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朝鮮植民地下の京城・皇城YMCAに関する研究 [ PDF

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朝鮮植民地下の京城・皇城YMCAに関する研究

キーワード:内鮮一体化、教育、宗教政策、日韓YMCA,日本の敗戦 教育システム専攻 浦橋 勝信 【目次】 序 章 第1節 問題の所在 第2節 先行研究の検討 第3節 課題設定と研究方法 第1章 朝鮮植民地における教育政策 第1節 仏教宗派による学校教育 第2節 キリスト教派による学校教育 第3節 キリスト教による朝鮮布教 第2章 京城YMCAの設立と皇城YMCA 第1節 京城YMCAの事業 第2節 京城YMCAの事業所(会館) 第3節 皇城YMCAの設立と活動内容 第4節 皇城YMCAの事業 第5節 皇城YMCAの事業所 第3章 日本統治下における軋轢と二つのYMCA の葛藤 第1節 親日化(臣民化)誘導政策 第2節 三・一独立運動 第4章 YMCAの活動とYMCA主務としての責 務 第1節 丹羽清次郎 第2節 総主事としての笠谷保太郎 第5章 日本の敗戦と京城YMCA 第1節 内地人への朝鮮語講習会 第2節 米軍慰問バザー 第3節 京城日本人世話会と堀原信一 終 章 まとめと今後の課題 【概要】 <序章> 植民地支配の維持、円滑化を図る為の同化政策の中で重 要視されたのは「教育」と「宗教」であった。日本の文化、 歴史、言語の学習強要、朝鮮語の廃止といった皇民化教育 政策。そしてもう1つの同化政策は、韓国併合時に約20 万人に及んだ朝鮮、キリスト教徒に対してであった。 日本のキリスト教団で、朝鮮布教を最も進めたのは「日 本組合教会」であった。組合教会の朝鮮布教は政財界と朝 鮮総督府からの直接援助を受けたものであり、天皇制国家 の膨張政策と積極的に結びついたものであった。この、日 本組合教会の中心人物は海老名弾正と渡瀬常吉であったが、 両名は日本YMCAとの関わりも深く、日本キリスト教の 伝道を「京城学堂」などを、うまく利用し朝鮮布教、朝鮮 人教育を推進したのである。 当時、韓国には皇城基督教青年会が存在し、活動してい たにもかかわらず、ソウル在住の「内地人と朝鮮人」の為 という名目で「京城基督教青年会」の設立を目論む。伊藤 博文や財界人の協力があったということは、まさに「同化 政策」「皇民化」の一端として「京城YMCA」が誕生した のである。 1907年、日本YMCA同盟主事となった丹羽清次郎 は、1910年4月京城YMCA総務となる。丹羽は19 03年に設立された皇城YMCAに対しあらゆる手段を講 じて、キリスト教における「同化政策」を試みる。しかし、 韓国YMCAも必死の抵抗を試み、両YMCAの「葛藤と 対立」は日本の敗戦に至るまで続いた。丹羽は財政基盤を 強固にする為の会員増強運動、内鮮両YMCAの関係を密 にして、「内鮮融和」の実をあげ、各教会間の連合をはかる ことなどを行なった。一方、皇城YMCAもあらゆる懐柔 策にさらされながらも、屈することなく農村改善や学生Y MCA等の自国民に対するYMCA活動を積極的に行なっ た。しかし、1938年、京城YMCAにおいて、両国の キリスト教指導者たちが「朝鮮YMCA連合会」を改めて 「日本YMCA朝鮮連合会」とすることを決議し、韓国の YMCAは終焉を告げた。一方、日本のYMCAも194 0年「宗教団体法」の改正により「日本基督教団」に吸収 統合された。 同じ「キリスト教精神」を持つ二つの団体が対立と反目、 統治者と被統治者の相反する立場に置かれた植民地期を経 て、1965年日韓基本条約が締結され、新しい日韓協力 の扉が開かれた。キリスト教界においても1967年(昭 和42年)韓国に対して犯した罪を謝罪した「戦争責任告 白」が韓国基督教長老会第50回総会で発表されると、両 国YMCA内部においても、やっと朝鮮統治下のYMCA についても語られるようになったのである。 1995年、在日本韓国YMCAにおいて「日韓YMC

