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─ 大連における中国陶磁の研究

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(1)

1.

はじめに

 本稿では、大正期に大連に移住して倣古的な陶芸作品を制作していた小森忍(1889-1962)による中 国陶磁研究への取り組み、および、小森の支援団体として組織された匋とうかいの活動の追跡を通じて、

大正期の大連における中国陶磁をめぐる研究動向を探りたい。

 日中戦争まっただ中の

1941

(昭和16)年

3

月、銃弾が飛び交う中国の河北省曲陽県潤磁村付近で小 山冨士夫(1900-1975)が白磁の陶片を採取し、北宋時代に優れた白磁を産出した定窯の窯址をつきと めたことは戦時下の日本人陶磁学者による重要な業績として今でも伝説のように語りつがれているが、

大正から昭和初期にかけて、小山以外にも何人もの日本人の陶磁学者や愛好家が中国に渡って古窯址 の探索を行うとともに陶片の採集に情熱を注いでいたことは、現在ではもはや忘れ去られようとしてい るかのように思われる。近年では佐藤サアラによって、昭和初期に杭州領事を務めていた米ないやまつね

(1888-1968)が採取した南宋官窯の青磁陶片が詳細に検討されているが1)、戦前期、日本人によって中 国の古窯址から採取された数々の陶片は、

20

世紀前半の中

国における古窯址探索の成果をいまに伝える遺産であり、断 片的ながらも当時の日本人による中国陶磁研究の実態を示 す貴重な資料といえる。戦前期、「帝国」日本の東アジア地域 での勢力拡大にともなって多数の日本人が海を越えて「外地」

へと移住、それに並行して陶磁研究の拠点もまた海外へと広 がりを見せることになるのだが、中国大連においていちはやく 中国陶磁の研究に取り組んだのが小森忍(図1)だった。

 小森忍が移住した大連は「外地」における中国陶磁研究の 重要な拠点のひとつだった。例えば、

1936

(昭和11)年に発行 された『陶器講座』(第10巻、雄山閣)に収録されている小山冨 士夫による中国陶磁に関する文献目録「邦文支那古陶磁書 目」を通覧すると、奥田誠一(1883-1955)、尾崎洵のぶもり(1880-

1966)、原文次郎(1870-1931)といった日本在住の陶磁学者

による著作だけでなく、上田恭輔(1871-1951)、平野耕輔

(1871-1947)、中尾万三(1882-1936)、小森忍、八木奨三郎、

小村俊夫など、大正から昭和初期にかけて大連に住んでいた人物による著作も多数挙げられており、大 連が中国陶磁研究の「本場」となっていたことをうかがわせる2)。また、

1923

(大正12)年に志願して入隊 した近衛歩兵第三連隊で知り合った岡部長世(国立近代美術館の初代館長岡部長景の弟)の影響で古陶 磁に興味を持つようになった小山冨士夫がはじめて読んだ陶磁史の本が、大連の匋雅会から出版され た中尾万三の『支那陶磁源流図考』(匋雅集第四、匋雅会、

1922年)だったと回想していることからも、大

正期の日本の陶磁学者の間で大連の研究動向が注目されていたことがうかがえる3)

 とはいえ、もはや現在では、

1945

(昭和20)年以前の朝鮮や満洲などのいわゆる「外地」において行わ れた日本人陶磁学者による調査研究についてはほとんど顧みられることもなくなり、先の小山冨士夫の 文献目録に挙げられている大連在住の陶磁学者の業績についてはほぼ忘れ去られようとしているといえ るだろう。そうしたなかで小森忍だけは陶芸家として活躍したということもあり、今なおその存在が知ら れる例外的な人物といえる。小森忍については、京都市立陶磁器試験場で同僚だった浜田庄司(1894-

1978)が、

「小森忍さんという人は、どんな製品でも見たとたんに、『この釉薬の化学式はこうだろう。調

合の割合はこれこれだろう』と言った。そして実際に分析してみると、それが極めて近似性の高い数字 なのであった」4)と回想しているように、釉薬調合に精通した窯業技術者としての知見を生かして制作 に取り組んだ陶芸家というイメージが確立されているといえるだろう。だが、大連時代の小森忍につい ていえば、窯業技術者としてだけでなく、古陶磁や陶片の収集にも取り組み、中国陶磁に関する研究業 績を残した優れた陶磁学者でもあったことを記憶にとどめておきたい。

 小森忍が大連に住んでいたのは、南満州鉄道株式会社(満鉄)の中央試験所窯業科の技師となった

1917

(大正

6)年から日本に引き揚げる 1927

(昭和2)年までの

11

年間である。陶磁史研究史的にこの時 代を振り返ってみるならば、東京帝国大学の大河内正敏(1878-1952)や奥田誠一らを中心とする陶磁 器研究会(1914年)や彩壺会(1916年)の活動を通じて古陶磁研究が盛り上がりを見せた時期であり、

さらに奥田が主宰する東洋陶磁研究所(1924年)から研究雑誌『陶磁』が創刊(1927年11月)されるな ど、古陶磁研究がひとつの学問分野として確立されはじめた時期にあたる5)。同時期の大連においては、

1921

(大正

10)年に発足した匋雅会が中国陶磁に関する叢書

「匋雅集」(1921年から25年までに6巻を 刊行)の出版を行うなど古陶磁研究の拠点としての役割を担っていた。匋雅会が発足したのは、直接的 には、満鉄の中央試験所から独立して小森陶磁器研究所(匋雅堂窯)を設立(1921年)した小森忍の制 作活動を支援するためだったから、大正期において大連が中国陶磁研究の「本場」となった要因のひと つには小森の存在があったのであり、大連における中国陶磁研究の動向を探るうえではその足跡を追跡 することが基本的な課題ということになるだろう。

 小森忍の大連時代については、その生前に小村俊夫によって書かれた「匋雅堂窯の研究」(『満蒙』第

11巻第 10号、 11号、 12号、 1930年10

月、

11月、 12月)に詳しい。その後は、松下亘が評伝

『小森忍の生 涯』(叢書江別に生きる3、江別市、

1991年)の

「第二章異郷での活躍」で詳しく記しているほか、「中国陶 磁名品展:小森忍が挑んだ世界」(江別市セラミックアートセンター、

1995年)図録に掲載された園部真幸

の「小森忍と中国古陶磁研究」や、「小森忍:日本陶芸の幕開け」展図録(小森忍展実行委員会、

2009

年)

に掲載された兼平一志の「小森忍の軌跡」や矢島律子の「小森忍と中国陶磁」や、「越境する日本人:工

大連における中国陶磁の研究

─大正期の小森忍と匋雅会のネットワーク

木田拓也

1 満洲服を着用した小森忍、1917-28年頃、江 別市セラミックアートセンター蔵

(2)

いる。その目録の第二分冊(II収集品図録)に掲載された作品図版を眺めてみると、カラー図版で掲載さ れている《粉彩人物群像文皿》(景徳鎮窯、

19世紀後半 -20世紀初、 No. 813)や《紫砂壺》

(宜興窯、

19

世紀 末

-20世紀前半、幅 16cm、 No. 773)に代表されるように、そのコレクションの大部分を碗皿や急須などの

飲食器類が占めており、陶磁器の輸出振興を使命とする陶磁器試験場においては、美術品として価値 の高いものを集めるというよりも、むしろ、日本の陶磁器の輸出振興にあたり競合する中国の陶磁製品 の様式、技法、形態、意匠、用途などを示すものをサンプルとして幅広く集めることに力点が置かれてい たことをうかがわせる。もっともこの目録にはそれぞれの作品の受入年が明記されていないため、小森忍 が京都時代に実際に接触した陶磁器がどのようなものだったのか特定することはできないのだが、藤江

