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慈恩大師基の浄土教思想―仏身論・仏土論を中心に ―

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Academic year: 2021

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著者 林 香奈

学位授与大学 東洋大学

取得学位 博士

学位の分野 文学

報告番号 甲第264号

学位授与年月日 2011‑03‑25

URL http://id.nii.ac.jp/1060/00003937/

(2)
(3)

東洋大学博士学位請求論文

 慈恩大師基の浄土教思想 一仏身論・仏土論を中心に一

      ピ  〜

           箋

      \∴。メ

文学研究科 仏教学専攻 博士後期課程

   4120040001 林香奈

(4)

慈恩大師基の浄土教思想 一仏身論・仏土論を中心に一

目次

凡序

11⊥

第1部

 第1章   第1節   第2節    第1項    第2項   第3節    第1項    第2項    第3項    第4項    第5項    第6項   第4節    第1項    第2項   第5節

文献研究篇

基の伝記資料とその事跡

 問題の所在

 使用する資料の検討

 基の存命中に書かれた資料について  基の死後に制作された資料について 初期の伝記資料を中心にみた基の事跡

基の名について

出自 出家

 『成唯識論』訳出 代郡周辺への旅 教化活動と示寂 基の人物像の再検討

 『宋高僧伝』にみる基の人物像  初期の伝記資料より見る基の人物像

結論

6677ロBB田打四別田%%銘Ω

第2章  基の著作の撰述過程と真偽問題  第1節  問題の所在

 第2節  撰疏の執筆経緯

  第1項  基の著作の現存状況   第2項  経疏の執筆経緯

   (1)『心経幽賛』

778822 333344

(5)

    (2)『理趣分述讃』

    (3)『無垢疏』と『弥勒上生経賛』

    (4)『法華玄賛』

   第3項  論疏の執筆経緯

    (1)『枢要』と『述記』

    (2)『因明疏』

    (3)『中辺疏』、『二十論疏』、『宗輪疏』

    (4)『楡伽論略纂』

  第3節   『対法抄』と『義林章』の真偽について    第1項   『対法抄』

   第2項  『義林章』

  第4節  結論   資料

第2部  教理研究篇

 第3章  基の仏身論   第1節  問題の所在

  第2節  慧遠の三身説と基の三身説との対比    第1項  慧遠の三身説

   第2項  基の三身説     (1)三身説の典拠     (2)自性身

    (3)受用身     (4)変化身   第3節  仏身の体

   第1項  『大乗義章』における仏身の体     (1)小乗

    (2)大乗破相門     (3)大乗顕実門

   第2項  『義林章』における仏身の体     (1)清弁等の説

      A) 清弁の仏身論

      B) 『仏地経論』および『成唯識論』との比較

    (2)第二の説

      A)四身と四智および八識の対応関係

64922468114814556666677778

89 W9

X。

X。

X3 ロ%99㎜溜霊霊霊器

(6)

    B)仏身の五識の否定    (3)第三師の説

    A)法身の体としての清浄法界および大円鏡智     B)第三説の否定の理由

   (4)『成唯識論』の説

    A)法相教学の正義とされてきた四身と五法の対応関係     B) 自性身について

    C)自受用身について

    D)他受用身および変化身について

   (5) 『金光明経』の説

   (6) 『仏地経論』の説

  第3項   『対法抄』に見る仏身の体と各仏身の化現の仕組み

   (1)自性身と自受用身

   (2)他受用身    (3)変化身  第4節  結論

第4章  基の仏土論と浄土思想  第1節  問題の所在

 第2節  基以前の仏土論および浄土思想   第1項  慧遠の仏土論

   (1)真・相・事の三土説    (2)安楽国の判定

   (3)法・報・応の三土説   第2項  善導の弥陀身土論

   (1)『観無量寿経疏』における西方浄土唯報説    (2)『観音授記経』の解釈と凡夫入報

 第3節  基の仏土論

  第1項   『成唯識論』などに基づく四土説

   (1)総論および法性土

   (2)自受用土    (3)他受用土    (4)変化土

  第2項  仏国土の判定に関する唯識的解釈    (1)基の通報化説

   (2)仏土の有漏無漏

霊⁝㎜還芸遼嘉㌫㌫ 779991255699914900344444555555556667771111111111111111111

(7)

  (3)仏土の三界摂不摂 第4節  基の浄土思想!

 第1項智を基礎とした仏土の因の体系   (1)仏土の因としての智と名言種子の関係   (2)仏から見た智因の体系

  (3)有情から見た智因の体系

第2項『説無垢称経』等に説かれる浄土往生の因への解釈 第5節  基の浄土思想工

 第1項

 第2項   『義林章』「三身義林」における基の阿弥陀仏観   (1)『観経』に対する解釈

  (2)『鼓音声経』に対する解釈   (3)『観音授記経』に対する解釈

 第3項  阿弥陀仏の仏格判定の背景   (1)凡夫入報への批判

  (2)別時意説による会通

  (3)弥勒信仰擁護のための西方唯報説 第6節  結論

178 183 183 183

185

188

191

194

『観経』の西方浄土に対する唯報説と通法化説の提示194 197

197

198 199 201 201 203 204 206

総結

209

参考文献

216

(8)

   るかたちとした。

(2)本論文の表記は、原則として新漢字・現代仮名つかいとした。ただし、引用文等の    一・部は旧漢字を用いた。

(3)本書で川いる主な略号は以下の通りである。

   大正・大II三蔵   大正新脩大蔵経    rU続蔵      新纂大日本続蔵経

    これ以外の略号については、随時論文中において明記することとした。

(9)

序 一本論の研究目的とその意義一

 基(632−682年)はインド遊学と経典の翻訳で有名な玄装(602−664年)の高弟であり、

玄奨がもたらした鍮伽行唯識学派の経論をもとに、中国法相宗の教義を確立したことから、

日本において法相宗の初祖とされる。玄装が経典訳出のため住した唐の都長安の大慈恩寺 に師の死後もとどまり、そこで生涯を閉じたことから、後代に「慈恩大師」と号されるに 至った、,基の著作とされる章疏は、現存・散逸・偽撰も含めると41部にもおよび、真撰が 確実であるとされる唯識系の論疏やいくつかの経疏などに限定しても、12部96巻1より下

ることはない。それゆえ、その功績を讃えて、古来多くの伝記資料では基を「百本の疏主」

と1呼んでいる。それらの膨大な著作を通して構築された唯識思想は、鍮伽行唯識学派の諸 説の中でも護法の説を主に正義として、玄奨や基が取捨選択し編纂した『成唯識論』を根 本としており、インドの唯識学派の学説を中国仏教という思想的土壌の中で再構築した法 相唯識としての体系を有している。その教義は玄装以前の中国仏教界に存在していた地論 学派や摂論学派の説とは異なる、新たな唯識思想を提示するものであり、基の弟子である 慧沼(649・714年)の時代には、基と同じく玄装の門下であった円測の説を抑え、孫弟子智 周(677・733年)の時代には玄奨からの正統としてその地位を揺るぎないものとしたとされ る。そして奈良時代には日本に伝えられ、南都六宗の中でも最大の宗派の一つである法相 宗を成立させたのである2。

 しかし、中国においても日本においても、その後禅宗や浄土思想が仏教の中心となって いく…方で、法相教学が注目されることは極めて少なかった。それは唯識の体系があまり に緻密であるがゆえに、これを学ぼうとしても煩雑さを免れないほか、五姓各別説など一 部の教義が人々に受け入れられにくかったためとも言われている。