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A声明」が行なわれ、両国のYMCA及び、キリスト教史 について、4回の「日韓YMCA歴史セミーナー」と7年 の歳月をかけて『日韓YMCA関係史』が編纂された。し かしこの資料が植民地下の歴史を網羅しているわけでなく、 多くの観点からこの歴史を実証していく必要がある。この 日韓YMCAの共同作業は新しい日韓関係を踏み出した意 義は大きいが、今回の研究をすすめていくうち、これらの 資料になかった新たな事実を知ることができた。それは、 敗戦後のソウルにおけるYMCA担当者として、さらに一 日本人として、人間として、戦後の混乱の中での「大事な 働き」があったことを資料や写真によって知ることができ たことである。これらの事実を新たに認識することにより 「朝鮮植民地」はなんであったのか、そして本当に「新し い日韓関係」はどうあるべきなのかということを考察する 必要がある。 <第1章> 朝鮮植民地における教育政策 第1節では「仏教宗派」「キリスト教宗派」による朝鮮植 民地における「教育政策」について検討した。 朝鮮における植民地政策は1919年の三・一独立運動 を境として、それまでの「武断政策」から「文化政策」へ と転換された。教育政策は、こうした政策の転換に伴い、 植民地支配の維持、円滑化を図る為特に重要視された。こ の教育政策の中で、重要な働きをしたのは、仏教各派やキ リスト教宗派であった。仏教各派では、東本願寺(真宗大 谷派)と浄土宗は「日本人学校」への関与により、その貢 献は大きかった。1877年、東本願寺釜山別院が創設さ れ、それを足がかりとして、元山、仁川、京城と小学校教 育を展開していく。浄土宗は韓国人を対象とした開城学堂 の「日語学校」から着手し、馬山公立小学校を開校。 キリスト教派は「大日本海外教育会」は「京城学堂」を 1896年に開設し、「同化政策」を押し進めることになる。 この京城学堂は政治、経済界の有力者であった伊藤博文、 西園寺公望、近衛篤磨、大隈重信、渋沢栄一、および三井、 岩崎家の後援を得ていた。京城学堂の教育内容は「日本語 による普通学」であったが、日本組合教会の渡瀬常吉が1 899年に着任し8年間、京城学堂の経営に腐心する傍ら 教科書編纂にも力を尽くした。京城学堂は日語学校の中で 最も代表的なものであったが、教育という外見的形態によ って朝鮮政府、欧米列強と生じる対立、つまり「侵略的意 図」をたくみに隠したものであり、日本政府の侵略政策の 全体的構図の中で進められていたのは明らかである。 渡瀬とともに、朝鮮伝道を進めた日本組合教会の海老名 弾正は朝鮮民族に日本キリスト教の思想(=「神道的」キ リスト教)を植えつけようと努力した。例えば、1910 年4月京城キリスト教青年会の集会で「キリスト魂の発展」、 皇城キリスト教青年会(朝鮮キリスト教青年会)主催の集 会で「神の国」という題目で講演を行なったが、これらは 海老名の「神道的」キリスト教の立場を明確に示したもの である。日本組合教会の朝鮮布教は、朝鮮人の排日思想と 欧米の宣教師との対立によって困難をきわめたが、伝道開 始後、わずか7年で日本全土と差のない信徒数の1万10 00人に達している。教会数も1914年に55教会であ ったのが143教会となった。この伝道は海老名の「宗教 と政治」は1つのものであるという理念の下に行なわれて いた。しかし三・一運動以降になると、1921年、朝鮮 伝道部廃止が決議され、日本組合教会の朝鮮伝道は終結し た。 <第2章> 京城YMCAの設立と皇城YMCA 京城だけで2万人を超えていた日本人を伝道の対象とし て「京城YMCA」1910年に設立され、YMCAの活 動が開始された。事業の内容としては、教育事業において 多大な成果をあげた。特に「朝鮮語講習会」は京城におけ る唯一の講習会であった。語学では英語、ドイツ語、中国 語等にも力をいれ、夜間学校の開設により勤労者にも学ぶ 道をひらいた。 青少年に対しては、バレーボール、バスケットボール、 テニス、野球等のスポーツの振興に貢献し、夏季キャンプ では初めての天幕(テント)生活を実施したが、母親たち への再教育として、講演なども行なった。皇城YMCAも 京城YMCAと同じように、欧米の文化やスポーツ活動を 紹介しているが、勤労青少年を対象として「民族の啓発運 動」を行なっている。その他として、「意識開発教育」を進 め、在来の習慣、農村の近代化により、精神面、経済面、 社会的、身体的な面の向上を図っていく。又、学生YMC Aを中心に、夏季休暇等を利用し、指導者養成にも力をい れた。 <第3章> 日本統治下における軋轢と二つのYMCAの 葛藤 京城YMCAの設立趣旨は、単純に「内地人」にたいす るキリスト教の伝道というのはあくまでも名目であり、そ の目的は日本への「同化政策」の一端を担うものであった ことは言うまでもないことである。その為に、京城YMC Aはあらゆる手段、方法を用いて、皇城YMCAを引き込 もうとする。その方法は、韓国YMCA関係者の日本訪問 「朝鮮見学団」や「朝鮮基督教連合会」の加盟問題である。 韓国YMCAの勢力を挫くために「105人事件」をでっ ちあげ「維新会事件」など次々に政略的に皇城YMCAへ の締め付けを行なうのである。京城YMCAとしては同じ