永孝が

1898

(明治

31)年に中国視察を行った際には景徳鎮の磁器や長江沿岸の常州府の朱泥や白泥

などを参考品として購入したとされる12)

 その後、藤江永孝は、小森忍が陶磁器試験場に在籍していた時期とも重なるが、

1914

(大正

3)年 11

月には旭硝子と大倉組の委嘱を受けて中国産耐火粘土やガラス製造に関する調査のために朝鮮と満洲 を視察している13)

1914

(大正

3)年とは第一次世界大戦が勃発した年であり、日英同盟に基づいて日

本は同年

8

23

日にドイツに宣戦布告、

11

7

日にはドイツの租借地である山東省の青島と膠こうしゅう州湾わんの 要塞を攻略しており、藤江永孝が満洲を視察したのはその直後だった。藤江永孝の満洲視察に同行し て現地を案内した満鉄の中央試験所の小山恭太郎によれば、満洲での行程の概略は次のようなもの だった14)

11

22

日に安東駅で藤江は小山の出迎えを受け、

23

日に国境の鴨おうりょく緑江こうを渡り、

24

日には 本渓湖にある日中合弁の大倉炭坑(本渓湖炭坑)を視察、

25

日には奉天(瀋陽)郊外にある清朝の第二代 皇帝ホンタイジの北陵(昭陵)を見学した後、奉天の宮殿を参観しその宝物庫の陶磁器を見学した。そ の後、

26

日に長春、

27

日に吉林省工芸廠を視察、

28

日に再び長春に戻る。

29

日に撫順炭坑を見学、

30

日には営口で中国陶磁器商を営む有田出身の庄村伊之助の案内で陶磁器問屋を回り「南支那」から 移入された参考品を多数購入、

30

日に大連に到着、その後、朝鮮半島を経由して日本に帰国している。

 藤江永孝が営口において、参考品として多数購入したという「南支那」の陶磁器がどのようなものだっ たか気になるところだが、

1917

(大正

6)年に満鉄の中央試験場の窯業科長となった平野耕輔によれば、

元来、満洲では陶磁器生産向きの良質な原料が出ないため、満洲産の窯業製品といえば甕や瓦などの 粗陶品で、日常の飲食器については江西省の景徳鎮や山東省の博山などから移入されたものが市中で 販売されていたというから15)、藤江永孝が営口で購入した陶磁器というのも景徳鎮や博山から移入さ れた飲食器ではなかったかと思われる。

 また、藤江永孝がこの満洲視察の行程中、奉天の宮殿の宝物庫で陶磁器を見学していることにも注 目しておきたい。藤江が訪ねた奉天の宮殿とは北京に遷都するまで清朝の初代皇帝ヌルハチと第二代 皇帝ホンタイジの治世に宮廷として使われた瀋陽宮殿(瀋陽故宮)のことで、かつてそこには清朝王室所 蔵のおびただしい量の陶磁器が保管されていた。のちに満鉄で総裁秘書を務めるなどその中枢にあった 上田恭輔は、日露戦争(1904-1905)の直後、元帥陸軍大将の大山巌(1842-1916)とともに瀋陽宮殿の 二つの宝物庫、祥龍閣と飛龍閣の開封に立ち会っている16)。瀋陽宮殿の庭には瓦礫が散乱し草が伸び 放題で、建物の柱は傾いているという荒廃した状態だったが、宮殿を管理する老大官の案内で宝物庫 芸家が夢みたアジア

1910s-1945

」展図録(東京国立近代美術館、

2012年)に掲載された服部文孝の

「小

森忍の中国陶磁研究」などでも陶磁学者としての小森の足跡が紹介されている。本稿では、こうした先 行研究を踏まえつつ、匋雅会の刊行物や当時の雑誌記事、さらには江別市セラミックアートセンターに 保管されている小森忍の旧蔵資料などを手がかりとして、大連時代の小森忍とその周辺における中国 陶磁の研究動向のあらましを明らかにすることを課題としたい。

2.

中国陶磁との接点─京都市立陶磁器試験場の小森忍

 大阪高等工業学校窯業科を卒業した小森忍は、

1911

(明治44)年

4

月に京都市立陶磁器試験場に技 手として就職した。小森忍が中国陶磁の研究に取り組むことになったのは、松下亘によれば場長の藤江 永孝(1865-1915)の命に従ったもので6)、小村俊夫はその時期を

1914

(大正

3)年以後としているが

7)、 ここでは大連に移住する前の京都時代の小森忍と中国陶磁との接点についてあらためて簡単に整理し ておきたい。

 京都市立陶磁器試験場(設立当初は京都市立陶磁器試験所という名称だったが1903年に京都市立陶磁 器試験場へと改称)は化学的な研究と試作を通じて外国製品に対抗しうる陶磁器の生産を後押しし輸 出の増進をはかることを目的として

1896

(明治29)年に設立された窯業技術の研究指導機関だった8)。 その後、陶磁器試験場は、

1919

(大正

8)年に京都市から農商務省に移管されて国立陶磁器試験所とな

り、

1920

(大正

9)年には京都の伏見区深草正覚町に移転することになるのだが、小森忍が陶磁器試験

場に在籍していた

1911

(明治

44)年から 1917

(大正6)年の間は京都の五条坂にあった。

 初代場長の藤江永孝は東京職工学校(現在の東京工業大学)の陶器玻璃工科においてドイツ出身の化 学者ゴットフリート・ワグネル(Gottfried Wagner: 1831-1892)のもとで学んだ窯業技術者だった。小森忍 が陶磁器試験場に入る

10

年以上前のことになるが、

1898

(明治31)年、藤江永孝は農商務省の委嘱を 受け、

68

日間の日程で中国の窯業の実況調査のための視察を行っている9)

10

15

日に日本を出発し た藤江永孝は、上海、漢口を経て、景徳鎮の陶磁製品の集積地である長江沿岸の九江にて商況を調査 した後、景徳鎮で製陶工場を視察して

12

21

日に帰国した。藤江永孝のこの中国視察の成果として 染付の原料である呉須の研究が陶磁器試験場で飛躍的に進むことになるのだが10)、小森忍と中国陶磁 との接触という点で興味深いのは、藤江がこの視察時に中国で参考品として購入した陶磁器であろう。

 陶磁器試験場に収蔵されていた陶磁器コレクションを継承する独立行政法人産業技術総合研究所中 部センターには、現在、

2,373

点(試作品1,421点、参考収集品952点)の陶磁器作品が残されており、そ の内中国陶磁として分類されているものが

112

点ある11)。『収蔵品(陶磁器)総目録』(独立行政法人産業 技術総合研究所中部センター、

2009年)によればその産地は景徳鎮窯、宜興窯、漳州窯、徳化窯、磁州窯、

龍泉窯、石湾窯などさまざまだが、景徳鎮窯のものがそのうちの半数近くを占めている。また制作年代 に関しては、刑窯の《白磁水注》(8世紀、唐時代、

No. 877)や磁州窯の《白地鉄絵渦巻き文四耳壺》

(14 世紀、元時代、

No. 796)のように 18

世紀以前の古陶磁がないわけではないが、大部分が同時代のもの、

すなわち、「

19

世紀末

-20

世紀初(清時代末

-中華民国時代初)

