論 文 概 要 書 「 日 本 統 治 時 代 台 湾 と ロ シ ア 人 」
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(2) 対する作業内容は各章で説明した。 基本作業は、各章の人物が書き残した文書、書物や、出来事 に関す る文献、記録類の解読、分析である。それから彼らが空間移動し、そ の結果なしとげられた仕事がどう三国を結びつける事象になったのか を明らかにするために、それぞれの時代の日・ロ・台を取りまく種々 の文脈を参照した。 その文脈は、大きく見れば、それぞれの国の政治的社会的文化的環 境 全 般 と 捉 え ら れ 、公 私 を 問 わ ず 、関 係 資 料 、文 献( 一 例 、 『台湾日日 新 報 』)か ら そ れ を た ど っ た 。範 囲 を し ぼ っ て 見 れ ば 、各 人 物 に 関 連 す る分野の研究史(博物史、伝道史など)や、彼らが渡航した当時の歴 史的状況もその文脈となる。 各章の人物は同時代人ではなく、相互に面識もなかった。そこで本 論文を展開する上で、全体を関連づける視点が必要となる。ここで導 入したのは、歴史学者山室信一が「連鎖視点」と呼んだものである。 山室はそれをこう定義づけている。 あ ら ゆ る 事 象 を 、 歴 史 的 総 体 と の 繋 が り の 中 で と ら え 、逆 に そ れ によって部分的で瑣末と思われる事象が構造的全体をどのよう に構成し規定していったのか、を考えるための方法的な視座 1 言葉を換えると、人と人、出来事と出来事、史実と史実の間につな がりを見る視点である。 「 人 間 の 社 会 は 、時 間 や 空 間 を 超 え つ つ 、し か も 繋 が っ て い る は ず の も の 」、こ う し た 歴 史 観 、世 界 観 に も と づ い て「 連 鎖視点」は提起されている。 本論文の各対象を歴史的時間軸上に孤立して散在する点として見る のではなく、 「 歴 史 的 総 体 と の 繋 が り の 中 で と ら え 」る な ら 、一 見 す る と「部分的で瑣末と思われる事象」であった対象が三国をつなぐ構成 分子として立ち現れるはずである。歴史上のエピソード的な一齣では な い 、「 構 造 的 全 体 」 を 構 成 す る 事 象 と 認 識 す る た め に 、「 連 鎖 視 点 」 が有効な視座であることはまちがいなく、本論文でも方法のひとつと して採用した。 ただし、山室は「そこにどういう繋がりを見出してくるのかは、そ れを見る人の関心や歴史観によって大きく異なってきます」と付言し ている。 「 部 分 的 で 瑣 末 と 思 わ れ る 事 象 」や 見 出 さ れ た つ な が り を 特 権 1. 山 室 信 一『 日 露 戦 争 の 世 紀 ― 連 鎖 視 点 か ら 見 る 日 本 と 世 界 ― 』、岩 波 新 書 、 2005 年 、 ⅴ 頁 。. -2-/8.
(3) 化するのではなく、それらの「恣意的な選択」性に留意しておかなけ ればならない。 本論で取りあげる人々、特にロシア人はなぜ異郷の地へやって来た のか、そこで何を見、どう感じたのか。換言すると、それは他者との 出会いに関わる問いである。扱う対象は異なっても、この問題意識、 観点は一貫して維持した。三国にまつわる歴史は一回的な出会いの積 み重ねである。そうした歴史に向き合うために、この観点を貫くこと が本論文のもうひとつの方法である。 各章概要 <第一章> まず海軍軍人パーヴェル・イビスの台湾探検の背景にあって、日ロ 台の出会いをもたらした国際情勢を明らかにした。 1873 年 日 本 は「 修 好 條 規 」に よ っ て 清 国 と 平 等 条 約 を 結 ん だ 。し か し 、牡 丹 社 事 件( 1874 年 )を 契 機 に 、日 本 は そ れ を 反 故 に す る よ う な 軍事行動におよんだ。もっとも、欧米諸国から見れば、日本軍の台湾 出 兵 は 国 際 法 (「 万 国 公 法 」) に 則 っ た 行 動 で あ り 、 そ れ ゆ え 概 し て 全 面的に非難するメディアは少なかった。 しかし、そうした中で微妙に異なったのがロシアであった。 極東進 出をもくろむロシアは、新興国家日本の領土拡張策を警戒していたか ら で あ る 。イ ビ ス が 乗 船 し た ア ス コ リ ド 号 が 極 東 に 配 備 さ れ た こ と は 、 そうした警戒のひとつの現われであった。 富国強兵を掲げた日本は、植民地の獲得をめざし、やがて矛先を台 湾 へ 向 け て い っ た 。他 方 、19 世 紀 の 半 ば 、そ れ ま で 未 開 の 地 と さ れ た 台湾はにわかに列強の領土拡張政策の波に巻きこまれ、その後、近代 兵力に訴えた日本と直面した。そして、そうした日本の領土拡張の野 心を警戒したロシアは、事実上初めて台湾の存在を意識することとな った。いわば三国の視線はこの時交差したということができ、イビス の渡台と「フォルモサ紀行」はまさにその交差からもたらされたので あった。 「 フ ォ ル モ サ 紀 行 」 を 解 読 し て 判 明 し た こ と は 、 そ れ が 1870 年 代 当時の台湾原住民族のフィールドワークの貴重な記録であり、また日 本軍の撤退まもない頃の台湾島の様子や一般の生活風景を生々しく伝 えていることであった。さらに、イビスのフィールドワークからは、 原住民族をたんに分析・分類するための調査対象ではなく、他者とし て接し、彼らのしきたりを尊重する姿勢が看取された。その結果、原 -3-/8.
