57 )

見過ごせないものがある︒ 蹴 鞠 を 論 じようとするにあたり︑蹴 鞠 の 描 写 といま 見 た 武 士 の﹁軽 捷﹂ ﹁早 態﹂に 関 するそれとの 親 近 はなかなかに ︑以 下 にあらためて 58 )

  かたや蹴鞠のほうでも︑

鞠 は 戦 の 陣 よ り 出 で き た る 事 也 ︒ 武 士 を 練 ず と て ︑ 心 早 く ︑ 身 軽 く ︑ 足 利 き て ︑ 習 は ん 料 に し 出 し た る 事 也 ︙︙ (

︒ 59 )

とつとに語られていたように︑蹴鞠と武芸とは当時の人にとってなにかしら似通ったところのある﹁芸能﹂として見

(20)

一〇八

られていたふしがある︒もちろんからだの﹁軽 捷﹂ ︑とっさの﹁早 態﹂が 問 われるという 意 味 では 両 者 に 同 質 の 身 体 が求められていたという点は明らかであろうが︑ここでその同質性のもう一点を指摘するにあたって注目したいのは 鞠場の懸りの木の存在である︒

  蹴鞠を構成する重要な道具立てというべきこの懸りが︑なぜこの遊戯に必須のものとされるにいたったのかその由 縁 はよくわからない︒さきに 挙 げた﹃源 氏 物 語﹄ (若 菜 上)にも︑またほぼ 同 時 代 の﹃宇 津 保 物 語﹄ (国 譲 中)にも 蹴 鞠 の 場 面 に 懸 りの 記 述 が 見 えるから (

ら ( 意図して懸りの木を植えるようにまでなったのは︑その後の延久・承保年間(一〇六九~七八)以後のことというか ことがわかるが︑このころは庭にすでに植えられている自然木をそのまま利用したもののようである︒蹴鞠のために ︑どうやら 一 〇~一 一 世 紀 初 めにはすでに 樹 木 を 鞠 場 に 設 ける 習 慣 のあった 60 )

を意味しうるだろうか︒ ︑これがいよいよ 重 要 視 されだすのはちょうど 院 政 の 開 始 と 同 時 期 ということになる︒この 符 合 はなにごとか 61 )

  この懸りにはある重要な役割があった︒鞠会には﹁序破急の三段﹂と呼ばれる遊びかたの順序があって︑面白いこ とに︑序・破の段階ではこの懸りを用いるのだという︒わざと木に鞠を蹴りかけ︑鞠がどこに落ちてくるかわからな いのを楽しむのである(いっぽう︑さきに述べた﹁数鞠﹂は最後の急の段階で行われるもので︑鞠数をきそうために 庭 の 中 央 に 近 づいて 懸 りから 離 れ︑人 同 士 で 鞠 を 受 け 渡 しするのにひたすら 専 念 する) ︒蹴 鞠 における﹁障 害 物 ある いはクッションとしてこれを機能させることによって︑蹴鞠を技術的により変化に富んだ︑複雑なものにし﹂ようと いうわけである (

︒ 62 )

師説︹成通の語った言葉を指す︺に云く︑はじめたる懸りにては︑鞠の落つる様知らんとて︑落してみる也︒其 後心を得て上ぐべし (

︒ 63 )

  ﹃蹴

鞠 口 伝 集﹄でそのように 注 意 されているように︑はじめて 用 いる 懸 りではどのように 鞠 が 落 ちてくるかわから

(21)

