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災害アーカイブス 調査委員会を編成した これにより 県内を県土整備事務所所管区域ごとに 担当者を定めて調査を実施した 調査は 表 1-1に示すように 県土整備事務所単位で 全県を 5 つの調査班に分けて実施した 1つの調査班の担当する範囲が広いので 必要に応じて各班とも班内を分割して担当者を決めて調

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1 第1章 調査概要 1-1.調査の目的 埼玉県には、各地に河川災害の痕跡や教訓を後世に伝えたいという先人の強 い思いが込められた災害史跡や慰霊碑が残されている。災害を防ぎ、減災を進め ていくためには、河川施設などのハード面の取り組みを進める一方で、過去の災 害から学んだことを生かして被害を軽減するために、避難計画などのソフト面 の対策への取り組みも重要である。 本調査は、こうしたことを背景に、国、県、市町村等への資料収集や現地調査 を通じて市町村ごとの河川災害を調べるとともに、河川災害にまつわる石碑や 痕跡を訪ね、災害の事例や資料・情報などから、災害の発生した時期、地域の対 応などをまとめ、「我が町の災害アーカイブス」として編纂するものである。 調査結果は、一般県民にも分かり易い冊子に取りまとめ、これらの成果を国や 県の関係機関に提供するとともに、県内図書館等に寄贈する。また、インターネ ットでの公開やイベント等に参加してパネル展示や情報提供する。このことに より、広く県民に河川災害についての再認識や地域防災に役立ち、川やその流域 への理解が深められることを期待し、現在に生かせる教訓を後世に伝達すると ともに、先人の知恵を知ることにより、改めて災害や地域のことを考えるきっか けとすることを目的に調査を実施したものである。 1-2.調査の内容 調査の内容は次のとおりである。 ① 国・県・市の治水関係機関や図書文献、各市町村の資料の収集などによ り、河川災害の痕跡や教訓を後世に伝えたいという先人の強い思いが込め られた災害史跡や慰霊碑について調査する。 ② 現地調査を行い、実態を確認する。 ③ 調査成果を調査票にまとめる。 ④ 「我が町の災害アーカイブス」調査報告書を編集、印刷刊行する。 ⑤ 国や県の河川に関わる機関に提供するとともに県内図書館に寄贈する。 1-3.調査実施体制 当研究会は、埼玉県在住の公益社団法人日本河川協会会員で構成されている。 このため、川にかかわる知識と経験の豊かな会員の能力を活用して、「我が町の

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2 災害アーカイブス」調査委員会を編成した。これにより、県内を県土整備事務所 所管区域ごとに、担当者を定めて調査を実施した。 調査は、表1-1に示すように、県土整備事務所単位で、全県を 5 つの調査班 に分けて実施した。1つの調査班の担当する範囲が広いので、必要に応じて各班 とも班内を分割して担当者を決めて調査実施にあたった。 1-4.調査の方法 調査の方法は次のとおりである。 ① 調査対象は、埼玉県全域とした。 ② 資料の確認は、国・県・市の治水関係機関および河川の水辺にかかわる文 献・図書、各市町村の資料、その他の参考資料などによった。 ③ 資料調査のほか、現地調査による確認を行った。 ④ 資料調査・現地調査のほか、必要に応じて聞き取り調査を行った。 ⑤ 調査結果を調査班ごとに調査票(年表と個表)にまとめた。

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3 表1-1 調査の範囲と実施体制 ※調査範囲は各県土整備事務所管内 ■「我が町の災害アーカイブス」調査委員会(調査報告書編集委員会兼) 代 表 新井 勲 ・ 相談役 小林寿朗、木内勝司 ・ 委 員 浅見 優、石島 威、 桑島弘治、斉藤善孝、佐野義隆、篠塚正行、辻 修治、宮田信一、山口文平、吉田耕三 ■調査の範囲と体制 (○は班長) 調査班 調査範囲 区域内市町村 調 査 員 第1班 (9 名) さいたま・越谷 (10 市 1 町) さいたま市、川口市、蕨市、戸 田市、春日部市、草加市、越谷 市、八潮市、三郷市、吉川市、 松伏町 ○佐野義隆、池田秀生、 唐沢仁士、小宮憲一、 小川倫正、吉田耕三、 成田一郎、市川大倫、 折本 実、長森 勇 吉田 学 第2班 (7 名) 朝霞・川越 (9 市 1 町) 朝霞市、志木市、和光市、新座 市、川越市、所沢市、狭山市、 富士見市、ふじみ野市、三芳町 ○辻 修治、小林寿朗、 宮岡俊一、山口文平、 森山英一、出村光雄、 蓮池 博、内藤敏夫、 水村正和 第3班 (8 名) 飯能・東松山 ・秩父 (7 市 13 町 1 村) 飯能市、入間市、坂戸市、鶴ヶ 島市、日高市、毛呂山町、越生 町、東松山市、滑川町、嵐山町、 小川町、川島町、吉見町、鳩山 町、ときがわ町、東秩父村、秩 父市、横瀬町、皆野町、長瀞町、 小鹿野町 ○浅見 優、宮田信一、 木内勝司、桑島弘治、 小林一夫、宮原 進、 小林安雄、下田俊哉、 戸井原章 第4班 (9 名) 北本・本庄・ 熊谷 (7 市 5 町) 熊谷市、深谷市、寄居町、鴻巣 市、上尾市、桶川市、北本市、 伊奈町、本庄市、美里町、神川 町、上里町 ○石島 威、横倉輝夫、 篠塚正行、新井 勲、 鈴木 誠、並木孝之、 横田英男、宇野 隆、 中野 毅、石関千春、 原 正明 第5班 (7 名) 行田・杉戸 (7 市 2 町) 行田市、加須市、羽生市、久喜 市、蓮田市、幸手市、白岡市、 宮代町、杉戸町 ○齊藤善孝、尾花幸男、 鴨田 清、江幡禎則、 金塚史朗、阿部洋一、 川辺治雄、 小板橋剛、 関口吉男

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4 第2章 我が町の災害アーカイブスのあらまし 2-1.調査・整理件数 調査の結果、県全体で 110 件の我が町の災害アーカイブスのデータが得ら れた。調査班ごとの調査・整理件数は表 2-1-1 に示すとおりである。また、これ らの位置を図 2-1-1 に、その一覧表を表 2-1-2 に示す。 表 2-1-1 我が町の災害アーカイブス調査整理件数 調査班 調査範囲 (県土整備事務所管内) 調査件数 備 考 第 1 班 さいたま・越谷 (10 市 1 町) 23 芝川水門碑、蕨町明治洪水雑 記、笹目の水害避難船、喜蔵 堤、八坂神社の弁財天他 第 2 班 朝霞・川越 (9 市 1 町) 26 S57 新河岸川激甚災害、明治 43 年洪水水位標、久下戸神 社の石灯籠他 第 3 班 飯能・東松山・秩父 (7 市 13 町 1 村) 27 遭難追薦碑、吾野駅斜面崩 壊、霞川供養碑、鳥羽井沼、 砂防発祥地の記念碑他 第 4 班 北本・本庄・熊谷 (7 市 5 町) 9 災害復旧記念碑、填長淵記、 玉の池、決潰の跡記念碑他 第 5 班 行田・杉戸 (7 市 2 町) 25 寛保治水碑、浮野の里、施餓 鬼供養塔、「決潰口跡」の碑 宝治戸池他 計 110

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5 図 2 -1 -1 我 が町の 災害アー カイブ ス 位置 図