(4) 住民族もイビスを遠来の客人として迎え入れた。ここに優れた異文化 交流のひとつの形を見ることができよう。 <第二章> 博物学者モリトレフトの渡台当時、なお原住民族の抵抗は頻発して いた。台湾島内、とりわけ山地を歩きわまるのは安全とはいえない情 勢であった。では、そうした命の危険を押してまでやって来たモリト レフトの目的は何であったのか。本章はまずその問いから出発した。 直接の契機は帝室ロシア地理学協会の委託による昆虫胡蝶類の採集 であった。前世紀以来、台湾は世界の博物学者の垂涎の地となってお り、ロシアの博物学界も「博物学未開の地」台湾の調査に乗り遅れま いとしたのである。モリトレフトは台湾で貴重な胡蝶類を発見し、彼 の名で学名が付けられた種もあり、その調査探検は台湾昆虫学史にお いて記録される事業となった。 それだけでなく、モリトレフトの台湾探検の意義は原住民族調査の 面でも指摘できた。島内各地の集落を訪れ、観察した記述は、総督府 による本格的な調査事業がまだ開始されていない時期を考慮すれば、 価値ある成果と評価できる。 ただし、モリトレフトの記述自体にいささか疑問を抱かせる点のあ ることも指摘しておかなければならなかった。あたかも原住民族をモ ノ的な分析・分類対象として見て、イビスのように他者に対する姿勢 があまり感じられなかったことである。しかし、それでもモリトレフ トのまなざしは、総督府の統治政策の進行と、それによって変容して いく伝統的な風俗習慣の様子を捉えていた。その客観的記述に個人的 な見解は直接披瀝されていないにしても、日本統治下の台湾の変容と 現状を読みとることは可能で、そこにも彼の報告書の歴史的価値は見 出せる。 モリトレフトの報告は後年『帝室ロシア地理学協会誌』に掲載され た。管見のおよぶ限り、台湾関連の論文が同誌に載ったのはこれが初 めてである。それを勘案すれば、ロシアに初めて日本の植民地経営の 一端や台湾原住民族の新奇な生活を報告したモリトレフトの仕事は貴 重であり、あらためて顧みるに値しよう。 <第三章> 東京神田のニコライ主教を中心とした日本ハリストス正教会本部内 の台湾伝道をめぐる議論、派遣された日本人司祭、在台正教徒と彼ら -4-/8.
