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生 産 中 都 市 の 経 済 史 約 分 析 蓼 讃 岐 国 坂 出 地 区 塩 菜 の 研 究 ・

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(1)

第−部 坂出地区の経済史的概観  

第二部 坂出地区塩菜の現況  

第≡部 坂出地区塩菓の繹衆  

弟 Ⅰ 部 坂出地区の擢涛史的概観  

恐らく瀬戸内海ほ新石器時代初頭では︑今日我々が見る如き内海ではなく︑低地帯に徐々に海水が浸入しはじめた  

頃で為ろう︒最近迄の療究でほ︑縄文文化の上限はかなり古く遡りうるものと推知され︑従って弥生式時代初期迄に   一  

は相当長年月間の民群活動も考えられるが︑此等海辺に生棲する彼等も恐らく劉舟︵クリプネ︶の使用は知悉してい  

たであろう︒私見によれば︑プリ︑︑︑チブな定着農法を知った弥生式文化民よりも︑縄文文化民の方が其の魚貝採取等  

の食料獲得上の理由から︑小採取民として︑より行動範囲の広い彷塩生活を続けたかも知れない︒問題は沙弥島であ  

るが︑恐らく此の地帯が縄文後期に登場した此の地方文化の揺藍地であり︑此の辺より陸地に向って南下進入したの    第二十七巻 第二号  

生産中都市の経済史約分析  

蓼讃岐国坂出地区塩菜の研究・   研   究  

絆  鬼  玉  

(2)

が︑坂出地方文化の曙であろう︒上代小豆島など移しい鹿肉の宝庫と推察されるが︑民群が捕獲す竜魚貝・獣肉中にほ  

既に塩分が含まれており︑人間が穀食動物的である以前に於ては︑特にとりたて1﹁塩分摂取﹂の問題は起らないが︑  二度穀食生活わ便利さと穀・薬草の貯蔵法を知れば︑人体本然の欲求と味覚の誘惑から﹁塩﹂に対する蛾烈な欲望が湧  

くのである︒この事はボルネオのダイヤ族が使うバハク語の塩が﹁レア︵オ︶﹂︵sia︶であって彼等が之を渇望したり︑又  アフリカ地方で河馬の生描に︑塩が使われたりすることから︑原始・草食動物の塩に対する生理的欲求の戚烈さに思  

いないたさ1れるのである︒私は︑特にとりたてて弥生式時代に入ってから採塩の問題が生起したとは思わぬが︑し  かも猶甚だ大胆な謄測が許されるとすれは︑日本人がほゞ穀食動物的になりかけて釆た噴から︑漸次塩に対する欲求  が強くなり︑岩場なき本土での塩の需翠は増し︑白然浜に於ける天日藻垂製塩から火の利用による製塩方式を知りか  けたものと思う︒勿論その方式は甚だ阻維・原始的でもあり︑採撃煎蘇は単∵直結的であったと思われる︒只此処  に考えられる劇つの示唆・ほ︑今日奄莫大島辺に於ける刑瑚礁・岩窪に残る乾燥塩分残浮と︑かゝる姿を見て味覚・  雀躍せる原始・上代人の思考能力である︒天日から火力利用へと発展せずとも注目されるべき方法示唆ではある︒   停て︑此の地区に於ては︑恐らく弥生式時代に入れば︑農耕は酉庄方面と加茂方面等︑山岳の麓から綾川流域にか  けての平地部︑水沢地を中心として営まれたもの・と思われるが︑此の方面の高燥な山麓地帯には舜落も作られたであ  ろう︒かくて︑銅器も︑鉄器も使用されだしてくるが︑今日弥生式土器の出土するところは︑酪記の沙弥島千人塚を  

はじめ︑単に島喚部のみでなく︑・御供所八幡神社附近︑福江町大池小山附近︑醍醐から福富へかけての山手︑醒醐の  荒神林丘陵︑白峰神社附近︑加茂町烏帽子山北麓から束辺並に西麓大明神原︑山の神附近︑穴薬師地方︑松山村との  

境︑雄山西斜面等が重なものとなっている︑漠然とではあるが︑此の辺一帯を結ぷ山麓線上に︑原始衆落を規定する事 +  が可能である︒殊に最近著明となっセのは︑加茂町烏帽子山の東北麓谷間の採石地から驚くべき多量の弥生式土器と  八一 生産中都市の経済史約分析  

(3)

八二  第二十七巻 第二号  石斧・石鎗・皮剥・石銀が出たし︑また金石併用時代の代表的遺物たる銅鐸が加茂町と隣村陶村から出土したのも特  

筆さるべ 

紅属する緑色の錆ある光沢の乏しい製作の寧ろ粗なるものである︒   

かゝる弥生式文化は特に西日本に顕著であるが︑恐らく西方大陸からの波動のゆえと考えられ︑それほ亦青銅器・  

銅鐸を含んでおり︑稀に鉄器もある︒青銅文化の段階に入ろうとしつゝ︑石器の使用も併せ行ったのであるから︑ま  

さに金石併用の過渡的段階といえよう︒紀元前二世紀から紀元後二世紀の四・五官年間が考えられる︒弥生式土器面  

に粗跡のついたものが多く発見され︑焼米も亦見出されることは︑ほゞ水稲耕作を立証しうるし︑時代は既に自然物  

の単なる採集でなく︑幼稚な定着農耕に入′つている︒′弥生式文化に有孔土器が特徴的に多いことは︑穀物を蒸す為で  

あ㌔有蓋土器の多いことも貯蔵用と想像される︒勿論かゝる土器は旧石器時代にはなく︑新石器時代に出来たもの  

であるが︑日本の縄文式文化は最初から土器をもって′いる︒その始源は恐らく天日で乾かしたものであろうが︑間も  

なく火の利用法を知り︑堅い立派なものを作るようになった︒そとで考えられることは︑塩の煎勲も鱒諭的には案外  

早くから知り得たものと思われるのであるが︑遺憾なことには︑いまは之を立証しうる材料がない︒塩浜から瀕出す  

るⅤ字型の土器も︑時代はさ程古きものとは思われず︑いまはまだ東大考古学教蚤の駒井教授から結論をきゝうる段  

階ではない︒たゞ併し︑弥生式時代から次の古墳時代へかけて︑既に史料文献などから推して︑自然浜に於ける﹁瀕  

しほ焼く﹂段階が意外に早く到来したものであろうことほ私の断定してはぼからぬところである︒    ゝ  

弥生式時代に一種の交換め存在を推測することも可能ではある︒例えば︑貝塚が水辺から随分離れた高地にある場  

合︑々れは運んだ住民の食べた残浮というよりほ︑交換によれるものとの推測もされ︑或は黒曜石の石飯が関東の塩  

浜などに見られか場合︑信濃地方のそれと海辺の蟻との交換も推測されるのであるが︑四国地方では竃憾ながらいま  

≠〟  .1卜..   

