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六朝詩について:詩はどんな場でどのようにつくられたのか

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Title

六朝詩について:詩はどんな場でどのようにつくられたのか

Author(s)

道坂, 昭廣

Citation

道坂昭廣: 若手研究者支援プログラム, No.4,(奈良女子大学21世紀

COEプログラム報告集 Vol.26), pp.32-46

Issue Date

2009-03-06

Description

2008年度若手研究者支援プログラム第1部2008年8月9日(土)奈良 女子大学にて開催された「六朝詩について:詩はどんな場でどのよ うに作られたのか」の講義内容。(当日の音声記録により講義内容 を収録。配布資料の別PDFファイル有。

http://hdl.handle.net/10935/2919)

URL

http://hdl.handle.net/10935/2918

Textversion

publisher

Nara Women's University Digital Information Repository

http://nwudir.lib.nara-w.ac.jp/dspace

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六朝詩について‑詩はどんな場でどのように作られたのか

道 坂 昭 虞 (京都大学大学院准教授)

●坂本 それでは、今度 は道坂先生か ら 「六朝詩 について」 ということで話 して もらいます。

よろ しくお願 い します。

■道坂 道坂です。 よろ しくお願 い します。

私 は、中国の南北朝か ら初唐の辺 りの作品を読んでいることになっています。 日本では 「六 朝」 と言 いますが、中国では北朝 も合わせて 「南北朝」 と称 されることが多いです。最初 に、

この時代 を知 るための資料を幾っか挙 げておきま した。

『南史』 は南朝の歴史を、『北史』 は北朝の歴史 を通時代的に書 いてあるものです。『南史』

と 『北史』 は、一族別 に記録 されています。つま り、顔氏な ら顔氏の この一族 は、誰 は誰の子 供で どのような経歴であって、 さらにその兄弟 はどのような人がいたのか とい うよ うな形で書 かれています。王朝別 にはな っていないので、時代 は少 しわか りに くいですが、『青書』以下 の各断代史を読むよりは、む しろ 『南史』を読んだほうが南北朝 という時代がわか りやい面が あ ります し、何 より特 に 『南史』 は逸話が豊富でお もしろいです。

『六朝詩人侍』以降 は、 日本で発行 されているものです。『侯景 の乱始末記』 は多分絶版 に な っていますが、六朝末期の ことを知 るうえでは大変有用な本です。資料 については、 また折 に触れて戻 ります。

さて、六朝文学 とは、 どうい う文学 だ ったのか とい うと、端的 には、 「経 国之大業」 か ら

「放蕩」へ と変わ っていったのではないか と、私 は思 っています。「経国之大業」の句 は、正確 に言 うと六朝時代の ものではあ りませんが、『文選』 に載 っている魂の文帝 (曹

丞 1 8 7 ‑2 2 6 )

の 「典論 ・論文」の句で、「蓋 し文章 は経国の大業、不朽の盛事」であって、「年寿 は時有 りて 尽 き、栄楽 は其 の身に止 まる上のに対 して、「文章 は無窮である」と言 っています。

一万、六朝末期 になると、梁 の簡文帝 (粛綱503‑551) が、息子の富陽公大心 に与えた短 い手紙 の中で、「立身の道 は文章 と異 にす。立身 は先ず須 らく謹重 なるべ し、文章 は且つ須 ら

く放蕩 なるべ し」 と書 いています。 これが 「不朽之盛事」 と言われた文章 と同 じものを指 して いるか とい うと、 そ こは少 し考えが分かれ るか もしれません ともか く、魂の文帝 は、「文学 は不朽 の盛事 で、世の中に貢献す るものだ」 と言 い、梁の簡文帝 は、「世 の中で生 きてい くう えで は慎重であ りなさい。文学 に関 して は放蕩であ りなさい」 と言 っています。 この 「放蕩

が具体的にどういうことを指 しているのかは難 しい問題ですが、 このように文学 の有用性か ら、

文学 と生 きてい くための立身 とは別だ とい うふ うに変わ ってい くのが、南北朝 あるいは六朝の 文学 の変化 を象徴的に示 していると、私 は考えま した。

ところで、 そ もそ も六朝時代 とは、 いっか らいっまでの ことを指すので しょうか。

3 1 7

年 に 司馬容が戦乱 の北方を離れて南京 (建康)で即位 してか ら、陳が情に滅 ぼされ る、589年 まで

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の間を六朝時代 と呼ぶのが一般的です。 これでは王朝が五っ しかあ りませんが、同 じく南京 に 首都 に置いた三国時代 の呉 を含 めて六っ と します。

この王朝 は、 みんな南京 を首都 に しま したが、 この間、六朝 の末期 に当たる554年 か ら587 年 には、南京 よ り上流 の江陵 とい うところに後梁 とい う北朝の塊儲政権がで きま した。後梁の 資料 はあま り残 っていませんが、文学的あるいは文化的 に重要 な政権で はないか と私 は思 いま す。 あの 『文選』編纂で有名 な昭明太子 の子孫が後梁の王 になっていることと、南京 の混乱 を 逃れ、 ここ‑避難 して きている知識人が多か った とい うのがその理由です。 しか し、 これ はま す ます話が散漫 にな って しまいますので、 ここでは後梁 という国があ った とい うことだけ申 し 上 げてお きます。

六朝時代 は、文学史 の中での評価 はあま り高 くあ りません。読んでみ ると、次 の唐代 などの 詩 に比べて、確 か に退屈 な詩が多 いです。言葉 は悪 いですが、「何で こんな退屈 な詩 を作 るん だ。何 のために こんな ものを作 っていたんだ。面 白いのか」 とい うことをっ いっ い考 えて しま います。

千年以上前 の ものが今 まで残 っているだけで、それはそれで立派ですが、 この人 たちは、いっ たいどうして こんなっま らない ものを書 いたのか。今の観点で言 うと、つま らない ものですが、

このよ うな傾向の詩がかな りの数残 っているのですか ら、 この時代 において は、つま らな くな いと考え られていたので しょう で は、 これ らの作 品が どうい う観念 の もとに作 られていたの かを考 え るときに、作品が、 どうい う場で、誰 に向か って書かれたのか とい うことを見てみ る

ことが、一つの手掛か りになるのではないで しょうか。

い くつかの代表的なサ ロンを資料 に挙 げてお きま したが、六朝時代 には、文学作品 はサ ロン で作 られた と言 われています。第一次的には、 この時代 の文学 は、サ ロンの参加者 に向か って 書かれていたわけです。 そ うだ と考え ると、曹垂 の 「不朽之盛事」が永遠性 を主張す るのに対 し、梁簡文帝 の 「放蕩」 とい うのは、 いろいろな解釈がある中で、 ひ ょっとす るとサ ロンの参 加者 と楽 しめた らいいとい うことで、 その時 ・その場 にいる人 にのみ向けて文学 を作 った とい

うことを も象徴 した言 い方 なのか もしれないという考え も浮かんで きます。

ところで、 中国古典文学 における読者 の問題 につ いて は、小南一郎先生 に大変面 白い一連 の 著作があ ります。小南先生 は、 中国文学 の最初 の作 品である 「楚辞」 に関 して大略以下 のよ う な ことをお っ しゃってお られます。 もともと、今で言 う丞女 (み こ)が神 に捧 げるために歌 っ た歌が、文学 の出発点である ですか ら、文学 の最初の読者 は神だ ったので はないか。 この指 摘 につ いて は、私 もおそ らく皆 さん も大変納得で きるのではないで しょうか。 しか し、次か ら は、私 の考 え も混 じってお り、怪 しい ところがあ りますので、疑 いなが らお聞 き くだ さい。

