いが︑評者は中南米の古代文明宗教の専門家ではない︒従って︑誰よりもアステカ宗教について熟知している著者の言葉を出来るだけ生かして内容を紹介し︑専門家でない評者の︑おそらく的外れなことが多いだろう所感を述べて︑与えられた責を果すことしか出来ない︒
﹁序 古代メキシコとの出会い﹂によれば︑著者は大学三年生の時にメキシコに旅をし︑メキシコ市郊外のテオティワカン遺跡や市内にある国立人類学博物館を訪れて︑古代メキシコの宗教を知りたい︑分かりたいという強い欲求を感じたという︒そしてその後︑大学で荒木美智雄氏に出会い︑自分が感じた﹁アステカ人を分かりたい﹂という欲求が︑﹁宗教的人間を理解すること﹂あるいは﹁宗教現象を解釈すること﹂への渇望であると認識し︑それから約二十年後に本書を世に問うことになったという︒
本書は以下の﹁序﹂と五つの章︑そして﹁結び﹂を中心とし︑そこに注︑参考文献︑あとがき︑索引が続く体裁となっている︒
序 古代メキシコとの出会い第一章 アステカ人の供犠と宇宙論 1 メソアメリカとアステカ人 2 アステカ王国の都││テノチティトラン 3 テノチティトランの一年の宗教的行事││一八の祭祀 4 五二年に一度の﹁新しい火の祭り﹂
5 二元論的宇宙論 岩崎 賢著
﹃ ア ス テ カ 王 国 の 生 贄 の 祭 祀
││ 血・花・笑・戦 ││﹄
刀水書房 二〇一五年八月刊四六判 ⅵ+二〇二頁 二二〇〇円+税 松 村 一 男 本書が取り上げるアステカは中南米の古代文明の一つである︒他にマヤ文明︵ユカタン半島︶とインカ文明︵アンデス︶があるという程度は一般にも知られているだろう︒しかしこれら三つの中南米文明の宗教となると︑日本ではほとんど知られていない︒試みに宗教学の事典類に当たってみるがよい︒﹃世界宗教大事典﹄︵平凡社︶︑﹃宗教の事典﹄︵朝倉書房︶には項目さえない︒﹃世界宗教百科事典﹄︵丸善出版︶には﹁アンデスの宗教﹂︑﹁マヤの宗教﹂︑﹁アステカの宗教﹂があるが︑分量は多くない︒このように事典類から得られる情報は少ない︒
エリアーデの意志を継いでドイツで編まれた﹃世界宗教史﹄の続編には︑ダヴィド・カラスコによる﹁メソアメリカの諸宗教││都市と象徴﹂の項︵第四十章︶があり︑アステカとマヤについてはより詳しい情報を得ることが出来るが︑インカについての項はない︵﹃世界宗教史 七﹄ちくま学芸文庫︶︒
そうした専門家不足の中で本書によってアステカ宗教が分かりやすい形で紹介されることは誠に喜ばしい︒ただし申し訳な
著者は﹁結び﹂において各章の内容を自分で要約して述べている︵一六二︱一六四頁︶︒以下では著者によるこの要約をそのまま引用することにする︒果たしてこれが評者としてあるべき態度か自分でも疑問に感じるが︑しかし︑専門家ではない評者が︑著者が示している要約を無視して︑敢えてそれと異なる内容紹介をするのは極めて困難なので︑こうした形とする︒
第一章では︑アステカ人の宗教伝統の基本的性格について論じた︒まず彼らの宗教伝統において際立った重要性を持っていたテノチティトランの一八の年中の祭祀︑および五二年に一度催される﹁新しい火の祭り﹂の概要を示した︒そして彼らの宗教伝統の基底をなす︑宇宙についての基本的なものの見方である﹁二元論的宇宙論﹂の概要を示し︑そうした宇宙論がよく表現されている例として︑一八の祭祀の一つであり︑アステカの守護神・太陽神であるウィツィロポチトリの誕生を再現する儀礼であるパンケツァリストリの祭祀について論じた︒そしてそれが︑宇宙に宿る﹁熱い力﹂と﹁冷たい力﹂という二種類の力の︑融和︵聖婚︶とせめぎあい︵戦争︶を通して︑宇宙に均衡と調和の状態を打ち立てようとする試みであったことを示した︒
