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ロシアにおけるエストニア離散民 : 帝政のエスト ニア支配の負の遺産

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ロシアにおけるエストニア離散民 : 帝政のエスト ニア支配の負の遺産

著者 庄司 博史

ページ 200‑219

発行年 1998‑01‑01

URL http://hdl.handle.net/10502/5803

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ロ シ ア に お け る エ ス トニ ア 離 散 民 帝 政 のエ ス トニア支 配 の負 の遺 産

庄司 博史

は じめ に

  他 の バ ル ト諸 民 族 と 同 様 に 、 エ ス トニ ア は ロ シ ア 革 命 の 混 乱 に 乗 じ て ロ シ ア と バ ル ト ドイ ツ に よ る 支 配 か ら脱 し、 ほ ぼ20年 間 の 独 立 共 和 国 時 代 を 享 受 した が1940年 ソ連 に 併 合 され た 。 しか し、 こ の 共 和 国 時 代 の 国 家 的 基 盤 が 、50年 後 の ソ連 解 体 期 に お い て 独 立 回 復 、 お よび 正 常 化 に 有 利 な 条 件 を 形 成 し て き た の は 事 実 で あ る 。 ま た 、 そ の 過 程 で 同 様 に 重 要 な 役 割 を 果 た し て き た の が 、 在 外 エ ス トニ ア 人 と い わ れ る 西 側 に 居 住 す る エ ス トニ ア 人 で あ る[Walter  1993]

[Vahtre  1993:173‑176][Raag  1993:364‑365]。1990年 頃 か れ ら の 数 は86,000人 に も の ぼ っ て い た1。 そ の 多 くは 第 二 次 大 戦 中 お よ び そ の 直 後 、 西 側 へ 亡 命 した8・9万 の 人 々 で 、 北 ア メ リ カ 、 ヨ ー ロ ッ パ に お い て 共 和 国 時 代 の さ ま ざ ま な 文 化 活 動 を 維 持 す る 一 方 で 、 反 ソ運 動 、 エ ス トニ ア 独 立 運 動 を 強 力 に 推 進 し て き た2。 そ し て 今 回 の 独 立 回 復 に 際 し、 西 側 の 経 済 的 、 政 治 的 支 援 を 取 り付 け る 上 で 彼 ら の 果 た し た 役 割 は 大 き っ た ほ か 、 み ず か ら新 政 権 に 閣 僚 と して 参 加 し た こ とな ど 、 エ ス トニ ア は も と よ り 、 国 際 的 に も脚 光 を 浴 び る こ と に な っ た 。 現 在 帰 国 エ ス トニ ア 人 と の 間 に 不 動 産 返 還 、二 重 国 籍 な ど の 問 題 は あ る が 、西 側 の 在 外 エ ス トニ ア 人 は 、 一 般 に 評 価 さ れ て き た

  し か し 、 ロ シ ア に は 、 帝 政 末 期 ほ ぼ20万 人 近 く の エ ス トニ ア 人 が 居 住 し て い た こ とに っ い て は 、 西 側 で は ほ とん ど 関 心 が 向 け られ る こ と は な か っ た 。 そ の ほ と ん ど は 、 エ ス トニ ア に か ぎ ら ず 帝 政 支 配 下 に あ っ た ヨ ー ロ ッパ 地 域 か ら も 多 くみ ら れ た よ う に 、 帝 政 時 代 後 半 の 植 民 振 興 策 に よ り ロ シ ア 各 地 に 移 住 し た 人 々 で あ っ た 。 本 国 に お い て 人 口 百 万 足 らず の エ ス トニ ア 人 に お い て さ え 一 時 は 二 割 近 く が ロ シ ア に 住 ん で い た とい わ れ る ほ ど移 住 は 大 き な 意 味 を 持 っ て い た 。 か っ て 移 住 し た 集 団 の 一 部 は 、 現 在 に 至 っ て も ま だ 約4万 人 ほ ど居 住 し て い る と推 測 さ れ て い る。

  近 年 、 彼 ら に つ い て は 、 同 化 問 題 や 困 窮 情 況 が 伝 え られ 、 さ ら に ア ブ ハ ジ ア の 紛 争 下 で の 難 民 化 な ど が 明 ら か に な りエ ス トニ ア 国 内 で は か れ ら の 帰 還 が と り ざ た さ れ て い る 。 先 に 述 べ た よ う に 、 西 側 在 住 エ ス トニ ア 人 は 、 ソ連 時 代 エ ス トニ ア の 文 化 活 動 を 国 外 で 継 承 し、 そ の 国 家

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と して の独 立 回復 と再 建 に お い て果 た した貢 献 を評価 され て き た。 それ に対 し、 ロ シア 、 旧 ソ 連 在 住 のエ ス トニア 人 に対 して は 、 エ ス トニ ア本 国 の 人 々 の態 度 は大 き く異 な って い る。 この 小 論 に おい て は 、 ロシ ア在 住 エ ス トニ ア 人 の各 時 代 に お け る移 住 をそ の 社 会 的 背 景 と と もに概 観 し、 ま たかれ らの 活 動や 処 遇 の推 移 に も注 目 した い。 そ して 、 よ うや く ソ連 か ら独 立 を 回復 した エ ス トニ ア に とっ て 、帝 政 時 代 か らの対ロ シア 関係 の遺 産 と もい え る ロ シア 在 住 エ ス トニ ア人 の持 つ意 味 を考 え てみ た い 。

1  エ ス トニ ア と 在 外 エ ス トニ ア 人

  エ ス トニ ア は 面 積 約4万5千 平 方 キ ロ 、 ほ ぼ 九 州 に 匹 敵 し 、 人 口は150万 人(1995年)足 らず で 、 ヨー ロ ッパ で は 最 小 の 共 和 国 の 一 つ で あ る 。 全 人 口 中 民 族 ・言 語 的 に エ ス トニ ア と み な さ れ る の は 全 体 の64.2%で 、 残 りの28.7%の 大 部 分 は 少 数 派 」 ロ シ ア 人 な ど ス ラ ブ 系 住 民 が しめ る。 こ の う ち 大 部 分 は1945年 以 降 、 ソ連 に よ る 実 質 支 配 が 本 格 化 し て か ら の 移 民 で あ る 。 一 方 海 外 在 住 の エ ス トニ ア 人 も 現 在 約15万 人 に も の ぼ る と い わ れ る 。 う ち9万 人 ち か く は 、 ヨー ロ ッパ 、 北 米 を 中 心 と す る ア メ リカ 、 オ ー ス トラ リア 等 へ 移 住 し た エ ス トニ ア 人 、 お よ び そ の 子 孫 で 、 ソ連 時 代 に は 在 外 エ ス トニ ア 人 」valiseestlaneと い う と彼 ら を さす 語 で あ っ た 。 そ の 多 く は 第 二 次 大 戦 中 、 あ る い は そ れ 以 降 の ア メ リカ 、 ヨ ー ロ ッパ へ の 難 民 、 亡 命 者 と し て 流 出 し た 人 々 で あ る が 、 前 世 紀 か らの 新 大 陸 へ の 移 民 も 少 な く な い 。 ソ 連 か らエ ス トニ ア が 完 全 に 分 離 した 現 在 、 こ の 人 々 は 西 エ ス トニ ア 人 」lafineeestlaneと よ ば れ 、 在 外 エ ス ト ニ ア 人 の う ち ロ シ ア お よび 旧 ソ連 邦 に 居 住 す る エ ス トニ ア 人 と全 く 異 な る グ ル ー プ し て 扱 わ れ て き た の は す べ に 述 べ た と こ ろ で あ る 。 他 方 、 以 下 あ つ か う後 者 の エ ス トニ ア 人 は エ ス トニ ア 独 立 回 復 後 よ うや く最 近 に な っ て 、 そ の 存 在 が 注 日 を 集 め 始 め て い る が 、 西 エ ス トニ ア 人 と 区 別 し て 「東 エ ス トニ ア 人 」idaeestlaneと い う名 称 が 定 着 し つ つ あ る。 本 稿 に お い て も 東 エ ス

トニ ア 人 と い う語 を 用 い る 場 合 は 、 こ れ ら の 人 々 を さ し て い る。

  東 エ ス トニ ア 人

本 論 に は い る ま え に 、 い く つ か の 概 念 を 手 み じか に 明 ら か に し て お き た い 。

  ま ず 「エ ス トニ ア 人 」 に つ い て で あ る 。 こ こ で い うエ ス トニ ア 人 と は 、 エ ス ニ ッ ク な 意 味 で の エ ス トニ ア 人 、 つ ま り 単 純 に い う と伝 統 的 に エ ス トニ ア 語 を は な し、 い わ ゆ る エ ス トニ ア 伝 統 文 化 を 継 承 し て き た 人 々 、 お よ び そ の 子 孫 で あ る 。 これ は 以 下 で も 扱 うエ ス トニ ア の 土 地 に

