佐々木五三郎と東北育児院の創設↓
ま え が き
明治
一て
十五
年秋
︑佐
々木
五一
1部は異常気象による大凶作によって弘
前市内に待う孤児貧児を晃るに忍びず自宅に収容保護し︑東北脊児院
を開設した︒これは当地方における社会福祉事業の草創である︒当院
は昭和六年弘前愛成霞と改称し︑現在︑東北有数の補祉施設として隆々
発展し︑昨年吉開年を迎えている︒
本稿においては︑この佐々木五三郎の生家と生い立ち︑東北青児院
創設の動機︑東北育児院創設と新院舎の建設に焦点を据え考察したも
ので
ある
︒
佐々木五三郎の生家と生い立ち
付 生 家
佐々木石ニ郎は明治九年六月十日︑佐々本新臓の一一男として弘前城
下の紙灘町に生まれた︒父新蹴は紙漉酷であったが︑製紙︑製糸︑製
︑製瓦などの工場を手広く経引出していた事業家であった︒
父新蔵は々木元俊先生﹄の中に次のように記されている︒
間出力新蔵は長兄一克俊先生の晩年の活動の如く製紙業︑製糸業︑
製陶業︑製一札業等の事業を起して居る︒即ち製紙業は維新前より
工 藤
男 陸
始めて居ったもので︑其功により帯刀を許されて居った︑明治以
持に於ても男女数十名の職工を日日梗用して︑雁皮︑奉書︑仙過︑
書紙︑美濃紙︑手紙︑手切等の製紙を産出し︑県庁其他の用紙を
も供給したとの事である︑
(中 略)
製糸工場には女工数十名を崖ひ︑地方の離を賀集め︑製糸を行
ひ︑輪出をなした︒
瀬戸焼は長光一死俊先生の所有地九十九森境内に大工場を建造
し︑京都より職工古兵衛と云ふ者を招き良土を京都よりも取寄せ
製造した︑此の焼物には吉共備焼の称もある︑同時に製瓦の業を
も行ひ︑背繰聯隊営舎患の瓦は同氏の製造納付せしものとの事で
ある︒なお同誌の家の瓦葺は当地瓦家根の元祖なη
との
称も
ある
︒
すなわち︑これによると父新蔵は長兄元投の影響を強く受けて製紙
業︑製糸業︑総胸業︑製瓦業などの事4業を手広く営んでいることがよ
くわかる︒製紙業は維義以前より始めていてその功によって帯万を許
されていたのである︒紙漉町はもともと和紙を作るための職人町とし
て︑一死禄時代に建設されたところであり︑清水が湧き出る所で︑現在
でもその跡が﹁清水(しつこととして保存されている地である︒新蔵
の家と工場はこの﹁清水﹂のそば︿現在文化幼稚園のある所)にあっ
こ こ に 男 女 数 十 名 の 職 工 を 使 用 し て 羅 皮
︑ 奉 書
︑ 宥 紙
︑ 美
濃紙︑半紙︑子切などを生産し︑療藩控県後は県庁などへの用紙を供
給していたのである︒
新蔵の腕前がすぐれていたことは明治十年の内陸勧業博覧会に和紙
を出品し︑内務郷大久保利通から次のような褒賞を授与されているこ
とによってもわかる︒
明治十年内閣勧業博監会褒賞薦
青蘇県管下陸奥悶津軽郡富田村
佐々木新蔵
佐々木五1郎と東Jtff党 院 の 創 設 (
紙 饗稗紙ハニシテ黄ヲ合ミ美ナり苦木紙檀紙新考ニ出テ大ニ
アルヲ見ル其他各紙質嘉ク所用多シ
右事項ニ因リ花紋賞牌ヲ関与セラレンコトヲ申請ス
(中 略)
審査官長
右審査官ノ薦告ヲ領シ之ヲ授与ス
開明
治十
年十
一月
A 正五位前島
密
内務騨大久保利通
従一
二位
製糸工場は女工数十名を一雇い︑地方の離を買い集めて製糸を行い︑
輸出するほどであったこと︑また︑拘業は長兄元控の所有地でかつて
藩主の別部であった九十九森(現御幸町の弘薪女子厚生学院﹀の境内
に大工場を建造し︑京都より職工吉兵荷を招き︑陶土を京都より取り
寄せ製浩し︑中市兵衛焼と称されたこと︑また向時に行った製瓦業の瓦
は後に青森連隊の兵舎に使われ︑新誠家の瓦葺は当地の瓦毘根の一瓦祖 であったととなどがわかる︒
このように父新蔵は︑幕末から明治初期における当地方のすぐれた
企業家で︑新しい時代の鹿業のパイオニアであったのである︒勿論こ
れは後述するように有名な長兄克俊の指導と影響によるものが大で
あったことによるのである︒
∞ 佐 々 木 家 の 家 系 先 祖
ここで生々木家の家系についてのべよう︒
五三郎の祖父秀庵の兄佐々木元龍が文化十一一一年八月に藩へ提出した
(リけ)
