我国裁量理論へのい四=昌説の導入(一)
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(2) 早稲田法学会誌第二九巻︵一九七八︶. 第一章佐々木惣一氏の自由裁量理論 一. 二六四. 佐々木氏の自由裁量理論に入る前提として︑行政活動の終局目的︵最高目的︶と直接目的︵中間目的︶の区別に言 及する必要がある︒. − 近代国家においては行政の活動は公益に適合しなければならないということ︵いわゆる公益原即である︶が政 ︵1︶ 治上の要求にとどまらず法上の要求であり︑それは条理法であるという︒だがこのような公益という一般的標準︵目. 的︶で個々の行政活動が決定できるかというとそうではなく︑この公益という一般的標準︵目的︶にあう個々の行政. 活動に特有な標準︵目的︶︑すなわち直接の標準︵目的︶で具体化する必要があるのである︒ここにおいて一般行政. の活動の標準である終局の標準と個々の行政活動に特有な標準である直接の標準︑あるいは終局目的︵又は最高目的︶ ︵2︶ と直接目的︵叉は中間目的︶の区別が可能となるのであり︑佐々木氏はこの二分を使って自由裁量と法の羅束を理論. これは富毒氏の次の箇所に対応するものであろう︒彼が公益の考慮としての自由裁量を論ずる際に﹁国家. 構成していくのである︒. 二. 活動が常にそしてすべの形式において奉仕しようと努める最終的なそして最高の諸目的︵&①一9暮窪q且ま9暮o昌. N毛o良①︶︑すなわち国家の自己保存︑ある一定の社会秩序を維持し強固にすること︑文化の保護等々はしばしば極め. て様々な方法で達成されうる︒国家機関が個々の場合に追求すべき︑それ︵公益という最終的なそして最高の諸目的.
(3) ︵3︶. のことt筆者注︶に導くより詳細な直接の諸目的︵良o壁豊旨ぼo民雪温冨おP§ヨ葺巴9お旨N類8ざ︶は︑. 常に最初から規範によって規定されうるとは限らない﹂とし︑国家活動の最高の目的と個々の場合に追求すべき直接. の目的を区別している箇所にである︒そしてピ︒︒毒氏もこの目的の点で自由裁量と法律の鶴束を理論構成するので ある︒. 佐々木惣一﹁行政機関の自由裁量﹂法と経済酬巻一号︵一九三四年︶二一頁︑同﹁自由裁量︵二︑完︶﹂京都法学会雑誌. 九巻二一号︵一九一四年︶三六頁︒. ︵1︶. ﹃日本行政法論総論﹄︵一九一ご一年版︶五九四頁︒. ︵2︶ 佐々木・法と経済一巻一号二一ー二二頁︑同﹁自由裁量O﹂京都法学会雑誌九巻五号︵一九一四年︶七二−七三頁︑同. ︵3︶冨¢PU窃旨o凶①津ヨo器窪仁呂ωoぎ09窪N①p一〇一ρωふ一−8︒. 二. ﹁自由裁量とは行政機関が特定の行政の活動を為すに当て︑其の直接の標準とすべきものを自ら定むること﹂. では自由裁量についてそのいうところを見ていこう︒. 一. だという︒すなわち行政は公益という一般的標準︵目的︶を達するために活動をなすのであるが︑この一般的目的を. 達するためにいくつかのそれを具体化する目的︵直接の目的︶が考えられる時がある︒その場合にそれらの直接目的 ︵1︶ の中からの選択の自由があるということを自由裁量だというのである︒ ︵2︶. 二六五. では公益目的にあういくつかの直接目的の中から選択できる場合とはどういう場合なのか︒それは法の定めによる. 我国裁量理論へのピ餌q昌説の導入︵一︶︵高橋靖︶.
(4) 早稲田法学会誌第二九巻︵一九七八︶. 明文で行政庁は自由裁量の職権を有すと規定している場合︒. 二六六. ω. このような明文はないが法の解釈上行政庁が自由裁量の職権をもつと認められる場合で︑この主なものとして. として以下のような規定がなされている時に︑法律は自由裁量を承認しているという︒. ③. 法規の要件の部分に﹁公益の為﹂という標準︵目的︶を規定している時︒例えば公益を害すと認めたる時は. 次の三つをあげている︒. ω. 鉱業の出願を許可せず︑あるいは地方行政庁は公益の為必要あるとき許可を取消すことを得と規定している時. 法規の要件が﹁必要ある﹂という標準︵目的︶を規定する時︒例えば農商務大臣は必要と認むるとき取引所. である︒. ω. の決議を取消すことを得と規定している時である︒. ㈲ 第三に﹁法が何等の標準を示さないで︑行政機関が或行政の活動を為し叉為さ父るべきことを規定する場合﹂. で︑これは法規の要件に何らの規定もない時ということである︒例えば公立及び私立の大学の設立廃止は文部. 大臣の許可を受くべしという規定のように︑許可の要件たる標準が規定されていない時である︒. 以上の場合には︑行政機関が活動をなす際に法は公益という目的しか示していないのであり︑公益に適するためにい ︵3︶. かなる標準に従うべきかを示さないのは行政機関に自ら適当だとする標準を選択させる︑すなわち自由裁量の権限を 与える法意だというのである︒. 二 以上の佐々木氏の理論に対応する霊巨氏の箇所をみておこう︒まず彼は自由裁量とは何であるといってい.
(5) るのであろうか︒自由裁量とは行政機関に公益とは何であるべぎかを決定する権限が与えられたもの︑すなわち立法. 者が前もって間接的にさえも追求さるべき目的を示すことによってある問題において最も適当で最も合目的な国家行. 動とはいかなるものであるかを規定することができない時に︵これは公益にあう具体的な直接目的を規定することができな. い時という意味である1筆者注︶︑自己の義務にかなった見解と自己の義務にかなった意思により自らの行動の最も密. ︵4︶. 接な直接の目的︵αR鼠o富貫§ヨ葺2び霞①N≦o畠︶とは何であるべきかを決定する権限が行政機関に与えられた. ものだと富毒氏はいっているようである︒一言でいえば公益目的を達するための直接目的の選択の自由ということ. であり︑この点で佐々木氏の定義に対応しているといえる︒また自由裁量の規定方法について﹁処分をなす機関は自 ︵5︶. 由裁量によりもしくは合目的性︵N妻8犀ヨ跨硲ぎδに従い処置すべきであり︑公益もしくは公共の福祉を保護すべ ︵6︶. きであるということなどが明示的に規定されうる﹂としているのは︑佐々木氏の自由裁量の決定基準であるωと②Oり. に対応しよう︒ただし佐々木氏が自由裁量の規定方法の例としてあげている②㈲については審琶氏の理論は異なっ. ている︒い窪昌氏は法律が全く沈黙している時にも︑法治国においては個人の権利・自由に制限があるのであり︑こ ︵7︶. の権利・自由は法律の授権にもとづいてのみ侵害されてよいにすぎないという法律の留保の原則を根拠にして︑個人. 佐々木﹁行政機関の自由裁量﹂法と経済一巻一号二二−二三頁︒なおこの法と経済一巻一号︵一九三四年︶以前の論文で. の権利・自由の侵害を意味する時には自由裁量は考えられないというのである︒ ︵1︶. は︑直接目的の中での選択の自由という観念は明確になっていないようであるが︑この点は後の四にも関係しよう︒また公. 口昌説の導入︵一︶︵高橋靖︶. 二六七. はならないというようである︵佐々木・同右二六︑二八ー二九頁参照︶が︑この﹁公益﹂の内容についても後の四をみよ︒. 益原則は条理﹁法﹂だといっても︑結局のところは公益についてのよるべき基準を示していないからそれに違反しても違法と. 我国裁量理論へのピ.
