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謎はすべて解けた、のか? : 呪術師の呪力と怖れを めぐって

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

謎はすべて解けた、のか? : 呪術師の呪力と怖れを めぐって

川田, 牧人

中京大学現代社会学部

https://doi.org/10.15017/2344599

出版情報:九州人類学会報. 36, pp.66-76, 2009-07-12. 九州人類学研究会 バージョン:

権利関係:

(2)

ホスト・モダニティの呪術妍究へ()/[, 掠谷、 JI/

謎はすべて解けた、のか?

—呪術師の呪力と怖れをめぐって 1)

川田 牧人(中京大学現代社会学部)

キーワード:呪術、呪術師、呪力、ミステリ、オカルト言説、合理性、怖れ

I . 大衆ミステリとしての『ガリレオ』

大きく趣をかえたとはいえ、テレビ・シ リーズの映画化としては、『容疑者 Xの献 身』は画期的な早さだった。テレビ・シリ

ーズは 2007 年 10 月 ~12 月の放映であった

から、じつにその一年後には劇場版が出来 上がっている。画期的な早さというのは、

映画化されたテレビ連続ドラマシリーズと して比較対照されうる『ケイゾク』、『トリ ック』に比べて、群を抜いているという意 味である。すなわち『ケイゾク』は一年半 後、『トリック』はじつに二年後であること を考えると、その背景には平均視聴率20%

オーバーという快挙があったものと思われ

る。ちなみに『ケイゾク』は 13~1s% 、『ト

リック』は何作か制作されシリーズごとに 尻上がりに伸びたが、第一シリーズの視聴 率はーケタ台であった。

『ケイゾク』、『トリック』、『ガリレオ』

というこれらの三大ミステリ・テレビドラ マシリーズは、類似する点も多いが、その 反対に対比的な点もかなり多い。いずれも 一時間枠の連続ドラマであるが、『ケイゾ ク』はTBS、『トリック』はテレビ朝日、『ガ リレオ』はフジテレビというように、系列 が違う。主人公は男女のペアという点では 共通しているが、その組み合わせは異なっ ており、この男女ペアの組み合わせがそれ ぞれのドラマの基調を構成している。『ケイ ゾク』の場合は迷宮入りしかけた過去の難

事件を次々と解決するキャリア組の切れ者 女性刑事と、ワケアリそうな男性刑事のコ ンビが登場する。『トリック』では、物理学 者とマジシャンが一見超常現象のように思 われる事件のタネを暴き出して謎解きする。

そして『ガリレオ』では、その名の通りガ リレオというニックネームをもつ物理学者 が、刑事の勘をふりかざす女性刑事を尻目 に、不可能犯罪と見られる事件を物理現象 として「合理的」解決を見出すのである。

この中ではマジシャンと物理学者というカ ップルがもっとも異色であるが、ミステリ という性格上、警察関係者を登場させる必 要から、公安部警部補もレギュラーメンバ ーとなっている。

以上のようなそれぞれのドラマの基本的 プロットの特徴を端的に示しているのは、

各主人公のドラマ中の決めゼリフである。

ミステリ連ドラの人気は、 ドラマ中、主人 公が発する決めゼリフにもよるところが大 きいが、『ガリレオ』の主人公である天才物 理学者・湯川学が発するのは、「ありえない、

なぜそう言い切れるんだ?」であり、「さっ ぱりわからない、実におもしろい」である。

これを前二作と対比させてみると、『ケイゾ ク』の柴田純刑事は「あの一、犯人わかっ ちゃったんですけど」であり、『トリック』

の自称天オマジシャン山田奈緒子は「お前 らのやったことは、すべてお見通しだぁ!」

である。これに、プロトタイプの『金田一 少年の事件簿』を加えてもよい。金田ーは

(3)

制作・放送 時期

視聴率

映画化

登場人物

決めゼリフ

非合理要因

ホスf・モダニティの呪術硫究へ慎:、禅谷、 JI/ 1 三大 TVミステリドラマ比較表

ケイゾク トリック ガリレオ

TBS  テレビ朝日 フジテレビ

1999 年 1 月 ~3 月 2000 年 7 月 ~9 月 2007 年 10 月 ~12 月 2002 年 1 月 ~3 月 スペシャル=2008年10

2003 年 10 月 ~12 月 月 スペシャル=2005年11 月

13~1s% 第一期: s~10% 19.6~24.7%

第二期: 10~12%

第三期: 1s~1s%

24.7% 

2000年 2002年 2008年 2006年(第2作)

柴田純・警視庁捜査一 山田奈緒子・マジシャ 湯川学・帝都大学准教 課警部補(中谷美紀) ン(仲間由紀恵) 授(物理学)(福山雅治)

真山徹・警視庁捜査一 上田次郎・日本科学技 内海薫・貝塚北署刑事 課警部補(渡部篤郎) 術 大 学 助 教 授 / 教 授 (柴崎コウ)