第二章ではアステカ供犠の実相に接近した︒まず︑この宗教的行為においては﹁神々に血を捧げる﹂という神話的主題が際立っており︑この主題を中心に従来のアステカ供犠論が展開してきたことを示した︒そしてそうした従来的 6 パンケツァリストリの祭祀││聖婚と戦争第二章 神々に血を捧げる
1 神々に血を捧げるという主題 2 アステカ供犠に関する従来の議論 3 ︽機械のアナロジー︾とその問題点 4 創造的解釈学の試み第三章 神々から血を頂く 1 神々から血を頂くという主題 2 太陽から血を頂く 3 月・星・大地から血を頂く 4 ︽大いなる生命体︾のアナロジー第四章 花と笑い 1 タモアンチャンの花咲く木 2 笑う詩人・笑う踊り子 3 ﹁笑う神﹂テスカトリポカ 4 現代メキシコ先住民の神話における笑い 5 状況の創造的移行としての笑い第五章 クエポニ││戦場に咲くアステカ戦士 1 戦士の神話 2 戦場において﹁咲く﹂こと 3 ﹁炎に飛び込む神﹂の神話 4 生きるために死ぬ神 5 笑うアステカ戦士結び 宗教現象における創造の力
﹁笑い﹂﹁歓喜﹂﹁踊り﹂等の要素が世界創成の出来事と一体のものとして語られており︑この創造性という点において︑これらの要素が﹁世界樹の開花﹂の主題と結びつくものであることを明らかにした︒
第五章ではそれまでの議論の内容を受けて︑アステカ人身供犠の重要な形式の一つであった﹁戦いの供犠﹂について考察した︒まず最初に︑アステカ人にとってもっとも重要な神話的アルケタイプの一つであったウィツィロポチトリ誕生神話が︑アステカ人のいかなる歴史的経験の中から生まれたものであるかを論じた︒それから︑いくつかのナワトル語古代詩において︑戦場で命をかけて戦うアステカ戦士たちの様子が︑﹁開花﹂の主題と強く結びついていることを明らかにした︒
最後に︑この﹁クエポニ﹂という動詞が︑﹁炎の中に飛び込んで太陽になった神﹂の神話の重要な局面で使用されていることを示し︑アステカ戦士たちはこの神話を究極的模範として︑戦場において︑歌いながら︑踊りながら︑そして笑いながら︑宇宙創成の瞬間を華々しく生きようとしていたということを論じた︒
まず全体の印象を述べる︒一般読者も想定されているためか︑文章は大変に分かりやすい︒また神々や祭りの名前の意味が丁寧に解説されているし︑図や地図が適切に配置されていて︑理解を援けてくれる︒索引も﹁事項﹂︑﹁神の名など﹂︑﹁地名﹂︑﹁人名﹂に分けて作られていて︑とても完成度が高い︒た 議論がしばしば︽機械のアナロジー︾に基づいてアステカ供犠を説明してきたことで︑この宗教的行為のリアリティに接近することを難しくしてしまっていることを指摘した︒ 第三章では︑第二章で示した問題を乗り越えるべく︑﹁神々から血を頂く﹂という神話的主題の重要性を明らかにし︑アステカ供犠をよりよく理解するためのアナロジーとして︽大いなる生命体︾という概念を提示した︒そしてアステカ宗教においては︑供犠によって宇宙の生命力としての血液が︽大いなる生命体︾の体内を循環し︑そこで様々な事物が生成するという出来事が︑﹁世界樹の開花﹂という象徴的表現によって表現されていたことを示した︒
