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人 とどう向き合い 南部家の礎を固めたのでしょうか 名君と称された利直の 行動を史料から読み解くとともに 逆に暴君として知られる重信の 知らざれ る一面を史料からひもときます 当日会場で配られたレジュメから 1 武家政権の進展と 参勤 1-1 参勤交代の常識江戸幕府のもとで大名の妻や子どもは 人質と

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Academic year: 2021

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第65回 いわてシニアネット「文化サロン・講演会」

参勤交代の成り立ちと盛岡藩

~南部利直・重直の動向を中心に~

講師 千葉 一大 先生 (青山学院大学非常勤講師)

講師の横顔 千葉 一大先生 講師は、千葉一大先生で盛岡市生まれ盛岡三高・青山学院大を卒業、現在に至 る 46 歳。数多くの南部家由来の資料を読み込み、日本史に照らしながら、盛岡 藩政史に新しい見方を示し日本史のなかで、中世から近世へと移り変わる地方 の歴史と人物にスポットを当て、さらには江戸時代の政治の仕組みに切り込ん でいる気鋭の歴史家です。今回は 11 月 16 日もりおか歴史文化館で 70 人余の会 員を前に斬新な切り口で参勤交代の成り立ち、南部家の歴史を語りました。 今回のテーマとその話題 参勤交代の制度は江戸時代の初め、寛永12(1635)年に制度化されたも ので、大名は国元と江戸の間を1年おきに行き来しました。それまでは、大名 たちは自分の意思で江戸に赴き、将軍(徳川秀忠)や大御所(徳川家康)に参府の あいさつを行い、献上品を届けるなど、忠節の態度を示していました。こうし た慣例をきちんと制度化し、大名統制に重きをおいたのが三代将軍・徳川家光 でした。では、この時代を生きた盛岡藩主南部利直・重直は、この三人の「天下

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人」とどう向き合い、南部家の礎を固めたのでしょうか。名君と称された利直の 行動を史料から読み解くとともに、逆に暴君として知られる重信の、知らざれ る一面を史料からひもときます。 ● 当日会場で配られたレジュメから 1 武家政権の進展と「参勤」 1-1 参勤交代の常識 江戸幕府のもとで大名の妻や子どもは、人質として江戸に住むこととなった。 三代将軍の徳川家光によって、参勤交代の制度が定められた。 大名は一年おきに江戸と領地と行き来する事になった。 江戸幕府が強い力で全国の大名を支配するしくみが完成した。 1-2 参勤交代に関する新たな視点 その1 将軍と大名との間で結ばれて いた主君と家来の関係を示す形である。 「参勤」→服属の意を示し、それを務 めという形で示すということ。 大名がおっていた「奉公」のかたちの 一つが参勤交代。 その2 江戸幕府が思いついてはじめ られたものではない。 参勤交代の原型は、鎌倉幕府(大番 役)・室町時代(守護大名の在京、東国・奥羽の守護・国人の在鎌倉)に既に存 在。 豊臣政権→大名に対する統制策として、大名がその領地から秀吉のもとへ参勤 し、大名妻子が在京することを命じる。 手がかり=天正 18(1590)年 7 月 27 日付豊臣秀吉朱印状 (2か条目)(信直の妻子は京都に住まわせること) (3か条目)(領内の検地を実施させ、財政収入を確保し京都滞在費用がまか なえるように命じること) (4か条目)(家臣の抱える城を破却させ、その妻子を三戸城下へ呼び寄せて 居住させること) →大名の領内支配は、家臣となる大名が秀吉に伺候し、仕えることが前提とし てあること、秀吉の定めた方針に江戸時代の参勤交代の萌芽が 存在することが明らか。 政治の中心地、伏見から出された信直書状の存在(斎藤文書、もりおか歴史