」「

20

世紀(中華民国時代)」のものとなって

(3)

し研究する「鑑賞陶器」が新たな趣味として確立 されつつあった。また、小森忍が陶磁器試験場 に就職した

1911

(明治44)年とは辛亥革命に よって清朝が崩壊した年だったが、辛亥革命に 前後して、日本の古美術商は政情不安定な清朝 末期の中国に商機を見出して渡航するようにな り、日本にも中国陶磁が流入するようになってい た。

1906

(明治39)年頃には中村作次郎や神通 由太郎が、続いて明治の末から大正の初めにか けては渡辺松次郎、藤田弥助、福田元次郎らが 中国に渡っている23)。その多くは茶道具として

日本で受け入れられやすいものを探し求めて中国に渡った茶道具商だったが、繭山松太郎(1882-1935)

は旧来の茶道具商とは一線を画し、陶磁器そのものを純粋に鑑賞の対象として楽しむ新しいタイプの コレクター好みの中国陶磁をいち早く取り扱いはじめ、

1916

(大正

5)年には銀座に店を構えるまでに

なる。

 のちに東京国立博物館に約

1,000

点の陶磁器を寄贈することになる横河民輔(1864-1945)はそうした 新しいタイプのコレクターの一人だったが、横河がはじめて中国陶磁を購入したのは

1914

(大正3)年頃 のことだったと回想している24)。辛亥革命の翌年

1912

(明治45)年には、先述の瀋陽宮殿にあった数百 点の古代青銅器と約

10

万点の陶磁器が全部まとめて売りに出され、成約には至らなかったが、満鉄に も

250

万円で打診があったとされる25)。中華民国が成立した後も、当時の清朝王室には歳費として年間

400

万元が支給されることが保証されていたのだが、その支給は滞りがちで、しかも実際の支給額はそ の保証額を大幅に下回っていたため、清朝王室は慢性的な財政不足に陥っており、その不足分を補う ために歴代皇帝によって蓄積された工芸品の数々を売却していたとされる26)。中国陶磁の収集を始め た頃のことを回想した文章のなかで横河民輔は、清朝崩壊直後の当時、清朝の王侯貴族が所蔵してい た第一級品が日本にも流入していたにもかかわらず、高価だったこともあって日本ではそれらを正当に 評価して購入するコレクターがまだ限られており、そのほとんどが日本を素通りして欧米へと流出して いたことを示唆している27)

 小森忍が陶磁器試験場に在籍していた

1910

年代前半は日本にもたくさんの古陶磁が中国から流入 するようになり、鑑賞陶器としての中国陶磁の収集と研究が本格化する兆しがあらわれた時期でもあっ たから、植田場長時代の比較的自由な雰囲気のなかで小森忍が青磁、牛血紅、窯変、結晶釉などの釉 薬の試験に取り組んだのは、中国陶磁との接触によって誘発されたものだった可能性が考えられなくも ない。とはいえ、当時の陶磁器試験場における釉薬研究とは、中国陶磁との接触の有無に関わりなく、

西欧の製陶技術者の研究動向を追いかけたものだった可能性もある。例えば、牛血紅とは康煕年間に 景徳鎮官窯で生産された深紅色の磁器で、郎廷極(1663-1715)の監督のもとに作られたことから郎窯 とも呼ばれる銅を呈色材として用いた銅紅釉の一種である。濃艶かつ透明感ある発色に特色がある郎 の官封をとくと、飛龍閣の一階には、

5

6

分(およそ1.5~

1.8cm)の厚さに埃が降り積もっている部屋の

中に歴代皇帝が集めた商や周の古代青銅器が数百個陳列してあり、その二階は景徳鎮の官窯で皇帝の ために作られた一瓶数千金、一碗数百金に値する窯業技術の最高峰に位置する陶磁器が、立錐の余地 のないほど、まるで蕎麦屋のどんぶりのように無造作に散らばっている、という状態だった17)。飛龍閣に 収蔵されていた陶磁器の数は、明朝のものが

25

220

点、清朝の康煕年製のものが

134

34,667

件、

雍正年製のものが

332

24,982

件、乾隆年製のものが

331

39,506

件、嘉慶年製の倣古作が

174

1,965

件で、全部で約

10

万点あったというから驚かされる18)。その翌年、上田恭輔は、初代満鉄総裁に

就任(1906年)した後藤新平(1857-1929)に随行して再び瀋陽宮殿を訪れているが、その時には中庭も 整備され、清朝の歴代皇帝ゆかりの宝物がきちんと展示されていたものの陶磁器については未整理の 状態となっていた19)。さらに、

1909

(明治

42)年、上田恭輔が英国陸軍の元帥ホレイショ・ハーバート・

キッチナー(Horatio Herbert Kitchener: 1850-1916)に同行して瀋陽宮殿を訪問した際には宝物庫の陶磁 器の整備がすすんでおり、ガラス戸の中に分類して展示してある康煕、乾隆、雍正各期の優品を見学す ることができたものの、以前にそこで目撃した約

10

万点の陶磁器の所在については分からなくなってい たという20)。その後、辛亥革命によって清朝が崩壊し中華民国が成立(1912年)すると、初代大統領と なった袁世凱(1859-1916)の命によって瀋陽宮殿の宝物は熱河行宮(避暑山荘)の宝物とともに北京に 移送され、

1914

(大正

3)年 10

月から故宮(紫禁城)の文華殿や武英殿で古代青銅器や陶磁器の展示が 行われるようになっていたのだが、同年

11

月に奉天(瀋陽)を訪れた藤江永孝が瀋陽宮殿の宝物庫で中 国陶磁を見学していることからすると、北京の故宮に古物陳列所が開設された後も、宝物の一部につい ては引き続き瀋陽宮殿に展示されていたものとみられ、小森忍が大連に住んでいた時期にも瀋陽宮殿 においては中国陶磁の優品を見学することができた可能性が高い。

 なお、藤江永孝が営口で買い集めた中国の陶磁器を小森忍が参考品として参照した可能性はあるも のの、小森が藤江から満洲視察での見聞について、直接本人から詳しく話を聞く機会はおそらくなかっ たのではないかと思われる。というのも、藤江永孝がこの満洲視察旅行で訪ねた本渓湖の大倉炭坑では 腸チフスが流行しており、不運なことに藤江はそこで感染したものとみられ21)

12

14

日に帰国して間 もなく体調を崩して自宅療養していたが

25

日に京都府立病院に入院、翌

1915

(大正4)年

1

5

日に

51

歳で他界しているからだ。

 藤江永孝の急逝後、陶磁器試験場の第二代場長にはワグネル門下の窯業学者の植田豊ほうきつ(1860-

1948)が就任した。小村俊夫によれば、藤江永孝が工業的な実用陶器の開発に力を注ぎ、陶磁器を使っ

た衛生材料、建築材料、化学用磁器、耐火材料の研究を推進したのに対し、植田豊橘は職員の自由な 研究を推奨したため、植田が場長となってからは小森忍は恵まれた環境のなかで古陶磁の化学的研究 を組織的に進めることができるようになり、

1914

(大正

3)年 7

月採用の河井寛次郎(1890-1966)や

1916

(大正

5)年 4

月採用の浜田庄司とともに、青磁、牛血紅、窯変、結晶釉などの釉薬の試験に没頭するよ うになったとされる22)(図2)。

 振り返ってみれば、小森忍が陶磁器試験場に勤務していた

1910

年代前半の日本では大河内正敏や 奥田誠一らによる陶磁器研究会が発足するなど、純粋に鑑賞という楽しみの対象として古陶磁を収集

2 京都市立陶磁器試験場の職員(1916)、小森忍(前列右より3 番目)、河井寛次郎(後列右端)、浜田庄司(前列左端出典:『小森忍 の生涯』江別市、1991

(4)