一〇九 軽業と偶然性(尾形) ないので︑さまざまな 角 度 から 蹴 り 上 げてみて︑ ﹁鞠 の 道﹂がどのように 通っているかを 調 べたらしい︒かたや 鞠 場 を設営するほうも︑鞠が木にかかった際にいろいろのルートを経て落ちてくるようにと枝ぶりを按排し︑適度に枝を 剪定する︱︱﹁木を透かす﹂ことをしたのだという︒懸りには世に知られた難度の高い名木というのがあった︒いま の﹃口 伝 集﹄にも﹁尊 重 寺 の 懸 り﹂ ﹁安 井 の 懸 り﹂ ﹁本 院 の 懸 り﹂などいくつかが 記 されているが︑なんといっても 有 名 なのは 賀 茂 社 にあった﹁雲 分 の 懸 り﹂だろう︒ ﹃古 今 著 聞 集﹄巻 第 一 〇 馬 芸 の 章 には︑雲 分 という﹁あがり 馬﹂ (気 性 の 荒 い 馬)の 逸 話 が 載 るが( ﹁悍 馬 雲 分︑中 門 の 廊 に 爪 形 を 付 けて 飛 び 出 す 事﹂ )︑この 馬 の 名 をつけたとりわけ 難 しい懸りである︒同書の説明を引く︒

雲分は︑賀茂神主成助が家にわざと植へたりける懸りなり︒息男成継伝へて︑鞠を好みて︑成平は仕立てたる鞠 足也︒西の方に大きなる桜の木の二股なるが︑鞠庭ざまに倒れかかりたるもとに︑小さき楓の木ありき︒その二 股の枝の上より︑ 鞠の走りてもとまで流れ下る折もあり︒ 二股に分かれたる所にて︑ 鞠庭へ投げかへす度もあり︒ 又そこにて落つることもあり︒楓にかかりて澱む事もありて︑ゆゆしき 難

かた

所にて侍りけるが︑鞠の走り上がりす るを雲分と申す馬に似たりとて︑雲分といふ名を付けたりけるとぞ申し伝へたる (

︒ 64 )

  後 白 河 院 が 賀 茂 社 に 参 籠 の 折︑ある 日 ここで 鞠 会 が 催 されたが︑みながこの 木 を 目 当 てにし︑ ﹁あまりのおもしろ さに︑ 誰も参らせむと︑ その木にのみ懸け参らすれば︙︙﹂ (あんまりおもしろくて︑ 誰もがこの木を使いたいと思い︑ 雲分だけに鞠を蹴りかけるので︙︙)と後に語られるほどの盛況ぶりだったという (

︒ 65 )

  成 通 と 親 交 があったとされる 西 行 が︑ ﹃西 行 上 人 談 抄﹄ (一 二 二 五~二 八 年 ころ 成 立)のうちで 彼 の 言 葉 を 書 き 留 め ている︒

大方︑諸道好むこと︑その心ざし一つなり︒侍従大納言︹成通を指す︺のありしは︑鞠好みは思ひがけぬ木の下

(22)

一一〇 に立ち寄りても︑この枝の梢の︑鞠の流れんにはいかにか立つべきと案ずるなり︒歌好もさやうに思ふべし︒又 彼大納言のありしは︑おのれは一千日鞠蹴たるなりと︑雨の日は大極殿︑又所労の時はかき起されて︑足に鞠を 宛てしなりとありき︒それほどに心ざしあらんには︑歌も何か悪しからん︒猶ただ行住坐臥に心を歌になすべし と言はれしなり (

︒ 66 )

  どんな芸道でもそれに熱中すれば煩悩のはたらきが停止して︑その行いは後世のたよりとなる︱︱とは芸道を仏道 に結びつけてとらえる際にしばしばとる論法であるが︑ここはそのような議論を下敷きとして︑蹴鞠と和歌とを同質 の営為と見なしているようである︒ここで見逃せないのは︑成通がみずからの蹴鞠をひと口で述べるに際して︑数鞠 の 場 面 ではなく︑ ﹁懸 りの 鞠﹂ (いまかりにこちらの 遊 びかたをそう 呼 んでおく)のほうを 想 起 して 語っていることだ ろう︒成通にとって蹴鞠とはなにより懸りとのかかわりのなかで成立する遊戯であった︒思えば︑懸りへと蹴り上げ た鞠はどこに落ちるかわからず︑次の瞬間自分はどちらに鞠をとりにいけばよいのか判断するのはきわめて難しいか ら︑おのずとそこではとっさの身のこなしが要求されることになる︒さきに見た成通の﹁早業﹂の偏愛ぶりから推せ ば︑それこそが彼にとっての蹴鞠の醍醐味であったはずである︒

