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はじめに
文化まちデザイン論は,「文化芸術のコンテンツや文化政策を中心に置い たまちづくり論である.」筆者がこれまで研究してきた「カルチュラル・クロ スポリシー(
= CCP
)1)」という方法論[政策手法]の延長線上にあり,換言す れば文化芸術に視座を置いた地域政策論である.わが国における現代の地方都市が,人口減少,都心の空洞化をはじめ,経 済の衰退,農村地域の限界集落の進行,コミュニティの崩壊,犯罪の凶悪化,
治安の悪化,歴史的商店街や伝統的産業の衰退,景観の喪失など極めて深刻 な課題に直面している.とりわけ2011年の震災以降は,東北の中小都市は厳 しい状況に晒されている.そうした地方都市の文化政策と「中心市街地活性 化の取り組み」に焦点を当て,「まちづくりのあり方」を考察するのが本論の
* 東北文化学園大学総合政策学部教授
1) カルチュラル・クロスポリシー(= CCP)の概念規定:「CCP とは,文化・芸術の持つ制作過程 を含めたアイディア・作品・アーティストの創造力を触媒として都市や地域の諸課題を総合的に 解決していくための方法論,または自治体の既存政策に文化を融合させる政策手法」と筆者は定 義する.(『アートマネジメント研究』「カルチュラル・クロスポリシー(序説)」第10号 美術出版 社 2009年)
文化まちデザイン論
―中心市街地活性化を文化芸術の視点で批評する―
志賀野桂一*
Design of the Cultural Cities:
Revitalization of Inner Cities from Cultural and Artistic Perspectives
Keiichi SHIGANO
74 file 2 創造文化フォーラム
狙いである.今回取り上げる都市は,筆者が数年来,フィールド研究対象と して訪れた都市であり,とりわけ八戸市と白河市については,筆者が文化施 設のアドバイザーとして関わることから少し詳しく分析し,そのほか特色の ある国内の中小都市を対象とした.
今日,文化政策の意味が大きく変わり文化政策のパラダイムチェンジ2)が 起こっている.従来の文脈が,劇場や音楽ホール整備し,市民の文化芸術3)
の機会を拡大する「芸術文化そのものの振興」策とすれば,今日の文脈では,
教育はもとより福祉・産業経済・防災など多岐にわたる「文化芸術を多用し たまちづくり」という文脈に転換している点が重要である.このことを筆者 は,「文化芸術の潜在力を媒介(
あるいは触媒
)としたまちづくり」という言葉 を使うようにしている.芸術文化は,それ自体が目的でもなく,また単なる 手段だけでもないからだ.この認識のもとで地域社会(農村地域を含む
)の様々 な問題の解決に向けた文化政策が重要視され始め,創造都市論もその延長上 にある.本論での「まちづくり」の定義は,「〈まち=都市や地域社会〉を主体的につ くりあげようとする永続的な行為」4)とし,文化・社会・経済産業系の政策と
2) 文化政策の視点でまちづくりを考えると,これまでの公共文化施設の整備目的は,都市におけ る文化環境の向上を目指すものであって,広い意味で街づくりではあったのだが,あくまで当該 施設を利用する市民を対象とした芸術文化を享受することによる豊かさ,あるいは次世代の子供 たちを対象とする教育文化の高まりを期待するものであった.しかし今後は,文化芸術振興基本 法や劇場音楽ホール等活性化法の整備も相まって,舞台芸術系の公共文化施設の運営については,
この観点が欠かせない議論となっている.公共文化施設とは,図書館のほか,博物館や美術館な どミュージアム系の施設と劇場音楽ホールなどの舞台芸術系施設に区分されるが,ここでは主に 筆者の専門分野である後者を対象に論じていく.
3) ここでは,《文化芸術》は「文化および芸術といった広義概念」,《芸術文化》は,「文化の中の芸術」
という狭義概念として使っている.
4) まちづくりの概念と文化政策論.
織田直文によると,まちづくり研究に関して,「言葉としての「まちづくり」の登場は既に戦後 間もない頃から出ていたものの,本格化し全国化したのは1960年代以降であり,一般的には名古 屋市の栄地区の再開発事業からだとされている.行政では,京都市が総合計画のタイトルに初め て使ったという」.また,「『まちづくり』は政治,経済,社会,文化事象が複雑に絡み合い,あたか も都市がドラマのようなダイナミズムを有しているのである.」と述べている(織田[2009]p.268).
「文化施設が地域に貢献することの実証的研究の蓄積があまりにも少ない.」(同上 p.269)と指摘し たうえで,「文化政策学が複合的・総合的・学際的な学問であり,いい意味で今後いかようにも発 展することが許されるのであれば,今後の発展系のひとつとして,経済・社会・文化の広い意味で の〈政策〉というデザイン概念に,工学的な,建築・都市デザインの概念を結合させた,たとえば「都 市環境デザイン学」といったより実務的な技術開発の研究や教育に取り組むのも,一つの選択で はないかと考える.」(同上 p.270)と述べている.
75 文化まちデザイン論
工学・理学系のデザインなどの総合化を含意とし,平たく言えばハードとソ フトの融合,そしてヒューマンウエアを加えた中で進められる営為と捉えて おきたい.
また,文化まちデザイン論は,創造都市論5)との関係では,同類の分野であ るが,創造都市論における「創造性」を本論では「文化芸術の持つ創造性」と より限定された意味概念として使っている.
1 わが国の地方都市の現状と危機―中心市街地の衰退
全国の地方都市の衰退は小都市になるほど顕著で,かつてあった商店街は,
歯抜けのような空地と化し,シャッターの降りた商店も目立つ.とりわけ東 北の中小都市ほど深刻である.こうした中心市街地衰退の原因は,各地方都 市の人口減少が背景にあることは間違いないが,それ以上に,団地開発によ る郊外型の住宅政策,行政機能の郊外移転であり,1980年代から急速な開発 となる大型ショッピングモール開設,その後のリテールパーク(
retail warehouse =3店舗以上から構成される大型専門店の集積
)などの影響が大きい.加えて,インターネットの普及や無店舗販売の進展,百貨店やブティックが ネットで買う現物を確かめるためのショーケース化するなどライフスタイル の変化が追い打ちをかけている.かつて我が国が直面していた都市問題は,
首都圏や大都市を中心とする,人口集中と過密と農村地帯の過疎化が課題で あった.今や地方都市の過疎とも言うべき空洞化が深刻化している,これは まさに政府の失敗である.