由緒需によると初代についのように記されている︒
先 祖 佐 々 木 小 三 郎
︑ 氷 政
高源院様御代寛永五年高四百石被‑下置一御本参並ニ語足軽
拾九
人法
一日
添︑
大関
越御
関所
御番
被
4
4仰付寵在候処︑正保三年
2~
一一
すなわち初代佐々木小一一一郎︑水政は弘前藩二代護主信枚の治世の寛永
五年︿一六一一八﹀高四百石を給され︑御本参並の待遇で足軽十九人が
差添えられ︑大関越関奉行を勤める藩の高給家臣であったことがわか
る︒正保三年(一六四六)三月病没した︒
二代については次のように記されている︒
佐々木小右衛門永貞
信義公御代
経光院操御代正保三年親小一二郎家督無:相違4
石被 一二 子
弘蔀学長'大学社金福祉学部研究紀要 第3号 (2003年)
置
・
︑ 御 本 参 被 一
⁝
︑ 時 四 年 小 知 行 組 頭 被 一
︑ 西 之 浜 自 分 物 入 ヲ 以 新 田 開 発 仕 罷 有 供 処
︑ 右 新 聞 之 品 拾 石 御 加 増
被下置・都合四百五拾五被一一成下罷夜験的地︑慶安一一年隠居
澗仰付︑同年九丹十一ヨ病死仕候
二代小右禽門︑宅貝は一一一代藩主信義治世の正保一一一年っしハ
三郎の家督を継︑ぎ︑高山白布を賜り︑御本和ゆを仰せ付けられ︑
に小知行組顕を命じられた︒四之浜︿現在の鯵ケ沢町から深ゆ 崎村に五る海岸線一帯をいう)を自分の費用で新出開発を符い︑
の 内 高 五 十 石 を 加 増 さ れ
︑ 合 わ せ て 西 ア の 禄 吉 岡 と な っ て慶安二年(一六四九)九月病死した︒
一二代は次のように記されている︒
佐々木忠在衛門永範 粧 光 院 蝶 御 代 親 小 右 衛 門 家 替 蕪 相 違 高 四 百 五 置 新 知 士 並 被 一 仰 付 其 後 小 知 行 組 頭 被 : 仰 付
・
処︑伊豆美作出入之節急御用江一戸登被仰付︑右御
候処勤方不レ悪御一意一身上被ガ較一一付︑砂子瀬村
寛 文 元 年 十 二 日 病 死 仕 供 三代忠左衛門永範は一二代藷主信義の治控に父小右衛門永貞の家奮を
継︑ぎ︑禄高四百五十五︑新知士並となり︑その後小知行組頭を勤めて いたが︑伊豆美存出入(船橋半左衛門・乾四郎兵衛一派と兼ヂ伊豆・
(4
﹀
乳 井 美 作
J派の議執による御家脳動)の第︑急に江戸登りを命じられ︑
御用が済んで帰留したところ叶勤め方御意に感ぜずいとして身上召上 げ
︑ 砂 子 瀬 村 に 左 還 さ せ ら れ る は め と な っ
そ 新 ・ 組
し 田 岩
一一代忠在衛門は御家騒動に巻き込まれ︑
の で あ る
︒ か く し て 究 文 元 年 ぐ 六 六 二 十 一
のように記されてミ
々
た
佐々
詰 政 公 御 代 天 和 一 一 人 新 規 御 沼 抱 被 人 扶 持 被 一 ぺ 下 臆
・ 川 熱
︑ 其 後 御 加 増 被 : 年金拾両弐歩弐人扶持被:成下小細工人組頭被・
二年臨居願之通被二‑︑同三年十一
ぬ︑
金参
両一
一
⁝正 徳一
一 五 文
同代茂左衛門︑水紀は間代藩全信政の代の天和一一(一六八一一⁝)に小
細工人として新規に沼拙えられ金一一一両三人扶持を給された︒その後加
増 さ れ 正 徳 二 年 三 七 二 一
﹀ に は 金 十 両
A一恋二人扶持となり︑小細工
人組頭に昇進した︒四代は武士ではなく職人として蕃に登用されたこ
とがわかる︒一克文三年(一七三八)十二月病没した︒
五代は次のように記されている︒
佐々一 男
一 一
医業仕︑弘前住居仕罷有骸処︑
五代幸益永山は茂左衛門の一男で藍師となり︑
が 明 和 六 年 三 七 六 九 ) 六 月 病 没 を
ムハ代は次のように記されている︒
た 父
佐々
親幸益医業相続仕罷在骸処︑体光院様御代完政一一年十一一月廿
八日御目見被仰い付A同七年一一月期日弐人扶持被一下置4
罷有
候処︑文化凶年十丹五日病死仕候
佐々木五三郎と東北育児院の鋭設(う
すなわち︑六代正的権和は親事益の医業を相続し︑七代藩主寧親の
治 世 の 窯 政 二 年 七 七
九O﹀十二月﹂十八日御日見仰せ付けられ︑同
七年二月一日一一人扶持を頂戴︑文化四年(一八O