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6 表 2-1-2 我が町の災害アーカイブス一覧表 番号 アーカイブス名称 場 所 関 連 河 川 災 害 の 原 因 年 月 1-1 芝川水門碑 川口市 荒川、芝川 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 1-2 蕨町明治洪水雑記 蕨市 荒川 明治 40 年 8 月台風 1907.8 1-3 蕨町明治 43 年水害 蕨市 荒川 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 1-4 戸田明治 40 年水害 戸田市 荒川 明治 40 年 8 月豪雨 1907.8 1-5 戸田明治 43 年水害 戸田市 荒川 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 1-6 笹目の水害避難船 戸田市 荒川 昭和 22 年カスリーン台風 1947.9 1-7 早瀬の出水 戸田市 荒川 昭和 33 年台風 21 号 1958.9 1-8 戸田昭和 41 年水害 戸田市 荒川 昭和 41 年台風 4 号 1966.6 1-9 喜蔵堤 春日部市 利根川、古利根川他 浅間山噴火・大雨 1783 他 1-10 倉松落大口逆除之碑 春日部市 利根川、古利根川他 明治 23 年 8 月大風雨 1890.8 1-11 床上浸水の痕跡線 春日部市 利根川、庄内古川他 昭和 22 年カスリーン台風 1947.9 1-12 草加明治 43 年水害 草加市 利根川、荒川他 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 1-13 八坂神社の弁財天 越谷市 元荒川 天明 6 年 7 月大雨 1786 1-14 瓦曽根溜井防水記念碑 越谷市 元荒川 明治 23 年 8 月大雨 1890.8 1-15 土手供養碑 八潮市 中川 明暦元年大雨 1655 1-16 中川築堤記念碑 八潮市 利根川、江戸川、中川 昭和 22 年カスリーン台風 1947.9 1-17 二郷半領の水害 三郷市 中川、江戸川、大場川 昭和 22 年カスリーン台風 1947.9 1-18 大威徳明王碑 吉川市 中川、江戸川、大場川 安永年間大雨 1772~ 1-19 領中安全の碑 吉川市 中川、江戸川、大場川 天明 3 年 6 月大雨 1783 1-20 砥根河重疏碑 松伏町 江戸川、旧庄内古川 享保 6 年 7 月大雨 1721 1-21 松伏町水害 松伏町 利根川 昭和 22 年カスリーン台風 1947.9 1-22 松伏町田中等水害 松伏町 大落古利根川 平成 27 年台風 18 号 2015.9 1-23 松伏町金杉等水害 松伏町 中川、大落古利根川 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 2-1 S57 新河岸川激甚災害 朝霞市 新河岸川 昭和 57 年台風 18 号 1982.9 2-2 明治 43 年洪水水位標 志木市 荒川 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 2-3 S57 新河岸川激甚災害 志木市 新河岸川 昭和 57 年台風 18 号 1982.9 2-4 和光市水害 和光市 - 平成 26 年 6 月大雨 2014.6 2-5 久下戸神社の石灯籠 川越市 荒川 寛保 2 年大洪水 1742 2-6 渋井観音 川越市 荒川 寛保 2 年大洪水 1742 2-7 奥貫友山生家 川越市 荒川 寛保 2 年大洪水 1742 2-8 古谷村水害 川越市 荒川 昭和 22 年カスリーン台風 1947.9 2-9 伊佐沼の干拓地 川越市 新河岸川 昭和 41 年 9 月大雨 1966.9 2-10 H10 新河岸川激甚災害 川越市 新河岸川 平成 10 年 8 月大雨 1998.8 2-11 砂川堀浸水被害 所沢市 砂川堀 昭和 29 年台風 14 号 1954.9 2-12 水神碑 狭山市 入間川 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 2-13 豊水橋 狭山市 入間川 昭和 3 年 8 月豪雨 1928.8 2-14 笹井堰 狭山市 入間川 昭和 12 年 7 月大雨 1937.7 2-15 S22.9 カスリーン水害 狭山市 入間川 昭和 22 年カスリーン台風 1947.9 2-16 S41 台風 26 号水害 狭山市 入間川 昭和 41 年台風 26 号 1966.9 2-17 S57.9 大雨による水害 狭山市 入間川 昭和 57 年 9 月大雨 1982.9 2-18 H11.8 豪雨による水害 狭山市 入間川 平成 11 年 8 月豪雨 1999.8 2-19 南畑明治 43 年水害 富士見市 荒川 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 2-20 S41.6 台風 4 号水害 富士見市 柳瀬川 昭和 41 年台風 4 号 1966.6 2-21 文化 5 年大雨水害 上福岡市 新河岸川 文化 5 年 7 月大雨 1808 2-22 上福岡明治 23 年水害 上福岡市 新河岸川 明治 23 年 8 月大雨 1890.8 2-23 上福岡明治 43 年水害 上福岡市 荒川、新河岸川 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8

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7 2-24 上福岡大正 2 年水害 上福岡市 新河岸川 大正 2 年 8 月台風 1913.8 2-25 上福岡昭和 16 年水害 上福岡市 新河岸川 昭和 16 年 7 月台風 1941.7 2-26 上福岡昭和 41 年水害 上福岡市 新河岸川 昭和 41 年 6 月台風 4 号 1966.6 3-1 遭難追薦碑 旧名栗村 入間川左支川 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 3-2 吾野明治 43 年水害 飯能市 高麗川 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 3-3 吾野駅斜面崩壊 飯能市 高麗川 平成 11 年 8 月豪雨 1999.8 3-4 霞川供養碑 入間市 霞川 昭和 20 年 6 月大雨 1945.6 3-5 霞川台風 9 号水害 入間市 霞川 平成 28 年台風 9 号 2016.8 3-6 治水彰功碑 坂戸市 越辺川、小畔川、入間川 昭和 57 年 9 月大雨 1982.9 3-7 全洞院 越生町 越辺川 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 3-8 越生昭和 21 年水害 越生町 越辺川 昭和 21 年 8 月豪雨 1946.8 3-9 越生梅林水害 越生町 越辺川 昭和 22 年カスリーン台風 1947.9 3-10 大観山地滑り 越生町 越辺川 昭和 46 年 7 月大雨 1971.7 3-11 越生平成 11 年水害 越生町 越辺川 平成 11 年 8 月豪雨 1999.8 3-12 東松山明治 43 年水害 東松山市 都幾川、越辺川 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 3-13 S22.9 カスリーン水害 東松山市 都幾川、越辺川 昭和 22 年カスリーン台風 1947.9 3-14 嵐山町昭和 41 年水害 嵐山町 都幾川 昭和 41 年 9 月大雨 1966.9 3-15 S22.9 カスリーン水害 小川町 槻川 昭和 22 年カスリーン台風 1947.9 3-16 鳥羽井沼(前沼) 川島町 荒川 安永 9 年 6 月大雨 1780 3-17 鳥羽井沼(中沼) 川島町 荒川 享和 2 年 6 月大雨 1802 3-18 鳥羽井沼(新沼) 川島町 荒川 明治 40 年 8 月豪雨 1907.8 3-19 金剛院前の馬頭観音 吉見町 荒川 寛保 2 年 8 月大雨 1742 3-20 善長寺の馬頭観音 吉見町 荒川 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 3-21 鳩山明治 43 年水害 鳩山町 越辺川 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 3-22 砂防発祥地の記念碑 ときがわ町 都幾川、七重川 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 3-23 東秩父台風 16 号水害 東秩父村 槻川 昭和 49 年台風 16 号 1974.9 3-24 二二九沢土砂災害 横瀬町 横石沢 昭和 22 年カスリーン台風 1947.9 3-25 安政 6 年洪水の碑 皆野町 荒川 安政 6 年 7 月大雨 1859 3-26 寛保洪水位磨崖標 長瀞町 荒川 寛保 2 年 8 月大雨 1742 3-27 切石積堰堤 小鹿野町 栗尾沢 明治 40 年 8 月豪雨 1907.8 4-1 災害復旧記念碑 鴻巣市 荒川 昭和 22 年カスリーン台風 1947.9 4-2 填長淵記 旧吹上町 荒川 文政 7 年 7 月大雨 1824 4-3 水難者供養塔 上尾市 荒川、見沼用水 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 4-4 荒井橋記念碑 北本市 荒川 昭和 13 年 9 月大雨 1938.9 4-5 上武橋記念碑 旧神泉村 神流川 大正 2 年 8 月大雨 1913.8 4-6 矢田堤塘之碑 上里町 神流川、烏川、忍保川 正徳 3 年~昭和 34 年 1713~ 4-7 玉の池 熊谷市 荒川 元和 9 年 1623 4-8 熊谷寺の黒門 熊谷市 荒川 安政 6 年 7 月大雨 1859 4-9 決潰の跡記念碑 熊谷市 荒川 昭和 22 年カスリーン台風 1947.9 5-1 寛保治水碑 行田市 利根川、荒川 寛保 2 年 8 月大雨 1742 5-2 行田安政 6 年水害 行田市 利根川、荒川 安政 6 年 7 月大雨 1859 5-3 行田明治 43 年水害 行田市 利根川 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 5-4 (1)浮野の里 加須市 利根川、荒川 天明 6 年大豪雨 1786 (2)石橋供養塔 加須市 青毛堀川 天明 6 年大豪雨 1786 5-5 (1)水量杭記念碑 加須市 手子堀川、北青毛堀川 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 (2)大洪水記念碑 加須市 青毛堀川、江川 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 5-6 水害復旧竣工記念碑 加須市 中川、青毛堀川 昭和 22 年カスリーン台風 1947.9 5-7 施餓鬼供養塔 旧騎西町 星川 寛保 2 年 8 月大雨 1742