(4)

だかゝる事例妃・は接心得ない︒  古墳時代笹入ると坂出の田尾坂上の茶首山古墳は前方後門古墳の雄大なるものを残しており︑埴輪円筒を鉢巻状  に周らし︑三段に構築されている︒更に坂出水源地の二子山古墳も元は偉大な前方後円墳であったが︑立派な漢錬や  玉頬を嘩土している︒自噴の大なるものに︑府中の讃岡古墳臭塚とがあり︑城山の頂←にも古墳があったらしく須  嘉も出る︒加茂村正等の裏から北にかけ現在三基′の最跡もあり︑松山村害院から雄山・隕巴㌫け︑更に府中  村鱒も数多くあり︑高松の石清尾山系に劣らぬ石塚が新坂出市内に求めうるのである︒かくて︑史料的にほ古事記な  どに︑既に仁徳帝の噴︑破船を焼いて塩をとる術も見られたが︑坂出旧市内から今度合併きれた府中にかけ喜代讃  岐の文化中心地が栄え︑躾て大化の改新ともなれば︑府中に国司庁がおかれ︑恐らく讃岐の政治経済の中心点が此処  

− に移ったであろう︒菅原道真の頃ともなれほ︑費岐の人口は恐らく廿万を下らないであろうし︑すでに朝鮮式の山城  たる城山の築城・があり︑更に条虫制が綾北平野賢かれて粧田収授に侵し︑国分寺・城山神社・加茂神社なども夫々信  

仰の中心地となり︑此の辺坂出の古代文化こそ上代琵の代表的なものとなっていたといえる︒箸式︵宗四︶には  

絹・塩を輸する伊勢国・讃岐国等があげられているが︑﹁阿野郡輸二熱塩Lとあるはま己く此の地方選塩と塩の煎  

警青雲しめるものぺぁる︒延富式そのものは︑延長墓︵軌配︶違って雷︑弘仁式及び義式と共に︑琴のヰ  国的規雷補修芝とする仙つのあらわれである︒平安前期格式社会になると律令社会の班田制や戸語の制ほくず  れだし︑私人の本土地所有制は発展し︑権門勢家はむしろ浮浪人をかき集めて荘内を開墾せしめ︑極々の名義を附し  て免租の特権を主張してきた︒なか覧正式の不輸租の免許を得るものさえ出来︑首姓の中にはその田地を権門に寄  進して︑賦課を免れよう与ノるものすら出来てくる︒朝廷の側からすれば︑その貿粗収入の確保は重大な問題となる  が︑いずれにしても紫墟を阿野郡に課徴することほへ既覧・十世紀に於誓此の地方の塩の煎幕を確警ねはなら   八三   生産中都市打経済史約分析  

(5)

軍‡七巻 第二号  八四  

なくなる︒国司庁が讃岐監旨せられたのは︑八世紀初期文賢畠買著聞︵朗址∞一こであり︑場所は府中村て  ぁる︒その下に郡司があり︑もらろん坂出地方ほ阿野郡に属していた︒十世紀の地理書と見られる源順の﹁和名抄﹂  によ牒と︑阿野郡には新居・山田・羽床・甲知・鴨部・戌部・山本・林田・・松山が記載されてあり︑坂出地方に属す  

るの町鴨部・琴山本・林田の四郷である︒崇徳上皇が後白河天皇の保元元年︵監︶讃岐に流された頃にな㌢  松山の潜・林田・府中・西庄などにかなり住民もいた事と思われる︒中世鎌倉期の荘園に︑建空ハ年鴨部荘が賀茂  神社の社領紅︑文永年中林田内の潮入新開が祇園日記に見られるが︑潮入新開とあるからには︑製塩好適地を想像せ  

しめる紅十分である︒中世前期の塩浜に就いては︑われ′1ほ既に僧鞍照の六育番陳伏に就いて見たところである︒  伊勢の浜についてである︒   

戦国時代ともなれば︑中心地は林田と西庄に移るが這庄城の香川民部少輔︑聖通寺山城の奈良氏︑共に大正七年か  ら†年にかけて土佐の東経長曽我部一訴親紅席捲される︒天正七年香川少輔が中国に落ちのび毛利家の小早川隆景を  

頼って再掌多津に議せるときの玉藻集︵鮎友︶の記雷﹁香川潮を計って遠干潟の坂出浜魚の御苦り人町計  

り沖の方を妄字紅渡し︑酉の庄へ押着る﹂と告︑奈良氏に就いては︑民賊物語︵露栄︶に︑聖通山に累代居城を構  ぇしこと︑東宝ハ辺の地形に就いて・ほ﹁城東は人海にして角血の麓まで海潮恒に満干いたせり︒角山の麓より三四丁  計沖に出て東西の寄洲三十七・人→ありて︑其の釆に南北の洲在って横たわれり︑海潮の満たる時︑津郷︑福江の大  道を往来せり︑潮の干たる時は海中の洲を諸人往来せしとなり︑遠近の遠いあるう弓と弦との如し﹂と述べている  が此の辺仙滞ほ塩田築造巧者から見れば︑如何に塩田築造干潟の好適地なりしかを物語っている︒勿論︑現在坂出市  街地は海中紅あったと思われるが︑かゝる塩田好適地勢はその構築巧者に見のがきれる筈はない︒  私の乏しい見解では︑大体慶喪噴から瀬戸内海人浜式塩田の原型が︑ぽつく内海各地に出来たようである︒而し   

(6)

て︑近世窟には播州赤穂辺から数次軋捗って︑坂出方面へ官姓が集団移動している︒数等寺文恵転よれば︑﹁慧元  和之落川赤穂蒼生初舎干此杵足芸宗徒也﹂とあ急︑先ず鷺七年投津の山山慾に半塩半農の衆蕗が形成き  れ︑八幡神社も勧請されている︒更に此め地の豊栄に従うため福江村辺からも内浜・新浜炭住しているが︑此  のことは彼等が其の旧き住居地芸村と呼ん空とからも察せられる︒次に第二次の移動が考えられるが︑当時来  

任したという須崎・阿河・蜜・津山各家所蔵由緒睾にも明らかな如く︑此完︑露・別所・田中ふ林・大石 ・北浜・山地・多蒜等竺族九十八人が北条郡坂出村・乃写本沢・高屋・那珂郵塩屋・三野郡詫間等処々へと離 散しているが︑其の行纂ど全部が塩業地である︒更伝習茶十四年には︑宇多津酉光寺造出した切支丹芸賢  

れば︑此の頃内浜・賓には相登戸驚増ゝ畏ようであり︑寛葉菜山苦なると︑高松港内十七ケ所に︒銀場が  設誓れるが︑坂出は新浜監筐されて広葉・発寒・竹木顆の移出入告錬がとられたのは︑塩業と極めて密接な  

か1晶係物資の移入誓っセ︑塩菜遥の傍質料と考えざるを得ない︒蔓文七年若の海辺巡検使高林又兵衛  

二村の視察記・﹁海上湊2記﹂によると﹁サカイ言二拾軒︑江尻四十八軒︑乃芋三軒︑林田拾軒︑御供所五軒﹂と  

いう小衆落の散在が見られ︑大赦など猶﹁此所磯ハ小石也﹂とし1ている︒此の頃の坂出は遠見霞もあるが︑せいぜい 人口警︑磯辺の単聾畏の⊥寒村に過ぎなかったであろう︒それが元禄年間覧ると︑塩田はいま浜顔といわれる  人浜溝渠を中心与る要地区炭翌られ︑村落自体も釆へ拡がってゆく︒草保末ともなれば︑坂出浦出入の船も  