(物理学)(阿部寛)

山田里見(野際陽子)

矢部謙三・公安部警部 補(生瀬勝久)

「あの一、犯人わかっ 「お前らのやったこと 「ありえない、なぜそ ちゃったんですけど」 は、すべてお見通しだ う言いきれるんだ?」

ぁ!」 「 さ っ ぱ り わ か ら な い、実におもしろい」

真山の妹殺しの犯人・ 山田里見・奈緒子の家 ある現象にはかならず 朝倉のメタモルフォー 系は、沖縄の神役とい 原因があり、原因と結

ゼ う設定。 果は対応している、と

終わらない最終回 書道家・里見は文字に いう徹底した科学的合 魂を込める。 理主義

じめの決めゼリフは、「謎はすべて解けた」

であった。つまり、『ガリレオ』以外の作品 の決めゼリフはすべて、事件が解決された ときに発されるものであった。それは、大 衆ミステリの醍醐味が謎解きの快感にある からだという説明で、一見うなずけるよう にも思われる。しかし、『ガリレオ』におけ

る決めゼリフ、「ありえない、なぜそう言い 切れるんだ?」や、「さっぱりわからない、

実におもしろい」は、謎解きの場面ではな く、事件発生の場面、すなわち謎の提示の され方において特徴をもっているというこ とができる。(もっとも金田ーはじめの「じ っちゃんの名にかけて」は例外的な扱いを

(4)

ホス f. モダニティの呪術餅究へ煉'",押谷、 JI/ せねばなるまい)。事件解決のときのガリレ

オは、意外にも饒舌ではない]

謎の解決のされ方より、提示のされ方の ほうにウエイトがかかるというのは、探偵 役の活躍が、犯行の実現不可能性とのギャ ップで描かれることだといえる。『ガリレ オ』での謎の提示のされ方というのは、物 理現象としては成立不可能と思われるよう な事故・事件が起こり、それが実現可能で あることを湯川准教授が実証していく、つ まり故意の殺意が働いていることが実証さ れるというストーリー立てである。このよ うな組み立ては、『トリック』においても、

心霊現象と思われた出来事のトリックを種 明かしすることによって謎が解決するのと 似ている。しかし最初の提示のされ方にお いて、いかにそれが不可能であるかの強調 が『ガリレオ』より弱いのだ(エピソード の冒頭で、過去の心霊事件をもっともらし く説明する紙芝居風の解説が不可能性を演 出するが、それは作中の世界とは一応分離 している)。『ケイゾク』においては、迷宮 入りしかかっている継続捜査案件が対象で あり、難題ではあれ、不可能性の強調はな されない。すなわち、不可能性の強調は、

ドラマの放送時期に順行して、『ケイゾク』

→ 『トリック』→ 『ガリレオ』の順に強く なっていくといえるであろう。

これに反比例するかのように、「ミステリ 的合理性」のほつれは、『ケイゾク』→ 『ト リック』→ 『ガリレオ』の順に弱くなって いく。「ミステリ的合理性」とは、謎の解決 のあと一点の曇りもなく合理性が確保され るか、ということである。この点、物理学 的く実証>をおこなう『ガリレオ』には非 合理要因はほとんど残らない。しかし『ト

リック』になると、山田奈緒子の母・里見 は南島の神役の家筋であり、現在は書道家 として言霊をあやつる能力をもっていたり、

家系的に奈緒子も霊能力を継承したりして いるという設定がモチーフとしてくり返し 用いられることがあり、謎解き役の主人公 自らが「非合理性」を引き込むのである。

さらに『ケイゾク』にいたっては、真犯人 と思しき人物が次々とメタモルフォーゼを 遂げ、最終回ですら実は謎が「ケイゾク」

される、という幕切れであった。つまり、

冒頭の不可能性の提示とのギャップを際だ たせ、コントラストを明確に出すために『ガ リレオ』では「ミステリ的合理性」は破綻 しないが、「謎はすべて解けた」と宣言すれ ばするほど、じつは謎はまだ残っており、

「ミステリ的合理性」に未到達である、と いう構造があるのである。

II.  UFO言説のポストモダン

謎についての語り口、とくにその提示の され方が、「ポスト・モダニティの呪術研究」

というセッションの主題への登攀路となる のではないかとの予測から、もうすこし遠 回りを続けたい。木原善彦は『UFOとポス トモダン』(平凡社新書、 2006年)という 本のなかで、UFOにまつわるうわさ話を次 のように三期に分類している。

第一期=「空飛ぶ円盤」期 (1947~1973

年)実体としての円盤を、実際に目撃した という証言の語りを特徴とする時代。

第二期=エイリアン期 (1973~1995 年)