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8 5-8 洪水氾濫絵図 旧北川辺町 利根川 明治 23 年 8 月大雨 1890.8 5-9 北川辺明治 43 年水害 旧北川辺町 利根川、渡良瀬川他 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 5-10 「決潰口跡」の碑 旧北川辺町 渡良瀬川 昭和 22 年カスリーン台風 1947.9 5-11 「決潰口碑」 旧北川辺町 利根川 昭和 22 年カスリーン台風 1947.9 5-12 水死精霊位供養塔 旧菖蒲町 利根川、古利根川他 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 5-13 宝治戸池 旧栗橋町 利根川 寛保 2 年 8 月大雨 1742 5-14 狐塚池(大池) 旧栗橋町 利根川 天明 6 年大豪雨 1786 5-15 栗橋明治 43 年水害 旧栗橋町 利根川 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 5-16 カスリーン水害浸水水位 旧栗橋町 利根川 昭和 22 年カスリーン台風 1947.9 5-17 宝泉寺池 旧鷺宮町 利根川、江戸川他 宝永元年 7 月大雨 1704 5-18 寛保治水碑 久喜市 利根川、渡良瀬川他 寛保 2 年 8 月大雨 1742 5-19 (1)堤防修築記 蓮田市 元荒川、綾瀬川他 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 (2)明治 43 年水害記録 蓮田市 元荒川、綾瀬川 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 5-20 高須賀池 幸手市 利根川、権現堂川 天明 6 年大豪雨 1786 5-21 巡礼供養塔 幸手市 権現堂川 享和 2 年 6 月大雨 1802 5-22 道路修築記念碑 幸手市 利根川、権現堂川 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 5-23 水害修復記念の碑 幸手市 利根川、権現堂川他 昭和 22 年カスリーン台風 1947.9 5-24 百聞村水害史 宮代町 古利根川、隼人堀川他 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 5-25 宮代カスリーン水害 宮代町 利根川、古利根川他 明治 43 年 8 月豪雨 1910.8 2-2.埼玉の災害アーカイブスの特徴 (1)埼玉の災害 「埼玉県は、ほかの県に比べて災害が少ない。」と、よく言われる。埼玉の地 形は他県と違い海がなく、活動中の火山がない。また、関東を囲む山岳は台風の 降雨や積雪の現象を少なくしている。このような自然条件は被災の危険度を低 くしており、自ら防災力を保有していると言える。埼玉県の県土が被った災害は 何かといえば、水害が特筆される。新潟県堺を水源とする利根川と、中禅寺湖南 部から流下する渡良瀬川に加えて甲武信岳東斜面を水源とする荒川という 3 つ の大河川は、かつて埼玉の地を流過し東京湾に達した。これらの河川は歴史的に 埼玉の地で氾濫し、埼玉平野を形成した。 縄文時代の埼玉平野は今日の東京湾につづく海面下にあった。同時代後期に 海面が下がり、同平野は低湿な沖積平野に変わった。鎌倉武士が農地を支配する 時代を経て 17 世紀に至り、徳川氏の関東転封よって埼玉平野は画期的な開発が 行われた。徳川氏は河川・街道の整備を先行した。利根川、荒川という 2 つの大 河川は付替えを行い、用水路の開削と旧川を灌漑池化して再生し、武蔵野の荒野 を家臣団と親藩を支える大穀倉地帯に変えた。この近世を通して県土における 災害は、地震・雷・旱魃など記録に残されているが、地形による宿命から特に水 害が重大事件として扱われている。

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9 (2)近世における治水と水害の概要 近世おいては多数の洪水が埼玉の地を襲っている。これらのうち、代表的な 2 つの洪水について記す。 ①異常降雨による寛保 2 年(1742)8 月洪水 八代将軍吉宗の時代に、新田開発のため紀州藩の井沢弥惣兵衛が幕府の勘定 吟味役に登用された。井沢氏は治水および利水事業を計画・実施し、本県におい ては見沼代用水の開設をはじめ、関連する治水整備を行った。同氏の治水・利水 工法は紀州流とよばれた。寛保 2 年 8 月の洪水は圧倒的な降雨量によるもので、 利根川においては中条堤が決壊して埼玉平野を一面の海と化し、その氾濫流は 江戸に達した。西方村(現越谷市)の記録には次のように記されている。 「寛保二年閏戌年七月廿七日より八月二日迄、雨降り続き申し候、尤も朔日の朝 より大雨降り、八ツ過ぎより丑寅風にて雨の降る事矢のごとく、同晩四ツ時より 辰巳風に成り、大風にて大木も倒れ、雨は桶より撒けるごとくにして二日の朝七 ツ時より雨しづかに成り、五ツ時より天気よく、三日の昼九ツ迄川通り水少々づ つ増すといえども水にごらず、・・・・」 この古文書から、越谷の地点では降雨が 6 日間連続したことが分かる。この 記録的な大降雨は、河道はもとより流域一帯に氾濫した。同村は「三日昼に荒川 (現元荒川)が決壊・氾濫し、七日ごろ水が引いた。十五・六日頃に総て水が引 いた。」と、記されており半月ほど水と闘っていたことになる。この 6 日間の連 続降雨は現在でも見当たらない異常降雨であったと考えられる。 ②降灰堆積の利根川が氾濫した天明 6 年(1786)7 月洪水 この洪水が起きる 3 年前(天明 3 年 7 月 8 日)に浅間山が噴火し、火砕流が 利根川上流域に流下した。この噴火により利根川筋の河川には大きな影響があ り、現群馬県で分派していた七分川はせき止められ、三分川が本流となった。記 録によれば、「西方村(現越谷市)には 1 坪に 1 合 5 勺の降灰があり、農作物は 5・7 日後に枯れて畑作物は全滅、田方は早稲・中稲は五分の収穫、晩稲は笹立 てになって大凶作となった。」と記されている。この降灰は以後、降雨の度に河 川に流入して集流する利根川を埋めた。すなわち、降灰によって河積(流下断面) が減少した。このことが原因となって、天明 3 年以降の利根川は、洪水の頻度が 増加した。 天明 6 年 7 月の利根川洪水は、中条堤と権現堂堤を決壊させ、埼玉平野に大 水害をもたらした。前項の寛保 2 年洪水は異常ともいえる降雨があったが、天 明 6 年 7 月洪水も大降雨で、大出水の誘因となったものと考えられる。西方村 (現越谷市)の記録によると、「・・・・七月十二日早朝より快晴にて(中略)

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10 昼七ツ時頃、にわかに戊亥の方(北西)より雷厳しく鳴り出し、夕立雨にて、万 民ようよう雨待ち受け心地よく、よろこびまかりあり候折柄、翌十三日、十四日、 十五日、十六日止むことなく、丑寅(東北)または辰巳(東南)風にて大雨にこ れ有る故、心得がたき雨の様子にござ候・・・・」。このように 12 日から 16 日 までの 5 日間にわたり、連続降雨があったと記録され、異常降雨であったこと がわかる。 (3) 近代以降における水害と治水の概要 ①明治 43 年(1910)8 月洪水による河川改修計画改定と高水工事の促進 明治 40 年洪水に続いて明治 43 年洪水は、埼玉県土に大規模な水害をもたら した。特に、利根川と荒川は破堤により浸水は広域にわたった。当時、利根川は 下流部の県外区間において近代改修の工事が進行していた。明治 43 年 8 月洪水 は当時の計画を上回る出水であるため、利根川においては同 33 年策定の計画を 大幅に改定した。県地先における計画流量は 3,759m3/s を 5,570m3/s として、約 1.5 倍に拡大させた。 <利根川改修> 大正 5 年(1926)には、浚渫船や蒸気機関車などが河川工事に使用された。大 越、村君、川俣、新郷、地先の掘削・築堤が施工され、同 10 年出来島護岸、中 瀬・平塚護岸を施工、同 12 年の地震被災の修復工事を経て、同 13 年には権現堂 川の締切工事に着手した。 <荒川改修> 荒川は明治 40 年、同 43 年洪水で被災したため、内務省において改修計画が 策定され、同 44 年荒川放水路工事に着手した。本県の地先は大正 7 年(1918) に着手した。 <中小河川> 幹川の整備は支川の改修を可能とさせ、埼玉県事業として大正期には大落古 利根川、元荒川、綾瀬川、福川、新河岸川、芝川、隼人川堀川、青毛堀川、備前 堀川、姫宮落川、忍川、星川、野通川の改修に着手した。いわゆる 13 河川改修 で、中小河川の整備によって耕地整理を可能とし、農業生産の増進を図る施策で あった。 ② 昭和 13 年(1938)6・7 月洪水による中川改修計画の修正 <中川・綾瀬川・芝川三川総合改修増補計画> 県内において、昭和 10 年(1935)9 月、同 13 年(1938)6・7 月、同 16 年 (1941)7 月の各降雨により浸水被害が発生した。特に昭和 13 年洪水では、本県

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11 はもとより中川下流部の東京都も被災した。このため、芝川・綾瀬川を加えた改 修計画が立案され、埼玉・東京地先に芝川から綾瀬川に結ぶ放水路を、新規に開 削する改訂計画が合意され着手に至った。埼玉県は新芝川の開削に着手したが、 大部分を残して戦争で中断した。戦後、東京都は中川下流の放水路(新中川)を 開削した。綾瀬川放水路の構想は、都県界の内水排除の懸案とされ、昭和 40 年 後半に本格的な検討が再開された。 <中小河川改修> 大正期から継続する県施工の河川改修については、昭和に至り、新方川、綾瀬 川上流、九十川上流、星川など中小河川の改修が行われた。これらの流域は全て 農地であり、埼玉県は農業用・排水路に対しても予算措置を行った。耕地整理の 展開と、大正期から継続する用・排水路の改修によって、県土の農地整備が著し く進展した。 (4) 昭和 33 年(1958)9 月洪水は都市水害 昭和 33 年 9 月洪水は、狩野川台風の降雨がもたらした。芝川流域の見沼田圃 は氾濫し、下流の川口の市街地に達した。特に、県南部の川口・戸田両市の荒川 沿岸一帯が長期間にわたり浸水した。浸水地域は、住居・工場が密集する市街地 で、左岸堤が壁となった。当時、荒川沿岸には宅地側(堤内)の湛水を汲み上げ る排水機場が少なかった。このため内水排除がまったく追いつかず、多くの鋳物 工場を始め住宅が泥水の海に没した。 これらの原因は、昭和 30 年中頃(1960)から始まった流域の都市化である。 都市化は低地の農地に著しく、市街地は排水等の整備により雨水の流出を早め、 降雨が湛水した窪地が減少して保水機能を低下させ、河川に短時間に多量の排 水が集中して市街地の内水氾濫を発生させた。「都市化が水害を招く」と、いわ れる現象である。その後、昭和 41 年 6 月、同年 9 月洪水はともに都市水害とな り、浦和、戸田、川口の各都市が農地と共に市街地が浸水した。 (5)地盤沈下現象 昭和 33 年 9 月狩野川台風の降雨は、県南部の川口・戸田両市の荒川沿川低地 内水氾濫をもたらした。これらの地域の地盤は、昭和初期から地盤沈下現象が進 行しており、昭和 30 年(1960)代中頃から急激に加速された。当時、本格的な ポンプで排水する施設の排水機場が殆どなく、荒川の水位が湛水の水位まで下 がらないと、湛水を自然排水ができなかった。 地盤沈下現象は、高度経済成長期の集積する各工場の地下水の汲み上げが原 因である。このため、国は地下水の汲み上げ規制を進める一方、排水機場の改築 や新設について治水事業として制度化した。埼玉県では荒川や中川の沿岸で、地

