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森?外「魚玄機」論 : 「倡家女」の魚玄機

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森?外「魚玄機」論 : 「倡家女」の魚玄機

著者 王 晨野

雑誌名 人文論究

巻 71

号 2

ページ 1‑22

発行年 2021‑09‑20

URL http://hdl.handle.net/10236/00029783

(2)

森 鷗 外 ﹁ 魚 玄 機 ﹂ 論

││

﹁ 倡 家 女﹂ の 魚 玄機

晨 野

一︑ は じ め に

﹁ 魚玄 機﹂ は大 正四 年七 月七 日に 脱稿 し︑ 七月 一 五日 発 行 の﹃ 中央 公 論﹄ 第 三〇 年 第 八 号に 掲 載 され た 鷗 外の 小 説 で あり

︑﹁ 安 井夫 人﹂

︵﹃ 太 陽﹄

︑大 正三 年四 月︶ の次 に女 性を 主人 公に して 描か れた 歴史 小説 でも ある

︒ 大正 三年

﹁安 井夫 人﹂ 執筆 前に

︑鷗 外は

﹃青 鞜﹄ 同人 であ った 尾竹 一枝 の執 筆依 頼を 受け

︑雑 誌﹃ 番紅 花﹄ の創 刊 号 に﹁ サフ ラン

﹂と 題す る文 を発 表し た︒ それ に対 して

︑金 子幸 代氏 は﹁ 安井 夫人

﹂の 主人 公の 佐代 と尾 竹一 枝を は じ め と し た﹁ 新し い 女﹂ の 共通 性 を 論究 し た⑴

︒鷗 外 と﹁ 新し い 女﹂ 論 の延 長 線 と して

︑﹁ 魚 玄 機﹂ に 関 す る 多 く の 先 行研 究は 主に 平塚 らい てう と性 欲生 活に つい て論 じて いた

︒例 えば

︑尾 形仂 氏は らい てう と魚 玄機 の生 活の 軌跡 の 類 似性 を二 点指 摘し た︒ らい

てう は︑ 初め ての 恋人

︑﹁ 生 田長 江の きも いり で 作ら れ た 閨秀 文 学 会で の 講 師 とし て 知 った 長 江 の友 人 森 田 草平

﹂に

﹁男 のひ とへ の欲 求﹇ 性欲

﹈を も っ てい な い か﹂ と聞 か れ た時

︑﹁ 性 欲 と いう も の のあ る こ とは 知 識 一

(3)

で は知 って いる けれ ど︑ 自分 自身 のな かに はま だな いか らよ くわ から ない

﹂と 答え た︒ この 経緯 は魚 玄機 と詩 の 師 温飛 卿の 友李 億と の物 語に 似て いる

﹁ らい てう に尾 竹︵ 後︑ 富本

︶一 枝と いう 同 性愛 の 女 性が お り︑ 大 正三 年 一 月︑ ら いて う が その 相 手 の女 性 と 別 れて 画家 奥村 博史 のも とへ 走っ た﹂

︒ この こと は魚 玄機 と采 蘋の 物語 に類 似し てい る︒⑵

そし て︑ 尾形 氏は 以上 の論 点を 踏ま え︑

﹁ 作者 の 関心 が

︑事 の 経緯 よ り も︑ より 多 く 玄 機の 女 と して の 性 と文 学 へ の 開 眼 の 過 程 の 追 跡 に か か っ て﹂ お り︑ 小 説

﹁魚 玄 機﹂ を﹁ 女 性 版

﹁ヰ タ・ セ ク ス ア リ ス

﹂だ と い っ て も よ い

﹂︑

!

新 し い女

"

ら い て うの

﹁歩 い た 道﹂ の投 影 が 見 出さ れ る とま と め た⑶

︒ また

︑岡 村 あ ず さ 氏 は

︑﹁ 狂 信 的︑ 盲 目 的 な 魚 玄 機﹂ が 破滅 し た こと を 描 いた 鷗 外 は 作中 で 才 女を 見 守 っ てい る 温 飛卿 に 化 し︑ 下り 坂 に な っ て い く﹁ 新 し い 女

﹂た ちへ の寓 話を 提示 した

と論 じた

︒ その 一方

︑﹁ 魚 玄機

﹂は 魚玄 機に 関連 する 中 国の 逸 話 を下 敷 き にし て 書 か れた 小 説 であ る

︒鷗 外 は﹁ 魚玄 機

﹂本 文 の 最後 に︑ 執筆 のた めに 使っ た資 料を 魚玄 機一

〇冊

︑温 飛卿 一八 冊︑ 重複 を除 いて 計二 四冊 を列 挙し た︒ しか し︑ そ の よう な膨 大な 資料 につ い て︑ 山 崎一 穎 氏 は︑ 鷗外 は

﹁﹃ 唐 女郎 魚 玄 機 詩﹄ の附 録

﹁太 平 廣記

﹂を 底 本 とし て

︑そ れ に 載っ てい ない 記事 を﹁ 三水 小牘

﹂︑

﹁ 北夢 瑣 言

﹂︑

﹁ 唐才 子 傳﹂ 並 びに 魚 玄 機の 詩 数 篇 から 取 捨 選択 し

︑組 み 合わ せ

︑ 魚 玄機 伝 を 構成 し

﹂︑

﹁﹁ 舊 唐 書﹂

︵﹁ 新 唐 書﹂

︶ を基 と し て︑

﹁全 唐 詩 話﹂

︑﹁ 唐 詩 紀 事﹂

︑﹁ 桐 薪﹂

︑﹁ 玉 泉 子﹂ か ら記 事 を 取 捨選 択し

︑そ れら を組 合せ て温 飛卿 伝を 構成 した

﹂と

︑鷗 外が 実際 に﹃ 唐女 郎魚 玄機 詩﹄ と﹃ 温飛 卿詩 集箋 注﹄ 二 冊 しか 参考 にし てい なか った と指 摘し た⑸

︒ 前述 した よう に︑

﹁ 魚玄 機﹂ に関 する 研究 は主 に二 種 類に 集 中 して い る︒ 一 つ目 は 歴 史 小説 と し てジ ェ ン ダー 論 の 視 点か ら研 究す るも ので ある

﹁魚 玄機

﹂を 女性 の性 と文 学の 覚醒 をめ ぐる 現代 的な 意味 に肉 づけ た研 究で ある

︒二 つ

森 鷗 外

﹁ 魚 玄 機

﹂ 論

(4)

目 は歴 史小 説研 究の 視点 で︑ 鷗外 が実 際に 参考 した 史料 を論 証し た研 究で ある

︒し かし

︑い ずれ も魚 玄機 が女 道士 に な った こと が覚 醒の 触媒 であ るの を看 過し たと 言わ ざる を得 ない

︒ま た︑ 鷗外 は﹃ 老子

﹄︑

﹃ 荘子

﹄な どの 道教 経典 を 読 み

︑幾 つ か の文 章 に も引 用 し た⑹

︑道 教 全 体に 対 す る理 解 を 示し た も の が少 な い︒ し たが っ て

︑﹁ 魚 玄 機﹂ は 鷗 外 の道 教理 解を 表す 重要 な一 篇と も言 えよ う︒ 本論 は以 上の 問題 意識 をも っ て

︑典 拠 とな っ た﹃ 唐 女郎 魚 玄 機詩

﹄︑

﹃ 温 飛 卿詩 集

﹄を 再 検証 し た 上︑

﹁魚 玄 機﹂ に お ける 鷗外 の道 教理 解を 分析 しつ つ︑ この よう な魚 玄機 像を 作り 上げ た意 図を 明ら かに した い︒ 二︑

﹁ 里 家女

﹂ と

﹁倡 家 女

﹂ 鷗外

が﹁ 魚玄 機﹂ 文末 に挙 げた 資料 は以 下の もの であ る︒ 其

魚 玄機 三 水小 牘

南部 新書 太 平広 記

北夢 瑣言 続 談助

唐才 子伝 唐 詩紀 事

全唐 詩︵ 姓名 下小 伝︶ 全 唐詩 話

唐女 郎魚 玄機 詩 其

温 飛卿 森 鷗 外

﹁ 魚 玄 機

﹂ 論

(5)