(6) 二六八. 佐々木・同右二五ー二六頁︑同﹁自由裁量︵二︑完︶﹂京都法学会雑誌九巻一二号三二ー三五︑四二頁︑同﹃日本行政法. 佐々木・同右二四頁︒. 早稲田法学会誌第二九巻︵一九七八︶ ︵2︶. 論総論﹄六〇三−六〇五頁︒渡辺宗太郎﹁裁量処分﹂法学論叢三一巻三号︵一九三四年︶一六三f一七一頁も同旨︒なお佐. ︵3︶. 々木氏は一九一四年の京都法学会雑誌九巻一二号三三ー三四頁及び一九二二年版の﹃日本行政法論総論﹄六〇四−六〇五頁. では②Gりについてもう少し細かく分けており︑また③㈲の要件が空白規定である場合を③④と一緒に論じていた︵京都法学. 政法論総論﹄六〇三頁のイでいう﹁実定法力行政処分ノ為サレ又ハ為サレサルコトニ付テ何等ノ規定ヲモ有セサル場合﹂と. 会雑誌九巻一二号三四−三五頁︑﹃日本行政法論総論﹄六〇五頁︶ことを指摘しておく︒もう一つ言及しておくと﹃日本行. ︵5︶. ︵4︶. なおω④については不明確ではあるが︑ピ印βP魯負ψoo一・に対応していると思われる︒. ピ鍾βP①げ岱 ω●刈09. ピ餌仁PU窃砕o凶o団﹃ヨoω紹昌β昌α紹一昌oO器昌NoPω●①一占ω噂謡O.. は結局ここでいう②㈲に還元されるであろう︒. ︵6︶. ピ帥¢Poげ島 ω︒ooQIOρ. 三. ︵7︶. ︵1︶. ﹁法の羅束とは行政機関が特定の行政の活動を為すに当て︑其の直接の標準とすべきものが法に依て定まれる. 次に法の羅束をみてみよう︒. ロ. ことを謂ふ︒﹂要するに公益目的にあう直接の標準︵目的︶がもうすでに法規によって定まっているのであるから︑. この直接の標準︵目的︶に該当する状況があるか否かを知るのは認識であって意欲ではない︒まさにそれは経験律に. よって判断されるものなのである︒だからその答えは理論的に一つなのであるから︑その判断を誤れば違法となるの.
(7) ︵2︶. である︒すなわち先の自由裁量のような直接目的の選択の自由は与えられていないもの︑それが法の羅束なのである︒. このように﹁法ノ羅束ノ下二於テ為サルル行政作用ハ単二法力公益二適ストシテ定メタル所ノモノヲ実現スルノ︑︑︑﹂. であり︑﹁行政機関力各箇ノ場合二付テ法ヲ施行スルノ作用ハ之ヲ名ケテ法ノ適用ト云フ﹂のであるから︑従って﹁羅 ︵3︶. 束処分ハ法ノ適 用 ﹂ だ と い え る の で あ る ︒ ︵4︶ この法の編束があるか否かも法の定めによるとして以下の規定がなされている時に︑法律は法の轟束を認めている. ﹁行政の活動の前提として存在すべき事実を示す場合︒﹂この内容であるが一九三四年の法と経済一巻一号の. という︒. ω. 論文以前には二つに区別されていたのであり︑その方が理解しやすいのでその説明によっておこう︒まずその一. つが﹁単純ノ指定﹂ある場合である︒﹁単純ノ指定トハ実定法力単純二行政処分二依テ或コトヲ為シ叉ハ為ササ. ルヘキコトヲ定ムルヲ謂フ︒﹂要するに明確な規定がなされている場合ということでありこれは問題なかろう︒. もう一つは﹁事実ヲ条件トスル指定﹂の場合である︒すなわち法が﹁一定ノ事実上ノ条件ノ存スルトキ為シ又ハ ︵5︶. 為ササルヘキ行政作用ヲ定﹂めている場合である︒ではここにいう事実とは何か︒﹁事実トハ客観的二認識シ得. ル現象﹂のことである︒要するにこれは要件の部分に譲貰R冒=ぢ爵沸のいわゆる経験概念が規定されてい ︵6︶ る時のことをいっていると考えてよいであろう︒例えば警察官庁は泥酔した者に対して検束を加えることができ. 二六九. るという規定中の﹁泥酔者﹂︑あるいは警察官庁は日没後は現居住者の邸宅に入るを得ずという規定中の﹁日没 ︵5︶ 後﹂のような概念が規定されている時である︒ 我国裁量理論へのい勢¢昌説の導入︵一︶︵高橋靖︶.
(8) ②. 早稲田法学会誌第二九巻︵一九七八︶. 二七〇. ﹁行政の活動の直接の目的︵中間目的ともいうー筆者注︶を示す場合︒﹂すなわち法が所定の目的を達すること. が結局公益に適するのだと定めている場合である︒例えば︑泥酔者︑疲癩者︑自殺を企てる者その他﹁救護ヲ要. ス﹂と認める者に対して検束を加えることを得と規定している時には︑﹁救護するために﹂検束をなしてはじめ. て公益に適するとしているのである︒また自由裁量の規定方法の例であった﹁必要ある﹂という規定も︑﹁安寧. 秩序ヲ保持スル為メ﹂必要なる場合には警察官は屋外の集会を解散することを得︑あるいは行政官庁は天災に際. し﹁衛生ノ為﹂必要と認める時は私人の土地物件使用を制限することを得というようにその目的の指定がある時. には︑これらの﹁安寧秩序の保持のため﹂︑﹁衛生のため﹂という直接目的のために行政活動をなすことによって ︵7︶ 公益に適すと定められているのだから法の羅束の場合だというのである︒ ︵8︶ 二 この佐々木氏の法の編束は霊琶氏が法律の羅束︵鵯8巨8冨O①言民窪ザ舞︶といっている箇所にあたる︒. ﹇壁ロ氏は法律の羅束に関して次のようにいう︒法律の羅束とは官庁の活動領域が直接に法律によって規定されてい ︵9︶ るか︑もしくはその活動の目的が法律によって規定されている場合である︒この法律の羅束の場合には法律の意思を. 実施するだけでただ一つの正しい解決しかないのである︒まさに行政庁は最善の知識と良心に従い︑立法者が具体的 ︵10︶ 場合に抽象的規範によらずに規定したならば規定したであろうものをおこなわなければならないのである︒この箇所. が佐々木氏の法の羅束の内容と対応しているのは明らかである︒ただ霊§氏は羅束裁量ということにも言及してい. るが︑佐々木氏の場合には明示的にこの羅束裁量という言葉を使用していない︒だが佐々木氏が﹁実定法力或事実ノ. 存在スルトキ行政処分二依テ或コトヲ為シ叉ハ為ササルヘキコトヲ定ムル場合ニハ︑一見行政機関力選択ノ余地ヲ有.