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居 住 す る他 のエ ス ニ ック集 団 、 か つ て のバ ル ト ドイ ツ人 、帝 政 以 降 で は ロ シア 人等 と区別 す る た めの 定 義 で あ る。 幸 い エ ス トニ ア で は 、現 在 まで エ ス トニ ア 民族 とエ ス トニ ア語 話 者 とは ほ ぼ一 致 す る概 念 で あ り、 事 実 上 曖 昧 な 部分 は ほ とん ど存 在 しな い。 問題 は在 外 エ ス トニ ア人 の うち 、言 語 的 に他 言 語 に同 化 した 人 々 、お よび 族 際婚 に出 自す る 人 々 で あ る。 これ らは エ ス ト ニ ア本 土 に お い て は現 実 の 問題 と して ほ とん ど存在 しなか っ た が 、旧ソ連の各地においては、

二世 、三 世 以降 そ の割 合 は か な り高 くな っ てい るはず で あ る。 民族 は本 来 そ の集 合 的 指標 とい われ る もの を一 部 欠 く周 縁 部 に お い て こ の よ うな 不安 定な 部 分 を もつ が 、 実 際 に は動 揺す る意 識 と現 実 的利 害 関係 に応 じ、 自己 申 告 と して あ らわれ る もの に頼 らざ る を得 な い。 ロシ アで は 1897年 全 国 的 な人 口統 計 が と られ て お り、 ソ連 時 代 に も ほぼ10年 ご との 人 口調 査 にお い て、

自己 申告 に よる各 地 の 民 族 統 計 が 存在 してい る。 こ こに引 用 した文 献 に用 い られ てい る のは 、 小 規 模 の現 地 で の調 査 に よる もの 以 外 は 、 ほ とん どこれ ら人 口統計 に よっ てい る。

  次 は 、 どの範 囲 まで を本 来 の エ ス トニ ア とみ なす か とい う問題 で あ るが 、 これ は 旧 ソ連 の ど の地 域 の エ ス トニ ア人 を在 外 エ ス トニ ア 人 とみ なす か とい うこ と とかか わ っ て い る。 エ ス トニ ア人 は隣 接 す る ロ シア 領 土 の 一 部 に は 古 くか ら居住 してい た こ とが しられ て お り、そ れ らの 地 のエ ス トニ ア人 を在 外 エ ス トニ ア 人 とみ なす か 、本 土在 住 エ ス トニ ア人 とみ なす か とい うこ と に な る。 これ は どの時 代 の 居 住 地 が エ ス トニア 人 の もの と同 定 で き るか とい う民族 考 古学 に く わ え 、多 分 に政 治 的 な立 場 に 左右 され る も ので 、現 にエ ス トニ ア とロ シア の あ いだ で は大 き く 見方 が異 な って い る。 本 稿 で は 、 エ ス トニ アの 通念 に した が い 、現 在 の エ ス トニア 共 和国 領 土 お よび プ ス コ フ州 ペ チ ョラ地 区(エ ス トニ ア語 ペ ッツ ェ リ)を エ ス トニ ア 人 の伝 統 的居 住 地域 と してエ ス トニ ア本 土 と して み な す こ とにす る。ペ ッツ ェ リ地域 はエ ス トニ ア 系セ トゥ人 の伝 統的 居 住 地 域(民 族 的 居 住 地 域 と も よばれ る)で かつ てエ ス トニ ア に も属 した地 域 で あ る。 の ち説 明 す る よ うに現 在 ロシ ア が実 効 支 配 して い るが 、エ ス トニ ア 系住 民 は1920年 代 は じめ に は2万 人[Setumaa  1928:42]、 現在 も約1,000人 い る とされ てい る。 した が って 、現ロ シア 在 住 のエ ス トニア 人 の うち、ペ ッツ ェ リの 住 人 は 、在 外 エ ス トニ ア人 とは こ こで はみ な さない 。

  こ こで対 象 とす る東 エ ス トニ ア 人の 範 囲 は ほぼ あ き らか に な った が 、かれ らは長 期 にわ た り、

ロシ ア各 地 に さま ざま な形 態 で、 移 住 し、 ま た異 な る処遇 を うけ て き たわ け で あ る。 ここで は まず 、 それ らと深 く関 わ っ てい るエ ス トニ ア の対 ロシ ア 、 ソ連 関係 史 を概観 してお く。 本 論 に お け る東 エ ス トニア 人 につ い て の 記述 は 以 下の 歴 史 区分 に そ って 行 うこ とにす る。

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  ロ シ ア 帝 政 時 代   ほ ぼ現 在 のエ ス トニ ア に 当た る地 域 は13世 紀 以降 デ ンマ ー ク 、 ドイ ツ、

ポー ラ ン ド、ス ウェ ーデ ンの支 配 をあ いつ い で うけた あ と、1700年 に 始 ま る北 方 戦争 で ス ウェ ーデ ンの敗 北 を もっ て ロ シア 領 とな る。 しか し現在 の エ ス トニ ア に 当 た る地 域 は 、 北 部 は エ ス トラン ト県(現 エ ス トニア 北 部)、 南部 は ラ トビア の 一 部 と ともに リフ ラ ン ト県 に二 分 され た ま まで あ っ た。 南北 エ ス トニ ア が一 つ の エ ス トニ ア 県 と して 統合 され たの は 、 ロ シア の1917年 2月 革 命 以 降 で あ る。 この 間 、エ ス トニ ア 人 はそ れ ま で封 建 領 主 と して支 配 して きた ドイ ツ人

とロシ ア帝 政 の二 重権 力下 にお かれ 、19世 紀 初頭 ま で ほ とん どは実 質 的 に農 奴 と して移 動 の 自 由 さえ拘 束 され て き た。

  エ ス トニ ア独 立 共 和 国 時 代   エ ス トニア は19世 紀 半 ば 以 降 の 民族 覚 醒期 に 民族 と して の 輪 郭 を形 成 し、 ロシ ア革 命 に乗 じて独 立 を 宣言 す る。 バ ル ト地域 の 覇権 をね ら う ドイ ツの 敗 退 後 、 ソ ビエ ト ・ロシ ア はエ ス トニ アの独 立 を認 め な か った が 、1918年11月 始 ま っ た い わ ゆ る

解 放 戦争 」 にお い て 戦 況 を有 利 にすす めた エ ス トニ ア は 、1920年2月 タル ト条 約 に よ り初 めて 実 質的 な独 立 を 獲 得 した3。 この 際 、エ ス トニ ア は先 に触 れ た 北 東 部 の ナ ルバ 川 領 お よび 南 東 部 のペ ッツ ェ リ領 を 、 ロ シア 人 をふ くめた 住 民 と と もに 自国領 土 と して 獲 得 して い る。 こ れ に ともな いペ ッツ ェ リ領 か らは約2万 人 のエ ス トニ ア人 が 共 和 国 民 とな っ たが 、 うち そ の4 分 の3以 上 は 、エ ス トニ ア人 の サ ブエ ス ニ ック集 団 で 正教 徒 の セ トゥ人 で あ っ た[Setumaa

1928:42]。 また タ ル ト条約 では 、相 互 の 住 民 の うち希 望 す る もの に 対 して は相 手 方 へ の 帰 還 を 許 す こ とも取 り決 め られ てい るが 、 これ につ い て は後 ふ れ る。

  ソ連 時 代  エ ス トニア 共 和 国 は独 立約20年 後 の1940年 、 ソ連 の 軍 事的 圧 力 の 下 、 ソ連 へ 併 合 され る。 これ に先 立 ち ソ連 は ドイ ツ との問 にバ ル ト地域 の支 配 に関 し ドイ ツ とか わ して い た密 約 リ ッベ ン トロ ップ議 定書 が 存 在 して い た こ とが 知 られ て お り、 この 併 合 の 際 の 非 合 法 性 を根 拠 に エ ス トニ ア は ソ連 支配 を認 めず 、 エ ス トニ ア 共 和 国 の 法 的 な存 在 を主 張 して きた 。 エ ス トニ ア は ソ ビエ ト政 権 樹 立後 ま もな く第 二次 大 戦 下 ドイ ツ に 占領 され たが 、終 戦 と同 時 に ソ ビエ ト体 制 が復 活 した 。 い わ ゆ る西 エ ス トニ ア 人 の 多 くは 、 ドイ ツ 占領 下お よび 終 戦 直 後 にエ ス トニア を脱 出 した人 々で あ る。1940・44年 間 に約8万 人 が 西側 へ逃 亡 した とい わ れ る[6ispuu 1992:235]。 そ の 後 か れ ら と本 国 のエ ス トニア との 連 絡 は 厳 し く統 制 され 、 エ ス トニ ア にお い て60年 代 以降 次 第 に外 部 との接 触 が 緩 和 され る なか で も本 国 訪 問 が許 され た の は 、反 ソ活 動 な どに加 わ らな い 一部 の 人 々 に限 られ て い た。 ま た ソ連 体制 復 活 後 間 もな い1945年 、 かつ て タル ト条 約 に よっ て1920年 エ ス トニ ア 共和 国 独 立 の 際編 入 され た 、 ナ ルバ 、ペ ッ ツェ リの 二 つ の領 土の 大 部分 は ロシ ア側 に も ど され て い る。