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12 盤沈下の影響を受けた河川に排水機場を建設した。なお、現在県南などの地盤沈 下現象は、地下水の汲み上げ規制により概ね沈静化している(さいたま市ホーム ページより)。 <参考文献> 1)葛西用水史(下) 葛西用水路土地改良区 理事長三ツ林弥太郎 昭和 63 年 1 月 2)新編埼玉県史 別編 3 自然 埼玉県 昭和 61 年 3 月 3)埼玉県の歴史 山川出版社 小野文雄著 平成 11 年 4 月 4)利根川その治水と利水(有)国土開発調査会 昭和 56 年 6 月 5)荒川・多摩川・鶴見川・相模川その治水と利水(有)国土開発調査会 昭和 61 年 11 月

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13 第3章 地域別の災害アーカイブス 県土事務所単位で概要をとりまとめた。地域ごとに調査にあたった各班の特 徴をいかすために、必ずしも統一した記述になっていない。 3-1. さいたま・越谷 (1)地域の概要 埼玉県の南東部に位置するこの地域は,埼玉県さいたま県 土整備事務所と埼玉県越谷県土整備事務所の管内で,さいた ま市(旧浦和市,旧大宮市,旧与野市,旧岩槻市),川口市(旧 川口市,旧鳩ケ谷市),春日部市(旧春日部市,旧庄和町),草 加市,越谷市,蕨市,戸田市,八潮市,三郷市,吉川市及び松 伏町の行政区域である。 この地域は古くは利根川筋,荒川筋の河川が乱流する氾濫原 であり,大雨のたびに広範囲にわたって被災している。平成合 併前の市町村区域ごとに見ると被害状況の記録には程度の差 異が大きい。 (2)災害アーカイブスの概要 ①瓦曽根溜井防水記念碑 他の地域での堤防が決壊したことにより,この地域での氾濫 を免れたことを記念する石板(越谷市西方)。 ②大威徳明王碑 安永期,吉川村のいり樋が 2 度にわたり大破した。安永 3 年 (1774)8 月には、近隣村々の人々により、水魔調伏祈願の大威 徳明王碑が建立(加藤の元庄内古川右岸堤防跡に現存)、幸房村 (現三郷市)出身といわれる高僧大仙亮盛阿闍梨の撰文による 悲願の銘文が刻まれた(吉川市加藤)。 ③水神・八大龍王碑,領中安全碑 吉川市内各所に天明期の水難よけ祈願として水神や八大龍 王を祀った石塔が確認できる(上笹塚稲荷神社内)。また、半 田村(三郷市)の西大場川沿い(現在の大場川)に領中安全祈 願の祠がある。 瓦曽根溜井防水記念碑 水神・八大龍王碑 大威徳明王碑 領中安全碑

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14 ④倉松落大口逆除之碑 レンガ造りのめがね橋の由来が記されている。明治 23 年 8 月 23 日、須賀村(現行田市)地先の利根川の堤防が 決壊した。古利根川も氾濫し旧春日部市内で多くの家屋 浸水、広範な田畑冠水が発生した。幸松村では萬延元年 (1860)に設置した逆除と堤を死守して難を免れたが,逆 除は大破したため,強固なレンガ造の 4 連アーチの樋門 (めがね橋)に改築し、明治 24 年に竣工した(春日部市 八丁目)。 ⑤築堤記念碑(中川) 昭和 17 年,不要とされ地先に払い下げられた中川の旧提 を切り崩し畑地とした所へ昭和 22 年のカスリーン台風が 起こった。大水により床上浸水 5 尺(現在の 150 センチ程 度)に及ぶ水害を被り、故に再び築堤の急務を感じ、直ち に大瀬古新田合同にて築堤促進会を結成し、翌年 3 月 3 日 竣工となった。その竣工を記念して碑が建てられた(八潮 市大瀬地区)。 ⑥土手供養塔(土手まもり様) 度重なる台風や大雨により、住民の決死の水防活動にも かかわらず、鎮守氷川神社の東側の土手は、決壊を繰り返 した。普門院の住職浄西は、土手が切れないようにと願を かけ、村百姓17名の浄財により、高さ6尺ほどの石仏を 作った。それ以降、土手が切れなくなったと言われており、 「土手まもり様」として多くの人々に親しまれてきた(八 潮市南川崎)。 ⑦堤防の決壊によりできた沼に祀られた弁財天 天明 6 年 7 月,元荒川の堤防からも溢れ、西方村(越谷市 相模町)では大相模の不動尊境内以外は冠水した。八坂神社 裏手脇にはかつてこの時できた沼があり、そこに 内池辨天が祀られていた。(越谷市大成町) ⑧柱に残る浸水痕跡 昭和 22 年 9 月カスリン台風の際の床上浸水の 痕跡線(廊下の柱)を指差する。水塚の蔵の 2 階 で 1 カ月余を暮らした。米・味噌はあっても水が なくて舟で運んでもらった。毎日、泥水に浸かっ た家(母屋、物置)を水が下がった分の掃除を舟 八坂神社の内池弁財天 倉松落大口逆除之碑 中川築堤記念碑 土手供養塔

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15 で親戚にも応援してもらってした。馬は川久保の親戚に 避難させた。 ⑨明治 43 年水害調査報告書 利根川・荒川の氾濫水及び逆流水等により、綾瀬川の増 水や元荒川・見沼代用水の氾濫が生じ、市内のほぼ全域が 水没した(草加市)。 ⑩蕨市史調査報告書 (明治丁未大洪水雑記小林雅助氏) 明治 40 年 8 月 22 日からの台風による洪水被 害の実態を調査し、洪水の発生から終息までの 主に下蕨地区の人々の体験談を個人ごとにまと めた。洪水による人々のとった行動や、その時 の心境などを生々しく記している。 〈参考文献〉 1) 春日部市史 第 6 巻(春日部市教育委員会) 2) 越谷市史 第 2 巻(越谷市)昭和 52 年 5 月 3) 八潮市史(八潮市史編さん委員会)昭和 56 年 春日部市不動院野 O 宅

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16 4) 吉川市史(吉川市史編さん委員会)平成 26 年 5) 越谷の歴史物語 第1集(越谷市)昭和 53 年 8 月 6) 明治 43 年水害調査報告書(草加市日本河川開発調査会編)昭 63 年 7) 蕨市史調査報告書 明治丁未大洪水并雑記 小林雅助(蕨市)昭和 60 年 3 月 8) 吉川市史調査報告書 第 3 集(吉川市教育委員会)平成 15 年 3 月 9) 松伏町史町民民俗編(松伏町教育委員会) 10) 荒川下流改修工事概要(内務省東京土木出張所)大正 13 年 11) 「倉松落大口逆除之碑」碑文 12) 利根川治水ものがたり(河川情報センター)平成 7 年 3 月 13) 水害に思う(飯田節著 蕨市立図書館 蕨市立歴史民俗資料館) 14) 戸田市いまむかし(戸田市)平成元年 15) 「彩湖」第 20 回特別展 平成 16 年 戸田市郷土博物館 16) 普門院ホームページ 17) 埼玉県内の碑文に見る川の歴史を探る報告書(彩の川研究会)平成 18 年 5 月 3-2. 朝霞・川越 (1)地域の概要 調査の対象範囲は、埼玉県朝霞県土事務所管内及び埼玉県川越県土整備事務 所管内である。朝霞県土整備事務所管内は、朝霞市、志木市、和光市、新座市の 4市からなり、また、川越県土整備事務所管内は、川越市、所沢市、狭山市、富 士見市、ふじみ野市(旧上福岡市、旧大井町)、三芳町の 5 市 1 町で構成されて いる。地形は、武蔵野台地に位置する台地部と、荒川、新河岸川に沿った低地部 に区分される。今回の調査では、被害の記録がなかった新座市、三芳町、旧大井 町の 3 市町を除く 8 市町を対象に、水害に関する文献等の収集、整理を行った。 この地域では、江戸時代初期から概ね昭和 20 年代までの間、荒川、入間川な どの大河川の破堤等による水害の記録が数多く存在している。明治、大正時代か ら続いてきた荒川等の大河川の改修工事が進み、昭和 40 年代以降は荒川、入間 川等による被害は減少してきたと思われる。一方、昭和 40 年代以降は高度経済 成長に伴う新河岸川などの中小都市河川による都市型の水害が多く発生してい たが、三度の河川激甚災害対策特別緊急事業等の投入により短期間に改修が進 んだこともあって、浸水被害は減少してきている。 しかし、最近では、短時間に局所的な大雨にみまわれる、いわゆるゲリラ降雨 によって、河川に排水する前に水路等で溢れ浸水被害が発生するというケース が多くみられるようになっている。 以下に市町村別に代表的な事例を紹介する。