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文化館蔵)→信直による京都参勤を裏付ける資料としても注目す べきもの。 2 猩々緋の鉄砲袋 ─南部利直の参勤交代― 2-1徳川家に対する初期の参勤 天下を掌握した徳川家に対する大名の参勤が徐々に増加。 →南部利直も江戸幕府成立直後に徳川政権に対する参勤を実施していたこと が明らか。 この時期の利直の参勤の手がかり その1=慶長 8(1603)年 9 月 26 日付け佐竹義宣(秋田藩主)書状 義宣の参勤前に、すでに利直が参勤していた。 義宣の立場を危うくした利直の言動→「一代之迷惑」と激怒する義宣。 徳川家康という新たな絶対的権力者が現れたこの時期の江戸参勤は、大名 たちにとって、いかに家康に自分を印象付けるかという意地と意地とのぶ つかり合い。 その 2=慶長 14(1609)年 11 月 27 日付浅野幸長(和歌山藩主)書状 利直は徳川秀忠に対するご機嫌伺いとして、10 月 29 日に江戸に到着、登城。 さらに、家康を追いかけて駿府に赴き、家康から厚遇を受ける。 幸長は、江戸に下って越年しようとしたが、来春の伺候を命じられた。 →大名たちが家康や秀忠のいる江戸や駿府に駿府に参勤する状況が生み出 されていた。 →ただし、この当時の参勤には法的な根拠がなく、時期や対象を明示した 制度として整えられたものではない。 その3=「譜牒余禄」巻三十八 慶長 17(1612)年 12 月 10 日、将軍秀忠、江戸桜田の南部屋敷への「御成」。 駿府で利直が家康の茶事に招かれ、道阿弥肩衝を拝領した際、家康から茶 湯の接待を促されたことが発端。 当初は家康自身の「御成」が「上意」として伝えられたが、家康の意向に より秀忠の「御成」に変更。 →この段階で、南部の屋敷が江戸にでき、将軍を迎え入れられる整った設 えが存在していたことが指摘できる。 その 4 =「駿府記」慶長 18(1613)年 10 月 6 日 利直が江戸着。江戸滞在中の家康に砂金 1000 両を献じる。 制度化の端緒→元和元(1615)年 7 月 7 日発布の「武家諸法度」(元和令) 第 9 条→徳川政権による初めての参勤に関する法の規定。

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→大名の参勤を統制下に置く試み。「参勤作法ノ事」の規定であって、従者 の人数制限に止まる。 →東・西の大名が入れ替わりで隔年に参勤を果たす状況が生じる一方で大 名の参府・就封の時期にばらつきがあり、幕府の政治状況に大名の参勤時 期が左右されてもいる。 3 南部重信蟄居事件 -参勤交代制度成立の一側面― 3-1 参勤交代制の成立 寛永 12(1635)年 6 月 21 日、武家諸法度(寛永令)発布 第 2 条 →参勤交代に関する明文規定の出現。 ① 大名・小名に対し在所と江戸を交互に滞在するよう命じ、参勤 時期を毎年 4 月に規定。 ② 従者人数の制限。 ③ 将軍上洛の際には将軍の命に従って人数を差出し、大名課役で は分限に応じて負担可能な人数を差出し、従事すること。 →実質的に大名が隔年参勤をするようになったという実情をふまえ、 参勤・帰国の交代時期を明文化し、隔年の参勤を制度化。 同年 6 月晦日、外様大名が領地の位置でグルーピング→2 つのグループ が交互に江戸参勤を行うことに。 「当年御暇之衆」→金沢藩主前田 利常・仙台藩主伊達政宗ら主に 東日本の代名 39 人に対し帰国 を命令→盛岡藩主南部重直も含 まれる。 「当年在江戸之面々」→鹿児島藩 主島津家久・熊本藩主細川忠利 以下西日本の大名 60 人に対し、 この年の江戸在府が命じられる。 講演中の千葉 一大先生 譜代大名の参勤開始は遅れ、寛永 19(1642)年に。 3-2 南部重信の蟄居 寛永 13(1636)年夏、江戸に参勤した南部重直は、徳川家光の怒りを 買い、蟄居を命じられる。 この事件はほぼ後世に書かれた史料によって理解されてきたが、記述 内容に齟齬があり、それらに依拠するには問題がある。 二次史料の記述例 「祐清私記」(もりおか歴史文化館蔵)

