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「 良 い 」 法 律 論 を 生 み 出 す た め に

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(1)講. 演. ﹁良い﹂法律論を生み出すために. 平 井. 宜 雄. ︵紹介者︶私の方から平井先生のご紹介をごく簡単にさせて頂きたいと思います︒皆さんお手元のリーフレットのとこ. ろに経歴︑主要な著書ということが書いてございますが︑平井先生は現在の日本の民法学を代表されるお︸人でござい. ます︒例えば﹁損害賠償法の理論﹂というのが最初に書かれてありますが︑これが先生が民法学者としての地位を確立. された論文なのですけれども︑例えばその中におきましても︑因果関係論とか︑あるいは新過失論という形で類型化さ. 法の解釈ということについていま若干の例をお話しましたように︑平井理論というのがあるわけですけれども︑最近. れている過失についての考え方︑いわゆる平井理論というのを打ち出されているわけです︒. 平井先生は︑裁判で争われている訴訟を類型化いたしまして︑その法律論で簡単に解決でき︑後は賠償金の額に関心を. 寄せる紛争志向型訴訟と︑これに対しまして︑公害とか医療過誤︑国家賠償法というような︑最近になって特に重要視. されるようになった裁判については︑政策志向型訴訟というふうに呼んでおられまして︑裁判の類型の違いを明らかに. として一定の主張をされるわけですけれども︑そういう主張というのが果たして如何なる意味で妥当であるか︑あるい. されました︒これも平井先生の卓見なのですが︑さらに平井先生の場合に︑特に注意していいと思いますのは︑法律論. 六五. は正しいかという問題にずっと関心を深めておられまして︑いわゆる法の解釈の前提となる理論についての考察をずっ ﹁良い﹂法律 論 を 生 み 出 す た め に.

(2) 早法六七巻四号︵一九九二︶. 六六. いうことそのこと自体を検討する︒そういう問題領域に対して深い思索を進められてきているわけであります︒. と深めておられます︒それが法政策学という新しい学問領域の開拓に繋がっておりますし︑あるいはまた法の解釈論と. 今日テーマに掲げられました﹁良い法律論を生み出すために﹂というこのテーマは︑実はいままで法律学者の講演さ. れるテーマとしてはまずなかった︒そういうテーマとして驚きを覚えたのですが︑このテーマの中にもただこういう考. の妥当性・正当性・正しさを検討しようとする悪蓄を滲み出さしたテーマではないかと私は理解しております︒. え方が正しいのだ︑私はそう主張する︑ということだけではなくて︑実は一歩下がった基礎のところでそれらの考え方. そういう意味で教科書等を読んで皆さんが学ばれている法律学とは︑またひと味違ったお話をお伺いできるのではな. いかと思います︒ちなみに最後に一言だけ付け加えておきますと︑早稲田大学の法学部の第二次世界大戦後の憲法学そ. して行政法学を確立された方は︑もう亡くなられましたけれども有倉遼吉先生でした︒実は平井先生は有倉先生の甥に. あたられまして︑そんな経緯だったと推測するのですけれども︑早稲田のために講演をしていただくことを快くお引受 お話をお伺いすることに致します︒. けいただいたわけでございます︒心から感謝をこめて私のご紹介を終わらせていただきたいと思います︒早速︑先生の. はじめに. 只今は︑大変ご丁寧なご紹介をいただきまして恐縮しております︒﹁良い法律論を生み出すために﹂というタイト. ルで話をさせていただこうと思います︒この題名は余り正確ではありません︒題名だけをみますと︑﹁良い﹂法律論. というものが何かすでに存在していて︑それを作り出すにはどうすればよいのかということだけをお話するように. 思われますけれども︑実はそうではなく︑そもそも法律論に﹁良い悪い﹂という区別があるかどうかという話が中. 心であります︒﹁良い悪い﹂の区別がもしあり得るとすれば︑そしてそれが明らかになれば︑おのずから﹁良い﹂法.

(3) 律論が生み出されるようになるであろうと期待される︑という意昧で︑﹁生みだすために﹂という題をつけたわけで す︒. ここで﹁良い悪い﹂と申しましたけれども︑これは非常に広い意味で用いられております︒﹁正しい﹂とか﹁正し. くない﹂とか﹁妥当だ﹂とか﹁妥当でない﹂と︑そういうふうな表現に置き換えてもいいわけであります︒大事な. ことは︑法律論に︑いかなる意味であるにせよ︑﹁良い﹂のと﹁悪い﹂のと区別する客観的な評価基準が一体ありう. るのかどうかという点であります︒ですから﹁正しい﹂法律論は何かというようにおきかえて頂いても︑構いませ. ん︒それから︑法律論という言葉の意味でありますけれども︑ここでは判例や学説において具体的な事実を当ては. めて結論を導く前提となる︑いわゆる三段論法の大前提となるようなそういう言語的構成物を指しており︑それを︑. ここでは法律論と呼ぶことにします︒法律論に﹁良い悪い﹂という区別があるのかというのは︑それ自体大問題で. 六七. ありますので︑まず﹁良い﹂法律論と﹁悪い﹂法律論とをどういうふうにして考えていけばよいのかというところ から始めてみたいと思います︒ そこで︑. 一︑﹁良い﹂法律論はあるのか. 二︑﹁良い﹂法律論はなくてよいのか 三︑﹁良い﹂法律論の条件. 四︑﹁良い﹂法律論を生み出すもの という順序で話をさせていただきます︒ ﹁良い﹂法律論を生み出すために.