政府は,こうした実情に対して「都市化社会」から「都市型社会」への政策 転換を進め,1998年から2000年にかけて「旧まちづくり三法」6)を定めたが,
5) 佐々木雅幸の定義によれば「創造都市とは人間の創造活動の自由な発揮に基づいて,文化と産 業における創造性に富み,同時に,脱大量生産の革新的で柔軟な都市経済システムを備えた都市 である」.そして「21世紀に人類が直面するグローバルな環境問題やローカルな地域社会の課題 に対して,創造的問題解決を行えるような『創造の場』に富んだ都市」であるとしている(佐々木
[2004]p.44).
6) 「旧まちづくり三法」の骨子は,①経済産業省,国土交通省,総務省などの「中心市街地における 市街地の整備改善及び商業等の活性化の一体的推進に関する法律」(旧中活法)(1998年),②国土 交通省の「都市計画法」の一部改正(1998年),③経済産業省の「大規模小売店舗立地法」(2000年)
で,WTO の勧告による「大規模小売店舗における小売業の事業活動の調整に関する法律」(いわ
76 file 2 創造文化フォーラム
その効果は限定的で,特に40万人以下の都市は,その後も地価の下落や人口 の減少などが続いた.その後,環境保全や都市機能の充実を基本とする改正7)
を重ねている.「中心市街地活性化」策がその中心である.
2006年の改正では「選択と集中」の理念に基づき改正した.これにより地 方自治体は中心市街地再生などの補助金を受けるには,内閣総理大臣に計画 の「認定」8)を受けなければならないこととなった.筆者はここに2つの問題 があるとみる.第1にはよい計画をつくることと,《認定》というお墨付きを 得るための作業は一見当然のように思われるが,目標数値が独り歩きするこ とと,地方の大胆な独自発想や試みが評価される基準がないというところで ある.第2は,今わが国の地方都市の抱える課題は,郊外店と中心市街地の 棲み分けの方法論の不在9)であり,中心市街地に生活者として足を運ぶ理由 の発見であり再構築にある.生活者に立脚した,都市の成り立ちや場の意味 を深く問い直さなければならない.これは従来,文化庁や,観光庁(
2008年 10月~
),文部科学省の領域に近く,経済産業省と国土交通省が中心となって 進める今の制度の基ではこうした視点がそっくり見落されるという点にあ る.リチャード・フロリダは,『クリエイティブ都市論』において,「どこに住 むか?」の重要性を米国の都市を例に説いている.シリコンバレーやナッシュ ビルなどクリエイティビティのある人々や音楽業界関係者が多く集まり集住 する理由や状況を詳しく調べている.さらに居住地が人間の幸福に影響を与 えることを調査し,人が居住を決める「判断には,従来の経済的,社会的環境 要因に加えて,心理的要因が働いている」(
フロリダ[2009]p.225
)とし,「都 市の性格心理学」に言及している.中心市街地活性化論に欠けている観点は まさにこのことである.ゆる「大店法」)の廃止にともなう)からなっている.いずれも中心市街地の衰退に対する危機感 から生まれたまちづくり三法である.
7) 改 正 で,「 中 心 市 街 地 の 活 性 化 に 関 す る 法 律 」(2006年 )が,TMO(Town Management Organization)に代わって「中心市街地活性化協議会の設置」が法制化されるなど,名称・内容が一 新された.都市計画法・建築基準法の改正,が併せて行われた.大店立地法は改正されなかった(8 年後の改正で法規制).
8) 認定中心市街地活性化計画は117市120区域認定済み(平成25年11月末時点).
9) 英国には,1996 年シーケンシャル・アプローチといわれる中心市街地優先策がある.キーワー ドは「Sustainable Development」で,郊外店と旧市街地の棲み分けがなされている.
77 文化まちデザイン論
また関連する,コンパクトシティ論10)については,まちづくりの方向は筆 者も概ね支持するところであるが,都市目標としての「コンパクトシティ」に は何か欠落感を感じる.「コンパクトシティ」は,都市のスプロール化・都心 の空洞化を抑制し,都市機能を集積させ,交通体系の見直しや職住近接型ま ちづくりを目指そうとする発想である.近年「都市のサスティナビリティ」,
「ヒューマンスケールな再開発」など多くの都市のまちづくりの重要な目標と なっている.しかし残念なことに,この論にも都市の記憶や町の物語といっ た人間の精神作用に触れてくる心理目標が欠けていると感じるのである.E Uの都市の街歩きで,様々な記念碑や銅像,広場,中でもペストの流行とそ れに打ち勝った記念碑などに出くわすことがある.広場でも様々な政治や歴 史的事件の記憶が小さなプレートに刻まれているのを見つけることができ る.そこで筆者が感じるのは,旧市街地の単なる空間ではなく,積み重ねら れた時間の重み,まちの歴史や土地柄,人々の暮らしや息遣いである.この ことが都市の魅力となりアイデンティティをつくっている.ライフスタイル が大きく変わる中,人々が街に行く理由,集まる動機など心理分析が必要で ある.
これまでの国の施策は,ともすれば土地政策,都市計画といったハードな 政策で固められている感が強い.足立基浩は,地方都市のシャッター通りの 再生,都市の活性化策を主題に都市研究を展開している.この著書『シャッ ター通りの再生計画』において地域に住む人々の地元への「愛着心」を「セン チメンタル価値」と定義し,まちづくりにおける活性化の極意が説かれ「セン チメンタル価値」の重要性を提唱している(
足立[2010]p.7
).筆者も大いに 共感するところである.しかし,今日の地方都市のシャッター街化は,もは や政府の都市政策の失敗に起因する構造的な問題であり,一都市では解決不 可能な段階にあると考えられる.地方の主体的な創意工夫の取り組みに敬意 を表しつつも,政策の大きな転換をすることなしに状況の打開は厳しいと筆 者は感じるのである.「地方創生本部」(2014年
)や,都市再構築戦略検討委員 会(2013年
)が設置されているが,政府には文化政策的視点を加えた新たな制 度設計を求めたいし,地方都市には,これまで以上に生活の質(QOL
)向上 を重視し,数値目標だけではないまちづくりの戦略と実行を提言したいので ある.78 file 2 創造文化フォーラム
2 八戸市「超多目的公共施設 “はっち” を梃とした中心市街地活 性化の実績」
―事例研究①
八戸市は,人口23.7万人の北東北を代表する産業中核都市に位置づけられ,
わが国が抱える典型的な地域課題「中心市街地の空洞化」の打開に奮闘中の まちである.そして一筋の光明も見せてくれている.いや,相当に成功して いると注目されている都市である.