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キリスト教青年会として、けっして本意ではないにしても、 当時の状況下のなかで二つのYMCAは常に「軋轢と葛藤」 の中にさらされていた。 <第4章> YMCAの活動とYMCA主務としての責務 京城YMCAにおいて総主事としてYMCAの職務を全 うした、丹羽清次郎と笠谷保太郎は、朝鮮の地でどのよう な思いで活動をなしていたのだろうか。丹羽は終始朝鮮総 督府に協力を惜しまなかったが、軍国主義化し、キリスト 教に次々と迫害を加える日本政府や総督府に対し、無教会 主義の矢内原忠雄や黒崎幸吉らの伝道活動への応援で、軍 国主義に少なからず抵抗の姿勢をみせた。笠谷は学校事業 を通じ、内地人のための「朝鮮語講習会」や「京城商科学 校」が実をあげる。新協劇団「春香伝」、新交響楽団の公演 など、文化活動も活発に行なった。 全体的な総括として、京城YMCAについて笠谷は「京 城における青少年のみならず一般民衆によき働きをなして きたものと信じる」と言っている。その内容は、教育事業 を通しての貢献。YMCAの教育は知識の伝授だけでなく 基督教的な人格の教養、人格の研鑽をはかった。そして、 学校生徒中、8割が朝鮮人青年であり日本人との友好関係 ができたこと。学生YMCA運動の活性化、青年のYMC A寄宿舎の活用による青年会活動。少年事業では夏季キャ ンプや保護者の母親に対しての再教育「保健講座」等が開 講された。しかし、体育館がないためにスポーツ指導を成 しえなかったことについては「痛恨の極み」と笠谷は語っ ている。 <第5章> 日本の敗戦と京城YMCA 1945年、日本の敗戦により朝鮮統治は終焉をむかえ たが、約70万人の日本人が朝鮮の地に残された。京城で はいち早く「京城日本人世話会」が組織され、引揚げ事業 が進められた。 この「京城世話会」は質の高い人達によって構成され、 行なわれた引揚事業は多岐にわたったが、「避難民の援護救 済」活動も行なった。この救済は、困難をきわめた北朝鮮 からの帰還についても、南北境界線まで出掛け、南に逃れ てくる避難民を積極的に保護しようとした。この救助活動 の動力源となったのは世話会の傘下に入り、学徒隊・学力 団や撫子隊と称されて活躍した活躍した青年たち(京城の 中学校4年生~大学生)であった。彼らは北朝鮮からの脱 出者の医療に従事したほか、連絡運搬、情報などに奉仕し、 日本人子弟の教育のために各方面に塾を開いて教育に携わ った。 元京城YMCAの総主事丹羽も帰国までの間、米軍との 折衝、引揚援護局の業務に携わった。しかし、敗戦後の「京 城YMCA」については資料・記述はここで途切れていた が、今回、丹羽と同じように、残された京城でキリスト者 として、又YMCA精神のもとで、朝鮮に残された人々の 為に、「刑務所慰問」「収容所、病院等死去者の埋葬、遺族 引渡し」「佐世保引揚援護局」などの業務に対して全身全霊 をかたむけて奉仕を行なった堀原信一の働きを知ることが できた。このことにより、当時の「敗戦・京城」の様子を より深く解明することができた。これは1個人の業績を明 らかにするだけでなく、いかに「統治・敗戦・帰還」とい うものが人間一人ひとりの尊厳に大きく関わるものであっ かを知ることになった。 総督府が指導力を失った状態下、無秩序になりつつある 京城在住日本人に冷静な対応を呼びかけ相互連携と情報の 交流をうったえるために『京城日本人世話会々報』が発刊 された。1945年9月の第1号から1946年2月の第 123号まで、又、引揚列車の中で発行された『移動会報 第1号』の124号のB4版、ワラ半紙の会報の役割は、 敗戦の混乱した京城に住む日本人に向けて、現在おかれて いる状態を性格に伝え、不安や苦痛を和らげる役割を果た した。そしてこの会報は、終戦直後、朝鮮を記した記録が ほとんど残されていない現状のなかで「朝鮮で生きた日本 人の思い」を知ることのできる貴重な歴史資料である。京 城YMCAについても敗戦後のYMCAの残されてないな か、京城YMCAの活動、従事者の行動をこの「京城世話 会々報』から見出すことができたのである。 <終章> まとめと今後の課題 今回の論文は「京城YMCA」が主であるが、これはキ リスト教という「宗教」だけでの問題としてとらえるので なく、アジアの歴史のなかで、隣国である韓国と「統治者」 と「非統治者」という時代があったことをふまえ両国民に とっての「同化政策」「皇民化教育」が及ぼした歴史的事実 を理解する必要がある。この35年間の両国の歴史につい てはいろんな観点から、解明され、歴史的事実が証明され てきている。「京城YMCA」についても然りであるが、1 00年たった今でもこの歴史を再度繙くことは意義がある と考える。現在「韓流ブーム」でいっきに日韓が理解しあ えているようにも見えるが、もっとお互いに深い歴史認識 が必要と思う。アジアの中の「日本YMCAと韓国YMC A」とは?と考えることにより、これからのグローバルな 「青少年教育」の本質を見出すことができるのではないだ ろうか。