旧 唐書

漁隠 叢話 新 唐書

北夢 瑣言 全 唐詩 話

桐薪 唐 詩紀 事

玉泉 子 六 一詩 話

南部 新書 滄 浪詩 話

握蘭 集 彦 周詩 話

金筌 集 三 山老 人語 録

漢南 真稿 雪 浪斎 日記

温飛 卿詩 集 鷗

外 が 挙 げ た 参 考 資 料 を 見 て み る と

︑魚 玄 機 の み と さ れ た の は

﹃三 水 小 牘

﹄︑

﹃ 太 平 広 記﹄

︑﹃ 続 談 助﹄

︑﹃ 唐 才 子 伝

﹄︑

﹃ 全唐 詩︵ 姓名 下小 伝

︶﹄

︑﹃ 唐女 郎 魚 玄機 詩

﹄の 六 冊︑ 温飛 卿 の み とさ れ た のは

﹃旧 唐 書﹄

︑﹃ 漁 隠 叢 話﹄

︑﹃ 新 唐 書

﹄︑

﹃ 桐 薪

﹄︑

﹃ 玉 泉 子﹄

︑﹃ 六 一 詩 話

﹄︑

﹃ 滄 浪 詩 話﹄

︑﹃ 握 蘭 集

﹄︑

﹃ 彦 周 詩 話

﹄︑

﹃ 金 筌 集﹄

︑﹃ 三 山 老 人 語 録﹄

︑﹃ 漢 南 真 稿

﹄︑

﹃ 雪浪 斎日 記﹄

︑﹃ 温 飛卿 詩集

﹄の 十四 冊︑ 魚玄 機と 温飛 卿が 共通 して いる のは

﹃南 部新 書﹄

︑﹃ 北 夢瑣 言﹄

︑﹃ 唐 詩 紀 事﹄

︑﹃ 全 唐詩 話﹄ の四 冊で ある

︒し か し︑ 参 考資 料 の 中で

︑﹃ 桐 薪﹄ は とて も 貴 重 な本 で あ り︑ 日本 で は 国立 公 文 書 館︑ すな わち 旧 内 閣文 庫 し かな い

︒ま た︑

﹃ 握蘭 集

﹄︑

﹃ 金筌 集

﹄︑

﹃ 漢 南真 稿

﹄︑

﹃ 三山 老 人 語録

﹄︑

﹃ 雪 浪斎 日 記﹄ の 五 冊 は 現 存し て お らず

︑現 存 の 古書 に 引 用 され た 内 容だ け が 残 され て い る︒ 鷗外 は こ の本 を 見 た と 考 え 難 い︒ そ し て

︑魚 玄機 のみ とさ れた

﹃太 平 広 記﹄

︑﹃ 唐 才 子伝

﹄︑

﹃ 全 唐詩

︵姓 名 下 小伝

︶﹄ に は 温 飛卿 の 条 もあ る

︒温 飛 卿の 参 考 資 料の とこ ろに 列挙 され てい ない こと は︑ 鷗外 は執 筆す る時 に恐 らく 原典 の本 を見 てい なか った だろ う︒

森 鷗 外

﹁ 魚 玄 機

﹂ 論

(6)

唐︵六一八〜九〇七年︶

五代︵九〇七〜九六〇年︶

北宋︵九六〇〜一一二七年︶

南宋︵一一二七〜一二七九年︶

元︵一二七一〜一三六八年︶ 魚玄機︵約八四四〜八七一年︶

①﹃三水小牘﹄︵九一〇︶

②﹃太平広記﹄︵九七七〜九七八︶③﹃続談助﹄

④﹃唐詩紀事﹄ ⑤﹃南部新書﹄ ⑥﹃北夢瑣言﹄

⑦﹃全唐詩話﹄

⑧﹃唐才子伝﹄

⑨﹃全唐詩︵姓名下小伝︶﹄︵一七〇五〜一七〇六︶

⑩﹃唐女郎魚玄機詩﹄︵一八九九︶︵﹁附録魚玄機事略﹂に①〜⑨を言及か引用︶ 清︵一六三六〜一九一二年︶ 典拠 類似

類似 引用略して引用 唐︵六一八〜九〇七年︶ 不明五代︵九〇七〜九六〇年︶北宋︵九六〇〜一一二七年︶

南宋︵一一二七〜一二七九年︶

明︵一三六八〜一六四四年︶ ⑪﹃雪浪斎日記﹄温飛卿︵約八一二〜八六六年︶⑫﹃玉泉子﹄      ⑬﹃握蘭集﹄︵温飛卿著︶⑭﹃金筌集﹄︵温飛卿著︶ ⑭﹃漢南真稿﹄︵温飛卿著︶

⑯﹃旧唐書﹄︵九四五年︶

⑰﹃新唐書﹄︵一〇四三〜一〇六〇年︶ ⑱﹃北夢瑣言﹄⑲﹃唐詩紀事﹄ ⑳﹃六一詩話﹄    ㉑﹃南部新書﹄㉒﹃彦周詩話﹄

㉓﹃滄浪詩話﹄ ㉔﹃全唐詩話﹄ ㉕﹃漁隠叢話﹄㉖三山老人語録

㉗﹃桐薪﹄

㉘﹃温飛卿詩集﹄︵明の曾益が編集した︒⑪〜㉗を言及か引用︶ 引用

表 一 魚 玄 機 に 関 す る 原 典 書 籍

表 二 温 飛 卿 に 関 す る 原 典 書 籍 森

鷗 外

﹁ 魚 玄 機

﹂ 論

(7)

鷗外 の蔵 書﹃ 唐女 郎魚 玄 機 詩﹄ は︑ 葉徳 輝 注︑ 光 緒二 五 年︵ 一 八九 九 年︶ の 本 であ り

︑﹃ 温 飛卿 詩 集 箋注

﹄は 宣 統 二 年︵ 一九 一〇 年︶ 廣益 書局 が出 版し た本 であ る︒ 鷗外 の小 説﹁ 魚玄 機﹂ を原 典資 料と 比較 して みる と︑ 温飛 卿に つ い て は 殆 ど原 典 通 りに 書 か れた が