数を増せる為︑林田浦ゐ川臼番所ほ西洲賀意屋港に引越している︵㌍︶︒此の頃から移住民も漸く多くなり︑人︒  も増えるが︑延葺間︑高松の人選武賢の﹁翁慧話﹂に﹁坂出浜墟畦多シ︑以義海鳥レ塩為レ業︑船三腹蔵レ警  十四石﹂とあるは注目すべき文献である︒  

更吟対岸塩飽諸島から御供所又は坂出簑住せる人も警多く︑急から釆た集団kつぐものがあるが︑安永年間       ︳  

生産中都市の縫済史的分析   八五   

(7)

第一幕七巻 第二号  八六  

︵聖批㌍粥︶違飽広島の青木涌から移住富ものに︑香川・番正・南・木下・松下・中谷・小倉●山下●中条○中  

村等十衰琶針天明七年︵㌫︶覧ると︑酎田富武滞八ほ御供所沖に塩田蕾と畠を開拓してぺ︒  

凡そ五町二反六畝であった︒これまでは︑坂出塩田開拓の前期段階といえるのであるが︑此の頃︑即ち文政十両奉久■  

米栄左衛門の坂出墾田以前の衆落は︑ほゞ御供所・内浜・新浜辺を最古とし︑次に西洲賀・中洲賀・宋洲貿政人家が  

出来︑その周辺に福江・横洲・江尻・林田が形成されたものであろう︒此の頃の戸数は僅か堅二官︑人口千余人である︒   

聖避寺山・茶臼山・角山・登山・金山を結ぷ曲線の宋北麓に中世末の幼稚な塩田を規定する尊は可能であり︑角山  

山麓の新浜︑笠山山麓の谷内は其の地名と伝承から押して︑恐らく近世初期塩田であろう︒併し︑文化年間の絵図に  

消えているところから︑それ以前既に廃止されたものであり︑今日では耕地或は宅地となっている︒塩田は此の曲線  

より東北に張り出していくのであるが︑仲塚浜ほ中須賀であり︑文化年間の絵図に見られるのみで︑その開築年代・  

面積等ほ全く不明である︒ただ新浜より張り出しており︑宙浜より内陸にあり︑中間に任していることから︑その開  

築年代も嘉より前意浜より後に出来芸と一針像するこ詫出来る︒併し︑文政十二年︵壷の﹁坂出墾  

田図﹂には既に仲塚浜ほ消えており︑恐らくこれ以前に靡止されたのであろう︒現在ほ寧ろ市街地の中心にある︒づ  

ぎに舌浜は塩田一八軒前︑反別二ハ町五段六畝九歩数有していたが︑昭和四年の塩田整理に靡止され︑市街地となっ  

たが︑恐らく近世初期開築のものであろう︒聖通寺山慧供所浜は︑ 

代の閲築である︒此の年五月にほ米価騰貴して大坂・江戸の町人蜂起し︑六月には飢民賑他され︑松平定信が老中に  

任ぜられたときであるが︑五軒前︑僅か五町二段六畝歩の開発も︑田沼の憩政につづく大飢饉と世の腐敗にこたえ︑  

政治建直しと塩の増産には結果的には一連の関係もあるであろう︒勿論塩価の騰貴が︑その生産を刺激したことも考  

えられる︒   

(8)

近豊田は徳川中期殊覧禄以降瀬戸内洛に集約せられていくので雪が︑更に文化・文政ともなれば︑全国六拾  

八州のうち白川の製塩場で自足しうるものは八州のみ1他の苛拾州ほ殆ど十州塩田に其の供給を仰ぐことなり︑猥  なる久米要は此の点に着目したのであろう︒数盈的浸いえは︑其の噴全国豊高凡そ五官万石・のうち︑其の九割︑  四官五拾万石が瀬戸内海産警あり︑それが巻末となる笈んでゼラ︑︑︑てド型虹製塩場姦加していき︑反対に中  

世迄日給自豆雰煎っていた他国?製塩業がスリバチ型に墓の過程を辿るのが表現象である︒このことの基本的  理由にほ︑人口増加というよりも︑寧ろ近世商業の発展と﹁商品化﹂した塩及び塩合物の登場が考えられるであろう︒  かくて坂出港が墟都として近代化の礎石な約束されたのは︑まさに久米栄左衝門により文政八年三月から同十二  

年八月にかけて︑巽南大浜が慧され︑東大浜三七軒前霊︑〇七二九町︑笑浜三五軒前四六︑四八〇八町が完 成し︑その沖鷲も修築されて遠の積出港としての地歩姦め︑又その全国的取引の造違いた噴からであろ  

ちノ0  蕊にいうまでもなく坂出塩田の中心地は東西両大浜で誉が︑その面積と質から言って真価は此処覧すといえ  る︒概略して次の如く︑其の完彗はもちろん久米栄左衛門一族であるが︑彼の票は組讃助方賢かれ︑引田屋  串兵衛︑川口屋松兵衛などよく輔け︑エ亀参与格に高松の人︑茂右御門︑江尻の人︑八十八があり︑坂出方面の協力  

者には︑井上嘉次右衡門︑組頭周助・菩・栄次郎がいたし︑塩庄屋にほ宮崎警︵坂出︶本条望︵江尻︶がおり︑塩  

組頭利平・真部・源太郎・久蔵・久助等が活躍し︑会計方面の金銀収支を担当せる者に︑吉本弥2助氏芳がいた︒  巨大な排水構築作業が決して小人数の義郎党だけで出来るものではない︒概観して其の浜は︑  

文政八年≡月漉エー同1年∧日東成  

東大浜 ≡十七粁前 五五︑〇七二九町  

生産中都市の経済史紆分析   八七   

(9)

西大浜 三十五紆前 望ハ︑四八〇八町   となるが︑大いさほ勿論全国有数︑赤穂式及び三田尻の長所をあわせ︑排水溝の設備︑海水注入口の構造等︑独  特な久米式塩田なのである︒昭和十八年・ニ十三年来大浜の約平分ほ東田となり︑現在大部分が工場用地となって  いるが﹁坂出墾田図﹂を見ても一目瞭然である如く︑文政末の栄左衡門の構想は甚だ雄大である︒  

栄左衛門其の人は︑文化三年︵歎︶高松藩より藩内測鼠を命ぜられており︑彼は生れつ羞数罠じた美技術  の巧者であるが︑今日残暑文書に多く呈木絵図を残している︒また既鱒着工前阿波・伊予・中国各地の塩田を 克  美地に見聞し︑文化六年には港内天文測鼠万を仲村けられ七いる︒いわば↓土木の専門家であり︑別子銅山の漏永  も文政九年墾田の繁忙時鞍別子血赴き︑三・四ケ月にして水技工事を完成している︒富海浜測量に就いては︑伊  能忠敬軋劣らぬカ畢字有し︑つとに坂出開墾の肩望なる単に就いてほ経済的な見透をもち︑風雨時毘︑よく聖通  寺山に登り︑風潮の運行を観測し︑常に海岸の地勢・地質・潮流・気候等を綿密に調査・記録し︑その闊築開始前  の諸層り予定者にほ︑塩ぎ只の慣行・運送・製塩業者の状態にいたる革具鱒研究して′いる︒時宗干の見込達も  

告が︑いま新⊥く発見された﹁稟塩2積擁﹂等によって見ても︑此の文献を抄録して摘記すれば︵甲︶・︵乙︶  の如く︑彼の計画性・科学性に対してほ︑敬服すべきものがある︒  