第四章では前章で示された﹁世界樹の開花﹂という神話的主題が︑﹁笑い﹂という神話的主題と強く結びついていることを論じた︒最初にアステカの宗教的な古代詩に見られる﹁タモアンチャンの花咲く木﹂という主題を検討し︑さらに古代の詩人の詩作体験や︑アウィアニ︵踊り子・売春婦・巫女︶の事例などを取り上げながら︑アステカ人の宗教伝統において﹁花﹂と﹁笑い﹂の主題の間には密接な関係があることを示した︒それから﹁笑う神﹂テスカトリポカに関して︑﹁神話的都市トゥーラの崩壊﹂の伝説を始めとするいくつかの事例を検討し︑そこに﹁神の操り人形になって笑いながら踊る﹂という主題が認められることを示した︒
最後に現代メキシコ先住民の神話をとりあげ︑そこでは
女神の化身とされる女性などである︵ただし︑捕虜の戦士が圧倒的に多かったようだ︶︒彼らは階段状神殿で神官によって生きたまま心臓をえぐり出され︑その心臓は神に捧げられる︒そして死体は階段から下に投げ落とされる︒その後︑死体は解体されて食される︒
これはかなり乱暴な一般化で︑個別の例はもっと多様である︒しかし︑他の地域たとえば評者が関心を持ってきた印欧語族の供犠と比較するなら︑人間が家畜の代わりに供犠されていたという点は間違いない︒
第二章はこうした人身御供祭祀について︑伝統的に神々と宇宙に対してエネルギーを補給し︑宇宙環境システムを維持するという﹁機械のアナロジー﹂理論が優勢であったことが紹介され︑しかしそうしたモデルでは﹁リアリティに接近することは難しい﹂とされ︑﹁︿機械﹀とは異なる︑別のアナロジーを探す必要がある﹂とされる︵七一︱七四頁︶︒
第三章では前章を受け︑﹁神々から血を頂く﹂という別のアナロジーが示される︒つまり︑﹁人間が太陽・月︵星︶・大地に血液を捧げるのと同じように︑太陽・月︵星︶・大地も人間に血液︵体液︶を捧げている﹂のであり︵九二頁︶︑﹁同じ血液を分け合う一つの巨大な生命体の一部だということであろう﹂︵九三頁︶︒宇宙は機械ではなく︑生命体として理解すべきだし︑だからこそ︑人も神も世界も自らの血を捧げるというのだ︒また︑﹁幹から血を噴出させ﹂︑花を咲かせた樹木が描かれた絵文書が紹介され︑この﹁世界樹の開花﹂が誕生=創造の最高のシンボルであるとされる︒ だ限られた紙幅のため︑やむを得ないのだろうが︑欲を言えば︑﹃フィレンツェ文書﹄︑﹃クアウティトラン年代記﹄︑﹃クロニカ・メヒカーナ﹄といった史料の由来︵作成者︑作成年代と作成地︑作成の目的︶︑特徴︵の違い︶などについての説明があるともっと有難かった︒
さてここからは非専門家である評者による各章の感想である︒著者自身の要約とは見方や考え方が幾分違うかも知れないが︑専門家でないということで何卒ご容赦願いたい︒
第一章はメソアメリカの歴史と宗教︑そしてその中でも特に本書が取り上げるアステカ王国についての概説で始まる︒メソアメリカの文化は先古典期︵前二五〇〇︱後二〇〇︶に始まり︑その後︑古典期︵後二〇〇︱九〇〇︶︑後古典期︵後九〇〇︱一五二一︶の三期に分けられるが︑そのうち一三二五年からスペイン人による征服による滅亡︵一五二一年︶までメキシコ高原中央部︑現在のメキシコ市一帯に都市国家テノチティトランを築いた民族がアステカ人であり︑最盛期の人口は二〇万以上であったという︵一〇頁︶︒このようにメソアメリカ文明自体はほぼ四〇〇〇年続いたが︑そのうちアステカ王国はほぼ二〇〇年という短い期間であったという点については︑本評の末尾で触れたい︒