︑魚 玄 機 につ い て は加 筆 が 多 い︒ また

︑附 録 で 言及 さ れ た 原 典 書 籍 の 関 係 は︑ 表 一

︑表 二の よう にま とめ

︑諸 原典 書籍 を右 から 左へ 年代 順に 整理 した 同時 に︑ 矢印 の方 向に よっ て二 冊の 関係 を表 示 し た

︒例 え ば︑ 魚 玄 機 の 逸 話 に 関 し て︑

﹃ 太 平 広 記﹄ と﹃ 続 談 助﹄ は﹃ 三 水 小 牘﹄ を 引 用

︑﹃ 全 唐 詩 話﹄ は﹃ 唐 詩 紀 事

﹄に 類 似

︑﹃ 全 唐詩

︵姓 名 下 小伝

︶﹄ は

﹃唐 才 子伝

﹄を 典 拠 と し て 参 考 し た

︒温 飛 卿 の 逸 話 に 関 し て

︑﹃ 全 唐 詩 話

﹄ は

﹃唐 詩紀 事﹄ に類 似︑

﹃ 漁隠 叢 話﹄ は﹃ 雪浪 斎 日 記﹄ を引 用 し た︒ すな わ ち︑ 各 参 考文 献 は 関連 性 が 高く

︑特 に 小 説

﹁魚 玄機

﹂の 基盤 を構 築し た﹃ 太平 広記

﹄と

﹃続 談助

﹄に おけ る魚 玄機 の逸 話が 同源 であ るこ とが 窺え る︒ 前表 で示 した よう に︑

﹁ 附録 魚 玄機 事 略﹂ に おい て

︑魚 玄 機に 関 す る 物語 は

﹃太 平 広記

﹄と

﹃續 談 助﹄ の 原典 が 同 じ

﹃三 水小 牘﹄ であ る︒ しか し︑ 魚玄 機の 家 柄 に関 す る 記述 は 違 う︒

﹃太 平 広 記﹄ で は﹁ 唐西 京 咸 宜觀 女 道 士魚 玄 機 字 幼微 長安 里家 女也

﹂と

﹁里 家女

﹂で 書か れた が︑

﹃ 續談 助﹄ では

﹁西 京咸 宜 觀女 道 士 魚 玄機 字 幼 微長 安 倡 家女 也

﹂⑺

﹁倡 家女

﹂に なっ てい る︒

﹁ 附録 魚玄 機事 略﹂ に記 録さ れた 魚玄 機の 出身 は以 上の 二箇 所だ けで ある

︒ 一方

︑小 説の 中に

︑﹁ 魚 玄機 の生 れた 家は

︑長 安の 大 道か ら 横 に曲 が つ て行 く 小 さ い街 に あ つた

︒所 謂 狭 邪の 地 で ど の 家 に も歌 女 を 養つ て い る︒ 魚家 も 其 倡 家の 一 つ であ る

﹂と

︑魚 玄 機 の出 身 を 倡家 と 設 定 し た︒ 鷗 外 研 究 に お い て

︑魚 玄機 が倡 家の 娘と いう こと は特 に問 題視 され てい ない ので

︑恐 らく

﹁長 安里 家女

﹂と

﹁長 安倡 家女

﹂を 同一 視 し たの だろ う︒ しか し︑

﹁ 里﹂ とい う漢 字は

︑漢 の時 代か ら歴 代字 典の 集大 成と され た字 典﹃ 康煕 字典

﹄︵ 康煕 五五 年

/ 一 七 一六 年

︶に よ ると

︑﹁ 里

︑邑 也﹂ と 書 かれ

︑行 政 区 画 の一 種 で ある

︒﹁ 長 安 里 家 女﹂ と い う の は︑ 倡 家 の 娘 で は なく

︑長 安の 町娘 とい う意 味だ と考 えら れる

︒ また

︑魚 玄機 がい る咸 宜観 につ いて

︑一 八一

〇年 に出 版さ れた 唐の 時代 の都 に関 する 研究 書で は次 のよ うに 述べ ら

森 鷗 外

﹁ 魚 玄 機

﹂ 論

(8)

れ てい る︒ 咸宜

観は 長安 の親 仁坊 の南 西部 にあ る︒ 睿宗 が親 王だ った 頃の 邸で あり

︑玄 宗は ここ で帝 位を 継い だ︒ 開元 初 年

︑昭 成

︵玄 宗 の 生母

︶︑ 肃 明︵ 睿 宗の 正 妻︶ 両 皇后 の 廟 に な り︑ 儀 坤 廟 と 名 付 け ら れ た︒ 睿 宗 が 崩 御 し た 後

︑ 昭 成皇 后は 皇廟 に移 り︑ 肃 明 皇后 は こ こに 残 っ た︒ 開元 二 一 年︵ 七三 三 年︶

︑肃 明皇 后 も 皇廟 に 入 り︑ ここ が肃 明 道士 観と 名付 けら れた

︒宝 応元 年︵ 七六 二 年︶

︑ 咸宜 皇 女 がこ こ に 入道 し

︑南 安 邑 坊の 太 真 女道 士 観 と名 を 交 換 して

︑咸 宜女 道士 観と 名付 けら れた

︒南 安邑 坊の 太真 女道 士観 は肃 明道 士観 にな った

︒﹃ 名 画記

﹄に

︑﹁ 咸宜 観 に は呉 道玄

︑解 倩︑ 楊廷 光︑ 陳䌘 の 画 が ある

﹂︒

﹃ 南 部新 書

﹄に

︑﹁ 長 安の 士 大 夫 など の 貴 族の 家 は︑ 道 士に な る な ら咸 宜観 に入 る﹂

︒ 女道 士魚 玄機 は咸 宜観 に住 んで いた そう だ︒⑼

︵日 本語 訳は 論者 によ る︶ 名画

で彩 られ

︑皇 族に 深い 縁が ある 咸宜 観は 貴族 が入 道す る上 位候 補で ある

︒も し魚 玄機 は倡 家の 娘な ら︑ 咸宜 観 に 入る こと が難 しい だろ う︒ 鷗外 は恐 らく 咸 宜 観 のこ と を 知ら な い が︑

﹃唐 女 郎 魚 玄機 詩

﹄の 資 料を 見 て︑

﹁ 里家 女

﹂ と

﹁倡 家女

﹂か ら︑ 魚玄 機の 出自 を倡 家に 設定 した と考 えら れる

︒ 倡家 とい うの は﹁ 歌女 を養

﹂う 家の こと であ る︒ 歌女 たち に歌 や音 楽の ほか

︑遊 女の 仕事 もさ せる こと があ り︑ 客 を 楽し ませ て金 を稼 ぐ︒ 魚玄 機が 詩を 学び たい と言 い出 した 時︑ 両親 は︑

﹁ 他日 此子 を揺 金樹 にし よう と云 ふ願 があ

﹂ り

︑魚 玄機 のこ とを 歌女 と変 わら ず商 品と して 見て いる

︒魚 家は 人商 売の 倡家 であ るか らこ そ︑ 人間 の価 値を 金銭 で 測 って おり

︑娘 の魚 玄機 に対 して も変 わら な い︒ そ れに 対 し︑ 魚 玄機 と 温 飛卿 が 初 め て会 っ た 時︑

﹁初 め 妓 等に 接 す る が如 き態 度を 以て 接し よう とし た温 は︑ 覚え ず容 を改 めた

︒さ て語 を交 へて 見て

︑温 は直 に玄 機が 尋常 の女 でな い こ とを 知つ た﹂ と︑ 温飛 卿は 魚玄 機か ら妓 等︑ 倡家 とい う場 と異 なる 気質 を感 じた

︒ 森 鷗 外

﹁ 魚 玄 機

﹂ 論

(9)

そし て︑ 温飛 卿は

﹁江 辺柳

﹂の 三字 を書 いて 魚玄 機の 才能 を試 すと

︑魚 玄機 は次 の詩 を書 いた

︒ 賦

得江 辺柳

江辺 の柳 を賦 し得 たり 翠 色連 荒岸

︒烟 姿入 遠楼

翠 色 荒岸 に連 り︑ 烟姿

遠 楼に 入る

︒ 影 鋪秋 水面

︒花 落釣 人頭

影 は鋪 く 秋水 の面

︑花 は落 つ 釣人 の頭

︒ 根 老蔵 魚窟

︒枝 低繋 客舟

根 老い て 魚窟 を蔵 し︑ 枝低 れて

客 舟を 繋ぐ

︒ 蕭 々風 雨夜

︒驚 夢復 添愁

蕭 々た る風 雨の 夜︑ 夢を 驚か し 復た 愁を 添ふ

︒⑽

第一 句か ら第 七句 は近 くの 風景

︑最 後の 一句 は魚 玄機 自身 の心 境で ある

︒翠 色の 柳が 多く 植え られ てい る岸 であ る が

︑﹁ 荒 岸﹂ とい う言 葉を 使っ た魚 玄 機は

︑現 在 の 生活 に 不 満を 感 じ︑ 風 雨 の夜 に

﹁ま た 愁を 添 ふ﹂ と︑ 精 神の 不 毛 を 嘆い てい る︒

﹁ 児は 不幸 にし て未 だ良 師を 得ま せ ん︒ どう し て 近業 の 言 ふに 足 る も のが あ り ませ う

︒今 伯 楽の 一 顧 を 得 て

︑奔 䤯 して 千 里 を致 す の 思が あ り ま す︒ 願は く は 題を 課 し て お試 み 下 さい

﹂と 温 飛 卿に 指 導 を 願 う 魚 玄 機 は

﹁良 驥を 以て 自ら 比﹂ し︑ 温飛 卿を 自分 の才 能を 認め る 伯楽 と 信 じた の で︑ 現 在の 環 境 に おい て 理 解者 が い ない と 表 し た一 方︑ 温飛 卿の 指導 で詩 の才 能を 伸ば した こと によ り︑ 心が 満た せる と考 えた