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乾・坤二巻では、同じ事件であるにもかかわらず、記載された事件の 経緯には事なる点が存在。 乾→重直は寛永 13 年 3 月 21 日に盛岡出立。江戸への到着は 4 月 23 日。 参勤の遅参と盛岡城の新丸造営に石垣を築いたことを無調法と咎 められ 3 年間にわたり「逼塞(ひっそく)」。 その後水戸藩主徳川頼房が松江藩主松平直政と共に取り計らい、上野 寛永寺の天海、将軍家光の乳母春日局の働きかけもあって、寛永 15 (1638)年 12 月 22 日に赦免。 坤→重直は寛永 13 年夏に「閉門」の処罰を受けた。 同 15 年 12 月赦免されるも、その後 19 年遠慮。 処罰理由は「重直公之奥」が側室八木沢お亀を貰い受けようと道 中の花巻(現岩手県花巻市)まで随行、同地に二カ月逗留したため。 さらに、江戸到着後、幕府側から参勤の遅れ、キリシタン詮議の不備、 盛岡城新丸造営に際して石垣を築き立てたこと、上方者の新規召し抱 えなど七箇条に及ぶ不審の廉が幕府から突きつけられ、このうち参勤 の遅れと詳細不明な二箇条の弁明が出来なかったため処分された。 (南部叢書) →「閉門」と逼塞」では処罰の内容に違いがあり、遅参の期間、経緯 や処罰理由にも大きな違いが存在。 ※「閉門」・・・武士と僧に科せられる刑、屋敷の門を閉じ、昼夜と も当人および内外の者の出入りを禁じる。ただ病気 のときには夜中に医師を招き、また出火、類焼にあ たっては消防、避難することは許されていた。 「逼塞」・・・対象は武士・僧。日中は門を閉じるが、夜間は潜門か ら目立たぬように出入りをすることを許すもの。 「遠慮」・・・江戸幕府における刑罰ないし自発的謹慎。刑罰として は、武士、僧侶に科せられ、受刑者は屋敷に籠居し て門を閉じるが、潜門は引き寄せ開けてもよく。夜 間他の者が目立たぬように出入りしてもよい。 他の二次史料では… 「御当家御記録」+(もりおか歴史文化館蔵) 逼塞の期間は子年(寛永 13 年)夏から寅年(寛永 15 年)春まで。 理由は、かねがねわがままを募らせ、参勤に遅れるとの届も出さず、新 丸造営などのことも自然と師匠につながったのではないかと、「ある本に 出ている(有書二奉見得候)」とする。

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また、花巻滞在は数日で、4 月 2 日、3 日には出立していたとの説も載せる。 「江城年録」巻七(国立公文書館蔵) 寛永 13 年 2 月から 9 月にかけて行われた江戸城外堀普請を、重直が 「奥大名」(奥羽大名)とともに賦課されていたのに遅参したため「閉門」 に付されたとする。 「落穂雑談一言集」(国立公文書館) 仙台藩主伊達政宗が武家諸法度の規定を守り、重病を押して 4 月中に参 勤したのと比べられ、重信の遅参が家光の憤りを買ったためだという説 を期す。 一次史料では・・・ 盛岡には、長期間にわたる処罰理由にかかわる史料が、官見では存在し ていない。 寛永 10(1632)年 6 月 20 付細川忠利(肥後熊本藩主)書状 →事件前から、重直は風変わりな人物で、先行きが気がかりだとみられ ていた。 寛永 13 年 6 月 24 日付細川忠利書状 家光が、政宗は重い病で遅い参勤になったのに、重直は 4 月を超えて参 勤して来たので「曲事」とする。家光のこの態度から、さらに厳しい処 分が下るだろうと予測。 →政宗と比較されての処分だったと、当時みられていたことがわかる。 寛永 14(1637)年正月 28 日付島津家重臣川上久国・伊勢定昌・三原重 饒書状(「後編旧記雑録」) →薩摩藩の重臣たちが、国元の同役に、重直の事件について、重直が道 中病を発したこと、武家諸法度の 4 月交代の規定を守らなかったこと を不法として、家光の謁見なく、下屋敷へ「逼塞」。その後さまざまな 無作法ぶりが家光の耳に届き、身の終わりが近いことなどを報じてい る。 寛永 14 年 2 月 7 日付細川忠利書状(筑後柳川藩主立花宗茂宛) →「細川忠利は、立花宗茂が示す、家光が証拠をそろえた後、南部家 について最終の決断を下さすのではないかという見方に賛意。遅参以 外のなにかよくないことが家光の耳に届いたのではないかと推測。 寛永 14 年 11 月 18 日付細川忠利書状(仙台藩主伊達忠宗宛) →盛岡藩の隣藩の大名である伊達忠宗に、重信が家光の覚えめでたか らずとみて、百姓たちが愚かなことをいうのだろうとの意見。領民た ちから幕府に対して訴えがあったり、風聞などが多くあったものか。