次いで一月が二〇日で︑それが一八あるという祭祀暦︵二〇日×一八か月+五日の物忌み=三六五日︶での月毎の祭祀と五二年に一度の﹁新しい火の祭り﹂とが紹介される︵一四︱四八頁︶︒絶えず祭祀を行っていたらしい︒そして多くの祭祀とは人身御供である︒捧げられるのは子供︑捕虜となった敵戦士︑
カと同じような宗教的宇宙観が人身御供の理由であったのか︑である︒
アステカとマヤは地域的にも近く︑相互に交流があったとされている︒暦︵二六〇日祭儀暦と三六五日太陽暦の併用︶︑人身供犠︑球戯︑太陽神崇拝︑階段状神殿ピラミッド︑世界の周期的更新の神話といった両宗教の共通性はそこから説明できよう︒両者をまとめて﹁メソアメリカの宗教﹂という名称があることも納得できる︵﹃世界宗教百科事典﹄七〇八頁︑参照︶︒しかし太陽神崇拝︑ピラミッド︑人身供犠はインカにおいても認められる︒メソアメリカのマヤとアステカについては︑紀元前千年頃にメキシコ湾岸地方を中心に誕生したオルメカ文化の基本的性格を継承しているので共通性が見られ︑またアンデス地方の場合も︑前千年紀初頭にオルメカ文化とよく似たチャビン文化が始まり︑その性格が続くモチェ文化やナスカ文化に継承され︑最終的に十五世紀にインカ帝国が成立するという説明もなされている︵初期王権研究委員会編﹃古代王権の誕生 Ⅳ﹄角川書店︑二〇〇三年︑三八〇頁︶︒
こうした宗教の共通性=連続性はどのように理解すべきなのだろう? アステカ宗教の独自性はメソアメリカ宗教そしてさらには中南米古代文明宗教というより大きな枠組みの中にどのように位置づけることが出来るのだろうか? この点について︑短くてもよいからどこかで触れて欲しかった︒ 第四章では﹁世界樹の開花﹂という神話的主題が︑﹁笑い﹂という神話的主題と強く結びついている理由の分析が行われている︒しかし第三章までの血腥い人身御供の記述と︑この花と笑いのつながりの分析の関係が評者にはよく理解できなかった︒ 第五章は﹁戦いの供犠﹂についてだが︑戦士の戦いについても花の比喩が用いられていることが指摘される︒そして︑﹁戦士たちにとって大切なことは︵中略︶﹁花の戦場﹂において見事に咲く︵中略︶ことだけである﹂︵一五四頁︶とか︑﹁アステカ戦士たちは︑花のように咲 わらっていたのではないだろうか﹂︵一五五頁︶というまとめが述べられる︒
評者は︑第一章から第三章までで一応の供犠宗教についての紹介と分析︵﹁血﹂︶は終わっており︑第四章と第五章はその発展形あるいは応用として﹁花﹂と﹁笑﹂と﹁戦﹂の関係の理解を行っているという印象を受けた︵本書の副題は﹁血・花・笑・戦﹂である︶︒
読み始めて最初に受けた︑極めて独特な宗教だという印象は読後もあまり変わらなかった︒そうした独自性を理解したい︑そしてその意味を読者に分かってもらいたいという著者の熱意と努力は十分に伝わってきたが︑しかし︑アステカ人の宗教観念についてなぜこういう特異な形態を取ったのかについて納得できたかと問われれば︑正直︑中々難しいと感じた︒
そしてそれと同時に別の疑問も持った︒それは︑こうした人身御供はアステカだけだったのか︑それともマヤやインカにおいても行われていたのか︑そして行われていたのなら︑アステ