ようだ。というのも平野耕輔は、「私は最初そういうもの[美術 支那古陶磁器]は満洲でやらない心算だった」33)と回想してお り、小森の希望とは裏腹に、当初、平野は小森に対して中国の 古陶磁の釉薬研究や倣古的な陶磁作品の試作を期待していた わけではなかったのである。

 小森忍が配属されたのは窯業科の研究部で、満洲や山東省 で採取される製陶原料の品質試験という基礎的な研究課題に 取り組んだ34)。その研究を通じて小森忍は満洲特産の白色滑 石を主体とする硬質陶器の製造試験や、白色滑石を素材に 使ったひび割れのない純白タイルの製造試験を行い、平野耕輔 との共同名義で滑石陶磁器製造法の特許を取得するなど実際 的な研究成果をあげている35)

 やがて平野耕輔は、「工業的試験が片付き少し余裕ができた のと、支那の古陶磁器が世界に冠たるものであることは欧米で

も認められており、かつ釉の如きものが科学の進歩せる今日全然できないということは甚だ遺憾である」

と考えるようになり、小森忍に「倣古支那陶器の試験研究」を委ねることにした36)。中国陶磁の倣作の 試験研究に着手できるほどに「工業的試験が片付き少し余裕ができ」、小森に「倣古支那陶器の試験研 究」を託したのがいつ頃なのかはっきりしないが、小森忍は中央試験所の在籍中に倣古作の試作展を二 回開催しその成果を示している。第一回展では辰砂釉と天目釉による試作品を、第二回展では青磁釉 と蕎麦釉による試作品をあわせて約

200

点発表し37)、「いずれも古代支那の作品に劣らぬ優秀な試製 品」38)と称賛された(図4)。

 満鉄の中央試験所は満洲産の資源を使った産業の創出を使命としており、平野耕輔が率いる窯業科 の研究事業もまた、いずれは新会社を設立して満洲の産業開発に貢献することが期待されていた。や がて、窯業科のなかから

1920

(大正9)年には満洲産原料を用いた飲食器の生産を行う大華窯業公司が 設立され、

1925

(大正14)年には満洲各地で大量に産出する良質の耐火粘土を利用して耐火煉瓦を生 産する大連窯業株式会社が設立され、さら

にそこから分社化して南満洲硝子会社が

1928

(昭和

3)年に設立されている

39)。第一 次世界大戦後、満鉄首脳部の経営方針に 従い、実用路線にそぐわない中央試験所の 研究部門を廃し研究者を

5

割削減するとい う大規模な組織改革が断行されたとされる が40)、窯業科から次々と新会社が設立され た背景にはそのような事情があったのかも しれない。そうした状況下、小森忍は景徳 窯を「サン・ド・ブーフ(牛の血)」と呼んで高く評価したのはフランス人で、フランスでは

19

世紀後半に

その存在が知られるようになり、エルネスト・シャプレ(Ernest Chaplet: 1835-1909)が

1880

年代にその釉 薬技法の解明に情熱を傾け、

1889

(明治

22)年のパリ万博に銅紅釉を用いた作品を出品して成功をお

さめている28)。京都の陶磁器試験場において小森忍が釉薬研究の課題のひとつとして牛血紅に取り組 んだ背景には、康煕年間の景徳鎮官窯で作られた郎窯の実作品との接触によって誘発された可能性が 考えられないわけではない。だが、小森忍が牛血紅だけでなく

19

世紀後半から

20

世紀前半にかけてに 西欧の製陶技術者が盛んに研究していた結晶釉や窯変の研究に取り組んでいることからすると、中国 陶磁との接触によって誘発されたというよりもむしろ、西欧の製陶技術者の研究動向を意識しての取り 組みだった可能性も考えられよう。植田場長のもとでの自由な研究とはいえ、あくまでも陶磁器試験場 の使命は陶磁器の輸出振興を後押しするような研究成果を出すことにあったはずだから、牛血紅や結 晶釉などの釉薬技法の研究に取り組んでいた小森忍がめざしていたのは、欧米の製陶技術者の研究動 向を追いかけること、そして、欧米の愛陶家の趣味嗜好にかなう製陶技法を開発することにあったもの と考えられ、そうした課題の先に窯業技術の最高水準ともいうべき中国陶磁の存在が浮かび上がり、

鑑賞陶器としての中国陶磁が日本の美術市場においても流通しはじめるなかで、陶磁先進国としてつね に世界をリードしてきた中国陶磁の製陶技法の解明という研究課題が見えてきたのではなかったか、そ してそれこそが小森が大連への移住を決断した大きな理由だったのではなかったかと思われる。

3.

満鉄中央試験所の小森忍─中国陶磁研究の準備期

 日露戦争(1904-05)後のポーツマス条約によってロシアから遼東半島南部の関東州の租借権と、ロシ アが開発を進めていた東清鉄道の南半分にあたる長春~大連間の鉄道施設とその付属地を獲得した日 本は、

1906

(明治39)年に半官半民の特殊会社として満鉄を設立し満洲の開発を進めた。満鉄は鉄道 事業だけでなく、撫順炭鉱や鞍山製鉄所を経営するなどさまざまな事業を展開しており、「文装的武 備」29)を提唱する初代満鉄総裁の後藤新平の発案によって

1907

(明治

40)年に設立された中央試験所

の使命は、満洲で産出する資源を生かした新規産業の創出の可能性を探ることにあった。

 東京高等工業学校窯業科の教授を勤めていた平野耕輔は満洲で豊富にとれる資源をいかしてガラス 産業を育成することを提案していたが、それを受けて中央試験所は平野を科長に迎えて新たに窯業科

(1917年開設、

1920年には窯業試験工場と改称)を開設することになり、ガラスだけでなく、製陶業の研

究にも取り組むことになった30)。平野耕輔はワグネルのもとで学んだ東京高等工業学校陶器玻璃工科 出身の窯業学者で、京都市立陶磁器試験場の初代場長を勤めた藤江永孝の後輩にあたり、平野は藤江 から小森忍の存在を聞かされていたようで、平野の誘いを受けて小森忍は満鉄の中央試験所に転職す ることを決意し、

1917

(大正6)年

6

月に大連に移住した31)(図3)。

 ところで、京都で行われた平野耕輔の送別会の席上で小森忍が中国古陶磁研究への抱負を語ったこ とが機縁となって小森は満鉄の中央試験所に転職することになったと小村俊夫は伝えているものの32)、 小森は満鉄の中央試験所に着任してすぐに中国陶磁の研究に着手することができたわけではなかった

図3 満鉄中央試験所の小森忍(最後列右)と同 僚たち、1917-20年頃、江別市セラミックアート センター蔵

4 満鉄中央試験所窯業研究部製品、1920年頃、江別市セラミックアー トセンター蔵

(5)

要する」として、「満洲唯一の芸術的企業」である小森陶磁器研究所を後援することを匋雅会の設立目 的としてうたっている42)。発起人は富田忠詮、慶松勝左衛門、丘襄二、小平修二、中尾万三、今景彦、

村井啓太郎、坂本治一郎、上田恭輔、平野耕輔の

10

名で満鉄や三井物産の関係者が名を連ねており、

また幹事としては中尾万三、小平修二、坂本治一郎の

3

名の名前が記されている。

 また、匋雅会の会則「匋雅会清規」[資料

2

]には、「本会は支那古陶磁器の研究に従事する小森陶磁器 研究所の趣旨を協賛し併せて支那古陶磁器に関する芸術的趣味を普及するを以て目的とす」(第二條)

鎮窯や山東省の博山窯の視察をふまえて中 国古陶磁の技術研究の重要性を平野耕輔 に進言したものの、中央試験所としては実 際的方面に活動しなければならないため実 現不可能として却下され、平野の指示に基 づいて

1921

(大正10)年

6

月に小森は中央 試験所から独立して新しく小森陶磁器研究 所(匋雅堂窯)を発足させることになり、約

20

人(内、日本人は約

5名)の従業員ととも

に中国古陶磁の倣作に本格的に取り組む ことになったのだった41)(図5)。

4.

