近江商人史料から見える北方世界
江戸時代、北海道のうち渡島半島南端の松前を除く広大な地域は「蝦夷地」と呼ばれました。蝦夷地に居
住するアイヌと和人(日本人)との交易を統制していた松前藩は、各地の商場(場所)の経営を商人たちに請
け負わせていました。こうした場所請負人には近江商人も多く加わっており、今回の企画展で取り上げた近
江八幡の西川伝右衛門もその中の一人でした。
企画展では、西川伝右衛門家文書の中から「万永代覚帳」という表題の帳簿を展示しています。この帳簿
は、元禄十五年から文政八年(1702~1825)にかけて、同家の商業活動をはじめ、相場情報や蝦夷地で起
きた出来事などについて、八幡の西川本家で書き継がれたものです。
ここでは、寛政元年(1789)の「クナシリ・メナシの戦い」に関する記事について見ましょう。クナシリ・メナシ
の戦いとは、飛騨国(岐阜県)出身の飛騨屋久兵衛の請負場所であったクナシリ島とキイタップ場所内メナ
シ地方で発生した、大規模なアイヌの蜂起のことです。西川本家には同年6・7月に松前から送られた書状
によって情報が伝わったようで、「万永代覚帳」にはそれら書状の文章が書き留められています。その文章
を少々引用しましょう(原文に読み仮名を補い、一部漢字をひらがなに改めました)。
先月上旬、クナシリに於いて夷(アイヌのこと)乱発り、御見附御足軽竹田勘兵衛(勘平)殿始め、通司(ア
イヌ語通訳)・番人都合七十七人、そのほか飛騨屋クナシリ商船に下り候手船大通丸船頭舟中、残らず何
れも夷共に打ちひしがれ変死の由…(以下略)
右の文中には「七十七人」とありますが、実際に殺害されたのは飛騨屋の支配人・通司・番人など七一人
(松前藩士一人を含む)でした。それに対して松前藩は、蜂起に加わったアイヌ三七人を処刑しています。
「万永代覚帳」には蜂起が起きた原因について、飛騨屋が悪質な経営を行ってアイヌを餓死させた、また竹
田勘平がアイヌに薬を与えたところかえって死なせてしまったなどといった情報が記されています。
「万永代覚帳」の記事は、クナシリ・メナシの戦いについて商人の間で伝わった初期情報として、北方史研
究の上でも貴重と言うことができるでしょう。
※参考文献…菊池勇夫『18世紀末のアイヌ蜂起―クナシリ・メナシの戦い』(サッポロ堂書店、2010)
(史料館 青柳周一)