 だが、近年は中国法相宗における玄奨とその門下に関して、研究が進められてきており、

佐久間秀範は玄奨が『成唯識論』以前に合揉訳として訳出した論書の一つである『仏地経 論』を、チベット語訳と対比させることによって、玄装の唯識説を解明しようと試みてい る。また、吉村誠が玄奨の伝記や訳出経典、さらに玄共門下の著作と摂論学派をはじめと する他派の文献を比較する研究を行い、玄奨およびその門下の思想的独自性やその背景を 考察しているほか、法相宗では異端のように扱われてきた円測の唯識説についても、伊藤 尚徳や橘川智昭などによる再検討が進められている。

 基の思想についても、先行研究は非常に多い。代表的なものをいくっか挙げると、基の 特定の著作を中心に、その思想を解明しようとする試みとしては、『成唯識論』および『成 1本研究により、『対法疏』第一巻の真撰がほぼ確定したため、これも数に含めている。

2日本における法相宗第一一一一伝は道昭(629 700年)だが、道昭は玄奨から直接学んでいるた め、正確に言えば基の思想が含まれる法相教学ではないだろう。第四伝の玄防(?・746年)

は智周に学んでおり、中国法相宗の三祖によって確立された教義はこの時点で日本にもた らされたと言える。

(10)

唯識論述記』(以下『述記』と略す)と『成唯識論掌中枢要』(以下『枢要』と略す)から 法相唯識の思想体系を総合的に解説した深浦正文、『説無垢称経疏』(以下『無垢疏』と略 す)から基の『維摩経』解釈の特徴を論じた橋本芳契、『因明入正理論疏』(以下『因明疏』

と略す)から基の因明の理解をインドの論理学と比較した江島恵教、『妙法蓮華経玄賛』(以 ド『法華玄賛』と略す)から基の一乗思想・仏性論を探る常盤大定、勝呂信静、寺井良宣、

吉村誠などの研究成果がある,,また、基と諸師との思想的関係について、不空や空海とい った密教思想に関して加藤精一が、法相宗と教理的に関連が深い華厳宗にっいては、根無

ソ」、竹村牧男をはじめとする多くの先行研究が存在する。そのほか、『法華玄賛』にはチ ベット訳が存在し、チベットにおける中国仏教受容を探る一ヒでの一助となる貴重な資料と

して川口益が研究を行っている。また、近年では惨明活や陳宗元といった海外の研究者に よる研究も進められつつある。

 そのような中で筆者が今回、基の仏身仏土論を主題として研究に取り組んだことには、

いくつか理由がある。第一一に、基の思想研究として最も総合的であると思われる深浦の研 究は、全体的に極めて詳細だが、仏身仏土論に関してだけは『成唯識論』に沿ってその内 容を概説するにとどまり、『仏地経論』に基づく細部の議論については、ほとんど明らか にされていないためである。『成唯識論』においても仏果に関する記述は最後の巻第十の 後半に相当し、決して分量的に多くはないが、唯識を論じ極める理由はここにある以上、

仏身仏1論についても論の意を細かく読み解く作業は必要であろう。

 第二は、玄装から唯識教学を受け継いだ基が、どのように自らの思想を反映させて法相 教学として大成したかを考察するためである。これに関しては、まず玄装の思想を明らか にする必要があり、それには吉村が行うような摂論学派との比較という手順が用いられる が、仏身仏土論は幸いにして『仏地経論』の中に詳細な記述があり、それと『成唯識論』

との対比については、一部佐久間の研究成果が出されている。ただし、佐久間は基の著作 との比較は行っていないため、本論において基の著作における『仏地経論』の引用や解釈 を考察する中で、基が玄柴の訳出した『仏地経論』を用い、自身の仏身仏土論を展開した 過程を解明することを目指したのである。

 第三は、基自身の人間像に迫る上で、仏身仏土論は一っの有効な回答を含んでいるため である。基は法相宗初祖という位置づけや、その出自から、後代の伝記においてさまざま な伝承による脚色をされているが、その本来の人物像に迫った研究はほとんどなされてい ない。また、唯識思想そのものが極めて論理的であるため、禅や念仏といった実践を重視 する仏教者と比較すると、基は非常に論理を重んじる人物のようにも思われる。しかし、

基が師である玄奨にならい、熱心な弥勒信仰者であったことは、よく知られている。基と 同時期に活動した中国浄土教の善導(613−681年)との関係から、それが最も強く表れてい るのが仏身仏rft ndであるが、従来の研究はその視点が不十分であるため、基の浄土思想に 関して一・面的な見方をされることがしばしばあった。本論で基の著作を総合的に読み解き、

仏身仏土論を通して基の思想だけではなくその背景をも論じることで、一人の人間として

(11)

の基のすがたを少しでも明らかにしたいと考えたのである。

 さらに、基の仏身仏†論を解明することは、日本浄土教の宗学的伝統に基づく、曇鷺・

道紳・善導という思想的系統を中心とした従来の中国浄土思想の研究に対して、別の側面 からアプローチを試みることでもある。本研究は、初唐期の中国浄上思想をより総合的・

立体的に読み解くLで、有意義な視点を提供できるであろう。

 以ヒの目的を達成するために、本論では次のような構成で執筆を進めた。

〈第1部 文献研究篇〉

第1章  基の伝記資料とその事跡

 この章では、基の自著である『枢要』や基の存命中に書かれたと考えられる複数の序文・

後序、および没後比較的早い時期に作られたf大唐大慈恩寺基公碑」といった伝記資料を もとに、基の事跡と人物像を考察した。基の伝記に関しては、『宋高僧伝』以降のものを用 いられることが多く、筆者の取り組みは前例のないものである。これにより、基の人物像 をいくらかでも実像に近いかたちで解明することを目指した。

第2章  基の著作の撰述過程と真偽問題

 この章では、多数現存する基撰とされる文献の中から、基の真撰の可能性が高いものを 選び出し、相互の引用関係を調査することで、それぞれの成立時期や真偽を考察した。そ れを明らかにすることで、第二部の研究で用いる資料を確定し、基の思想の変化も探れる のではないかと考えたからである。特に、仏身仏土論との関連では、『阿毘達磨雑集論述記』

(以下『対法抄』と略す)巻第一と『大乗法苑義林章』(以下『義林章』と略す)「仏土章」

の真偽判定に取り組んだ。

〈第2部 教理研究篇〉

第3章  基の仏身論

 この章では、基の仏身論について、『義林章』「三身義林」と『成唯識論』や『仏地経論』

などを中心に考察した。また、法相教学における四身説の特徴を明瞭にするため、浄影寺 慧遠の『大乗義章』における三身説についても併記し、それとの比較も試みた。後半は、

仏身と四智との対応関係について考察し、基の独自性が発揮された『金光明経』の解釈や、

インド仏教における諸説への批評について、基と玄 の違いを考察した。

第4章  基の仏上論と浄土思想

 この章では、第3章と対になる基の仏土論、および善導などへの対応も含む基の浄:ヒ思 想を扱った。前半では、阿弥陀仏と西方浄土を凡夫のための応身・事浄土と判断した慧遠

と、そのような判定に反論し、阿弥陀仏とその浄土を唯報とした善導の仏土論を参照した。

また、道紳・迦才・善導など専ら阿弥陀仏信仰を宣揚した諸師と、地論宗の浄影寺慧遠・

天台宗の智顕・三論宗の吉蔵などとの間でしばしば問題となった浄:ヒの有漏無漏・三界摂 不摂、そして通報化説に対する基の解釈を明らかにした。後半では、それらの教理を用い て、基がどのような浄士思想を繰り広げたかを考察した。

(12)

 以一ヒ、この第二部において、『成唯識論』の仏身仏土論に相当する記述はほぼすべて網羅 しており、本研究は従来不t一分であった基の唯識教学における仏果の様相と浄土往生の唯 識的解釈を総合的に解明するという成果を上げることができたのではないかと考えている。

(13)
(14)