200海里問題の起きた1976年から遠洋漁業基地としての八戸は大きな打撃 を受ける.80年代後半から八戸市郊外にラピア(
1989年
)に始まり,その 後11),7つの大規模店舗の内3つが空き店舗となった.多くの中心市街の大 型店がヴァカンスに入っている.この間わずか20年の歴史である.2.1 八戸市の中心市街地活性化計画と成績表
八戸市は,2000年に旧中心市街地活性化法に基づく計画を策定,2008年7 月に改正中心市街地活性化法に基づく計画の認定を受け,今日まで継続して 活性化に取り組んでいる.旧中心市街地活性化法に基づく計画(
2000年3月 策定
)では,基本方針として「魅力ある商業軸の形成と『市日』の復活」や「八 戸観光・情報の発信と『山車』のあるまちづくり」など4つが掲げられ,約 140ha,34事業を実施した.第1期中心市街地活性化基本計画(
2008年7月策定
)では,約108ha で47事 業が実施された.その基本方針は「八戸の文化交流のメッカをつくる」こと や「魅力ある店々が連なる回遊空間を創出する」などの5つである.第1期計画の基本方針として「文化交流」,「観光」,「商業」,「交通」,「居住」
の5分野に取り組むこととし,活性化に資する47の事業を位置づけ,計画を 推進してきた.このうち,計画終了時には,10事業が完了,33事業(
ハード整 備事業6,ソフト事業27
)が実施中,となっており,一部未着手の事業はあるも のの,概ね順調に進捗・完了している.11) 1995年近隣市の下田に4万平方メートルのイオン開設,ピアドゥ(1998年),ニトリ,ニュータ ウンショッピングセンター(1999年)開設,今世紀に入り,シンフォニープラザ沼館(2009年),イ オン田向ショッピングセンター(2012年)次々と郊外型ショッピングセンターが開設する.その 延べ床面積は実に14万3,632平方メートルに達する.呼応して中心市街地では,長崎屋(1990年),
チーノ(2003年),長崎屋(2006年),レック(2007年)が閉鎖された.
79 文化まちデザイン論
商業活性化のための主な取り組み13)では,ソフト事業が27事業に及んでい る.
計画の達成状況を示す「歩行者通行量」や「居住人口」,「空き店舗率」など の各指標が,計画期間の前半では大幅に目標を下回り,「歩行者通行量」(
図1
) 及び「居住人口」の両指標とも目標未達成の状況である.計画期間の後半か ら歩行者通行量や居住人口の両指標の数値の下げ止まりがみられた.第2期計画は,2013年4月から2018年3月までの5年間を計画期間として 策定された.第2期計画においては,後述する公共施設「八戸ポータルミュー ジアム『はっち』(
以下「はっち」という
)」開館による賑わい創出の効果を,そ の周辺のみならず,中心市街地全体へ波及させることを目標とする.これを 実現するために,民間事業者の再開発事業等に積極的に支援するとともに,商業やオフィス,教育など多様な都市機能を集積し,中心市街地の回遊性の 向上を図ることに重点が置かれた.
それらの結果,1期2期の総合的成績としては,図1にみられるとおり,中 心市街地の歩行者通行量の推移に表れている。計画の〈進捗・完了状況〉は,
「概ね順調に進捗・完了した」.〈活性化状況〉は,「若干の活性化が図られた」
12) 資料:八戸市中心商店街通行量調査・八戸商工会議所.
13) 中心市街地オフィスビルパートナー制度事業や中心商店街空き店舗・空き床解消事業,共通駐 車券のICカード化事業,空き店舗再生事業,まちなか講座事業,はちのへホコテン事業,商店街 ポータルサイト運営事業,アントレプレナー情報ステーション事業,まごころ宅配サービス事業,
市日はちのへ楽市楽座事業などを実施.このほか,八戸三社大祭開催支援事業,八戸えんぶり開 催支援事業,バスロケーションシステム導入事業などが行われた.
図1 八戸中心街の歩行者通行量の推移12)
80 file 2 創造文化フォーラム
となっている.また中心市街地活性 化協議会の見解および市民からの評 価,市民意識の変化では,ともに〈活 性化状況〉は,「若干の活性化が図ら れた」となった.
八戸市の活性化策の成績は,状況 が厳しい中では,良い成果を収めて いる都市であろう.この最大の要因 を筆者は,「はっち」建設効果とみる.
「はっち」の開館は,「はちのへホコテン」をはじめとする様々な文化事業が行 われ,鑑賞や学びの場として社会的活動の拠点となり,多様な文化芸術活動 の支援や,アーティストの創作支援などが合され中心市街地が市民の文化的 活動の拠点となったことが大きな要因と考えるからである.
2.2 「八戸ポータルミュージアム(愛称『はっち』)」開館の効果 「はっち」は,「八戸市中心市街地地域観光交流施設整備事業(
2005 ~ 2010 年度
)」として取り組まれ2001年2月開館した.事業概要は,文化・芸術等の 活動や観光の促進を目的とする市民交流・観光交流の複合拠点を整備するこ とであった.一つの公共施設がこれほどまで多くのミッションを背負った事 例は,そう多くはない.「超!多目的公共施設」として内外の注目を浴びるが,それぞれの専門分野の識者からは中途半端の指摘を受けてきた.しかしこう した指摘を跳ね返し,中心市街地の活性化に一石を投じた功績は大きい.筆 者は八戸には第2,第3の「はっち」が必要とすら考える(写真1).
年間入館者数は当初65万人を見込んでいたが,実際は約89万人となった.
2013年度は95万人を超えている.地域の資源を大事に思いながら新しい魅 力を発信していくというコンセプトのもと,①会所場づくり,②貸館事業,
③自主事業14)の3つを柱に各種事業を展開している.
14) 特に自主事業では,①中心市街地賑わい創出事業,②文化芸術活動振興事業,③ものづくり事業,
④観光振興・フィールドミュージアム八戸推進事業,⑤情報発信事業の5つの柱で事業を実施し,
文化と観光,ものづくりの分野を横断的に新しい切り口で振興することで,直接的な商業の活性 化策とは別の切り口で地域の活性化を目指しているところに八戸の戦略が見える.