家畜が大量に不可解死をとげるとか、エイ リアンに誘拐された経験をもつ人間などの 語りが増加し、空飛ぶ円盤そのものではな く、その影響としての異星人による仕業・

作用、すなわち「陰謀」に焦点があてられ る。

第三期=ポスト UFO 期 (1995 年~)陰 謀論は大衆化し、科学はパロディ化される。

環境ホルモン、マイナスイオンなど、より 漠然と、より大規模に絡め取られる社会不 安が語りの中心をしめる。

この分類によると、第一期は「科学」に よる超越的な視点が優勢を保っていた時代 であり、超越的な他者、あるいはく大文字

>の他者の存在を前提にしているという点 で、近代のプロジェクトによる世界の被覆 を特徴としている。ところが第二期になる

(5)

ホス f. モダニティの呪術硫究へ (J/[,押谷、 JI/ と、近代のプロジェクトが破綻し、もしく

は極限化されて合理性は非合理性へと反転 する。それに合わせて、「大文字の他者」も、

社会秩序を操る背後的存在である「他者の 他者」に転換する。すなわち陰謀論の登場 である。

ちなみに日本におけるオカルティズム流 行を論じた一柳廣孝編著『オカルトの帝国』

(青弓社)には、日本のオカルティズムの 成立を 1973~74 年と措定する基調にした がって興味深い論考が収録されている。こ れによると、小松左京の SF小説『日本沈 没』の刊行が1973年、翌74年には映画「エ クソシスト」の日本公開、ノストラダムス の予言の流行、ユリ・ゲラーの超能カブー ムなど、オカルト現象満開の状態となり、

さらに76年あたりから 70年代後半にかけ ての横溝正史ブーム(前節で述べた金田一 はじめの「じっちゃん」、金田一耕助のリバ イバル・ブーム)へと連なっており、たし かに日本にオカルティズムの流行には特定 の時代的傾向性がうかがえる。その特徴を 編著者は「日本におけるオカルトブームが 1970年代初頭に起きたのもうなずける。石 油ショックによってもたらされた高度経済 成長の終焉は、公害の蔓延とともに科学技 術に対する盲目的な信頼を揺るがせ、科学 を支えてきた合理的思考に対する疑念を生 んだ。一方、さまざまな公害の被害によっ て広がった自然回帰の流れは、われわれが 自明のものとしてきた日常世界に対する懐 疑を呼び覚ます」[‑柳 2006: 10] と指摘

している。

さらに第三期になると、第二期にあらわ れはじめた陰謀論が大衆化し、もはや誰か の仕業である「陰謀」ですらなくなるほど に、現実と虚構は反転した状態になってし まう。遠い星からやってきた他者ではなく、

自己内増殖するような異分子とか、システ ム内のアンチシステムとか、秩序の中のノ イズとか、そういったものへの漠然とした、

しかしより大規模な不安が、この時期の語 りを牽引しているのである。

前節で取りあげたミステリとの対比で考 えると、徹底した科学的合理主義によって 謎の解き残しがない『ガリレオ』は「空飛 ぶ円盤」期的語りに、逆に最終回が無限運 動化する『ケイゾク』はポスト UFO期に 近いものとして考えられるかもしれない。

もっともミステリと UFO言説とのあいだ にパラレルな関係を見出すにあたっては、

あまり類型的に並置しないほうが有効であ ろう。初期のミステリの醍醐味が啓蒙主義 的理性の勝利や(科学的)合理主義による 間題解決であったとしても、前節の最後に 触れたように、近年の大衆ミステリは「謎 はすべて解けた」のあとに、小さく「のか?」

と疑問符をつけること自体に快楽を見出す ような娯楽でもあるからだ。いくら『ガリ レオ』でも、「直線的な歴史のかなり先を走 っている存在(空飛ぶ円盤に乗る宇宙人)

から遅れをとっている存在(地球人)」[木 原2006:37]といった、ある意味ではきわ めて進化主義的な図式に完全にあてはまる というわけではない。そのひとつの根拠は、

前節でも述べたように、『ガリレオ』の決め ゼリフが謎の提示部分において発せられて おり、謎解きの快感のみを醍醐味とする古 典的ミステリ(いわゆる本格もの)消費の ありかたとは必ずしも一致しないことであ る。そしてもう一点、大衆ミステリはUFO 言説のように、時代を追って類型的に変化

していっていないこともあげられる。ある ときには「空飛ぶ円盤」期の語りのように 絶対的他者のもとで揺らぎのない真実や合 理性が謎を解く側面もあれば、ポスト UFO 期の語りのように現実と虚構が反転したり、

解けたはずの謎に疑間符がつけられたりす る側面ももつ。

このような見地から、未知なるもの、一 見して不可知なものを語るモードとして

「ポスト・モダニティの呪術研究へ」とい う主題へと連接することは可能ではなかろ うか。とくに UFO言説の場合、エイリア ン期ならびにポスト UFO期の語りは、と もに「近代のプロジェクト」終焉以降の形

(6)