︒精 神的 な満 足を 求め る魚 玄機 像 が 浮か び上 がっ てく る同 時に

︑金 銭で 人を 価値 づけ る両 親と 異な る価 値観 で自 我の 真価 を発 揮す る魚 玄機 の試 みで あ る とも 考え られ る︒

森 鷗 外

﹁ 魚 玄 機

﹂ 論

(10)

三︑ 性 に 目覚 め た 魚玄 機 温飛

卿の 指導 によ り︑ 詩の 勉強 をす る魚 玄機 は︑

﹁ 詩名 を求 める 念が 漸く 増長 した

﹂︒ 玄

機は 才智 に長 けた 女で あつ た︒ その 詩に は人 に優 れた 剪裁 の工 があ つた

︒温 を師 とし て詩 を学 ぶこ とに なつ て か らは

︑一 面に は典 籍の 渉猟 に努 力し

︑一 面に は字 句の 錘錬 に苦 心し て︑ ほと んど 寝食 を忘 れる 程で あつ た︒ そ れ と同 時に 詩名 を求 める 念が 漸増 長し た︒ 李 に聘 せら れる 前の 事で ある

︒あ る日 玄機 は崇 真 観 に往 つ て︑ 南 楼に 状 元 以下 の 進 士 等が 名 を 題し た の を見 て

︑ 慨 然と して 詩を 賦し た︒ 遊

崇真 観南 楼

崇 真観 の南 楼に 遊び

︑ 覩 新及 第題 名処

新 及第 の題 名の 処を 覩る

︒ 雲 峯満 目放 春晴

雲 峯満 目 春晴 を放 つ︑ 歴 々銀 鈎指 下生

歴 歴た る銀 鈎 指下 に生 ず︒ 自 恨羅 衣掩 詩句

自 ら恨 む 羅衣 の詩 句を 掩ふ を︑ 挙 頭空 羨榜 中名

頭 を挙 げて

空 しく 羨む 榜中 の名

︒ 玄機

が女 子の 形骸 を以 て︑ 男子 の心 情を 有し てゐ たこ とは

︑此 詩を 見て も推 知す るこ とが 出来 る︒ しか し其 形 森 鷗 外

﹁ 魚 玄 機

﹂ 論

(11)

骸 が女 子で ある から

︑吉 士を 懐ふ の情 がな いこ とは ない

︒只 それ は蔓 草が 木の 幹に 纏ひ 附か うと する やう な心 で あ つて

︑房 帷の 欲で はな い︒ 玄機 は彼 があ つた から

︑李 の聘 に応 じた ので ある

︒此 がな かつ たか ら︑ 林亭 の夜 は 索 莫で あっ たの であ る︒ 前記

の詩 は魚 玄機 が科 挙で 合格 した 進士 たち の名 を見 て書 いた 詩で ある

︒こ の漢 詩に つい て︑ 鷗外 が参 考し た﹃ 唐 女 郎魚 玄機 詩﹄ 巻末 の﹁ 附録 魚玄 機事 略﹂ では

︑﹁ 觀 其志 意 激 切︐ 使作 男 子

︐必 為 有用 之 才︒ 識 者頗 賞 憐 之﹂⑾

と︑ 志 と 才能 を持 つ魚 玄機 に対 して

︑有 識者 はも し魚 玄機 が男 子と して 生ま れて きた ら︑ 必ず その 才能 を生 かせ るだ ろう と 憐 んだ

︒﹁ 玄 機が 女子 の形 骸を 以て

︑男 子の 心情 を 有し て い たこ と は︑ こ の詩 を 見 て も推 知 す るこ と が 出来 る

﹂と 温 飛 卿に 師事 して 詩の 才能 を極 める 魚玄 機の 心情 は︑

﹁ 口 吻は 男 子 に似 て い た﹂ 十五 歳 の 少 女魚 玄 機 と変 わ ら ない よ う に 見え る︒ しか しそ の後

︑鷗 外は

﹁吉 士を 懐ふ の情 がな いこ とは ない

﹂と

︑魚 玄機 の心 情を 意図 的に 男子 を思 う情 に す り替 えて いく

︒﹁ 蔓 草が 木の 幹に 纏ひ 附か うと する よう な心 があ

﹂る から

﹁李 の聘 に応 じ﹂

︑房 帷の 欲で はな い﹂ か ら

︑﹁ 林 亭の 夜は 索莫 で﹂ ある 魚玄 機は

︑男 子の よう に 科挙 を 通 して 詩 名 を高 め る こ とを 諦 め ざる を 得 ず︑ 蔓草 の よ う に李 のよ うな

﹁吉 士﹂ の力 を借 りて 詩名 を高 める こと を考 えて いる のだ ろう

︒温 飛卿 に師 事し たこ とに より

︑魚 家 と いう

﹁荒 岸﹂ から 離れ よう とし た魚 玄機 は︑ 求 め たい 詩 名 のた め に︑

﹁ 男子 の 心 情 を有

﹂す る か ら男 子 を 思う 心 情 に 変化 した こと が窺 える

︒ その 後︑ 魚玄 機は 咸宜 観に 入り

︑道 家の 中気 真術 を修 行し たこ とに より

︑性 に目 覚め た︒ 当時

道家 には 中気 真術 と云 ふも のを 行ふ 習が あつ た︒ 毎月 朔望 の二 度︑ 予め 三日 の斎 をし て︑ 所謂 四目 四鼻 孔 云 々の 法を 修す るの であ る︒ 玄機 は䋾 るべ から ざる 規律 の下 にこ れを 修す るこ と一 年余 にし て忽 然悟 入す る所 が

森 鷗 外

﹁ 魚 玄 機

﹂ 論

(12)

あ つた

︒玄 機は 真に 女子 にな つて

︑李 の林 亭に ゐた 日に 知ら なか つた 事を 知つ た︒ これ が咸 通二 年の 春の 事で あ る

﹁ 気﹂ とい う概 念は 元々

﹃老 子﹄ で提 起さ れ︑ 陰陽 の二 種 類の 気 が 万物 を 生 じて 和 を 成 す理 想 な 状態 を 推 奨す る こ と であ る︒ しか し︑ 中気 真術 とい う も のは