(9) ︵11︶. ︵12︶. スルカ如キモ実ハ然ラス﹂とのべているようなもの︑すなわち選択の余地がありそうなのだが︑実は経験律によって. 定まる法の客観的な標準による拘束があるから法律の羅束だという場合がい帥琶氏のいう編束裁量なのであるから︑. 明示的に羅束裁量という言葉を使っていなくてもその考え方は同じなのである︒佐々木氏がこの驕束裁量という言葉 ︵13︶. を使用しないのは︑冨琶氏もいっているように羅束裁量と厳密な羅束︵ω巳耳①O①ど区9冨δとの間には漸次の. ︵14︶. 移行︵邑旨警一一9段⇔幕お導閃︶があるにすぎず︑どこにも明確な限界はひかれないからであろう︒またどちらも自. 由裁量のように裁判所から排除されるというわけでもないから区別する意義もないと考えたのではなかろうか︒. 佐々木﹁行政機関の自由裁量﹂法と経済一巻一号二三頁︑同﹁自由裁量O﹂京都法学会雑誌九巻五号七〇頁︑同﹃日本行. 政法論総論﹄五九二−五九三頁︒. ︵1︶. 佐々木・京都法学会雑誌九巻五号七六−七七頁︑同﹃日本行政法論総論﹄五九六頁︒. ︵2︶佐々木・法と経済一巻一号二三−二四︑二九−三一頁︒ ︵4︶佐々木・法と経済一巻一号二四頁︒. ︵3︶. 佐々木・同右二七−二八頁︑同・京都法学会雑誌九巻五号七〇1七一頁︑同﹃日本行政法論総論﹄五九三−五九四︑七五. 五−七五六頁︒. ︵5︶. 分ノ条件トシテ或事実ヲ示スノ方法ニハニ種アリ﹂とし︑﹁直観的ナル﹂ものと﹁概念的ナル﹂ものをあげている︒そして. ︵6︶ 佐々木氏のいう事実上の条件とは経験概念のことだといってよいであろうとのべたが︑佐々木氏自身は﹁法力其ノ行政処. ﹁酒ヲ飲ンテ途二迷フ者﹂︑﹁午後六時以後﹂を直観的なるものとし︑﹁泥酔者﹂︑﹁日没後﹂を概念的なるものとしている︒前. 者については疑問は生じないとしているようであるが︑後者のような﹁条件タル事実力概念的二示サレタルトキハ多少ノ混. 雑ヲ生ス﹂という︒だが﹁此ノ如キ概念ハ一見不定ノモノニシテ︑従テ行政機関二於テ之ヲ定ムルニ似タルモ︑其ノ実然ラ. 二七一. ス︒法ハ此ノ如キ概念ヲ用ヰルハ経験律ノ意味二於テ解セラルル概念二依ルカ又ハ特二法力作ル所ノ概念二依ルモノナリ﹂. 我国裁量理論へのピ帥q昌説の導入︵一︶︵高橋靖︶.
(10) 早稲田法学会誌第二九巻︵一九七八︶. 二七二. としている︵佐々木﹃日本行政法論総論﹄五九七ー五九八頁︑同・法と経済一巻一号三〇ー三一頁︑同・京都法学会雑誌九巻. 五号七八頁︶︒だがこの両者とも同じようなものなのであるから経験的に判断しうる︵経験則による一義的な解決が可能な︶. 佐々木・法と経済一巻一号二六ー二七頁︑同・京都法学会雑誌九巻五号七一−七二頁︑同﹃日本行政法論総論﹄五九四−. 概念としての経験概念という言葉の中に含めてまちがいではなかろう︒. ㎝望困. ㎝㌣①ρN㎝oo.. 誤oo●. ただ佐々木氏は法の覇束に﹃8拝一8訂O魯自区8ゴΦ一けという言葉をあてている︒. 同旨である︒. 五九六頁︒なお以上の法の覇束の規定方法の例の①②とも渡辺宗太郎﹁裁量処分﹂法学論叢三一巻三号一六三−一七一頁も. ︵7︶. ︵8︶ ︵9︶. ω・鳶島. ピ帥βPoげ畠. 躍PU器ヰ①凶o国賊B8ωo昌但昌ユのo一808目oPω︒鳶. ︵10︶. 例えばい. 佐々木﹃日本行政法論総論﹄五九七ー六〇〇頁︒. ピ. ︵11︶. なお経験律︵国焦帥ぼロ昌ひq器弩器︶に関してはこれをピ帥β昌氏も論じているのであるが︵ピ帥縄Poげρψ8律︶︑これに. ピ鍾βPoび島 ω●Oま一︸曽O●. ロP鉾鉾O●℃98鼻を見よ︒. ︵12︶ ︵13︶. をみよ︶︒. ところで佐々木氏の自由裁量理論には一見すると極めて反法治主義的ではないかと思われる箇所がある︒それ. 四. 関する白巴けR蜜豪器犀氏の見解も佐々木氏は参照しているようである︵佐々木・京都法学会雑誌九巻五号八四−八五頁. ︵14︶. 一. は﹁法が行政機関に自由裁量の職権を与へるのは︑法が行政機関の判断に従はしめるといふの趣旨に外ならない︒換. 言せば︑行政機関が公益に適すと判断する標準に従ふことを以て公益に適するものとするといふのが法意である︒故.
(11) に法は行政機関が右の判断を為して活動する場合には︑其の結果が実際上公益に適すると反するとを間はず︑法上は. ︵1︶. 公益に適するものとするのである︒従て行政機関の自由裁量に依る活動は其の結果に就ては適法である﹂としている. 箇所である︒つまり行政庁が公益だといっているものが公益なのであり︑どのようなものを公益だといってもすなわ. ち客観的に公益に反すると考えられる場合にも行政庁がそれは公益に適するといいさえすれば︑行政庁には自由裁量. の権限があるが故に適法であるといっているようにとれ︑一見すると公益認定についての行政庁の専断を許している. ように思える︒だから佐々木﹁学説は︑制定法が公益概念をもって︑または︑準則の定めなく行政行為を授権する限. ヤ. ち. ヤ. ヤ. り︑行政機関は自由裁量権を有することになり︑その結果︑現実に行なわれた行政行為が如何に客観的に公益判断を ヤ 誤ったものと認められる場合であっても︑不当にとどまり︑違法な行政行為として行政訴訟の対象となることは︑絶 ︵2︶. 対的にありえないと解しているのではないかと思われる﹂﹁すなわち︑自由裁量行為の違法原因としての裁量濫用の. だが一九三四年の法と経済一巻一号の論文では︑杉村氏の指摘した裁量限界論がはじめて体系的に論じられて. 法理を認める必要がない﹂のかという杉村敏正氏の疑問ももっともなのである︒. ︵3︶. 二. いる︒だから佐々木氏には裁量限界論は存在するのである︒だが限界論は存在するが︑佐々木氏は︑反法治主義的で. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヘ. ヤ. ヤ. む. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. はないかと指摘した先の文章と首尾一貫するように﹁自由裁量は行政機関が個々の場合に其の活動の直接の標準を自 ︵4︶. ら選択するのであるから︑活動の標準に付ては法の制限を受けない︒併し活動の標準以外の点に於て法の制限を受け. ることを妨げるものではない﹂︵傍点筆者︶として裁量限界論を論じているのである︒この点で1限界論は存在した. 二七三. にせよi杉村氏の疑問は生ぎている︒すなわち佐々木氏への疑問はその限界論が行政庁の活動の直接の標準の選択 我国裁量理論へのピき昌説の導入︵一︶︵高橋靖︶.