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 独 立 回 復 以 降 エ ス トニ ア が 正式 に ソ連 か ら独 立 を回 復 したの は1991年 秋 で あ った が 、い うま で も な く これ は80年 代 の ペ レス トロイ カ に よ る民 主化 の 流れ の 中 で実 現 した もので あ る。

運 動 の進 展 とと も に80年 代 後 半 には 、 当 局 に よ る在 外 エ ス トニ ア人 との 交 流へ の 統制 も緩 和 し、 そ れ ま で ほ とん ど不 可 能 で あ っ たエ ス トニ ア 人 の西 側 訪 問や 在 外 エ ス トニア 人 の母 国 訪 問 も可 能 に な っ た。 ソ ビエ ト体 制 か ら政 権 を奪 取 しつつ あ った 民族 派 は 、在 外 エ ス トニ ア人 の 残 した 資 産 の 返還 、市 民 権 の保 証 な ど施 政 方 針 に 取 り入 れ る こ とで西 側 お よび 西 エ ス トニア 人 の 支 援 を と りつ け 、事 実 冒頭 に述 べ た よ うに再 生 エ ス トニ ア に は50年 近 くの 亡命 生 活 の あ とエ ス トニ ア に 復帰 した人 々 も多 い。 しか し、大 部 分 は 潜在 的 エ ス トニア 市 民権 を有 しな が ら海外 に生 活 の 基 盤 を築 き定 着 して い る。 それ で も本 国 で は一 般 市 民 と同 じ権利 を有 し、 ま た現 住 民 に不 動 産 の 返還 を 求 め るな ど、 最 近 は 一般 市民 の あ い だ で は 、西側 の エ ス トニ ア に対す る評価 も一 時 ほ ど肯 定 的 な もの ば か りで は な くな って い る事 も確 か で は あ る[Soosaar  1997]。 一 方 新 政 権 は そ れ ま で過 剰 に増 加 した ス ラブ 系住 民 の 人 口 と勢 力 を抑 制 す るた め 、 国籍 法 、言 語 法 な ど導 入 した。 これ に たい しロシ ア 側 はエ ス トニ ア に在 住 す る ロシ ア人 の権 利 の保護 を様 々 な 対エ ス トニ ア外 交 交渉 の 条 件 と して提 示 してい る。

  な お 以 下 の 記 述 に 関 し て も ち い た 文 献 と し て 主 な も の を あ げ て お く。 在 外 エ ス トニ ア 人 に つ い て は[Raag  1995:339・375][bispuu  1992:307‑330][Kulu  1993]を 参 照 し た 。 ま た 各 時 代 の 東 エ ス トニ ア 人 状 況 を 概 説 し た も の と し て は[Nigol  1918][Maamagi  1980]な どが あ る が 、 後 者 は 特 に ソ連 時 代 ソ ビ エ ト社 会 建 設 に 参 与 す る 人 々 と して 在 外 エ ス トニ ア 人 を あ っ か っ た も

の と して 知 られ て い る 。 そ の 他 、1970年 代 半 ば 以 降 、 シ ベ リア 、 コ ー カ サ ス 、 ボ ル ガ 地 域 、 ペ テ ル ブ ル グ な ど 旧 ソ 連 各 地 の エ ス トニ ア 居 住 地 に つ い て の 雑 誌 記 事 の ほ か 、 お も に 言 語 、 口頭 伝 承 な ど 伝 統 文 化 を あ っ か っ た 研 究 論 文 が 多 く み られ る が 、 参 照 した も の は 文 中 で 明 らか に し

た 。 最 近 の 東 エ ス トニ ア 人 帰 還 に 関 し て は 、 主 に 新 聞 、」Eesti Paevaleht(Tallinn)、   Postimees (Tartu)の 記 事 、 お よび エ ス トニ ア 文 学 博 物 館 研 究 員.Astrid Tuiskの 個 人 情 報 に よ っ た 。

2  帝 政 時 代 の エ ス トニ ア 人 移 民(‑1917)

  エ ス トニア 人 は、19世 紀 前半 以 前 に は 上述 の伝 統 的居 住 地域 に比 較的 ま とま って住 ん でお り、

ロ シア の 他 の地 域 に住 ん で い た人 々の 数 は 限 られ て い た。 そ の多 くは流 刑 、 強制 移 住 民 、 あ る い は戦 争 の捕 虜 や 難 民 と して 移 住 した ら しい 。 ち なみ に1719年 ロシア 各県 の 人 口統 計 でエ ス

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トニ ア 人 が 住 ん で い た の は 、 現 在 の 北 エ ス トニ ア に あ た る エ ス トラ ン トに126855人 、 南 エ ス トニ ア に あ た る リ フ ラ ン トに180,432人 で 、 そ の 東 に 隣 接 す る プ ス コ フ 県 に は1953人 に す ぎ な か っ た[Peterson  1986:95]。

  最 も 早 い 移 住 地 は エ ス トニ ア に ペ イ プ ス 湖 を は さ ん で 隣 接 す る プ ス コ フ 周 辺 地 域 に あ っ た と い わ れ 、15世 紀 か ら と され る 。 後16世 紀 に も プ ス コ フ 県 、 特 に ク ラ ス ノ ゴ ロ ドス コ イ ェ の あ た りは 、 エ ス トニ ア と 近 い こ と も あ り長 年 に わ た り移 住 が 行 わ れ て き た 。 現 在 こ の 地 域 の エ ス トニ ア 人 の 子 孫 は ロ シ ア 化 して い る とい わ れ る[Raag  1995:340]。 ま た18世 紀 に は 北 方 戦 争 の 避 難 民 が プ ス コ フ 湖 の 東 部 あ る い は 東 南 部 の ペ テ ル ブ ル グ 県 、 プ ス コ フ 県 に 移 り 住 ん だ と い わ れ る 。 同 様 に 当 時 の ヴ ィ テ ブ ス ク 、 現 在 の ラ ト ビ ア 南 東 に もエ ス トニ ア 人 が 移 住 し 、 約100 年 前 に も4,300人 ほ ど確 認 され て い る が 、 現 在 で は ラ ト ビア 人 に や は り 同 化 し て い る と さ れ る

[Raag  l995:341]。

  帝 政 時 代 の 流 刑 民 と移 民

  エ ス トニ ア 人 の 伝 統 的 居 住 地 域 で あ っ た か つ て の エ ス トラ ン ト と リ フ ラ ン トか ら 本 格 的 な 移 住 が 始 ま っ た の は 、 農 奴 解 放 の あ と 、 実 際 に 移 動 の 自 由 が 認 め られ た1860年 代 以 降 で あ る 。 ま た そ の 背 景 に は 、 政 情 不 安 や飢饉 が あ っ た と も い わ れ る[Raag  l995:345]。 す で に1816,19 年 に 形 式 的 な農 奴 解 放 令 が 発 布 さ れ て い る が 、 現 実 は 農 民 の 逃 亡 を 恐 れ る 地 主 に よ り 、 賦 役 労 働 を か せ ら れ 土 地 に 縛 られ 続 け て い た 。 そ れ で も 、 移 住 は す で に3,40年 代 か ら 、 エ ス トニ ア 北 部 、 中 部 を 中 心 に 始 ま っ て い た こ と が 知 られ て い る 。 当 時 の 移 民 は や は り、 近 辺 の ペ イ プ ス 湖 東 岸 に む か い 、 ペ テ ル ブ ル グ 県 の オ ウ ドバ 郡 や プ ス コ フ 県 に 植 民 地 が 形 成 さ れ た が 、 こ の 時 期 は じ め て 南 ロ シ ア の サ マ ラ 県(現 サ ラ トフ州)、 ク リ ミ ア に も 移 住 し て い る。 こ の 第 一 次 の 移 民 期 に お い て 、 エ ス トニ ア 南 部 か ら約1,400人 、 北 部 か ら2,200人 が エ ス トニ ア 以 外 の 地 へ 移 住

した とい わ れ る[Raag  1995:342‑3]。

  と こ ろ で シ ベ リ ア は ロ シ ア 帝 政 時 代 の 罪 人 、 反 逆 分 子 等 の 流 刑 先 と し て し ら れ て い る が 、 エ ス トニ ア か ら も 様 々 な 理 由 で 当 地 へ お く られ て い る。19世 紀 初 頭 、 微 罪 者 は 主 に 西 シ ベ リ ア の オ ム ス ク 西 北 の ル ジ ュ コ フ 、 重 罪 者 は 東 シ ベ リ ア の ミ ヌ シ ン ス ク 周 辺 に あ つ め られ た[Raag 1995:343]。 こ と に19世 紀 半 ば ま で ドイ ツ 人 地 主 に 対 す る 農 民 の 反 乱 が エ ス トニ ア 各 地 で お こ っ て お り 、 中 で も 有 名 な マ ハ トラ の 反 乱 に 参 加 し た 数 百 の 農 民 の う ち 数 十 人 は シ ベ リ ア 送 り と な っ て い る[Zetterberg  1995:67]。 か れ ら は 歩 い て ミ ヌ シ ン ス ク 東 部 の オ ミ川 ま で い た り、 ヴ ィ ル 村 を た て た と い わ れ て い る4[Viikberg&Vaba  1984:146]。

