ジャンバニエの
ジャンバニエの
ジャンバニエの
ジャンバニエの手紙
手紙
手紙
手紙
2013年 復活節皆
皆
皆
皆さまには
さまには
さまには信
さまには
信
信じられないこと
信
じられないこと
じられないこと
じられないこと
かも しれませんが、私は、丸三日間、ベルクのビ ーチで休暇をしています。トロリーから20 0kmも離れているこの場所へ、オディール が車で連れてきてくれたのです。イエスの小 さい姉妹会が、自分たちの会のすぐ近所に小 さなお家を見つけてくださっていて、そこは 海からもベルクの広大なビーチからも、そう 遠くないところにありました。 ほとんど砂漠のようなビーチに沿って私は、 固くなった砂地を長いこと散歩いたしまし た。海自身は無限の広がりですが、その海の そばを4時間、毎日、散歩しました。ベルクは、 ヨウ素をたくさん含有する海の空気によるい やし効果と、紫外線の照射による再活性効果 の特性で有名な所です。しかし、このスパリ ゾートはまた、「クワ、クワ」と音楽のよう なカモメの鳴き声でも有名です。間違いなく カモメたちは、とても優雅な飛び方、空気中 でのとてもゆったりとしたホバーリング、こ うした自分たちの存在をわかってもらえる術 を知っています。 イエスの小さい姉妹会のシスターたちといっ しょに祈り、食事をし、そして分かち合う時 間を持てたことは、喜びでした。また、福音 の小さい兄弟会のジラール兄弟ともごいっし ょすることができて嬉しかったです。電話か らも、訪問客からも、そしてやるべきことか らも解放され、本当に私は、いい休息と体の 運動をすることができました。トロリーでは
トロリーでは
トロリーでは
トロリーでは、
、
、
、
フランス語と英語による ヨハネ福音書の勉強会を続けています。これ まで以上に深く、この福音書に入り込み、そ してそこで、弱さの神秘、弱くなられるイエ スの神秘を発見するのは喜びです。ラルシュ で私たちは、まさにこの弱さの真っただ中で 暮らしています。弱さというのは、人間の人 生の本質的な部分です。私たちは弱さの中で 生まれ、弱さの中で死んでいきます。この両 極端の間、つまり誕生と死の間で私たちは、 強くなり、能力を増し、そして自律していき ます。そのような中で私たちは、お互いを、 友人を、そして共同体を必要としていること を明らかにしてくれるのが、この弱さです。 そして他者もまた、弱さをもって生きている としますと、その人たちが、よりよく生きら れるようにと手助けするのに、私たち自身の 強さやスキルを用いることができます。また 弱さは、全人類の平和と一致というヴィジョ ンに向かって進む私たちを助けてくださる神 の、柔和な存在を私たちが必要とする根拠と なるものです。 明らかに私の人生は、今や下り坂であります。 私の記憶はいったいどうなったのでしょうか。 ヨハネ福音書の内容はいまだに覚えているの に、砂漠に吸い込まれてしまう水のように、 人々の名前が私の記憶から消えていくのです。 そして私の足です。私の足は少しずつ弱り、 歩くのがゆっくりとなってきています。その 点で、このベルクでの滞在は、私にとって非 常によかったと思います。神
神
神
神の
の
の存在
の
存在
存在について
存在
について
について
について申
申し
申
申
し
し
し上
上
上げる
上
げる
げる
げる
ならば、 私は沈黙の祈りに、益々、魅力を感じていま す。イエスは言われました。「わたしの愛に とどまりなさい」と。イエスは、ご自分の存 在のうちにとどまるよう私たちに呼びかけて おられます。時々ですが、朝早く私は、目が 覚めても、しばらくベッドの中にいて、祈る のが好きです。それは優しさに包まれた時で あり、ただただ満足して神さまに命をありが とう、造ってくださってありがとう、主を、 ラルシュを、そして「信仰と光」をありがと うと感謝の言葉を述べるのです。時々、私は、 先に天国へ行って、そこで私を待っている友 人たちと一体となっているように感じること があります。非常に多くの点で、私は甘やか されていたように思います。神は私の人生を友人で満たしてくださいました。私は愛され ていると感じていますし、私の祈りは感謝の 賛歌のように感じることがあります。「農場」 と名付けられた家の、こぢんまりとしたオラ トリオ(祈りの部屋)で過ごす穏やかな時間 は、私にはとても貴重な時間です。 エッティ・ヒルサムは日記の中で、このよう に言っています。自分は井戸で、この井戸の 底に神がおられるように感じる、と。しかし また、彼女は次のようにも言っています。し ばしば、この井戸が石や瓦礫でいっぱいにな り、神と出会うのを邪魔している、と。私も 同じように感じることがあります。確かに私 も心の沈黙に入り込みますと、神の存在を感 じるのですが、しばしば、それも非常にしば しば、ひと度生活のエンジンがかかってしま いますと、そのスイッチを切るのがとても難 しくなります。エッティのように、沈黙の中 で神に出会うためには、私も邪魔している石 や瓦礫を取り除く必要があります。エンジン は、いつも全開、全力でずっと頑張ります。 動きを止め、くつろいでいますと、何かしら 問題が生じます。私にはまだやらなければな らないことがあります。ですから私の心の戸 口に立って、扉をたたいている主が私と共に 食事をし、私は主と共にいることになります (黙示録3章)。「主よ、どうか私を心の底 から安らかに憩わせてください。そこは私た ちを自由にする真理が見つかるところです」。