第1章 基の伝記資料とその事跡

第1節 問題の所在

 基は玄奨の高弟であり、中国法相宗の初祖とされることから、その事跡を記した多くの 伝記資料が現存しており、法相宗の歴史や思想を語るさいには、しばしばそれらの内容が 紹介されてきた。その先行研究を大別すると、大きく二つの傾向があるように思われる。

 ・つは、基の事跡を取り上げたものであり、深浦正文1や富貴原章信2、佐伯良謙3らの研 究がこれに相当する。これらの研究では、基だけではなく玄装や中国法相宗第二祖の酒洲 大師慧沼、第三祖の撲揚大師智周などの伝記も合わせて語られることが多い。それは、鎌 倉時代に凝然(1240・1321年)が『三国仏法伝通縁起』巻中において「三蔵の上足に慈恩       いよいiさか 基師有り。基師の上足に溜洲師有り。湛洲の上足に撲揚師有り。摘祖相承し横堅彌昌んな

り」(大日本仏教全書第101巻、p.112.下段)と述べているように、日本仏教で伝統的に用 いられてきた中国法相宗の師資相承説を念頭に置いた上で、基の伝記を扱っていることに

よると思われる4。

 もう一つは、基の伝記資料に関するものであり、「慈恩大師伝記文集」5や渡辺隆生の研究 6がこれに相当する。特に渡辺は上述の研究者が主に用いていた『宋高僧伝』などの資料の ほかにも、基の伝記資料を広く収集し7、それらの資料に対して訓読・注記や成立状況の解 説も附しているため、基の伝記をより総合的に研究する上で大いに参考になる。

 このような先学の研究による成果は大きいが、それぞれに課題も残されている。まず、

前者の基の事跡に関する研究は、賛寧(919−1001年)の『宋高僧伝』(988年成立)より後 に成立したと考えられる資料も無批判に参照する場合があるなど、必ずしも基の伝記を文 献学的に精査して論じているわけではない。『宋高僧伝』ですら基の死後300年ほど経って から執筆されており、いわゆる「三車和尚」や五台山での『観弥勒菩薩上生兜率天経』(以

ド『弥勒一L生経』と略す)に関する神秘体験など、さまざまな伝説的記述が含まれている ことを考えるならば、基の伝記は基の没年により近いものを中心にして検討するべきであ

る。

 また、これらの研究は基を中国法相宗初祖という立場から見る傾向が強い。無論、基が 中国における唯識思想上、重要な思想家であったことは仏教思想史上の事実であり、基が

(15)

玄装から親しく唯識教学を授けられたのも歴史的事実であろう。だが、それらの事実があ ったとしても、基自身に一宗を立てる自覚があったかどうかは別の問題であり、それを証 明せずに法相教学の相承に関する面を基の事跡の中心に据えることは、基の全体的な実像 を見えにくくする可能性がある。

 一方、後者の伝記資料に関する研究では、資料の集成が中心であり、それらの内容や成 立年代を検討して、基の伝記を総合的に解明しようという取り組みがなされていない。渡 辺も基が著した『枢要』の記述を紹介しただけで、自らが校訂し書き下した多くの資料か

ら基の事跡を再検討する作業は行っていないのである。

 近年、吉村誠によって玄奨の伝記が、師茂樹によって智周の伝記が再検討され8、基に関 しても法相宗の祖灯説を中心とした先行研究とは異なる立場で、その伝記を研究する必要 があるように感じられる。よって、筆者は本研究において、渡辺が集成した伝記資料や大

正蔵所収の玄駿の各種伝記に基づきつつ、それらの資料の成立年をできる限り解明し、基 の生前もしくは没後まもなく作成されたと考えられる資料を中心にして、基の人物像をい

くらかでも実像に近いかたちで解明することを目指したい。

第2節

第1項

使用する資料の検討

基の存命中に書かれた資料について

 渡辺は基の伝記資料について、時代的・資料的意義を考慮して次の十三篇を取り上げて いる。なお、成立年代は資料の記述から筆者が決定もしくは推定したものであり、成立年 代順に並べたため、渡辺の論文における順番とは異なっていることを申し添えたい。また、

ここで取り扱う資料は基本的に「大正蔵」および「卍続蔵」所収のものを用いるが、④「唯 識二十論後序」や⑦「掌中枢要記1など、興福寺蔵『高僧伝』巻第十三の紙背に記されて いた一部の資料については、これを活字化したものは「慈恩大師伝記文集」および渡辺の

「伝記文集」のみである。渡辺は『高僧伝』紙背の文書を底本として校訂したものを「伝 記文集」に掲載しているため、本論では渡辺の「伝記文集」も大正蔵や卍続蔵とともに資 料の引用元として扱うことにする。

①「成唯識論掌中枢要 巻上本」 唐・基撰  (659年以降成立)

②「心経幽賛序」唐・苗神容製 (664年以降成立)

③「成唯識論後序」 唐・沈玄明撰 (660年代後半成立)

④「唯識二十論後序」 唐・靖適製 (660年代後半成立)

⑤「唐太宗皇帝御製基公讃記」 日本・清算(題)記 (讃は7世紀後半頃成立か。

 記は994年成立)

(16)

⑥「大唐慈恩寺法師基公碑」 唐・李又撰 (705年以降成立)

⑦「掌中枢要記」 (作者不明・日本もしくは朝鮮での撰述か) (8世紀以降成立)

⑧「大慈恩寺大法師基公塔銘井序」 唐・李弘(宏)慶撰 (839年成立)

⑨「法華経玄賛要集(鏡水抄) 巻…」 唐・栖復集  (877年頃成立)

⑩「法華伝記 巻第三(唐大慈恩寺釈窺基 四)」 唐・僧詳撰  (9世紀後半以降成  立か)

⑪「宋高僧伝巻第四(唐京兆大慈恩寺窺基伝)」 宋・賛寧等撰 (988年成立)

⑫「大唐慈恩寺大師画讃」 日本・大江匡房撰か  (11〜12世紀頃成立か)

⑬「大慈恩寺大乗基公」 (編者不明〉 (成立年不明)

 これらのなかで、基の存命中に書かれたとみられるものは、基自身が撰述した①『枢要』

をはじめ、②「心経幽賛序」、③「成唯識論後序」、④「唯識二十論後序」の4篇である。

これらの資料の信懸性についてだが、まず『枢要』が基の真撰であることは疑う余地がな いであろう。「成唯識論後序」を製した沈玄明にっいては『全唐文』にこの後序が掲載され ており、著者について「元(玄)明。龍朔中(筆者注:661・663年)官左威衛録事」と説明 されていることから、渡辺は「この後序は本論訳出事情の史実資料として、十分に価値を 持つ」としている。「唯識二十論後序」を製した靖適は、生没年未詳であるが『宋高僧伝』

(大正50、727c・728a)に事跡が記されており、道宣(596・667年)などとともに玄装の翻 訳作業に携わっていた。『古今訳経図紀』をはじめ多くの著作を残しており、この後序も資 料としてf一分信用に足るであろう。

 これらに比して、「心経幽賛序」を製した苗神容についてはほかに記録がなく、渡辺もこ の序文が基の『般若波羅蜜多心経幽賛』(以下『心経幽賛』と略す)を高く評価したもので あると述べるにとどまっている。また、⑦「掌中枢要記」では「賛述・論揚せる法師の徳 行は呉興沈玄明の十巻唯識論後序、及び靖適法師の廿唯識論後の如し」(渡辺「伝記文集」

p215・216)として、上記の二後序についての言及があるのに対して、「心経幽賛序」には 触れていないことから、「掌中枢要記」の作者は「心経幽賛序」の存在を知らなかった可能 性もある。