中国陶磁研究の拠点として─小森陶磁器研究所と匋雅会

 満鉄の中央試験所から独立した小森忍が設立した小森陶磁器研究所は、その「提要」[資料

1

]におい て、「支那古陶磁の研究」、「支那古陶磁の倣製」「古陶磁釉薬応用の各種建築材料ならびに装飾品の制 作販売」「参考品の公開」などを事業内容として掲げており、中国陶磁の倣製だけでなく、中国陶磁の研 究と、中国陶磁を参考品として収集し公開することを事業の一部に位置付けていたことがわかる。

 小森陶磁器研究所はその窯名を「匋雅堂窯」(図6)としたが、その名にちなんで匋雅会という名称の 小森陶磁器研究所の支援団体が

1921

(大正10)年

6

月に発足した。その「匋雅会趣意書」には、「[小森 忍君は]新たに小森陶磁器研究所を開き独力もって仿古陶磁器の

研究に没頭せんとするの志あるを聞く。而してこの挙に対しては 満鉄は同君に研究を依嘱し、なおかつ試験工場の一部を無償に て貸与し、もってその経営を奨励せらるという。しかもなお始めて 個人的に一窯を開くは右の援助の外にしてさらに多大の経費を 資料1 「小森陶磁器研究所製瓷提要」

一、当研究所は支那古陶磁の研究を致します

一、当研究所は支那古陶磁の倣製と共にこれら古陶磁釉薬応用の各種建築材料ならびに装飾品の製作販売を致します 一、当研究所に於ては年中行事、その他披露の贈呈品、記念品、土産品、実用的装飾品等に就き材料を選択し、意匠、

考案を尽くし、雅嘱に応じます

一、当研究所は陶友のため特別の準備を整え諸賢のご来遊を希望します 一、当研究所多年蒐集の参考品は追て陳列設備を整え公開いたします 一、当研究所の製作品は匋雅会において展覧会を開いて時々発表致します 一、匋雅会員にはその展覧会作品を実費を以て頒布致します

大連市小崗子満鉄窯業工場内 小森陶磁器研究所

(出典:『匋雅集第六 中尾万三「西域支那古陶瓷の考察」 上田恭輔「定窯についての考察」 小森忍「青磁に就ての考察」』匋雅会、1925年)

図5 小森陶磁器研究所(匋雅堂窯)の開窯記念、1921年、江別市セラミッ クアートセンター蔵

図6 河東碧梧桐《匋雅堂窯額》1921-28年 頃、江別市セラミックアートセンター蔵

資料2 「匋雅会清規」

第一條 本会を匋雅会と称す

第二條 本会は支那古陶磁器の研究に従事する小森陶磁器研究所の主旨を協賛し併せて支那古陶磁器に関する芸 術的趣味を普及するを以て目的とす

第三條 本会の設置期限は満二箇年とし四期に分ち六箇月を以て一期とす

第四條 本会は事務所を大連市小崗子満鉄窯業試験工場内小森陶磁器研究所内に置く 第五條 本会は第二條の目的に賛成し所定の会費を負担する会員を以て組織す 第六條 会員たらんとするものは所定の申込書により本会事務所に申込むものとす 第七條 本会会員にして住所姓名に異動を生じたる時はその旨本会へ通知するものとす 第八條 本会会員ならびに会費を左の通り区分す

区別 会費月額 仁号 金八円 義号 金六円 礼号 金四円 智号 金二円 信号 金一円

   ただし一時に一期間の会費を払込む会員に対しては前期会費の一割を減額す 第九條 本会会員の数が下記の口数に満ちたる時は入会を謝絶することあるべし

仁号 十口 義号 三○口 礼号 五○口 智号 八○口 信号 一五○口

   ただし一人にして幾口にても申込む事を得

第十條 本会は毎会期末において小森陶磁器研究所製作倣古陶磁器展覧会を開催し各号会員の区別によりて作品を 抽選により頒布す

第十一條 本会は会期中途にして作品頒布の需めに応ぜず

     ただし特別の事情ある場合に限り幹事合議の上適当に処理することあるべし 第十二條 本会解散の際には幹事これが精算の任に当たる

第十三條 本会に幹事三名を置く幹事は全会期中連帯責任を以て一切の会務を掌理し無報酬とす ただし幹事は 発起人中より互選す

第十四條 本会は第二條の目的を達するため会合あるいは出版をなすことあるべし

第十五條 本清規の変更または会務上重要なる事項生じたる時は発起人および幹事競技決定の上これを会員に報告す 附則

一、頒布作品に対する送料その他の費用は会員の負担とす

(出典:上田恭輔『匋雅集第三 支那陶器絵高麗』匋雅会、1922年6月)

(6)

制作という取り組みもまた史的研究や技術的研究の一環として捉えていこうとする姿勢を示している 点にも注意しておきたい。

5.

「匋雅集」にみる中国陶磁研究

 匋雅会は陶磁研究に関する叢書として判型

B6

サイズの「匋雅集」(全

6巻)を発行した[資料 3

]。この うち、第

5

巻は二冊に分かれており、第

6

巻は

3

編の論考をおさめた合本となっているため、全部で

8

編 の中国陶磁に関する論考が匋雅会から発行されたことになる。その執筆者は奥田誠一(1編)、小森忍(3 編)、上田恭輔(2編)、中尾万三(2編)の

4

名で、奥田以外はいずれも大連在住の満鉄関係者だった。

 ここでは匋雅会が刊行した「匋雅集」を手がかりとして、当時の大連における中国陶磁の研究動向に ついて振り返ってみたい。もっとも「匋雅集」に限らず、かつての陶磁史の研究論文を読んでいるとその 後の調査や発掘によってすでに否定されてしまっている記述が認められる部分や、もはや現代の認識と はずれている用語が使用されているために混乱してしまう部分が含まれていることが多々あるが、ここ では記述内容そのものの正否を検討することよりも、むしろ、当時の陶磁学者による中国陶磁研究の実 態を探る手がかりとして「匋雅集」を読みたい。

 匋雅会が発足してからまだ日も浅い

1921

(大正

10)年 9

5

日、陶磁学者の奥田誠一が満鉄中央試 験所の講堂において「陶磁器の鑑賞に就て」と題して講演を行った。当時、奥田誠一は東京帝国大学の 美術史研究室の副手を勤めながら陶磁史研究に取り組んでおり、大河内正敏が主宰する陶磁器研究会 の幹事も務めるなど、