姉
姉
姉
姉であるテレーズの
であるテレーズの
であるテレーズの
であるテレーズの
90歳の誕生日を、数 人の友人たちといっしょにお祝いするために、 先日、私はロンドンにいる姉のテレーズを訪 ねて、とても嬉しく思いました。彼女は英国 におけるラルシュの創立者であるばかりでは ありません。特別なやり方でラルシュを、エ キュメニズムへと道案内してくださいました。 私たちが旅してきた道を認識するためにも、 このテーマに関して、テレーズが書いている 本を、もう一度読んでみる必要があります。 ラルシュにおいて、私たちがキリスト者たち の一致のために働きたいと願うように導いて くれた彼女に、私たちは恩があります。彼女 やとても多くの人たちとともに、ローワン・ ウィリアムズ カンタベリー大主教の後任と して、ジャスティン・ウェ ルビー師が選ばれたことに、 私たちはお慶びを申し上げ たいと思います。ジャステ ィン・ウェルビー新カンタ ベリー大主教と私たちの新 教皇は、きっと仲良くやっ ていけるものと私は思って います。私
私
私
私はまだ
はまだ
はまだ、「
はまだ
、「
、「
、「花咲
花咲
花咲く
花咲
く
く
く谷
谷」
谷
谷
」
」という
」
という
という名
という
名
名
名の
の
の
の
家
家
家
家で
で
で
で
、お
お
お
お昼
昼
昼ご
昼
ご
ご
ご飯
飯と
飯
飯
と
と
と晩御飯
晩御飯
晩御飯
晩御飯を
を
を
を食
食
食
食べさせ
べさせ
べさせ
べさせ
ていただいてい
ていただいてい
ていただいてい
ていただいていま
ま
ま
ます
す
す
す。
。
。
。
そこにいますと、いつも私はとても楽しい 気持ちになります。お祝いの時、いっしょに するお祈りや分かち合い、そして何よりも喜 びと元気がいっぱいの個人的出会いの時が大 好きです。私がいつも参加できるとは限りま せんので、そんな時、私は寂しい気持ちにな ります。今や、私も30年以上にもわたって、 デデやパトリック、ルドガ-、またミッシェ ルやジャン・フランソワーズ、そしてマキシ ムたちといっしょにやってきました。彼らと いっしょにいるのは、また、もっと最近にな って来られた人たちといっしょにいるのは、 純粋な喜びです。
この機会に私がこの手紙で申し上げたいのは、 トロリー共同体には、ラルシュの国際副コー ディネーターを引き受けてくださっていた時 から多くの皆さまがご存じの、新しいリーダ ーであるクリスティーン・マグリビーがいて くださり、とても嬉しいということです。 彼女は、障がい者の生きがい、成長、そして かかわりという点に焦点をおきながら、共同 体に新しい活力をもたらしました。仲間であ る彼らは、非常に多くの命をもたらし、そし て私たち全員を、彼らの賜物や価値、生きる 知恵、そして愛する力を私たちの社会に示す というラルシュの使命の核心へと招いていま す。真に私たちは、交わりのうちに、私たち 一人ひとりを変えてくれる本物の契りのうち に、ともに生きています。 ベネディクト ベネディクト ベネディクト ベネディクト十六世十六世十六世十六世ののの辞任の辞任辞任辞任はははショックでしたは し驚きでしたが、同時にそれはあの方の賢明 さと内的自由のしるしでした。正直に申し上 げますと、昨年の11月、直接本人にお目に かかったからだと思うのですが、この辞任と いう行為がさらに一段と感動的なものに感じ られました。前回の私の手紙の中で申し上げ ましたように、前教皇様は、とても謙遜で率 直な方のようにお見受けいたしました。それ は枢機卿たちによって委ねられた使命を、最 初に引き受けた時と同じ深い謙遜でした。教 皇ベネディクト十六世の後を、いったいどの ような方が引き継がれたでしょうか。だれし もが自分の考えを持っていました。しかし、 ここでもまた、驚きが私たちに起ころうとし ていました。選挙で告げられた新しいパパ様 の名前を、私は知りませんでしたが、教皇と して選ばれた名前がフランシスコというのを 聞いた途端に、私はとても喜びました。抑え られない喜びでした。新教皇がご自分の教皇 職のヴィジョンとしてアッシジの聖フランシ スコの名前を名乗られることは、思いがけな いことでしたし、素晴らしい驚きでした。 それは、福音の本質へ立ち帰るように、アッ シジの聖フランシスコのシンプルなヴィジョ ンに立ち帰るようにとの、教会への呼びかけ です。新しい教皇様は、貧しい人たちの近く にいる貧しい教会を望んでおられることを、 繰り返し言われます。弱くて貧しい人たちの そばにいること、それも最大限の優しさを持 ってそばにいることの重要性について、教皇 様は話しておられます。教皇様が、ラルシュ や「信仰と光」に来てくださいましたら、私 の心は喜び踊ります。でも私が思うのに、彼 は既に、間違いなく私たちのことをご存じで す。ラルシュも「信 仰と光」もアルゼンチンに存在しています。
私にとってもそうですが、私たち全員とって 非常に重要なことは、私たち皆が、貧しいそ して愛情のある人になり、最も貧しい人たち のそばにいる人になることです。このような ヴィジョンを告げ知らせておられる教皇様の 他に、私も含めた私たちにとっての実際の問 題は、そのヴィジョンを実生活で生きること です。そのために祈りましょう。