  鞠足(プレイヤー)にとって︑ ﹁懸りの鞠﹂においてはなにより﹁はからふ﹂ ︱︱見当をつける︑推しはかるという ことが重要になってくる︒たとえば懸りのなかの葉の繁った部分に鞠が入りこんでしまったら︙︙︑

式︹成通の著という﹃三十箇条式﹄ と呼ばれる佚書を指す︺ に云く︑ 寮頭入道云く︑ 葉懸りに入りて見えぬ鞠は︑ 木の枝の 垂

る方に行きて待つべし︒ 師説に云く︑草 籠

めの 獣

しし

と︑葉に隠れたる鞠は同じ事也︒頼政云く︑草の靡く方を︑獣は見ねどもはからひてあ つべし︹矢を当てるの意か︺云々︒此の説鞠に変はらぬ也︒葉の動くは鞠の近き也︒高く通りぬれば後の葉は揺 るがぬ也︒柔らかなる枝は鞠の懸れば撓む也︒枝の垂る方を見て寄る︹木に近づく︺べし (

︒ 67 )

(23)

一一一 軽業と偶然性(尾形)   ただでさえ懸りに内在する﹁鞠の道﹂を見極めるのは難しいのに︑葉で鞠が見えなくなってしまってはなおのこと 鞠 の 落 下 を 予 測 することが 困 難 になる︒しかし︑宮 中 で 鵺 を 射 ぬいたことでも 知 られる 源 三 位 頼 政(一 一 〇 四~ 八〇)が草の靡きかただけで見えない獲物をしとめることができると語ったのと同様に︑成通は鞠が見えなくともそ れを隠している枝葉のかすかな動きだけでその位置を判断できるというのである︒ここには懸りの枝の変化を敏感に 察知し︑次の行動へと活かす冷静な実践者の目がある︒あるいは︑まだ枝の間から鞠がちらりと見えるくらいならま だいいのかもしれない︒懸りの例からははずれてしまうが︑たとえば鞠が大きくそれて屋敷の屋根に上がってしまっ た場合はどうか︒

源九云く︑深く上がれる鞠は遅く落つる也︒疾く乞ひて久しく待つべからず︒まづ衣紋など繕ひて︑長く乞ひて 後︑近くなるらんと思はんほどに︑足の拍子を合はせて歩み寄りて上ぐる也︒深く入りて速く落つる也︒其の程 をはからふべし︒ぬるく上がりて落つる鞠は︑軒に沿ひて落つる也︒いかにも鞠庭に向ひて上ぐべし︒おほよそ 屋の上に上がる鞠は︑赴きて上がる方に従ひて︑落つる程をはからふべし (

︒ 68 )

  具体的に想像しにくいためか(後半部に)文意がややとりにくいところもあるが︑鞠の軌道を把握することによっ て︑屋根に上がった際の位置や︑鞠が落ちてくる時間︑速度などを推測するすべが語られているようである︒

  ﹁懸

りの 鞠﹂においては︑鞠 足 は 不 可 測 性 に 満 ちた 鞠 の 動 きに 合 わせて 一 瞬 一 瞬 にみずからの 動 きを 決 定 する︒鞠 の不確かな動きにみずからの身体をあてはめていくことをしなければ︑鞠を地に落とさず蹴り上げることなどとても できはしないはずである︒ここで鞠足は︑懸りを介して︑あの武士たちと同様に鞠場に立ち現れる不可測性ときりむ すぶことをしている︒蹴鞠という遊戯が︑また一本の樹木が︑鞠足に要求する技芸も︑瞬間ごとに新しい不可測的・ 偶然的事態を接遇する振舞いのかたちというべき性格をやはりもっているのである︒そう考えると︑蹴鞠が院政期に