写真1 八戸ポータルミュージアムの外観 写真は小口側に
81 文化まちデザイン論
「はっち」の来館者数が想定以上であったことなどの影響から,中心街の歩 行者通行量は,平成23年の調査で+1,690人と認定後初めて増加に転じ,こ れまでの減少傾向に歯止めがかかった.
図2にみるとおり,仮に「はっち」開館が無かった場合,2008年からの現状 趨勢により,2011年の歩行者通行量は約20,400人になったと見込まれる.し かし,2011年の実際の歩行者通行量は24,176人であり,現状趨勢で見込まれ る20,400人との差である約3,700人が「はっち」開館の効果と推計される.
この実績を基に,日曜日の来館者数は約2,850人,歩行者通行量の増加は約 7,100人15)と見込まれる.しかし,実際の歩行者通行量の増加は約3,700人程 度と見込まれ,この乖離が生じた原因は,来街者が調査地点を5回通過する と仮定したからであると考えられる.実績に基づく平均通過回数は2.6回16)
と推計され,想定していた5回を大きく下回っており,回遊性に課題がある と考えられる.
調査地点別に比較すると,図3のとおり,さくら野,三春屋,ヴィアノヴァ など主要な商業施設が立地する表通り北側の調査地点1,3,5,7の増加率が 比較的大きく,表通り南側の調査地点2,4,6,8の増加率は小さい.以上の 考察から,まちなかを回遊したくなるような周辺環境の整備や,商店街との
15) 効果積算の式に年間来館者数89万人を代入すると,
1休日当たりの来館者数=89万人/52週×1.25/((1+1+1+1+1)+(1.25+1.25))≒2,850人 歩行者通行量の増加=2,850人×(1-0.5)×5≒7,100人
16) 調査地点を通過する回数をAとすると,
2,850人×(1-0.5)×A=3,700人 A≒2.6回
図2 「はっち」開館効果を示す歩行者通行量の推移
82 file 2 創造文化フォーラム
連携が十分ではなかったために,来街者の立ち寄り先が主に表通り北側に限 定されていたものと考えられる.
こうした調査によって,みろく横丁をはじめ,八戸の夜の飲食街を特色づ ける中心街の南側街区との回遊性が弱いことが判明し,三日町南側の再生は,
急務となった。
2.3 八戸市の中心市街地活性化の今後
2014年,人気の高かった旧レックビル(写真2)を解体し再開発の計画が進 んでいる.ここは,課題となっている三日町街区の南側であり,再開発は
「はっち」の機能拡張ともいえる.
「マチニワ」というコンセプトで,横 丁との回遊性の向上もにらむ多目的 屋外広場を整備する計画である.
第1期中心市街地活性化策基本計 画(
2008年~ 2013年
)を経て,現在は,同第2期計画(
2013年~ 2018年
)の実 施途上にある.活性化の指標として 挙げられている ①来街者数(歩行
図3 八戸市中心市街地の主なビル(三日町)
N
写真2 八戸市中心市街地三日町
(空ビル旧 REC)
83 文化まちデザイン論
者通行量
)②居住人口割合(都心定住者数
)③空き店舗・空き地率であるが,そ の目標値に関する見通しは,順調で,すべての指標が達成できるとなってい る.「はっち」の誕生は,中心市街地の活性化,観光・市民交流,子育て,文化・
芸術活動の促進,産業の振興など複合する使命が与えられたが,とりわけ中 心市街地の活性化の起爆剤としての期待が大きかった.開館直後の2011年3 月には東日本大震災に見舞われ,避難所となるなど開館当初から試練にさら され厳しい状況下にありながら,大きな成果を上げ,全国的にも注目を浴び る公立複合文化施設となった.当初八戸三社大祭で使う山車会館の予定で始 まったが,その構想を見直し,市民要望の①雇用,②子育て,③活性化に呼応 する庁内横断的ワーキンググループの研究成果もあり,現状の姿になった.
筆者は,小林市長の都市づくりの目標の確かさと先見性,行政側の風張館長 をはじめとする職員の一体感,外部の専門家の起用とその選択眼のうまさが 成功につながっていると考えられる.
事業も多彩で,JCDN の「踊りに行くぜ!」ダンスプロジェクトや,「酔っ 払いに愛を―横丁オンリーユーシアター」公募の市民が取材し,新進気鋭の 写真家が撮影にあたった「八戸レビュウ」,まちの人々の小さな自慢やエピ ソードを集め吹き出し状の文字で商店などの店頭に張り付ける「八戸のうわ さ」17)(写真3)などユニークな事業(
コミュニティ・アートプロジェクト
)が展開 表 1 八戸市のH 19.10 ~H 24.9 人口動態の内訳自然動態 社会動態
出生 死亡 増減 流入 流出 増減
中心市街地 119人 297人 -178人 1,714人 1,631人 83人 八戸市全体 9,359人 11,519人 -2,160人 35,915人 40,629人 -4,714人 資料)住民基本台帳(各年9月30日)
注1) 外国人は含まない.
注2) 社会動態には職権記載,職権消除等を含む.
17) 「八戸のうわさ」とは,アーティスト山本耕一郎による,人と人の絆をつなぐアート・プロジェ クト.八戸中心街にある店舗や事業所を取材して,まちの人たちの武勇伝,自慢話などを「うわさ」
風の文体にまとめ,フキダシ型のシールにして貼り出す.
写真は小口側に
84 file 2 創造文化フォーラム
されている.ここには,a.集まっ た市民有志と,b.アートの専門家,
c.会館側のファシリテーター(
コー ディネーター
)の見事な協働の成果 がみられる.震災で避難所となった後もその勢 いは止まらず,「和日カフェ」,「はっ ち 流 騎 馬 打 毬 」,「 デ コ ト ラ ヨ イ サー!」などの思わず興をそそられ る事業で埋め尽くされている.まさ にポータルな八戸の人とコトの出会いのショーケースとなっている.まちの 人々が地域の誇りや想いを共有し,増幅していく時空間が出来上がりつつあ る.
4年目に入り,さらに新しい展開がみられるので紹介しておこう.