ホスト・モダニティの呪術硫究へ煉~, 禅谷、 JI/

表2 UFOの語りの三分類(木原善彦『UFOとポストモダン』平凡社新書、 2006年より作成)

「空飛ぶ円盤」期 エイリアン期 ポスト UFO期 実年代 1947‑1973  1973‑1995  1995‑

象 徴 的 (連合赤軍事件まで) (地下鉄サリン事件ま

事件 で)

語 り の そ の 実 体 化 と し て の ミ ュ ー テ ィ レ ー シ ョ ン 陰謀論の大衆化 内容 UFOそのものの目撃事 (家畜の不可解死事件) 科学のパロディ化

件 アブダクション(人間が →環境ホルモン、マイナ エ イ リ ア ン に 誘 拐 さ れ スイオンなど、もっと漠 る) 然としているが、もっと UFO墜落事件 大 き く 絡 め 取 ら れ る 不

安へ。

語 り の 超越的な他者(大文字の 「他者の他者」 陰謀論はもはや、誰かの 意味 他者) =社会秩序を操る背後的 仕 業 と し て で は な く 、

「科学」による超越的視 存在 「陰謀」ですらなくなる

JI =陰謀論 ほどに、現実と虚構は反 転する。

時 代 の 近代のプロジェクト 近 代 の プ ロ ジ ェ ク ト の 自己内の異質性

意味 破綻、もしくは極限化に シ ス テ ム 内 の ア ン チ シ よ る 合 理 性 の 非 合 理 性 ステム

への反転 秩序中のノイズ

大澤・東 理想の時代 虚構の時代 不可能性の時代

態であることから、本特集との関連も少な くないものと思われる。そのあたりを手が かりに、徐々に呪術そのものへと話をすす めていきたい。

m .  

呪術のほうへ

本稿の出発点となったセッションが構想 された時点において設定されていた課題

(問題意識)は、本特集のイントロダクシ ョンでもふれられているように、① 「モダ ニティ論」以降の呪術研究が進みうる道筋 の展望、②ポスト近代というコンテクスト 的眺望、の二点であった。筆者の個人的感 覚としては、①の可能性と、②の困難性を 拭い去ることができない。このうち②の困 難性という点は、前節で述べたことと関連 しており、ミステリと UFO言説の区分が 完全な一対一対応を示していないとすれば、

=動物の時代

呪術論においてはそのズレはなお一層大き なものとなるのではないか、という観点か らのものである。 UFO言説の場合、実年代 による時間軸を明確に区分してなりたつ三 つの時期のあいだで語りの傾向がかなり鮮 明に異なっているという木原の説明は、か なり説得力をもって提示されている。そし てエイリアン期以降の語りがポストモダン の語りとしての特徴を持つことも、実際の UFO言説に如実にあらわれている。しかし そこで指摘されているポストモダンの語り

としての特徴、すなわち現実と虚構の反転 や、自己内の異質性、システム内のアンチ システムなどの指摘は、呪術論においては ー特定時期の特徴というより、時代区分に 限定されないような呪術全般にかなりの程 度妥当することではなかろうか。それをも って呪術の本質であるとか一般的特徴であ るとかいうのはあまりにも性急に過ぎるこ

(7)

ホス f ・モダニティの呪術妍究へ煉~, 姉谷、 J!/fB) とは重々承知であり、また安易な一般化は

回避すべきではあるが、少なくとも UFO 言説のように、「ポストモダン期の」といっ た時代的限定の範囲内で展開される呪術論

とは明らかに隔たりがある。

すなわち、モダニティ論以降の呪術論は、

ポストモダンの思想に絡め取られたり、あ る一時代状況のもとでの特質であるかのよ うな錯視によって、呪術そのものが矮小化 して捉えられてしまうようであってはなる まい。むしろ一部のポストモダン論に見ら れるような、マクロな世相解説もしくは単 なる社会評論とはまった<逆の方向に活路 を見出すべきであろう。それは、呪術その もののほうへ思考を開いてゆき、その豊か な本源に到達する企図でもある。上記①の 可能性というのはまさにこの点に見出され るのであって、いったん図式的な社会還元 論にまで抽象化された呪術を、ふたたび具 象の世界に回復させることにほかならない。

このプロセスにあって「微細な視点への要 求」に応えるために、エスノグラフィック な文脈を厚く書き込んだ呪術研究は、「モダ ニティ論」以降の呪術研究を前進させてい

く推進力をもっているはずである。

端的に述べるなら、 UFO言説において

「ポストモダン期の」特徴とされたような、

自己内増殖する異分子、システム内アンチ システム、秩序内ノイズなどは、呪術論に あっては固有の時代的特質であるというよ り、呪術そのものの本源的性格である。し たがって、「モダニティ論」以降の呪術論へ の展望として、大衆ミステリや UFO伝説 を経由して予測しうるのは、モダニティを 先鋭化させていった先にあるのは、「彼我の 別なき境地」、もしくは二代目桂枝雀になら って、「夢のような、現のような」状態だと いうことである。たとえば高座で正座をし て座布団から離れないという動作の限定が あることによって、「動けないがために、い くらでも動ける」、舞台背景や大道具などを