次 の漢代 にな ると、読者 は神か ら人 に、但 し人 は人で も皇帝 になるよ うに思 います。漢 の代 表的な賦 の作者、司馬相如 (前179‑前117)などは、皇帝 の為 に脱 を作 っているわ けですか ら、第一次的な読者 として皇帝 を考えているわけです。 もちろん これ は、 あ くまで も第一次的 ですか ら、皇帝 の周辺 も実際 には読者であ ったで しょうけれ ども。

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今 日のテーマの六朝時代 は、サロンで文学が作 られています。サロンは閉ざされた空間 と言 っ て もいいで しょうか ら、読者 は、 そこにいる人 たちとい うことにな ります。唐代 にな って も、

サ ロンは存在 します し、 サ ロン的な場で文学活動 が行 われて もいますが、意識 と して はよ り開 かれた空間で、 自分 と同 じ階層 に向けて作 られ始 めます。 そ して、木版印刷 による商業 出版が 盛ん になる末代以降、初めて不特定 の読者 に向 けて文学が作 られます。簡単 に言 うと、 このよ うに読者層 は拡大 して行 きます。 ただ、六朝時代 は現在 の我 々とは異 なる場 で作者 と読者が向 き合 っていた とい うことは確認 してお きたいと思 います。 さらに、私 たちが考え る文学者 は、

「書 く」 とい う行為で生 きていきます。 しか し、六朝 や唐代、文学者 は印税収入 は もちろん、

詩文 を売 る、つ まり売文 によ って も生活 してはいません そ うす ると、何 のために詩文 を文学 者 は作 っていたのか ということに、話 しはもう一度戻 ります。そのためには、 もう少 しサ ロン

とい う場 について、考えてみたいと思 います。

漢代 に も武帝 のサ ロンが あ りますが、 中国文学 にお ける最初 の本格的なサ ロ ンは曹操 (155

‑220)が主催す るサ ロンであ ったとい うことは、 中国文学史 において、 ほぼ定説 にな ってい ます。「建安 の七子」 と言 われ る人 々が集 いま した。 中国文学で、詩 などの韻文 が優勢 にな っ て くるとい う意味で も、 この曹操 のサ ロンは出発点 になるように思 います。

曹操のサ ロンにおいて特徴的なのは、民間の歌 であ る楽府 を、知識人である曹操 たち一派が 取 り入れた ことです。封建中国においては、文字 を持っ階層 と文字を持 たない階層 とが、 ある 意味ではっきりと分かれていま したが、曹操 たちは偏見無 く民間で歌われていた詩 を自分 たち の文学 と して取 り込んだのです。

資料 に 「短歌行」 を挙 げま した。 これは四句 ごとに韻が変わ ってい きますが、 その ことにつ いて今 までの解説 で は、「各小節 には直接論理的 なっ なが りはな く、酒宴 の歌 と して酔 いの進 行 と心理 の変転 とが微妙 に絡み合 って、詩の骨格 を支 えている それ故、最後の小節 に至 って、

突然、天下 を経営す るとい う抱負が出現す るよ うな強引 さも許 され るのである」 と書かれてい ます。

詩 を読 むのは嫌 だなと私が思 うのは、詩 は限 られた言葉で表現す る ものなので、飛躍が大 き いか らです。 この楽府詩 も飛躍が大 きいです。 しか し、 それ は詩 だ し、酔 っているか らだ とい うことには、ず っと納得で きませんで した。 これ につ いて、 ここにい らっしゃる神野志先生 と 同 じ講座 の斎藤希史先生か ら、「これ は曹操一人 が作 ったので はないん じゃないか。今 まで は 曹操 ひとりの歌 とされているけれ ども、掛 け合 いの歌 だ ったのではないか」 とい う考えを うか がいま した。 「人生 なんてい うのは露 のよ うにはか ない もので、生 きてゆ くのは苦 しい ことが 多 い」 と曹操が言 います。それに対 して客が、「まあ、 そ う言 いなさんな お酒で も飲みま しょ う」。 また曹操が客 に対 して、「君 たちが ここに来 て くれないか と思 って、私 はず っと苦 しんで いた」。す ると、客が、「この宴会 は楽 しい」。 このよ うに繰 り返 して い くと、最後 の ところで 客 たちが多少 の こびを含んで、「あなたは周公 のよ うな人で、 みんな心 に帰す」 と詠 うとい う よ うに、韻 の換わ るところで詠 った者 も換わ った と考 えてゆ くと、 とて もぴた っと解釈で きる

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よ うに思 います。

私 たちが近代 の目で 「著作権」 などと考えていると、曹操一人でないと困 りますが、曹操 た ちは民間の歌 を取 りこんだのですか ら、仮 に曹操が作詩 した と して も、民間にあ った このよ う な掛 け合 いの技法だ って採用 した可能性 はあると思 います。

古典文学 に対 し、多角的な視点 を持っ ことの必要性 は多 くの先人が説 いてお られます。頗尾 に付 して私 も、当時の目で作品 とその作 られた状況 を見 るとい うことも必要 なのではないか と 申 し上 げたいと思 います。 この楽府詩 も、曹操の宴会の席で即興 の掛 け合 いで歌われた ものが、

記録 され るときに推鼓 され\今 のかたちにな り、曹操の作 とされた可能性だ ってあると思 いま す。ですか ら、詩歌 は一人でつ くるとい うことを自明の ことと考えず、 サロンや宴席 とい う文 学の場が、今 と異なる創作を許容 したということは、六朝文学 を読む ときにも、意識の隅 にあっ て も良 いと思 います。

では、 サ ロンとは、 い ったいどんな ものだ ったので しょうか。曹操 のサ ロンは文学 を独立 さ せ た とされ ます。文学史 には、「政治 の場 において は主君 と家 臣だ ったが、文学 の場 において は平等であ った」 と書かれています。 この 「短歌行」 だ と、確かに対等であ ったか もしれませ ん ね

サ ロンの形成 を もう少 し考えてみたいと思 います。幾っかの代表的なサロンを資料 に挙 げて お きま した。次か らの六朝時代 にな ります。 まず最初 に王義之 (303‑361) のサ ロンを挙 げま した。皆 さん ご存 じのよ うに王義之 の 「蘭事 の序」 は大変有名 な作品です。草聖 と称 され る王 義之 の代表作ですが、書道 の方で優 れていたばか りではな く、 その内容 において も彼 の心情が 強 く反映 されていま した。資料 を ご覧 くだ さい、蘭事 は会稽 山のふ もとです。「孫縛 ・李充 ・ 許諭 ・支適等、皆文義を以て世 に冠す るもの、並 びに室 を東土 に築 き、義之 と好みを同 じうす。

嘗 て同志 と会稽 山陰の蘭事 に宴集す」 とあ ります。3月3日の上 巳の 日に、有名人や知識人が 別荘地 に集 まって宴会 を しま した。 その最後の ところで、王義之 は自 らのその時の感慨 を述べ ま した。 それ は、 「自分 たちは、時間の流れの中で偶然 に‑ カ所 に集 まった。今、 ここで私 た ちが考 えた ことは、 みんなが死 に絶 えて しまえば、時間の流 れの中で消えて しまう この今 の 瞬間を切 り取 ってお きたい」 とい う強 い思 いです。 「蘭亭序

と言 うぐらいですか ら、序 とと もに詩が作 られ ま した。 この詩 を記念す るために書 かれた序文 ですが、詩 を作れた人 と作 れな か った人が います。 これ は諸説 あ るみ たいですが、42名 が参加 し、 その3分 の2が詩 を作 っ た とい うことです。 それ らの詩 をまとめた もの もあ ります。