(1) 「まちぐ(る)み」プロジェクト
八戸市中心街「まちぐ(
る
)み」というプロジェクトで,その目的は,「はっ ち」の成功を基に中心街の複数店舗において,「はっち」的な活動を中心商店 街に展開し,ワクワク感とまち歩きが楽しくなる仕掛けを作り,市民力の結 集や中心街の回遊性向上や,中心街に賑わいを創出,まちを動かす「ひと」を 増やすことである.店舗の一角や店内外の壁面・ガラス面等を使って,自分 の作品を展示・販売したいという市民と,店舗をマッチングさせ,低コスト で店舗のリノベーションをすることで,中心街を「何かできそうなまち」へ変 貌させる.2014年度はお試し企画として,ヤグラ横町を中心に特設ディスプ レイや外観装飾などを実施する(期間:2014年10月1日(水)~
)予定である.この企画も,八戸市に魅力を感じ移り住むこととなったアーティスト山本耕 一郎氏がディレクションを務めている.
(2) 八戸ニューポート
また2014年度には,「まちなかアート・イノベーション」プロジェクトの一 環として「八戸ニューポート」という空間が生まれた.これは,クリエイティ ブな活動と交流のための施設で,クリエイティブな産業の芽を育てていこう とするシェアオフィスなども備えている.管理委託を受けるのは,株式会社 写真3 「八戸のうわさ」事業,店舗に貼ら
れた吹き出し文字 写真は小口側に
85 文化まちデザイン論
アート&コミュニティである(
旧財団法人八戸公会堂が改組され株式会社とし て市の文化施設の指定管理者や文化プロジェクト事業の委託を受けている
).八戸市は創造都市ネットワークにも名を連ね,文化庁長官表彰制度文化創 造都市部門の2013年度表彰でも受賞するなど,文化芸術を取り込んだまちづ くりを進めている.これだけの成果を可視化させるために,多様な制度や施 策の導入を駆使していることがうかがえる.政策遂行の力量が優れている都 市なのである.しかし,あえて言えばこれだけの施策を都心に傾注してもな お厳しい現実あることを指摘しておかなければならない.
戦後わが国の新産業都市政策や列島改造など国の開発政策とその余波を受 け多くの地方都市は苦しんでいる.戦後のわが国が,たどってきた高度成長 下の都市開発モデルは,今や通用しない.外来型の開発政策に積極的に取り 組んできた東北産業中核都市の八戸市の姿である.外来型の開発政策ではな く,内発的な独自の発想による都市施策(
=まちづくり
)が求められている.3 独自戦略で成果を上げる地方都市―事例研究② 3.1 長岡市「役所のまちなか分散配置で中心市街地を活性化」
中心市街地の衰退18)は,都心の一等地で起きている.新潟県第2の都市,
米百俵で知られる長岡市,人口28万人,2000年代から進められた周辺市町村 の編入合併により,市域が拡大.商圏人口は約65万人を有している.国から 特例市に指定されている.
長岡市は戊辰戦争と第二次世界大戦(
長岡空襲
)の二度にわたって市街は壊 滅的被害を受け,不撓不屈の精神により復興を遂げた歴史がある.2012年4 月にオープンしたアオーレ長岡は ,消失した城跡,二の丸跡に建てられてい た厚生会館(旧公会堂の後に建てられた
)の後継施設として登場した.1.5キロ の都心周辺にあった市庁舎を移転に際し,中心部に高層ビルを建設移転では なく,まちなかにモザイク状に点在させる方法を採用した.その中心施設が18) 中心市街地衰退は,県内の主な都市,新潟市中央区や三条市,上越市高田地区など,同様長岡市 でも起こっている.駅大手口周辺の中心地で,2010年(平成22年)4月25日に中越地方唯一の百 貨店だった「大和長岡店」が閉店,丸大百貨店の撤退と,かつて地区の核店舗としての役割を担っ ていた大型店が撤退している.
86 file 2 創造文化フォーラム
アオーレ長岡であり,市役所を丸ごと移転させるのではなく,市役所機能を 分析・編集して,市民利用関係の部署をアオーレ長岡に張り付けているので ある.市の復活の象徴が長岡花火であることから花火をモチーフとしたデザ インがアオーレ長岡に使われ,都市の精神を示すシンボル的施設となってい る.市民の目にさらされるスケルトンの市長室と議長室,そして議場には,
地元材を使った木の花火が建物の内装を彩っているのである.建築デザイン は隈研吾,意匠デザインには森本千絵が起用されている(写真4,5).
市役所の担当は「市民協働推進室」で,市民協働で運営にあたる.長岡市の 市民協働は,市内の空きビル対策で市民センター(
旧大丸百貨店
)やカーネー ションプラザ(旧大和百貨店
)などに転用するプロジェクト経て,NPO や商 工会との間で,十二分に実践を踏んだ結果の市民協働である.同様の屋根付 き広場として富山市のグランドプラザ19)があるが,市街地活性化策という目 的は同じでも全く異なるコンセプトで整備されている.多くの市役所移転は,高層ビル化して機能集約を図るのが常道だが,長岡 市はそうした選択ではなく,都心に分散配置している.主任の笠原典明氏の 説明では,「民間施設に間借りしている」という言い方であった.そして何よ
19) 富山のグランドプラザは,平成19年度完成,東西21m ×南北65m 高さ約19.2m,総事業費15億 2,000万円.近隣百貨店と共同して,全天候型野外広場の「グランドプラザ」が整備された.運営 面では,まちづくり株式会社が運営にあたっているが,実態は,市のイニシアティブが効いてい る運営体制である.市の副市長が社長を務め,市 OB の現商工会議所副会頭が副社長で,北陸銀行,
電力,インテック,薬屋,市の出向職員,事務所体制は12名で常駐しているのは4名であった.経 営傘下には,賑わい交流館(フォルツァ総曲輪),越中食彩(賑わい横丁),地場もん屋総本店及び コミュニティ施設(街なかサロン「樹の子」),まちづくり研究室などがある.稼働率は日曜日が 70%,全体で40%.