用いず、扇子や手ぬぐいなど最小限の小道 具だけで演じることによって、「何もないが ために、何でもできる」といった拘束と自 由の一見矛盾したような極限の境地を演じ 楽しむ落語の特徴を「境目のなさ」という 点に見出し、「夢のような、現のような」と いった境界線上の世界を、まったくの創作

としてではなく、しかし厳然たるリアリテ ィとしてでもなく演じるのが落語だという わけである見

この「夢のような、現のような」境界線 上の記述という主題は、たとえば石井美保 が提起する「超常的なるもの」の民族誌記 述の問題と通じるところが少なくない化 あるいはまた、藤原聖子が指摘するような

「実体的(非)合理性」の概念がしつくり くる。呪術的行為がよって立つ知識の側面 に力点をおくときに明るみに出される「理 論的合理性」と、その行為が何を目的とし てそのようにふるまうかを問題視する「実 践的合理性」にくわえ、当事者たちが「ゾ ツとする」という畏怖の感「青の源泉にある ものをさして、「呪術研究における第三の合 理性、現在では半ば忘れられている合理性 とは、この当事者によって体験される不思 議さのことである。…正確には「実体的合 理性」(体験される合理性)というものはな く、「実体的非合理性」があるのみである」

[藤原 2005: 204]と説明される。このよ うな知識と行為のはざま(もしくは両者の 接点)からわき上がってくるような感覚や 感「青、当事者を「ゾッとさせる」不思議さ や恐怖を詳細に掘り下げていくことは、モ ダニティ論以降の展開にとって、有望な道 筋のひとつである。

筆者がこの「実体的(非)合理性」に着 目するのは、それが対象社会の住民のもっ 観念を客観的に描写しているだけではなさ そうだからである。たとえ霊的体験(たと えば精霊を目撃するとか、自らが呪力を行 使するエージェントになるとか)そのもの

(8)

ホ。スト・モダニティの呪術硫究へ陳. , .禅谷、 JI/ は不可能であったとしても、その場でゾッ

とすることはじゅうぶんにあり得ることだ という意味で、「実体的(非)合理性」は、

「内」と「外」の境界を突破するポテンシ ャルがある。いまひとつは、対象社会の内 部に限っても、呪術をはさんで加害と被害 に二分されるような社会的位置関係を固定 化して捉えないことが可能になりそうだか らである。呪術が生起させる怖れや不思議 の観念は、いつどこでだれに起こっても、

それこそ不思議ではない。あるいは、定則 的に結果が引き出されないからこその恐怖 なのだともいえよう。これらの点からも、

「実体的(非)合理性」を捉えることは、

「彼我の別なき境地」あるいは「夢か現か」

の未分明な状態を明らかにするために重要 な概念操作であることがわかる。以下、や や具体的な事象にふれながら、「彼我の別な き境地」あるいは「夢か現かの状態」へと いたる手がかりを探りたい。

先に述べた加害/被害の関係の固定化と は、呪術師は呪術をかける側、一般住民は かけられる側という見方を固定してしまう ことである。それは、恐怖を提供する側/

恐怖を感じる側、という一方向的な関係に スライドしてしまうことは容易に想定され るが、じつは、はじめ被害者と思われてい たものが加害者であった、あるいはその逆 であったというのは、ミステリではすでに 常套手段である。呪術の民族誌記述におい ても、それと同様の関係性を捉えることは 可能であるはずだ。そもそも呪術とは万人 に開かれている技術であるから、呪術師だ けが安全圏内にいるわけではなく、呪術合 戦や対抗呪術にやられてしまう呪術師の話 はフィールドに満ちあふれている。すなわ ち、呪術について恐怖の念に苛まれ、その 被害を一方的に受けるイノセントな一般住 民ではなく、当の呪術師が抱く恐怖という 主題が成り立ちうるはずである。もっと平 べったくいえば、一番怖がっているのは呪

術師当人ではないのか、という問いである。

呪術という特定の技術は、それを行使す るからといって呪術師本人がその作用原理 を「合理的」に解しているとは限らず、む しろ当人がもっとも「実体的非合理」にか らめとられやすい側面も持っている。それ は、極言すれば「知らぬが仏」の一般住民 とは比すべきでないほどにその道に通じて いるがために、かえって真の力を実感しや すいのだという言い方も可能であろう。こ の点で、同じ語ではありながら、手品magic のようにその使い手(手品師)はそのタネ を全部知っているといった類の技術とはま ったくの別物である。呪術における加害/