(24)

一一二

一気に人びとの関心を集め︑その中でわざわざ木を植えまでして﹁懸りの鞠﹂を行なうことが流行したこと︑またそ の 時 代 に 成 通 のような 名 人 が 生 まれたことに︑偶 然 ならざるある 種 の 必 然 を 感 じないわけにはいかない︒ 〈偶 然 性〉 の時代に︑ 〈偶然性〉そのものをあそんでしまうような芸能が存在したのである︒

  付記   史料の引用に際しては︑読みやすいように表記を改めた箇所がある︒

   注 (

1 ) 

堀切直人﹃飛行少年の系譜﹄ (青弓社︑一九八八年) ︒ (

2 )  ベルトルト・ラウファー( Berthold Laufer )﹃飛行の古代史﹄ (杉本剛訳︑博品社︑一九九四年) ︑三頁︒ (

3 ) 

澁澤龍彦﹃唐草物語﹄ (河出書房新社︑一九八一年) ︑三〇頁︒ (

4 ) 

同︑三二頁︒ (

5 ) 

﹃尊卑分脈﹄では︑この男は﹁蹴鞠長神変名人也﹂と形容されている(引用は新訂増補国史大系より) ︒ (

6 ) 

﹃今鏡﹄中(竹鼻績訳注︑講談社学術文庫︑一九八四年) ︑四八九頁︒ (

7 ) 

なお﹃古今著聞集﹄ には︑ 彼がふと口ずさんだ﹁神歌﹂ (﹁雨降れば軒の玉水つぶつぶといはばや物を心ゆくまで﹂ ) によって︑ 病に臥していた者から﹁物の気﹂が抜け快癒したという逸話も記されており(巻第六管弦歌舞﹁侍従大納言成通︑今様を以て 物の怪の病を治する事﹂ )︑話末の評語には﹁通ぜる人の芸には︑霊病も恐れをなすにこそ﹂とある(以上︑引用は新潮日本古 典集成より) ︒ (

8 ) 

成通がみずからの口述をまとめた書という体裁だが︑おそらくは後の者が編纂したものか(村戸弥生は真の編者を成通の弟 子である藤原頼輔と推定している) ︒ 村戸﹃遊戯から芸道へ︱︱日本中世における芸能の変容﹄ (玉川大学出版部︑ 二〇〇二年) を 参 照︒成 立 年 は︑村 戸 によれば 寿 永 年 間(一 一 八 二~八 四) ︑渡 辺 融・桑 山 浩 然﹃蹴 鞠 の 研 究︱︱公 家 鞠 の 成 立﹄ (東 京 大 学 出版会︑一九九四年)によればもう少しくだって一三世紀中ごろかとされる︒なお︑引用は群書類従﹁蹴鞠部﹂より︒ (

9 ) 

﹃古今著聞集﹄巻第十一蹴鞠﹁侍従大納言成通の鞠は凡夫の業に非ざる事﹂ ︒ (

10 ) 

藤 原 頼 輔﹃蹴 鞠 口 伝 集﹄下 巻 下 帖 六 三 条﹁成 通 卿 鞠 無 上 事﹂ ︒本 書 は 十 一 世 紀 の 白 河 院 政 のころから 十 二 世 紀 の 後 白 河 院 の 時 代 にかけて 活 躍 した 蹴 鞠 の 名 手 たちの 言 動 や 逸 話 を 集 めたもの︒さきに 挙 げた 渡 辺・桑 山 の 書 によれば︑ ﹁公 家 の 蹴 鞠 道 の

(25)