 しかし、筆者はこれが基の存命中に書かれた資料であろうと推定している。その理由は 次の二点である。第一に、「心経幽賛序」には『心経幽賛』撰述の理由が具体的に述べられ ており、その記述は『心経幽賛』の特殊な構造を解明する糸口となりうる。後序の原文に

は、

下官、謬因駆舶、震践六飛之地、勧預人倫、欣聴一音之説。爲瓶非愉、傾河莫擬。金 聲遠絶、浮學海而無涯、玉吻徐開、注詞江而不端。法師、見齢9心職、用抵迷途。悲其 常條之昏、錫以司方之授。遂因慈誘、下示高文。所繹般若心経、名為幽賛。(卍続蔵88、

383b)

(17)

〔F官、謬りて1♂舶ナを駆ることに囚り、麦に六飛の地を践み、勧んで人倫に預かり、

      なづら

欣びて一音の説を聴く。寓瓶愉にあらず、傾河擬うものなし。金聲遠く絶して、學海 に浮べば涯なく、玉吻徐に開けば、詞江に注ぐも端きず。法師、弟令心の戦くを見て、

用て迷途より抵わんとす。其の常條の昏を悲しみ、以て司方の授を錫う。遂に慈誘に 因りて、ドに高文を示す。般若心経を稗すところ、名づけて幽賛と為す。〕

とある。これによれば苗神容は官吏であり、首都長安に馬を馳せ、仏の教えを聞こうと願 った,「写瓶」が玄襲から基へと唯識教学が完全に受け継がれていることを示すと解釈する なら、苗神容が長安まで来て聞きたかったのは玄装がもたらした最新の仏教であり、彼は 基の講説を聞いてf涯なく」「端き」ない壮大な唯識の世界に驚嘆したのであろう。だが、

「心戦く」という表現やその後の文脈から推察するに、苗神容は唯識教学を十分理解でき ず、このままでは救われないことを恐れた。そこで、基は彼のような迷える徒のために『心 経幽賛』を執筆したというのである。

 実際に『心経幽賛』には、このような背景を想定すれば説明がつきやすい特徴がある。

それは、経文の解釈として「勝空者(中観派)」と「如応者(唯識学派)」の見解を並列さ せるというスタイルが一貫して用いられているという点である。一例として、『般若心経』

の冒頭部である「観自在菩薩」の解釈を見てみたい。

経日。観自在菩薩。

賛日。勝空者、言今此経中略有二分。初観自在等。破二執顯二空。後菩提薩唾等。歎 二依得二利。(略)如雁者、言今此経中総有三分。初観自在等。標上人修行勧示襲心。

次舎利子等。陳機感者名述理垂喩。後菩提薩唾等。彰依學之徳歎獲勝利。或初令練磨、

次断除四庵、後離苦圓護。(大正33、524b)

〔経に日く。観自在菩薩。

賛じて曰く。勝空者は、今此の経の中に略して二分有りと言う。初めには観自在等な り。二執を破し二空を顯す。後には菩提薩唾等なり。二依を歎じ二利を得。(略)如磨 者は、今此の経の中に総じて三分有りと言う。初めには観自在等なり。上人の修行を 標し獲心を勧示す。次には舎利子等なり。機感の者の名を陳べ、理を述べて喩を垂る。

後には菩提薩唾等なり。依學の徳を彰かにし、勝利を獲ることを歎ず。或は初には練 磨ならしめ、次には四虚を断除し、後には苦を離れて圓讃す。〕

『心経幽賛』全体を眺めれば、基は常に「如応者」の見解をより正しいものとして扱って いるが、これは基の他の経疏には見られない書き方であり、なぜ基がこのような構成を取 ったのかについては不明であった。

 ところで『心経幽賛』が基の著作の中でも比較的早い時期に成立したことは、保坂玉泉 の先行研究llおよび拙論12にて検証されている。『心経幽賛』も含めた基の各著作の成立時期

(18)

にっいては、次章において詳しく述べたいと思うが、今簡潔に説明するならば、『心経幽賛』

は『大般若経』(663年訳出)を引用しているものの、基の他の著作を一度も引用していな い。基は度執筆した著作にしばしば加筆を行うため、『大般若経』が後日の加筆であるこ とも否定はできないが、この経典を訳出した直後の664年はじめに玄莫は没しているため、

『大般若経』が最初から『心経幽賛』に引かれていたとすれば、この書は玄装の死後まも なく、法相宗の基本的論疏はいくつか完成していたが、その教義的特徴が充分知られてい なかった時期に成立し、後序も『心経幽賛』の執筆からそれほど間をおかずに書かれたと 考えられる,,苗神容の後序に書かれた内容が事実だとすれば、苗神容は法相教学について ほとんど無知な状態で基の講説を聞いたのではないかと思われる。そして、苗神容がその 内容を理解できなかったことに対して、基が「勝空者」と「如応者」の比較というかたち で法相唯識の思想をよりわかりやすく伝えようとしたと考えれば、『心経幽賛』独特の文章 構造も説明がつくのである。

 第一二に、「心経幽賛序」では基の事績を紹介しているが、その中にいわゆるf百本の疏主」

として基を称える記述が見られない。基が生涯を通じて百余巻もの著作を残したことは、

基の死後20年ほど経ってから製作されたと考えられる⑥「大唐慈恩寺法師基公碑」をはじ めとして、基の存命中に書かれたとみられる4篇と「掌中枢要記」以外のすべての伝記資 料において言及されている。また、「掌中枢要記」も基が疏や『義林章』を撰述したことに は触れている。

⑤「唐太宗皇帝御製基公讃記」

  「疏百本を造り、才万人に過ぐる」(卍続蔵88、382b)

⑥f大唐慈恩寺法師基公碑」

  「二諦、唯識等の章、法華、楡伽等の疏を造るところ、総じて一百余部なり」(卍   続蔵88、382a)

⑦「掌中枢要記」

  「旨を承りて文を綴り、疏章を選集す」(渡辺「伝記文集」p.214)

⑧「大慈恩寺大法師基公塔銘井序」

  「疏義…百本を草し、大いに時において行わる。これを慈恩疏と謂う」(同、381b)

⑨「法華経玄賛要集(鏡水抄) 巻一」

  「法苑、大乗、唯識、法華等の疏、一百余本を撰し、世に盛行す」(卍続蔵34、178b)

⑩「法華伝記巻第三(唐大慈恩寺釈窺基四)」

  「自ら13経論に疏して一百本をなす」(大正51、58a)

⑪「宋高僧伝巻第四(唐京兆大慈恩寺窺基伝)」

         しめ

  「疏を造ること計て百本なるべし」(大正50、725c)

⑫「大唐慈恩寺大師画讃」

  「百部の疏主、五明の祖、著述以来誰か均しきを得ん」(同、382c)

(19)

⑬「大慈恩寺大乗基公」

  「二諦、唯識等の章、法華、楡伽等の疏を造るところ、惣じて一百余部なり」(同、

  P.218)

 これに対して4篇の伝記には基が百本以上もの著作をなしたという記述がない。「心経幽 賛序」以外の3篇について、基の著作に関する記述を調べてみると、「成唯識論後序」では、

      つく

基が『成唯識論』について「その綱領を綜じて、その品第を甑り、兼ねて義疏を撰し、こ れを後学に伝う」(大正31、60a)として『述記』や『枢要』の存在に言及し、「唯識二十 論後序」では「藪の唯識二十を解して述妙の紀を為し、詞を両巻に分かつ」(渡辺「伝記文 集」p.217.)として、基の『唯識二十論述記』二巻にふれているのみである。また、『枢要』

では基撰の『述記』や『異部宗輪論述記』への言及がみられる14。これらの論疏はおそらく 660年代に順次成立した、基の著作の中でも最も初期のものであり、この時期には『法華玄 賛』、『説無垢称経疏』、『喩伽師地論略纂』といった大部な疏はまだ書かれていなかったと 考えられる15。そのため後序や『枢要』には、「百本の疏主」という呼称へとっながるよう な、基の撰疏の多さに関する記述がないのである。