︑﹃ 老 子﹄ や﹃ 荘 子﹄ のよ う な 道教 経 典 に 記録 さ れ たの で は なく

︑仙 術 と

道 教を まと めた 晋代 の著 書﹃ 抱朴 子﹄ に書 かれ

︑作 者の 葛洪 は道 教の 陰陽 理論 から

︑男 性が 女性 から 陽を 採り

︑女 性 が 男性 から 陰を 採り

︑気 を増 すた めに 房中 術を 唱え た︒ また

︑鷗 外が 描写 した 中気 真術 に類 似の 表現 は唐 の時 代の

﹁笑 道論

﹂と いう 文章 にあ る︒ 三

十五

︑道 士の 合炁

︵論 者注

﹁炁

﹂は 道家 が使 う﹁ 気﹂ の変 体字

︶の 法の こと

﹃ 真人 内朝 律﹄ にい う︒

﹁真 人が いわ れた

︒す べて の男 女は

︑月 のつ いた ちと 十五 日が やっ てく ると

︑あ らか じ め 三日 の斎 を行 い︑ 私室 に入 り︑ 師の もと に出 かけ る︒ 功徳 をた てて

︑陰 陽な らび 進み

︑昼 夜の 六時 にわ たっ て

⁝﹂

︒ この よう な猥 雑な 言葉 は耳 にす るわ けに はゆ かぬ

︒︵ 中略

︶ 臣は 笑っ てい う︒ 臣は 二十 歳の とき

︑道 術に あこ がれ

︑道 觀で 学ん だ︒ まず 黄書 合炁 の術

︑三 五七 九男 女交 接 の 道を 教え られ た︒

︵ 男女 が向 き合 って

︶四 つ の目 と 二 つの 舌 が 正対 し

︑道 の 実 践の か な めは 丹 田 にあ る

︒実 践 す るも のは

︑厄 をは らい

︑寿 命を のば すの だと か︒ 夫に 妻を 取り かえ させ

︑た だ肉 欲の みを 第一 とす る︒ 父や 兄 が 前 に 立 って い て も羞 恥 心 もな く

︑み ず か ら中 炁 真 術と 称 し て いる

︒今 日 の 道士 は 常 にこ の 方 法 を 行 っ て い る が

︑こ んな こと で道 を求 める とは

︑な んと もよ くわ から ない 点が ある

︒⑿

森 鷗 外

﹁ 魚 玄 機

﹂ 論

一 一

(13)

この

﹁笑 道論

﹂と いう 文章 は︑ 道教 を貶 し︑ 仏教 を持 ち上 げる 傾向 が全 体的 に窺 える ため

︑大 淵忍 爾氏 は次 のよ う に 指摘 した

︒ 所

謂る 護教 家の 記述 には 往々 にし て相 手側 をこ とさ らに 誣う る傾 向が あつ て︑ 必ず しも 十全 の信 用を 置き 難い 場 合 が多 いが

︑男 女合 気之 術を 房中 術の 一展 開と 見る こと には おそ らく 議論 があ るま い︒ 房中 術は 漢書 芸文 志で は 神 僊 と 並 ん で 方 伎 の 一 種 と さ れ

︑独 立 し て 取 扱 つ て い る が

︑抱 朴 子 に 至 る と 明 ら か に 仙 術 の 一 つ と さ れ て い る

︒⒀

房中 術と いう もの は︑ 漢の 時代

︵紀 元前 二〇 二〜 二二

〇年

︶で は医 学の 一種 とし て扱 われ たが

︑晋 の﹃ 抱朴 子﹄ に 至 って

︑仙 術と して 扱わ れ︑ 道教 と融 合し よう とし た︒ 唐時 代に 房中 術は 男女 の修 行の 一環 とし て使 われ てい ただ ろ う

︒ しか し︑ 唐時 代に 房中 術が 存在 した とは 言え

︑道 教の 修行 と言 い難 い︒ 小説 で﹁ 唐の 代に は道 教が 盛で あっ た︒ そ れ は道 士等 が王 室の 李姓 であ るの を奇 貨と して

︑老 子を 先祖 だと 言い 做し

︑老 君に 仕う るこ と宗 廟に 仕う るが 如く な ら しめ たた めで ある

﹂と 書か れた よう に︑ 唐の 時代 にお いて

︑道 教と 道士 が優 位に 立っ てい る︒ 王永 平氏 は︑ 唐の 時 代 の道 士は 政府 に認 証さ れな けれ ばな らな いが

︑認 証さ れた ら︑ 徭役

︑税 金︑ 兵役 が免 除さ れる

︒も し道 士を 辞め た ら

︑戸 籍が 宗正 寺に 入り

︑皇 室︑ 王室 の待 遇が 得ら れる と︑ 唐時 代の 道 士の 待 遇 が 非常 に 高 いと 指 摘 した

︒そ の 一 方

︑九 六一 年出 版の 古書

﹃唐 会 要﹄ で は︑ 八二 一 年 の法 律 に おい て

︑道 士 に なり た い 人は 道 教 経典

﹃老 子

﹄と

︑﹃ 度 人 経﹄ か﹃ 黄庭 経﹄ のい ずれ かを 暗記 すべ きで ある とい うこ とが 記 録さ れ て い た⒂

︒ つま り

︑教 育 が受 け ら れる 貴 族 や 富裕 層以 外は

︑道 士に なる こと が難 しい

森 鷗 外

﹁ 魚 玄 機

﹂ 論

一 二

(14)

また

︑王 永平 氏は 唐時 代の 道士 の実 態に つい て︑

﹁ 道 士の 待 遇 が高 い と 同時 に 入 道 する 条 件 が厳 し い ので

︑国 の 認 証 がな い道 士︑ 女道 士が 存在 する

︒こ のよ うな 偽道 士︑ 偽女 道士 は名 義上 が道 士と なっ てい るが

︑道 士観 で生 活し て お ら ず

︑道 教 の規 律 も 受け て い ない

︒道 教 経 典 では

︑こ の よ うな 人 た ち を﹁ 在宅 道 士﹂ と 呼 ぶ﹂⒃

と︑ 国 に 認 証 さ れ た 道士 観で 生活 する 道士

︑女 道士 以外 に︑ 認証 され ずに 道士 を自 称す る在 宅道 士が 存在 する と述 べた

︒お そら く︑ 道 教 と仙 術と 医学 を融 合し た中 気真 術と いう 修行 はこ の在 宅道 士た ちが 修行 して いた のだ ろう

︒魚 玄機 は咸 通元 年︑ 八 六

〇年 に︑ 皇室 と深 い縁 があ る咸 宜観 に入 った

︒そ して

︑魚 玄機 は詩 人で ある ので

︑道 教経 典を 暗記 した 国認 証の 女 道 士と 見て もよ かろ う︒ 魚玄 機は 咸宜 観で 中気 真術 の修 行を した こと が考 えづ らい

︒ そ し て︑ 鷗外 が 参 考し た

﹁附 録 魚玄 機 事 略﹂ に︑ 魚 玄機 は 綠 翹と 客 の 関係 を 疑 い︑ 綠 翹 に 問 い 詰 め た こ と に 対 し て

︑綠 翹は 以下 のよ うに 言っ た︒

︵引 用者 注

綠翹

︶曰

︑﹁ 鍊師 欲求 三清 長生 之道

︐而 未能 忘解 珮薦 枕之 歡︐ 反以 沈猜

︐厚 誣貞 正︐ 翹今 必斃 於毒 手 矣

︐無 天則 無所 訴︐ 若有

︐誰 能抑 我疆 魂︒ 誓不 蠢蠢 於冥 冥之 中︐ 縱爾 淫佚

︒﹂⒄

緑 翹 は︑ 魚玄 機 は 道士 で あ りな が ら︑ 男 女 の情 を 忘 れる こ と がで き ず

︑罪 の ない 自 分 に濡 れ 衣 を 着 せ た と 叱 責 し た

︒こ の記 述か ら見 ても

︑魚 玄機 は咸 宜観 で中 気真 術を 修行 する こと が不 可能 であ る︒ この 一文 を読 んだ 鷗外 も当 然 に 知っ てい るは ずで ある が︑

﹁ 魚玄 機﹂ の 世界 に お いて

︑鷗 外 は 意図 的 に 伝 統的 な 道 教か ら 離 れ︑ 仙術

︑方 術

︑民 間 信 仰に 偏っ た道 教を 選ん だの だろ う︒ では

︑鷗 外は なぜ 中気 真術 が修 行で きる よう な道 教世 界を 作っ たの であ ろう か︒

﹁ 魚玄 機﹂ にお いて

︑最 初に

﹁趙 が道 書を 授け る と︑ 玄機 は 喜 んで こ れ を読 ん だ︒ 此 女 の為 に は 経を 講 じ 史を 読 む 森 鷗 外

﹁ 魚 玄 機

﹂ 論

一 三

(15)