(4) 早法六七巻四号︵﹁九九二︶. ﹁良い﹂法律論はあるのか. 六八. 以上のように︑どれが正しい説かという問いをみずから提起されながら︑奥田先生はどうも正面から答えること. ない︒そこに学説の意味がある︒. えざるを得ない︒ただし︑学説が挙って反対している判例もあるので︑その場合には学説は判例を変えるかもしれ. と言っても説得力がない︒ある学説に従って裁判をしていったら勝てるかと言われたら︑いまのところ無理だと答. が最後に裁判にまでなったらどうなるかという見通しをつける上では判例を理解することが大事で︑学説がこうだ. を大事にするかと言うと︑判例は裁判所に持ち出したらどんな判断をされるかという基準である︒したがって紛争. ところ次のように話を進めておられます︒ー学説がわかれている時は︑先ず判例を大事にして欲しい︒なぜ判例. はどれですか︑止めを刺してくれと言われ︑それに答えるのが本当に難しくてね︒﹂︵同号二四頁︶︒そうして大体の. ておられます︒一つの問題について五っも六つも学説があったら学生は非常に困り︑﹁どれが正しい説ですか︑先生. 複数の考え方があるときにはどう対処すればよいのでしょうか︑というのです︒それに対して奥田先生はこう答え. ります︒編集者の方ではないかと思いますけれども︑奥田先生に対してこういう質問をしておられます︒学説には. 法をどう学ぶか﹂というインタビュー記事がありまして︑それに答えておられるのが京都大学の奥田昌道先生であ. 学部の学生向きの雑誌があります︒たまたま先日送られてきました﹁法学セミナー﹂︵一九九一年六月号︶の中に︑﹁民. 今日ご出席の皆さんはおそらくお読みになっているのではないかと思いますけれども︑﹁法学セミナi﹂という法. 一.

(5) を避けておられるように思われます︒奥田先生のような大先生でさえ答えを避けておられるということになります と︑﹁良い︹正しい︺﹂法律論とは何かというのは︑大変な難問であろうと思います︒. この難問に対してまず考えられる答えは︑判例の示す法律論が﹁良い﹂法律論だというものでしょう︒. 奥田先生の言われるように︑実際の紛争解決にとって判例が大きな参考になるのは明らかで︑法律学を学ぶ者が. 判例の法律論をよく理解することの意義は︑否定できません︒しかしそれが常に﹁良い﹂のか︑ということになり. ますと︑疑問です︒先生も述べておられるとおり︑判例が変更されることを考えますと︑裁判官が表明した法律論. が実際に通用するかという問題と︑それが﹁良い﹂かどうかという問題とは︑やはり別なのではないかと思われま. す︒まして多数の学説が判例に反対している場合には︑判例の法律論が﹁良い﹂とは断定できません︒. それでは︑多数の学者の説︑つまり通説が﹁良い﹂のか︒数が多いからといって︑それが﹁正しい﹂とか﹁良い﹂. との証拠には必ずしもならないでしょう︒現に︑ある少数説にみんなが賛成するようになって︑すっかり通説が変 わったということはいくらでもあるのです︒. 次に︑ある学者が主観的に﹁良い﹂と考えている法律論が﹁良い﹂法律論なのでしょうか︒どうもこれまで﹁良. い﹂法律論と考えられてきたのはこれではないかと思われます︒私が三〇年前に大学生であった頃は︑先生が自分. の学説を大いに主張するだけで︑判例がどうなっているのか︑他の学説がどうなっているのか全然分からないまま. に︑みんな一生懸命ノートをとるというような授業をしている場合が多かったように思います︒しかし︑それぞれ. が﹁良い﹂と思っていることが﹁良い﹂ということになると︑法律論には何らの優劣の規準が考えられないことた. 六九. なって﹁良い﹂か否かを論じること自体無意味になります︒もっとも︑現在の法律学の先生は︑自説のほかに︑通 ﹁良い﹂法律 論 を 生 み 出 す た め に.

(6) 早法六七巻四号︵一九九二︶. 七〇. 説とか判例を説明しているのでありまして︑自分の言っていることが一番正しいと思っているわけでは決してない. と考えぢれます︒奥田先生が判例を勉強することが法学部の学生にとってなによりも大事だと言っておられること は︑それを間接的に示すものでありましょう︒. このように見てますと︑何が﹁良い﹂法律論なのかについての決め手はどうにも見つかりません︒むしろ現在の. 一般の考え方は︑﹁良い﹂︵﹁正しい﹂︶法律論が何か︑という問題の立て方自体意味がないと解しているように思わ れます︒. 従いますと︑法律論は価値判断から成り立っており︑価値. すなわち︑戦後非常に影響をもった考え方−川島武宜先生が﹃科学としての法律学﹄という著書で主張された ことで︑この考え方の代表だと思われますけれども. 判断については決め手はない︑というのです︒つまり︑事実の存否に関する争いは︑事実の観察によって決着がつ. けられるのに︑価値判断は事実によっては決着がつかないではないか︑そうすると正しいとか正しくないとか︑良. いとか悪いとかについては決め手がない︑それは見解の相違に過ぎないということになります︒. もちろん︑これに対しまして︑客観的に﹁正しい﹂価値判断はあるのだと主張される学者もおられます︒その考. え方に従いますと︑例えば人間の尊厳というような︑何人も否定することができないような価値があり︑それが﹁正. しい﹂と言われるのです︒しかし︑﹁正しい﹂価値判断があると言っても︑どうして我々はそれに到達でき︑みんな. がそれで納得できるようになるのか︑のプロセスが明確に議論されていないように思われます︒それを主張される. 学説自体も︑その点が明確でないことを認めておられるようです︒ですから︑客観的に﹁正しい﹂価値判断がある. という考え方も︑信念の吐露とか確信の表明とかにとどまっていて︑今のところは多くの人を納得させないのでは.