これ は別 の話 にな りますが、 その ときに作 られた詩 は五言詩 と四言詩 の両方 なので、 この時 点 において は、 まだ五言詩 は必ず しも優勢ではなか った ことが一つわか って きます。

さて この宴で は、詩が作 れなか った人 は、それ はそれで よか ったわけです。 とい うことは、

ここに集 まって楽 しく話す ことが 目的で、詩 は一種 の座興で した。ですか ら、文学的名声 を高 めよ うとい う意味 はあま りな く、 この時に詩的感興が涌 いた人 が詩 を作 っただけで した。

先 はど見せていただいた論文集 の中に も、『万葉集』 と 「蘭亭序

の影響関係を書 いてい らっ

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しゃる論があ りま した。 その通 りなので しょうが、 この 「蘭亭序

は 『文選』 に採録 されてい ません。 これ ほどの名文で、 日本 の文学 にさえ影響 をあたえた この文が、 なぜ採録 されていな いので しょう 結局、編纂者 である梁 の昭明太子 の ところに行 って、「何で?」と聞かない限 りは、 なかなか正 しい答え は出て きません。 しか し、私 自身 は、少 な くとも文学 とサ ロ ンのか かわ りの中で、 「蘭亭序」 は、 あ る意味でサロ ン文学 にはふ さわ しくなか ったか らで はないか と考 え られないか と思 っています。王義之 は、序 と同時 に詩 も作 っていますが、 それは必ず し も 「蘭亭序」 の感情 に一致 していません また この宴 でつ くられた詩群 は、 四捨五入 して言 い ます と、 そ こで楽 しんだ とい う内容です。そ こに この序がかぶせ られています。序 において、

王義之 の感懐が噴 き出 したわけです。詩群 と序 の間の内容 のギ ャップに 『文選』不採録 の ヒン トがあるのではないか と、私 は思 っています。 この ことにつ いて は、後 はどまた少 し触 れたい と思 います。

次 に、陶淵明 (365‑427)と謝霊運 (385‑433)の二人を挙 げま した。皆 さん は、陶淵明 と サ ロンは意外 に思 われ るか もしれ ません ご存 じのよ うに、陶淵明 は現在で は六朝随一 の詩人 とされています。 「六朝 の詩人 を一人挙 げなさい」 と言 われた ら、多分、皆 さん も陶淵明の名 前 を必ず挙 げると思 いますが、陶淵明 は、同時代 においては決 して名声の高 い詩人ではあ りま せんで した。隠逸詩人で、「孤立 した田園詩人」 と言 われます。謝霊運 の ほうが、同時代 にお いて は、 はるかに有名で したが、 この謝霊運 も 「孤独 な山水詩人」 と称 されます。 この二人 は、

中国文学 の中に重要 な要素 である自然を取 り込んだ代表的な詩人ですが、 どち らも孤独 の影が あ ります。

陶淵明には 「五柳先生伝」 とい う自伝があ り、 ここに 「常 に文章 を著 して 自ら娯 しみ、頗 る 己の志 を示す」 と、先 ほどの 「蘭亭序」 と同 じよ うな記述があ ります。陶淵明 と王義之 には、

ひ ょっとす るとサ ロンに集 ったような同時代の人 にではな く、永遠への指向のような ものがあ っ たのか もしれません。 そ してそれ は後 に述べ るよ うなサ ロン文学 に求 め られ る共時性 とずれ る ものであ ったので はないか と思 います。

陶淵明 は、 自分 自身で楽 しんで詩 を著 しま したが、 これ ら全て も後世 の人 たちに向 けて書 い たので しょうか。言 い掛 か りのよ うになるか もしれ ませんが、 陶淵明 には、 「諸人 と共 に周家 の墓相 の下 に済ぶ」 とい う詩があ ります. この 「諸人」は誰 なので しょうか。陶淵明 は、一時 期、下級 の官僚 を務 めただ けで故郷へ帰 って しま うので、 出て くる人 は農業 を している人 たち が多か ったわけです。 しか し、 そればか りではな く、陶淵明 には人 と往復 した手紙や詩が残 っ ているわ けですか ら、詩 を作れ る人 たち もそばにいま した。 この詩で は宴会 を開いています。

そ うす ると、直接的 には、 その宴会 の場 にいた人 たちに向けて作 られた と考 えて もいい と思 い ます。つ ま り、陶淵明のサ ロン、 それがサ ロンと呼べ るほどの実態 を もっていたか どうか はさ てお き、少 な くとも彼 の周辺 には、記録 に残 るよ うな優れた詩人 たちはいなか ったわけですが、

中央 ばか りで はな く、地方 に も、 このよ うな小 さなサ ロンが成立 していた可能性があるので は ないで しょうか。陶淵明 は、 その詩風が同時代 に合わなか ったに も関わ らず、例外的 にその作

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品が残 りま したが、 ほかの人 たちは消えて しまったので はないか。少 な くとも彼 も同時代同 じ 場 の人 に向 けて詩 を作 っていた可能性があるとい う強引な考えを申 し上 げたいのです。

一方 の謝霊運 は、先 ほど紹介 しま したよ うに 「孤独な山水詩人」 と称 されますが、彼 は貴族 で したか ら、好 き嫌 いが はっきり言 えま した。謝一族だ けが集 ま って、「居 は烏衣巷 に在 り.

故 に之 を烏衣 の遊 と謂 う」 とか、資料 の最後 の方 には、 「其 の外復 た高流時誉 と難 も、敢 えて 門にいた らざるな り」 と、一族 と気 に入 った人 たちだけを集 めていま した。

ちなみに、 「烏衣之遊」 とは貴族 の優雅 な遊 び、 そ して烏衣 は高級住宅街 の代名詞 にな りま す。 それで唐 にな って劉 寓錫 とい う詩人が 「烏衣巷」 の詩 を作 っています。 「旧時王謝豊前 の 燕、飛 んで尋常百姓の家 に入 る」 とい う詩 を漢文で習 った人 もいるか もしれ ません

要す るに、謝霊運 は貴族 の一族 のサ ロンに参加 していま した。 あるいは、官僚 として地方へ 出された ときも、「文章賞会 を以て、共 に山沢 の涯 をなす。時人 これを四友 とい う」。 いわゆる ピクニ ックに行 き、気 に入 った人物 たちと、詩 を作 ったのです。つ まり、 サ ロンは形成 してい な くて も、極 めて閉鎖的に限定 された人 との文学活動を行 っていたのです。 そ して一義的には それ らの人 のみを、彼 は読者 として考えていたので はないで しょうか。

資料 に挙 げま した 「池上 の榎 に登 る」 は、謝霊運 の代表作の一つです。 これ は、謝霊運が官 僚 と して一人 で地方 に出て い って病気 にな り、 それが治 った ときに作 った詩 です。4行 目の

「池塘春草 を生 じ、園柳 鳴禽変ず (病気 にな り、 ず っと戸 を閉めて寝 ていた。病気が治 り、

ガ ラガ ラと戸 を開 けてみた ら、 いっの間にか池 のほ とりには春 の草が生 え、庭で鳴いている鳥 たち も、季節が変わ ったために、種類 の違 う鳥 にな っていた)」。 この句 は大変優れた句 とされ ますが、 中国文学では、文学 的なイ ンス ピレー ションの重要性 を示す作品 と してよ く引かれま す。 とい うの は、謝霊運 は、一族 の中で も特 に、謝意連 とい う人物 を大変好 んでいま した。