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【主要引用文献】(*はハングル文献) ・ 稲葉継雄『旧韓国~朝鮮の内地人教育』九州大学出版 会、2005年 ・ 尹慶老「韓国YMCAの歴史性をどう理解すべきか」、 会議資料、2002年 ・ 金文吉『近代日本キリスト教と朝鮮』明石書店、19 98年 ・ 徐正敏『日韓キリスト教関係史研究』、日本キリスト教 団出版局、2009年 ・ *韓国基督教青年会運動史』、ボムウ社、1994年 ・ 『日韓キリスト教関係史資料Ⅱ』、新教出版社、199 5年 ・ 京城基督教青年会『青年』、1921年、6月号 【主要参考文献】 ・ 稲葉継雄『旧韓国~朝鮮の日本人教員』、九州大学出版 会、2001年 ・ 森田芳夫・長田かな子『朝鮮終戦の記録』、巌南堂書店、 1964年 ・ 『京城内地人世話会々報』、日本人世話会、1945~ 1946年 ・ 『日韓YMCA関係史』、財団法人日本YMCA同盟、 2004年 ・ *『韓国YMCA運動史』、大韓YMCA連盟、198 6年 ・ 新堀邦司「京城」時代の丹羽清次郎、YMCA,史学 会、2004年 ・ *朴永福『韓国基督教社会教育史』、教育科学社、19 95年 ・ ソウルYMCA運動100年史、ソウルYMCA,2 004年

参照

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