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17 (2)災害アーカイブスの概要 ①朝霞市 昭和 57 年 9 月台風 18 号により新河岸川流域 では多大な被害が発生した。朝霞市での被害は 半壊 4 戸・一部破損 1 戸・床上浸水 445 戸・床 下浸水 368 戸・田畑 50ha・通行止め 94 ヶ所・・ がけ崩れ 8 ヶ所にのぼった。新河岸川の黒目合 流点下流左岸で、堤防が決壊した。朝霞市では災 害救助法が適用された。新河岸川では激甚災害 対策特別緊急事業の指定を受け、新河岸川放水 路、びん沼調節池、南畑排水機場が整備された。 ②志木市 明治 43 年 8 月 1 日から 16 日にかけて 2 つの台風と低気圧の停滞による大雨 は埼玉県内に死者行方不明 324 人、流出倒壊家屋 2,227 戸、破損家屋 15,920 戸、 浸水家屋 84,538 戸という甚大な被害もたらした。 志木市においても荒川筋上流部 の破堤のため、南畑村ビン沼堤が 決壊し、一面の濁流が宗岡村を襲 い、浸水は床上七尺以上、天井も没 する惨状となった。 昭和 57 年 9 月 13 日、 本州を 縦断した台風 18 号は川越で総雨量 338mmを記録し、新河岸川流域の 朝霞市、志木市、富士見市で 9,285 戸の大きな被害を受けた。志木市 では床上床下浸水 1,361 世帯、911 人が避難場所に避難した。志木市 は災害救助法の適用を受けた。ま た、この台風により激甚災害に指 定をうけ、河川改修工事が進捗し た。 ③和光市 平成 26 年 6 月 25 日の朝から夜のはじめ頃にかけて、埼玉県では断続的に雷 を伴った猛烈な雨が降り、局地的な大雨となった。これらの影響により、床上・ 床下浸水、道路冠水などの被害が発生した。解析雨量によると、15 時には朝霞 市付近で 1 時間に約 110 ミリの雨を解析した。 冠水した川越街道 明治 43 年洪水水位標 新河岸川(柳瀬川合流点)

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18 和光市域においても、家屋の浸 水(床上:31 戸、床下:31 戸)道 路の冠水(8 箇所)、東武東上線の アンダーパスでの自動車浸水(4 台)などの被害が発生した。 ④川越市 寛保 2 年の大洪水により荒川筋の堤防は各所で破堤し大被害を与えた。久下 戸氷川神社には当時の水位を刻んだ石灯篭がある。現在の地表より 2 尺の水深 とあるが地元の方々の再測量により、新しい水位碑が建立されている。 ⑤所沢市 1954 年 9 月 17 日・18 日台風 14 号により 砂川堀は、米軍基地の汚水を含んだ大量の雨 水排水の流入によって氾濫し、下富ダム(当 時の呼称)が決壊した。濁水は下富から中富、 三芳村(現町)までに溢れ出し、農作物に甚 大な被害を及ぼした 砂川堀における米軍基地下流の浸水被害 は、基地整備に伴い昭和 26 年頃から続出し た。新河岸川に至る下流部の水路は未改修の ため、出水を一時貯留する下富ダム(調整池)を設けたが、当初は容量不足で調 節効果が発揮できなかった。その後、都市下水事業として調整池は水路と共に大 幅に改修され、治水機能を果たしている。現在、砂川堀と調整池周辺には当時の 水害の痕跡等が見受けられない。 東武東上線アンダーパスの浸水状況 久下戸氷川神社の石灯篭 南古谷郷土研究会の水位碑 現在の下富調整池

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19 ⑥狭山市 明治 43 年 7 月 25 日~27 日台風で大雨、8 月 3 日から低気圧前線の影響によ る豪雨(降雨量:名栗 1,216 ミリ)により 8 月 10 日氾濫が発生。8 月 10 日午後 8 時に入間川、高麗川、荒川、柳瀬川などの堤防が 62 か所で決壊。市域では奥 富村 2 か所(416m)、入間川町 1 か所(72m)、柏原村 1 か所(180m)、水富村 1 か所(45m)に及んだ。 そのほか、がけ崩れによる道路の寸断、橋梁 流出、鉄道不通に及び交通の途絶は物資の搬 入を困難にさせ、米・野菜が欠乏し市民生活 に大きな影響をもたらした。 入間川溢水を防ぐため、堤防裏にあった久 星酒造が多量の米俵を堤防に積み上げ、被害 を軽減した。これを契機に水害をなくすため 「水神碑」を建立した。 <笹井堰> 市内水富にある用水堰。旧堰は松丸太柵 であった。昭和 12 年 7 月 15 日の洪水では 254mの堰全体が決壊した。復旧作業中にこ の年だけで 4 回決壊流失した。これに懲り た農民は国庫と第 2 用水路組合の補助を得 て、昭和 14 年に 8 万 5 千円の工費で永久堰 を建設した。当時、開閉は手動式で数年後に モーター使用に切り替えた。 ⑦富士見市 昭和 41 年 6 月台風4号による柳瀬川の氾 濫により新築まもない住宅密集地は浸水し た。特に高芝地区は団地内の地形がすり鉢状 の形となっており、また東側に新河岸川の堤 防あり、最も水がたまりやすい状況であっ たため、台風が去った後も水が引かず押入 <被害状況> 水富村:住宅半壊 1、流出 2、非住家全壊 1、床上・床下浸水 296 戸 柏原村:住宅全壊 1、流出 1、床下浸水 6 戸、入間川町:床上・床下浸水 71 戸 奥富村:床上・床下浸水 11 戸、入間村:床上・床下浸水 301 戸 掘兼村:床下浸水 50 戸 県下全域で死者・行方不明 347 人 水神碑 昭和 14 年完成した笹井堰 昭和 41 年台風 4 号による浸水状況 ふじみ野市(旧上福岡市)

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20 れの中段にまで達した家々があった。 ⑧ふじみ野市(旧上福岡市) 1910 年(明治 43 年)8 月 8 日から降り始めた豪雨は 3 日 3 晩に及び、11 日午前 1 時に荒川は古谷村(川越市)で 3 ヶ 所、南畑村大字東大久保(富士見市)で 4 ヶ所の堤防を決壊 させた。深夜にこれらの箇所からの濁流が新河岸川の沿岸 地域に押し寄せ、福岡村でも正午に洪水になった。 このとき古谷本郷(川越市)の堤防は、先日来の日照りの 乾燥により亀裂が生じていたことに加えて、修理した箇所の 土が古い堤防になじまず、洪水に砂糖の様に溶けたという。 ツギハギ工事の結末である。入間郡全体の死傷者は 34 人に 及んだが、福岡村においては死者 0 人、負傷者 1 人(歩行可能な負傷者は含ま ず)にとどまった。 村内の最大水深は、駒林地区の野澤常吉宅で九尺六寸(約 2.9m)、川崎地区 の富澤藤助宅で七尺八寸八分(約 2.3m)、滝地区の山崎初蔵宅で七尺五寸(約 2.5m)、下福岡地区の原田留蔵宅で八尺六寸(約 2.6m)、中福岡地区の木村吉 太郎宅で七尺二寸(約 2.2m)、福岡新田地区の柿島栄吉で八尺七寸五分(約 2.7 m)であり、13 日から 9 日の間浸水していた。 写真は川崎地区の土屋弘平氏宅の土蔵内部に書かれた記録であり、「明治四十 三年八月十日夜ヨリ十一日大供(洪)水、倉水入三尺(約1m)」と記されてい る。 <参考文献> 1)「市民のくらし あさか」朝霞市社会指導資料作成委員会 平成 12 年 4 月 2)「志木市郷土誌」志木市教育委員会 志木市発行 昭和 53 年 3 月 3)「平成 26 年 6 月 25 日の大雨に関する埼玉県気象速報」熊谷地方気象台 平成 26 年 6 月 26 日 和光市防災計画Ⅳ資料編」和光市防災会議 平成 28 年 2 月 4)「埼玉県の川にまつわる郷土史」編集発行 彩の川研究会 平成 24 年 3 月 5)「所沢市史 下」編集 所沢市市史編さん委員会 所沢市発行 平成 4 年 11 月 6)「狭山市史 通史編」編集発行 狭山市 平成 8 年 3 月 7)「富士見市史 通史編下巻」編集富士見市教育委員会 富士見市長発行 平成 6 年 10 月 8)「市史調査報告書第六集 水害資料集成-明治四三年大水害を中心に-」編集発行 上 福岡市教育委員会 平成 7 年 3 月 土蔵内部に記録さ れた洪水の水位