一一三 軽業と偶然性(尾形) 成立︑ 体系化以前の段階の書﹂ (六三頁) であり︑ 蹴鞠の原初の姿がほの見えるほぼ唯一のテクストと考えられるものである︒ 本文で次節に述べるように︑蹴鞠の発生期における実像はほとんど闇のなかであって︑いつどのような経緯でこの遊戯は生ま れたのか︑また懸りの木やさまざまの作法をめぐる蹴鞠の形式がどういったいきさつで固まっていったのか︑その際に中国文 献 の 影 響 はどれほどあったのかなどについてうかがいうる 史 料 はほぼ 皆 無 である︒ ﹁蹴 鞠 書 の 研 究 は︑したがって︑中 国 文 献 や︑ 十世紀以前の﹁古き蹴鞠﹂ に関するものまで遡らせて考える必要はない﹂ (同書︑ 一二六頁) と評されるゆえんであるが︑ 文献についての書誌学的研究はともかくも︑その﹁古き蹴鞠﹂のありようとその影響の幅を探るような思想史的試みはこうし た資料上の制約にもかかわらずもっとなされてよい︒本論の関心はまさに︑騒々しくにぎやかな﹁古き蹴鞠﹂のほほえましい 錯雑が︑公家鞠と呼ばれるのちの静穏な定型のうちにどのように収斂していったのか︑その際に前代のなにが失われてしまっ たのかを 確 認 することにあるが(くわしくは 予 定 している 次 稿 を 参 照 されたい) ︑この 作 業 にとっては﹃蹴 鞠 口 伝 集﹄は 貴 重 な 伴 侶 となるはずである︒なお︑引 用 は﹃蹴 鞠 技 術 変 遷 の 研 究﹄ (研 究 代 表 者 桑 山 浩 然︑平 成 三 年 度 科 学 研 究 費 補 助 金 研 究 成 果報告書︑一九九二年)に翻刻されたものを使用した(ただし仮名に漢字をあてるなどして表記を大幅にあらためている) ︒ (

11 ) 

以下に引く︑ ﹃革匊要略集﹄ は︑ 飛鳥井教定(飛鳥井家は蹴鞠道家の主要な三家のうちの一つ) から相伝を受けた﹁是空﹂ (あ るいは﹁是心法師﹂ )なる者が弘安九(一二八六)年に師の教えを書きとめた書︑ ﹃内外三時抄﹄は︑教定の息子雅有が正応四 (一二九一) 年前後に著した書という︒ ともに︑ 引用は渡辺・桑山前掲書に翻刻されたものを使用した(ただし﹃革匊要略集﹄ からの引用は原漢文を書き下している) ︒ (

12 ) 

蹴鞠という遊戯の概要については渡辺・桑山の前掲書を参照︒

    これまでの 蹴 鞠 研 究 は︑ほぼ 時 代 別 に 四 つに 区 分 されるはずである︒すなわち︑① 近 代 に お け る 蹴 鞠 研 究 の 先 駆 者 と い う べき︑ 明治期の桜井秀( ﹁蹴鞠考﹂ ﹁本邦蹴鞠史考﹂ ) による有職故実学の一部門︑ ② 戦 前 の 酒 井 欣 (﹃ 日 本 遊 戯 史 ﹄︑ 一 九 三 三 年 ) や小高吉三郎( ﹃日本の遊戯﹄ ︑ 一九四三年) らの大部な遊戯研究の一項目︑ ③ 井 上 宗 雄 ﹃ 平 安 後 期 歌 人 伝 の 研 究 ﹄( 一 九 七 八 年 ) に 代 表 される︑戦 後 の 古 代・中 世 の 和 歌 文 学 研 究 の 付 随 的 分 野︑④ 現 代 の 渡 辺 融 ︑ 桑 山 浩 然 ︑ 村 戸 弥 生 ら に よ る ︑ ス ポ ー ツ 史的研究あるいは芸道論的研究︱︱の四つである︒最後の④の段階にいたってはじめて蹴鞠という遊戯は主題的に取り上げら れ︑本格的な学問研究の道筋がつけられたといってよく︑その点では本論も︑さきに挙げた︑彼らの﹃蹴鞠技術変遷の研究﹄ ﹃蹴鞠の研究﹄ ﹃遊戯から芸道へ﹄の三冊にひじょうに多くを負っている︒