(5) の活動、それらの背景にあった総督府の宗教政策および「内地」の各 宗教宗派教派の動向などを検討した。 明治期の正教会は多数の信徒を誇り、他のキリスト教諸派と比べて も、教勢は決して引けを取らなかった。それにもかかわらず、台湾伝 道では大きく遅れを取った。その理由として考えられたのは、1)内 地宗教による台湾伝道の全般的な不調と、2)正教会自体の内 部的、 固有の問題の二点である。 1)について。総督府は台湾人を「日本人」化する文教政策を推進 したが、宗教に関しては、基本的に不干渉の姿勢を取った。また内地 宗教の当事者たちの問題として、伝道活動を日本語で行ったことは見 逃せない要因であった。それは現地住民との意思の疎通を妨げる結果 へつながったからである。正教会も事情は同じで、日本語のみが通用 する限られた日本人信徒集団を越えて教勢が広がらない結果になった ( 少 数 の ロ シ ア 人 信 徒 、本 島 人 信 徒 が 存 在 し た に し て も )。本 章 は そ う した点を明らかにすることができた。 2)について。台湾の正教会と内地の正教会では、当然置かれた環 境は異なった。たとえば、日本とロシアの長い二国間の歴史の過程で 生じた対ロ観は、 「 内 地 」の 正 教 会 の 勢 い を 左 右 せ ず に は す ま な か っ た 。 それに対して、ロシアと利害衝突したことのない台湾では、いわゆ る恐露感や嫌露感によって教勢に悪影響がおよぼされた様子はうかが えなかった。それでも、内地正教会の弱化が台湾の正教会にまで波及 してしまうことは避けられなかった。それから、台北と嘉義の教会の 事実上の住み分け状態や、常住司祭がいなかったこと(正確にはひと り い た )、在 台 信 徒 間 の 連 携 の 希 薄 さ な ど 、台 湾 正 教 会 が 衰 微 、消 滅 し た原因として、こうした点が指摘できた。 しかしながら、正教会が台湾に根付かなかったのは事実としても、 領台早々の混乱した時期にやって来て、自発的に伝道活動を開始し、 正教会を広めようとした日本人信徒たちの努力を忘却したままでよい はずがない。ロシア発のキリスト教が日本(人)を経由して、台湾で 伝道されたのである。ここに日ロ台間の文化、ヒトの流れがあること を本章は示しえたと考える。 <第四章> 東洋学者ネフスキイは来日以来、各地の民間信仰、日本古来の風習 習 俗 を 調 査 研 究 し た 。と こ ろ が 、1927 年 夏 、突 然 台 湾 阿 里 山 に 暮 ら す ツォウ族の村へ出かけた。その目的と、それまでの自らの日本民俗学 -5-/8.
(6) 研究とはどのように結びついていたのか。これが本章の第一の課題で ある。 ネフスキイ自身は、数いる原住民族の中からツォウ族を選んだ理由 をどこにも明記していない。そこで、ネフスキイを台湾、ツォウ族へ 誘ったと考えられる種々の要因から推論し、彼らを取りまく歴史的社 会的状況に注目した。検討項目として、交通、法制、メディア、学問 の四つを立てた。これらはいわば<ヒト・モノ・情報>の流通を可能 にするものと考える。 そ れ ら 四 項 目 の 検 討 の 結 果 、次 の よ う な こ と が 判 明 し た 。ま ず 1927 年当時、台湾への渡航はもちろん、阿里山への旅もさほど不便を感じ させないほどに交通機関が整備されていたことである。交通機関の発 達は周辺地域の治安の安定を前提とするが、事実、阿里山ツォウ族に は、当初から総督府施政に対する目立った抵抗の記録は見出せなかっ た。 他方、日本側は「呉鳳伝説」や「マーヤ伝説」に着目し、彼らをあ たかも「優良蕃人」として持ちあげ、日本との親近性をアピールして いったように見える。それから日本民俗学や言語学の中に「クマ・ソ 説」への注目があり、日本人と台湾原住民族の同祖説、日本人南方起 源説があったことも見逃せない。こうした諸々の状況、言説が直接、 決定的にネフスキイに作用したのではなかったにしても、渡台に先立 つ状況証拠として留意しておく必要がある。 もともとネフスキイの日本での研究対象は神道であった。しかし、 それは国家神道や既存の神道ではなかった。世界各地に見出されるア ニミズムやシャーマニズムともつながる、いわば古日本人の精神のあ り方であった。逆にいうと、日本の原=信仰を追求しつつ、日本列島 を越え、異文化の世界に住む人間にも通底する思考構造へ目を向けよ うとした。したがって、ネフスキイが一国民俗学でなく、比較民族学 に与したのはゆえないことではなく、台湾、ツォウ族へ関心を持った のも不思議とはいえないのである。 では、台湾、ツォウ族に日本のどのような基層文化とのつながりを 発見できるのか。本章の考えでは、それは著書『ツォウ語方言資料』 を通奏する課題のひとつである。そこに着目すると、一見脈絡なく取 捨 選 択 さ れ た 15 の テ キ ス ト に ひ と つ の ま な ざ し が 貫 か れ て い る こ と が浮かびあがる。さらに、記紀や『風土記』等に文字で残された古代 日本の風俗習慣、呪文や遊戯の形で伝承され生き残った原始の信仰を 見すえるまなざしが捉えられた。 -6-/8.