「篇章有 る毎 に悪連 に対すれば、すなわち佳語 を得 る (謝意連 と会えば、 いい作品が作れ る)」

と言 ってお りま したが、 この詩 を作 った時 も、一 日中、詩が作れなか ったけれ ども、「夢 に謝 恵連 を見て、 「池塘春草」 の句 を得。大 いに以て工 み となす」とあ ります。 これを見て も、謝 霊運 とい う人物 の文学が非常 に狭 い世界、限 られた仲間の中で詩作 していた ことがわか ります。

このよ うに見て きます と、 このあた りまでのサ ロ ンは、気 に入 った仲間が集 ま り、 その人 た ちだ けにわか る文学作品を作 っていて、詩 は、一種、気晴 らし的な ものだ ったので はと考え ら れます。

ところで、 サ ロンの形成が うなが された原因の一 つに、西晋時代 の竹林 の七賢、更 にはその 後 の清談 の風習 を考えていいと思 います。見方 を変 えれば、 あれ も一種 のサ ロンです。政治 に かかわ らない高尚な話 を していたわ けですが、気 に入 った仲間 と集 まって、 ああで もない、 こ うで もないと楽 しい話 を します。 そ して時 には詩文 を作 って公表す る こうい うことがサ ロン 文学 であれば、私 たちにとって も、 ある意味でわか りやすい もので はないで しょうか。 また、

サ ロ ン文学 の参加者 も、サ ロンにいる人 たちにわかれば、後世 の私 たちにわか らな くて もいい と居直 って しま うこともで きるか もしれません。

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基礎資料 の中 に、川勝義雄先生 の 『魂普南北朝』 とい う本 を挙 げま したが、川勝先生 は、

「六朝時代 は華やかな暗黒時代だ」 とお っ しゃってお られます。謝霊運 も処刑 されています し、

その他 にも、多 くの文学者が非命に倒れています。中国の文学者 イコール文字 を持っ階層 イコー ル知識人 イコールいや応 な く政治 にコ ミッ トせ ざるを得 ない人 々で した。陶淵明の視線 も、 マ イナスの意味での政治へのコ ミット、抗議 の意味での引退 と考え られます。六朝時代 において、

貴族 の華やかなサ ロンは、知的文学的雰囲気を もっていま したが、一面で は、 ある種 の世論が 構築 され る場 であ り、 そ こで評価を得 ることが、世 に出 るルー トで もあ りま した。 サ ロンの主 催者 は有能 な人物 をサ ロンに参加 させ ることによ ってサ ロンの名声 を挙 げよ うと し、参加者 は そのサ ロンに参加 を許 され るという名誉 によって世 にでよ うとす るよ うにな ります。 このよう に して、六朝 とい う中国史上希 にみ る貴族 の時代 におけるサ ロンの様相 も、 そ こで行われ る文 学創作 も、次第 に変容 して行 きます。

話 しを戻 しま しょう 曹操 は権力者で した。王義之や謝霊運 は六朝 を代表す る貴族 の一族で す。下世話 な話 ですが、サ ロンを運営 しよ うと思 った ら、集 まるだけで は何 ともな りません。

そ こには経済的 な裏付 けが必要 にな って きます。私 たちのただの コンパや打 ち上 げのよ うな集 まりを 「サ ロ ン」 と称す るのはお こがま しいですが、私 たちが集 まった場合 は割 り勘 にな りま す。 しか し、 この時代 においては当然そ ういうことにはな らないわけで、サ ロンの主催者が出 て きます。間口の広 いサ ロンであれば、陶淵明のよ うに、 ひ ょっとした ら陶淵明だけが突 出 し ていて、 あとはどうで もいいよ うな人 たちが集 ま って、詩 に もな らない詩 を作 っていたのか も しれません しか しで きるだけ、有名人 ・有能 な人 を集 めよ うとい うことになれば、 そのサ ロ ンを経営 ・運営す るだけの地位 と財力が必要 とな ります。 もちろん人 を引 きっ けるだけの教養 と人間的魅力 もあれば、 さらによいわけですが、 まあ、 それ は希望条件 のよ うな ものだ ったか もしれません そ うい う人 たちがサ ロンを主催す るよ うになると、必然的 に、気 のあ った人だ けが集 まる純粋 に浮世離れ したサ ロンで はな くな って行 きます。権力者がサ ロンを作 った ら、

「そ こに参加 すれば、何かいい ことがあるん じゃないか。 あの人 の ところに行 った ら、少 な く とも、ただで飲 み食 いで きる」と私などは考え ます。中国の詩人 も同 じ人間ですか ら、 そんな に変わ った ことは考 えません。 そ うす ると、そのサ ロンの参加者 になろ うと思 えば、 サ ロンの 主催者 に気 に入 られなければな りません これによ って、文学 も次第 に変容 して行 きます。

もちろん、権力者 もサ ロンの参加者 も、「このサ ロ ンに参加 した ら、 いい ことがある」 と露 骨 な ことは言え ません そのような俗 を離 れた ところでサ ロンが成立 しているとす るのが、曹 操以来のサ ロ ンの建前 ですか ら サ ロンは表面的には非常 に学術的 ・高尚な雰囲気を持 ってい なければな らないのです。謝霊運のサロ ンのあ とに、劉義慶 (403‑444)のサ ロンを挙 げま し た。 『世説新語』 とい う本があ りますが、 これ は、劉義慶が彼 のサ ロンに集 ま った知識人 たち に編纂 させた有名人 たちの逸話集です。 つ まり、 サ ロンに集 ま った ら、 うだ うだ話 しているだ けで はな く、何 らかの有用 な ことを しなければな らない とい うことで、文学的、学術的、知的 営為 のよ うな ものが いろいろ行われ るよ うにな ります。彼 のサ ロンとそ こで編纂 された 『世説

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新語』 はそのよ うな典型 の一つであると思 い、 ここに挙 げま した。

私 自身 は、梁 の時代が六朝文学 の典型 だ と思 いますが、 その先声 とな るのが、次 の責 陵王 (粛子良460‑494)のサ ロンです。寛陵王のサ ロ ンがあ ったのは南斉 の時代です。南斉 は大変 短 く安定 しなか った王朝 です。 このサ ロンに参加 した文学者 のなかで も、謝挑 (464‑499)、 王融 (467‑493)などが非命 に倒れています。「尭陵王子良、西邸を開 き、文学 を招 く」。高祖 とい うのは、梁 の王朝 を作 った武帝 (粛術 464‑549)です。 そ して、「沈約、謝跳、王融、粛 探、花雲、任防、 陸顕等、並 びに遊ぶ、漉 して八友 と日 う」。 いわゆる亮陵王 の八友 です 彼 らはこのサ ロンの代表的人物であ って、 サ ロ ン参加者 は、 この八人 だけで はあ りません。『南 斉書』の列伝 や、南斉 は短か ったので、次 の 『梁書』 の列伝 を見てみ ると、「尭陵王 のサ ロン に参加 した」、と書 かれている文学者が、 た くさんいます。伝記 に書かれ るとい うことは、 それ だけ名誉なことだ と考え られていたわけです。 このサ ロンにはかな り規模の大 きなサロンであっ たよ うです。

しか し、 このサ ロンは単 に多 くの人 を集 めた こと、次 の梁代 の皇帝が参加 していた とい うこ とで重要 なので はあ りません。

「永明九年 (491) ‑時 に盛 んに文章 を為 る 沈約、謝挑、王融、気類 を以て相 い推穀 し、

周蔵善 く声韻 を識 る。約等文皆な宮商を用 い、平上去人 の四声 を もちい、此れを以て韻 を制す。

平頭 ・上尾 ・蜂腰 ・鶴膝、五字 の中、音韻悉 く異 な り、両句 の内、角徴同 じか らず、増減すべ か らず、世呼 びて永明体 と為す」 と、 このサ ロ ンにおいて 「永明体」 (永明年間 は483‑493) とい う文学 の技法が成立 したのです。永明体 とは、一種 の詩 の格律 と言 って良 いか と思 います。