写真4 アオーレ長岡のサイン 写真5 アオーレ長岡(中土間)
写真は小口側に
87 文化まちデザイン論
りも総合窓口制という,行政サービスの向上と窓口一本化=ワンストップ サービスを取り入れ実行している.間違って入った来客にも,職員があたか もホテルのコンシェルジュのような愛想のよさで要件を尋ねてくる.市民の 必要としている用件を,どの行政機関の仕事かを瞬時に選り分け必要な部署 につなぐ,あるいは関係部署を呼び出す,文字通り「行政のコンシェルジュ」
である.市民が足を運ぶのではなく,市の部署が出向いてくるという.この モットーと姿勢には驚かされる.《まちなか市役所》を実現するために,市役 所業務を900メニューに分類するところから始めたという.行政改革の手法 に棚卸など実施されているが,市役所機能の再編集と分散配置への具体的目 標があったことで,より現実的な見直しが行われた結果に違いない.もう一 つのユニークな着眼点がある.2,000人の職員がまちなかに来るという前提 で,普通の発想では職員用駐車場の確保,食事では,職員食堂の整備など,厚 生福利を優先事項とする.しかし,長岡市は駐車場103台と市民利用として も最低限で,専用食堂は設けられず,代わりに障害者施設で共同運営するカ フェ「りらん」が設けられている.これらは公共交通の利用を高めるためで あり,食事に関しても市職員の昼食,車通勤から解放されることによる夜の 飲食を誘導し,都心部の飲食業への振興に寄与するインセンティブ効果と考 えられているのである.
アオーレ長岡は,衰退する中心市街地を活性化する先導役としてだけでは なく,行政改革も内包しながら,都心の機能強化・再生を図る一大プロジェ クト,社会実験の都市装置と見ることができる.市長森民夫のドラステック な都市政策が見え隠れするのだが,見方を変えればここまでやらなければな らない程,中心市街地の空洞化は深刻であることを示しているのである.
3.2 白河市「歴史・伝統・文化が息づく〈市民共楽〉の城下町」
白河市は,人口6万6,000人の城下町である20).その歴史は古く,陸奥国府
20) 白河市の市勢:総人口 - 65,707人(2005年),世帯数 - 22,320世帯(2005年),年少(15歳未満)人 口率 - 15.7%(2005年),高齢(65歳以上)人口率 - 20.9%(2005年),昼間人口 - 66,803人(2000年),
労働力人口 - 34,983人(2000年),第1次産業就業者数 - 2,740人(2000年),第2次産業就業者数 - 13,648人(2000年),第3次産業就業者数 - 17,146人(2000年),農業産出額 - 9,540百万円(2004年),
製造品出荷額等 - 281,310百万円(2004年),商業年間商品販売額 - 115,130百万円(2003年),出典:
総務省統計局『統計で見る市区町村のすがた2007』2007年.
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が置かれた多賀城(
宮城県多賀城市
)と「白河 の関」(白河市旗宿)が設けられ蝦夷を押える 最終防衛ラインとなっていた.「白河の関」は 歌枕としても有名で能因法師,松尾芭蕉,藤 原家隆,源義経などの伝承が残っている.白河市のまちづくりを考えるときキーワー ドとなる言葉に藩主松平定信の「士民共楽」
(
写真6
)がある. 身分をこえて皆が楽しめる 日本初の開放型公園といわれる南湖の築園を 始め数々政策で藩を立て直した名君である.筆者が初めて白河を訪れ最初に目にした光 景が,交番の移転工事21)であった.「新しい 警察署を取り壊し,隣に別棟で建てている」という説明を聞いて「それは,市 の予算ですか」と問えば「そうだ.」という.前代未聞の移転計画のように思 えた.理由は,「小峰城が見えないから」市のまちづくり推進課の深町氏が こともなげにいう.小峰城跡の景観を護り,見えるようにするため公金が使 われる,これはすごい街だと思った.この町の歴史景観に対する思い入れの 深さを感じさせる出来事だった.
多くのまちづくりで「何をそのまちのアイデンティティにしていくのか」
模索している中で白河市はしっかりと「歴史・文化」を見据え,施策を実施し ている.具体的には様々な歴史的景観を持つ建造物の保存に力を入れている.
寛永4年(
1627年
)に丹羽長重が10万石で入封,小峰城(白河市郭内
)を改修し,城下町を建設するなど現在の白河市の祖となる町づくりを展開したといわれ ている.譜代大名が短期間に次々と替わるなどしたため,一般的な藩風とい うものが育ちにくい環境にあったとされるが,市民や行政の歴史意識はけっ して薄いとは言えない.市民意識を知る〈白河市民に対する中心市街地に関 するアンケート調査(
H19
)〉を見ると,「市街地におけるまちづくりの方向性」では,①「住みたくなるまち」:30.2%に次いで,②「歴史・伝統・文化的資源 の保存・活用」:23.5%となっているのである.先の事例や歴史的風致維持向
21) 街並み景観保全事業「駅前交番修景整備事業」.
写真6 松平定信の建てた「共楽 亭」の和歌
写真は小口側に
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上計画22)は,まちづくりでの歴史を 大切する市民ニーズとコンセンサス があるからこそ生まれたものと考え る(写真7).
さらに震災復興に際して,都市景 観の考え方に EU のそれとも共通す る考えだが,被災した古い蔵や家屋 を解体撤去するのではなく,様々な 国の補助メニューを活用しながら,
古いものを保全・活用していこうとしている.また街中を流れる河川の改修 と道路には贅沢な石材がふんだんに使われ,息の長いまちづくりの姿勢が垣 間見られ嬉しい驚きであった.
白河市の中心市街地は奥州街道が市域をカギ形に走り,旧城下町の町割り の風情を残した商店街が存在する.しかし,1965年頃から市街地は郊外に向 かって外延化が進み,中心市街地の人口減少と高齢化が進んでいる.また歩 行者通行量は減り続け,空き店舗増など空洞化は解消していない.その要因 は,1982年新幹線開通,80年代後半から始まるニュータウン開発とモータリ ゼーション,核家族化,90年代から今世紀にかけて大型店舗の進出23)などで ある.
したがって中心市街地活性化策24)の目標は,①居住人口と②事業所数,そ れに③通行量である.③は目標達成し,①と②に関しては当初より困難とみ られたが,数値目標を下回る(
計画でマイナスの数値でつくることができない
).55年~ 58年との比較で居住人口の激減1.5万人→2,999人(
5分の1に
)となり,22) 歴史的風致維持向上計画:平成20年度に施行された「地域における歴史的風致の維持及び向上 に関する法律」(通称,歴史まちづくり法)に基づき,市町村が「歴史的風致維持向上計画」を策定 する.建造物と伝統を反映した活動が一体となって形成してきた良好な市街地環境が求められ,
建物だけでは認められない計画.金沢など現在38市町.白河市は23年2月23日に認定された.
東北では弘前市 H22年2月4日に次いで2番目,その後宮城県多賀城市が23年12月6日に認めら れている.
23) 1998年メガステージ白河,1999年ジャスコ白河西郷店,2001年ベイシア白河モールの進出.