(7) ないかと思われます︒. いずれにしましても︑一致しているのは法律論が価値判断から成り立っていると言う点です︒そして︑詳しく述. べることはできませんが︑結論だけを言いますと︑その価値判断が︑法律論の基礎となる法律の条文等の言語的構. 成物︵言明︶のみから導かれるのではなく︑裁判官の学識・経験・人格等の諸要素を基礎とした事案の具体的妥当性. への顧慮によって生まれるものであって︑法律論はそのようにして生まれた価値判断を事後的に﹁合理化﹂するも. のに過ぎない︑という点においても︑今申した問題についての立場の違いを超えて︑一致があります︒. さて︑このように︑価値判断に﹁決め手﹂はない︑または﹁正しい﹂価値判断に至る過程が不明確である︑しか. も言明としての法律論にも頼れない︑とすると︑法律学はどのような道を歩むことになるのでしょうか︒今のとこ. ろ︑二つの答えがあります︒一つは︑法律学を自然科学と同じように事実によって決着のつくような﹁科学﹂にせ. よ︑というものであります︒もう︸つは︑とくに民法の分野で主張されているものですが︑法律論を支える価値判. 断が社会のどのような利益を保護し︑あるいは保護しないかを分析した上でそれが﹁妥当﹂であるか否かを決めよ. うという前提の下に︑そのプロセスや手法を精密化することに重点をおくもの︵利益衡量論と呼ばれます︶です︒. 七一. このように︑現在の支配的な見解は︑﹁良い﹂法律論とは何か︑という問題の立て方自体を無意味と考えているよ うに思われるのです︒. ﹁良い﹂法律 論 を 生 み 出 す た め に.

(8) ﹁良い﹂法律論はなくてよいのか. 早法六七巻四号︵一九九二︶. 二. 七二. さて︑﹁良い﹂法律論とは何か︑という問いは無意味であって答えられない︑としますと︑その帰結はどうなるで. しょうか︒私には︑それはとても満足できない帰結のように思われてなりません︒. まず川島先生のように︑価値判断には﹁決め手﹂はないと考えますと︑ある学説に賛成するかどうか︑あるいは. ある法律論を主張するかどうかは︑論理的には宗教的な信念あるいは回心の問題になります︒だから︑川島先生は. ﹁科学﹂にするという道を探られたわけで︑その限りではよくわかりますが︑法律論のレベルで問題をとらえるか. ぎり︑ある立場に賛成するとか︑反対するということを合理的根拠をもって主張できないということになります︒. 勿論︑ある法律論は︑その根拠を言明によって明らかにしているでしょう︒しかし︑言明は結論を合理化するため. の理屈付けに過ぎないのだという︑さっき申しましたような法律論の見方が出てきますと︑法律論の合理的根拠は 存在しないことに結局なってしまうからです︒. そうしますと︑問題は法律学の進歩とか発展というものが一体あり得るのかという問題に拡がってきます︒法律. 論には﹁良い﹂﹁悪い﹂の区別がつかないわけですから︑﹁良い﹂方に向かっているのか﹁悪い﹂方に向かっている. のか区別がつかないことになります︒訴訟が提起され学者の数が増えてきて︑いろいろな説が出てくるでしょう︒. この現象は︑判例学説の﹁発展﹂であるように見え︑またそういう言葉で表現されますけれども︑法律論には合理. 的根拠がないのだということになれば︑その実進歩でも発展でもなく︑単に数が増え︑見解の相違が増えているに.

(9) 過ぎないということになります︒つまり︑事態はただ混沌に向っているだけの話でありまして︑進歩とか発展とい. う言葉を使いましても︑我々はそれを測る何らの物差しも持っていないのです︒法律学の授業では︑新しい判例学. 説を教えなければいけませんが︑法律学の教師はこれらを﹁良い﹂と確信する何らの理由なく教えていることにな. ります︒単に︑増大している混沌を教え︑学生諸君もそれをただ拡大して受け取ることにすぎません︒. この論理的帰結は法律学の教師にとっても学生にとっても︑とくに前者にとって︑とても耐えられないものです︒. 体操の先生は鉄棒の正しいにぎり方だとか︑正しい大回転の仕方だとかを教えます︒音楽の先生はこういうのが正. しい歌い方だというふうに教えます︒つまり︑どういう意味にせよ︑何か﹁正しさ﹂とか﹁良い﹂モデルがあって︑. それを学生に教え込んでそれに近づくように学生を導くのが教師の役割なのに︑法律学の教師は﹁良い﹂法律論が 何かを分からないままに教えているということになるからです︒. 私も長年大学で講義をしておりますけれども︑こういう帰結だと自分の教えていることは︑何ら根拠のない主観 の表明か︑あるいは混沌の世界を学生に伝達しているに過ぎないということになります︒. 論理的にここまでつきつめて考えてなくても︑一で述べた考え方の帰結の一つである問題点を︑私はこの数年間. 教師として感じるようになりました︒それはどういうことかと申しますと︑法律論を支えるもの︑つまり価値判断. には決め手がない︒そして法律論たる言明は︑直観的に生まれてきたところの︑いずれを保護すべきか︑という価. 値判断を理屈付けるものに過ぎないんだという考え方が学生諸君;私の接した範囲の学生に限られますがーの. 間に共有されてきたように思われることです︒例えばゼミで討論すべき問題を出しますと︑その担当者は﹁私は原. 七三. 告を保護したいと思いますから︑保護するための法律論を考えます﹂と言い︑それに反対の者は﹁私はこちらの方 ﹁良い﹂法律 論 を 生 み 出 す た め に.