七)
十月
五日
中病
死し
た︒
この六代正的確和には七男一女の子供︑がいたが長兄が一五龍︑
が五
一一
一郎
の祖
父秀
躍で
ある
︒
一克龍は次のように記されている︒ その弟
私儀
当 御 代 様 寛 政 八 年 正 月 十 一 呂 御 目 見 被 ー 弐 人 扶 持 被 : 下
寵v学校医道倣御用懸り被仰付罷有候処︑同十年八月十七日
医学添学頭被三仰付命金六再三人扶持勤料被働下置・相勤罷有
鍛処︑文化四年蝦夷地騒捷之節ソウヤ御居メ詰合被t仰付・翌
五年五月帰国仕候処︑同月十五昌数年学校御用相勤︑株一一両
年蝦夷地詰合格別勤務之旨街賞被コ仰渡一回疋分御給分ヲ以⁝ア
表 医 者 御 召 抱 被 競 合 之 締 番 被
J
A仰付一相勤寵脊候
七代は寛救八年(一七九六)正月十一日御自見を仰せ付けられ一
扶持を符領︑藩校の学校抵道御用懸を拝命︑同十年八月十七日医学添
学頭に任命され金六両三人扶持を給ざれた︒文化四年(一八
o t
)
の
蝦夷地騒擾の際にはソウヤの審問を命じられ翌五月に帰服した︒同月
十五日には数年の学校御用と蝦夷地警掴の功によりお誉め在いただき
表直者格に昇進︑並合の綱番を仰せつかった︒
(2)
五三郎の祖父秀庵と父の兄絹
五一
一一
部の
接父
勢湾
寸の組父秀庵は七代一瓦龍の弟である︒秀庵は弘前亀山γ町に医業
を開業していた︒五人の子供に思まれ︑長男が有名な元俊︑ニ男が覚
五︑三男が健一二郎︑四男が五三郎の父新蔵︑五男が精一一一である︒
2元
五三郎の父新蔵に最も大きな影響を与え︑また後
ι
五一
一﹂
部に
も影
響
を及ぼした佐々木元俊から鰯単に述べよう︒
性々木万一俊は名を京顕といい︑号を番遠・昏速機と称した︒文政元
年(一八一八﹀十一月八日に生まれた︒一五設は父から置業を学び︑弘
化四年七八四七)一一一十蔵まで家業を場けた︒しかし明くる嘉︑水一五年
三八四八)春︑修学を志して江戸へ登り︑当時昌平鷺に留学中の弘前
藩士諌松石屈の尽力により襲学の大家杉田成期の塾へ入門して蘭学を
修めた︒杉田成卿は有名な杉田玄白の庶子立卿の子で︑儒学︑医術︑
蘭学に秀で晩年蕃帯謁所教授に任じられた人であるが︑当時誌本職の
傍ら牒布北山伏井戸に私塾を開いていた︒
一五授は初めは学資にも事欠き苦労したらしい︒しかし︑実弟健三郎
の給金の一部の支給や藷の援助によって移学を続けることができた︒
杉自動一で一一一年ばかり学んだ授の安政元年二八五四)頃︑江戸麻布で
医業を開業した︒当時弘前藩からヱ人扶持を給されて蘭書翻訳にも従
事していた︒安政一二年三八五六)六月︑移学数年に一日石の放をもっ
て帰蕃を命じられたが︑さらに勉学したい熱意が藩に認められて許さ
れ︑前同様三人扶持を給された︒さらに安政六年ご八五九)には七
人扶持が給され新規に小普議医として召し抱えられた︒この間元授は
安政四年勺八五七﹀八月︑クラメルスの辞番を翻訳した﹁蕃語象碍﹄
を著した︒また一五俊は江戸在中かどうか不明であるが舎密(化学)の
機
~4 ←
弘前学院大学社会福裂:学部研究紀要 第3号 (2003~n
ム蕎
吋⁝
思牛
舎密
﹄一
一
を著
して
いる
︒
文久一瓦年土八六二七月幕府は新設した蕃書調所物産局へ一不授を
出仕させることを弘前濯に懇意した︒次の史料はそれをぷ寸もので
ある
︒
鉱工業製錬技術に関する書﹃錬織誤象加十冊
万延二年(文久一五年)七月湾騨脇中守家来佐々木元俊儀蕃輩出調所
物産
学出
役江
一夜
一
4仰渡一候而差支無:御感ゅ候哉之旨御尋之組事レ畏
候︑熱処当丹朔蕃語調所勤番組顕ヨワ同様御談御控候間其筋江相
達候処︑ぉ⁝児仇院議当館用向有レ之︑在所表江美子方之儀申来君侯新
柄︑折角之御談ニハ御挫候得共無レ棟御噺候申上候U
日︑
去ル
九日
御
答脅差出申挨処︑猶又同一用組頭被命中間合候ニハ︑断之旨感知致候
得共今一応篤重役共踊評議之上調所ご産出方之犠精々被二由!談・
(ニ 脱)
候︑宇レ去前段不・得止・事及:桝断候次第而何分ニモ難黙止A第
合ニ
付︑
乍髄
窓駒
一工
ル先
河在
所表
江
ε L
其鮒者御用被J三
三.
