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あの先生、はたして日 本語ができるのかと

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Academic year: 2021

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 ことばと世界について、いや、ことばの世 界についてちょっと話をしようと思う。

 大学3年生のときの、会話の先生だった。

面立ちと名前からは日本人としか思えないの に、まったく日本語を理解するように見えな かった。ほんとうにわからなかったのかもし れない。日本に暮らして数十年になっていた はずだが、近所のスーパーやパン屋で「外国語」

でやり取りしていた様子をよく見かけて、ぼ くらは噂したものだ。あの先生、はたして日 本語ができるのかと。

 もちろんここでいう外国語とは、ぼくら学 生が学んでいたという意味にすぎず、それが どの国の、どんな言語かはこの際問題ではな い。初級文法を習い、辞書を引き引き文章を 追いかけ、短い表現をたどたどしく口にし始 めたころだといえば充分だ。

 「ウソを言いなさい」、それが先生の最初の 一言であり、口癖だった。

 知っての通り、たいていの会話練習は、そ の場の状況に一致しないという意味で、仮想 の発話であり、ウソなのだ。

 「私はお腹が空いています」とか「あなたは 昨日、友達と映画を見に行きましたか」のよ うな単文にしても、「『スペインの雨は主に平 地に降る』とあの人が言ったとしても、彼が スペインに行ったことがあるなんて私たちは 信じないだろう」といった複文にしても。

 さらにいえば、空腹感が事実だとしても、

発話者自身が文の意味を把握/実感できてい なければ、たんなる空疎な音の連鎖にすぎな い。

 実際問題として、母国語で話していても、

文脈から離れた文を発話するのは、つまりウ ソと知りながらしゃべるのは、けっこう難し い。おそらく先生はそれが言いたかったのだ ろうと、今になって思うのだが、そのころは 何もわかっていなかった、少なくともぼく自 身は。

 ある意味で、完璧な会話の教師だった。語 彙も乏しく、基本的動詞の活用さえおぼつか ない学生たちに、けっして日本語を使うこと

なく延々と語り続けた。

 それが思うより簡単な作業でないことは、

外国語を少しでもかじった人なら、そして母 語を教えた経験がある人なら、なおさら想像 がつくだろう。話の通じないつらさと、意志 疎通の欲求、他人から理解されたい願望は、

きわめて強固で原始的なものだ。

 「空腹は食べるにしたがって生じる」のだと いう。同じ様に、空虚なウソを繰り返すこと によって、ぼくら学生は少しずつそのことば の実感を獲得した。つまり、先生のウソに少 しずつ引き込まれていった。一年が過ぎたこ ろにはかなり上達し、ある程度流暢な会話を こなせていたように思う。

 「思う」というのは、結局、ぼくがそのこと ばを使ったのは、後にも先にも、先生の授業 のなかだけだったからだ。留学もせず、他の 教師や留学生との交流がなかったぼくは、先 生の授業がなくなると、とたんに話せなくなっ てしまった。

 おそらくことばの修得は、自分のウソを受 け止めてくれる相手、それを信じて真実とし てくれる受け手を最終的に内面化することで 達成されるのだろう。残念ながら、ぼくの語 学はその段階にまで至ることがなかった。

 先生の特殊な「磁場」から離れると、自分 のことばは空虚な、実体のない音のように感 じられ、本を読んでもインターネットで音声 を聞いても微妙に違和感がつきまとった。

 先生と「外国語」でやりとりをしていたよ うに見えたスーパーやパン屋の店員も、その

「磁場」に引き込まれただけで、とくに勉強す ることもなく無意識に外国語でコミュニケー ションをしてしまっていたのかもしれない。

 ランドルフィの短編『無限大体系対話』は、

詩人がある船乗りからペルシャ語を習って詩 作をするが、実はそれはペルシャ語でもなん でもない、架空の言語だと判明するという物 語だ。ぼくが話していたことばが先生の「個 人言語」ではないと、だれがいえるだろうか。

はしもと かつお(准教授・イタリア文学)

嘘つきは会話上手

橋本 勝雄

世界をみつめて 1

世界をみつめて 1

10

● 研究者と図書館

参照

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神戸市外国語大学 外国語学部 中国学科 北村 美月.