︵甲︶  

二∴菅ケ年二八拾浜持−シテ台数育三拾ツツ此下穴冒ノ垂塩弐   

荷半宛之見込ニビア菅浜二永三宮弐拾五荷是ヲ八拾浜之惣水   弐万六千荷也  

︹註′N・ひ×−∽○×筈=N芸00︺  

又弐荷取之積リー;テ菅浜二弐官六拾荷ツツ是ヲ七拾浜持トレ   第二十七巻 第二号  

テ菅万八千弐首荷也︹NX−ひ○×3=−∞N含︺  

党首荷焚土シテ.首八拾冒釜又壱百焚二別家七拾俵ツ︑寸ソテ出  

来塩菅方式千六官僚也 

菅匁五分替トビ7.代銀拾八貰九百目也   

︵日カ︶ノ恋   着塩数 七貫目健一シテ八万八千弐音質也   

(10)

これは文政十年六月今沢新開汐留直後の予定利益であるが︑七拾浜持として出来塩菅万二千六首俵︑壱匁五分替  

として代銀拾八貫九盲目より石灰原料・労賃・道具損料等拾菅貰二宮目を差引いて七貰七百日が考えられる︒  

更に文政十左頃の蓋日であるが︑坂出村西新開出来あがり︑ついで米新聞の取立年責は米にて酌むべき筈の処  

南新開利益銀にて五ケ年後にされたしと願出で︑両新開完成後の御益の横として︑  

︵乙︶  

右御新開出来揃五七年之後御国益之稽  

一塩浜都合六拾七軒   

此地場料 菅カ年分 六拾七貫目祖  

但壱軒前著督冒ツ︑ニシテ.  

一口銀六拾恵三盲目  

但望官紆軒別衷六千儀之定之積尤儀二者分五毘掛ケ其余  

り日銀ハ暮節季浜首姓へ指庚ス   

晩方御益銀二口〆首弐拾七貰三宮日  

生庭中都市の経済史約分析   右釜数石灰代 六貰三宮冒也   

但望甘口分き一拾五匁替之稽  

人 拾壱人掛リエソテ.質銀雑用共四貰四百日也但シ菅人四盲  

目稽ソ  

ニ口〆 拾霞七盲目   

其余之諸道具損シ物直シ五官自程入用卜見る   

尚〆拾菅貰弐百目也   

一=一昔俵二附八分九屈ツ︑ニ当ル  

人数割  −  

外二  一畑方官給町余  

此御年貴之守作徳共千石余則金千両二当ル   

塩浜畑方御収納辻  

壱ケ年子三千両斗り   

右之御新開出発塩浜永︵揚︶銀  

﹀ 管ケ年分二者千0〇五貰冒也  

此金管万五千四雷雨余  

但レ竃屋壱軒前二附拾五貫目之水場之稔り  

八九    T左右二道り二二三人掛 中菅通り弐人掛  

〆一八人蛾り  

外二様来 者人 釜焚弐人  

都合拾山人也  

五社−−認ノ席場先  

家内五人有ル由  

祖母二孫三人  

知 者人新居  

九月四日 註︵文政十年カ︶   細谷之家別之由  猿尾善七殿  

(11)

これは文政十一年五月サ一日の彼の目撃記録と確証されるものであるが︑数年後の薄の利益見槙として︑塩浜・畑  万年両者の収納合計菅万八千四首両余を予定し︑事実或程度の成功を収めたようである︒彼ほ塩田開発にほ︑余程の  確信と積極性をもつていたと見え︑更彗若此序二束綾川裾迄御築立被遊候得ハ御国人足始メ残梯子諸道兵亦ハ諸国  

ノ石船蘭土船与至迄未夕御新開之人気去り不申候得ハ弐割2御益之時節﹄と建言せんとし︑ややもすれほ退嬰的な薄  の政策に拍車をかけ︑かくすれば二般大衆も納得してつ小て来るといい﹁下モ山統納得可仕哉二奉存候﹂と結んでい  る︒これが此の時実現していれば︑既に金山新塩田から本所浜軋至る広大な線が文政末に実現していたであろう︒  

い溝の西新開及び中新開︵謎飢讃媚豊の臥功後の﹁御口銀元帳﹂に就いて見るに︑各小作人の平均ム︒牒そ六・  

七拾台であるが︑極上々浜ほ壱台に付四拾俵宛であり︑警︵詳︶・佐七︵詳︶・蔑︵憫紅︶・久四郎︵謡∵意 ︵宗︶・留蔵︵欝︶・勘太郎︵相軍曹兵衛︵請︶・志︵欄鮒︶・武平︵摘鮒︶の所有台数〆六冒九拾喜誓あり︑此の塩  

弐万事竃四俵︑監禁淋は冨旨三拾八俵宛︑宍︵鬱の七拾台分の塩弐千六官六億︑財㌫㌫ほ雷  

簑二拾六俵宛︑平十郎︵軸三︶・安左衡門︵翻四︶・庄五郎︵翻五︶・杉蔵︵講︶・金九郎︵欝︶重義酎︶︒新次郎l︵儲︶  ■  

ヽヽヽヽ  拾菅儀式歩︑上め上浜ほ壱ムロ  

嘉 三   太 之   郎 助  

(    ′一■・・・、 七東九西  

第二十七巻 第二号  

畑方惣高Z寄四百八捨石余 被成方ヨリ候得共   

∵畑方木綿者ケ年分  七八百石工当ル  

弐千本余 此金弐千両余  

外二雑穀之類  

千四五官石食∴此金凡千両余  

番十  十 番   

ヽ  )  \__ノ  

三 与   五次   郎 兵 ミ 

丁・.」  

番  

㌣こ  佐志紀十︶︒勘右街門︵憎配︶の所有ムロ賢千三宮九台牒牒︑此諸牒七滝−一い−   

付一一軒㌃針︑墓衛門︵酪六︶・助太郎︵締J・五郎助︵錮八︶・新平︵細九︶姦七︵講︶    太右衡︵楓J.・久右街且諾︶・竹Å詳︶・伊太夫轟︶・套Å詐︶・凍平︵詳︶   ◆し﹁−ノ  ー﹁ノ︵  

一畑方ヨリ出来上り金 凡三千両余二当ル  

菅ケ年分塩浜畑方出来物  

惣扱高之寄 正金菅万八千四雷雨食品当ル  

子五月廿一日改 東新開音番帳へ写  

(12)