24) 中心市街地活性化の主な施策:都市再生整備計画 約22.8ha,白河市中心市街地地区 約 261.3ha,重点区域面積 A 761ha,中心市街地活性化計画 約106ha,暮らしにぎわい再生事業・
中心市街地文化ゾーン地区 約4.6ha,歴史的風致維持向上計画,中心市街地活性化計画 約106
㌶ ha 事業計画期間 H21年3月~ H26年3月,21年3月27日認定福島県第1号,52事業.
写真7 JR 白河駅舎の外観 写真は小口側に
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空き店舗対策25)は苦戦を強いられている.理由は,商売をやめ不動産業化し ていることや店舗兼住居が多いとのことである.
市は,国土交通省,経済産業省,文部科学省などの国の施策メニューを重 層的に活用して中心市街地活性化を進めている.事例としては,ヨークタウ ン(
商業施設02年閉店
)をギャラリーや催事場へ転用し「マイタウン白河」と して活用し,2階テナント学習と会議室,3階文化団体・発表の場,4階にはま ちづくり株式会社,障害者通所施設も入居している.このほか駅前多目的複 合施設整備として駅舎活用したカフェの開設,歴史的モール拠点整備で蔵を 活用して,中町・楽蔵(2011年6月26日開
始)といった雰囲気のある文化・商業・飲食の施設が生まれている.また空き店舗を使った宅配弁当サービス,農家 レストラン(
緊急雇用対策費を活用
),さらにまちの住民にとって重要な,「提 灯祭り(23町
)」「山車会館」などへの事業費補助なども行われている.白河市の中心市街地の活性化策で,根幹をなすのは,歴史まちづくり法の 活用と国の認定を受けての歴史的風致維持向上の施策であろう.この法は文 部科学省が主管する認定制度で歴史や文化に対する目線が備わっている.白 河市は,別名「鹿嶋神社祭礼渡御祭」といわれる「提灯祭り」をはじめ,わが国 で最も祝賀的な意匠のダルマを売る「だるま祭り」,街道集落に伝わる「案珍 念仏踊」や「権現梵天祭」,天道念仏の中心地として「関部のさんじもさ踊」「牛 頭天王祭」など民俗芸能の宝庫であり,室町時代の結城政朝が催した〈一日一 万句の連歌興業〉など古くから文化的な活動の盛んな地として知られてきた.
こうした歴史・文化資源を大切にしながら,ハードとソフト事業を併せて行っ てきた.今後は,新しい文化交流館(
2016年開館予定
)を軸に〈市民共楽〉の理 念を基に次の段階に入ろうとしているのである.3.3 山鹿市「明治の芝居小屋と “さくら湯” の復元を起点にまちおこし」
山鹿市(
やまがし
)は九州の中央,熊本県北部に位置し,人口は約5.8万人(
2005年
)で温泉と灯籠で知られる田園観光都市である.豊前街道が中心部を 南北に貫き,江戸時代には参勤交代の温泉宿場町として栄えた.市内には6 カ所に温泉が沸き出で,「山鹿温泉六湯郷」として県内外から多くの観光客が25) 対策補助,3年間で(初年度12分の8,2年目12分の6,3年目12分の4,ただし新規は初年度12 分の10補助)これだけ手厚い補助政策にもかかわらず空き店舗問題は解消していない.
91 文化まちデザイン論
訪れている.しかし人口減少の波は止まらず,5年毎に2,000人余りが減少し ている.
1975年には九州初となる再開発ビル「温泉プラザ山鹿(
プラザファイブ
)」が 整備されたが,今般再整備することとなった.芝居小屋,「八千代座」の平成 の大改修は,時代を遡る景観の整備に先鞭をつけた.その後「さくら湯」の復 元や,小しゅうじ路の整備に着手し,時代を感じさせるまちづくりに活路を求めてい る.まちづくりの方向は,時代を遡ることで見出した街の固有価値を再評価 したところが成果である.(1) 温泉プラザ山鹿―さくら湯へ
「温泉プラザ山鹿」は開発が早く,市街地再開発事業で九州第1号であった.
市街地再開発事業と商店街近代化事業,住宅地区改良事業を組み合わせ市営 住宅,商業施設,市民会館,温泉施設,温泉プールの複合ビルという全国でも 例を見ない施設であったが,1991年をピークに空洞化に向かい最盛期(
1991 年
)約77億円を売り上げた事業も,郊外店の進出,景気の後退,建物の老朽 化などが重なりビルの約半分が空き床となり,売り上げも2004年には20億 円にまで落ち込み,延べ床3万㎡のビルの空洞化がおこった.こうした事態 に管理運営にあたる「温泉プラザ山鹿管理組合法人」は,中心商店街の必要機 能を見直し減築の道を選ぶ.併せて,商業施設の集約と駐車場増設,「さく ら湯」(歴史的建造物で明治時代の木造公衆浴場
)の復元を決めたのである.都市型の温浴施設が数多くある中で,一見時代錯誤とも見える公衆浴場を 10億円もかけて整備しようとする意志はどこから来るのか.それは山鹿の 明治以来の歴史26)にある.約370年前の寛永17年(
1640年
)に熊本城主初代藩 主・細川忠利公が山鹿の温泉を大変気に入り,御茶屋27)を新築した.この御 茶屋が「さくら湯」の歴史の始まりである.明治に入り大改築を経て市民温 泉として栄えた.市民の大切なコミュニケーションの場であり,山鹿の旦那 衆(企業家達
)には一日の仕事前の清めの場,子ども達には勉強・遊びの場と して,市民から愛されていた建物・空間となった.しかし再開発で破風のみ が残され江戸の雰囲気はまったくなくなってしまった.新改築では,残され26) 山鹿温泉大改築,山鹿鉄道の創立,八千代座の建築の3つを総称して山鹿の「明治の三大改革」
とされる(山鹿市史 : 山鹿編年史 : 1954 ~ 2004年).
27) 御茶屋とは,江戸時代の藩主や幕府の役人が参勤交代などに際して休息・宿泊した施設.
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た平面図に基づき木造伝統工法により工事が行われ,浴室や唐破風のある玄 関,十字にクロスした屋根の形など,唐破風の玄関など昔の面影そのままに 2012年11月《平成の浮世風呂》として蘇った.「さくら湯」の復元温泉の改築は,
まちの歴史を背負ったアイデンティティの復元工事であった(写真8).