(10) 早法六七巻四号︵一九九二︶. 七四. を保護すべきだからそのような法律論を考えます﹂と言い︑それで終るのです︒どうして保護すべきなんだと聞く. と︑﹁如何にも気の毒です﹂とか︑﹁常識で考えると原告のほうが帰責性の程度が高いと思います﹂という答えです︒. 要するに﹁自分はそう思う﹂というだけのことでして︑それでは議論は進まないのです︒﹁私はこちら保護︑あなた. はこちら保護︑それは意見の相違ですからおしまい︑はいさようなら﹂ということで議論が終わってしまうのです︒. また例えば︑﹁履行の着手﹂という概念︵民法五五七条参照﹀を精密に議論しようとすれば︑﹁履行を着手したかど. うかは︑手付け放棄による解除によって︑売主又は買主のいずれが保護されるべきかという結論との関係で考えな. ければいけない︒どちらを保護すべきかという判断抜きに︑履行の着手という概念だけを論じるのはおかしいので. はないか﹂という反応が学生の間から返ってくるのです︒それが段々とエスカレートしてきますと︑﹁占有とは何か﹂. に対しては︑占有訴権の前提としての占有であるか︑時効取得の前提としての占有であるかを論じなくてはならず︑. 結局︑占有から出てくる効果を認めるに相応しいようなものが占有であると定義すればよいのだ︑という反応にな. ります︒さらにエスカレートしてきますと︑法律論とはすべてでトートロジーであると言うことになります︒以上. のような学生諸君の反応を一般化するつもりはありませんが︑ともかくそういう傾向にあります︒これでは困るの. です︒なぜ困るかといえば︑これでは法律家同士の議論において通用しないからです︒どうして通用しないのか︒ これから今日の話の本題に入ることになります︒. このような場合に︑﹁私は貴方を保護すべきではないと思いますから︑お引き受けできません﹂などとは言えるわ. けはありません︒勿論︑こう答えたのでは弁護士としての生活が成り立たなくなるから︑という意味ではありませ. ん︒依頼者の利益を擁護するのが弁護士の職業上の義務であり︑それを大前提として法律論を組み立てて︑それを.

(11) 支える法律上の根拠を発見し︑その要件を満たす事実を依頼者の持ち込んだ事案の中に探しだし︑それを言明の形. で主張する︑つまり議論によって依頼者の直面する問題を解くことが弁護士に求められているからです︒すなわち︑. 言明としての法律論が全ての出発点であります︒法律家にとっては︑それは結論を事後的に﹁合理化﹂するもので. はありません︒弁護士を例としてあげましたが︑いま述べたことは︑議論によって問題を解決しようとする人々す べてにとって多かれ少なかれ当てはまるものなのです︒. 要するに私が言いたいことは︑﹁良い﹂法律論があるのかという問題について十分な議論がなされなかったことの. 結果として︑少なくとも私の接する学生諸君の中に︑私の考え方からすれば法律家にとって憂うべき考え方や物の. 見方が次第に力を得てきているということです︒﹁良い﹂法律論か否かの判断基準がなければ︑教師として安心して. 教えられないということも︑先に申しましたように勿論ありますけれども︑それ以上に私はそういう考え方が学生. 諸君の中に蔓延してくるのはどうも困ると思います︒大袈裟に言えば現在はその意味で危機的な状況にあるのでは. ないかと考えます︒そうだとすれば︑たとえどんなにそれが抽象的であるにせよ﹁良い悪い﹂の基準を考えていく. 必要があるのじゃないか︒そしてさっきのような一つの見方︑いきなり誰を保護するのが﹁妥当﹂であるかを考え. るとか︑法律論とはトートロジーであって︑単なる結論の理由付けに過ぎないとかといったような︑問題解決をす る者としての法律家達には通用しないような考え方の欠陥を示したいと考えます︒. 七五. そこで次に︑如何に難問であろうとも︑﹁良い﹂法律論か︑﹁悪い﹂法律論かを判断する基準はあるのか︑それを どう考えるべきか︑という点について︑私の考え方を示そうと思います︒. ﹁良い﹂法律論を生み出すために.