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  た だ しシ ベ リ ア 各 地 に も 、 当 局 の 奨 励 と は い え 自 由 意 思 に よ る 移 住 も行 わ れ て い る 。 先 ふ れ た ル ジ ュ コ フ は 、 エ ス トニ ア の 他 、 フ ィ ン ラ ン ドや ラ トビ ア か ら の シ ベ リ ア 移 民 の 中 継 基 地 と して 発 達 し 、1850年 に は1,600人 以 上 の 住 人 を擁 し て い た が 、 そ の 後1861年 民 族 ご との 村 の 設 立 が 許 可 さ れ て 以 降 エ ス トニ ア 人 の 村 が 各 地 に 出 現 して い る 。 そ の ほ か 知 ら れ て い る村 と し て は 、 ミ ヌ シ ン ス ク 近 辺 に は 上 ス エ ト ウ キ 村 、 上 ブ ラ ン カ 村 な ど が で き た 。 の ち1880年 の 大 量 移 民 期 に は トボ ル ス ク 、 トム ス ク 、 イ ェ ニ セ イ ス ク 、 ク ラ ス ノ ヤ ル ス ク 、 ウ ラ ジ オ ス ト ッ ク 周 辺 に もエ ス トニ ア 人 村 が 生 ま れ て い る[Raag  1995:343]。

  1880年 代 の 移 住

  1800年 代 後 半 に な る とパ ス ポ ー ト法 が 施 行 され た こ と で 、 ドイ ツ 人 地 主 に よ る 土 地 へ の 拘 束 が 解 け 農 民 は 自 由 な 移 動 が 可 能 に な っ た5。 さ ら に 鉄 道 が 開 通 し、 交 通 が 容 易 に な っ た こ と で 、 エ ス トニ ア 特 に 島嶼 部 の 住 民 の 移 住 が 急 激 に 増 大 し た 。 こ の 時 期 に は ペ テ ル ブ ル グ 、プ ス コ フ 、 ノ ブ ゴ ロ ド県 に くわ え 、 う え に あ げ た シ ベ リア 各 地 や 中 部 ロ シ ア 、 北 コ ー カ サ ス 、 南 コ ー カ サ ス に ま で お よ ん で い る 。 南 コ ー カ サ ス で は 黒 海 沿 岸 に1882年 エ ス トン カ 、  1884年 リ ン ダ 、 サ ル メ 、1886年 エ ス トサ ドク 、 ノ ヴ ォ エ ス トニ ア の 各 村 が ひ らか れ た が 、 こ れ らは 現 在 ま で 存 続 し て い る[Raag  1995:344]6。1880年 代 、 南 ロ シ ア の サ マ ラ 県 に も エ ス トニ ア 各 地 か ら移 住 地 を 求 め た 人 々 が 、 バ ル テ ィ カ 、 エ ス トニ ア 、 ゴ レ ツ キ 村 に 定 住 地 を み つ け て い る[vas 1984:119‑121]。 す で に 一 部 は 鉄 道 を 利 用 した が 、 荷 馬 車 と徒 歩 で 現 地 へ 向 か っ た 人 も 少 な く な い 。 うち エ ス トニ ア 村 は1885年61家 族 が 植 民 さ れ た 。 村 民 の69%は 土 地 を 持 た な い 貧 農 出 身 、11%は 小 作 農 、18%の み がrooル ー ブ ル 以 上 の 資 産 を 持 っ て い た 。 そ の 他 に 靴 屋 、鍛 冶 、 革 職 人 、 大 工 な ど が 含 ま れ て い た 。 当 時 、 移 住 に は 県 政 府 の 許 可 が 必 要 で あ っ た が 、 増 加 す る 移 住 申 請 に 許 可 が 追 い つ か ず 、 な か に は 許 可 な し で 目的 地 へ 出 発 す る も の も あ っ た 。 そ して 当 局 の 土 地 の 配 分 を ま た ず 、 現 地 で 勝 手 に 土 地 を 入 手 し よ う と す る も の も い た た め 、 サ マ ラ 県 は エ ス トニ ア へ 無 許 可 の 移 住 を 禁 止 す る 要 請 を 行 っ て い る。

  ペ テ ル ブ ル グ の 都 市 住 民

  農 民 と は 別 に 都 市 へ 移 住 し た 人 々 も あ っ た 。 最 大 の エ ス トニ ア 人 人 口 を 抱 え て い た の は 首 都 ペ テ ル ブ ル グ で 、18世 紀 は じめ の 開 都 以 来 、 労 働 や 教 育 を 求 め る エ ス トニ ア 人 を 吸 収 し続 け 、 1850年 に は6,000人 近 く に ま で 増 大 して い る[Raag  l995:343]。 さ らに1917年 に は5万 の エ ス トニ ア 人 を か か え 、 タ リ ン に つ ぐ第 二 の エ ス トニ ア 人 都 市 と も な っ て い た 。特 に  1880‑90

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年 の 増 加 は 著 し く 、 こ の 間 に20%増 え た 。 ま た 当 時 エ ス トニ ア 人 は ペ テ ル ブ ル グ に お い て 、 ロ シ ア 人 、 ドイ ツ 人 、 ポ ー ラ ン ド人 、 フ ィ ン ラ ン ド人 に つ い で 第5番 目 の 位 置 を 占 め て い た [Peterson  1986:95・6]。 人 口 増 加 に と も な い 社 会 活 動 も 活 発 に 行 わ れ 、 教 会 、学 校 、 文 化 団 体 、 互 助 会 の ほ か 、 三 つ の 学 生 協 会 が 存 在 し た[Nigol  1918:14]。 そ の ほ か リ ガ 、 プ ス コ フ 、 モ ス ク ワ な どに もエ ス トニ ア 人 が 集 中 して い た 。

  と こ ろ で 、 エ ス トニ ア の ソ 連 か らの 独 立 回 復 に お い て 、 西 側 の 在 外 エ ス トニ ア 人 の 果 た した 大 き な 役 割 に つ い て 冒 頭 で 述 べ た が 、1860年 代 帝 政 下 の エ ス トニ ア の 民 族 運 動 に お い て も 、 エ ス トニ ア を 支 配 し て い た 言 論 統 制 、 ドイ ツ 人 の 文 化 的 圧 迫 か ら の が れ て エ ス トニ ア 域 外 で 活 発 な 活 動 が お こ な わ れ て い た 。 エ ス トニ ア の 知 識 層 の 多 く は そ の 活 動 拠 点 を よ り 自 由 で 寛 容 な 雰 囲 気 の 支 配 す るペ テ ル ス ブ ル グ に お い て い た が[Raag  1993:346][Zetterberg  1995:73]、 ス トニ ア 人 に 向 け 盛 ん に 民 族 主 義 的 扇 動 活 動 を お こ な っ て い る 。 こ と に 当 時 エ ス トニ ア に お い て 勢 力 を 握 っ て い た ドイ ツ 系 上 層 階 級 に 対 し、 ロ シ ア 皇 帝 の 勢 力 を 頼 み 排 除 し よ う と す る グ ル ー プ に と っ て は ペ テ ル ブ ル グ は 好 都 合 な 場 所 で あ っ た 。

  そ の 後 も ペ テ ル ブ ル グ(ペ トロ グ ラ ー ド)は 、 エ ス トニ ア が ロ シ ア の 支 配 か ら独 立 を 志 向 し 始 め る ま で 、 民 族 運 動 の 拠 点 と な っ て い っ た 。 エ ス トニ ア の 自 治 を 要 求 し た1917年4月 の エ ス トニ ア 共 和 主 義 者 の デ モ に は ロ シ ア 軍 服 役 中 の エ ス トニ ア 軍 人15,000人 も ふ く め4,000人 が 参 加 し た[6ispuu  1992:70][Zetterberg  1995:88‑89]。