二一
仰抑
付.
共於
:此
慶尚
何卒
右等
之趣
宜御
開語
置被
:成
下 度
︑ 一 一 付 此 段 申 上 侠 以 上 ( 傍 点 筆 者
﹀ 津軽越中守家来平井修理 一 一 日
幕府の光俊出仕の求めに対し弘前藩は﹁当節用向有レ之︑在一照表託業
下方之儀申来崩娯新柄︑近々在所表託出立致候様申付能在候関︑折角之
御談三ハ御座娯得共無レ搬御酷申上供んと回答した︒しかし幕府は﹁断
之旨承知数候得共今一応篤重役共而評議之上調所と走出方之犠精々
被二
申談
a骸いと重ねて要求を繰り返し藩当局者を関惑させている︒
このような幕府の元俊に対する態煙ぶりは蕃書謁所の創設と共にそ
の教授となった鵠杉田成卿の誰挙によるものであったろうが︑一克俊の 議機学に対する学識が幕府方において認められていた証左でもあると考え
られ
る︒
竹内運平はその箸吋佐々木一死俊先生恥において一克俊のこの好機を逸
したことを惜しんで次のように述べている︒
薪くして先全は藩用あるの故を以て︑の好機を逸し︑経生故郷
の地にのみ活躍するのやむを得︑ざるに奈ったが︑若し此の時︑先
生がなほ江戸に滞空して︑当時日本最高の学堂なる此蕃脅調所に
於て研鍛を続くることな得たとしたならば︑恐らくは陸斡と向
じく天下の人材として裳揚せらる︑の人物となったであらうと
思ふ
︒
陸翁とは有名な陸揚南のことであり︑海南と同じく﹁
八. 4
下の
人材
﹂
として賞揚される人物になったであろうとするこの一一一同はけだし至言で
あろ
う︒
幕府からの蕃書調所出役の要講に対する弘前藩の弁明が容認され︑
元俊は文久元年(一八六一)八月︑国下りを下命され︑弘前学問所内
に設立された蘭学金教綬に就任し︑家中や在町医の子弟の教育に当た
ることとなった︒
積学堂の設置は元俊帰国の二年前の安政六年三八五九)一一月のこ
とであり︑弘前藩が幕府からの元俊出役の強い要望に対し︑﹁一克俊儀当
節用向脊レ之﹂といって辞退を懇願しているのは︑この蘭学賞の教授に
一克俊を追加え入れることを決定していたからであると考えられるの
こうして蘭学堂教授となった元俊はかつて江一戸で世話をした後輩の
工藤岩叶や木村和一合欄学堂に呼び寄せ︑津軽の蘭学の興離に尽力し
た︒津軽蘭学の始相といわれる所以である︒
また一五控は津軽の種痘にも大きく貢献した︒文久一ご八六一一﹀
三月︑抱磨の流行に轄して一克俊は医学館
ι
種痘館を設置し︑その主妊となって種痕に従事するとともに自宅においても希望者に対して無償
で施行した︒これには元畿の弟一応悌も手伝った︒こうして明治六年ま
でに種癒を接種した人の数は一一万人におよんだと伝えられる︒
医学・語学に秀でていた一応佼は舎密学にも造詣が深かった︒そのた
め窓業の傍ら大いに留意の増進に力を尽くし藩の産業発展に貢献し
た ︒
佐々木五三郎と東北育児院の鋭設(
そ の 第 一 に 挙 げ ら れ る 舎 密 精 錬 所 を 富 田 村 に あ る 藩 主 の 加 部
であった九十九森の地に設けたことである︒ここで硝石や火薬を製造
した︒これは藩の軍制改革に伴って兵器の整備や海開に大いに役立ち︑
戊辰戦争の際︑弘前穣の大きな力となったのである︒
第二は鉱山業の開発を指導したことである︒
A m口密学にも秀でていた
一五畿は藩内における鉱物資擦の調査を行い︑西津軽郡館関村(現木造
町﹀謝岸の地盤糊より石炭に似た物質の発晃や久渡寺のマンガンの発見
などがそれである︒また明治元年五月︑百沢村一一一本梯におけるカルキ
鉱製造︑同六月︑黒石における只灰焼立法ならびにホットアス︑その
他火薬製造の教習などもそれに数えられる︒
このように数々の業績の他︑特記すべきものに明治六年出青森病院
の創
設が
ある
︒
維新後最初ノ旧青森病院ハ佐々木元後指導斡旋之上開院シ︑尚山
木 造 病 院
︑ ヲ 開 設 シ 是 ニ 従 事 セ ル 底 部 ハ 何 レ モ
出青森病院というのは明治六年︑青森町の有志が集って設立した私 立病院﹁済衆社﹂のことであり︑本県における病院組織の訳療機関としての鴨矢である︒この病院に一五俊は指導助言し︑開院に手助けしたのである︒当時︑津軽の地で随一の学識を有する元俊としてはけだし当然のことであったろう︒なお︑その後木造病院や弘前病院が開設されたが︑これに従事した服部は何れも一瓦俊の門下生であった︒