律詩 (絶句 も含 め)、初唐 に完成す る近体詩 の成立 に向 けて スター トを切 ったのが この永明体 だ と言われています。

中国語 には御存知 のよ うに四声 とい う高低 のアクセ ン トがあ ります。 中国語 を勉強す るとき に私 たち日本人、少 な くとも私 はこのために現在 も苦 しんでいますが、 この中国語 の持っ音声 的な美 しさに、 中国人 自身が明確 に気付 き、 それを どのよ うに用 いた ら美 しい文章や詩が作 れ

るか とい うことを考え始 めたのが、 この永明体 です。

中国語の中に、 どうもこのよ うなアクセ ン トがあ ると中国人 自身が気付 く為 には、他 の言語 との比較が出て こないとだめです。今 は、 そんな ことはないと思 いますが、例 えば生 まれた と ころを一歩 も離れず、 テ レビもラジオ も何 もなければ、 そ こで話 されている言葉 のみが唯一絶 対 です。 ところが、大学 に入 り、奈良 や京都 や東京へ出て くると、周 りが違 う言葉 を話 してい ます。 そ こで、「これは何 だ」 と考え、「じゃ、 自分が しゃべ っている言葉 は何 なんだ」 と、 自 分の話す言葉 を意識す るよ うにな ります。中国、漢民族 にとって、 自分 たちの言葉を考えるきっ か けにな ったのは、仏教 とい う外来思想 の本格的 な流入であろ うと思 われます。例 えば先 に紹 介 しま した謝霊運 の山水詩 に、仏教 の影響があることは既 に多 くの指摘があ ります。

仏教 は極 めて高度 な知性 と体系 を もっ思想 で、 しか もそれ は外国語で書かれている、 とい う ことで翻訳が始 ま ります。 そ こか ら 「じゃ、 その書かれている言葉 は何 なんだ」 とい う興味 と、

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そ こか らさ らに派生 して、「じゃ、 われわれが今 しゃべ っている中国語 は何 なんだ」 とい うこ とにな り、中国語 という言葉その ものに対す る関心が生 まれます。そ うして中国語 に四つのア クセ ン トがあることが認識 されま した。それが平声 ・上声 ・去声 ・入声 と名付 け られま した。

現在 の中国語 にも声調 (アクセ ン ト) として第一声か ら第四声 まであ り、平上去人 との対応 は 大体次のようになっています。現在 の第一声 と第二声が平声です。 そ して第三声が上声、第四 声が去声 にな ります。上去人の三っが坑声です 現在 の 「普通話」 と呼ばれ る標準語 の中国語 では、入声 は滅んで しまいま した。 しか しこの入声の名残が 日本語 の中に残 っていることは皆 さん もご存 じだ と思 います。 いわゆる‑p‑t‑kと、語尾 のつまる音がそ うです。

このような声調の認識が文学 に応用 されたのが先 はどの 「平頑 ・上尾 ・蜂腰 ・鶴膝」 などの 言葉です。 これは五言詩の一句五字、或 いは二句十字三句十五字の中で平 ・上 ・去 ・人の文字 をどう配置 していけば美 しく聞 こえるか、 この場合 どう配置 してはいけないかですが、 とい う 規則です。沈約 はこれを四声八病 (はっペい)説 としてまとめま した。 これは 「こうした ら美

しくない」 とい う八つの禁忌です。 この引用の文では、尭陵王のサ ロンで発見 されたように読 めます し、事実 はそ うなので しょうが、一応文学史では沈約 (441‑513)の説 ということになっ ています。

ただ、今残 っている詩 を見てみ ると、沈約 自身 も八病 をすべて避 けているわけではあ りませ ん 沈約の詩 の中にも八病 のどれかを犯 した欠点 のある詩が、 た くさんあ ります。ですか ら、

これは議論の過程 として、 とりあえず八っの禁忌が提示 されたとい うことです。 こののち、賛 否両論の議論が起 こり、 この八っ は厳 しす ぎるので、次第 に絶対 に してはいけない 「大病十 と 避 けた方がよい 「小病」 に、 そ して声調 の対応 も平声 と他の三声が灰声 と一括 され平r八二つの 対応 に声調の配置が簡略化 された りとい う、試行錯誤 を経て近体詩が成立 します。

四声八病説 は、 どうすれば美 しい詩が作れるか とい うことです。今で言 う‑ ウツー本 のよう な ものです。ハ ウツー本 は、改良 された新 しい ものが出た ら、前の ものは不要 にな り、捨て ら れて しまいます。新版が出た ら、旧版 は役 に立 ちません ですか ら、沈約の この考え方 は中国 では失われて しまいま したが、それが 日本 に残 されていま した。空海が留学中に文学理論書 を 集 め、帰国後 に編纂 した 『文鏡秘府論』の中に残 っています。『文鏡秘府論』 はつ とに小西甚

‑先生 に御研究があ りますが、現在では興膳宏先生 の手 になる詳細 な訳注があ ります (『弘法 大師空海全集第五巻』筑摩書房)0

八病説 は、純粋 に美 しい表現への希求 とみることもで きるで しょう。 しか し一方で、 それが 尭陵王のサロンを母体 として生 まれたとい うことは、それが、サ ロンの文学 とも深 く関わ って いたとい うことが分か ります。六朝 のサ ロンを舞台 に行われていた文学創作 は、何 よ りも美 し くなければな らなか ったように思われます。表現 の美 しさの追求が永明体か ら本格的に始 ま り ま した。では、内容 についてはどうだ ったので しょうか。

その前 にサ ロンに参加す るのは何 のためだ ったので しょうか。先 にも少 し述べ ま したが、 こ こで もう一度 ち ょっと考えてみたいと思 います。完全 に同 じというわけではないで しょうが、

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ヨーロ ッパや アメ リカの映画などで彼 の地 のサ ロンの様子 を見 ると、サ ロンはみんなを楽 しく させ、 それでいて機知 に富んだ会話 や表現で、 さりげな く豊富 な知識 を披渡 して 自己顕示す る とい うのがサ ロ ンの作法であ り、参加す る目的であ るよ うに思 われ ます。 ですか ら、 「うちの 子 どもは勉強がで きな くて」 などとい うよ うな話題 は、 サ ロンで はあまり歓迎 されません さ らにサ ロンの主催者 は概 ね権力者 で貴族ですか ら、 「雑草 ばか り茂 って実 は茂 らない」 とい う よ うな陶淵明のよ うな詩 は、理解 もで きなか ったか もしれませんが、泥臭 いのであま り好 まな いで しょう 六朝 のサ ロンで も、 このような生活 に密着 した話題 は、少 な くとも現在残 ってい る作品か らみて も排除 されたようです。六朝 サロ ン文学 で も、 みなを感心 させ る表現が必要で した。 その ことによって 自分 をア ピールす ることがサ ロンに参加す る、少 な くとも目的の一つ であ ったよ うに思 われます。

このよ うな機知 と博識を披露す るとい う参加者 の欲求 と、サ ロンの遊技的雰囲気がマ ッチ し た もの と して作 られ るよ うにな ったのが詠物詩です。現在 ここに私 を含 め ここにお られ る殆 ど の方 は、文学作品を黙読 とい う方法で鑑賞 していると思 います。 また、文学創作 とい うと、例 えば芥川龍之介 のよ うな神経質 そ うな作家が、頭 を抱えて孤独 に原稿用紙 に向か っている姿 を 思 い浮かべ るか もしれません。 しか しサロ ンにおいて、 みんなで輪 にな って黙々 と詩 を作 り、