  こ う し て 、 帝 政 時 代 を 通 じ て エ ス トニ ア 人 の ロ シ ア へ の 人 口 の 流 出 は 続 き 、1897年 人 口調 査 で は 、 エ ス トニ ア(エ ス トラ ン ト、 リフ ラ ン ト)以 外 の ロ シ ア に 約12万 人 、 つ ま りエ ス トニ ア 人 全 人 口 の 約12%が 、 そ して ペ ッ ツ ェ リの セ ト ゥ人(当 時16,512人)を エ ス トニ ア 本 国 側 に 入 れ た と し て 約10%[Kulu  1992:21][bispuu  1992:311]が ロ シ ア に 居 住 し て い た こ と に な る。 そ の ロ シ ア 在 住 エ ス トニ ア 人 の 内 訳 は 、 ヨ ー ロ ッパ で は ペ テ ル ブ ル グ 県 約64,100人 、 プ ス コ フ 県25,400人 、 ノ ブ ゴ ロ ド県3,100人 、 タ ウ リア 県2,200人 、 南 ロ シ ア ・ボ ル ガ 流 域 の サ マ ラ 県2,000人 、 トゥ ヴ ェ リ県1,500人 で あ っ た 。 さ らに シ ベ リア で は4,200人 、 コ ー カ サ ス4,200人 、 中 央 ア ジ ア400人 が あ げ られ て い る 。 そ の 後 も エ ス トニ ア か ら ロ シ ア へ の 移 住 の 波 は と だ え ず 、 ロ シ ア 西 北 部 、 シ ベ リ ア や ヴ ォ ロ グ ダ 県 の 新 開 地 へ ひ ろ が っ た 。 こ う し て1910 年 代 末 に ロ シ ア に お け る エ ス ト ニ ア 人 の 人 口 は ピ ー ク に 達 し た と み ら れ て い る[Kulu

l992:21]。 帝 政 時 代 末 期 の ロ シ ア 在 住 エ ス トニ ア 人 に つ い て のAugust  Nigolに よ る 古 典 と も い え る概 説 書 に よ る と 、 当 時 ロ シ ア に お け る エ ス トニ ア 人 の 居 住 地 は318に の ぼ る と され て い

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る[Nigo11918:5]7。 しか し 、 当 時 の エ ス トニ ア 人 の 人 口 を 直 接 語 る 資 料 は な い 。 た だKulu が 述 べ る よ うに1926年 ソ ビエ ト政 権 下 で は じ め て お こ な わ れ た 人 口調 査 で は 、 ソ連 の エ ス ト ニ ア 人 は154,600人 余 り で 、 次 に 述 べ る よ うに 独 立 し た ば か り の エ ス トニ ア 共 和 国 へ1920・23 年 間 に 約4万 人 が 帰 還 し て い る こ と を 考 慮 に 入 れ れ ば 、 帝 政 末 期 に は 約20万 人 の エ ス トニ ア 人 が い た と推 測 さ れ る[Kulu  1992:22]8。 つ ま りエ ス トニ ア 人 の 実 に6分 の1割 が ロ シ ア 側 に い た と い え る 。

  各 地 に 移 住 し た エ ス トニ ア 人 は そ れ ぞ れ の 居 住 地 域 で さ ま ざ ま な 組 織 的 な 活 動 を お こ な っ て い る 。 規 模 の 大 き い 居 住 地 で は エ ス トニ ア 人 の 集 会 所 、教 会 、 学 校 な どが 設 立 さ れ 、農 業 協 会 、 コー ラ ス グ ル ー プ 、 劇 団 、 互 助 会 、 慈 善 団 体 な ど の 活 動 が お こ な わ れ て い た 。Nigolに よ れ ば 、 1848年 設 立 さ れ た ミ ヌ シ ン ス ク 近 辺 の 上 ス エ ト ゥキ 村 に は130家 族 が 住 ん で お り 、 教 会 、 二 階 建 て の 学 校 、 協 同 組 合 が あ っ た[Nigol  1918:59]。1850年 代 に 植 民 され た ボ ル ガ 下 流 域 の サ マ ラ 県 の 村 々 で は 中 年 以 降 の 男 性 た ち が 、 エ ス トニ ア か らPa°rnu  Postimees  Olevikな どの 新 聞 を 共 同 で 注 文 し 読 み あ っ て 、 故 郷 の 出 来 事 に 心 を 寄 せ て い た と い う[V6ti  1996:158]。 ま た ペ テ ル ブ ル グ 、 モ ス ク ワ な ど 都 会 の 他 、 トム ス ク 、 コ ー カ サ ス の ピ ャ チ ゴ ル ス ク な ど各 地 で エ ス トニ ア 語 の 新 聞 や 雑 誌 が 発 行 さ れ て い る 。 ロ シ ア 全 土 に 広 が っ た エ ス トニ ア 人 達 は ま た 、 相 亙 に 緊 密 な 連 絡 を と りあ っ て お り 、 地 域 的 な 会 合 や 歌 謡 祭 を 合 同 で 開 催 し て い る 。1910年 は ペ テ ル ブ ル グ に お い て 、 エ ス トニ ア 移 民 の 全 国 会 議 が 開 か れ 、 二 年 後 に は ノ ブ ゴ ロ ドで 全 国 歌 謡 祭 が お こ な わ れ た[Raag  1993:347]。

  1900年 代 は じ め 、 先 に 述 べ た よ うに ペ トロ グ ラ ー ドで の エ ス トニ ア の 自 立 を 志 向 す る 運 動 は 本 国 の 独 立 に 大 き な 影 響 を あ た え る も の で あ っ た が 、 そ の よ うな 民 族 的 な 動 き へ の 反 応 は は る か 離 れ た 地 域 の エ ス トニ ア 人 の あ い だ で も み ら れ る 。1918年 トム ス ク で 発 刊 され た シ ベ リア 在 住 エ ス トニ ア 人 の 新 聞Siberi  Asunikに お い て は 当 時 独 立 を め ざ して バ ル ト ・ ドイ ツ 軍 と戦 い 、 つ い で ロ シ ア と の 関 係 も 悪 化 しつ つ あ っ た エ ス トニ ア 本 土 の 状 況 が つ ぶ さ に 報 告 さ れ て い る 。 し か し一 方 で は 、 シ ベ リア で は ロ シ ア 革 命 の の ち も 依 然 と して 続 く ボ ル シ ェ ビ キ と 反 革 命 軍 と の 権 力 争 い の 戦 況 が つ た え られ 、 エ ス トニ ア 人 の 間 に は か な りの 動 揺 が あ り 、 ロ シ ア に お い て 共 同 で 安 全 を 確 保 す る 必 要 に せ ま られ て い た 状 況 も推 察 さ れ る 。

3  エ ス トニ ア 共 和 国 時 代 の 在 ソ ・エ ス トニ ア 移 民(1918‑1939)

  す で に述 べ た よ うに帝 政 末 期 、 エ ス トニ ア人 の伝 統 居 住 地 域 以外 で は ロ シア 帝 国 内 に約20

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万 人 の エ ス トニ ア 人 が 居 住 して い た と され て い る。1920年 タ ル ト条 約 に お い て エ ス トニ ア の 独 立 が ロ シ ア に よ っ て 認 め られ た が 、 これ を 契 機 に 、 双 方 の 住 民 は 本 来 本 国 と み な す 方 へ 帰 還 が 許 さ れ る こ と に な っ た 。 こ の 機 会 を 利 用 し1920‑23年 の 間 に エ ス ト ニ ア へ 帰 還 し た も の は 37,573人 で あ っ た 。

  タ ル ト条 約 に お け る 住 民 の 相 互 移 籍 に つ い て の 取 り決 め に 基 づ き 、 ソ ビエ ト ・ロ シ ア で1920 年 か らエ ス トニ ア 人 の 帰 還 の 手 続 き を 行 っ た の は エ ス トニ ア 移 籍 委 員 会 で あ っ た 。 エ ス トニ ア 移 籍 委 員 会 の 活 動 に つ い て はMedijainenに よ っ て 明 ら か に され て い る が[Medijainen  1995]、

当時 エ ス トニ ア と ソ ビ エ ト ・ロ シ ア の 間 に は 正 式 の 外 交 関 係 が な く 、 大 使 館 、 領 事 館 が な い 状 況 で ロ シ ア に お い て 事 実 上 エ ス トニ ア 外 交 代 表 部 の 役 割 を 果 た す こ と に な っ た 。 内 戦 が 続 く 混 乱 した 状 況 の な か で 、 各 地 に 委 員 会 が 設 置 さ れ た 。 し か しエ ス トニ ア 住 民 だ け で は な く 、 移 籍 委 員 会 に た い し て も 略 奪 や 帰 還 の 妨 害 が お こ な わ れ 、 活 動 は 困 難 を き わ め た と い う。 ま た ロ シ ア か ら帰 還 し た 人 々 の 中 に 、 エ ス トニ ア で の 生 活 に 不 満 を と な え 始 め る も の や 、 ロ シ ア の 情 報 部 員 や 共 産 党 員 が 潜 入 して い る 場 合 が あ り 、 国 家 に と っ て も 危 険 分 子 を 抱 え 込 む 危 険 性 が あ っ た9。 さ ら に 委 員 会 関 係 者 の 中 に は 、 引 揚 者 の 荷 物 を 利 用 し物 資 の 密 輸 を は か る も の も い た と い わ れ る[Medijainen  1995:8‑9]。 一 方 、 ロ シ ア 側 が 自 国 へ の 引 き 揚 げ 対 象 と した の は お も に 戦 争 避 難 民 と捕 虜 で 、 ロ シ ア 外 務 人 民 委 員 会 下 の 住 民 引 き揚 げ 局 が 担 当 し た 。