    ただし本論が目指すところは︑彼らを承けて蹴鞠研究それ自体に新たな貢献をなそうというのではなく︑それらの書から得

(26)

一一四

た知見をもとに︑ひとり思想史のみ蚊帳の外に置かれていた院政期研究にこの立場からささやかな応答を試みようとすること にある︒近年︑院政期に関する研究は︑小峯和明や小川豊生らが主導する文学研究を一つの軸として活況を呈しているが︑不 思 議 なことに(あるいは 思 想 史 家 の 怠 慢 というべきか)哲 学・思 想 史 研 究 のうちでこれらの 仕 事 がほとんど 活 かされてこな かったように感じられるためである︒ (

13 ) 

﹁蹴 鞠 のゲームとしての 特 徴 は︑一 座 のプレーヤーが 鞠 を 地 面 に 落 とさぬように 協 力 して︑できるだけ 多 くの 回 数︑空 中 に これを蹴上げ続けることであり︑また蹴鞠のコートに立てられている懸(かゝり)の木に懸ってさまざまなコースを辿って落 ちてくる鞠を上手に蹴上げることであった﹂ (渡辺・桑山前掲書︑四頁) ︒この後者の遊びかたについては後述する︒ (

14 ) 

たとえば御子左為定(一二八五~一三六〇)の著した﹃遊庭秘抄﹄には︑

     其源を尋れば︑黄帝の切りける蚩尤が首の形也と︑古き物にも書けり︒ (﹁根源事﹂ ︒引用は群書類従﹁蹴鞠部﹂より)

   とある︒また︑ ﹃内外三時抄﹄鞠場篇﹁明障子﹂の項にも次のように見える︒

     夕に云はく︑鞠は黄帝蚩尤を罰せし時より︑武士を練せしむがために作出せり︒

   ここで武士の鍛錬に資するためと意味づけられていることに注目したい︒

    ﹃蹴 鞠 口 伝 集﹄上 巻 上 帖 の 序 文 には︑蚩 尤 と﹁坂 泉 野﹂で 戦った 黄 帝 が 彼 をついに 敗ったもののいつ 復 活 するともしれない ので︑蚩尤の気をおさえるために毎年次のような儀礼を行なったと記されている︒

     是︹蚩尤を指す︺は天下の怨賊なり︒故に歳首に其の霊を射る︒以て国家・村里皆な 結

つが

ひ射るべし︒気︹蚩尤の邪気をい うか︺起たざるなり︒的は蚩尤の面目︑毬は頭なり︒これに因りて射蹴るなり︒ (原漢文)

    古代において︑正月十七日に建礼門院の前で行われた﹁ 射

じゃ

らい

﹂を念頭においた記述のようである︒よって文脈上︑蹴鞠に関 する語句は脇役にすぎないが︑ここでも弓という武と蹴鞠が対になって邪気圧伏の所作を構成している点に注意すべきである (のちの論旨にかかわるのでここでは注意を喚起するにとどめる) ︒ (

15 ) 

源 高 明﹃西 宮 記﹄巻 二 〇︑臨 時 八︑ ﹁蹴 鞠﹂の 項 に 見 える︑延 喜 五(九 〇 五)年 三 月 二 〇 日 の 記 事 が︑この 時 期 における 蹴 鞠の例の初見である︒なおこのときは二〇六回つづいており︑その数字を信用すれば︑当時の人びとの蹴鞠技術はすでにある 程度の水準にまで達していたことがうかがわれる︒ (

16 ) 

大江匡房﹁傀儡子記﹂ (引用は日本思想大系﹃古代政治社会思想﹄より) ︒ (

17 ) 

﹃中右記﹄長治二(一一〇五)年三月二日条(引用は史料大成より︒ただし原漢文を書き下した) ︒

参照

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