 もっとも、後序についてはその序文を附した論の疏のみに言及したとしてもさほど不自 然ではないため、他疏への言及の有無のみによって、これらの後序の成立時期について確 固たる判断をfすことはできない。しかし、後述するようにこれらの後序はともに基の出 自や、9歳という若さで出家を思い立ったことなどにふれ、訳場での活躍も含めて基のすぐ れた才能を賞賛している。もし基の晩年や死後にこれらの後序が作られたならば、基が万 人に抜きんでていたことを示す最も端的な事実として、章疏百本の製作を挙げないのは不 自然である。「心経幽賛序」もまた、二後序と同様の内容を有していることから、基の撰疏 初期に書かれたと考えられるのであり、それは『心経幽賛』の推定執筆時期と一致するの

である。

 以上の理由から、本論において「心経幽賛序」は基の生前に書かれた貴重な資料の一つ として扱うこととしたい。

 次に、基の存命中の作かは断定できないが、その可能性がある資料として⑤「唐太宗皇 帝御製基公讃記」の讃の部分が挙げられる。これは唐の太宗(598・649年)が基の業績を讃

えて作ったとされる詩文であり、讃の前後に付されている記によれば、太平興国9(984)

年8月17日に五台山の沙門清算が写得したと書かれている16。だが、唐の太宗の没年は649 年であり、『枢要』の記述によれば基の出家が648年頃であることを考えると、基が玄装の 高弟となる以前に太宗は没していたことになる。よって、渡辺は「伝記文集」において、『宋 高僧伝』に「高宗大帝讃を製す。一一一一には玄宗と云う」(大正50、726b)として、高宗(628・683 年、在位649 683年)または玄宗(685・762年、在位712−756年)とあることを註記し、

太宗の作とすることに疑問を呈している17。讃の作者が高宗であった場合は、讃が基の存命 中に製作された可能性があるが、讃に含まれている「疏百本を造り、才万人に過ぐる」(卍

(20)

続蔵88、382b)という・一一文は、少なくとも基の晩年以降にならなくては用いることができ ない表現であるから、680年前後の成立と考えられる。讃は非常に短いものであり、基の容         の

貌を「面に満月を辞べ、讐眸に電光あり」(卍続蔵88、382b)と具体的に表現している箇 所以外は、他の資料とほぼ同様の内容である。基の死後まもなく制作された⑥「大唐慈恩 寺法師基公碑」には、この讃に関する記述がないが、碑文中に基の容貌を「殊輪の相」と 形容している点は「満月のごとし」という讃の一文を思わせることから、碑文が讃を受け て書かれた可能性もあるだろう。

第2項 基の死後に製作された資料について

 渡辺の挙げた13篇の資料のうち、基の死後に制作されたものは8篇になるが、基の死後 100年以内の成立と断定できるものはわずかに⑥「大唐慈恩寺法師基公碑」のみである。こ の碑文は朝請大夫検校史部侍郎の李又という人物が撰したもので、永淳元(682)年1811月 13日に基が示寂し、その年の12月4日に玄 の隣へ埋葬されると、そこに塔を建てて碑 文を刻んだとされている。この碑文については『金石録』にも記録がなく、完成年は不明 であるが、塔の完成は基の没年よりも数十年ほど下ると思われる19。それは、⑥「大唐慈恩 寺法師基公碑」の中に「応天神龍皇帝は、曾て綴徒に入り、奨公の弟子となる。師と同学 なり」(卍続蔵88、382a>という一文があることからもうかがえる。この皇帝について、

渡辺は高宗(628・683年、在位649・683年)のことであろうとしているが20、「掌中枢要記」

では高宗の息子である中宗(656・710年、在位683−684年・705・710年)にこの名をあて ている。『新唐書』(1060年成立)巻四などによれば、中宗は景龍元(707)年8月に「応 天神龍皇帝」の尊号を群臣から献上されているため、この事実を考慮すれば「大唐慈恩寺 法師基公碑jの皇帝も中宗と考えるのが妥当であろう。ただし、玄 が664年に没したと き中宗はわずか9歳であるから、中宗が玄装の弟子であったという碑文の記述は、玄葵の 翻訳事業を全面的に支援していた父高宗の勧めによって、形式的に出家し玄奨に師の礼を

とったという意味ではないかと思われる。以上のことからすると、碑文は707年より後の 製作となるであろう。基の死後20年以上経ってから成立したことになるが、基の出自の詳 細や弥勒信仰についてなど、基の存命中の伝記資料には記されていない記述も多く、重要

な資料の一一つである。

 ほかに、⑦「掌中枢要記」も700年代に執筆された可能性がある。この「掌中枢要記」

は、基の孫弟子にあたる智周の『唯識枢要記』とは異なり、作者も不明であるが、文中に たびたび新羅の僧義寂(生没年未詳)の名が出ることや、新羅の聖徳王(生年未詳・737年、

在位702・737年)の講が玄宗の誰と同じ隆基であったため、712年に興光と改名したこと が述べられており、渡辺は日本もしくは朝鮮での撰述ではないかと推測している。義寂は 義湘(625 702年)の弟子とされており、義寂の著作である『大乗義林章』12巻(現存せ

(21)

ず)を引用していることから、「掌中枢要記」の成立は8世紀かそれ以降と思われる。ただ し、内容は基の名を窺基と表記するようになった理由についての考察が主であり、基自身 の事跡については他の資料と大差ない記述である。

 それ以外の6篇はみな基の死後200年以上経ってから制作されたものであり、その記述 は先の①〜⑦を元にしているか、伝説的記述を加えたものが多い。よって、以後の考察に おいては補足的に扱うこととしたい。

第3節 初期の伝記資料を中心にみた基の事跡 第1項 基の名について

 基の伝記を検討する前に、基の謹すなわち本名にっいて、古来いくつかの異説が出され ているため、ここで少し考察を加えてみたい。この問題にっいては佐伯および渡辺の先行 研究に詳しく2i、両者はともに基を正としているが、『宋高僧伝』のように窺基の名を用い る資料もあり、いずれが本名であるかについて明確な見解が出されていない。よって、本 論にて両説を比較することで、その妥当性を改めて検討したいと思う。

 基の名を正とする根拠の第一は、渡辺が「彼の自著の署名や文中にはいずれも基の一字 を用い、また信頼される金石文・画讃銘等のすべても基となっているので、基の名が正し いように思われる」と述べているとおりである。そこでまず、現存する基撰とされる章疏 の中から、本論第2章で真撰の可能性が高いと判断しているものと、偽撰が確定もしくは 指摘されるものに区分し、以下に書名と撰号を列挙してみる。

○真撰と考えられる章疏

 『般若波羅蜜多心経幽賛』  大乗 基  『大般若波羅蜜多経般若理趣分述讃』

 『観弥勒菩薩上兜率天経賛』  大慈恩寺       撰

      大慈恩寺沙門基撰        基 撰

『説無垢称経疏』  大慈恩寺沙門 基 撰

『妙法蓮華経玄賛』  大慈恩寺沙門 基 撰

『成唯識論掌中枢要』  大慈恩寺翻経沙門 基 撰

『成唯識論述記』  沙門 基 撰

『弁中辺論述記』 翻経沙門基撰

『異部宗輪論述記』  翻経沙門 基 記

『唯識二十論述記』 翻経沙門基撰

『因明入正理論疏』  大慈恩寺沙門 基 撰

『大乗阿毘達磨雑集論述記』巻第.一一一一 大慈恩寺沙門 基 撰

(22)