・風琴の所有台数㌫盲針雷あり︑此の誓方四千七雪拾五針㌫中掛蔓口牢付三拾由俵宛︑仁助  

︵講︶・芝助︵謂︶・伴次郎︵醐鮒︶・多七︵欝︶垂︵諾︶・豊次郎︵講︶・沖孟︵訴︶・卯吉︵琴・好兵衛︵憫  縦︶の所牒台数〆 . ︵撃 

香︶・警衛門︵醒六︶・加次お衡門︵踊七︶三太郎︵輔八︶・仁左街門︵諾︶の所雷数〆七首七拾七宝歩︑此の塩弐万  

四千八百八拾俵︑小か中掛ほ誉口旨三拾俵宛︑兼戚崩十︶・勘次郎・平右衝門・菊助の所有台数〆弐百八拾九台︑  

此の櫨八千六官七拾俵︑小計は頂付弐牒九俵針︑仙次郎︵軍書八︵攣雪基一︶曇台数言減  

給芸ロ︑此の望千吾九拾七俵︑下浜ほ要旨竺拾八俵宛︑六兵衛︵締この所有ム口数五拾八ムロ七歩霊︑此の墟  

千大官還五俵となるぺ此等の泉西南新開惣ムロ牒寄︵餅官八官︒蔓萱讐なり︑此の惣塩俵数寄夷に  拾六万六千四官八拾四俵六歩となり︑菅俵三分宛の計界として︑惣代銀寄︑四拾九質九官四拾五匁三分八旗が御口銀  として︑薄庫をうるおしたと見なければならない威等小作の呼名が梢近代人の名に近く似よった者の見えることも  江戸末期帳鹿㌫二つの特色として興味深い事であるが︑更に他の南新閑浜の﹁御冥加元帳﹂を検するに︑此等別記  の諸人物が各々菅台紅つ・いて極上々浜で拾六匁六歩から︑最下等の下々の中浜で拾壱匁宛を納めている︒此段の諸段  階ほ︑極上々浜・極上の上浜・極上の中浜︒極上の下浜・上の上浜・上の中浜・上の下浜・中の上浜・中の中浜・中の  

下浜●下の上浜・下の中浜・下の下浜・下々の上浜・下々の中浜と芙に十五段階に分れているのも︑劇驚に催する  が︑恐らく下々の下を加えて工ハ段階が実際男えられていたのである︒塩田地味と墟の生産巌が規準となったのであ  ろう︒而して︑此等品等の諸浜作人の台数平均六・七拾台を彼等が家族労働によって︑更に浜子を使って︑寵家数〆   九一   生産中都市の経済史約分析  

租  

(13)

七拾軒をもち︑南新開に天保時代から本格的な採塩作業が始められたのである︒其の構築は文政八年三月から同寸±  卑八月迄四年五ケ月を要したのであるが︑兎も角︑此等のム口数合監千八百○富者歩孟が稼働して︑出来塙菅万  六千三雪一拾四俵四歩○弐五︑菅俵四匁替として︑代銀六拾五貰三雪蔭ヒ匁六分署旗が冥加金として高松港の財政  を一応うるおしたと考えうる′のである︒天保二年彼は塩田開拓の功により田税十石をうけ︑英検塩浜元占格を仰せつ  けられており︑晩年彼は港湾切開︑火銃の発明︑硝酸研究に専念するが︑発明家の常として必ずしも幸運でほなかっ  た︒ただ然し︑今日東大浜・西大浜の石垣に聖通寺山・与鳥・藤島・乃生岬・淑居島虐などの花崗岩が移しく残れる  を見れば︑如何に多くの庶民が此の土木の巧者に協力して塩田文化の礎石を作りしかを想察する事が出来︑恐らく界  讐○劇︑五五三七町歩の塙田構築に︑延人員にして盲九拾万余の人夫が動かされているであろう︒開拓者にありが  ちな運命として遺賢自身も高松港を富貴礎を作って︑彼自身は私財を投尽するが︑肉体的鱒も袈乏する︒従うて  宇多津塩田の構築も其設計見積︑金千五官五十壷二百匁というに終り︑統工不可能となった︒時覧保十年である  が︑同十二年五月七日馬楢軋て病没している占いま塩田近代史を顧るに︑其の新らしい築造例は昭和二年来大浜近く  の金山新浜であるが︑二十七町の塩田を竣工する竺・ケ年︑工事費二十八万円を菅︑貴大正十三年仁尾新浜は六  十町に四年︑エ事費育二万円︑大草四年丸亀蓬莱浜笑十三町豊年半︑エ事静士官十九万円を警ている︒今  芸大浜新塩田建設五万妄坪竺億五千万円の予界を要しているが︑開発事業としての塩田構築には︑巨大資本が  不可映要件となる︒特に国内食塩自給の線を堅持せんとすれは︑かかる支出もまたやむを得ぬ生存権肯定の支出予界  である︒一何はともあれ︑塩都坂出は久米遺賢誓って︑日本近代資本主義の潮流還さすべく︑締り起されたが︑遊  撃以後本島浜九町余︑与鳥浜十一町︑綾井浜八吋余が築造された以外︑江戸末期の構築はなく︑其の坂出地区塩田の多  くは執れも明治年間以降の竣工にかかるものである︒    第二十七巻 第二号   九二  

(14)

いま江戸時代最後に開墾された綾井浜について若干ふれるが︑西大浜の西に当る綾井浜の初期工事七町二反四畝  

十一歩ほ魔之助により元治元年︵㌫︶から翌慶応元竿二月笹かけ七遂行される︒此処の四軒六歩は久歪左牒  

の曽ての墾田の一部分であったから︑総て彼の鮒例軋倣って︑その永小作の御口銀︑冥加金が上納されたらしい︒松之  

助は商魂遺しき企業家であったが︑﹁塩田経営﹂ほすでに︑牒業経営から﹁問屋職﹂下付への利潤追求・資本蓄積への志  

向匿も現われている︒次の綾井彦生民所蔵文責ほ如実にそれを物屠るが︑↑空洞願に対しては︑御手浜としで︑塩口鉄  

冥加銀は類浜同様上納︑但し最初のニュ二年間は畑作年責を納める宙を条件とし︑請浜仰渡の畜付が元治二年五月十  

日■に下付され︑本普請に取かゝつている︒而して︑従来請作の畠小作人への賠償料は松之助がなし︑其の講作取上行  

為ほ役人に依存し︑御手浜軋転換後ほ本人の担税小竹の形式上なつたのであろう︒仕の場合︑従来の畑作免を塩浜に  

転換開発する軋つき︑中川西へ築堤普請凡そ六拾間を張り出す軋就き︑其の資本苗穂の為にとて︑四軒前ほかりの︑  

﹁塩屋職﹂仰付の請願をしているが︑塩政所は土工成功後の上納を確約せしめ︑これも同年六月﹃諸事厳重に取扱口  

銀冥加銀等無遅滞取立﹄を条件として許容されたようである︒  

西側新開畑方免之内凡五町斗綿作井麦作共雉出来御土地御座候右畝高乍恐私ね御詩作被 仰付被下候様奉願上候   ↑ 願書之事  

奉願上口上  

付力   左侯得者塩浜凡四軒前位開口当年中二出来候様奉存候尤是迄之御論作人わ者相応之謙語料私♂指出申候問詰作御   

取上ケ之義ハ御役所様点被 仰桐被為下候様奉願上候左傾得者壷井麗家共自分矢却□仕立出来揃右浜御上様ね指   

上候工付私御請浜一︸被 仰付被為下候得省外御手浜同様工御口銀冥加銀上納可仕儀尤最初両三年之所者塩不出来   

ェむ可被在之と奉存候間御免分之上御取立被遊候四五年も相立候得者類浜同株工相成候間何卒此段相済候棟奉願  

生産中都市の経済史約分析  九三   

(15)

済候様宜被 仰上可被下候此段奉願上候 以上  

慶応元年  

丑五月 日  

塩政所  

本条勇七殿  

以上坂出地区に於ける近世塩田研究の概略であるが︑次に此等の塩田の生成に就いて︑明治以降の塩田開発も含    塩政所兼帯 .  