(12) 早稲田法学会誌第二九巻︵一九七八︶. 二七四. つまり行政庁が公益だというその内容にも関係しないものであろうか︑すなわちその点で違法原因とならないのであ. ろうかという点である︒一体裁量限界論からみて客観的に公益に反しても適法だといえるのであろうか︒ ︵5︶. なるほど佐々木氏のあげている裁量限界論のうち権限の喩越といってもよいような場合︵ただこれは形式的な管轄. 権限の除越ということであるらしいが︶︑あるいは﹁裁量濫用﹂のような場合には直接の標準の選択そのものすなわ. ち公益認定の内容とは関係しないであろう︒ただ後者の﹁裁量濫用﹂については少し説明をしておこう︒﹁行政機関. は如何なる標準に依ることが公益に適するものであるかを誠実に考量することを要する︒誠実に考量することなく︑. ︵6︶. 即ち共の標準が公益に適することの信念を得ずして活動を為すは違法﹂なのでありこれを﹁裁量濫用﹂とよぶのであ. る︒これは仏法の権力濫用︵幕8g彗①ヨo暮8宕薯oεにあたるものであり︑またピき昌氏のいう故意の公益原則. 違反である裁量濫用︵騨Boωω9ωヨ篇酵震3︶なのである︒要するに裁量濫用は公益について判断する者の内心の意. 思を問題にするものであり︑行政活動の直接の標準の選択そのものすなわち公益の内容そのものについては関係しな. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ち. いのである︒ただ客観的に公益に反するもののうち故意に公益に反しているものはーもちろん公益に反していると. いう内容によってではなく内心の意思の点によってなのであるがいずれにせよーこの権力濫用によって違法となる. のであり︑従って客観的に公益に反するもののうち反法治主義的ではないかとして議論の対象となるのは過失の場合 に限定されるといえようが︒. ︵7︶. だが佐々木氏のいう裁量限界論には実は活動の直接の標準の選択に直接関係するものがあるのである︒それは比例. 原則・平等原則なのである︒両者が同一の条件なのに理由もなく他の者と異なる標準をもって公益だと認定すればそ.
(13) れは平等原則に反するであろうし︑またある条件にはそれに対応した公益認定があるはずなのにその条件とはかけは. なれた︵必要以上な︶公益認定がなされた時には比例原則に反することになろう︒この点からみれば活動の標準につ. いては法の制限をうけない︑すなわち公益認定は違法とはならないという論述はおかしいのである︒つまりこの点で論. 理に矛盾があるといえるのである︒ただこの限界論からの疑問点︵自由裁量についての論述と限界論との論理矛盾︶. 限界論からの理論上の矛盾点の指摘は度外視しておくとしてもまだ疑間点があるのである︒それは自由裁量の. はここではしばらく度外視して考えておき後にまた言及することにしたい︒. 三. 定義との矛盾点である︒なるほど一九三四年の法と経済一巻一号の論文以前のように﹁自由裁量トハ行政機関力自ラ ︵8︶. 何力公益二適スルカヲ定ムルコトヲ謂フ﹂とだけのべるのなら︑まさに行政庁への公益認定についての全権委任があ. ヤ. ヤ. ち. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ち. ヤ. ヤ. るといえないことはなかろう︒だが一九三四年の法と経済一巻一号の論文ではいくつかのものの中での選択の自由と. いう観念が明確に入っている︒﹁行政機関は其の行政の活動の直接の標準として考へられる種々のもの玉中︑自己の ︵9︶ 適当と判断するものを選択する﹂︵傍点筆者︶︑それが自由裁量なのであると︵自由裁量について論じている二の−もみ. よ︶︒公益にあうと考えられるいくつかの直接の標準︵目的︶の中での選択の自由というこの自由裁量の観念の中に︑. だれにとっても客観的に公益に反するということがわかるようなものの選択の自由まで入るであろうかという疑問が. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. 出るのである︒行政庁が公益だといえばそれがどのようなものであるにせよ公益であるというようにとれる先の反法. 二七五. 治主義的だと思われる箇所とこの自由裁量の定義は文字通りに解すれば矛盾しているといえよう︒だがこの箇所は何 か別様にとれないであろうか︒ 我国裁量理論へのい餌仁昌説の導入︵一︶︵高橋靖︶.
(14) 四 ピ. 早稲田法学会誌第二九巻︵一九七八︶. 二七六. 佐々木氏の場合︑今までの論述から明らかなように霊⁝氏の理論から多くのものを導入しているのだが︑その. §氏はこの点どういっているのかをみてみよう︒霊目氏はこれにあたるであろう箇所で次のようにいう︒﹁ここ. では︑処分をなす国家機関︵盆ω冨且色民①ω鼠緯8おき︶が最善のものそして最も適当なものと認めたもの︵名器. ①ω巴ω盆ωω8帯巨α08蒔昌o$岳R惹口暮げ簿︶を︑その国家機関はまた︑欲しかつ行なっているということが. 仮定されなければならない︒官庁がよりよい知識に反して公益に最もかなったもの以外のものを得ようと努める場合. については︑この研究の第二部ではじめて話題にされうる︒これに反して︑選ばれた種類の行動が︑実際に最も合目. 的なもの︵象①N妻o畠日讐鴨冨︶でもあることを要求することは誤っているであろう︒というのはまさしく自由裁量. はおこなわれた処分の性質が決定されうるであろう法律上の基準が与えられていないということに存するからであ. る︒⁝⁝事実︵↓帥ε日ω鼠且o︶と証拠の評価の際に︑経験則と法規の判断と使用の際に︑官庁は︑国家が官庁の活. 動をもはや国家の活動とは認めないほどに過失で︵ざ甘8︶その義務の重大な違反をなしうる︒だが公益であるべき. ものの選択においては︑このことは概念上考えられない︒官庁が公益だと思うものは︑法的意味において︑実際に公. 益である︒合目的でない︵目N譲①畠目葛蒔︶決定と処分を防止するのは︑官吏の資格と任命︑手続の保障︑冒ω貫自①〒. N轟︵官庁内部の統制のことか︶︑大臣の政治的責任等々に関する規範の間題である︒しかし非合目的な︵ぎo署9ε昌︶. 自由な行政行為がおこなわれた時には︑せいぜい懲戒という方法での機関の処罰が考えうるにすぎず︑その行為. ︵10︶ ︵Ooω9魯窪︶の法的性格はそれによって変えられない﹂と︒﹁官庁が公益だと思うものは︑法的意味において︑実際. に公益である﹂としている点が同様に反法治主義的だと思われよう︒ただここでのべられている通り故意に公益に最.