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「江戸幕府日記」(姫路酒井 家本)寛永 14 年 12 月 22 日条 →重直の処分理由は 参勤交代を命じたのに遅参し たこと、さらに、遅参したこ とが家光の「勘気」を蒙って いたこと、処分は「蟄居」で あることが明らか。 ※ 「蟄居」・・・閉門のうえ 一室に籠り謹慎することを命 じた刑罰。 江戸時代にも公家・武家等に例外的な刑罰として行われた。 →「江戸幕府日記」に見るごとく、重直の処罰は例外的な重罰である 「蟄居」であり、4 月交代を定めた「武家諸法度」の規定違反、参勤交 代の時期への遅参したことに対し、家光が怒り「勘気」を蒙ったこと が理由。 →長期間にわたったのは、別の理由(重直に対する悪評、行状に対す る訴願・風聞)などがあった可能性がある。ただし、その具体的中身 は一次史料からはわからず、二次資料が伝えるようなものであったか は不明。 (中略) 重直の参勤遅参をめぐる結論 ① 重信が受けた罰は、「逼塞」・「閉門」ではなく幕府日記によれば「蟄居」。 ② 重直の処罰理由は、これも幕府日記によれば、武家諸法度に定められた 4 月参勤への遅参。 ③ ただし、処罰が長期化した理由として、重直のエキセントリックさらに 由来する悪評・風聞・訴願があった可能性が、細川家・島津家関係の史 料からうかがえる。 ④ ③に関連して、処罰理由として挙げられてきた。盛岡城の新丸造営や、 キリシタンへの処罰の甘さといった、盛岡藩において後世に編まれた史 料に現れる話というものは、一次史料から確認できない。 3-3 重直の赦免と事件の影響 重信の赦免についても、後世書かれた史料によってのみ理解されてき たが、これも記述内容に問題があり、それらに依拠できない。

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一次史料に見る重直の赦免 「江戸幕府日記」(姫路酒井家本)寛永 14 年 12 月 22 日条 →この日赦免されたことが明らか。 寛永 14 年 12 月 23 日付南部重直書状写 →昨晩、家光の命により、老中酒井忠勝の屋敷に呼ばれる。屋敷には江 戸にいる大名たちが残らず呼び出され、老中たちも全員集まり、赦免の旨 と、従前と変わらず奉公するように申し渡される。 →二次資料にある寛永 15 年赦免は、事実じゃないことが判明する。 事件に及ぼした影響 この事件は、外様大名やその家臣たちの重大な関心事に。 →武家諸法度の規定に反し、家光の勘気を蒙った重直の行く末に注目が 集まる。 寛永 14 年 5 月 13 日付細川忠利書状案 「重信の行き先は何ともわからない」 寛永 14 年 5 月 20 日付細川忠興(三斎宗立)書状案 重直の先行きが怪しいことについて、忠興のいる八代(現熊本県八代市) にもうわさが届いている旨を忠利に伝える。 寛永 14 年正月 28 日付し島津家重臣川上久国・伊勢定昌・三原重饒書状 当時鹿児島藩主島津家久は病の床にあり,同家の家臣たちはこの状況を 南部家の事例と比較、病状を幕府の医師が確認しているため、南部家と 同様のことに遭うという気遣いには及ばないものの、あくまで用心が肝 要と述べる。 寛永 14 年 2 月 15 日付細川忠利書状 →重直のように参府が遅れれば、大事なことになるという認識が西国大 名たちに形成。 →外様大名にとって、この重直の参勤遅延というものが、幕府の法度支 配、大名統制というものをより強く認識することになったということが 可能。 重信赦免の持つ意味 寛永 14 年 12 月 23 日付南部重直書状写 重直赦免は、江戸在府中の全大名が残らず召し出された中で、老中列座 の上で申し渡し。→重直赦免は各大名にも周知徹底される重大性を持っ たもの。→このような場を幕府側があえて設定して赦免を申し渡したこ とに注目。 法度の規定を守らなかった大名に対して幕府は厳しく対処したという強

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い意思の伝達。 法度実施後最初の江戸参勤に遅れた重直は他の大名の見せしめ、「他山の 石」 武家諸法度の主旨の徹底、幕府による統制の枠内に大名を置くというこ とに用いたのではないか。 西国大名たちが状況を追っていたことを考えれば、盛岡藩のみならず、 全国の大名にとっても法制化された参勤交代規定を遵守する必要性を認 識させられた事件。 おわりに ① 豊臣政権、南部信直に出した朱印状に、政権の「参勤」方針の背景 がうかがえる。 ② 江戸時代初期における南部利直の徳川家康・秀忠に対する参勤交代の 存在 ③ 参勤交代制度の成立にあたって、趣旨を大名に徹底させ、統制策とし て有効に機能させるため、南部重直の参勤遅参事件を幕府が利用した 側面がある。 講演中の千葉 一大先生

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