  エ ス トニ ア 帰 還 政 策 は 移 籍 委 員 会 の 廃 止 と と も に 、1923年 で 中 断 す る こ と に な っ た が 、 これ に は 当 時 の エ ス トニ ア と ロ シ ア の 不 安 定 な 関 係 も 大 き く影 響 し て い た 。1921年 、 講 和 条 約 を 前 年 締 結 し た ば か りの 両 国 間 関 係 は 依 然 と し て 悪 い ま ま で 、 当 時 ソ ビエ ト ・ロ シ ア で は 社 会 主 義 世 界 革 命 を 支 持 す る 勢 力 が 強 ま っ て お り、 エ ス トニ ア へ も そ の 影 響 は 及 び つ つ あ っ た 。 ロ シ ア に 居 住 す る エ ス トニ ア 人 の な か に は エ ス トニ ア 共 産 党 員 が 多 く お り、1924年12月 に は エ ス ト ニ ア 国 内 の 勢 力 と と も に 武 力 に よ る 政 権 の 転 覆 を は か っ た 。 こ れ は 結 局 失 敗 し 、 共 産 党 は 非 合 法 化 さ れ る 一 方 、 共 産 党 員 の 一 部 は ソ 連 へ 脱 出 した[bispuu  1992:100・2]。 こ の 後1920年 後 半 も 逆 に エ ス トニ ア か ら ソ 連 へ 移 住 す る 移 住 す る 人 々 は 存 在 し た が 、 お も に 共 産 主 義 の 理 想 に 共 鳴 す る 人 々 で あ っ た10。  Kuluに よれ ば1924・38年 間 に 海 外 に わ た っ た16,300人 の うち 19%、 約3,200人が ソ連 へ 向 か っ た[Kulu  1992:75]

以 上 の エ ス トニ ア 人 帰 還 政 策 に よ っ て も20万 人 の う ち 結 局 約 五 分 の 一 が 帰 還 し た の み で 、1926 年 の 統 計 で は 、 ソ 連 の エ ス トニ ア 人 は154,000人 あ ま りで 、 ロ シ ア 在 住150,000人 の う ち 、 レ ニ ン グ ラ ー ド州 、 カ レ リア 州 合 計 で87,000人 あ ま り、 シ ベ リア に29,800人 が 分 布 し、 ウ ク ラ

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イ ナ2,000人 、 コ ー カ サ ス1,000人 あ ま り と な っ て い る[ospuu  l992:312]。1897年 に 比 較 し て 特 に エ ス トニ ア 近 辺 の レ ニ ン グ ラ ー ド県 、 プ ス コ フ 県 で 大 き く減 少 して い る 。 こ れ は 、1920 年 の タ ル ト条 約 で こ れ らの 地 域 の 一 部 が 住 民 と と も に エ ス トニ ア に 編 入 され た こ と 、 さ らに 上

記 の エ ス トニ ア 人 帰 還 政 策 で エ ス トニ ア に 引 き 揚 げ た 人 々 が 多 数 この 地 域 か らで た こ と に あ っ た[Kulu  1992:27]。   これ 以 降 ソ 連 の エ ス トニ ア 人 口 は 、 エ ス トニ ア 本 国 か らの 補 充 が な が く 途 絶 え た だ け で は な く 、 ス タ ー リ ン に よ る 集 団 化 、 粛 清 な ど 強 圧 政 策 お よび 民 族 語 教 育 の 制 限 な ど に よ り 、 さ ら に 減 少 して い る 。13年 後 に お こ な わ れ た1939年 の 統 計 で は 、 ソ 連 の エ ス トニ ァ 人 全 体 の 数 は143,000人 で 、 ロ シ ア 全 体 で は130,500人 と減 少 し た の に 対 し、 シ ベ リア で は33,500人 へ と増 加 して い る[Raag  1995:357]。 こ の 増 加 は 、30年 代 後 半 ヨ ー ロ ッパ ・ ロ シ ァ に お い て 始 ま っ た シ ベ リア や 北 ロ シ ア へ の 強 制 移 住 に よ る も の で あ る[Kulu  1992:54]。

  言 語 面 で の 後 退 は さ ら に 著 し い 。1926年 の 統 計 で は ソ 連 の15,4000の エ ス トニ ア 人 の う ち 139,000人(90%)が エ ス トニ ア 語 を 母 語 と し て い た 。77%は 地 方 に 住 ん で お り、 そ の94%が エ ス トニ ア 語 を 母 語 と した の に 対 し 、都 市 に 住 む23%の エ ス トニ ア 人 の 場 合 、母 語 保 持 率 は68%

で あ っ た[Kulu  1992:23]。 そ れ が 約15年 後 の1939年 に は ロ シ ア の エ ス トニ ア 人 の う ち エ ス トニ ア 語 を 母 語 とす る も の は43%に ま で 落 ち て い る 。

  本 国 エ ス トニ ア が 独 立 し、 人 々 が エ ス トニ ア 国 民 と し て 統 合 され る一 方 で 、20年 代 に は い り 状 況 が 落 ち つ き 始 め る と 、 ソ 連 に 残 る こ と に な っ た エ ス トニ ア 人 た ち は 社 会 主 義 体 制 へ 編 成 さ れ 始 め た 。 シ ベ リア で10月 革 命 以 降 も発 行 さ れ て い た 新 聞Siberi  Asunikな ど も廃 刊 され た ほ か 、 そ れ ま で の エ ス トニ ア 人 の 教 会 活 動 、 文 化 活 動 も停 止 さ れ た 。 そ れ ら に 代 わ り 民 族 教 育 は 、 当 時 の 民 族 政 策 の 基 本 方 針 に そ っ て 他 の 民 族 と と も に 一 括 し て 民 族 教 育 人 民 委 員 会 の 管 理 下 に お か れ 、 各 地 に エ ス トニ ア 語 の 初 等 学 級 が 設 け られ た 。 学 校 は1926‑27年 に は180カ 所 に あ り、 帝 政 時 代 よ り多 か っ た が 、20年 代 は じめ に 多 くの 教 師 が エ ス トニ ア へ 引 き 揚 げ た た め 、 深 刻 な 教 師 不 足 で あ っ た[Raag  l995:353]。 同 じ頃 ペ テ ル ブ ル グ や シ ベ リ ア に は 教 師 養 成 所 が 設 立 され た 。 当 時 の 民 族 政 策 は 民 族 語 を 重 視 した た め 、 文 化 、 政 治 活 動 に も 民 族 語 は 広 く用 い られ た 。1930年 に は 、66の 村 ソ ビエ トで 全 面 的 に 、24カ 所 で 部 分 的 に エ ス トニ ア 語 が も ち い られ て い た 。 ま た 出 版 活 動 も活 発 で 、1926年 エ ス トニ ア ・プ ロ レ タ リア 作 家 協 会 が 結 成 され 、 新 体 制 に 沿 っ た 雑 誌 、 新 聞 な ど が 数 多 く発 刊 され た 。 最 盛 期 に は 新 聞13紙 、 雑 誌28誌 が 出 版 さ れ て い た[Raag  1995:352]。 し か し1930年 代 末 民 族 政 策 の 弾 圧 期 の 到 来 に よ り 、 ほ とん ど の 民 族 語 教 育 と と も に これ ら の 出 版 物 も姿 を 消 し た 。1937年 に 本 格 化 す る 民 族 政 策 の 後 退 は 、 そ の 後 の エ ス トニ ア 語 の 地 位 や 保 存 に 大 き く 影 響 す る こ と に な っ た 。

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  と こ ろ で エ ス トニ ア 本 国 で は20年 代 は じ め の 左 翼 ク ー デ タ ー の 試 み や 対 ソ 関 係 の 悪 化 な ど 社 会 状 況 が 悪 化 す る 中 で 、共 和 国 時 代 に 北 ア メ リ カ 、ブ ラ ジ ル な ど 西 側 へ 移 住 した 人 々 は17000 人 に 達 して い る[Oispuu  1992:312]。 し か し共 和 国 時 代 の エ ス トニ ア は こ の よ う に 海 外 へ 流 出

し た 在 外 エ ス トニ ア 人 に 対 して 強 い 関 心 を も っ て お り、1928年 在 外 エ ス トニ ア 人 の た め の 雑 誌 を発 行 し、 二 年 後 に は 在 外 エ ス トニ ア 協 会 を 設 立 し た 。 こ れ は 海 外 の エ ス トニ ア 人 の 団 体 と 協 力 し世 界 エ ス トニ ア 人 会 議 を 定 期 的 に 開 催 した 。 し か し こ の 活 動 も エ ス トニ ア の1940年 の ソ 連 へ の 併 合 と と も に 中 断 す る こ と に な っ た[Raag  1995:356]。

4  ソ 連 に よ る エ ス トニ ア の 併 合 後(1940‑)