30

代後半ながらも陶磁史研究の第一人者と目されていた。奥田誠一が大連に来 たのは「絵高麗研究のため」44)だった。その頃、中国陶磁や朝鮮陶磁を研究しようにも日本には研究材 料がほとんどなかったが、大連には「製作家である、旧知の小森[忍]君が居り、上田[恭輔]氏のような 蒐集家が居られ、其等の方の製作上の御談なり、御研究なりを承り、その蒐集品を見せてもらうことが できれば大いに益するところがあろうと思って参った」45)とわざわざ大連にまでやってきた理由を述べて いる。以前から交友があった小森忍を頼って大連を訪れ、小森を介して匋雅会の陶磁器愛好家と接触 することになったことがうかがえるが、それとともに、当時、中国陶磁研究の最前線が大連にあったこと と記されており、その活動目的は大きく分けて二つ、すなわち、中国陶磁の研究を行う小森陶磁器研究

所の活動を支援することと、中国陶磁の鑑賞という趣味を普及することにあった。そして、「第二條の目 的を達するため会合あるいは出版をなすことあるべし」(第十四條)と記されており、匋雅会は古陶磁に関 する講演会の開催や「匋雅集」の出版を通じて中国陶磁の鑑賞という趣味の普及をはかることをめざし ていたこと、つまり、匋雅会とはたんに小森忍の作品の頒布を通じてその活動を支援するだけでなく、大 連における中国陶磁の研究拠点となることをめざして発足した研究グループであったことがうかがえる。

 さらに、匋雅会の発起人の一人でもある上田恭輔が「匋雅集」第

4

巻の『支那陶磁史源流図考』(中尾 万三著、匋雅会、

1922年)の巻頭に寄せた

「序」には、同会に参加した会員たちの意欲あふれる研究姿勢 や心意気が示されているので、やや長文となるが引用しておきたい。

吾人同好の輩は支那陶磁の研究を目的とすることを標榜して居るものの、実は最初から普通の古 玩観賞家とは出発点を異にして居るのである。吾等同人は断じて骨董として陶磁器を観賞せず、

研究資料として陶磁を取扱うのみで、実際の所、古いものであろうが、新物であろうが一向に構わ ない。必ずしも完全無疵の物にも及ばぬ、いやしくも研究の参考となるものなれば破片でも沢山で ある。例令偽物でも工芸美術として見るに足るべきものなれば進んで採って研究の資料と為す者 である。要するに吾等同人は世界工芸美術の冠たる支那歴代の陶磁を科学的に、また芸術的に研 究することを主旨として居るのである。もちろん欧米人はこの主旨に向って三十年前からすでに先 鞭をつけては居るが、吾人をして忌憚なく語らしめば彼等斯道の大家ですら、未だなお古玩趣味に 囚われて居る。かつまた彼等の大著述の如きも多くは支那古来の文献をそのまま根拠として居る。

而してこの点を脱し得たものは独りローフアー博士[ベルトルト・ラウファー(Berthold Laufer: 1874-

1934)]あるのみである。吾等同人は永年支那に居住し又時には四百余州を遊歴し得るため、陶説、

陶録等の著者が最早や現存して居ないと断定して居る如き名磁名陶をさえ目撃し得る機会があ り、また欧米の研究者以上に支那の書物を直接理会する事が出来る。これを幸いに吾等は匋雅堂 を中心とする匋雅会なるものを組織して支那陶磁趣味の宣伝に努め、ただに史的考索、ないし芸 術的観賞に止らず、釉薬、胎質、焼成等の技術的研究にまで歩を進めて支那歴代名陶の仿造に力 めているのである43)

 この「序」で上田恭輔は、世界に冠たる中国陶磁を骨董的価値にとらわれることなくキズもの、陶片、

偽物なんでも研究対象として関心を傾けていこうとする姿勢、また、欧米の陶磁学者への対抗意識、そ してまた、中国の陶磁学者が書いた『陶説』(朱琰著、

1767年)や

『景徳鎮陶録』(藍浦著、

1815年)などの

記述をそのまま根拠とするのではなく、中国在住という地の利を生かして古陶磁の名品を実地に観察 し、窯業地や古窯址の現場を訪ね歩いて中国陶磁を実証的に研究していこうとする意気込みを生き生 きと伝えている。さらにこの引用部分の末尾に、「ただに史的考索、ないし芸術的観賞に止らず、釉薬、

胎質、焼成等の技術的研究にまで歩を進めて支那歴代名陶の仿造に力めている」と記しているように、

まさに小森忍が取り組んでいた仕事、すなわち、古陶磁の釉薬や胎土などを化学的に分析することも中 国陶磁研究のひとつのあり方として重視するととともに、こうした研究を踏まえた中国陶磁の倣製品の

資料3 「匋雅集」(全6巻)

匋雅集第一 奥田誠一「陶磁器の鑑賞に就て」本文32頁(1921年10月)

匋雅集第二 小森忍「支那古陶磁略説」本文19頁(1921年12月)

匋雅集第三 上田恭輔「支那陶器絵高麗」本文28頁、巻頭に慶松勝左衛門「はしがき」あり(1922年6月)

匋雅集第四 中尾万三「支那陶磁源流図考」本文90頁、図版38図、巻頭に上田恭輔「序」あり(1922年12月)

匋雅集第五 小森忍「匋雅堂談圃(支那古陶窯録)」「匋雅堂談圃(支那古陶窯録)附図」本文112頁、図版72図、地図、

巻頭に中尾万三「小森忍君の匋雅堂談圃に序す」あり(1923年11月、二分冊)

匋雅集第六 中尾万三「西域支那古陶瓷の考察」本文219頁、図版58図、巻頭に「自序」あり;上田恭輔「定窯につい ての考察」本文25頁、図版30図、巻頭に中尾万三・小森忍「上田先生定窯の考察に就て」あり;小森忍

「青磁に就ての考察」本文43頁、図版3図、巻頭に中尾万三「序」あり(1925年4月、3編の合本)

(7)

まざる所であります。[…]今回君が過去十数年間に努力し苦心して聚められた数ある名什珍器の主か らして特に絵高麗について実物と逐一対照して説述された創見を乞い受け、匋雅集第三巻として同好 の士に頒布[…]」48)と述べていることからすると、本書は上田恭輔が集めた絵高麗の作品を見せながら 行った講演をまとめたものとみられる。

 『支那陶器絵高麗』で上田恭輔は次のように述べている。─かつて朝鮮を経由して舶来したことか ら日本で「絵高麗」と呼ばれるやきものがある。しかし、「絵高麗」という呼称が使われてきたために欧米 の陶磁学者はこれを朝鮮産のやきものとみなしてきたが、実際には朝鮮で作られたものというわけでは ないため、近年、イギリスの大英博物館のホブソン(Robert L. Hobson: 1872-1941)らが「磁州窯」と呼ぶ ようになった。絵高麗と俗称されるものにはペルシア伝来のもの、唐代のもの、宋代の磁州窯、耀州窯、

博山窯、元代の撫州府臨川窯のものなどさまざまなタイプが含まれるが、磁州窯も濫用され、新旧時代 を異にするものだけでなく河北省の磁州窯以外の産品も含まれていてやはり誤解のもととなっているた め磁州窯という言い方も適切とはいえない49)─。このように本書において上田恭輔は欧米の陶磁学 者に対する対抗意識をあらわにし、「絵高麗」の代わりにホブソンらが使いはじめた「磁州窯」という用語 もまた濫用されていると批判しているのだが、本書が興味深いのは上田がその論拠として挙げている資 料などから当時の大連における中国陶磁の研究状況が浮かび上がってくる点にある。