黙 々 と鑑賞 していた とはあま り考 え られません。 さ らに創作 において も、主催者が 「じゃ、詩 を作 りま しょう」 と言 うと、 みんな、 その場で どん どん作 って発表 し、 その作品を耳で聞いて 鑑賞 した と思 われ ます。 しか しい きな り、「みんな、何 か詩 を作れ」 と言われ ると困 ります。

子 どものときの作文で も、「何で もいいか ら好 きな ことを書 きなさい」 と言 われると、結構困 っ た とい う記憶 が私 にはあ ります。 サ ロンで も似 たよ うな ものだ ったのではないで しょうか。 む しろ、題 を与 えて もらったほうが、 それにあわせて、即座 に作詩す ることによって、機知 のひ らめ きを示す こともで きます。 その意味で も詠物詩 は、 サ ロンの場 にふ さわ しい文学であ りま した 。

詠物詩 とは、 どうい うものか と言 います と、 これ もどん どん変化 してい きますが、サ ロンの 中で、 「これ につ いて詩 を作 りま しょう」 と、 その場 で与 え られた題 で詩 を作 ることです。例 えば今 ここに時計 があ りますが、 サ ロンの主催者 が 自分 たちの周 りを見回 して、「ここに時計 があるか ら、 この時計 について詩 を作 りま しょう」 と言 って、参加者 に作詩 を促すわけです。

最初 の うちは、 どうも各 自に題 を割 り当てたみたいです。

資料 には、謝眺 の詩集を挙 げま した。 この謝眺 の詩集 は、実 は大変貴重 な ものです。六朝 の 詩集 は、 ほとん ど途中で消えて しまいま した。 そ して、明の時代 に商業 出版が盛んにな った と きに、 明の人 たちが類書 と言 われ る本 などか ら再編集 しま した。例外的に古 いかたちが残 って いるのが、 この謝眺 の詩集 で、当時 の文集 の編纂 の仕方 とともに、作詩状況が非常 によ くわか ります。

また脱線 しますが、六朝 の文集編纂 (文集 だけで はあ りませんが) の状況がわか るのが、基 礎資料 の ところに挙 げた興膳宏先生 の 『隔書経籍志詳致』 とい う本です。 これは解説 も付 いて

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います。『障害』が作 られたのは唐 の初期 ですか ら、 その ころまでに存在 していた図書 の 目録 です。唐 の時代以降、文集 はどん どん失 われて行 きます、現在我 々が見 る文集 とは全 く異 な っ ていますが、謝桃 の詩集 はその当初 の形 を伝えています。

謝腕 の文集 の中に、次 のよ うな詩 があ ります。 「沈右率諸公 と同 じく鼓吹曲名 を賦す、先ず 成 る ものを次 と為す

」 。

「右率」 とい うのは官名です。「沈約 さん たち と一緒 に鼓吹曲 とい う楽 府 を作 りま した」。楽府 とは、簡単 に言 って しまえば民歌です。「早 くで きた者か ら順番 に並べ ま した

」 。

1番が沈約、2番が花雲、3番が 「時に随王文学為 り」 とあ るので謝跳、4番が王融、

5番が劉絵です。個人の文集 とい うと、私 たちはその人物 の作品 しか載 っていないよ うに思 い ますが、当時の文集 は、同 じ時 に同 じ場で作 った人の作品 も載せていた らしいです。 とい うの はこのよ うな文集の編纂の仕方 は、謝跳 の この詩集だけではないか らです。 日本 にだけ残 って いた 『翰林学士集』 とい う本 は、初唐 の頃の ものですが、だれの詩集 かわか りません。許敬宗 とい う人 の詩が多 く録 されていますが、 それ以外 の人の詩 もた くさん載 っているか らです。 し か し、 謝桃 の文集 か ら考 えれ ば、 これ は許敬宗 の文集 であ った可能性が高 いと考 え られ ます (この ことについて は、既 に興膳宏先生が 「「翰林学士集」 につ いて」 とい う論文で既 に言及 し てお られ る)。 それ はさてお き、 ここでわか るのは、参加者 に題 が配 られ、早 い者順 に詩が録 された とい うことです。

もう一 つ、 当時の作詩状況が分か るのは、「沈右率諸君 と別 るに和す」 です。誰かの詩 に和 して詩 を作 ることも、サ ロンで行 われ る社交的な文学 の一種で した。謝朕 の詩集 は儀別 と して 贈 られた詩を載せた うえで、 それ に和 した彼 自身 の詩 も載せているのです。当然、当時の作詩 の場で は、 このよ うな詩 の応酬が行 われた ことで しょう。 それが この文集 には再現 されている のです。

その次 も、同 じく謝眺 の詩で、「同 じく楽器を詠ず」 とい うのがあ ります。謝桃 は琴が当た っ たみたいです。王融 は琵琶、沈約 はまた別 の楽器 です。 これ は早 い者順か どうか はわか りませ んが。 いずれにせよ、 サ ロ ンで は、 「さあ、詩 を作 りなさい」 と言 われた ときに、部屋 の隅で 暗 く考えていて三 日後 に提 出す るとい うよ うでは、次か らはサ ロンに呼んで もらえません

ぐ作 らないとだめです。早 いほ うが名誉 にな ります。

要す るにサ ロンでは、即興 で しか も与 え られた題で詩が作 られ ま した。ですか ら、 そ こに自 分 の感情 を込 める余裕 はあ りません し、 またその ことに余 り価値 はあ りませんで した。 む しろ 価値があるのは、つ まり評価 して もらお うと思 った ら、一つ は、読 み上 げたときに リズムがい いとい うことです。 それが永明体 とい う技巧が生 まれた原因の一つです もう一つ は、機知 に 富んだ表現がで きるとい うことです。 そのためには、知識が豊富 でなければな りません 知識 豊富 とい うのはどうい うことで しょうか。例えば、 この琴 の詩 を見て くだ さい。 「洞庭湖 のほ とりで風雨 にさ らされた幹、龍 門で死 にそ うにな ってい る枝」。 これ は、 この琴が作 られた木 が どこにあ ったかです。 「その木 が切 り取 られ、彫刻 されて こうな る そ うい う優れた木 だか ら、響 きは、 こうなる そ こか ら流れて くるメロデ ィーは、 こうだ

」 。

「別鶴操」 とい うのは、

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琴 の楽曲の題名 です。 「その悲 しい調 べ に涙が流れて くる」 と、詩が展開 してゆ きます。 この 中の各句 は、 いわゆる典故 を踏 まえて作 られています。 このよ うに典故 をきちん と用 い、美 し く歌 った詩が評価 されたのです。ですか ら、読者 の側 も典故がわか らないといけません しか し一方作者 の側 も、何 も典故 を知 らず、例 えば琴だ った ら当然 引用 してお くべ き典故 を使わな い と、評価が下が ります。つ ま り詠物詩、物 を詠 うとい って も、 その ものの形状 を写生 して も 意味 は無 いのです。詠物詩 は極 めて主知 的な詩だ ったのです。 その物 に関す る典故 をた くさん 知 って、それを運用 して巧みに表現す る能力を示す ことこそが作者 の腕 の見せ所 とな ります。

ところで、典故 を知 っていて、 これを理解で きた らどうで しょう 私 は、辞書 を引かないと 何 も典故 はわか りませんが、わか った ときには、「あなたは、 この故事 を使 ったんですね」 と、