の は︑ 家常 の茶 飯で ある から

︑道 家の 言が 却つ てそ の新 を趁 ひ奇 を求 める 心を 悦ば しめ たの であ る﹂ と︑ 道教 の知 識 を 一心 に勉 強す る純 粋な 魚玄 機は

︑仙 術︑ 方術 を取 り込 んだ 中気 真術 の修 行を 通し て﹁ 真に 女子 にな

﹂り

︑初 めて 情 欲 を知 った

︒こ こで 注意 しな けれ ばな れな いの は︑

﹁ 当 時道 家 に は中 気 真 術と 云 ふ も のを 行 ふ 習が あ つ た︒ 毎月 朔 望 の 二 度

︑予 め 三日 の 斎 をし て

︑所 謂 四目 四 鼻 孔 云々 の 法 を修 す る の であ る

﹂と 書 か れ た よ う に︑ 中 気 真 術 が﹁ 魚 玄 機

﹂の 世界 で道 教の 修行 法の 一種 とし て正 当化 され てお り︑ 魚玄 機は

﹁䋾 るべ から ざる 規律

﹂に 従っ ただ けと なっ て い た︒ 要す るに

︑鷗 外が この よう な道 教世 界 を 作っ た の は︑

﹁李 の 聘 に応 じ

﹂た の も 詩名 の た めで あ り︑ 詩 に一 心 す る 魚玄 機に 新し い生 の形 を合 理的 に提 示す るか らで ある のだ ろう

︒ 四︑ 魚 玄 機が 求 む もの 魚玄

機は 性に 目覚 めた 直後

︑同 じく 女道 士の 采蘋 と﹁ 対食

﹂し てい た︒ 玄機

は共 に修 行す る女 道士 中の 稍文 字あ る一 人と 親し くな つて

︑こ れと 寝食 を同 じう し︑ これ に心 胸を 披瀝 し た

︒此 女は 名を 采蘋 と云 つた

︒或 る日 玄機 が采 蘋に 書い て遣 つた 詩が ある

︒ 贈

隣女

隣 の女 に贈 る 羞 日遮 羅袖

日 を羞 ぢて

羅 袖を 遮り

︑ 愁 春懶 起粧

春 を愁 ひて

起 粧に 懶し

︒ 易 求無 価宝

無 価の 宝を

求 むる こと は易 きも

森 鷗 外

﹁ 魚 玄 機

﹂ 論

一 四

(16)

難 得有 心郎

有 心の 郎を

得 るこ とは 難し

︒ 枕 上潜 垂涙

枕 上 潜に

涙 を垂 れ︑ 花 間暗 断腸

花 間 暗に

腸 を断 つ︒ 自 能窺 宋玉

自 ら能 く 宋玉 を窺 ふ︑ 何 必恨 王昌

何 ぞ必 ずし も 王昌 を恨 まん

︒ 采蘋

は体 が小 くて 軽率 であ つた

︒そ れに 年が 十六 で︑ もう 十九 にな つて ゐる 玄機 より は少 いの で︑ 始終 沈重 な 玄 機に 制馭 せら れて ゐた

︒そ して 二人 で争 ふと

︑い つも 采蘋 が負 けて 泣い た︒ さう 云う 事は 日毎 にあ つた

︒し か し 二人 は直 に又 和睦 する

︒女 道士 仲間 では

︑か う云 ふ風 に親 しく する のを 対食 と名 づけ て︑ 傍か ら揶 揄す る︒ そ れ には 羨と 妬と も交 じつ てゐ るの であ る︒ 多く

の先 行研 究が 言及 した よう に︑ 采蘋 とい う名 の女 道士 は﹁ 附録 魚玄 機事 略﹂ に現 れて おら ず︑ 鷗外 の虚 構で あ る

︒魚 玄機 と采 蘋の 関係 を﹁ 対食

﹂と 関 係 づけ た 根 拠と し て 鷗外 は 魚 玄 機の 漢 詩﹁ 贈 隣女

﹂を 引 用 し︑

﹁隣 女

﹂を 采 蘋 と設 定し た︒ 尾形 仂氏 は﹁ その 采蘋 が塑 像造 りの 工人 と観 を駆 け落 ちし

︑そ のこ とが 玄機 の男 を求 める 心に 火を つ け る契 機と な っ た﹂⒅

と 采蘋 の 物 語 上の 役 割 を指 摘 し た が︑ ここ で 注 目し な け れば な ら な いの は 采 蘋と 魚 玄 機の 接 し 方 であ る︒ 采蘋 は魚 玄機 より 若い ので

︑﹁ 始 終沈 重な 玄機 に 制馭 せ ら れて ゐ た︒ そ して 二 人 で 争ふ と

︑い つ も采 蘋 が 負け て 泣 い た﹂ と書 かれ たよ うに

︑気 強い 魚玄 機は 采 蘋 との 関 係 で始 終 優 位に い る︒

﹁ 易 求無 価 宝︒ 難 得有 心 郎﹂ と 有心 の 男 が 無価 の宝 より 得難 いと 思っ た魚 玄機 は女 の同 性愛 に転 じた と推 測で きる だろ う︒ また

︑宋 玉は 美男 子︑ 王昌 は﹁ 唐 森 鷗 外

﹁ 魚 玄 機

﹂ 論

一 五

(17)

代 の 詩 に よく 使 わ れる 人 物 で﹂

︑﹁ 結 婚 前 に女 の 家 の東 隣 に 住ん で い た 男で

︑金 持 ち でな い 男︑ 女 の初 恋 の 相 手﹂⒆

で あ る︒ 小説 にお ける

﹁自 能窺 宋玉

︑何 必 恨 王昌

﹂は

︑李 を 王 昌に 例 え︑ 采 蘋を 宋 玉 に 例え た と 考え ら れ るの で

︑﹁ 縦 令 二親 は寛 仮す るに して も︑ 女伴 の侮 を受 ける に堪 えな い﹂ と李 に侮 辱を 受け たと 考え た魚 玄機 は︑ 現に 采蘋 がい る の で︑ 李を 恨む 必要 がな いと いう 意味 を持 ち︑ 李か ら受 けた 侮辱 が采 蘋に よっ て消 され

︑李 に捨 てら れた 喪失 感も 采 蘋 によ って 埋め られ たと 考え られ る︒ 魚玄 機と 采蘋 の同 性愛 につ いて

︑二 人の 関係 性は 詳し く書 かれ てい ない

︒し かし

︑中 気真 術に よっ て性 に目 覚め た 魚 玄機 は︑ 采蘋 との 関係 にお いて

︑肉 体的 な性 欲と いう より

︑精 神的 な情 愛の 心が 適切 だと 言わ ざる を得 ず︑ 性と 情 を 明確 に区 別し てい ない

︒魚 玄機 にと って

︑采 蘋と の関 係は 新し い人 間関 係の 可能 性︑ すな わち

︑情 愛に よっ て満 足 感 を獲 得す ると いう 新し い生 の形 が提 示さ れた

︒ しか しそ の後

︑采 蘋が

﹁趙 の所 で塑 像を 造つ てゐ た旅 の工 人が

︑暇 を告 げて 去つ たの と同 時﹂ に失 踪し てか ら︑ 客 と の謔 浪に 耽っ てい た魚 玄機 は心 が晴 れず

︑温 飛卿 に詩 を送 った

︒ 客と

共に 謔浪 した 玄機 は︑ 客の 散じ た後 に︑ 怏々 とし て楽 まな い︒ 夜が 更け ても 眠ら ずに

︑目 に涙 を湛 へて ゐ る

︒さ う云 ふ夜 旅中 の温 に寄 せる 詩を 作つ たこ とが ある

︒ 寄

飛卿

飛卿 に寄 す 䭞 砌乱 蛩鳴

䭞 砌に

乱 蛩鳴 き︑ 庭 柯烟 露清

䭞 砌庭 柯に

烟 露 清し

︒ 月 中隣 楽響

䭞 砌月 中に

隣 楽 響き

森 鷗 外

﹁ 魚 玄 機

﹂ 論

一 六

(18)