(12) ﹁良い﹂法律論の条件. 早法六七巻四号︵﹄九九二︶. 三. 七六. まず︑一で述べました法の解釈についての学界一般の︑そしてそらくその影響を受けたと思われる学生の考え方 ︵二参照︶のどこに問題があるかを述べたいと思います︒. 法律論が何らかの意味での価値判断を主張していること︑その価値判断が判断者の全人格的な判断であること︑. そして法律論は︑そういう全人格的な判断を後から理由付け﹁合理化﹂するのに過ぎないこと︑これらはすべて事. 実です︒しかし事実ではありますけれども︑社会学的あるいは心理学的な意味で事実であるということにほかなり. ません︒ある言明がどういう心理的プロセスで生み出されたかという心理学的問題は事実であるとしても︑その言. 明が︑どういう根拠をもって主張されなければならないかというのは別問題であり︑この二つは厳密に区別されな. ければならないと思います︒従来の考え方はこの二つを区別していなかったと私は思うのです︒つまり︑法律論が. 全入格的判断によって生み出されるということが心理学的事実として正しいから︑裁判官なり学者なりが表明した. 法律論自体は結論の合理化に過ぎないのだ︑だからそこに重きを置くべきでない︑大事なものは結論なのだ︑と飛. 躍するのは︑生み出された言明自体と︑その言明が生み出される心理的プロセスの混同に基づくものであります︒. 私はこの二つを混同する考え方を心理主義と呼んでいます︒心理主義の問題点を明確に意識するには︑ある言明が. 生み出される心理的プロセスを発見のプロセスと呼び︑その言明それ自体を他の言明によって基礎づけ正当化する プロセスを正当化のプロセスと呼んで︑この二つを厳密に区別すべきであります︒.

(13) なぜこの区別がいままで充分に意識されてこなかったのか︒それは︑私は法の解釈の問題を議論してきた人々が︑. 学者であったことに影響されていると思われます︒法律学者の仕事というのは︑教科書を書いたり︑論文を書いた. り︑解釈論を主張することですが︑とくに解釈論は専ら裁判官に対して訴えかけることを念頭において書かれてお. ります︒その結果として︑解釈論に至る心理的なプロセスというものがそのまま解釈論の中に反映されてしまい︑. そのことを自覚的にチェックをすることを意識しなかったのではないでしようか︒発見のプロセスと正当化のプロ セスの区別が充分つかなかった一つの理由はここにあるのではないかと思います︒. ところが実際の法律家のやっている仕事はtここで言う法律家とは法律論を使って仕事をする人という程度の. 広い意味に理解していただいて結構だと思いますがー︑与えられ︑または自ら発見した問題を解決することなの. です︒弁護士なら外から与えられるでしょう︒例えば弁護士は顧客の持ち込んできた問題に︑裁判官は弁護士が定. 式化した問題に︑企業の法務部は企業のプロジェクトの成功の障害となるような法律的問題の判断に︑役人は予算. を増して欲しいという主張の根拠づけに︑それぞれ直面させられ︑その問題を解決する立場に立っております︒そ. して人問と人間との間に生じた問題である以上︑それを解決をするには言明を使うこと︑つまり議論によらなくて. はなりません︒言葉のやりとりによって議論の範囲を狭めていき︑合意に達して解決する場合もあれば︑正当性を. 持った権力が与えられた権限によって判断するという場合もあるでしょう︒解決の仕方はいろいろあるでしょうけ. れども︑言葉のやりとりによって解くべき問題を明確にし︑問題の範囲を狭めていって︑解決するというのが︑法. 律家一般に通ずる仕事だと考えるのです︒そういうふうに法律家一般の仕事を拡大して考えますと︑つまりさっき. 七七. 申しました発見のプロセスと正当化のプロセスとは明確に区別されざるを得ないわけです︒なぜかと言いますと︑ ﹁良い﹂法律論を生み出すために.

(14) 早法六七巻四号︵一九九二︶. 七八. 発見のプロセスを議論していたのでは問題解決にならないからです︒例えばある主張に対して︑あなたがそういう. ことを言う下心は実はこれだろうとか︑あなたはお金持ちだからそういうことを言うのだとか︑言い出したらとて. も議論になりません︒議論をするには︑あなたの論拠を貫いていくと︑こういう考え方が出てくるではないか︑そ. れはあなたの論拠と衝突するではないか︑別の言明とこの言明との関係を説明してくれないか︑というように︑あ くまで言葉の上で争わなければならないのです︒. 言葉で争うこととは︑実力での紛争の解決を諦めて初めて生まれてきた考え方であり︑これに対して言葉の背後. にある考え方を捉えるというイデオロギー批判は︑思想の歴史の上では非常に例外的な現象です︒むしろ言葉だけ. で勝負しようとする考え方が法律学を生み出した西欧の正統的な考えでありまして︑たとえば中世の僧院における 聖書の解釈をめぐる厳格な形式をふんだ論争に典型的にみられるものです︒. 議論によって問題を解くのが法律家の役割であると考えますと︑正当化のプロセスが︑まさに法律論の中心でな. ければなりませんし︑また議論というものの構造をよく理解をする必要が生じます︒議論とはまず問題から始まり. ます︒ある問題を解決するためにある主張をする︑その主張を根拠付けるためにある根拠を示し︑それに対して反. 論が加えられ︑それに対して再反論が加えられる︑というのが議論の構造でありますが︑そうだとすると議論によ. って間題を解決するために適切なもの︑つまり問題を明確に定式化し︑それに対して根拠付けを提供し︑反論の手. 掛かりを出来るだけ多くするような言明︑これであってはじめて法律論としての意味を持ってくるわけです︒別な. 言葉で言い換えますと︑反論の手掛かりをできるだけ多く与えるような言明が議論によって問題を解決するのに適. していることになります︒さらに言い換えますと︑ーこれは私の表現ですけれどもー︑反論可能性の大きな言.