津軽の欄学の祖といわれる一五俊拡明治七年十二月十六日︑五三郎の
父新蔵宅で没した︒ときに五十七歳であった︒一応疫の幕試現在宝泉院
にあるが︑の﹁番遠佐々木元俊墓﹂の字は勝海舟の捕唱である︒
3 覚
家
次男覚玄は文政五年三八二一一)の生れで︑辻叡山延磨寺に学び一一一
部侍撞阿関梨堅省法印の称号およが大僧都の位を授けられ︑帰国後弘
前新寺町の報患寺の性職となり︑晩年弘前絢一府神社の神宮となった人
物である︒明治一一ナ八年七十四臓で病没した︒
6
韓三郎
三男
鱒川
一一
郎誌
4
々木元俊先生﹄に次のように記されている︒
﹁曾て公揮を以て大坂に赴いたが︑偶時勢の的地を察して脱藩し︑
都に至って勤王の志士と交った︒東北戦争起るや奥羽征討使揮一一一
位公に随従し︑維新後には箱舘裁判所清水谷公考の下に仕へた︒
其後の経歴に対して特別記すべきものな今持合せて買ない︒
十年富田紙漉町一番地の弟新蔵宅に於て没した︒﹂
これによって︑三男館三部は公用で大坂登りの際脱藩し︑勤王の志
士となり︑戊辰戦争の際には輿羽征討霞沢王位に従って活罷し︑維新
後には箱舘裁判所清水谷公孝のもとに仕えたことがわかる︒その後弘
前に帰り︑明治十年弟所蔵宅で没した︒
第3管 (2003年) 弘前学院大学社会磁祉学部研究紀要
精 三
宣男精一一一は医師であり事業家であった︒﹃佐々木元俊先生﹄
うに記されている︒
5
のよ
革担刀精三は始め玄ぃ伐の瓦悌)と称した︑先生の跡を継いで杉田の
塾に遊び︑帰って震学堂の典句となった︒一万延二年津軽藩にてス
クiネル型の船を建造せし時︑時屋村田代山より荷炭を得てテi
ルを製してとれな実用に供した︒慶応年間再び江田に学︑び︑帰冨
後弘前にて医を開業したが明治十二年間名部町に移り鋳ら猿ヶ森
の在炭山を始め炭山事業に没頭した︒
これによると五男精.ニは号を玄貞又は元悌と称したこと︑
の跡を継いで杉田塾に学び︑婦思して津軽藩輯学堂の典︑句をつとめた
こと︑万延一五年二八六O﹀自陣村田代山より石炭を発晃︑タールを
製造して実用化したこと︑慶応年間に再び江戸に学び︑暢国後弘前で
医業を開業したが︑明治十一二年下北田名部の猿ヶ森で石炭業に没頭し
たことがわかる︒
万抵
一五
年︿
一八
六O
)
のタiル製造とは︑当時建造した西洋型帆船
青森丸やその他台場や砲台などの塗料に覆用するためのものであった︒
精こも兄一克俊と同様に構学と舎密学に通じ︑医師として秀れた腕前
をもった人物で︑明治六年旧青森病院の副院長がて時つとめたといわ
れる︒しかし︑医業より実業に関心が深く︑下北の東通村の猿ヶ森で
石炭の採掘事業に取組むこととなったのである︒
彼が猿ヶ森で石炭を掛るに至ったのは︑県内の石炭理議地を調査 の 結 果
︑ 猿 ヶ 森 ド 森 が 石 炭 の 埋 議 地 の 中 心 で あ る こ と が 判 明 し 二 町 歩 安 践 い 上 げ て 事 業 た
︒ こ こ で 産
たでピヤウキ 出するいわ炭は品質の粗悪な亜炭であったので事業には多くの悶難が搾った︒彼は困難にもめげず事業を推進した︒しかし︑精三の事業は横年の尽力にもかかわらず明治三十年失敗に娯り︑そのことが五三部の人生に大きな影響を与えることとなるのである︒
ω
その地一旗の有名人五三郊の佐々木家はこれまでみたように訳者を多く輩出している家
柄であり︑中でも叔父一五俊や一五悌は脊名である︒しかしこの他にも世
間に名を知られているのは父新裁の従兄弟の孫にあたる佐々木文藁と
同じく従兄弟の子にあたる中間実である︒
佐々木文蔚は東京大学民学部の第一回生で︑明治十二年卒業後島椴
県松江病院長となって赴託し︑後︑出軍軍医学校の教官に転じて海軍
大軍医となり︑ブ一ブンスに赴き︑問菌製造の水雷砲艦千島八官噸仁乗
組み︑細川航の途中明治ニ十五年︑愛媛県沖で英船ラヴェンナ号と衝突
し沈没に際し殉職した︒
中田実は後に陛と改め︑司法省法律学校に入り︑その後幾多の辛背