その作者 に何 とな く親近感 を持 ちます。恐 らくサ ロンの中で も、「あいっ、 この典故 を使 った な」 そ して、 「あの故事 を上手 く詩 に織 り込んでい るな」 とい うよ うに、作者 とそれを聞いて いる、 あるいは読んでいる者 との間 に一体感が生 まれたのではないで しょうか。知識の共有、

感覚の共有が、時間 ・場所 の共有 とともに、サ ロン文学 の楽 しさにな っていた と思われます。

資料 のその次 に挙 げた ものは、詠物詩 だ けではな く、 サ ロンで は連句 も行われたとい う例で す。主人公の曹景宗 は軍人です。中国の封建時代 において、軍人 は、 あまり高 く評価 されませ んで した。曹景宗が戦争 に勝 って凱旋 した ときに、彼を主賓 に して宴会 を開 き、韻 を振 り分 け て詩が作 られ ま した。沈約 は、 その ときに韻 を振 り分 ける係 にな っています。 「詔 して約 に韻 を賦せ しむ」 とい うのが、 それです。 ここか らも沈約のサ ロンにお ける地位 の高 さがわか りま す。 沈約がみん な に韻 を振 り分 けた ときに、 曹景宗 には もう韻 が な くな って いて、 「競」 と

「病」 の二つだけが残 っていま した。曹景宗 は、「この韻 は難 しいか ら、 おまえみたいな軍人 は やめておけ」 と言われたのに作 りま した。 そ して、すぼ らしい句がで きま した。 この ことか ら、

サ ロンでは、詠物詩 のように物 ・題名 を振 り分 けるはかに、韻 を振 り分 けることも行われた と い うことが分か ります。そ して どち らも早 く出来 ることが価値であ ったのです。

題や韻 をその場で振 り分 けることが行 われていた ことは、次 に挙 げた劉孝緯 (481‑539)の 詩 の題名か らも分 か ります。彼 も梁 の時代 の人です。梁以降の詩 を見 ていると、 このよ うに

「賦得何 々」 とい う題名の詩が多 く見 られ るよ うにな ります。 この 「賦得何 々」 とい うのは、

サ ロンでその場 で割 り当て られた、 あ るいは、 くじで

いた題 であ ることを示 します。「賦 し て何 々を得 た り」 と読 む ことにな って います。 この とき劉孝縛 は、 「碁盤 を照 らす燭台 (しょ くだい)」とい う題名が当た りま した。 とこ■ろが、 ろ うそ くに刻 み 目で も付 けていたのか、五 分 の刻 み目の ときに、 もうで きて しま った とい うことも題 に加 え られています。 これ は、要す

るに自慢です。

この劉孝縛 の詩 を見て くだ さい。 「燭台」 が題名ですか ら、 この詩 も詠物詩 のひ とつです。

ところが、4旬 日を見てみ ると、「華燭佳人 に命ず」 とあ り、「繊手 の巻 (倦 む) を解せず、夜 を農 に向かわ しむを蓋ず」 とあ ります。碁盤 を照 らす燭台を もっている女性 に焦点があ ります。

これが六朝時代 の次 の流行 にな ってい きます。

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次 に、梁 の簡文帝 の資料 を出 してお きま した。梁 の簡文帝 の ところを見 ると、徐陵 (507‑ 583)と庚信 (513‑581) とい う二大人物が出て きます。 この人 たちによ り、六朝時代 の文学 は最盛期 を迎 えます。 また逆 に、後世、六朝文学が批判 され るのは、 この人 たちのせいとされ ます。彼 らが流行 させた詩風 は宮体詩 と呼ばれます。 これが梁か ら初唐 にか けて大流行 します。

宮体詩の流行 については、資料 に徐陵のお父 さんの徐檎 (474‑551) の伝記 を挙 げま した。

「文体既 に別」 そ して 「春坊」 とい うのは皇太子ですが、「宮体 の号 ここに起 こる」とあ ります。

また、庚信 の伝 ですが、 ここにはこのスタイルを 「徐庚体 と為す」 とあ ります。 これ らの引用 文か ら、 この詩風 の大流行が ご理解 いただ けるか と思 います。

宮体詩 は、資料 の簡文帝 の伝記 に有 ります よ うに、「軽艶 に傷 む」 と、過度 に軽 やかで艶 や かであると批判 されます。劉孝縛 の詩 の下 に引用書 と して 『玉台新詠』 とい う書名を挙 げま し た。 この本 は、梁の簡文帝 の命で徐陵が編纂 したとされ る詩集で、一言で言 うと、色 っぽい詩 を集 めたとされ る詩集です。詠物詩が作 られ続 けると、 テーマが どん どん細分化 され、 内容 も 細密 にな ってゆ きます。例えば 「琴」か ら 「琴 の糸」のよ うにな ってい くわ けです。 さらに題 名 も 「具体的な もので はな く、抽象的な ものに しよう」 とい うことにな り、女性 は美が重要 な テーマとして浮上 して きま した。楽府題で女性 をテ‑マに作 られた とす ると、初期 は単 に 「美 人」 であ った ものが、「美人 の指」 や 「美人 の髪 の毛」 にな り、 さ らに美人 の内面 にな ってい きます。宮体詩流行 のひとっ はそのよ うな詠物詩 の進化が考え られます。 そ して もう一つ は、

サ ロンの欠点である閉ざされた空間 とい うことがあるか もしれません。後で述べ ます陳後主 の サ ロンを考えます と、 まあ卵が先か鶏が先かですが、 そのような ことが考 え られ るのではない か と思 います。

宮体詩が どれ ぐらい流行 していたのか。資料 に 「帝」 で始 まる文章 を挙 げま した。 これ は唐 の時代 の資料 です。英明な唐 の太宗 (李世民598‑649)が宮体詩 を作 り、虞世南 (558‑638)

とい う人物 に和 させ よ うと しま した。 ところが、 「そ うい うものは雅正 でない」 か らと断 られ た話 です。 しか し逆 に唐 に入 って も皇帝が作 るほど流行 していた とい うことがわか ります。 そ して宮体詩が批判 され るの も、常 にこの 「雅正」でないとい う点 なのです。確か にそうです。

簡文帝 の詩 の題名か ら少 し選んでお きま した。「人が愛す る妾 を馬 に換 えた」。 ものす ごく非人 道的な題です。 また、「徐録事 の奥 さんが布団を作 っているときの詩」。何 とな く色 っぽいです。

そ して、「奥 さんの昼寝」。次 の 「嬰童」 は、男色 の相手 の ことです。 それか ら、「美人 の朝化 粧」。 こうい うなまめか しい ものが作 られていきます。一 つの新 しい美 を発見 した と言 えな く

はないですが。

『梁書

徐陵伝」 に 「其 の文頗 る旧体 を変ず」とあるのは、永 明体、具体的 に言 うと沈約 か ら、 さ らに一歩進んだ とい うことだ と思 います。サ ロンとい う文壇 に新 たな リーダーが登場 した とい うことを言 っているので はないで しょうか。 それまで は沈約が文壇 の リーダーで した が、 「沈約 なんて古 いよ」 と言 って現 れたのが徐陵 と庚信 であ った とい うことが言 いたいので はないで しょうか。 そ して、 その詩風 を学 び、 その詩風 を会得す ることが、即 ちサ ロンで評判

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を得 ることで、 その ことが 出世 につなが って行 くとい うことを、 この伝 の記述 は示 しているの で はないで しょうか。