楼 上遠 山明

䭞 砌楼 上に

遠 山 明か なり

︒ 珍 簟涼 風到

䭞 砌珍 簟に

涼 風 到り

︑ 瑶 琴寄 恨生

䭞 砌瑶 琴に

寄 恨 生ず

︒ 䇏 君懶 書札

䭞 砌䇏 君 書札 に懶 し︑ 底 物慰 秋情

䭞 砌底 物か

秋 情を 慰め ん︒ 玄機

は詩 筒を 発し た後

︑日 夜温 の書 の来 たる のを 待つ た︒ さて 日を 経て 温の 書が 来る と︑ 玄機 は失 望し たや う に 見 え た︒ こ れは 温 の 書の 罪 で はな い

︒玄 機 は 求む る 所 のも の が あ つて

︑自 ら そ の何 物 な る か を 知 ら ぬ の で あ る

︒ 魚玄

機は 寂し さの ゆえ に﹁ 䇏君 懶書 札︑ 底物 慰秋 情﹂ と温 飛卿 の書 を希 った

︒温 の返 書は 恐ら く詩 の指 導だ と考 え ら れる が︑

﹁ 失望 した やう に見 えた

﹂魚 玄機 に と って

︑詩 の 指 導だ け で は満 足 で き ない だ ろ う︒

﹁詩 名 を 求め

﹂︑ 芸 術 を 求め た魚 玄機 は︑

﹁ 詩名 が次 第に 高く なっ た﹂ が︑

﹁求 むる 所の もの があ つて

︑自 らそ の何 物な るか を知 らぬ ので あ る

﹂と 詩か

︑情 か︑ 何を 求め たい かを 迷い 始め た︒ すな わち

︑情 愛を 内包 する 生が 芸術 にと って の意 味を 迷う 魚玄 機 は

︑生 が芸 術を 成長 させ るた めの もの と意 識し てい ない ので

︑彼 女の 内面 にお ける 芸術 と生 が統 合で きて おら ず︑ 芸 術 を目 指す 一心 から

︑求 める もの を見 失っ た︒ とこ ろで

︑温 飛卿 はこ の時 点で 魚玄 機の 詩の 変化 に気 づい てい た︒ 陳は

時々 旅行 する こと があ る︒ 玄機 はさ う云 ふ時 にも 客を 迎へ ずに

︑籠 居し て多 く詩 を作 り︑ それ を温 に送 つ 森 鷗 外

﹁ 魚 玄 機

﹂ 論

一 七

(19)

て 政 を 乞 うた

︒温 は 此 詩を 受 け て読 む 毎 に︑ 語 中に 閨 人 の柔 情 が 漸 く多 く

︑道 家 の逸 思 が ほ と ん ど 無 い の を 見 て

︑訝 しげ に首 を傾 けた

︒玄 機が 李の 妾に な つ て︑ 幾も な く 李と 別 れ︑ 咸 宜観 に 入 つ て女 道 士 にな つ た 顛末 は

︑ 悉 く李 の口 から 温の 耳に 入つ てゐ たの であ る︒ 魚玄

機の 詩に 対し

︑温 飛卿 は﹁ この 詩を 受け て読 む毎 に︑ 語中 に閨 人の 柔情 が漸 く多

﹂い と︑ 情愛 によ って 変わ っ た 魚玄 機の 新し い詩 の形 を感 じた

︒魚 玄機 が李 の妾 にな った 前か ら彼 女を 知っ てい た温 飛卿 は︑ 魚玄 機の 人生 の顛 末 を 知っ てい る︒ すな わち

︑魚 玄機 の生 の軌 跡は 既に 彼女 の詩 に影 響し てい ると 考え られ るだ ろう

︒ 魚玄 機が 逮捕 され た後

︑以 下の よう なく だり があ る︒ 李億

を始 とし て︑ 曾て 玄機 を識 つて ゐた 朝野 の人 士は

︑皆 其才 を惜 んで 救は うと した

︒只 温岐 一人 は方 城の 吏 に なつ て︑ 遠く 京師 を離 れて ゐた ので

︑玄 機が ため に力 を致 すこ とが 出来 なか つた

︒ 京兆 の尹 は︑ 事が 余り にあ らわ にな つた ので

︑法 を枉 げる こと が出 来な くな つた

︒立 秋の 頃に 至つ て︑ 遂に 懿 宗 に上 奏し て︑ 玄機 を斬 に処 した

︒ 典拠

では

︑﹁ 而 朝士 多為 言者

︑府 乃表 列上

︑至 秋竟 戮之

﹂⒇

︑ 朝野 の人 士 は魚 玄 機 を 救お う と した た め︑ 京 兆の 尹 は 帝 に 事 情 を報 告 し たが

︑秋 に な って 遂 に 玄 機を 斬 に 処し た と︑ 京 兆 の尹 は 魚 玄機 の 判 決を 決 断 で き な か っ た︒ し か し

︑小 説で は︑

﹁ 京兆 の尹 は︑ 事が 余り にあ ら わに な つ たの で

︑法 を 枉げ る こ と が出 来 な くな つ た﹂ と︑ 魚 玄機 の 才 能 を 惜 し む李 億 を 始め と し た朝 野 の 人 と対 比 的 に︑ 魚玄 機 を 断 罪し た 京 兆の 尹 が 書か れ た︒ 緑 翹 殺し の 事 件 に お い て

︑才 能を 惜し む側 と殺 人罪 で罰 する 側と で対 峙し てい る︒ 最後 の魚 玄機 像が 魚玄 機の 詩才 と魚 玄機 の殺 人罪 に分 か

森 鷗 外

﹁ 魚 玄 機

﹂ 論

一 八

(20)