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21 3-3.飯能・東松山・秩父 (1)地域の概要 調査対象地域は飯能・東松山・秩父県土整備事務所管内からなる。飯能県土整 備事務所管内は、飯能市、入間市、坂戸市、鶴ヶ島市、日高市、毛呂山町、越生 町の 5 市 2 町からなり、主な河川として南から入間川、高麗川、越辺川が流れ る。東松山県土整備事務所管内は東松山市、小川町、嵐山町、ときがわ町、滑川 町、鳩山町、吉見町、川島町、東秩父村の 1 市 7 町 1 村からなり、主な河川とし て東側を流れる荒川をはじめとして、都幾川、槻川、市野川が流れている。秩父 県土整備事務所管内は秩父市、横瀬町、皆野町、長瀞町、小鹿野町の 1 市 4 町か らなり、主な河川としては中心部を流れる荒川をはじめとして、中津川、浦山川、 横瀬川、赤平川が流れている。 3 地域とも山地・丘陵が多く、砂防施設が整備される以前は豪雨により度々土 砂災害が発生し多くの人命・財産が失われてきた。また平地部においては頻繁に 洪水が発生し、人命・財産と共に農作物に多大な被害を被ってきた。 (2)災害アーカイブスの概要 ①洪水位磨崖標(長瀞町)1742 年(寛保 2 年) 八代将軍吉宗の治世、寛保 2 年に関東各地に未曾有 の災害をもたらした大洪水を示す史跡である。旧暦で 7 月 27 日から 4 昼夜にわたる豪雨で、荒川の水位は 最高に達し当所で 60 尺(18m)と言われる。この付近 一帯は水底に没した。大きな被害を出した野上下郷で は流出家屋 10 軒とある。 この時に荒川岸近くの岩の上に建っていた滝野神 社が流出してしまい近くの高台に移され現在に至る。 この水位磨崖標は後日地元の有志 2 人によって当時の 水位を長瀞第 2 小学校裏山麓の岩肌に刻んだもので、 大きく「水」の1字、下に「寛保二年壬戌年八月亥刻、 大川水印迄上、四方田弥兵衛、滝上市右衛門」と刻ま れたものであったが今は削落し、大きい「水」の字以 外は判読が困難である。昭和9年に「寛保洪水位磨崖 標」として県指定文化財(史跡)となる。 ②金剛院前の馬頭観音 (吉見町) 岩に刻まれた「水」の文字 当時の水位を学校の塀に表示→

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22 寛保 2 年の大水害。荒川・市野川が大出水し 堤切所 6 箇所及び欠所 3 箇所が発生し久保田村 領内が湖水のようになる。 荒川で 11 箇所破堤(中曽根・上砂・一ツ木・ 今泉・北下砂・蚊斗谷・荒子・地頭方)する。死 者 165 人、流家 25 戸、馬の流死 191 頭、浸水家 屋 1549 軒等の被害が発生し、今泉金剛院前に流 死した馬 24 頭の供養塔が残る。 ③鳥羽井沼・中沼(川島町) 1802(享和 2 年)9 月 鳥羽井沼(中沼)は、荒川堤防が鳥羽井村で 80 間(概ね 145m)決壊したことによってできた。面 積は、1 町 3 反 9 畝 14 歩の「おっぽり沼」で、 安永 9 年にできた鳥羽井沼(前沼)と瓢形をな す。両沼の間に九頭龍神社(水防の神様の九頭龍 大権現・水難除けの守護神である一目連大明神を 祀る)がある。この場所は、文政 6 年、文政 7 年 にも決壊した。現在、鳥羽井沼自然公園として地 域住民の憩いの場となっている。 ④水位を刻んだ碑(皆野町) 1859(安政 6 年)7 月 安政 6 年 7 月 23 日~25 日にかけての大風雨に よる洪水で荒川上流の秩父郡大滝村の三峯と大 久保組で家ごと押流され 10 名、秩父で 1 名の死 者が出ている。荒川は、長瀞の岩畳のある付近で 狭窄部になっていて、右岸、皆野町大字下田野の 住宅石垣の根石 に水位を刻んだ 碑 が 残 っ て い る。長瀞の岩畳 付近は、左岸の 岩畳が川に突き 出た地形となっ ており、一時的 に洪水が逆流して水位が上がったものと思わ れる。河原は、小滝と呼ばれ急流になっている。石垣の根石には「安政六未年七 月二十五日大水これまで付」と、この時の水位を刻んだ碑が残っている。 今泉の金剛院 前沼と中沼の間の九頭竜神社 安政 6 年の洪水を示す石碑 金剛院前の馬頭観音 奥が中沼、手前が前沼

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23 ⑤土砂災害の犠牲者を供養する地蔵尊 (小鹿野町)1907(明治 40 年)8 月 長雨、暴風雨による土砂災害のため旧三田川 村の被害は死者 4 名、行先不明 2 名、流失埋没 家屋 5 戸、倒潰家屋 2 戸、同旧小鹿野町 1 戸の 大災害となった。国道 299 号が栗尾沢を渡る箇 所に架かる勘定木橋のたもとには犠牲者を供 養する地蔵尊が立つ。これを機に栗尾沢に大正 5 年県内最初の砂防堰堤が造られた。 ⑥都幾川・越辺川の大水害 (東松山市)1910(明治 43 年)8 月 降り続く雨は越辺川、都幾川で増水し必死 の水防に努めたが、堤防上 2 尺以上の越水、 上流よりの家屋等漂流などもあって 10 日には 葛袋から早俣、正代にかけて 14 か所の堤防が 決壊する大氾濫となった。 高坂村では、8 月 12 日に県に破堤の急水止 工事施工を申請・災害復旧経費の全額補助、堤 防高の嵩上げ増幅施工を陳情した。この時の 大水害は・舟運の衰退による河川修復の立ち 遅れ・上流林野の開畑による保水機能の低下 等社会的矛盾が自然災害を契機に露呈、抜本 的な防水工事の必要性を明らかにしたもの。 それ以降県費による河川工事が進められてい った。 ⑦七重川の土砂災害(ときがわ町) 台風による長期にわたる降雨で、県内各地で大規模な 土石流により山地が崩壊した。七重川だけの被害記録は 残されていないが、県内全域では、山地崩壊 2,870 箇所、 死者・行方不明者 347 人という未曾有の大水害であった。 明治 43 年に被災してから、大正5年に岐阜県墨俣の石 積み職人の指導を受け砂防工事が開始された。これが埼 玉県の砂防発祥である。現地には「埼玉の砂防発祥地の 記念碑」と「選奨土木遺産」の碑がある。 犠牲者を供養する地蔵尊 七重川堰堤群 明治 43 年大洪水埼玉県浸水図 砂防発祥地の記念碑

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24 ⑧越辺川の洪水(越生町) 旧梅園村の 8 月の総降水量 1030.6mm、これは 1 年の平均降水量の 60.5%に当たる。黒山地内の 全洞院では本堂半分と閻魔堂流失した。流失荒地 45 町 5 反、倒壊家屋 28 棟、流失道路 93 ケ所、流 失橋梁 37 橋の大災害が発生した。 ⑨霞川の氾濫(入間市)1945(昭和 20 年)6 月 戦争中の洪水記録は従来知られていなかった が今回の調査で、入間市黒須の霞川で破堤の記録 があった。傍らには亡くなった人の慰霊のための 供養碑もある。碑文の内容は、「当黒須地区は古 来霞川の氾濫による被害が沿岸随一と言われ、近 くは昭和 20 年 6 月地区民必死の努力も効なく、 堤防は遂に破壊され、家屋の流出のみならず、尊 き人命をも失いたる惨事を惹起しました。幸い国 においても霞川改修の必要を認め、去る 29 年当該 地区改修工事を施工するにいたりました。」と記 されてあり、被災から工事着手までの年月の長さ から、戦争による疲弊が推察される。 ⑩横石沢の土砂災害(横瀬町) 1947(昭和 22 年)9 月 カスリーン台風の豪雨により芦ヶ久保地区の横 石沢で発生した土砂災害でこの付近にある人家 7 戸はたちまちにして流出し、全くの救助の策もな く尊い人命の犠牲は 7 名にのぼった。この災害に より砂防事業への機運が高まった。 「二二九に ふ く沢」という名は、住民が当時の被害を忘 れないため、発生年月を通称の沢名としたといわ れる。また、沢沿いに犠牲者を供養する「漆ヶ崎 地蔵尊」が立つ。 ⑪槻川の洪水(東秩父村)1974(昭和 49 年)9 月 台風 16 号の降雨による槻川安戸地先の左岸護 岸が延長 30m にわたり崩壊し、安戸郵便局の隣の 土蔵が流失した。 本堂半分と閻魔堂が流出した全洞院 犠牲者慰霊のための供養碑 「二二九 に ふ く 沢」と橋の親柱 漆ヶ崎地蔵尊