(15) 明であればあるほど︑議論による問題解決にとって役に立つことになります︒ということは︑法律家にとって有用 だということにほかなりません︒. もう少し具体的に︑どういう法律論が﹁良い︵または﹁悪い﹂︶﹂なのかについて︑例を示しましょう︒. 第一に︑反論可能性がゼロの言明は全く役に立たないことになります︒たとえば︑トートロジー︑つまり﹁Aは. Aである﹂という言明は反論可能性をもちません︒それを法律論に当てはめますと︑﹁民法一一〇条にいわゆる正当. な理由とは本人が責任を負わされても止むを得ないような事由である﹂という言明が反論可能性のない法律論の例. です︒誰も反対のしようがないわけですから︑それを持ち出しても議論にならないからです︒言い換えますと︑こ. れこれこういう具体的な場合に︑これこれこういうことはしてはならない︑その根拠はこれこれこうだというふう. に︑特定化され具体化されている言明であればあるほど︑反論可能性が高いことになります︒それは多くのことを. 禁じているからであり︑したがって多くの主張と衝突するからで︑すぐ反論が可能だからです︒もちろん︑反論可. 能性が高いわけですから当然反論に屈する危険性も高い︑しかし同時に︑それは有用であります︒なぜならば︑あ. ることを禁じた言明は︑禁じたことがまさに存在する事案では︑その言明を武器として戦えば結論はすぐに出てく. るからです︒要するに︑反論可能性がゼロであるトートロジーは︑﹁良い﹂法律論ではありえません. 第二に︑反論可能性が小さい法律論は大きい法律論より﹁悪い﹂といわなければなりません︒どういうものが小. さいのかと申しますと︑例えば比喩を用いた法律論です︒具体的な場合に当てはめていったらどうなるのかがよく. 分からないからです︒例えば一七七条の対抗問題とは﹁食うか食われるか﹂の関係にあるものだと言われます︒確. 七九. かに食うか食われるかというと︑比喩としてはよくわかり︑直観的には優れた説明だと思いますが︑﹁食うか食われ ﹁良い﹂法律論を生み出すために.

(16) 早法六七巻四号︵一九九二︶. 八O. るか﹂と言っても︑権利に口があるわけではないから︑これではいわゆる﹁水掛け論﹂にしかなワません︒また︑. 履行補助者のうち債務者の指揮命令に従って﹁手足﹂のように使用する者は︑選任監督上の過失の有無を問わず責. 任を負うという法律論も主張されますが︑ある人が別の人の﹁手足﹂になるというのは比喩的表現以外の何もので. もありません︒手足でないとか手足であるとか争っても︑これも水掛け論でいつまでたっても解決がつきません︒ そういう意味で︑比喩を用いた法律論は﹁悪い﹂法律論であります︒. 次に︑例えば一般条項を用いた法律論も﹁悪い﹂法律論だと思われます︒信義則とは﹁信義に従い誠実に履行す. るべきだという原則である﹂と言ってみたって︑言い換えに過ぎず︑何が信義であり誠実であるかよく分かりませ. ん︒それを﹁自己の過去の行った行為に反する行為をするのが信義則に反することだ﹂というような別の言明に置. き換えられますと︑争われている解決すべき問題の中に︑自己のいま言っていることと違うことを前に言っていた. という事実があるならば︑信義則に反するのだという主張がそこから生まれてきて︑反論可能性がそれだけ大きく なり︑議論に用いられるようになるのです︒. 第三に︑論理的推論を含む部分が少なければ少ないほど︑﹁悪い﹂法律論だと言えます︒論理的推論による言明に. 対しては明確にその誤りを指摘できるからです︒例えば︑﹁したがって﹂という言葉が付いていると︑前の言明との. 論理的関係が明確になり反論可能性は大きくなるのに︑論理的関係がはっきりしないと︑その分だけ反論可能性が. 小さくなります︒つまり︑法律論において論理が大事だという理由は︑それが反論可能性を増すところにあるので. す︒さらに言明それ自体は反論可能性が小さいものでありましても︑そこからの論理的推論によって反論可能性の. 大きな言明を導き出せれば出せるほど︑当初は反論可能性が小さいと思われた言明も﹁良い﹂法律論であるという.

(17) ことになります︒なぜならば論理的推論というのは最も反論を引き起こし易いものですから︑最も反論を引き起こ. し易いものを使って新しい言明を生み出すという場合の︑そのもとになる言明は︑結果的に反論可能性が大きいか. らです︒例えば﹁事実の先行性﹂が身分行為の特質である︑という考え方︵中川善乏助先生の身分行為論︶は︑無効な. 婚姻の追認という問題とか︑離婚届だけを出したに過ぎず︑依然として共同生活が続いている場合の婚姻の効力を. どう考えるか︑という問題とかを解く場合でも有用です︒これは﹁良い﹂法律論の例であろうと思います︒. 以上のように︑反論可能性の大小によって法律論の﹁良い悪い﹂の基準を与えることができないだろうか︑した. がって︑学説が進歩発展するということは︑反論可能性の小さい法律論が次第に具体化されていき︑反論可能性の. より大きな命題に細分化され︑それを武器として実際の問題解決に使えるようになることなのではないか︑と考え られるのです︒. こういう目で学説や判例をみていきますと︑依然として反論可能性の低い︑トートロジーに近い命題がいくらで. も用いられていることを発見できます︒判例から若干の例を挙げますと︑例えば昭和四四年二月二七日民集二三巻. 二号四四一頁に収められている最高裁の判決です︒これは不法行為によって弁護士費用まで賠償請求できるかどう. か︑弁護士費用は損害賠償の範囲にはいるかどうかという︑問題を扱ったものですが︑最高裁は﹁訴訟追行を弁護. 士に委任した場合には︑その弁護士費用は事案の難易︑請求額︑認容された額その他諸般の事情を斜酌して︑相当. と認められる範囲内のものに限り︑不法行為と相当因果関係に立つ損害に限るべきである﹂と述べています︒﹁相当﹂. という範囲が﹁相当因果関係﹂だというわけですから︑一種のトートロジーみたいなもので︑反論可能性が非常に. 八一. 小さな法律論です︒ですからこの法律論の反論可能性をもう少し我々はもっと高いものにする必要がある︑そのよ ﹁良い﹂法律 論 を 生 み 出 す た め に.