被害という図式をずらすためには、このよ うな手品における演技者/観客というアナ ロジーを見直すことも重要であろう。しか しより広範に、不思議さや戦慄をひんぱん に経験して、特殊な状況に翻弄されたり苛 まれたりするヴァルネラブルな存在として の呪術師像というものがある。ビサヤ地方 でdagaと称される呪術師になる前の前兆、

徴候は、本人や近親者に生じる不幸・不運 であり、呪術師はその活動の初期段階から すでに運命に抗うことのできない無力な存 在なのである。その意味で、彼らは決して 特権的な超越者ではなく、むしろやむにや まれず呪術師にならざるを得なかった者で あるとも言える。

呪術師自身の怖れがもっとも顕著に読み 取れるのは、彼らが持つとされる呪力toga の側面においてである。 togaとは偶然手に 入れられる力であり、価値中立的な力の一 般概念としての gahumのベネヴォレント な側面であり、逆にマレヴォレントな発現 であるpintasとは対として考えられている。

あるいは gahumという一般的力は、偶然 獲得されたことがよき力として認識されれ ば toga、邪悪なものとして捉えられれば pintasにふり分けられるとも考えられる。

このtogaが運命的な前兆dagaと密接に関

(9)

ホスf・モダニティの呪術硫究へ慎',押谷、 JI/ 連していることについては別のところで詳

述した[川田 2003]。ここではそのような 民族誌記述からも漏れ落ちてしまいがちな 微細な事例を掬い上げてみる(以下は、1997 年のフィールドノートより一部改編して転 記したものである)。

【事例1】メリシオ・イルストリシモと いう男は、漁に出ているときに海上を流れ てきたリブリトを拾った。彼は文字が読め なかったので書いてあることの意味がわか らなかったが、そのリブリトの内容は、夢 の中に出てきたために全部習得することが で き た 。 習 得 す る こ と が で き た 技 は 、 Escrema (武術一般)、 Pagobol(身体を硬

くする術)、Pabtik(身体を敏捷にする術)、

Patanga (敵を動かせなくする術)などで あった。しかしやはりある時、海に出てい てリブリトをなくし、それ以来、上記のよ うな術はいっさい効力がなくなってしまっ た。

このような話の後、しばしば、「あのリブ リトを失ったので、私の身を守るものはな くなってしまった」と悟って観念するとか、

戦々恐々と暮らして程なくして死んでしま うといった結末が語られる尺

呪力の獲得と喪失をその源泉と思しき呪 物の発見と紛失になぞらえるというこの考 え方の背景には、いかなる日常的な生が営 まれているのであろうか。ビサヤ地方には

「幸運をもたらしてくれる物」sangodとい う観念があり、専門的な呪術師にかぎらず ひろく一般にも実践されている。それは、

めったに手に入らない珍しい物が偶然手に 入ることがあり、それには呪力togaがそな わっているという偶然性がもたらす呪術で ある。

【事例2】1968年ごろ、コブコブ(まき刺 網漁法)の網の修理をしていると、となり

で作業をしている人の手の甲に、飛んでい た鳥がフンを落としていった。たまたま通 りかかった鳥がちょうど手の甲に命中する ように落としていったのはたいへん珍しい といってその男は喜び、タバコの銀紙に包 んで持ち帰った。後日、聖ロザリオのフィ エスタの前夜祭に開催された闘鶏にくりだ

し、その鳥のフンを鶏の刃の表面に塗って 戦わせると、五戦全勝だった。彼はその後、

生まれ故郷の東ネグロス州ビサイ市の闘鶏 でも勝ち続けた。

【事例3】1940年代、インフォーマント の祖父は、たまたま畑でタマネギの花が咲 いているのを見かけた。それをプノット(追 い込み漁の仕掛け)の棒の先に、ココナッ の葉で包んでさしておいたところ、一日で 船一杯 csoo~7ookg) の魚が獲れた。しか しそれは数週間もすると見あたらなくなり、

その後、大漁はとまってしまった。

【事例 4】聖木曜日、聖金曜日に、教会 にたくさんの人が礼拝に訪れるのを狙って、

教会の入り口にプノットやコブコブで使用 するロープをならべておくことがある。な るべく多くの人に踏んでもらうことでかえ って珍しい漁具となり、大漁を招くことが あるからだという。

事例 2、 3のように、偶然に手に入った 珍品が呪力 togaを発揮するというケース がもともとの形態であろうが、事例 4のよ うに、あえて珍しい状態を人為的に作り出 して呪力を期待するという場合もある。つ まり sangodとは、偶然性や稀少性を特徴 とし、その特徴が幸運の誘因として想定さ れた呪物であるといえる。

このような呪物には禁忌がつきもので、

sangodの場合、見つけたことを誰かにしゃ べってしまうと効力が失われると考えられ、

秘密にしておかなければならないという。

(10)