を嘗めつつ修学を遂げ︑明治二十一一年︑自本新聞社長となり︑掲南の
名をもって健全金自家主識に立ち︑堂々の論陣をはって時の政府の心
胆を寒からしめたことで有名でみる︒また正問子規を庇護し︑大成さ
せた人としても知られている︒
制 五 三 郎 の 兄 弟
査一一一部には三人の兄弟がいたことが判明している︒長兄の金太郎︑
弟の惣太郎︑一一女のはるの一二人である︒金太郎は後に文美と改名した︒
文美は開成所本業後︑外務省議訳局に勤め︑その後山日品等蕗業学校
教授を勤めた︒弟惣太郎は臼露戦争で従軍中に病死︑妹はるは函館の
奈良家に嫁いでいる︒
次一員に佐々木家の系図を示しておいた︒
(東京大学室学部第一回卒業明治十二年﹀
︿ 灘 表 民 ) げ ん り ゅ う ヰ り あ き
︿ 藩 表 涯 ) ( 藩 表 抵 )
︿ 海 軍 大 軍 総
・ 軍 寵 千 鳥 穣 医 長 で 殉 職 明 治 二 十 五 年 )
往々木先能成章
iiJ
佐々木先侍
il
佐々木先事
11
li
41誰々木文爵
寸 角 田 寛 裁 く が か つ な ん 一
︿ 農 高 務 省 勤 務 )
﹁中国謙畜
il
i‑
‑i
韓 賞 ( 糧 需
﹀
﹁ 佐 々 木 和 葉 性 議 十 太 兵 衛 ( 討 本 新 開 聞 社 長 ) ( 医 師
﹀
︿ 藩 小 普 請 阪
﹀
2
よ り 小 島 杏 栄 寸 佐 々 水 元 竣 宗 織
11
11
li
li
‑‑
li
i
⁝︿蘭学者・欄学成︒縮機学党教慢︒明治七年同世)
( 瀦 阪
﹀ し よ う て 者 や す か ず 一
﹁ 佐 々 木 正 的 難
1 1 和
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葛西勝次郎T佐々木覚玄
電 政 二 年 御 日 見 得
︑ 一 一
︿ 藩 主 辞 擬 み 報 恩 寺 住 職 ) 同 七 年 二 人 扶 持 一 一
文化四年病死T
工 藤 思 五 郎 ア 工 藤 健 一 一 一 郎 一
︿ 藩 御 用 薦 人 ) 一 ( 津 軽 滞 土
・ 脱 灘
︑ 維 新 の 際
︑ 官 軍 清 水 谷 公 孝 に 一 一 従 い 函 館 に 来 る
﹀ 工 商 ア
j益 一 ( 監 師
・ 後 薬 種 業 ) 工 事 業 家
︑ 製 紙 能
︒ 西 京 博 覧 会 出 品
一明治十年時)
⁝T佐々本新議
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一︿法制榊)しゅう芝むまき一(蘭学常・医師)﹁栓々本秀庵宗粛
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符森会社病院法師︑後石炭出経常
大正
‑一 年初 減げ んて い
佐々木構三︿先梯)
︿清野﹀まつ
佐 々 本 家 系 図
先様こざぶろうながまさ佐々木小三郎︑承政
津軽緒二氏一倍枚に寛永五年四百行で仕官大関諮問奉行
正保 一二 年病 死 佐々木五三郎と東北育児院の創設(一)
こ っ え も ん 立 が さ た ち ゅ う ざ え も ん な が の り
佐々・本小右禽門永貞
11
11
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佐々木忠左衛門永範
一二代信義代正保三年間一点お相続三代信義代機安二年間百五十む 新田蹴開発の功により紅ト石加用相続︑小知行純一線︒勤方綱意に m m百 五 十 石 と な る 応
︑ ぜ ず 身 上 沼 上 げ
︑ 砂 小 瀬 村 へ 駿 安
‑ 一 年 病 死 引 越 す
︒ 質 文 一 死 年 病 死
もざ えも んれ ゆが めり
佐々木茂在籍門永紀
信政公代天和一二年小細工人新規討抱え︑十両二分五人扶持正徳‑一年小細工人小鋪
一冗 文三 年続 死
明司、佐今
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契百三単
年て'ト病医事室
死 業 諮 問