 『楡伽師地論略纂』  基 撰  『大乗法苑義林章』  基 撰

○真偽不明あるいは偽撰と考えられる章疏  『阿弥陀経疏』 京兆慈恩寺 基法師

        大慈恩寺沙門

『成唯識論別抄』巻第五

『劫章頒』  大慈恩寺沙門

『勝髪経述記』  大乗慈恩

『西方要決釈疑通規』

『阿弥陀経通賛疏』

『金剛般若論会釈』

『金剛般若経賛述』

『大乗百法明門論解』

『唯識論料簡』

       撰  大慈恩寺沙門 基 撰

大慈恩寺沙門窺基撰

大乗 基 撰 大乗 基 撰

 唐慈恩法師 窺基 註解(明魯庵法師 普泰 増修)

     基 撰   大乗 基 撰    基 撰

   基法師 説(門人 義令 記)

これを見ると、真撰の可能性が高い十六部は確かにすべて基の一字を記しており、さらに 真偽不明のものも十部中二部のみが窺基とあるだけである。特に、真撰の中で「翻経沙門」

の文字が入っているものは、本論第2章の章疏の成立時期に関する考察と合わせると、基 が玄奨存命時、翻経僧であった頃に執筆したと考えられる論疏が多く、「翻経沙門」と入っ ていないものは、玄llE没後の成立の可能性が高いものが多いことは興味深い。『唯識二十論 述記』(以下『二十論疏』と略す)や『述記』はこれには当てはまらないため、すべての撰

号をそのまま信用してその著作の成立時期と結びつけるのは早計だが、これらの撰号の中 には、基自ら号したものをそのまま伝えているものが少なからずあるのではと推測される。

 次に、基の生存時あるいは没してから間もない時期の資料において、基を一字で表して       ことこと

       そむいるものが複数ある。まず『枢要』に「基は夙運軍く舛き、九歳にて丁顛す」(大正43、

608b)とあるように、基は撰号だけではなく自著の中でも、自ら「基」の一字を用いてい る。さらに、②「心経幽賛序」では「大乗基法師有り」(卍続蔵88、383a)、③「成唯識論 後序」では「三藏の弟子基」(大正31、60a)、④「唯識二十論後序」では「筆受の基法師」

(渡辺「伝記文集」p.217.)と記しているほか、⑥「大唐慈恩寺法師基公碑」にも「誰は基」

とある。以降の伝記資料でも多くが「基」と表記しているのは、これらの資料の記述にな らったものと考えられる。

 なお、上記の資料の中で『心経幽賛』およびその序は、「大乗基」の表記をとっている。

『開元釈教録』によれば、基以外にも大乗光・大乗雲・大乗欽などの僧が筆受を務めてい たことが記録されており、渡辺は「当時かかる称呼が敬称として流行していたものであろ

う」と推測している。特に、玄柴のもとで多く筆受を務めている大乗光は、『宋高僧伝』(大 IE 50、727a)では普光と呼ばれているが、その著作とされる『倶舎論記』は写本によって 撰号が「釈光」あるいは「釈普光」と異なっており22、『大乗百法明門論疏』では撰号が「大

(23)

乗光」となっていることから、基と同様に自らは「光」とのみ称していた可能性がある。

また、『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』(以下『慈恩伝』と略す)(688年成立)では玄装自らが したためた1二表文に「謹んで弟子大乗光を遣わし、表を奉して以聞せしむ」(同、269c)と あることから23、玄柴も自身の弟:Fについて正式に「大乗」という呼称を用いていたことが 知られる。ただし、基の著作および序文などでも多くは「大乗」を冠しないため、渡辺が 述べているとおりあくまで敬称であり、名前の一部ではないと言えよう。

 これに対して、窺基という名称の根拠は必ずしも明確ではない。しかも、現存する資料 を見ると、「窺」の一字のみが用いられる場合と、「窺基」と表記される場合があり、「基」

と合わせて、これらが同一人物か否かについても、明言できない部分があるのである。『寺 沙門玄装上表記』に収められている「請御製大般若経序表」には、「謹んで弟子窺を遣わし、

表を奉りて以聞せしむ」(大⊥E52、826c)とあり、玄装自身が窺なる弟子にこの上表文を託 すと述べている。この窺は、『訳場列位24』によると『大般若経』訳出時の筆受の一人であ

り、大慈恩寺の僧であるという。同じ『大般若経』の筆受に、f玉華寺沙門基」の名もある ことから、渡辺は「窺という者が基のほかにいて、ときにその二人を併称して窺基と記さ れた場合があったためにこの名称が生じ、いつしか慈恩の名とされたことも考えられる」

としている25。

 これは一・理ある見解だが、玄奨の二本の伝記を見ると、その記述は少々複雑である。『慈 恩伝』によれば、玄奨は『大般若:経』訳出後、「十一月二十26日に至りて、弟子窺基をして 表を奉りて奏聞せしめ、御製の経序を請う」(大正50、219a)として、「窺」ではなく「窺 基」に「請御製大般若経序表」の奉表を命じたと記録されている27。『慈恩伝』の著者であ る慧立、および慧立の没後に『慈恩伝』を再編・加筆して現在のかたちにした彦椋は、い くつかの玄奨の表文を伝記の中に全文引用しているが、「請御製大般若経序表」は引用して いないため、この表を見たことはなかったと思われる。したがって、当時のことを知る人々 の話か、何らかの記録をもとに、「窺基」という名を出したのであろう。『慈恩伝』が彦綜 の手で完成したのは688年であり、基の没後6年ほどしか経過していないため、『宋高僧伝』

よりもはるかに以前から「窺基」という名称が用いられていることには注目すべきである。

「基」と「窺」が別人であり、かっ玄装の表文が歴史的事実を表しているとすれば、本来 は『慈恩伝』においても「基」をあえて加える必要はない。つまり、『慈恩伝』が成立した 頃には、基が窺とともに皇帝に奏上したという話か、あるいは基を窺基と表記することが、

・部で伝えられていたことになる。

 また、玄奨遷化後まもなく執筆されたと思われる冥詳撰『大唐故三藏玄装法師行状』に も、「十一月二{一三日に至りて、窺基に命じて表を齎らしめ、聖上に大般若経序を製するを 請う」(大正50、219a)と同様の記述が見られる。この伝記では、さらに麟徳元(664)年 1月23日に死期の近づいた玄笑が「又た遣表を造りて、弟子の窺基をして奉進せしむ」(同、

219c)という、『慈恩伝』にはない記述も見られる。これを信用するならば、「基」と「窺」

は二度もともに皇帝への奏上を行ったことになり、大乗光が単名で奏上文に記されている

(24)

のと比べて、いささか不自然に思われる。

 しかし同時に、基の名が玄共の伝記で窺基と記されているならば、なぜ基自身およびそ の周辺の人々が窺基の名を一切用いないのか、玄莫が基を「窺」と呼ぶことが本当にあっ たのか、玉華寺の基と大慈恩寺の窺は同…人物と見なしてよいのかといった疑問が生じる。

あるいは、「基」と「窺」が別人であるとしても、大乗光・欽・嘉尚・靖遭・神泰などのベ テランが・名を連ねる『大般若経』の訳場において筆受を務め、経典訳出後には皇帝への奏 文も任されたという窺についての詳細は不明である。現在のところ、これらの疑問に明快 に答えるだけの資料がないため、佐伯や渡辺らが結論づけたように、基自身の記述にした がい、「基」の一一字をもって名前とするのが適切であろう。

第2項 出自

 では、基の存命中および死後まもなく成立したと考えられる①〜⑥の資料を中心に、基 の事跡を検証してみたい。まず基の出自についてだが、これについて最も詳しく述べてい るのは、⑥「大唐慈恩寺法師基公碑」である。