ホスト・モダニティの呪術妍究へ (J/[̲押谷、 JI/ したがって上記のような事例は常に事後的

に、あるいは当事者以外の人物によって語 られる。また、家の中に持って入ると呪カ が失われると考えられる場合があり、常に 戸外で使用される。家屋内に保管しておけ ないため、紛失の機会も多いわけだが、あ るとき突然、偶然に手に入ったsangodは、 やはりまた突然失うこともあるという観念

もあったようで、事例3がそれを示してい る。この事例をはじめとして、 sangodはき わめて暫時的な性格をもつものであるがた め、よき力togaが認められるときにはそれ を享受するが、通常は 2~3 ヶ月で喪失して しまうものだという非永続性も折り込み済 みであり、いつまでもそれに執着できない ことは半ば了解された事項であったのだろ う。要するに sangodから得られる力は、

特定個人が永続的に所有権を主張できるよ うな資産や財物としてではなく、むしろそ の特定個人を取り巻く「かりそめの」状況 的環境のようなものとして想像されている のである。

ところが事例1の場合、明確に語られて いないが、偶然手に入れた呪物を、ふたた び偶然に紛失してしまうというプロセスは、

けっきょくプラスマイナス・ゼロになった という話ではないとみなされている。まず sangodに付随する togaという観念を下敷 きにして、呪術師の知識や技術、資質など、

いわゆる呪力が偶然手に入るという状況が 語られることは容易に想像できるが、その 際sangodとして想定されるものは、呪文 祈禰書リブリト・サ・オラシオネスや、十 字架、メダイなどの聖具であるというとこ

ろに、呪物として落差をともなった認識が 成り立つ。事例 2や 3のように鳥のフンや タマネギの花といった「かりそめの」状況 的環境に適合するような、つまりいつ紛失 してもおかしくないような物質ではなく、

むしろ大切に保管され半永久的に所有して おくことが期待されるような聖具であるこ

とが、それを紛失したときの衝撃、いわゆ る「バチが当たる」といった感覚を喚起さ せるわけである。同時に、 togaを偶然手に 入れたことによって、その人物は呪術世界 のカラクリを見知ってしまう。その揚げ句 に呪物=呪力を失ってしまうことは、呪術 世界に関する知識を得る以前のような安寧 を取り戻すことはできず、知っているが故 の恐怖に駆られながら生きていくことにほ かならない。それは、いったん獲得してし まった呪術モードによって世界が見えてし まうがゆえに、余分の恐怖や危険にさらさ れるということでもあろう。その意味では、

呪術師自身の恐怖は、呪術知識を十分にも たない「ふつうの」人々の比ではないのだ。

事例1のような語りは、一般的なsangod の得失についての意識をもった「ふつうの」

人々によって語られたものの典型であろう。

これは先ほど述べたように非当事者の語り であり、その分、恐怖がそぎ落とされてい るといえる。そうではなく、この語りのあ とに延々と続けられるであろうはずの語り こそ、呪力を喪失してしまった呪術師本人 の口から出る怖れのことばではないだろう か。そこには依頼者の問題を一点の曇りも なく解決し、「謎はすべて解けた」と高らか に宣言する超越者としての呪術師でなく、

呪力という防御のなくなった心細い生身を 晒しておろおろとうろたえる呪術師の姿が 浮かび上がる。そのような呪術師の心細さ

{夢さを描き出す「夢のような、現のような」

民族誌は、あるいはモダニティ論以降の呪 術研究にこそ可能なのではないだろうかと、

それこそ夢想するのである。

1) 本稿の出発点は、 2008 年 10 月 25~26 日にか

けて、サンビレッジ茜(福岡県飯塚市)にお いて開催された九州人類学研究会オータムセ ミナーのセッション B「ポスト・モダニティ の呪術研究へ」でのコメントであった。本特 集の趣旨からして、リライトを最小限にとど

(11)

f,• モダニティの呪術妍究へ煉~, 禅谷、 JI/

め、当日のコメントをなるべくリアルに再現 することが望まれているであろうことを勘案 し、本稿前半部は当日のメモを再構成するこ とにつとめた。しかし各個別発表への直接コ メントの部分は省略し、さらに本稿後半部は、