(15) ︵11︶. もかなったもの以外のものを得ようと努める場合は︑問題なく裁量濫用︵卑B①ωω自ω目茜ぼ窪9︶という違法とな. る︒だが故意がない場合には官庁が公益だというものが実際に公益に反しても公益だとするしかないのか︒. しかしそう解してはおかしいのである︒だれがみても絶対に公益だとは思わないものを考えてみよ︒これをも公益. だというのなら今引用した文にある﹁自由裁量はおこなわれた処分の性質が決定されうるであろう法律上の基準が与. えられていないということに存する﹂という論述はどうなってしまうのであろうか︒また官庁は自由裁量の領域では ︵12︶. ﹁法律によって同様に正しいと明言された二つもしくは数種の行動のうちのいずれかを合目的性の考慮︵O毛震ε1. 三感冨葺畠巴o馨窪︶により選択する﹂というピ程昌氏の自由裁量の理解はどうなってしまうのであろうか︒この点か. らみれば客観的に公益に反するものまで公益だといえるわけはないのである︒この点で﹁公益とは管轄している機関. が好むものではなくて︑その機関が最善のものとそして最も適当なものと認めかつ認めるであろうもの︵壽ω8︹鼠ω ︵13︶ N易鼠且茜①O濃きのこと1筆者注︺巴ωα霧切8富仁且08貫づo富譜①詩窪旨q昌≦巳︶である﹂とのべていることが. 注目されなければならない︒そして以上のことからみれば次のようにいえよう︒﹁官庁が公益だと思うものは︑法的. 意味において︑実際に公益である﹂という言葉の中にある公益とは︑公益目的には合っているのであるが︑その合っ. ているものの中で最善のもの︑最も適当なものをさしているとである︒すなわち公益11最善の公益という使い方を. しているのである︒つまり最善の公益とは何かという﹁法律上の基準﹂が与えられていないがために選択の自由が存. するのである︑だから官庁のいうものを最善の公益だとするしかないということなのである︵それが自由裁量であ. 二七七. る︶︒だが客観的に公益に反するものはこの公益︵自由裁量︶には入らないのである︒このようなものであるから霊巨 我国裁量理論へのピ窪昌説の導入︵一︶︵高橋靖︶.
(16) 早稲田法学会誌第二九巻︵一九七八︶. ︵14︶. 氏には自由裁量の定義との関係で理論矛盾をきたすような反法治主義的な面はないのである︒. 二七八. ⁝. 五佐々木氏の場合には公益原則をみても﹁行政の活動は公益に適するを要す﹂とのべているだけで︑最善の公益. に適するを要すとはいっていないから富巨氏のようには理解できないのではないかという疑問が出るかもしれない︒. 最善の公益と. だがやはり公益鮭公益という目的にかなうものの中での最善の公益と理解するしかないであろう︒すなわちそうしな. ければ三で指摘したようにその自由裁量の定義とは矛盾したものとなるからである︒このように公益. いう意味で先にあげた佐々木氏の反法治主義的ではないかという文章を読んでみればその疑念はきえるのではなかろ ヤ. ヤ. ヤ. うか︒もっとも佐々木氏自身がこのような意味で考えていたかは疑間なのであるが︑彼の理論に影響を与えている. 最善の公益だ. ピ曽琶氏がこのような考え方をしているのだとすればやはり同様であったと善意に解釈してもさしつかえなかろうと 思う︒さもなければ定義との関係で理論矛盾がおきることになるからである︒. だが二において度外視しておいた限界論との矛盾点はいかんともしがたいのである︒すなわち公益. 別々におこなっ. としようと︑比例原則や平等原則からみれば︑公益認定は絶対に違法とはならないとはいえないのである︒結局この点. については自由裁量についての論述と裁量限界論の論述を1相互の関係を考慮することなしに. たからであると考えるしかないであろう︒自由裁量はこれこれだと論じた後にだが裁量限界論による制限があるとの. べる︑だが相互の関係を考慮して理論構成をしているかというとどうもそうはいえない︑つまり自由裁量論と裁量限. 界論の二元的な理論構成をなしている︒私はこのような思考法を裁量二元論とよびたい︵詳細な別の論文にゆずる︶ のだが︑まさに佐々木氏はこれにあたるのである︒.
(17) 佐々木﹁行政機関の自由裁量﹂法と経済一巻一号二八−二九頁︑同﹁自由裁量︵二︑完︶﹂京都法学会雑誌九巻一二号 三五ー三六頁︑同﹃日本行政法論総論﹄七五三︑七五四頁︒ 佐々木・法と経済一巻一号三二−三五頁︒. 杉村敏正﹁自由裁量論の検討﹂︵一九六三年︶﹃法の支配と行政法﹄︵一九七〇年︶所収一九一頁︒. ︵1︶. ︵2︶. 佐々木・同右三三頁︒なおこの法と経済一巻一号︵一九三四年︶以前の論文ではこの権限の瞼越といってもよいものしか. 佐々木・同右三二頁︒. ︵3︶. ︵5︶. ︵4︶. 論じなかったにすぎない︵同右四〇頁︶のではあるが︒なお用語の点での注意事項であるが京都法学会雑誌九巻二一号四〇. 裁量限界論として論じていなかった︵佐々木・京都法学会雑誌九巻一二号三五−三六︑四〇頁︶︒もっとも﹁都合二依リ﹂. 佐々木・法と経済一巻一号三二−三三頁︒. 二七九. のは本文でいう﹁裁量濫用﹂とはちがい﹁裁量限界論﹂というような意味で使われているにすぎないであろう︒. 頁では︑この権限の瞼越といってもよいものは﹁裁量濫用﹂の問題に属するとしていたが︑ここでいう﹁裁量濫用﹂という. ︵6︶ ︵7︶. 佐々木・京都法学会雑誌九巻一二号三一頁︑同﹃日本行政法論総論﹄六〇一︑六〇二︑六〇六頁︒. 佐々木・ 同 右 三 四 − 三 五 頁 ︒. 佐々木・法と経済一巻一号二二頁︒. N①㎝●. ︵9︶. ︵8︶. ω●一誤隔h. い帥gPoげユ4ω.89. ピ印β戸①げα. ピ帥自PU窃砕o一〇国吋ヨ①ωω①昌g昌ユω①ぎoO﹃o昌NoPω︒①㎝占①︒. ︵12︶. 佐々木・法と経済一巻一号二一︑二八頁︒. ピ帥信7①げユ. ︵n︶. ︵10︶. ︵13︶. ω●①9. ︵14︶. 我国裁量理論へのい壁昌説の導入︵一︶︵高橋靖︶.