(18) 早法六七巻四号︵一九九二︶. 八二. うな作業をして有用なものにしていくと課題が与えられることになり︑それを果したことによって︑判例や理論は 進歩することになるのです︒. それから︑比喩を用いた法律論の例を挙げます︒民法七二二条二項の﹁被害者の過失﹂を︑﹁被害者側の過失﹂と. 解しているのが現在の判例ですが︑﹁被害者側﹂の意味につき︑最高裁の昭和五一年三月二五日民集三〇巻二号一六. 〇頁判決はこう言っています︒﹁被害者側の過失とは︑被害者本人と身分上生活上一体をなすとみられるような関係. にある者﹂である︑というのです︒ここで言うコ体﹂とは︑比喩以外の何ものでもないでしょう︒. 以上のようにお話してきますと︑﹁良い﹂法律論についての或る基準を使えば﹁良い﹂ということになるだけの話. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. であって︑﹁客観的﹂に良いかどうかということとは別問題ではないか︑という疑問が提起されるかもしれません︒. これに答えるには︑法律論が議論における問題解決の道具であるということを考えなければなりません︒これまで. 述べましたように反論可能性が高い言明は議論に登場する資格がありますが︑議論は前提なしにゼロから出発する. わけではないのです︒法律家が直面する状況は︑解決すべき問題が与えられている状況ですので︑すべてそこには. 前提がある︒例えば民法一七七条は対抗要件であり︑そこでいう第三者とはこれこれであるという長い間の学説実. 務で築き上げられた命題を前提とした上で︑さらに本件の場合はどうだという形で問題が提起されることが多いわ. けでありまして︑そもそも対抗要件と解すべきでないという議論にまでさかのぼる必要はないのです︒問題の中に. すべて前提が含まれている︑その前提から出発し︑反論可能性の高い命題のうちで反論に耐えて生き残ったものが︑. その後の法律論の場合に︑さらに前提として使われていくことになります︒いわば自由競争に耐えて生き残ってい. ったものに法律家は議論の前提として使える価値を認めている︑その意味で﹁有用﹂だと法律家の共同体によって.

(19) 承認されたものが﹁生き残り﹂﹁良い﹂法律論になるのであります︒もちろん前提が変われば︑いままでそれを前提. して築き上げられてきた法律論は変わる可能性はあります︒そのときは新しい問題解決に相応しい法律論というも. のが生まれてきて︑それが反論可能性の高い命題で主張されていけばいくほど︑議論に耐えて生き残る資格が大と なるのです︒. したがってさっき挙げた﹁良い﹂法律論の三つの要件ーつまり第一の要件は反論可能性の存在しない法律論よ. りも︑反論可能性の存在する法律論の方がそれだけ良い法律論である︑第二は反論可能性の存在する法律論のうち. で︑それの大きい法律論の方が小さい法律論に比べてそれだけ良い︑第三の基準は言明それ自体が反論可能性の小. さいものであっても︑そこから論理的な推論によって反論可能性の高い命題が導き出されれば︑それは良い法律論. であるーに加えて︑以上の三つの基準によって良い法律論とされた言明が︑議論の場に提出され反論にさらされ︑. 且つそれに耐えてなお生き残っているその程度が高ければ高いほど︑それは﹁良い﹂法律論である︑という要件を 付け加えたいと思います︒. さて︑以上に挙げた﹁良い﹂法律論を判断する基準がなり立ち得るとしますと︑﹁良い﹂法律論は何かという問い. に解答を与えることができるのではないかと思います︒私の接する学生諸君はしばしば法律論はトートロジーであ. ると言います︒トートロジー的なことを言ってる人も確かに学者の中にはいないわけではありませんが︑しかしそ. れは一つの問題提起として言っているのであり︑具体的な問題解決の際にどう判断すべきかが大事なのだというこ. とを強調するあまりそう言っていると理解すべきものであります︒トートロジーはそれ自体やはり法律論としては. 八三. 意味を持たない︒トートロジーではない言明を積み重ね︑議論のスコープを少しずつ狭めていって︑そして問題を ﹁良い﹂法律論を生み出すために.