 上田恭輔は、例えば、幕末の日本の陶磁学者田内梅軒の『陶器考』(1854年)では絵高麗が「安南の下 手鉢」「安南もの」と記されており日本人が必ずしも絵高麗を朝鮮産のやきものとみなしてきたわけでは ないこと50)、『景徳鎮陶録』では「磁州窯佳者與定相似」、すなわち、宋の磁州窯では元来定窯を模倣し たものを制作していたと記されていること51)、また、明の曹昭による『格古要論』(全

3

巻、

1387年、その

1456年に王佐によって、さらに1459年に黄正位によって増補され全 13巻となる)では宋の白定に墨彩

のものと黒定に白彩あるものがあると記されていることを挙げるなど52)、日本だけでなく中国の文献も 参照し「絵高麗」、「磁州窯」に関連する記述を過去にさかのぼって探り用語の妥当性を検討するという 姿勢を示している。

 また、上田恭輔の論述の中には、大谷探検隊の 橘たちばなずいちょう超(1890-1968)が敦煌で発掘した唐代の土器 の破片の中に白釉をかけて墨彩で模様を描いたのものがあること53)、さらに、道路工事のために解体さ れた北京の城壁から出土した陶片に赤煉瓦状の胎質の陶器に白釉をかけて鉄砂で模様を描いたものが あることが記されているが54)、出土した陶片にも高い関心をはらい比較研究の材料としていた様子がう かがえる。しかも、橘瑞超によって敦煌で発見された陶片を上田恭輔が大谷光瑞(1876-1948)から研究 資料として貸与されていたということは55)、陶片を通じて両者間に交友があったことを示しており興味 深い。浄土真宗本願寺派(西本願寺)第二十二世門主の大谷光瑞が仏教東とうぜんの経路上における仏教遺 跡の探索のためにシルクロードに派遣した大谷探検隊(第一次:

1902-1904、第二次: 1908-1909、第三次:

1910-1914)の費用と神戸の六甲山麓に建設した二楽荘(1909年本館竣工)の莫大な建設費、さらには日

露戦争時の軍費献納、軍隊慰問、前線布教、遺族救済などに要した費用が西本願寺の財政を圧迫し、

結果的にはそれが疑獄事件を招いてしまった56)。大谷光瑞はその責任をとって

1914

(大正3)年

5

月には 門主の地位を退くともに二楽荘を売却し、その後は大連、旅順、青島、上海などに建てた別邸を季節に を、そして、その大連においては小森忍を中心に中国陶磁の愛好家のネットワークが形成されていたこ

とを奥田誠一がすかさず捉えていたことをうかがわせる。

 奥田誠一が大連で行った講演「陶磁器の鑑賞に就て」については「匋雅集」の第

1

巻として出版された ほか、『大日本窯業協会雑誌』第

359

号(1922年

7月)にも掲載されている。─骨董趣味が稀少なもの、

好奇心を満足させるものを求めるのに対して、鑑賞趣味はそれを見ることによって趣味と愉快をもたら し、生活を美化するものを求める。たんなる認識とは違い、鑑賞においてはある事物を知覚する際に発 生する感情が肉体の諸器官を興奮させ、脈拍、体温、呼吸に変化を生じさせる。芸術的鑑賞で最も必 要なのは視覚であり、色、光、形が快感をもたらす。芸術は眼から入ったものを他の感覚器官に移して 楽しむものであり、視覚の背後では触角が重要な役目を果たしている。胎土が陶磁器鑑賞の根本であ り、胎土に次いで釉薬、その次が形の美である。陶磁器は工芸品なので、用の快感は最も必要なものと いえる。陶磁器を鑑賞するのはわれわれの生活を向上させるためである。美の修養によってこの惨憺た る生活闘争の人生

50

年を楽しんで暮らすことができ、気力を持して浮世の荒浪を乗り切っていくこと ができればそれは幸福な人間らしい生活と言わなければなるまい46)─。このように奥田誠一の講演は 具体的な作例にもとづく古陶磁の話ではなく、陶磁史の概説でもなく、陶磁器を美術品として鑑賞する ということ、そして陶磁器鑑賞のうえでは胎土と釉薬と形が要点であること、さらに、陶磁器鑑賞の意 義について述べたものだが、観念的な記述が多くみられるのが特色で、心理学出身の奥田誠一らしい一 面をうかがわせる内容となっている。

 「匋雅集」第

2

巻は小森忍による『支那古陶磁略説』(1921年)で、「匋雅堂述」と記されていることから すると講演録として発行されたものと思われる。─中国陶磁は色釉もの、絵付もの、素地ものの三つ に大きく分けることができる。色釉もののうち鉄釉ものには、青磁、蕎麦手、天目手、鉄砂釉、伊釉、

柿釉、飴釉がある。このうち青磁には越州窯、秘色釉、柴さいよう、汝じょよう、哥よう、龍りゅうせんようなどがある。日本では 釉の色調や光沢、貫入の有無などに基づいて青磁を砧手、天龍寺手、七官手、人形手などと分けて新古 を区別しているが、技術上から見れば全く根拠のない分類である。銅を用いた色釉には均窯、泥均、宜 均、辰砂手、霽紅、郎窯、積紅、爐均窯がある。絵付ものは下絵付物(釉下彩画)と上絵付物(釉上彩画)

に分かれる。下絵付物には日本で絵高麗と呼んでいる宋の磁州窯や染付(青花)があるが、染付は色調 だけで新古を区別することはほぼ不可能で、その発色は釉の成分や窯内の焼成焔の状態によって変化 する。上絵付物には五彩、粉彩、洋彩、黒絵付などがある。素地によるものには宋の定窯、余州窯の白磁、

宜興の朱泥や紫泥などがある47)─。このように本書は中国陶磁を系統的に分類しそれぞれの特色を 解説した中国陶磁の入門書で、あまり踏み込んだものではない。しかしながら、窯業技術者としての立 場から小森忍が日本の骨董趣味の世界で使われてきた用語、例えば青磁における「砧手」「天龍寺手」「七 官手」と区別する分類方法や、染付の色調で新古を区別する手法などを批判している点が注目されよう。

 「匋雅集」の第

1

巻と第

2

巻が概論的な入門書のような内容となっているのに対し、「匋雅集」第

3

巻の

『支那陶器絵高麗』(1922年)は上田恭輔による絵高麗に関する論考となっている。その巻頭には匋雅会 同人を代表して中央試験所の初代所長を務めた薬学者の慶松勝左衛門(1876-1954)が「はしがき」を 寄せ、「畏友上田恭輔君の支那古陶瓷器における鑑賞的眼識の卓越なることは余等同人の夙に推服止

(8)

67)、それが時代が進むにつれて、「南北は漸く融和混同される傾向となり[…]殊に饒にょうじゅう州窯[景徳鎮 窯]が起こると総てがこれに凝集されて南北を統一して終っている。而してその統一の緒に就いたのは 宋末明初から始まるものと観察される[…]宋の政和年間(1111-1118)に起こった官窯はこの南北統一 の機運を示すものとしてとくに注意してみなければならぬ」68)─このように中尾万三は技術史的な観 点から中国陶磁の技術伝播の経路を北方系と南方系に大きく二分した上でそれぞれの技術上の特色と 変遷を追跡し、その南北二系統の製陶術の融合の起点を北宋官窯におき、南北統一の成果として景徳 鎮窯を位置づけている。