法師、謹基、字洪道、姓尉遅氏、代郡人也。其先魏之別部、家代以將帥28為雄大父慈、

常寧公。伯父敬徳、郡國公。王考宗、松洲都督。成有勃烈、書之國史。法師植微妙之 玄根、緬璽舐之秀液。胎而神雁、有金杵之祥。誕則殊表、得殊輪之相。岐疑見於能言、

精微徴於始學。愛在家堕、首習儒経。目一覧而心傳、耳暫聞而口調。性與道合、思若 有神。(卍続蔵88、381c)

〔法師、誰は基、字は洪道、姓は尉遅氏、代郡の人なり。其の先は魏の別部、家は代 將帥を以て雄と為す。大父は鼓、常寧公なり。伯父は敬徳、郭國公なり。王考は宗、

松洲の都督なり。威く勲烈有りて、これを國史に書す。法師は微妙の玄根を植え、霞 祇の秀液を藏む。胎めば神雁し、金杵の祥有り。誕るれば則ち表を殊にし、殊輪の相

         } を得。岐疑は能言に見われ、精微は始學に徴わる。愛に家堕に在りて、首めに儒経を 習う。目に…覧すれば心に傳わり、耳に暫く聞けば口に調ず。性は道と合し、思は神

有るがごとし。〕

 基の姓である尉遅氏について、『宋高僧伝』では「尉遅の先は後魏と同に起き、尉遅部と 號す。中華の諸侯國、華に入れば則ち部を以て姓と爲すが如きなり」(大正50、725b)と あり、北魏の建国(386年)とほぼ同時期に鮮卑族の一部が尉遅と号するようになり、その 部族名がやがて漢化して姓となったとしている。基が生まれた代郡(山西省北部、現在の 析州市代県付近)の北には、北魏の首都であった大同が位置しており、基の伯父である尉 遅敬徳(585−658年)も本籍は朔州(現在の山西省朔州市)であったというから、尉遅氏は

(25)

北魏の時代から数百年にわたり、大同に近い地域に住していたのだろう。『宋高僧伝』では 基を「京兆長安の人」(同上)としており、②「心経幽賛序」でも「俗姓は遅氏。地には隻 服を開き、家は祝光の勲を蔵し、逓には歌鐘を列し、門は匿29犀の貴を啓く」(卍続蔵88、

383a)として、.族が長安近辺←一服すなわち長安から約56〜84kmほどの地域)に領土 を得たことを記しているので、基の出身地は代郡であっても、幼い時期に長安付近に移住

したのかもしれない。

 尉遅氏は武門の誉れ高く、特に尉遅敬徳ははじめ唐に敵対していたものの、李世民(太 宗)のもとに降ってからは忠臣として多くの武勲をあげ、主に軍事面から唐王朝の建国と 安定に力を尽くした人物として『旧唐書』『新唐書』などに伝記が掲載されている。このこ とから、③「成唯識論後序」では「三蔵の弟子基は鼎族の高門にして、玉田の華冑なり」(大 11三31、60a)として、基が富貴の家柄の出身であることを伝え、④「唯識二十論後序」で は「族は五陵に貴く、名は三輔に高し」(渡辺「伝記文集」p.217.)として、尉遅氏の名が 長安付近にとどろいていたことを示している。

第3項 出家

 皇室から信任されていた名門の家系に生まれ、父親が松洲(現在の四川省松播県)の都 督でもあったことからすれば、家族は基もいずれ長ずれば軍人として宮廷に仕えると考え ていたはずであり、それは基が幼少より儒教教育を受けていたことからもうかがうことが できる。しかし、基は非常に早い時期から仏教への志を抱くようになる。これについては ほぼすべての伝記資料に該当する記述があるが、それらはみな基自身が『枢要』において 語った文章をもとにしていると思われるため、まずは『枢要』を引くことにする。

基夙運軍舛、九歳丁顛。自爾志託煙霞、加毎庶幾纈服。浮俗塵賞、幼絶情分。至年十 七遂預縄林、別奉明詔得爲門侍。自参預三千、即欣規七十。必譜善願、後承函丈。不 以散材之質、遂得随伍謹僚。事即操触、餐受此論。(大正43、608b)

〔基は夙運こ¥己く舜き、九歳にて丁難すb爾自り志を煙霞に託し、加えて毎に縞服を庶翼

       こ      とく

う。俗塵の賞を浮え、幼くして情分を絶つ。年十七に至りて遂に縄林に預かり、別に 明詔を奉じて門侍と爲ることを得。三千に参預して自り、即ち欣んで七十を鏡む。必 ず善願を藷えんとして、後に函丈を承く。散材の貰を以てせず、遂に随伍の謹僚たる

ことを得。事えて即ち操触し、此の論を餐受す。〕

 基は9歳の時に親の死に遭い、それ以降出家を願うようになった。尉遅氏が得てきたよ うな俗世の褒賞には心動かされず、幼いながらも家族の情愛を断っ心境に至ったという。

そして、17歳になるとようやく出家が許され、特別に詔を受けて玄奨門下に加わることと

(26)

なったのである。

 幼年期の基にとって親を失ったことがいかに衝撃であったかがうかがえるが、この親が 父母いずれであるかについては、②〜④の各種序文にも記されていない。⑥「大唐慈恩寺 法師基公碑」には、

其時、玄奨法師、哀像教侵微佛滅之久、先遊天竺、大俘真記。訓課属授、必待其人。

以師、天假至聰、幼入深慧。鍾鼓丁宮而聞外、桃李不言而自睦。乃請於郡國、求以為 弟子、方託以金牒之言、傳其玉箱之義30。遂特降恩旨、捨家從稗。(卍続蔵88、381c)

〔其の時、玄装法師、像教侵微し佛滅の久しきを哀みて、先に天竺に遊び、大いに真 記を俘る,,訓課して属授せんとするに、必ず其れ人を待つ。以に師は、天より至聰に假

り、幼くして深慧に入る。宮に鍾鼓すれば外に聞こえ、桃李言わざれども自ら践とな る。乃ち郡國に請うて、求めて以て弟子と為し、方に以て金牒の言を託し、其の玉箱 の義を傳えんとす。遂に特に恩旨降りて、家を捨てて稗に從う。〕

として、玄装自らが基の才能と人徳に感じ入り、師承の人材とすべく伯父の郡国公敬徳に 願い出て、勅命により出家することになったとあることから、佐伯は『宋高僧伝』に玄装

の要請を「父、然諾す」(大正50、725c)とあるのは誤りであろうとして、9歳の時に亡く なったのは父親とするのが穏当ではないかと述べている。

 しかし、『宋高僧伝』が基の出家に関して、帰朝した玄奨が基を弟子にしたいと考えたと ころ、基がこれを拒んで、情欲・輩血・過中食という破戒的な三種の行為を許すならば弟 子になると答えたという、いわゆる三車和尚の伝説を載せるなど、史実とは異なる記述を 含んでいることは事実だが31、⑥「大唐慈恩寺法師基公碑」もまた必ずしも全面的に依拠で きる資料とはいえないところがある。すなわち、『枢要』において基が親の死をきっかけに 9歳にして出家を志したと書いているにもかかわらず、「大唐慈恩寺法師基公碑」ではその

ことには一切ふれず、インドから帰朝した玄 が自ら学んだ唯識の奥義を伝える人材を捜 していたところ、基に出会ってこれを見込み、敬徳や皇帝にはたらきかけて出家させたよ うに受け取れる文章となっているからである。ここにはすでに、三車和尚の伝説につなが る素地が見られるのであり、『成唯識論』が基と玄柴だけで訳出されたという特殊な経緯や、