  エ ス トニ ア の ソ 連 併 合 後 、 エ ス トニ ア 人 に 対 し て 実 施 さ れ た シ ベ リア そ の 他 へ の 追 放 、 強 制 移 住 は 、 二 度 大 き な 規 模 で 行 わ れ て い る 。 一 度 は 第 二 次 大 戦 前 夜 の 緊 張 した 国 際 情 勢 の 中 で 軍 事 的 圧 力 の 下 、 行 わ れ た ソ連 へ の 併 合 直 後 実 施 され た も の で 、 目 的 は エ ス トニ ア 共 国 時 代 の 政 治 家 を 中 心 と す る 指 導 層 の 壊 滅 に あ っ た 。 政 治 犯 と して だ け で も7,000人 が シ ベ リ ア 、 北 ロ シ ア の 強 制 収 容 所 に 送 ら れ た 。 家 族 を 含 め た 一 般 追 放 者 の 数 は さ ら に 多 く1941年6月14日 一 日 で1万 人 以 上 も の 人 々 が 送 ら れ た が 、 内3,000人 は15歳 以 下 で あ っ た と い う[Sinilind 1985:23・4]。 こ の よ う な40年 代 は じ め の 弾 圧 が 、 の ち1944年 第 二 次 大 戦 中 エ ス トニ ア を 占 領

し て い た ドイ ツ の 敗 走 の 後 、 ソ連 の 再 進 出 を お そ れ た 人 々 が 西 側 へ 大 量 亡 命 した 原 因 で あ っ た と い わ れ る 。 実 際 に1944年 の ソ連 体 制 の 復 活 に よ り 、 「人 民 の 敵 」 に 対 し大 規 模 な 粛 清 と シ ベ リア 追 放 が お こ な わ れ た 。 な か で も1949年3月 農 業 の 集 団 化 に と も な っ て 、 い わ ゆ る 富 農 、 ク ラ ク と し て シ ベ リ ア へ 家 族 と と も に 送 ら れ た 人 々 は80,000人 に も の ぼ る と い わ れ て い る [Sinilind 1985:26]。 こ の うち27,835人 は1954・60年 に エ ス トニ ア へ 帰 還 し て い る[Raag  1995:

357]。 ま た1939年8月 ロ シ ア 、 ソ 連 と ドイ ツ の 間 に モ ロ トフ ・ リ ッベ ン トロ ッ プ 議 定 書 が 締 結 さ れ た あ と 、1944年 ま で に15,000人 の ほ ぼ す べ て の バ ル ト ドイ ツ 人 が ドイ ツ へ 引 き 揚 げ た 。   一 方 ソ ビエ ト政 権 復 権 後 の エ ス トニ ア で は 、 エ ス トニ ア 出 身 で は な く ロ シ ア 出 身 の エ ス トニ

ア 人 が 共 産 党 幹 部 、 政 府 役 人 の 要 所 に 登 用 さ れ 、 エ ス トニ ア の ソ ビエ ト化 に 大 き な 役 割 を 果 た す こ と に な っ た11[Zetterberg  1995:133‑134]。 強 制 移 住 者 も1956年 以 降 大 部 分 は 帰 還 し た が 、

一 部 は そ の 経 歴 の た め エ ス トニ ア で は 不 利 な 条 件 に お か れ た た め

、 移 住 地 に 定 着 し た り 、 他 地 方 に 居 を構 え た 人 々 も い る 。 ま た か つ て の エ ス トニ ア 人 移 民 の 子 孫 の 帰 還 も1950年 代 は じ め か ら再 開 し て い る。

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  ソ連 体 制 下 で の ソ連 各 地 の エ ス トニ ア 人 の 人 口 の 推 移 を み る と 、1939年 か ら1959年 の20 年 間 に 約143,000人 か ら95,000人 ま で 約5万 人 の 大 き な 減 少 が み られ る[Raag  1995:357]。

減 少 の 原 因 に は 第 二 次 大 戦 中 の 犠 牲 者 や ドイ ツ 占 領 地 域 で あ っ た ペ イ プ ス 湖 東 岸 か らの ま と ま っ た 帰 還 者 も 含 ま れ る が 、大 部 分 は1950年 代 の エ ス トニ ア へ の 帰 還 者 に よ る もの で あ る[Kulu 1992:46]。 こ れ は 、 お そ ら く ス タ ー リ ン 体 制 後 の 緩 和 政 策 に よ る と お も わ れ る が 、 当 然 エ ス ト ニ ア が ソ連 へ 編 入 さ れ た こ と で 障 害 が な く な っ た こ とが 大 き な 理 由 で あ ろ う。

  しか し1959年 以 降1989年 ま で 、人 口統 計 で は1970年82,000人 、1979年72,000人 、1989 年59,000人 と10年 ご と に 約1万 人 ず つ 減 少 し て い る[Raag  l995:357]12。 こ の 間 も エ ス ト

ニ ア 人 の 帰 還 は 順 調 に 続 い て い た と み ら れ る が 、 減 少 が ほ ぼ 一 定 で あ っ た こ と か ら 、 ソ連 体 制 の 確 立 に と も な い 、 ソ 連 各 地 で の エ ス トニ ア 人 を と りま く政 治 的 、 社 会 的 状 況 が と り あ え ず は 安 定 して い た と推 測 で き よ う。H.Kuluに よれ ば1989年 の 時 点 で エ ス トニ ア に は エ ス トニ ア 以 外 の ソ連 の 各 地 で うま れ た エ ス トニ ア 人 、 つ ま りか つ て 何 ら か の 理 由 で 移 住 し た エ ス トニ ア 人 の 子 孫 は38,538人 に も の ぼ っ て い る[Kulu  1992:4648]。

  た だ し 、 こ の 間 も エ ス トニ ア 本 国 以 外 で は 、 エ ス トニ ア 語 の 母 語 保 持 率 は 、 低 下 して お り、

民 族 語 教 育 廃 止 等 、1930年 代 後 半 以 降 後 退 した 民 族 政 策 の 影 響 は あ ら わ れ て い る 。1979年 ス トニ ア を 除 く ソ 連 の エ ス トニ ア 人 人 口 約72,000人 の う ち 、 エ ス トニ ア 語 を 母 語 とす る もの 47%、 第 二 言 語 とす る も の12%で あ っ た[Vrikberg&Vaba  1984:145]。1989年 に は約59,000 人 の 人 口 中 、 母 語 話 者 は43%に ま で 低 下 し た[Kulu  1992:48]。

  ま た エ ス トニ ア 人 の ソ連 各 地 に 分 散 す る 同 胞 へ の 関 心 は あ っ た こ と は 容 易 に 想 像 で き る が 、 実 際 に 、 分 散 した エ ス トニ ア 人 の 地 を 訪 れ 、 そ れ ら の 現 状 が 雑 誌 等 の 記 事 で あ き ら か に され 、 ま た 研 究 対 象 と な る の は 、1970年 代 か ら で あ る13。 特 に1975年 以 降10年 の 間 に 、 東 エ ス ト ニ ア 人 の 歴 史 、 文 化 に つ い て の 出 版 物が 突 如 あ ら わ れ 始 め 、 エ ス トニ ア 科 学 院 、 歴 史 博 物 館 の 調 査 隊 な ど が エ ス トニ ア 人 居 住 地 の 踏 査 を お こ な っ て い る[Taurist  1986:67]。 エ ス トニ ア に お け る ソ ビ エ ト体 制 の 確 立 と と も に 、60年 代 に は い りエ ス トニ ア で は 生 活 レベ ル の 向 上 が み ら れ 、 い わ ゆ る 雪 解 け 期 の りベ ラ ル な 雰 囲 気 が 学 問 分 野 で も お とず れ て い た 。 お そ ら く 、 こ の こ ろ か ら ソ 連 各 地 の エ ス トニ ア 人 に 対 して の 何 ら か の 働 き か け も あ っ た の で あ ろ う。 し か し一 方 で 、 西 側 エ ス トニ ア 人 に 対 す る 関 心 は そ の 歴 史 的 い き さつ の た め 、 公 の 舞 台 に あ らわ れ る と は な か っ た 。

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5  エ ス トニ ア 独 立 回 復 後(1991‑)

  ソ連 の 公 式 の 人 口統 計 で は 、 そ の 解 体 直 前 の1989年 に は 約63,300人 の エ ス トニ ア 人 が ソ連 各 地 に 住 ん で い た とい わ れ て い る[Kulu  1992:133]。 ソ連 の 解 体 前 後 期 の 経 済 混 乱 、 紛 争 の 危 険 性 な ど 東 エ ス トニ ア 人 の 苦 境 が 伝 え ら れ る な か で 、 エ ス トニ ア 国 内 で は か れ ら へ の 支 援 や 帰 還 の 必 要 性 が 叫 ば れ 始 め て い た 。 こ れ と呼 応 す る よ う に 、1988年12月15日 タ リ ン に て 、 お そ ら く ソ連 の 他 地 方 か らエ ス トニ ア に 帰 還 し た エ ス トニ ア 人 を 中 心 と し て 、 「連 邦 エ ス トニ ア 人 協 会 」 が 設 立 され て い る[Leisson  1989]。 上 に も述 べ た よ うに 、 か つ て の 強 制 移 住 者 を ふ く め 、 か な りの 数 に の ぼ る 人 々 が1950年 代 以 降 帰 還 して お り 、 民 主 化 の 勢 い に 乗 じ、 そ れ ま で い わ ば 日 陰 者 的 存 在 で あ っ た か れ ら に 自 由 な 意 思 表 示 の で き る 状 況 の 訪 れ た こ と が 背 景 に あ ろ う。