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25 ⑫越辺川、小畔川、入間川の三川合流部の氾濫 (坂戸市)1982(昭和 57 年)9 月、県内で死者1名、 床上浸水 13,760 戸の被害の一部 越辺川、小畔川、入間川の三川合流部では、堤 防の決壊はなかったが、内水氾濫により、広大な 地域が浸水し、田畑の崩壊も含め甚大な被害が 生じた。入間川水系は記録に残せないほど毎年の ように洪水に悩まされ、大正~昭和初期にかけ製 紙王大川平三郎が私費を投じ堤防を築いた(大川 堤)。また、坂戸市出身の原次郎(入間川水系の 父)は直轄河川への編入に尽力した。 ⑬吾野駅南側斜面の崩壊(飯能市) 1999(平成 11 年)8 月 8 月 13 日から降り続いた雨は 15 日まで降り続け 吾野駅の雨量は 525mm に及び、飯能市内では床下浸 水 110 戸のほか、自主避難 234 人、護岸崩壊、道路 被害、崖崩れ等被害が出た。中でも西武池袋線吾野 駅南側斜面の崩壊は幅 100m、長さ 200m に及び、3 万~4 万立方メートルの崩落土石は同線路を埋め、 被害発生から 16 日間東吾野~西吾野間が不通とな った。 ⑭霞川の氾濫(入間市) 2016(平成 28 年)8 月 今年、平成 28 年 8 月 22 日に関東に上陸した台 風 8 号による異常降雨(時間降雨量 100mm を超え る)による洪水で、入間市内では不老川での床上氾 濫被害や霞川での護岸等の被災があった。 槻川被災当時の写真 大川堤遺跡の碑 原次郎先生治水彰功碑 吾野駅南側斜面の崩壊状況 入間川合流点付近での霞川の 被災状況

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26 写真は、入間川合流点付近での被災状況。落差工下流のコンクリート製の護床工 や左岸側の護岸が流出、河岸が大きくえぐれた。右岸にあったハーフコーン型の 魚道も破壊された。このほか、あちこちで護岸の被災が見られた。 <参考文献> 1)ながとろ風土記 長瀞町教育委員会編集 昭和 49 年 10 月 2)近世における荒川中流域の水害と治水 大塚一男著 昭和 59 年 3 月 3)川島郷土史 川島村郷土研究会 鈴木誠一著 昭和 31 年 4)荒川総合調査報告書 荒川 人文Ⅱ 埼玉県編集 昭和 63 年 3 月 など 3-4.北本・本庄・熊谷 (1)地域の概要 この地域は、北本、本庄、熊谷県土整備事務所管内の 7 市、5 町と合併以前の 旧 9 町 1 村を合わせて 22 市町村からなる。◇北本県土整備事務所管内:「鴻巣 市(旧鴻巣市)、旧吹上町、旧川里町」、上尾市、桶川市、北本市、伊奈町 ◇本 庄県土整備事務所管内:「本庄市・旧児玉町」、「神川町・旧神泉村」、上里町、 美里町◇熊谷県土整備事務所管内:「熊谷市、旧大里町、旧江南町、旧妻沼町」 、 「深谷市、旧岡部町、旧川本町、旧花園町」、寄居町。 この地域の特徴を見ると、西部に本庄・江南・櫛引台地や児玉・松久・比企・ 岩殿丘陵があり、中央部に妻沼・加須・荒川低地があって、東部には、大宮台地 が分布しているといった地形的な特徴がある。江戸時代には徳川家康により江 戸の発展のために、利根川の東遷、荒川の西遷が行われ、荒川筋と利根川筋が分 離された。荒川は荒ぶる河川といわれ、熊谷付近をより下流でしばしば洪水に見 舞われていたが、この工事により、河道が直線化され、川幅が拡げられた。堤防 が築かれ、流路の安定が得られて、ほぼ現在の姿となった。これにより、この地 域は茫漠と葦原の広がる池沼地帯から穀倉地帯に生まれ変わった。 これらの江戸時代の土木事業によって、この地域は大きく変貌して現在に至 っているものの、その地形的特徴から大きな河川災害をこうむっている。これら を列挙すると、江戸時代最大の洪水被害を出した寛保 2 年の洪水、明治に入っ て現在の治水計画の基本にもなっている明治 43 年の水害、昭和に入って治水計 画の見直しをするきっかけとなった昭和 22 年のカスリーン台風による水害など があげられる。その他にも大小の水害がある。 各地区ともに市街化や農耕地の整理等により土地が改変され、水害の痕跡は ほとんど残っていない。江戸時代の大きな水害等は、当時は被災地域だけでは復

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27 旧が出来ないこともあった。このため、地域を納めていた 領主に対して、年貢の減免を求める訴状等が出されたよう である。市町村史は、それらの資料がまとめられており、 その当時の水害の様子を窺い知ることができる。 (2)災害アーカイブスの概要 ①鴻巣市(旧鴻巣市) 鴻巣市は埼玉県のほぼ中央に位置し、市の西部に荒川が、 南東部から中央部にかけて元荒川が流れ、中央部は大宮台 地の一部となっている。昔から荒川は大雨の度に各地で洪 水を起こしていたことから、荒川の決壊を防止する為、1871 年(明治 4 年)に大間築堤願が提出され、1875 年(明治 8 年)2 月に民間人によって大間堤が建設された。これを記念し、 1897 年(明治 30 年)に大間築堤碑が建立された。 1947 年(昭和 22 年)のカスリーン台風では、大間堤防は 決壊し、行人樋管も破壊した。この堤防と樋管は 1948 年 (昭和 23 年)5 月に復旧し、1957 年(昭和 32 年)11 月に災害 復旧記念碑が建立されている。近年は、荒川の堤防強化や 各河川の改修が進み浸水被害が減少している。 ②鴻巣市(旧吹上町) 旧吹上町では、荒川が町の西部から南部にかけて流れ、 元荒川が町の中央部を西から東へ蛇行して流れている。荒 川流域である吹上町は、もともと沖積地からなる低湿地で あり、水を得やすい条件に恵まれているが、それは時に、 水の害を受けることにもなっていた。荒川の洪水では家屋 や田畑に多くの浸水被害を出してきたが、1947 年のカスリ ーン台風では隣の熊谷市久下で荒川堤防が決壊し、多くの 被害を出した。近年は、河川改修が進み、死者を出すような水害は発生していな い。 ③鴻巣市(旧川里町) 旧川里町は埼玉県の北東部に位置し、南は鴻巣市と、東は星川を隔て加須市 (旧騎西町)と、南北は行田市と接している。田園地帯が広がる自然豊かな農村 地帯だが、近年は急速に都市化の影響を受けている。江戸時代から明治にかけて は、利根川や荒川が氾濫し、田畑などに広範囲に甚大な被害をもたらしていた。 1947 年(昭和 22 年)のカスリーン台風でも、村の全域で田畑の冠水被害が生じ ている。近年は、河川改修が進み小規模な田畑の浸水被害に止まっている。 大間築堤碑 災害復旧記念碑 吹上氷川神社境内の 填長淵記の碑

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28 ④北本市 北本市は、市域の大部分が関東平野の中央部に位置し、大宮台地の中では標高 の高い所に位置しているため、水害は他地域に較べて少なくなっている。 江戸 時代から明治時代にかけては荒川の出水で田畑などに広範囲に浸水被害を受け、 昭和 40 年代までは大型の台風により人的被害を伴う水害を受けていたが、その 後は、河川改修の進捗もあり田畑などの小規模な浸水被害にとどまっている。 ⑤上尾市 上尾市の災害アーカイブスについては主として「上尾百年史」によるが、幸い にも歴史的に大きな災害がなかった。たとえば、明治 23 年の洪水であるが、見 沼用水があふれ、瓦葺で床上浸水1戸、水田の被害があった。また、明治 43 年 の洪水においては、荒川の左岸(上尾側)の堤肩があと 1m までの水位に達した ところ、対岸の川島領が決壊したので減水し、田んぼの冠水で済んだ。また、昭 和 22 年のカスリーン台風では荒川は堤肩すれすれまで増水したが、堤防は無事 で、堤外の農作物被害だけで済んだ。 ⑥桶川市 桶川では、当時の被災の痕跡等を残すものはなかなか 見出すことは困難であるが、江戸時代初期から幕末まで の間は、年貢割り付け状が多く残されていて、水害等に は頻繁に見舞われていたことが分かる。当地区も寛永、 寛保、天明、天保、安政年代等の資料が存在する。また、 江戸期に築造された備前堤による影響で洪水期に下流地 区との堤防の切り崩し等水争いが記録に残されている。 近年では明治 43 年の水害、昭和 22 年のカスリーン台風 等の水害を受けているが、埼玉の他の地域に比べると、 堤防決壊ではなく赤堀川・江川等の内水氾濫が中心とな っている。 ⑦伊奈町 伊奈町は江戸期の慶長年間に築造された備前堤のた め洪水の害を免れるようになったが、桶川を含む上流の 村は大雨の降るたびにたが冠水し、その被害は大きく近 年にまで及んだとされている。伊奈町の町史で、近世伊 奈を襲った水害は寛保 2 年、宝暦 7 年、明和 3 年、天明 元年の大洪水とあるが、比較的に破堤等の大災害となる ようなものは記録されていない。伊奈町は大宮台地上に 地勢が展開しているため、水害等の大きな被害は少ない。 上武橋記念碑 川普請碑