(18) 早稲田法学会誌第二九巻︵一九七八︶. 五. 二八〇. 佐々木氏は哨九=二年の﹁自由裁量﹂︵京都法学会雑誌九巻五︑一二号︶という論文では自由裁量が法規の要件の部分. にあるのか効果の部分にあるのかについてはのべていなかった︒それは美濃部氏の初期の論文︵﹁行政裁判所ノ権限ト. 所謂自由裁量問題﹂法学新報二〇巻一〇︑二号・一九一〇年︶においても同様である︒佐々木氏は一九三四年の﹁行政機 ︵1︶ 関の自由裁量﹂︵法と経済一巻一号︶において要件裁量説をとっていることを明示的にのべるのであるが︑この明示への. きっかけを与えたのは国家学会雑誌四五巻三・四号︵一九三一年︶掲載の田中二郎氏の論文﹁行政裁判所の権限より. 観たる自由裁量問題﹂︵﹃行政争訟の法理﹄一九五四年所収︶であったであろう︒田中氏はこの中で﹁行政庁に認められる. 自由裁量とは﹂佐々木氏等のいうような﹁法律要件に該当するや否やの点に非ずして︑客観的標準によりかかる法律 ︵2︶ 要件に該当することが認定された結果︑かかる処分を為すと為さざるとの自由が認められるや否やの点にある﹂とし︑. 要件裁量︑効果裁量という区分そして自分は効果裁量説をとることを明確に主張したのである︒. では佐々木氏のいうところをみてみよう︒﹁行政機関が自由裁量を為すとは其の標準を選択すること﹂であり﹁其. の活動に付て云ふのでない﹂として︑要件についての自由裁量を認め効果についての自由裁量を認めていない︒なぜ ︵3︶. ︵4︶. なら活動の標準すなわち要件を認定して﹁行政官庁が其の処分を為さないならば︑それは或は社会の秩序の危害を生. じ或は公益に適せないこと﹄なるから﹂だという︒ここにいわゆる要件裁量説を認めているのである︒. もっとも一九二二年の﹃日本行政法論総論﹄で﹁以上ノ場合二行政機関力必要二応シテ或行政処分ヲ為スヲ得ト云フモ決. シテ行政機関力私意ヲ以テ之ヲ為スト否トヲ決シ得ルコトヲ意味セス︒行政機関ハ常二公益二適スルノ行政処分ヲ為ササル. ︵1︶.
(19) ︵2︶. ヘカラス︒右ノ場合ト錐其ノ行政処分ヲ為スコトカ公益二適スルトキハ之ヲ為スヘク︑其ノ公益二適セサルトキハ之ヲ為サ. サルヘキモノナリ﹂︵六〇五−六〇六頁︶とのべている箇所は効果裁量を否定しているともとれよう︒. 田中二郎﹃行政争訟の法理﹄二五〇頁︒美濃部氏も一九二八年の﹃行政裁判法﹄一一八頁において同じことをのべている. のではあるが︑ここでは田中氏の論文が佐々木氏を批判の対象にしたからその反論として佐々木氏が要件裁量説を明確に主. ︵3︶. ピき昌氏は要件裁量.効果裁量というようなことを明確にはのべていない︒だが前述のピ帥仁昌氏の自由裁量の内容からみ. 佐々木.法と経済一巻一号三五−三六頁︒渡辺宗太郎﹁裁量処分﹂法学論叢三一巻三号一七一−一七二頁も同旨︒. 張するきっかけがあったと考えているのである︒. ︵4︶. れば要件裁量説をとっているといえよう︒あるいは&o切魯α包①犀彗ロもしくは一ω叶ぽ盆oqけ等の言い回しは︑多くは島o. ことからもこの趣旨はうかがえると思う︒ただし大よそそうだというにすぎず︑日g励との対応で犀. 5ロが使われている時に. 国魯α&①ωo一一もしくはヨβ腕と同義であるといっている︵い餌βPU器砕①8国﹃日①器8目Pαの①ぎoO冨自o戸ψoo㌣oo9︶. は自由裁量を与えたものだということは疑いないといっている︵ピ窪耳魯ρψoo刈︶︒. 六 ︵1︶. 以上のように佐々木氏の理論は極めてピ帥彦氏と類似しておりその影響は明らかであろう︒もっともピ帥毒氏は普. 遍妥当的な原則を求めそれを理論構成するという方法をとったのであるから︑佐々木氏にうけいれられる基盤はあっ たといえようが︒. 佐々木氏は法実証主義的だといわれるのであるが︑ここでは佐々木氏が要件の空白規定の場合には法規がないのだ. 二八︸. から自由裁量だとすることにより法実証主義的な側面を一貫させていることがうかがわれるということだけを指摘 し︑佐々木氏の考察方法︵態度︶のより詳しい点は第三章にゆずることにする︒ 我国裁量理論へのピ塁昌説の導入︵︸︶︵高橋靖︶.
(20) 二八二. 一き昌氏は自由裁量とその限界に関する自然的法原則︵色oき慈島魯8国9耳濃旨昌α織什器︶を提示しようとしたとのべ. 早稲田法 学 会 誌 第 二 九 巻 ︵ 一 九 七 八 ︶ ︵1︶. ことではなく︑本文のような意味で使っていることに注意︒. ている︵ピきPU器沖色o国﹃ヨo器①口q昌ユ紹置①O器醤oPψ一一R︶︒もっともこの自然的法原則とは自然法の原則という. 第二章美濃部達吉氏の自由裁量理論 序. 佐々木氏の理論は︑前章でのべたようにピm⁝氏の理論とほとんど同じなのであるが︑この点については従来から. そのような指摘はあったのであり︑よって佐々木氏と審琶氏との類似を指摘しても不思議とは思われないであろ. う︒ところが美濃部説に審⁝氏の理論が導入されているというと疑問に思う人がいるかもしれないので︑まず私が. 本論文において何をもって美濃部氏が園琶説を導入していると考えているのかを明らかにしておこう︒ ︵1︶. ﹁美濃部にとっては︑憲法学におけるイェリネックの場合とほとんど同時に︑行政法学におけるオット・マイヤー. が位置づけられていた﹂と評される︒では自由裁量理論の場合はどうか︒私は︑自由裁量理論の場合には︑98. 冒曙震氏をまったく参照していないとはいわない︒例えば編束行為と自由裁量に区分した上で︑その自由裁量内で. さらに狭義の自由裁量︵美濃部氏はこれを便宜裁量︑公益裁量等の言葉でよんでいる︶と覇束裁量︵美濃部氏はこれ. を法規裁量とも合法性の裁量ともよんでいる︶に二分するという考え方は︑98鼠塁R氏の影響であろうし︑また. ωユ零ωo巨o氏の影響でもあろうと考える︒あるいは﹁汝ノ最モ能ク公益二適スト信スル所ヲ行へ﹂という公益原則.