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寿喜Ea ~ が よ
︿沼 除小 林・ 獣底 抗鱒
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佐々
木士
山一
一一
郎 (薬 種業
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(医師)寸
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( 養女﹀佐々木はな(惣太郎設女)
先悌iト佐々木文葉
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せい
三 一 主 よ し
ー佐々木金太郎︿文議﹀
‑ 8 ひて
︿一 指悌 の養 子・ コ立
﹂後
JX 品交
﹂と 改名
︒
東大卒︒鱗訳家・外務省翻訳局・山口高等務薬学校教捜︒明治昭二年残)
︿成田家へ義子後復籍・弘前愛成罷創始者︒昭和一十年按)佐々本来三部丁
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(工 藤﹀ たか
︿日赤讃議人長日露戦争従軍中間明治二七年八月病死︑ハえ新裁の家督相税者)佐々木惣太郎
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(清野)きわ
一
︿ ニ 女 )
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ーは
る(
奈良
)
︿註﹀佐々木鱗ω氏作成の系罰の一部部筆者補正
弘前学院大学社会福祉学部研究紀要第3号 (2003年)
一 一
このような父新識のもとに生れた五三郎は持通だと幸せな生活を送 一
れるはずであったが︑ほや父の死によって思わぬ道を歩むことと担っ
た︒﹃弘前変成臨史﹄に次のように記されている︒ 生い立ち
本幸にも明治十年に父新蔵氏が亡くなると︑工場経常はばらばら
にな
って
しま
った
︒五
一一
一郎
氏の
母も
五一
一一
郎氏
が生
れて
数日
後不
幸
にも他界してしまったので︑怯度近所で米構毘の成田さんの家で
幼児を亡くして︑母乳︑が余っていた関係上︑そこの家の思子になっ
たのである︒間して青年時代の五三郎誌は成田ι家の一員として水
車小屋の米撞場で轍ぎながら︑の東奥義単一校に通学したので
ある
︒
また﹃弘前愛成闘史いの翌年に出版された明菊池九郎・
部
・ 太 事 治
︿ 上 )
﹄ の 々 木 五 二 の 中 で 同 じ 著 者 三 浦 呂 武 は 次 の
ように記している︒
々木
五
丘一二部は生後間もなく母に死別し︑の成田藤之丞家に預けら
れ︑貰い乳で成長し︑籍も成田家⁝し︑青年時代も成旧の家
族として水車小屋の米機場で働き乍ら義塾に通い︑明治十七年義
塾卒業後も成田山本の精米業を手伝っていたのであります︒
って
一︑一一郎の母は五
41
部を生んで間もなく他界したこと
二︑成田藤之恭家に里子に出され︑やがて養子になったこと 三︑父新識が明治十年五二一部七臓のとき
四 た と
経営が
の山本旅として水車小屋で鋤ぎながら︑東奥義塾に通学
し︑明治十七年卒業し︑卒業後も精米業を手伝ったこと
がわ
かる
︒
ここで立派な事業家であった父新蔵が五一一
たのは単に母が死亡し︑母乳の必要かムだけであったのだろうかとい
う疑問が生ずる︒これについて五一三郎の弟惣太郎の孫の佐々木陽Jは
﹁私が信付はな︿五三部の姪︑一応梯の養女)から聞いているのは︑母の
実家に男子がなく養子となったが︑その後男子が生れたので佐々木に
彼姓した﹂との指摘がある︒これによると成田家は五一一一郎の母の実家
で︑後継ぎがないために養子になったことになる︒
しかし︑この点については現住のところ確証がないので母の名前や
死亡年月日の解明とともに今後の課題としておきたい︒
正三郎は明治十七年東奥義塾校を卒業後︑上京して英学に志したが
病気となって帰郷したという︒しかしその詳細は明らかでない︒