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29 ⑧本庄市・本庄市(旧児玉町)・美里町 3 市町の災害年表では、地域が隣接しているため大きな災害はいずれも同様の 記述があるものの、史料や聞き取り調査では、被害の痕跡等について現地での確 認は出来なかった。特に被害の大きいものとしては昭和 22 年のカスリーン台風 があげられる。日本列島に停滞する前線の刺激により、この地方も大雨による多 大な浸水被害を受けた。昭和 41 年の台風 26 号では、この地域一帯が暴風と大 雨により、県下最大の家屋被害を受け、災害救助法による大規模な救助活動が実 施された。 ⑨神川町(旧神泉村) 児玉郡神川町は、平成 18 年に神泉村と合併して、新「神川町」になった。今 回の災害アーカイブスの調査では旧神川町と神泉村の単位で取りまとめた。神 川町は、埼玉県の最北西部に位置し、県境を流れる神流川の右岸に広がる平坦な 地域とその上流部の秩父山系に属する山間地域で形成されている。これらの地 形の状況から、神流川の出水等の水害や山間地域での道路の崩壊・落石等の土砂 災害が発生している。災害の痕跡としては、大正 7 年の神流川の洪水で流出し た上武橋の掛け替えの石碑に当時の災害の状況が記録されている。 ⑩上里町 上里町は神流川と利根川、烏川の合流地点に位置していることから、実り豊か な土地に恵まれ古来より農耕が盛んな地域であった。一方で、水源から近く急流 のため、度重なる河川の氾濫による水害に悩まされてきた。古文書史料によれ ば、江戸中期以降近年に至るまで水害の度に村人が総出で川普請や川除普請を 行い、堤や河岸の整備、河道の浚渫等をしたとの記録が残っており、一部は碑が 建立されている。 ⑪寄居町 寄居町は荒川が秩父の山間部から関東平野に 流れ出るところに位置していて、東側が関東平 野、西側が秩父山地につながる山間地となって いる。古来より秩父山地に降った雨の影響を強 く受けてきており、荒川の氾濫による災害が記 録されているが、下流部に比べ大規模災害は比 較的少ない。また、山間地を抱えていることか ら崖崩れや土石流等の土砂災害も発生してい ることが特徴である。 ⑫熊谷市 熊谷市は、荒川・利根川の両河川に挟まれて発達した低地であるために、古 くから水害を被ることが多かった。荒川はその名の示すように、流路の勾配は 寄居町付近の荒川

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30 割合に急で、一旦大雨が襲来する と、一時に増水し氾濫を免れない状 態であった。明治時代になってから も、荒川は毎年のように洪水を起こ した。近年は、治水事業の進展や土 木技術の発達により被害は減少して いる。 ⑬熊谷市(旧大里町) 旧大里町を構成していた江戸時代 の当地域は、地理的環境のうち、土 地の高低からすると、ほとんどが荒 川右岸の沖積低地に位置しており、 荒川の洪水によって、しばしば水害 を被った。寛永年間に行った荒川の 大改修(瀬替え)は、更に当地域に おける、出水の最大の原因にもなっ てしまった。治水の為の堤の築造 は、一方で利害の対立を生み地域間 の対立をも引きおこした。 ⑭熊谷市(旧江南町) 荒川の流れに沿う旧江南町は、古来よりたびたび水害に見舞われてきたが、 なかでも、明治 40 年と明治 43 年の被害はことのほか大きく、利根川流域と荒 川流域の多くの町村にも甚大な災害をもたらした。特に明治 43 年の水害は、 各所で堤防が決壊したり、橋梁が流されたりして、村民生活は大きな打撃を受 けた。この大水害を大きな契機として、荒川南縁水害予防組合が設置された。 ⑮熊谷市(旧妻沼町) 旧妻沼町は、利根川本流との旧流路に広がっており、中世以降多くの洪水記録 が知られている。特に寛保期の洪水被害は甚大で、幕府と諸藩による大規模な堤 防普請が行われた。また、熊谷との境界に築かれた中条堤は、近代期においても 上・下流の村々の対立が起こった。一方、利根川は、備前渠の開削による耕地の 拡大や、舟運による文化・経済面での恩恵をもたらした。 <参考文献> 1) 埼玉県史 第 7 巻近代 埼玉県 昭和 14 年 5 月 2) 新編埼玉県史 図録 埼玉県 昭和 58 年 3 月 明治 43 年の水害状況図1)明治 43 年の水害状況図 水害地域図2)水害地域図(新編埼玉県史図録より)

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31 3-5.行田・杉戸 (1)地域の概要 この地域に流れる利根川、荒川、渡 良瀬川などは、江戸時代以前において 東京湾に流れていた。その後、会の川 の締め切りに始まる「利根川の東遷」 や、荒川を和田吉野川に落とし、入間 川の流路を荒川の本流に変えるなど の改修が行われた。さらに明治から現 在にいたる河川改修などを経て現在 の流路となっている。 当地域の北側に加須低地が、この南 に蓮田台地、白岡台地、慈恩寺台地が あり、これらの東側に接し中川低地が 南に拡がり、地域境千葉県側に宝珠花 台地がある。標高は地域北側から南方 向に向かい下がり、地域西側から東方 に下がっている。この地域は、ほぼ平 坦な地形であるため発生する災害は洪 水となる。 (2)災害アーカイブスの概要 ①寛保 2 年(1742) 江戸時代最大の洪水と言われ、利根川上流部の舞木・赤岩(2 地区とも群馬県 千代田町)・北河原(行田市)及び新川通が破堤した。荒川でも各所で破堤したた め、埼玉平野で甚大な被害が発生し、江戸市中も浸水した。 ・加須市(旧騎西町):施餓鬼供養塔(中の目) ・久喜市(旧栗橋町):洪水でできた宝治戸池(栗橋北 1 丁目) ・久喜市(旧鷲宮町):治水碑(鷲宮 1 丁目) ②天明 6 年(1786) 天明 3 年(1783)7 月の浅間山の大噴火によって、噴出した大量の火山灰や泥 流が吾妻川から利根川に流れ込み、利根川上流部を中心に河床が上昇した。この ことが 3 年後の洪水の被害を拡大させることになり、利根川上流部ではいたる 所で破堤し、中条堤や権現堂堤も破堤した。 ・加須市(旧加須市):堤とクヌギ並木(北篠崎) 利根川と荒川の流路変更図

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32 ・加須市(旧加須市):石橋供養塔(水深) ・久喜市(旧栗橋町):洪水でできた狐塚池(狐塚) ・幸手市:洪水でできた高須賀池(高須賀) ③弘化 3 年(1846) 利根川本川は、本川俣・北川辺・加納新田等各所で破堤し、権現堂堤も破堤し た。また、渡良瀬川、江戸川、中川等も各所で破堤した。江戸市中まで氾濫した。 ・行田市:大暴風雨による忍藩の諸相(行田市史下巻 2) ④明治 23 年(1891) 8 月上旬から降雨が続き、22 日には暴風雨になった。23 日午後 11 時に利根川 右岸の北埼玉郡須賀村(行田市)大字下中条地先で 59 間(107m)破堤し、北埼 玉郡、南埼玉郡、北足立郡、北葛飾郡などが氾濫した。また、権現堂川でも高須 賀地先で破堤した。この洪水は、中田地先で毎秒 136,000 立方尺(3,780 ㎥/s) の流量が記録されている。 ・加須市(北川辺町):利根川洪水氾濫絵図(北川辺町史(四)「北川辺の水害」) ⑤明治 43 年(1910) 明治期最大規模の洪水となり、利根川本支川の堤防はいたるところで破堤・越 水し、関東平野全域に大被害を及ぼした。破堤氾濫のうち、ことに福川右岸中条 堤の破堤による氾濫流は埼玉県内の大里郡、南・北埼玉郡、北葛飾郡の 4 郡を浸 水させ、さらに荒川左岸の破堤による氾濫水と合流して、埼玉県を縦断し東京の 本所・深川・下谷の各区にまで達した。 ・行田市:忍町役場から北埼玉郡役所あて水害状況報告書(行田市史下巻 3) ・加須市(旧加須市):水量杭記念碑(町田新田)、洪水記念碑(阿良川) ・加須市(旧加須市):大洪水記念碑(南篠崎)、(花崎) ・加須市(旧北川辺町):決壊箇所図(明治 43 年埼玉県水害誌付図) ・久喜市(旧菖蒲町):水死精霊位供養塔(小林野々宮) ・久喜市(旧栗橋町):大洪水の作文(久喜市栗橋町史第 4 巻資料編二 近世) ・蓮田市:堤防修築記(閏戸) ・蓮田市:水塚にある主屋の柱の洪水水位(馬込辻谷) ・幸手市:道路修築記念碑(平須賀 2 丁目) ・宮代町:明治 43 年大水害について記された百間村水害史 ⑥昭和 22 年(1947) この台風は未曽有の大出水を引起し、その被害の規模において明治 43 年洪水 に匹敵するものであった。9 月 16 日午前零時 20 分、北埼玉郡東村(加須市)新 川通地先で河川水位が堤防を 0.5m も越え、延長 1,300m にわたりオーバーフロ

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