(21) ︵2︶︵3︶. の法的性質について美濃部氏が論じている箇所も︑O暮o蜜昌R氏の考え方の影響があるであろう︒だから私は︑美. 濃部氏の自由裁量理論には審巨氏の影響のみがあるといっているのではない︒. 私が罫巨説が導入されているといいたいのは︑美濃部説といわれる場合に常に語られるものについてである︒そ. れは自由裁量と羅束行為︵轟束裁量を含む︶をわけるかの三原則についてである︒一言でいえば人民の権利・自由を. 侵害する処分の場合は羅束行為でそれ以外は自由裁量だという区別の基準︵私はこれを第一の不文法の問題とよびた. い︶についてなのである︒これが美濃部説の最も重要な点なのであるが︑このような基準がO詳o冒昌震氏やωユRI. ωo旨δ氏にあったであろうか︒答えは否である︒それどころか彼らは︑自由裁量と驕束行為をわける基準自体を論. じていないのである︒現に塩野宏氏は︑98冨昌R氏には﹁自由裁量と然らざるものとの関係についてその本質的 ︵4︶. 相違は語られていても︑その区別に関する厳密な見解を見出すことはできない﹂とのべているし︑また富琶氏は. ω膏7ωo巨o氏について︑﹁我々は︑いつ行政が﹃単なる執行︵<o一巨①言凝︶にすぎず﹄︵要するに羅束された行為. であるということ1筆者注︶︑そしていつ行政が自由裁量を有するのかということについての詳細な論究を期待し ︵5︶ ている︒だが︑まさしくそれは説明されていない﹂としている︒. しかし98竃昌R氏等にはそのような基準はなくても︑美濃部氏自身の翻訳した98冒塁R氏の書にある. ような法律の留保の原則︵﹃独逸行政法第一巻﹄一二七頁以下︑原著ψ謹魯︶を参考にして︑美濃部氏自らがこのような. 基準を作ったのであるという人がいるかもしれない︒だがそれには次のような反論をおこなうことができると思う︒. 二八三. 罫毒氏のU器ヰ90騨目霧ω9仁且ωoぎoOお冒窪は︑一九一〇年︵明治四三年︶の出版であることをまず注意 我国裁量理論への一碧⇒説の導入︵一︶︵高橋靖︶.
(22) 早稲田法学会誌第二九巻︵一九七八︶. 二八四. しておこう︒私は︑美濃部氏の理論が︑明治四二年︵一九〇九年︶と明治四三年︵一九一〇年︶とで変っていること. に注目したいと思う︒国家学会雑誌二三巻二一号︵明治四二年二一月︶の﹁行政裁判法一斑﹂と題する論文中の﹁行. 政裁判所ノ権限﹂という項目において︑美濃部氏は次のようにいう︒﹁行政法規二在リテモ亦成文ノ法律命令ハ唯大. 体ノ標準ヲ定ムルニ止マリ︑其詳密ナル法則ハ時ノ事情二応シ各個ノ場合二之ヲ裁定スベキモノトシテ︑成文ヲ以テ. ち. ち. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ち. ヤ. ち. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ち. ヤ. ヤ. ヤ. や. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ハ之ヲ規定セザルモノ甚ダ多シ︒此ノ如キ場合二之ヲ裁定スルハ決シテ真正ノ意義二於ケル自由裁量ニハ非ズシテ︑. ︵6︶. 論理ノカニ依リ立法者ノ意思ヲ推測シテ此ノ場合二何ガ法ナルカヲ認定スルニ外ナラズ︑即チ等シク法規間題タルナ. リ﹂︵傍点筆者︶と︒要するに法規が厳密に規定していなくてもある不文法が存在するから自由裁量ではないといって. いるのであるが︑本文に傍点をふした箇所がその不文法についてのべている所である︒美濃部氏は後述のように︑. 羅束行為とするための不文法には二つの不文法があるとしているのであるが︑ここでいっているのは第二の不文法. 法律の解釈・適用でいわれる法律の意思のことだといえよう︒そしてさらにこのような不文法の拘束あるものとして. 次のような例をあげている︒﹁例ヘバ市町村制ニハ市町村公民ガ市町村名誉職ノ担任ヲ拒辞シタル場合二於テ︑市町村. 会ガ相当ノ理由ナシトナシテ其ノ公民権ヲ停止シタル場合二︑之二不服ナルモノハ行政裁判所二出訴シ得ベキコトヲ. 認ム︒其ノ如何ナル場合二相当ノ理由アリト看倣スベキヤニ付テハ法律ハ明文ヲ設ケザルヲ以テ︑学者ハ或ハ之ヲ自. ︵7︶. 由裁量問題トナスモノアレドモ︑是ハ等シク法規問題タルモノニシテ︑性質上行政裁判ノ問題タルヲ妨グルモノニ非. ズ︒﹂﹁例ヘバ営業ノ免許二付テモ法律ハ多クノ場合二於テ︑唯何何ニハ何大臣ノ免許ヲ受クベシトイフガ如キ規定ヲ. 設クルニ止マリ︑如何ナル場合二免許ヲ与フルヲ要スルカニ付テ明ナル規定ヲ設ケズ︑随ツテ免許ヲ拒ムコトハ常二.
(23) ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. め. ヤ. ち. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヘ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. 官庁ノ任意ニシテ之ヲ違法処分トイフヲ得ザルガ如シト錐モ︑是ハ法律ノ正当ナル解釈二非ラズ︑法律ニハ仮令明文. ナクトモ︑其免許ヲ拒ミ得ヘキ場合ハ法律上自ラ一定ノ標準ガ定マレルモノニシテ︑狼リニ免許ヲ拒ムハ違法ノ処分 ︵8︶ トイフベク︑随ツテ行政訴訟ヲ起シ得ベキ事件タルナリ﹂︵傍点筆者︶︒このように明治四二年︵一九〇九年︶一二月の. 段階では第二の不文法による説明はあるが︑私の名づける第一の不文法にあたる﹁人民の権利自由を侵害する場合に. は云々﹂という説明はなされていないのである︒ところが明治四三年︵一九一〇年i富琶氏のU窃ヰoδ野ヨ?. ωの自琶αωo冒①08づ目もこの年に出版されている︶五月出版の﹃日本行政法第二巻﹄のやはり同じ﹁行政裁判所. ノ権限﹂の項目で論じられている自由裁量問題は︑その説明がかわっているのである︒つまり第一の不文法︵表面的. には比例原則のことだが︑私は法律の留保の原則の理念のことだと思う︶がその中に入っている︑すなわち人民の権. 利・自由を侵害する処分の場合にはこの不文法の適用があって驕束行為であるということがのべられているのである︒. ヤ. ヤ. ち. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ﹁法律力一定ノ事実ノ具備ヲモ要件トスルコトナク或ル行政行為ヲ為スト為サ﹄ルトヲ以テ全ク官庁自身ノ適宜ノ裁. 量二任シタルカ如ク見ユル場合二於テモ︑少クトモ︑公益上ノ必要アルニ非サレハ臣民ノ自由ヲ制限スルヲ得サルコ. ト︑其ノ自由ノ制限ハ公益ノ必要ト相比例スヘキコト︑同様ナル事情ノ下二於テハ臣民ハ常二同等ノ権利ヲ有スヘキ. コト等︑此等数多ノ法則︵此等ノ法則二付テハ各論編各章殊二警察法ノ章参照︶︵この段階では平等原則等も含めている. が︑後年には説明上は比例原則のみになるf筆者注︶ハ明文ヲ待タサル不文ノ法規タルモノニシテ︑此ノ限度二於テハ官. 庁ノ行為ハ当然法律上ノ編束ヲ受クルモノナリ︒故二例ヘハ営業ノ免許二付テ法律力単二﹃何々ヲ為スニハ何大臣ノ. 二八五. 免許ヲ受クヘシ﹄ト云フカ如キ規定ヲ設クル場合︵これは明治四二年二戸の論文中の後者の例と同じー筆者注︶ト難モ︑ 我国裁量理論へのピ帥仁昌説の導入︵一︶︵高橋靖︶.