百本を超える章疏を執筆して法相教学を確立し、高宗が讃を製するほど宮廷でもその才を 高く評価されていたという実績が、⑥「大唐慈恩寺法師基公碑」に反映されたと考えるべ きである。また『枢要』によれば、出家に至るまで8年もかかっているため、高位の貴族 であり武門に秀でた一族の出身である基が、家を捨てて殺生を拒む道に入ることに家族の 同意が得られず、帝室とっながりの深い敬徳を通して特別に皇帝の許しを得たと解釈する ことも可能である。よって、碑文に敬徳の名が出るとしても、それは基の父が亡くなって いたことを直接示すとは限らないだろう。

 両親のうちいずれを失ったかは不明のままだが、この出来事を契機に基は17歳で出家し、

(27)

玄奨の門下に入ることとなった。弟子三千名の中に加わって以降は、さらに七十名の達者 に選ばれることを求めたというが、この表現は深浦が指摘するように32『史記』などに孔子 には弟子が三千人おり、その中でも六芸に通じている者が七十数名いたと記されているの を踏まえたのであろう。基が玄笑を孔子と重ねるほど尊崇していたことや、ついに玄柴か

ら直接教えを受けられる訳経僧とまでなったことに対して、己が「散材」すなわち才なき 人間ではなかったことを喜んだ様子がうかがえる。

第4項 『成唯識論』訳出

 出家から11年後の顕慶4(659)年、基は28歳にして『成唯識論』の訳出に携わること になった。訳出の経緯については、先学の研究において必ず言及されているところである が、本論でも『枢要』の該当箇所を引用し、他の資料と合わせてその内容を検討したい。

初功之際、十稗別翻。肪・尚・光・基四人同受。潤飾、執筆、撤文、纂義。既爲令範、

務各有司。敷朝之後、基求退 。大師固問。基態請日。自夕夢金容、農趨白馬、英髪 間出、巖智肩随。聞五分以心祈、撹八緬而遽望。難得法門之糟粕、然失玄源之淳梓。

今東出策餐、並目撃玄宗。幸復掲秀萬方、頴超千古。不立功於参繰、可謂失時者也。

況群聖製作各馳警於五天。難文具博於貝葉、而義不備於一本。情見各異、稟者無依。

況時漸、人澆、命促恵舛。討支離而頗究、撹初旨而難宣。請錯綜群言以爲一本、楷33定 眞謬椹衡盛則。久而遂許。故得此論行焉。大師、理遣三賢、猫授庸拙此論也。括衆経 之秘、苞群聖之旨。何滞不融。無幽不燭。仰之不極、傭之不測。遠之無智、近之有識。

其有隠括五明、披揚八藏。幽關毎権、玄路未通。囑猶豪義岳盈投之以炎燥、霜泳澗積 沃之以隈景。信巨夜之銀輝、昏旦之金鏡芙。錐復本出五天、然彼無葱繰鐸。直爾十師 之別作鳩集猶難。況更撫此幽文誠爲未有。斯乃此論之因起也。(大正43、608c)

〔初功の際、十稗別に翻す。肪・尚・光・基、四人同しく受く。潤飾し、筆を執り、

文を掻べ、義を纂む。既に令範と爲り、務めるに各司るところ有り。敷朝の後、基退 迩せんと求む。大師固く問う。基態に請うて日く。夕に金容を夢み、農に白馬に麺い て自り、英髪間出し、霞智肩随す。五分を聞きて以て心に薪め、八纏を痘りて遽に望 むるに、法門の糟粕を得ると錐も、然も玄源の淳粋を失う。今東より策賓を出し、並 びに玄宗を目撃す。幸いにして復た猫り萬方に秀で、千古を頴超す。功を参繰に立て ずんば、時を失する者と謂うべし。況んや群聖の製作は各馨を五天に馳す。文は貝葉       すtに具傳すと難も、義は一本に備わらず。情見各異なれば、稟くる者依無し。況んや時漸 み、人澆く、命促すも恵舜く。支離を詩ねても究に蹟より、初旨を境らんとするも宣 べ難し。群言を錯綜して以て一本と爲し、眞謬を楷定して罹衡・盛則とせんと請う。

久しくして遂に許す。故に此の論の行わるるを得。大師、理にて三賢を遣り、濁り庸

(28)

拙に此の論を授くるなり。衆経の秘を括り、群聖の旨を苞む。何ぞ滞りて融せざらん。

幽にして燭せざること無し。之を仰ぐも極まらず、之を{府すも測れず。之に遠ければ        っね智無く、之に近ければ識有り。其れ五明を隠括し、八藏を披揚すること有り。幽關毎に        たの

横にして、玄路未だ通ぜず。囑めば猶お豪義岳盈之を投じて以て炎燥し、霜泳澗積之 を涙いで以て爆景するがごとし。信ずれば巨夜の銀輝、昏旦の金鏡なり。復た本は五       ただ天より出つと難も、然も彼には弦の繰稗無し。直爾の十師の別作は鳩集すること猶お 難し。況んや更に此の幽文を鱗うこと誠に未だ有らざることを爲す。斯れ乃ち此の論

の因起なり。〕

 『成唯識論』の原本である『唯識三十頒』の注釈十本は、最初は別々に訳されており、

基を含めた4名が玄奨のもとで役割を分担しながら翻訳に当たっていた。『枢要』における 人名と担当が相応するとすれば、基は纂義を担当していたことになる。しかし、基は数日 後にこの任を辞したいと玄奨に願い出た。基が理由を説明して言うには、仏教が初めて中 国に伝えられてより、多くの高僧が輩出され、唯識学派の論書を通してその真髄に到達す ることを願ったが、未だそれが得られなかった。今、唯識の玄旨を目の当たりにするとい う千載一遇の機会を得たからには、合繰訳を成すという功績を立てなくては、この機会を 無駄にすることになる。また、インドの各論師の論は内容としてそれぞれ取捨すべきとこ ろがあり、もし人が個人的見解に基づいていずれかの論に偏れば、教えを受ける側は混乱 を来すことになる。まして今は末法のごとく、教えの細部も本旨も正しく究明できないた め、十釈を組み合わせて一本とし、真謬を明確に定めるべきである、と。玄奨はこれを許 可し、道理に従って基以外の3名を退け、基のみに『成唯識論』を授けたのである。

 前出の出家における経緯とこの『成唯識論』の訳出は、基の伝記の重要なポイントとな っており、初期の資料はすべてこれに言及している。すなわち、②「心経幽賛序1では「法 師、始め参玄の歳より、即ち持梁34を厭い、纏かに志學の年を輸えると、俄に法侶に随えり。

鼎門を辞して宴坐に運き、縄砲を解きて経行を習う。梵干の前風を含み、縄門の首席に冠 たり」(卍続蔵88、383a)として、基が初めて参内した歳から脱俗を願うようになり、志 学(15歳)を超えると出家したとしている。③「成唯識論後序」では「肚年にして道を味 わい、綺日にして玄に参ず」(大正31、60a)とあることから、『枢要』と合わせて考える

と、基は9歳にして初めて参内したものの、同じ年に親の死に遭ったことになる。また、

       あやぎぬ

       あきらか

④「唯識二十論後序」では「大亀請滅の歳に綜を玄門に落とし、鷲鷺正悟の年に機を研

     きわにして理を至める」(渡辺「伝記文集」p.217.)と述べている。「大亀」とは摩詞迦葉のこと であり、「請滅の歳」とは摩詞迦葉がバラモンとしての学芸をすべて身につけながら、それ

らを厭い浬繋を求めたのが8歳であったことを指して、基が9歳にして出家を願うように なったことと重ねた表現である。同様に「鷲鷺」は舎利弗のことであり、彼が20代後半に 釈尊に帰依した35ことを、基が28歳で『成唯識論』を訳出し、玄笑から唯識の奥旨を伝授 されたことに重ねている。「成唯識論後序」における「壮年にして道を味わう」も、壮年が

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