こうした五三郎に転患が訪れたのは︑明治二十六年︑五三郎二十六
識の時である︒十丹十二日本家の長男一応四郎が早逝したので︑五一一一部
が佐々木家を継ぐこととなり成田ι家より離籍した︒
本家佐々木家は弘前市本町一了目で﹁赤格子いという屋号で築構酪
を営んでいた︒こうして五一二郎は薬種高の詰主となったのである︒
この﹁赤格子んは叔父一五俊が明治に開いたもので弘前では有名な薬
部で︑人々は﹁あかごし﹂と呼んで親しんでいた癌であった︒一川俊仁
子がなかったので弟元悌がその鉢を継︑ぎ︑一応梯にも子がなかったので
元四郎が跡を継いでいたのである︒
明治一一五一二部は新寺町の沖土宗西福寺工藤棚子長女たかと
結 婚 し
︑ 新 し い っ た
︒ し か し 明 治 三 十 年
︑
こと︑が惹起した︒叔父元悌が下北数ヶ森において営んでいた鉱山業が
失敗し︑そのあおりをゆつけて︑本町一丁目の仲間舗を人予に渡さなけれ
ばならなくなった︒
のス
一った五一一一部は︑この苦難に負けてなるものかと︑むに向く
普い︑捲土重来を期して奮闘した︒再が薬種高を常むまでに潜︑ぎつけ
﹁赤格子﹂を買い戻すことができたのは明治一一一十三年のことである︒こ
の間︑明治一一一十年四月には長男俊一︑翌々年には長女テル︑さらに翌々
年次女とし子が誕生︑家族が五人となっていた︒
佐々木五」郎と東北育児院の創設(
東北曹児院創設の動機
村 明 治 三 十 五 年 の 大 凶 作 佐々木五三郎が孤克救済に乗り出したのは明治三十五年十
J丹 一
一 ‑
日︑自宅に東北育児院を開設したときのことである︒そ
について五三郎は次のように述べている︒ の動機
抑モ天理ヲ鑑ミ人道ニ期リ樽愛慈善ノ一淳徳ヲ喧揚スルハ独リ是
レ人間霊長タル大本ノミナラズ社会ノ幸福安寧ヲ増進保持スル常
道ト謂ブベシ︑当国ハ滋ニ深ク忠ヒヲ致スル所アワ世上ノ可憐ナ
ル不幸光ノ為メ社会的救済保護ノ緊切ナルヲ緒感シタリ︑時恰モ
明治三ト五年青森嬉大凶歳/秋ナワキ当時初春ヨリ天候其ノ順河ノ
失ヒ
秋二
一生
ルモ
五穀
稔一
ブズ
県下
一ブ
挙ゲ
⁝ア
荒敷
ノ惨
況ニ
陥一
アン
メ官
民其ノ救護ニ労セワ卜難モ草根木皮猶ホ其ノ飢ヲ匹スルニ足⁝ブズ
貧童孤児ノ頭路ニ俳街シテ食ヲ求ムルモノ漸ク多ク其ノ窮乏ノ状
心アル者判ノシテ一段ヰノ催サシム︑然レドモ我ガ県下二八未ダ此等ノ
貧輩孤児ヲ収容シテ之レヲ救済加護スルノ機関投葡ナシ政ニ於⁝ア 不当奮然身ヲ以テ批事業ニ謹カセント決心シタル所以ナリ︒ぺ抑モ天理一ブ鑑ミ人道一一期リ博愛慈善ノ淳徳ヲ賞揚スルいことは万物の霊長である人間の﹁大本﹂であるのみならず﹁社会ノ幸福安寧ヲ増進採持スル常道﹂というべきである︒ここに深く思いをして﹁世上ノ可擁ナル不幸完ノ為メ社会的救済保護ノ緊切ナルヲ痛感シタ﹂とするこの冒頭の文章は︑五一一一郎の思懇と教養を伺い知る重要な文言である︒
このような普遍的な人類愛を抱いていた五一一一郎にとって明治三十五
年に襲来した青森県の大凶作による惨状は耐え難いものであった︒貧
童孤児は路上に俳倒して食を求るものが多く︑この窮乏した状態は五
三郎をして一択を催すほどであった︒しかしながら︑県下にはこれらの
食児孤児を絞容し救済部護する機関や設備が全くない︒ここにおいて
五一
一一
郎は
﹁奮
然身
ヲ以
⁝ア
批事
業一
一蓋
カセ
ント
決心
シタ
ん所
以ナ
リ﹂
と
育児院創設の動機を述べている︒
ここ
で明
治一
一一
十五
年の
大凶
作の
実態
をみ
よう
︒
のように記されている︒
10‑
立持
森県
議会
史恥
明治一一一十五年の附作は︑明治二年あるいは大正二年に比べると
被害の程震は若干軽るかったが︑青森県設璽以来の大同作として
記録ざるべきものである︒
この年は春以来気候が不韻であった︒真夏でも冷気が強かった
ので︑県農事試験場では不作予防対策として︑草取りを早5に切
りあげて︑水切りを早くするように︑県農会や郡農会を通じて指
導し︑各都市役所もその方針で農家を督励した︒ところが稀作に
一番大切な.一百十日を迎えると︑気温は馬鹿陽気に高昇し︑二百
十日後の三日目から二日間はこの年の最高気温となった︒