(20) 早法六七巻四号︵一九九二︶. 八四. 解くというのが法律論の役割です︒ですから法律論がトfトロジーであると考えるのは︑さっき言った発見のプロ セスと心理的プロセスとの混同に基づくものであると考えなくてはならないと思います︒. 以上から明かなように︑法律論は後から出た結論を適当に合理化するに過ぎないという考え方も︑やはり間違い. であります︒論理的推論で或る一つの命題が導かれるということは︑将来起こり得べき問題解決の武器になるかも. しれないのです︒このことは法律学の歴史をみれば︑明らかでありまして︑たとえば︑ローヤの法学者が述べた言. 明を集約し洗練して一つの抽象的な命題を作り出しておくと︑それが一人歩きして別の時代の法律家が解決しなけ. ればならなかった問題に適用され︑また一つの命題を生み出す︑それがまた別の問題に用いられる︒こうして︑い. くつもの反論可能性の高い言明を論理的に導き出す可能性のある命題を作り出しておきますと︑絶えず新たな問題. 解決に取り組む法律家にとって非常に有用になります︒どこでどういう使い方をされるかは分からないけれども新. しい問題に使えるかもしれないからです︒このように言明というのは言明を発した本人が予想もしないような使わ. れ方をするものなのです︒これは言葉というものの本質につきまとう問題です︒ロ!マの法律学者は︑例えば奴隷. の売買を念頭において言ったある自分の学説が︑何千年後も売買という制度の基礎として用いられていることを︑. 夢にも思わなかったに違いないと思います︒言明というものがそういう性質を持つことになりますと︑論理的推論. によって次々に新しい命題を生み出すような可能性を持つ命題を作り上げていくのは︑法律家のやるべき創造的な. 仕事であって︑決してそれはトートロジーでも何でもないのです︒そして論理がその間にあって非常に重要だとい. うことも今述べたことから理解して下さるだろうと思います︒少し急いで端折った形になりましたけれども︑以上 で﹁良い﹂法律論の条件という部分を終わります︒.

(21) 四. ﹁良い﹂法律論を生み出すもの. それでは︑最後の︑﹁良い﹂法律論を生みだすもの︑というところに入ります︒. 法律論を用いるのは法律家︵前述の広い意味での﹀でありますから︑﹁良い﹂法律論の条件は︑結局のところ︑﹁良. い﹂法律家の条件に帰着します︒言い換えれば︑﹁良い﹂法律家であってはじめて﹁良い﹂法律論を生み出すことが. 出来るのです︒それでは﹁良い﹂法律家の条件とはどのようなものでしょうか︒私はこう考えます︒. ﹁良い﹂法律論とは反論可能性の高い言明である︑と私は申しました︒反論可能性が高いということは︑反論に. 屈する危険性が高いということです︒つまり︑﹁良い﹂法律家であるには︑反論に敗れ去る危険に自らをさらす勇気. を持たなければなりません︒よく﹁総論賛成各論反対﹂ということを言いますが︑﹁総論﹂を主張したり︑それに賛. 成するのは実に容易なことなのです︒例えば︑抽象的に﹁人間の尊厳﹂や﹁公共の利益﹂を説き続けるのではなく. して︑ハイジャックされた乗客を守るには犯人の射殺が許されるかとか︑特定の場所にゴミ処理場の建設を認める. べきかとかを主張するのは︑それ生み出す労力については言うまでもなく︑勇気のいる仕事です︒事実と論理を積. み重ねて反論可能性の高い法律論を生み出すのは︑どこまでいっても﹁権利濫用﹂や﹁法感情﹂にのみ訴える論法 よりもはるかに大変なことなのです︒. 次に︑言明を武器として議論によって問題を解決するには︑言明だけが尊重されなければなりません︒つまりそ. 八五. れは︑暴力とか︑無視とか︑軽蔑とかで答えるのではなくて︑また権威をふりまわし︑あるいはそれに屈従するの ﹁良い﹂法律論を生み出すために.

(22) 早法六七巻四号︵一九九二︶. 八六. ではなくて︑あくまで相手の言ったことだけを信頼し︑こちらも言葉でもって答えるというような︑人間関係をな. によりも尊重する︑という態度を意味します︒そしてもし相手が議論能力の劣った人であるならば︑相手の弱みに. さらに︑人間と人間の関係に関する問題を解決するとい. つけ込んだり難解な法律用語を使って煙に巻くというのではなく︑対等な議論能力を持ってはじめて問題解決が可. 能だと考える態度をも︑そのことは︑要請するのです︒. うことは﹃問題﹄を発見し︑定式化し︑それを法律論に組み立てる能力︑言いかえれば︑古代ローマの賢人が述べ. ているように︑﹁人問に関わることはすべて私には無関係と思われない﹂という態度を要求します︒こうして︑これ. らを備えた﹁良い﹂法律家は︑すなわち﹁良い﹂法律論を生みだすのであります︒. ﹁良い﹂法律論があるかどうかという問いに対する私の現在までの答えはそのようなものであります︒それはあ. まりにも抽象的ではないかと諸君は思われるかもしれません︒しかし︑先ほど例を挙げたように︑﹁良い﹂法律論の. 条件を具体的な法律論に当てはめてみますと︑実に様々なこと︑たとえ権威のある先生や偉い裁判官の言っている. 法律論であっても︑それは比喩に過ぎなかったり︑トートロジーに過ぎなかったりすることを発見できます︒われ. われは︑反論にさらされて﹁生き残った﹂法律論のみを︑かつそれが解こうとした問題の限りで尊重すべきであり︑. それ以外のものに服すべき理由はありません︒時問がなくなりましたので以上で私の話を終わらせて頂きます︒長 時問ご静聴ありがとうございました︒. ︵本稿は︑一九九一年度法学大会における講演を加筆訂正したものである︒︶.

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