宮体詩 は正 の評価 として は、新 しい美を発見 しそれを洗練 された表現で詠 ったと言えま しょ うが、頚廃 の傾向 とい う負 の側面 を腔胎 していま した。 その宮体詩の負の面が行 き着 いたのが 陳の後主 (陳叔宝553‑604)のサ ロンであ り文学 です。最後 の資料を ご覧下 さい。陳喧 とい う サ ロ ン参加者 は、 あ るとき、柱か らさかさまにぶ ら下 げ られ ま した。 そ して、 その下 に刀が立 て られ、「さあ、詩 を作 ってみろ」 と言われま した。す ると、 あっとい う間 に詩 を作 りま した。

こうな ると、文学 とい うよ りは技芸 です。 サ ロンの遊戯性 もここに極 まれ りとい う感 じです。

杜牧 の 「秦准」 とい う詩 に、 「商女 は知 らず 亡国の恨 み、江を隔てて猶唱 う 後庭花」 と い う句 があ ります。漢文 の教科書 に も載 っていますので聞 いた ことがおあ りか と思 います。陳 の後主 の ことを歌 っています。陳の後主のサ ロ ンは、非常 に欄熟 したサ ロンにな りま した。六 朝 の閉 ざされた、仲間内だ けの詩 の行 き着 いたのが このサ ロンです。私個人 は、梁 の簡文帝 た ちの詩 は、 もう少 し評価 されていい と思 っています。む しろ陳の後主 の このよ うなサ ロンとい うフィル ターを通 して見 られ ることによ り、少 し悪 く取 られ過 ぎているような感 じが していま す。

しか し、陳の後主 たち も悪 いわけではあ りません。資料 に 「立春の 冒‑、各 自一字ずつ字を 威 して‑」、 あるいは 「良夜履長 (冬至) に宴会 を した。十人で詩 を作 った」 とあ ります。韻 が割 り当て らて詩を作 るとい う遊 びを しています。 日本 において も漢学者 たちの遊 び と して明 治 まで続 いた 「探韻」 と言 われ るものです。 おみ くじのよ うにガチ ャガチ ャと振 って、 ぽん と 出て きた竹 ひ ごのところに韻が書 いてあ り、 それで詩 を作 るとい う遊 びです。 それ は、 この と きに完成 しま した。遊技的作詩、社交 としての作詩 の作法 を確立 させたのです。

最初 に述べま したよ うに、六朝 の詩 はあまり評判が良 くあ りません それはなぜで しょうか。

中国の文学 は、孔子様 の影響 で しょうか、世 の中を良 くす るために貢献 しなければいけないと 考 え られていますが、 それ に全 く反す るか らです。最初 に指摘 しま した梁の簡文帝 の言葉 「立 身 の道 は謹重 なるべ し、文学 は放蕩 なるべ し」 だか らです。

唐 の初期 に六朝詩 を批判 した文学者 たち、 日本で も正倉院 に文集が残 っていることで有名な 王勃 (649?〜676?)などですが、彼 らは北朝地域の出身者が多いのです。言葉 は悪 いですが、

洗練 された貴族 に対 して、 いわば田舎の秀才です。 田舎 の秀才 は、 ま じめに勉強 して いますか ら、 「孔子様 の言 うことを守 らない六朝 の詩 はだめだ」 と言 うことにな ります。 ところが、 そ の人 たちが文学 の世界 に参加す るためには、六朝以来 の貴族 に認 め られない といけませんで し た。 その矛盾が火花 とな って唐代 の・文学 を鮮 やかに しま した。

六朝 の詩 は、 中国文学史上最 も華やかな唐代 の詩 に対 してスパ ークのよ うな役割 を果 た した と言え ます。 また近体詩確立 のために貢献 も忘れて はな らないで しょう 永明体や梁 の簡文帝 のサ ロ ンを通 して、 よい詩 とは何か、 よいメロデ ィーとは何 かが確立 していきま した。文学作 品 は形式 と内容が二大要素 ですが、少 な くともその形式部分 を完成 させ たのが六朝文学 とい っ

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て もよいと思 います。 もちろん六朝文学が唐の準備 と しての位置付 け しかない と言 うつ もりは あ りません 独 自の美意識があ りま した し、む しろその後 の中国文学 における美意識 は、六朝 詩 をある面では越 え ることが無か ったので はないか と思 います。

さて、最後 に王義之 の 「蘭亭序」が、 なぜ 『文選』 に入 らなか ったか とい うことについて、

少 しだけ推測 を述べて、 この拙 い話 の結論 めいた ことに したいと思 います。 それ は、 この序が 個人 の考えを述べた ものであ ったか らで はないで しょうか。六朝文学 は、 これ までお話 して き ま したよ うに、個人 の考えで はな く、 サ ロン全体 の考 えを反映 した もの、 サ ロ ンの調和 を重視 した文学であ りま した。時間 ・空間 ・知識 ・感覚 の共有 こそが六朝文学の特色 と言 え ると思 い ます。 そのよ うな観点か ら見 ると、 この序 は少 しはずれ るところがあるよ うに、私 には感 じら れ るのです。

サ ロンは、唐 の玄宗皇帝 の時に起 こった安禄山の乱 を最後 に崩壊 します。 サ ロ ン文学 の崩壊 を象徴す るのが李 白 (701‑762)の逸話 です。事実か どうかわか りませんが、李 白が楊貴妃を 褒 め るために美人 の典故 を使 って詩 を作 りま した。 ところが百官の高力士が、 「楊貴妃 さん、

あの典故 はあなたを馬鹿 に しているんです よ」 と典故 の解釈 を変えて謹言 し、 それで李 白は玄 宗 の宮廷か ら追われた とい う逸話があ ります。六朝 の閉 ざされたサ ロンであれば、典故 に対す る共通理解があ りま した。 そのよ うな基盤 の崩壊 を この話 は象徴的 に示 していると私 は思 って います。

「蘭亭序」や、先 はど少 し名前 を出 しま した初唐 の文学者王勃の詩序が、 日本 の文学 に大 き な影響 を与えていると言われ ます。 しか し六朝 にあ って、「蘭亭序」 は孤立 した存在 に近 く、

詩序 は王勃 をは じめ と して初唐 の時代 にな って盛んに作 られ るようにな ります。初唐 の時期、

王勤等新興の知識人階層 は、六朝 の貴族 のサロンのまねを して詩を作 りま した。つ ま り、成 り 上が りの知識人 たちが集 まって、酒 を飲んでいるだけでは仕方がないか ら詩 を作 ったわけです。

そ して、貴族 のサ ロンの作法 をまねて、 みんなで韻 を割 り当てて詩 を作 りま した。 しか しこの 人 たちは貴族ではあ りません。不遇 な官僚や官僚 を目指 している人 々です。抑 えに抑えている 感情 をその場で表現 したいわ けです。 しか し、それが探韻 のよ うな遊技的作詩 で は表現 で きま せん そのために作 られたのが、初唐 において爆発的 に増え る詩序 だ ったのです。

日本文学 の奈良朝 か ら平安朝 の序 は、確かに王勃 たちの序 の表現 をまねているのか もしれま せん しか し、私 はよ くわか りませんが、内容 には王勃等 のよ うな悲憤 さや不遇感 はあま り無 いよ うに感 じています。考 えてみ ると日本 において この時期詩序を作 った人 たちは、王勃 らと 同 じ階層の人たちではな く、む しろ六朝時代の文学者 に近 い人 たちであ ったよ うに思われます。

そ うであれば、六朝 のサ ロン文学 は六朝 で滅 びま したが、 日本で存続 したと言 え るので はない で しょうか。

●坂本 道坂先生、 あ りが とうございま した。 これでお三方 の講義が終わ りま した。講師の先 生方 に質問が あれば受 け付 けますが、 どなたかあ りますか。特 にあ りませんか。 なけ れば、本 日の講義 は、 これで終 わ ります。 どうもあ りが とうございま した。

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