本条勇七殿  

幻 御内︑ゝ奉願上口上  

坂出浦御新開畑方免之内此度塩浜遠蕗仕度段御願中上候処願之適被 仰付被為下雉有仕合壷存候然ル処是竃之  

中川西ね六拾間斗築足シ不申候両者浜之為も不宜候室川御座候間御普請御願中上度奉存候得共当節柄御上様わ御厄  

介御願申上候義奉恐入候工付払わ被 仰付被下僕棟仕度奉存候併余程人乳も掛り候義一−附自力=も雉及候得共此度  

浜四軒前□之塩問屋職私ね被仰付被下候ハ︑右口銭益銀ヲ除置候入日之元立−帥仕釆寅之年中−帥者出来候様可仕候と  

奉存候夫々願之通御済も被下候ハ二望々難有仕含工奉存候尤川普請之義ハ御見分之上御指図通仕候間右願之過少相   第二十七巻 第二号  

上候猶又御新開之面1も融通相成共二難有仕合こ奉存候  

右願之適相済候様宜被仰上可被下候奉願上候 以上  

元治二年  

丑四月   坂出御新開   

高屋  

松之助 判  

高屋   

松之助 判   九四  

(16)

めて一覧表を作れば次の如く︑全体として︑明治より以前二九−七パーセソし二一二︑〇五四一町︑明治以降七  〇・三パーセソー︑五〇二︑六〇〇二町が考えられるのである︒文政末以降塩の生産都邑としての坂出の面目躍如た  

るものがある︒明治から昭和にかけての斯業の研究に就いては︑又別の機会に詳論するであろう︒  

綾 奥 本 酉 某 御 本、角 高 新 舌 古  

井島島大大富供沢苫ウ屋  

浜浜浜浜 浜野浜浜婆浜浜温浜堅浜  

一 

坂坂与坂本丸浜坂坂坂阪坂壬同宇綾松綾丸 丸坂坂  

−  

生産中都市の経済史的分析    坂出地区塩田の開発﹂  

出出島出島亀山出出出出出越纂歌山歌亀亀   町市町市町市町市町市町市村 町郡ポ郡市 市  

︵延宮元年︶  建 学 二 年  

明 和 年 間   

天 明 七 年  

︵文政八年三月︶  文政†二年八月  

︵文政八年三月︶  文政十二年八月  ︵文政十三年︶  天 保 九 年  ︵天保 九 年︶  天保十一年  ︵元 治元 年︶  匪応元年十二月   慶長・元和か   元 和 六 年  

延 元   月︑尭成年月   ︵ ︶内は着手年  

和 六 年   

宝 年 間  

(      ′■ 、    / ̄■■ヽ    / 、  

八八八八   △  

︵元和元年︶   刷六山五  

一六二一   

山六二一  

︵延宝元年︶ 一六七≡  

︵一七四四︶  一七四五   同西暦   覧衷  

明和 七  

七八七  

八二五︶  八二九  

∴ 

_  六ブC  四年  

面  積一創 始 葛  

呵  一六・五六〇九   

一〇・八一〇仙  

三・六荒〇四   

膚七︒二五ニ  

九・〇〇一九   

一九・四六二九  

五・二六〇〇   

五五・〇七二九   

四六・四八〇八  

九・二四一七   

一一・〇一〇八  

八・二五〇四   ︵閻諾鯛媚詣酬用諾い︶  

赤穂  田中藤七外甘七名  

赤穂  田中藤七外廿七名  五代   ≡野平次郎  仲多度郡垂水村   酒造業者其  

︑松  平  侯   

官 武 治 八   

久米栄左衛門   

久米栄左禅門  

綾井松之助   宝暦年問既に就業してい  たことほ疑いなし   昭和四年︵一読︶讐とな る   考  備  

(17)

丸  中 大 安 林 卜明 九 九 野 阿 九 九    ウ  桝 薮 蓮 田 治 ウ 亀  田 河 ウ ウ  

第二十七巻 第二号  

浜  浜・浜 浜   浜   浜    浜    浜    浜    丘ハ ︑ヽイ   浜  

宇綾 松綾松綾土丸   蛋歌・山歌山歌器亀   町郡 村郵相郡町市  

坂出市  林田町   

丸亀市  

丸包帯  

綾歌郡  宇多津町  

坂出町  

坂出市  林田町   綾歌  宇多津   二∴∴膏  

︵明治十四年一 . 

︵明治十八年二月︶  明治十九年十二月  

明治二十山年  

︵明治二十年五月︶  明治廿一年十−山月  

︵明治十二年山月︶  明治二十二年二月  

︵明治廿一年五月︶  明治二十三年ヒり  

︵明治廿〟年五月︶  明治二十三年七月   

︵明治四年≡月︶  明治二十四年五月  

︵明治廿七年九月︶  明治二十九年︼月  

︵明治廿七年九月︶  明治二十九年二月    ︵明治四好三月︶  明治五年六月  ︵明治四年三月︶  明治六年 四月  ︵明治元年五月︶  明治七年十〟一月  ︵明治 七 年︶  明 治 八 年   山八七三  

︵一八六八︶   山八七四  

︵一八七四︶   山八七五   

︵一八八一︶  一八八四  

︵一八八五︶  一八八六  

一八八八   

八八七︶  一八八八  

︵一入七九︶  一八八九  

︵一八八八︶  一入九〇  

︵一八八へ︶   刷八九〇   

二八七一︶   山八九︼  

︵一八九四︶  一八九大   

・三_・  

\、/ ___−■  )  

同   四四二四一八    七一入六仙八  ∵五八〇二   

心五・二八一七  

五・三六二五  

一三・五〇一七   

二四︒九二〇九  

八ユニ〇二七   

三八・九四〇六   

一七・三九〇四   

一・二五〇九  

二・五憲二三  

五    ニ  五  

九 三 0  0  

__.__  

有塩井八三株歌三井八三谷谷石安浄   中条六三郎   津 島 卯 平    前掲丸ク浜に同じ    共立丸亀塩田会社   十郎︑村瀬正灰︑   太田岩蔵︑福島嘉   世話係   数寄住職某及別院   輪番職︑阿波国浄   西本旛寺塩屋別院   滝  原三郎  

浄宮八三   塩井部木   田十、五   株四揚郎 、   式吉行  

会、蔵官  

社宇 井    多 滑   田上郎本式次木十郎木    檻  

株四、五会、次四 五  井坂  

同式吉揚即社宇部吉揚郎   小   

会、行 多八 行、染染佐平昇  社宇蔵官 浮、福蔵官   多、井 塩横島、井雷寄書次平  

津宮浦 田田某宮浦  

第一回工事   

第二回工事    第三回︵最終︶工事  明治十八年若宇したが嚢  放したといわれる山−督  四番中︑九−十二番ほ明  治四十一年に出来る   第一回工事  第二回工事  元和二年に出来たものの  再開発ともいわれる  

(18)