協 会 の 目的 と され た の は 全 ソ連 邦 内 の エ ス トニ ア 人 居 住 地 域 に お け る エ ス トニ ア 文 化 の 保 存 と 相 互 の 連 絡 の 強 化 で あ っ た 。 具 体 的 に は エ ス トニ ア 移 民 の 文 化 、 言 語 に つ い て の 調 査 ・研 究 を お こ な い 、 か れ ら に つ い て の 歴 史 的 資 料 を 保 存 す る こ と 、 さ ら に エ ス トニ ア に 帰 還 し た 人 々 の 生 活 へ の 適 応 や 地 位 の 向 上 に 助 力 す る こ と が あ げ られ た 。 ま た 旧 ソ 連 各 地 の エ ス トニ ア 人 の 間 に お い て も さ ま ざ ま な 団 体 が 結 成 され 、 長 く 中 断 し て い た エ ス トニ ア 語 教 育 へ の 動 き が 再 開 さ れ て い る。 ペ テ ル ブ ル グ で は1992年 エ ス トニ ア 人 の 活 動 が 復 活 し 、 エ ス トニ ア 語 補 習 教 育 が 始 ま っ た[Raag  1995:357]。

  帰 還 す る エ ス トニ ア 人 の うち で も っ と も緊 急 を 要 した の は 、1989年 に 始 ま る グ ル ジ ア ・ア ブ ハ ジ ア 内 戦 に 巻 き 込 ま れ る こ と に な っ た エ ス トニ ア 人 達 で あ っ た 。 か れ ら は そ れ ま で 旧 ソ 連 で は 最 も 安 定 した 生 活 を お く っ て お り 、70年 代 か ら も エ ス トニ ア で は 度 々 紹 介 され て い た だ け に 大 き な 関 心 を よ ぶ こ と に な っ た 。 本 国 の エ ス トニ ア は 彼 ら の 窮 状 に 素 早 い 反 応 を 示 し た 。 近 年 エ ス トニ ア 政 府 の 移 住 局 を 通 して エ ス トニ ア に 帰 還 し た 東 エ ス トニ ア 人 は600‑650人 で 、 そ の うち 約400人 は ア ブ ハ ジ ア か らで あ っ た[ETA  4.3。94]14。 さ ら に 最 近 で は 戦 乱 に く わ え 財 政 難 か ら教 師 の 給 料 や 教 材 が 払 え ず 、 ス レ ブ 、 サ ル メ 村 で は40人 ほ どの 生 徒 に 対 し授 業 を 中 断 して い る 。 これ は113年 の 歴 史 上 初 め て の こ とで あ る と い う。 そ の た め 現 地 の エ ス トニ ア 人 達 が エ ス トニ ア 教 育 省 に 対 し援 助 を 申 請 した と伝 え られ て い る[Mattson  1997a]。

  本 国 の エ ス トニ ア 人 に と っ て 援 助 は 当 然 の も の と し て 受 け と め られ た が 、 念 願 の 独 立 回 復 を は た し、 着 実 に 向 上 し つ つ あ る 生 活 レベ ル を 肌 で 感 じ つ つ あ っ た か れ ら に と っ て は 単 純 に 、 同 胞 と して ひ と事 と思 え ぬ 心 境 で あ っ た に 相 違 な い 。 ま た 一 方 で は 、 エ ス トニ ア の 独 立 回 復 を 契 機 に 、 そ の 理 念 の 根 元 に あ る エ ス トニ ア 人 の 統 合 母 体 と し て の エ ス トニ ア 国 家 の 完 結 と い う 理

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想 も あ っ た で あ ろ う15。 国 家 と して も 、 これ ら の エ ス トニ ア 人 の 帰 還 運 動 を す す め て は き た が 、 ど ち ら か とい う と 民 族 的 同 胞 愛 と 世 論 に 支 え られ た 場 当 た り的 な 処 置 とい え な く も な い 。 憲 法 36条 に お い て は す べ て の エ ス トニ ア 人 は エ ス トニ ア に 入 国 す る権 利 が あ る 」 と は うた わ れ て は い る が 、 エ ス トニ ア 人 とは 誰 か とい う定 義 は 存 在 し な い 。 国 籍 法 で は1995年4月 よ り、 エ ス トニ ア 人 の 血 を 引 く も の も 、 国 籍 取 得 の た め に は 外 国 人 と 同 じ手 続 き が 必 要 と な っ た 。 す な わ ち 一 般 の 手 続 き に よ る 、5年 間 の 連 続 した 滞 在 を 経 て 申 請 の 権 利 を 得 る の で あ る 。 ま た か つ て の1920年 代 の よ う に ロ シ ア と の 間 に エ ス トニ ア 人 引 き 揚 げ に 関 して 何 の 取 り決 め も 交 渉 も 存 在 し な い(Astrid  Tusikuに よ る16.1.1998)。 し か し、 エ ス トニ ア 外 務 大 臣T.H.  nvesが 聞 の イ ン タ ビ ュ ー に 答 え た よ う に 、 法 的 に は エ ス トニ ア の 国 籍 を も た ぬ 彼 ら を 帰 還 させ る義 務 は 存 在 し て い な い の で あ る[Jaesaar  1997a]。

  さ ら に 、 東 エ ス トニ ア 人 帰 還 に 関 し て は 多 く の 現 実 的 問 題 が 存 在 し て い る。1920年 代 の 帰 還 者 の よ うに 、 マ フ ィ ア な ど歓 迎 され な い 人 々 の 流 入 も 危 惧 さ れ て い る。 しか し、 タ ル ト大 学 在 外 エ ス トニ ア 人 研 究 所 所 長 のKuluの 指 摘 す る よ うに 、 な に よ り も 大 き な 問 題 は 、 事 実 上 大 部 分 の エ ス トニ ア 人 は ロ シ ア 語 化 し 、 さ ら に そ の 家 族 の ロ シ ア 人 を と も な っ て き た 場 合 、 ソ連 時 代 大 き な 問 題 で あ っ た ロ シ ア 語 人 口 を さ ら に 増 加 さ せ る こ と が 明 らか な こ と で あ る[JBesaar

l997a]。 し か も 今 回 は 身 内 の 中 に ロ シ ア 語 話 者 を 抱 え る こ と に な り、 今 ま で の 言 語=民 族 の 原 則 が 大 き く崩 れ る こ と に な りか ね な い 。 勿 論 、 現 在 の エ ス トニ ア に と っ て は 、 か れ ら を 帰 国 さ せ 、住 居 や 職 を あ た え 、教 育 を お こ な う こ と は 大 き な 経 済 的 負 担 で あ る の は い うま で も な い16。

こ の よ う に 東 エ ス トニ ア 人 を 迎 え よ う とす る 一 方 で 、 実 際 に は あ ま り歓 迎 され て は い な い 点 も 指 摘 で き る の で あ る 。 一 方 で 、 ロ シ ア 出 国 の た め の パ ス ポ ー ト、 ヴ ィ ザ の 入 手 手 続 き な ど 、 現

地 に 障 害 が あ る場 合 も あ る17。

  現 時 点 で の 旧 ソ連 圏 の エ ス トニ ア 人 人 口 に つ い て 、正 確 な 数 は 不 明 と し か い わ ざ る を え な い 。 最 近 提 案 され 始 め た 帰 還 者 の 大 量 受 け 入 れ 構 想 に 対 し 、H.Kuluな ど は 、 ロ シ ア に は 少 な く と も 一 方 の 親 が エ ス トニ ア 人 の 人 々 は10‑15万 人 お り 、 そ の 家 族 を ふ く め る と20万 人 の 人 々 を 受 け 入 れ る こ とに な る と さ え 警 告 し て い る[Runnel&Paart  1997]。 上 に み た と お り、 エ ス ト ニ ア 独 立 回 復 後 激 動 す る 情 勢 の な か で 、 東 エ ス トニ ア 人 は か な りの 数 が 帰 還 して い る が 、 そ の ほ か 、 ロ シ ア 国 内 部 で の 移 動 や 国 外 へ の 移 住 も 考 え られ 、 各 地 の 人 口 は1989年 の 統 計 とは 大 き く こ と な っ て い る 可 能 性 が あ る 。た と え ば 、戦 乱 の 伝 え られ た コ ー カ サ ス の ア ブ ハ ジ ァ で は 、 現 在 約500人 の エ ス トニ ア 人 が も との 村 に お り、 黒 海 沿 岸 の ソチ に は800人 が 疎 開 生 活 を 送 っ

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