当日のコメントには含まれていなかった展開 部分を新たに書き下ろしたため、全体として みると整合性に欠ける部分があることを、あ

らかじめお断りしておきたい。

2)本稿執筆時点において、東野圭吾原作の探偵 ガリレオ・シリーズは、『探偵ガリレオ』、『予 知夢』、『容疑者 Xの献身』(以上文春文庫)、

『ガリレオの苦悩』、『聖女の救済』(以上文藝 春秋社)が刊行されているが、テレビ・シリ ーズと異なる点も多い。そのひとつは、テレ

ビ・シリーズでは内海薫の先輩役にあたる草 薙俊平が、小説でのコンビ役となっている点、

本文でとりあげた決めゼリフが原作にはない 点などである。またそもそもテレビドラマシ リーズの比較のため、本稿では原作は参照し ていない。

3)そのような特徴を最大限に活かせるような噺 として、枝雀の晩年の創作落語である「夢た まご」をあげることができる。主人公の男は、

野良仕事の途中で夕食までの腹の虫養いにと、

通りがかりの玉子屋から、食べると何らかの 夢をみられるという夢たまごを買う。食べて みると、果たしてその玉子屋になってしまう 夢を見る。夜になりいざ女房と同会という段 になって、本物の玉子屋に踏み込まれ、間男 を咎められたところで目が覚める。見ると玉 子屋はまだ視野の届くところをとぼとぼと歩 きながら玉子を売っている。彼のあずかり知 らぬ夢の中で起こった出来事を、本当の秘め 事のように感じてひとりほくそ笑む男に対し て、遠くを歩きながら玉子屋がつぶやく。「な んぼ夢の中でも、していいことと悪いことが あるぞ」。なお、ここであえて落語の事例をあ げたのは、本稿の最後でふれた呪術の喚起す る恐怖の感情が、落語によって引き出される 笑いと、コントラストをなしつつもパラレル であるという側面に強い関心があるからであ る。「恐怖と笑いは紙一重」と一般によく言わ れるが、その様態を根源的に検討することは、

本稿の範囲をはるかに超えてしまうのでここ では展開できないものの、呪術研究の大きな

積み残しのひとつである。

4)ただし「虚構」と「現実」の境界に立つとい う入り口は共有しながら、到達する結論には かなりの距離を感じる。石井はガーナにおけ る自身のフィールド記録において、小人を目 撃した事実を民族誌的に記述することに積極 的な意味を見出し、その根拠を、身体を回路 として生活世界の日常性が自明化するプロセ スがフィールドワークの経験そのものに具わ っているからだとし、いわばフィールドヘの

「住み慣れ」だと述べるのだ[石井2008:232] しかし何十年フィールドに住み続けても、霊 的存在が見えない人には見えないだろうこと、

訪問地社会の住民においても見える人と見え ない人がいるだろうこと、あるいはまた当の 人類学者自身も、アウェイではなくホームで 霊的体験ができるかというと必ずしもそうと はかぎらないことなど、いくつかの単純な事 実をならべるだけでも、「慣れ」の問題で解消 されない部分が大きく介在していることは明 白であろう。そのような本人の霊を見やすい 体質の如何に関わりなく、「夢のような、現の ような」ものごとのとらえ方を、認識の問題 として追究するというのが筆者の立場である。

そしてこの「認識」とは、単に頭の中での作 用というにとどまらず、無意識のうちに動作 によって反応してしまうといった領域の事象 をも含みこんでいる。

5)呪力の喪失について、関一敏は次のような事 例を紹介している。「授かった呪力を失うこと がある。その場合、…しるしがその人物の手 を離れたというふうに表現する。数年前に精 神状態のおかしくなった呪医は自ら親戚の村 長のもとに出向いてトガを一式(メダル、小 祈躊書)預けた。治療にあたった複数の呪医 たちの話では、約束ごとを守らなかったこと、

畑で精霊にやられたことなどが病の理由であ ったが、巷ではメダルなどをなくしたために 力を失ったという噂が流れた」[関1997:353] また、「隣町に住む強力な助成呪医 Bが数年前 に金銭のもめ事で甥のひとりに殺害された。

薬材集めをしている息子が母親の家に行って みたが、確かにあったトガのしるしがどうし ても見つからなかった。母親の死とともに姿 を消したのだろうという。婚出した二人の娘 とともに、息子はその後、自らが夢見ること

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沢スト・モダニティの呪術硫究へ慎~, 禅谷、 JI/

を待っているのだが、まだ誰もその体験に恵 まれていない」[関1997:356]。このように、

呪物の紛失が呪力そのものの喪失として語ら れるフエティシズムを指摘することができる。

さらに、呪力の喪失が、呪術師(呪医)本人 の精神状態の不調や死に直結して語られてい る特徴も顕著である。

参照文献 藤 原 聖 子

2005  『「聖」概念と近代ー批判的比較宗教学 に向けて一』大正大学出版会。

一 柳 廣 孝

2006  『オカルトの帝国一1970年代の日本を 読む』青弓社。

石 井 美 保

2008  「フィールドにおける『超常性』のと

らえかた」李仁子・金谷美和・佐藤知久 編『はじまりとしてのフィールドワーク』

昭和堂、 pp.217‑238。 川 田 牧 人

2003  『祈りと祀りの日常知ーフィリピン・

ビサヤ地方バンタヤン島民族誌一』九州 大学出版会。

木 原 善 彦

2006  UFOとポストモダン』平凡社。

関 一 敏

1997  「呪術世界の描き方」脇本平也・田丸 徳善編『アジアの宗教と精神文化』新曜 pp.347‑366。

(2009年5月28日 採択決定)

参照

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