浜沖 土乃 角 沖 同 士 大角 大総金奉 伺 固沖   

噂桝来生 り.、桝  器薮ウ宗番社山宗条   桝   崎  

浜浜浜彗浜浜浜浜  

浜浜浜浜 浜 浜   浜  

生産中都市の経済史約分析  

林坂字綾土九重綾右宇綾右土丸松綾宇綾右林坂右江坂右 右宇綾  

田嶋歌器亀越歌 纂歌 器削」歌墓歌 田出 尻出    歌   町市町郡町市村郡同町都岡町市村郡町郡同町帯同町野同 同町郡  

明治四十仙年十仰月  ︵明治冊七年三月︶  明治四十二年十二月  

︵明治四三年副月︶  明治四十三年十月  

︵明治四十年仙月︶  明治四十五年二月  

︵大正九牢二月︶  大正十年 山 月   ス明治冊五年六月︶  

∵∴  

∴∴ニー  ︵明治廿七年九 明治冊九年十一  

望萌  

︵明治四十年四   ︵明治甘七年九月︶  明治二十九年五月  ︵明治廿七年九月︶  明治三十年五月  ︵明治廿八年一月︶  明治三十⊥年六月  ︵明治冊二年五月︶  明治三十三年十月  

萌    治  世  

年   七   色    治   

十    治  冊  

⊥五  完璧  

描凧   亘  

(      ′一、      (        (   一九〇八   ︵一九〇七︶   (     (     (     (     (    ′−\   (   /−、。   (     (     (  

さ空  

二9二主()9   

八九四︶  一九〇六  

九〇四︶  九〇九   丁四二〇三   

一七・四〇〇二   

一五・六二山九  

二・〇八〇三   

二・六九〇九   

五・山七一八   童ハ九一七完 同  一六・〇五〇六︼亀井菊次郎  ︒  ∵ ∴.∴..  一五・六六山○   一五・四四〇七  亭︒︒一七 蒜.〇七〇三  五・七五二︼   一エハ九二大   丁三四山九  

香 川 与 帝  

宇多津塩田株式会 社  

石井佐吉外五名   

土器塩田株式会社   

右  同   

前掲沖桝浜に同じ  

宇多津大東塩田株  式会社  

乃生塩産株式会社  

土器塩田株式会社   

前掲沖桝浜に同じ  

松山帝魚株式会社   右  同   右  同  

九七    第三回最終工事   欝七回最終工事  昭和十三年大番浜と合併   第二回工事   第二回工事   第六回工事   昭和十三年浜崎浜に編入   第三回工事   第四回工事   第五回工事  

(19)

第二郭 坂出地区塩業の現況  

山︑塩業における後進性=坂出地区に見る零細農的小規模経営  日本塩業の中心地として︑坂出地方は今も苦に変らぬ盛名をほしいまゝにしている︒戦後の塩蓋霊基線し  

た昭和享六年度匿おいて︑是専雲社高松地方局管内︵香川・愛媛両県︶ほ全国塩嵩高の四十%を生産した  

が︑そのうち約五十%︑八万九千屯は坂出地方のみで占められた︒  其の封建時代提清濁な開拓と旺盛な企業劫窒国的規模において展開したが︑明治以後ほ︑豪速覧代化し  ていっ露毘部門の妾諸産業に比べて︑いつのまにか塩業は農稟と共に︑著しい後進性のままにとり警れた  

のである︒それは技術的にほ︑喜肉体労働を誉する採かん作業の一般化︑︵b︶平釜式・蒸汽利用式等︑家  内工業的煎蕪設鹿め広汎な存在等であり︑経営的には嘉農的小規模経営という点が問題とされた︒これらの点ほ  我国塩菜の中驚存在である坂出地方と警決して例外でほなく︑むしろこの地方が璧の自然条件に恵まれてい  る所から︑盛者は却って安易な行き方をとり︑怠化の努力蔓る傾向すら見られた︒このことほ要式工場への  転換が︑ .届  寛二十七巻 第二骨  

(20)

く要請されてぃるのである︒   

前述の採かん︑煎衆両面堅見る酪近代的停滞の根本的原因は何であるか︒それは一に塩業の零細農的小規模経常  

に存する︒これが技術的進歩を妨げ︑今日︑生産の伸悩み︑著しいコス上向等の諸現象を惹起している︒従って将  

来塩業が近代産業として発展するためにほ︑兎も角︑合理的大規模経営の容姿をとらぎるを得ない︒今此の塩業が  

今日零細農的小規模経営の姿において残存するに到った理由ほ︑遠く中世末より︑経済的・社会的諸条件によって ー   

著しく規制され来った所の歴史的必然性に基づくものがあり︑従って今俄瞥﹂れを大規模経営に転換させようとし  

ても︑其処にほ極めて困難な問題が横たわるぺ今はただ現在の数字だけについてみると︑坂出地区における採かん  

面積ほ︑かん永製造人一人当り︑〇・八ヘクタール︵半戸前︶という貧鰐さである︒しかもこの中で少くとも二人  

の常備労務者を使用するのであるから︑わずか〇・八へクータルの塩田で二ないし三家族の生計を維持せねばなら  

ない︒例外的には大企業的経営方式をもつ株式会社︵例えば開墾塩英株式会社︑八十二へク﹁タル︶も昭和初年匿  

おいて︑すでに現れているが︑今なおへ個人所有の塩田面積が会社所有の.それに比べて二・五倍もあり︑全体萬に  

は︑個人的小規模経営が支配的な状態といゝうるのである︒  

能 (ロ)(イ)カ ○  

ヽ_./  

二︑零細農的小規模経営における弱体性  

▼八ヘクタール内外の小規模偲営にあってほ︑大量生産︑大嵐供給︵いわゆるプロデューサーレップ=生産者  

を要求する近代資本主義市場において︑独立して経済主体となる能力を有しない︒そこでは  

企業と家計が混在する︒  

特殊な価値概念が存在し︑例えば土地に対し異常な執着を示す等︑愛情価値が経済価値にとって代る︒  

九九   生産中都市の経済史約分析  

一■  

(21)

︶  ハ 自然的災害によって著しく生産ゐ計画性を破壊される等  著しい非合理性が支配する付かくてかゝる塩業者は︑自然的戎ほ社会的災害等種々の経済変動に対し︑これをコ  

ントロールしてゆく能力を欠き︑弱体を極める︒無論塩業を内部から進歩発展させる能力︵いわゆるプロモーターシ  

ップり発展能力︶等あろう筈がない︒零細経営の悲しさ︑技術的︑経営的に合理化を図り︑増産とコスト引下げを  推進するだけの能力は到底これを望むべくもなかったのである︒かかる塩菜がもしも裸のまま自由競争の場に放り  

出されるとすれば︑外塩攻勢の矢面にた1されてひとたまりもないであろう︒  

三︑塩業政策の方向  

かかる弱体な塊業に対し従来国の塩業政策は専ら保護政策をもって臨んだが︑外塩の輸入ほ専売公社によって管  理されるので︑内地塩業を脅かすととはなかったのである︒収納代金は常に︑生産コス一に見合うよ㌢に維持され  て釆たのである︒しかし単なる保護政策のみをもってしたのでは塩業ほ成長しない︒弱体な塩菜に一人前の経済主  体たる能力が与えられなければならない︒かくて塩業政策の目的は︑ハーフ・プロデスーサーシップ乃至ハーフ・  プロモーターシップしかもたない塩業笹対し︑いかにしてフル・プロデーーサージップ乃至フル・プロモータージ  