 さらに別の例を挙げるならば、中国陶磁の技術史における重要な転機となった高火度焼成による釉 薬の起点に関して中尾万三は次のように述べている─陶器に釉薬を用いる技術は西域から中国に伝 来し中国陶磁に一大革命をもたらしたとホブソンは説く。確かに、唐代以前に西域からの曹達釉の伝来 があったが、中国陶磁の本質的な革命は西域から輸入された曹達釉によってもたらされたのではなく、

漢代と唐代の間、おそらく晋代(265-419)あたりに純陶土質の白陶土(白はく)を高温で焼成したことにあ るとみられる。漢代と唐代の陶器を発掘物で見ると、漢代には鉄分を多く含んでいる赤い粘土が用いら れているのに対し、唐代にいたると素地には白堊が使われるようになっている。白堊は従来の窯の焼成 温度では焼き締らないため、窯の焼成温度を上げる工夫が行われた結果、粘土と灰の溶融による潤い のある釉が生まれ、透明感のある玉のように美しいやきものが誕生した。また晋代には還元焔と酸化焔 によって釉色に差異が生まれることが知られるようになり、鉄分が含まれている釉薬を還元焔で焼成す れば青磁ができるということを工匠たちは経験したであろう。西晋の潘はんがく(247-300)が「黄苞を坡きて 以て甘を授け、縹はなだじを傾けて以て酃れい[美酒]を酌む」と詠んだ「縹瓷」とは曹達釉や鉛釉が掛けられた青 色のやきものではなく青磁であったに違いない69)─。このように中尾万三は、欧米の陶磁学者の論述 を踏まえながらも、出土品の観察に基づいてかつての製法について科学者としての立場から推測し、と きに中国の古い文献の記述を引用し、想像力をたくましくしながら推論を重ね、製陶技術の変遷を説 明している。

 東京帝国大学医科大学薬学科を卒業した後すぐに大連の中央試験所に就職し、

1908

(明治

41)年か

1926

(大正

15)年まで 20

年近くの長きにわたって大連に住んでいた中尾万三は、匋雅会の幹事とし

て大連における中国陶磁研究ネットワークの中心的な役割を果たした人物の一人だったが、あくまでも その本業は薬学者(本草学)だった。『中尾万三伝:中国古陶磁と本草学の先駆者』(中野卓・鈴木郁生著、

刀水書房、

1999年)によれば、中尾万三が中国陶磁に開眼したのは 1918

19

(大正

7、 8)年頃、奉天(瀋

陽)の泥棒市場で練上手の古陶磁を見つけたことがきっかけだったとされる。それは中尾万三が奉天医 科大学の山下泰蔵を訪ねた時のことで、小森忍もなにか見本になりそうな古陶磁を探すために同行し ていた70)。仮にこれが

1918

(大正

7)年の出来事だったとしても、それからわずか 4

年という短期間で、

しかも、中央試験所の薬学者としての本務をこなしながら中国陶磁研究に取り組み『支那陶磁源流図 考』をまとめあげたことになり、そのスピードと力量には驚かされる。小山冨士夫は中尾万三について、

大連満鉄図書館を利用して古今東西の陶書を渉猟し、漢籍を読破し、陶磁器に関する記事を摘出整理 されたが、額に汗して古窯址の発掘調査をする鈍重な考古学者というよりは、頭脳明晰な読書人で、最 応じて移動する「放浪」生活を送っていた57)。その後、中国陶磁に高い関心を抱くようになった大谷光

瑞は、窯址から採集した宋代の官窯や汝窯の青磁の陶片をカフスボタンやネクタイピンに加工して肌身 離さず携行するほど中国陶磁にのめりこむようになり58)

1932

(昭和7)年には自らの陶磁器コレクショ ンの中から選んだ作品の図版(カラー

25図、白黒 12図)とその解説、さらに通史的な中国陶磁史の概説

を収録した『支那古陶瓷』(陶雅堂、

1932年)を出版するのだが、すでに 1920

年代に大谷光瑞は中国陶 磁の陶片を介して大連の匋雅会の上田恭輔と接触があったことを示している。

 さらに本書『支那陶器絵高麗』において上田恭輔は、ロンドンの大英博物館とサウスケンジントン博物 館(ヴィクトリア&アルバート美術館)、ソウル(京城)の李王職博物館および朝鮮総督府の古器陳列館に 収蔵されている絵高麗についても言及しているほか59)、長く日本に居住していた「ヤヱネ」なる人物が収 集した絵高麗のコレクションが米国のアドルフ・グロジャン支那陶磁器陳列館に収められたこと60)

1914

(大正3)年にホブソンの監修のもとにニューヨークで行われた日本人会主催の支那朝鮮日本古陶展 に出品された絵高麗約

3

40

点のうちの大部分がその後メトロポリタン美術館に収蔵され61)、同館の目 録データでは「磁州窯」として記載されていること62)、しかも、その作品を上田は実見していることな ど63)、海外の博物館の動向にもしっかりと目配りをしている様子がうかがえる。

 このように、上田恭輔の『支那陶器絵高麗』からは、中国や日本の陶磁学者の過去の記述や欧米の陶 磁学者の著述を追い、発掘によって出土した陶片を参照し、海外の博物館を訪ねては古陶磁を観察し、

その目録データを検討するなど、古今東西にわたる資料を貪欲なまでに追求しながら中国陶磁の研究 に取り組んでいた大連在住の日本人陶磁学者の姿が浮かび上がってくる。

 「匋雅集」の第

4

巻は中尾万三による『支那陶磁源流図考』(1922年、全90頁、白黒図版38図)だった。

コンパクトな本だが、先述の通り小山冨士夫が若かりし頃陶磁器に関心を持つようになって最初に手に 取って読んだ本として回想しているもので、小村俊夫が「世人の注意を喚起し、すこぶる権威あるもの となった」64)と述べているように、当時はかなり注目された本だったようで

1933

(昭和

8)年には陶器全

集刊行会から復刻版(新校新註版)が出され『陶器全集』に収められている。

 巻頭に上田恭輔が「序」を寄せ、「本著は文献よりは寧ろ実物を参照し、天下無比の美術工芸たる支 那古陶磁発達の経路を科学的に説明せられたるもの」と述べたうえで、中国陶磁の釉薬の化学的研究 に関しては前人未知の意見の発表、とその内容を称賛している65)。続く「緒言」で中尾万三は、中国陶 磁の基礎的な文献として重視されている『陶説』、『景徳鎮陶録』、『陶雅』(寂園叟著、

1910年)、

『飲流斎 説瓷』(許之衡著、

1919年)などに記された中国陶磁の分類法は非科学的で技術的には不可解な点が多

く、発達の経路も不明で技術史的な面白みを感じることが出来ないと批判したうえで、本書では古い文 献の記述と実作品を検討し、技術史的な観点から中国陶磁の変遷の論述を試みたい、と述べている66)。 この「緒言」で言明しているように、『支那陶磁源流図考』は中国陶磁の技術の変遷を時系列的に論述し たものだが、本書の大きな特色はその対象とする時代範囲を古代から清代までと幅広くとり、技術伝播 の経路を大きな見取り図を描き出すように図式的に示した点にある。中尾万三は、北方では西域伝来 の低火度の酸化焔焼成による鉛釉や曹達硝子釉が盛んだったのに対し、南方では中国独自に発達した 高火度の還元焔焼成による灰釉系が盛んで、南北ではっきりとした技術上の分断があったとしたうえ

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