(2) 明治の芝居小屋「八千代座」
八千代座は,秋田県小坂町の「康楽館」28)などと並び,当時の山鹿の人々が 組合を組織し,資金を出し合って明治43年に建設した芝居小屋である.間口 約6間,奥行き約6間の舞台に廻り舞台,迫りを持ち,花道には《すっぽん》が ある.客席は収容人員700名,平土間の桝席とそれを取り囲む1,2階の桟敷席,
全て畳敷きの床座である.江戸時代の芝居小屋の形式を色濃く残すと共に,
きらびやかな天井広告群,客席中央上部に設置されたシャンデリア等,建設 され最盛期を過ごした明治大正の「ハイカラ」な雰囲気をも伝える芝居小屋 である.その後映画館へと改造され,映画の衰退と共に八千代座も休止状態 となる.平成になり「八千代座」の大改修が行われ中心市街地活性化の一里 塚となったのである(
写真9
).山鹿市を取り巻く周辺環境は依然厳しいものがあるが,明治以来のまちづ くりの伝統に裏打ちされたまちの力強い施策が実施されてきている.マチナ カを散策していくと,街道から一歩入った小しゅうじ路があり,古い商家や倉庫がギャ
28) 康楽館は明治43年(1910)に小坂鉱山の厚生施設として建てられた.平成14年5月23日に「国 指定重要文化財」に指定され,木造芝居小屋として日本最古を自認している.このほか,金丸座,
内子座など新旧合わせて約30館近い芝居小屋が現存している.そのネットワーク組織は,「全国 芝居小屋連絡協議会」として全国の11座と芝居小屋を支える団体・個人が集まりを組織している.
写真9 「八千代座」
写真は小口側に
写真8 復元された「さくら湯」
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ラリーに転用され「豊前街道さんぽ美術展」などが行われている.また,1,000 人が踊る優雅で幻想的な「山鹿灯籠まつり」が行われる.豊前街道沿いのま ちなみ修景等と “ 米 ” をキーワードに山鹿の歴史を辿る「米米惣門ツアー」な どのイベントを仕掛ける.結果として周辺商店街への回遊性が増し,歩いて 楽しい街に変貌するのである.
「時代を遡る景観と環境づくり」が山鹿市の選択した「文化まちデザイン」
である.
3.4 長浜市「黒壁銀行の転用とガラス工芸で近隣観光のまちづくり」
長浜市は,人口約8万人の城下町,近隣に彦根など格上の城下町があり,郊 外型大型店舗の進出などにより,400年の歴史を持つ中心商店街は長年に亘 る沈黙と低迷を続けていた.
長浜のまちおこし(
=市街地活性化
)の始まりは,1988年4月,第3セクター の株式会社を設立からであった.特色ある街道と黒壁の建物を活用して「黒 壁ガラス」29)により1980年代の観光客が9万人程度に対して,2008年には20 倍の年間約200万人となる.こうしたことから長浜のまちづくりの成功事例 と紹介されて久しい(写真10
).そのまちづくりの過程で,出発は,明治時代に第百三十銀行長浜支店とし て建築され,その外壁が黒漆喰の様相から『黒壁銀行』の愛称で親しまれてい た建物を壊さずに保全・活用し,中心市街地の活性化の拠点としたことにあ る.長浜市の支援を受け民間企業より8名の有志が集い,出資総額1億3千万 円でスタート.筆者が思うに当時,多くが個人作家活動の域もしくは土産物 の域を出ていなかった『ガラス』に着目したのは慧眼で,ガラスは,歴史性,
文化芸術性,国際性を内在する工芸でもあり,黒壁は本物のガラス文化の追 及と事業化による国内初のガラスの本場の創成を目指すこととなった.ガラ
29) 長浜の黒壁ガラスの歴史は,1990年 国立第百三十銀行長浜支店が市内北国商店街沿いに完成.
黒漆喰の壁であったことから「黒壁銀行」という愛称で市民より親しまれる.1987年10月 同建物 がカトリック教会の移転により同地売却契約され,地元有志が保存・活用を目指して第三セクター 設立を計画.1988年4月 第三セクター株式会社黒壁設立.資本金1億3千万円(長浜市4千万円/
民間8社9千万円),ガラス事業展開を決意する.1989年7月 黒壁スクエア オープン,黒壁1號館 黒壁ガラス館(直営),2號館スタジオクロカベ(直営),3號館ビストロミュルノワール開店.
出所:www.kurokabe.co.jp
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スショップ,工房,ギャラリー,ガ ラス美術館,レストランなど10館を 直営し,グループ館20館と共に,『ガ ラス工芸とまちづくりを融合させた 総合文化サービス業』を創生させた.
黒壁ガラス,まちづくり,経営ノ ウハウ等の実績は,全国の疲弊した 中心商店街再生の希望のモデル都市 となったのである.成功の要因は一 つに筆者は,町の①市民性(
歴史性と町衆の進取の精神
),②リーダー(ノウハ ウを持った指導者
)の存在,③創造的環境(まちおこしのきっかけと創造的交流
) が,備わっていたからではないかと考える.①では,秀吉の嫡男の誕生の際,町衆が賜った砂金を使わずに山車の建造と祭り投入した.こうした逸話にみ られる市民性が現代に生きている.②においては,笹原司郎やその後を引き 継ぐ出島二郎というマーケティング・プランナーなどの優れたまちづくりの 指導者の存在であろう.
しかし,現在では,年々観光客・売上額ともに低下傾向にあり,ガラス美術 館も閉鎖されかつての勢いはない.「まちづくり役場」という名称のユニーク なNPO法人を訪ね山崎弘子理事長のお話を伺うと,「これからもっと個店 の魅力づくりが大切だ.」と述べ黒壁ガラスの成果と限界を合わせて語ってく れたのが印象的であった.全国的にも小樽や草津など各地で硝子は地場産品 として開発販売が開始されており,黒壁ガラスの特色は何なのか問われ始め ている.
長浜市はガラス工芸とまちづくりを融合させた先駆的モデルであるが,今 後総合文化サービス業の新たな展開を模索し続けている.
3.5 豊後高田市「レトロスペクティブな “昭和” に焦点を当てたまち づくり」
大分県豊後高田市は,大分市とは60キロ,北九州市とは90キロの距離にあ る人口約2万人の小さな町である.江戸時代から明治,大正,昭和の30年代 写真10 長浜市旧黒壁銀行
写真は小口側に