ップを与えるかという問題点に焦点が集約されてくる︒   而して塩業が完全な経済主体たるためには︑容細農的非科学的経営から脱却する必要がある︒この場合︑塩田を  特定大企業の手に集中させることも︑或は一つの方法であるが︑採かん業者の土地紅対する並外れた執着を考える  と︑これ軋また極めて困難な問題と思えるし︑更に土地を離れたものに対する今後の対策が由々しい社会問題を惹  起する︒また塩を専売物件にすることから解放し︑自由親争の経済的洗礼を受けさ慮ることによって︑自然的な集    第二十七巻 第二号  

(22)

中化の効果を期待するとしても︑過少な国内塩五十万屯の現状では︑これが社会政策上甚だ妥当でほない︒そこで  

現実的且つ社会的な考慮から今日専売公社は︑組合を作ることによって︑個人としてほ弱体な塩業者を何よりも組  

織化し︑以てこれに経済主体たる能力を得せしめる方策をとったのであろう︒  

四︑雑合方式による塩業の合理化  

すでに明治三十三年制定の産業融合法に基づき︑坂出地方の塩業者にして︑いち早く組合を設立する者があっ  

た︒昭和十八年紅は︑旧塩専売法虹基づき︑塩業だけを対象に︑協業組合令が定められた︒戦後には戦時中以来の  

荒密から立直って︑戦後の経済的混乱を切り抜けるために︑塩業を改めて組織化し︑更に従来見られなかった民主  

的要素を加味して中小企業協同組合法にもとづく塩業協同組合が︑坂出地方に広汎に亘って設立された︒続いて二  

十八年には従来の組合に放し︑著しく会社的な性格を与えることを目的として︑協業組合法が施行され︑この地方で  

も︑個人経営採かん業者の九十七%を統合して六つの塩業組合が誕生し︑いづれも活湊な経営を続けている︒もとよ  

り組合は︑会社に比べれば︑その機能に多くの弱点があり︑企業経営の科学性の点では及ばない事は・いうまでもない  

が︑しかし個人的小規模経営よりは︑経済的に遥かに強力であり︑企業の組織的・科学的経営を可能にするのである︒  

第三郭 坂出地区塩業の将来  

現在︑坂出地方の塩業は︑数字的には依然として戦前の生産水準には遠く及ばない︒嘗て昭和九年にこの地方が  

十二万五千屯という記録的な塩を年産した時の塩田両横ほ︑六育七十ヘクタールであり︑更にその前後数年間を通  

じてみても︑ほゞ同面積の塩田から十万屯を下らない塩が生産されたものであるが︑それに引きかえ戦後は︑その  

一〇一  生産中都市の経済史約分析  j泥  ︑7 b  

−■■−■   

(23)

6二  第二十七巻第二号  最高を記録した昭和二十六年度においてすらも︑六官五十ヘクタールの塩田をもってして︑なお漸く八万九千屯を  

生産したにとどまる︒又現在輸入原塩が︑C⁝・F建で竃当り平均︑わずか八ドル五十セソー約三千円にすぎ  ないことを思えば︑内地塩収納価格一屯当り一万三千六首円は実にその四・五倍という価格である︒しかもその一  万円以上に当る部分がコストに食われている︒これらの数字を見ると︑組合の組織化成つた今日なお︑その効果未  だ現われずの感を受けるかも知れない︒しかしながら戦時中から戦后にかけての著しい荒際︑相次ぐ災害︑就中︑南  

海大地窟︵昭和二十蒜︶登る潰滅的打撃︑更にこれに続く地盤沈下等の悪影響を思うとき︑これらの悪条件に  打ち克って災害せ復旧し︑よくもここまで生産を回復したものと考えざるを得ない︒又コス去点についても︑な  お未だし︑とは青いながら︑真空式への転換庭よって︑平釜式で一・竃︑蒸汽利用式で〇・七屯を要した石灰藍  をわずか〇・四屯に減ずることが出来た点を思えば︑一万円のコス与も︑なおよく引下げられたものというの外  はない︒右の災害復旧に要した資金ほ莫大な額に上ったし︑又真空式工場は︑近代科学の粋を誇り︑三場当り二  刀至一意円の建設費を要するものであるが︑昭和幸三年から八年賢けて︑此の地区に六つの真空式工場が完成  し︑在来のものを併せて圭場が運転を開始した︒其の設備生産能力の合計は十嘉三千屯と称され︑すでに坂出  

地方塩田の九十%が真空式工場に所属している︒これらの大事業は︑〇・八ヘクタールの個人経営下にあってほ︑  思いもよらぬ所であったが︑組合の雑織があればこそ︑国家の援助と相侯ってよくその実現を図り得たのであ  る︒将来ほ︑愈々︑残された採嚇面での技術的改革にカが注がれるであろう︒いま真空式煎茶設備転対応したふの  として︑在来の入浜式塩田に代り︑流下式塩田が登場しているが︑流→式にあっては︑入浜式の約二倍の採かん効  率が可能である︒労働力は約五分の一に節減され︑労働の生産性は著しく向上するであろう︒細論︑流下式転換には  莫大な資金と乳門の技術を必要とするが︑組合という合理的経営地盤をもてるためその資金調達にも目安が立ち︑   

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すでに此の地方で十五ヘクタール︑二・三%の転換率を示している︒専売公社は︑その技術面にも援助を与えて︑  

一九雪一年夏坂出市に防府製塩試験場の分場を設置した?坂由地方の塩田が︑頗る艮田であるだけに︑そ¢将来  

性覧田むが︑資金面の都合もあり︑早急に全塩田を流→式化する事はいささか困難でほあるが︑ここ六−七年も経  

てほ流下式転換は広汎に行われ︑やがて生産コスーを一屯当り六︑七千円にまで引下げ得るであろう︒その暁に到  

っではじめて塩菜には真の意味で真空式時代が到来するといえる︒更に電源開発が進めば︑真空式煎蒸法に加圧式  

を結合させつゝこれによって塩業をより科学的経営化しうるだろうし︑更に苦汁工其の将釆も有望であり︑ゆくゆ  

く此の地方には製塩をも含めて︑大規模な綜合的海水利用工業が生れる可能性が頗る強く︑近代科学化された塩都  

坂出の実現は決して画餅ではない︒   

日本塩業のメッカ坂出地区も今やまさに︑ジュー→クルム・ウソート・ドゥラング=動乱の時期を迎えているといゝ  

うるが︑時代の風当りはかなり厳しく︑塩田を廃して新たに他のエ英を誘致すべしとする声も一部にきく︒此の塩  

業の危機をきりぬけ︑それが鳳介祝されることなく︑此の業こそが︑将来臨海工業の撃として内海に君臨し︑多く  

の生産人口を此処に吸収して︑生産都市の面目を躍如たらしめうるか否かは︑いつに健全な組合・会社が発展して  

零細農的小規模経営の非合理性を脱皮し︑以て真空式時代にふさわしい︑近代的合理性をもつ運営をなしうるか否  

か紅かかっているといえよう︒  

附 記  此の三部作のうち︑第二部・第三部に就いては日本専売公社高松地方局︑林部凍・湯浅課長の識見に負う所多く︑諸家の作  

成に就ては同局藤川寛石氏の協力を仰げること甚大である︒記して謝意を表する︒研究会員西村茂夫・松本昭雄両署の助力  

1⊥九五四・六・−○−−+託  も忘れ難い︒  一〇三   生産中都市の経済史的分析   由︼  

一千  

参照

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