(24) 早稲田法学会誌第二九巻︵一九七八︶. 二八六. 其ノ免許ヲ拒︑・・得ルハ唯公益上ノ必要アル場合ニノミ限ラルヘク︑若シ公益上ノ必要ヲ証明スルコト能ハサルトキハ ︵9︶ 其ノ免許ノ拒絶ハ違法処分ニシテ︑行政訴訟ノ目的タルヲ得ヘキモノナリ﹂︵傍点筆者︶というようにである︒ ︵10︶. 騨⁝氏が一九一〇年の著書で︽法律が全く沈黙している時にも︑行政は個人の権利領域と自由領域に制限を見出. し︑これらの侵害を意味する時には自由裁量は考えられない︾としている点を美濃部氏は参照した︑それが以上のよ. うな明治四三年︵一九一〇年︶を境とする美濃部氏の変更となったのではなかろうか︒もちろんこのような場合に存. する拘束を比例原則等で美濃部氏は説明しているが︑その考え方の基本は同じだといえよう︵前述の明治四三年の例. では要件の空白規定の場合について美濃部氏も問題にしていることにも注意︶︒法律の留保の原則を参考にしてその. 基準を作ったのではないかというのならば︑なぜ明治四二年の論文にはその趣旨が入っていなかったのであろうか︒ ︵n︶. また﹃日本行政法﹄の各巻は︑明治四一年︵一九〇八年︶より東大でなした講義案であるにせよ︑﹁講義の稿本に. 柳補訂を加へたるもの﹂を出版しているのであり︑一雲旨氏の書よりも前にその考え方はあったとはいいきれまい︒. 実は罫⁝氏の著書は一九一〇年の何月に出版され︑そして日本にいつ入ってきたのかは不明なのであるが︑以上の. ような美濃部氏の一九一〇年︵明治四三年︶の変更︑そしてピ曽⁝氏の著書とその変更が同一年代であったことから ︵12︶ みて︑ピ帥⁝氏の理論に美濃部氏のかの三原則の根本は影響をうけていると考えるのが妥当ではなかろうか︒そして. 同年一九一〇年の一〇︑一一月に法学新報二〇巻一〇︑一一号において発表された﹁行政裁判所ノ権限ト所謂自由裁 ︵13︶. 量問題﹂において︑ーまだ後年のように洗練された形ではないがーそのいう第一の不文法を具体化するものとし. ての三原則が︑はじめて体系的に論じられることになっていくのである︒私はこのような美濃部説の中心である︑い.
(25) な美濃部説そのものといってもよい三原則が審琶氏の理論に影響をうけたということで︑美濃部氏の自由裁量理論 もい四⁝説の導入であるといえると思っている︒. さて︑次巻以降に第一章での佐々木氏の理論の検討と同様な形で︑美濃部説の検討をおこなっていこうと思う︒ 一六四頁︒. 奥平康弘﹁美濃部達吉﹂潮見︑利谷編﹃日本の法学者﹄︵一九七五年︶. 一九〇. ︵−︶. 〇3︵美濃部訳﹃独逸行政法第一巻﹄ H>9一・﹂毘・朗一〇. なおここにいう美濃部氏に影響を与えたO暮o寓塁R氏︑ω鼠雫ωo巨o氏の理論とは︑次のものに含まれている理論のこ. おOoo︸ω﹂合律. 賃昌儀ヨ碧①ユ色o菊9窪玲﹃餌津︵一〇〇〇 〇 ①︶の四九頁にあるとしているのだが︑これは実は誤りで本当はω・&なのである︒O洋o. 美濃部氏は﹃日本行政法第二巻﹄︵一九一〇年︶八四四頁で︑このような公益原則の定式は︑ωR尽蔚鍔力8年沼需昌βμ磯. 三年yω二震あo目一ρU器ヰ蝕o国﹃ヨ8ω窪冒菊8奔呂器9二b晦仁昌α<①﹃類巴9づ堕蜀窃眞書o︷静一帥σきα. とである︒O辞o竃鎚震・Uo暮ω90ω<巽毛巴9昌暢お9. ︵2︶. ︵3︶. 蜜曽巻5U窪富98<o﹃名巴葺昌暢おo冥の邦訳である美濃部﹃独逸行政法第一巻﹄二九四頁注︵一〇︶にも︑一WR召9爵氏の. 公益原則は︑誤ってlO算o蜜餌鴇R氏の原文︵ω︒一①ρ>口B9εしは誤っていずω︒&とあるーやはり四九頁にあると も. う. している︒この点からいっても1別に皮肉をいっているわけではないがー美濃部氏がO詳o客曽属震氏のU窪房畠窃. 二八七. 塩野宏﹃オットー・マイヤー行政法学の構造﹄︵一九六二年︶一三六頁︒なお一餌二PU器ヰ虫①国﹃ヨ8紹昌仁昌α器凶器. くR名巴9ロ磯霞8算を参照していることは明らかである︒ ︵4︶. ピ 仁戸oびα ψa︒. O器目①7這一ρψωOo︒も同旨である︒ ︵5︶. 同右一五ー一六頁︒. 美濃部﹁行政裁判法一斑﹂国家学会雑誌二三巻二一号一五頁︒ 同右一六頁︒. ︵6︶. 美濃部﹃日本行政法第二巻﹄八四六−八四七頁︒. ︵7︶. ︵9︶. ︵8︶. 我国裁量理論へのピ窪旨説の導入︵一︶︵高橋靖︶.
(26) 早稲田法学会誌第二九巻︵一九七八︶. 美濃部﹃日本行政法第一巻﹄︵一九〇九年︶序一頁︒. ぎ蔭P鉾鉾O. 900㌣Oρ. ︵n︶. 二八八. に其の裁量権の限界を見出す﹄との原則は︑法が一義的に行政行為を確定して居る場合の外は︑常に適用あるべき裁量権の. 戦前は美濃部説と同じであった田中二郎氏が﹁い帥G昌が法の規定なき場合の標準として掲げた﹃行政権は国民の権利自由. ︵0 1︶. ︵2 1︶. ふ﹂︵﹃行政争訟の法理﹄一九五四年︑二五八頁︶とのべていることもみよ︒. 美濃部﹁行政裁判所ノ権限ト所謂自由裁量問題︵承前︶﹂法学新報二〇巻一一号五八ー五九頁参照︒. ︵未完︶. 限界といはねばならぬ︒上述の意味に於て︑美濃部博士が区別の基礎標準として示される次の三原則が首肯せられると思. ︵13︶.
(27)
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