(7) 日本統治下の台湾ツォウ族村でネフスキイが目撃したものは、原住 民族のスタティックな日常生活ではなかった。植民地体制下、急速に 変容、近代化=日本化しつつある現実の姿であった。と同時に、そこ に 、長 い 年 月 を か け て 変 容 し た 日 本 の 歴 史 的 姿 を 重 ね て 見 よ う と し た 。 文 化 を 多 層 的 に 、交 差 的 に 捉 え る ネ フ ス キ イ の ま な ざ し は 、 『ツォウ語 方言資料』にもまちがいなく一貫しているのである。 <第五章> ロシア人チェレプニンと台湾人江文也の日本での出会いと交流は、 まさに日台ロ三国交流を顕現する事例である。二人の出会いと交流は どのようなもので、なぜ互いに接近したのか。それを探るために、出 会う以前の生涯、誕生時までさかのぼって検討した。 文也は山田耕筰に引き立てられ、声楽家として出発したが、まもな く作曲家へ転身してしまう。ここで本章が注目したことは、この転身 が山田に体現された日本の洋楽からの乖離を意味したことである。そ れゆえ文也にとって、自らの創作は眼前の日本の洋楽とは異なるもの でなければならなかった。それが台湾で見出した《アジア/東洋》で あり、内なる「野性」であると考えられた。以後、文也の創作は内容 的にも形式的にもそれらを追求することになる。 一 方 、19 世 紀 の ロ シ ア 音 楽 は 、帝 国 の 植 民 地 獲 得 と 連 動 す る よ う に し て 、《 ア ジ ア / 東 洋 》 を 主 題 と す る 作 品 を 生 み 出 し て い っ た 。「 ロ シ ア五人組」と深い関わりのあったチェレプニンもまた、早くから《ア ジ ア / 東 洋 》、そ の 音 楽 、フ ォ ー ク ロ ア へ 注 目 し た 。チ ェ レ プ ニ ン の 認 識 で は 、ヨ ー ロ ッ パ の 音 楽 は 行 き 詰 っ て い た 。そ こ で《 ア ジ ア / 東 洋 》 の音楽に打破する役割を期待したのであった。 チェレプニンの求める《アジア/東洋》の音楽もまた、西洋音楽を 模 倣 し た も の で あ っ て は な ら な か っ た 。彼 は「 東 洋 か ら 帰 る 西 洋 音 楽 」 といったが、それは西洋音楽を洗練し、純粋培養した成果ではない。 東洋の異質な要素を包含して練りあげられた、いわば「不純」な音楽 で あ る 。そ れ ゆ え に こ そ 、あ た か も 多 言 語・多 文 化 を 体 現 し 、 《アジア /東洋》を自らの主題とした文也へ強く興味を惹かれたのだと考えら れる。文也の作品への関心は、そうした「不純」な音楽への期待であ ったということができる。 文也の方も、自分の創作に共感を示してくれたチェレプニンと積極 的に交わりを持った。チェレプニンのおかげで、来日中の歌手シャリ ャーピンと対面する機会を持ったり、中国大陸行きを誘われたり、欧 -7-/8.
(8) 米での演奏会で作品を披露してもらったりした。日本内地の大都市で 孤軍奮闘する植民地出身者にとって、こうした世界的な音楽家の後押 しが強い自信をもたらし、刺激となったことは想像に難くない。 短期間とはいえ、チェレプニンにとって、日本への旅は実りあるも のとなった。文也との出会いと交流はそのひとつであり、彼ら双方に 意義ある成果を残したといえる。日ロ台の異文化交流のひとつの事例 をここに見ることができるのである。 本論文の目的は日・台・ロ三国の《関係/交流》史を通史的に記述 したり、可能な限り網羅的に事項をすくいあげることではなかった。 それゆえ、異なる視点や関心に立てば注目度の高まる対象が漏れ落ち てしまうことは免れなかった。たとえば、第三章で多少なりとも言及 したが、日露戦争がそれである。 しかし、本論文では、いわば歴史的大事件を契機に噴出 流通した言 説より、むしろ海を渡ってやって来た一個人、市井の人物が日常生活 の中で垣間見た現実の方を注視した。国家同士の外交関係に着目した 「正史」的《関係/交流》史ではなく、そのような観点とは別の視角 から三国にまつわる関係、交流の歴史の多様性、多面性を明るみにす ることが本論文の狙いであった。 一見すると取るに足らない、一般にはほとんど顧みられることのな かった出来事やことがらであっても、本論文の五つの事象、人物もま た、三国を巻きこむ歴史という大河に流れこんでおり、まぎれもなく それぞれの中で三国はつながっていた。 くり返しになるが、各章の事象は必ずしも大きな出来事といえるも のではなかった。しかし、過去の歴史に埋没し、かつて皆無といって よいほど顧みられなかったそれらに対し初めて研究の光をあてられた こと、そして日本とロシアと台湾を縦断する視野を持ちながら、従来 の日ロ交流史や日台関係史の区分には収まらない歴史の相関性と多面 性を明らかにしえたこと、本論文独自の意義はそこにあると考える。 いうまでもなく、残された課題、十分に検討しえなかった問題点は 多々指摘できよう。しかし、それは、本論文で取りくんだ課題がさら に広がる可能性を持ち、継続すべき研究であることの何よりの証左と 考えたい。. -8-/8.
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