れ たよ うに

︑芸 術家 の才 能と 芸術 家の 実生 活を めぐ る生 が一 体化 され てい ない から

︑魚 玄機 は﹁ 求む る所 のも の﹂ が 何 か︑ 最後 まで 分か らな かっ たの だろ う︒ それ と同 時に

︑﹁ 帝 も宰 相も 其才 を愛 しな がら

︑其 人を 鄙ん だ﹂ とし て書 かれ た温 飛卿 は結 末に 左遷 され て死 んだ

︒ 此

時徐 商と 楊収 とが 宰相 に列 して ゐて

︑徐 は温 を庇 護し たが 楊が 聴か ずに

︑温 を方 城に 遣つ て吏 務に 服せ しめ た の で あ る︒ 其 制辞 は

﹁孔 門 以徳 行 為 先︑ 文章 為 末

︑爾 既 徳行 無 取

︑文 章 何 以 称 焉︑ 徒 負 不 羈 之 才︑ 罕 有 適 時 之 用

﹂と 云ふ ので あつ た︒ 温は 後に 隋県 に遷 され て死 んだ

︒子 の憲 も弟 の庭 皓も

︑咸 通中 に官 に擢 でら れた が︑ 庭 皓 は龐 勛の 乱に

︑徐 州で 殺さ れた

︒玄 機が 斬ら れて から 三月 の後 の事 であ る︒ 温飛

卿が 左遷 され た制 辞で は﹁ 孔門 以徳 行為 先︑ 文章 為末

︑爾 既徳 行無 取︑ 文章 何以 称焉

︑徒 負不 羈之 才︑ 罕有 適 時 之用

﹂と

︑温 の才 能と 人格 の不 相応 を訴 えら れた

︒こ のこ とは

︑魚 玄機 とも 呼応 して いる だろ う︒ 五︑ お わ り に 魚玄

機の 詩が 小説

﹁魚 玄機

﹂全 編に 何箇 所か 引用 され たよ うに

︑彼 女の 生は 芸術 と区 別視 でき ない

︒少 女時 代に 純 粋 に芸 術に 専念 した 魚玄 機は

︑﹁ 中 気真 術﹂ を修 行す る 道教 世 界 で性 と 情 が目 覚 め た こと に よ り︑ 生の 体 験 が豊 か に な った

︒し かし

︑情 事を 何回 も経 験し た魚 玄機 は︑ 情に 圧倒 され

︑悲 劇を 招い た︒ 小説

﹁魚 玄機

﹂に おい て︑ 芸術 家 に とっ ての 芸術 と生 の関 係が 問わ れて いる ので ある

︒ また

︑鷗 外は 大正 四年 五月 十 四 日︑

﹁ 魚玄 機

﹂を 発 表し た 二 ヶ月 前 に

︑﹁ 二 人の 友

﹂と 題 する 小 説 を雑 誌

﹃A RS

﹄ 森 鷗 外

﹁ 魚 玄 機

﹂ 論

一 九

(21)

第 一巻 第三 号に 掲載 した

︒﹁ 二 人の 友﹂ では

︑﹁ 私﹂ は知 識人 のF 君が 童貞 だと 知っ たの で︑ F君 が性 欲を 制し てい る と 判断 し︑ 距離 が急 接近 する

︒そ の後

︑一 つの 言語 を深 く知 るか どう かを めぐ る学 問観 の差 異に よっ て︑ 次第 に疎 遠 に なっ てい く︒ 鷗外 にと って

︑芸 術家 に関 する 性と 情を 含む 生と 芸術 の関 係が 鷗外 文学 の課 題で ある

※ 本 文 引 用

﹃ 鷗 外 全 集

﹄ 第 一 六 巻

︑ 岩 波 書 店

︑ 昭 和 四 八 年 二 月

︒ な お

︑ 全 て の 引 用 は

︑ 原 則 と し て 新 字 に 改 め

︑ ル ビ は 省 略 し た

﹁ 附 録 魚 玄 機 事 略

﹂ に お け る 句 読 点 は 引 用 者 が 付 け た

︒ 注

⑴ 金 子 幸 代

︑﹁ 歴 史 小 説 の ヒ ロ イ ン

・﹃ 安 井 夫 人

﹄│

│︿ 新 し い 女

﹀ と モ ン ナ

・ ワ ン ナ

﹂︑

﹃ 鷗 外 と

︿ 女 性

﹀│

│ 森 鷗 外 論 究

﹄︑ 大 東 出 版 社

︑ 平 成 四 年 一 一 月

︒︵ 初 出

﹁ 森 鷗 外

﹃ 安 井 夫 人

﹄ 論

│︿ 新 し い 女

﹀ と モ ン ナ

・ ワ ン ナ

﹂︑

﹃ 文 教 大 学 国 文

﹄ 第 一 五 号

︑ 昭 和 六 一 年 三 月

︒︶

⑵ 尾 形 仂

︑﹁

﹁ 魚 玄 機

﹂ と

!

新 し い 女

"

た ち

﹂︑

﹃ 鷗 外 の 歴 史 小 説 史 料 と 方 法

﹄︑ 岩 波 書 店

︑ 平 成 一 四 年 八 月

︑ 二 七 八

〜 二 八 四 頁

︒︵ 初 版 は 昭 和 五 四 年 一 二 月

︑ 筑 摩 書 房 よ り 刊 行

︶︒

⑶ 注

⑵ に 同 じ

︑ 二 七

〜 二 七 一

︑ 二 八 六 頁

⑷ 岡 村 あ ず さ

︑﹁ 森 鷗 外

﹁ 魚 玄 機

﹂ 論

│ 才 女 に 向 け ら れ た 二 つ の 眼 差 し ー

﹂︑

﹃ 国 文 目 白

﹄ 第 五 三 号

︑ 平 成 二 六 年 二 月

︑ 一 四

〇 頁

⑸ 山 崎 一 穎

︑﹁

﹃ 魚 玄 機

﹄ 論

﹂︑

﹃国 文 学 研 究

﹄ 第 二 九 号

︑ 昭 和 三 九 年 三 月

︑ 一

〇 八

〜 一 一

〇 頁

⑹ 例 え ば

︑﹁ 鷗 外 漁 史 と は 誰 ぞ

﹂︵

﹃福 岡 日 日 新 聞

﹄︑ 明 治 三 三 年 一 月

︶ に 荘 子 の

﹁ 虚 舟 の 譬

﹂ を 引 用 し た

⑺ 葉 徳 輝 注

︑﹁ 附 録 魚 玄 機 事 略

﹂︑

﹃ 唐 女 郎 魚 玄 機 詩

﹄︑ 禮 居 藏 宋 臨 安 府 棚 北 睦 親 坊 南 陳 宅 書 籍 鋪 印 本 景 刊

︑ 光 緒 二 五 年

︑ 一

〜 二 頁

﹃ 校 正 康 煕 字 典

﹄︑ 芸 文 印 書 館

︑ 昭 和 四 八 年 年 一 二 月

︑ 二 九 三

〇 頁

⑼ 徐 松 著

︑ 李 健 超 編

︑﹃ 增订

唐 䫆 京 城 坊 考

︵ 修订 版

︶﹄

︑ 三 秦 出 版 社

︑ 平 成 十 八 年 八 月

︑ 九 六 頁

︒︵ 初 版

嘉庆 十 五 年

︵ 一 八 一

森 鷗 外

﹁ 魚 玄 機

﹂ 論

(22)

〇 年

︶︶ 原 文

西 南 隅

︐ 咸 宜 女 冠观

︒ 睿 宗 在 藩 之 第

︐ 明 皇 升 䈀 于 此

︒ 䇖 元 初

︐ 置 昭 成

︑肃 明 二 皇 后 庙

︐谓 之仪 坤 庙

︒ 睿 宗 升 遐

︐ 昭 成 䥆 入 太 庙

︐ 而肃 明 留 于 此

︒ 䇖 元 二 十 一 年

︐肃 明 皇 后 亦衬 入 太 庙

︐ 遂为 肃 明 道 士观

︒ 宝应 元 年

︐ 咸 宜 公 主 入 道

︐ 与 太 真观 换 名 焉

︒︽ 名 画记

咸 宜观 有 䬗 道 玄

︑ 解 倩

︑杨 廷 光

︑陈 闳 画

︒︽ 南 部 新书

长 安 士 大 夫 之 家

︐ 入 道 尽 在 咸 宜

︒ 按 女 道 土 鱼 玄 机 住 咸 宜观

⑽ 本 論 文 に お け る 魚 玄 機 の 漢 詩 の 書 き 下 し 文 は 全 て

﹃ 山 椒 大 夫

・ 高 瀬 舟 他 四 編

﹄︵ 岩 波 書 店

︑ 平 成 二 八 年 二 月 第 一 九 刷

︶ か ら 引 用 し た

︒ 以 下 の 注 は 省 略 す る

⑾ 注

⑺ に 同 じ

︑ 三 頁

⑿ 京 都 大 学 人 文 科 学 研 究 所

﹁ 六 朝

・ 隋 唐 時 代 の 道 仏 論 争

﹂ 研 究 班

︑﹁

﹁ 笑 道 論

﹂ 訳 注

﹂︑

﹃ 東 方 学 報

﹄ 第 六

〇 号

︑ 昭 和 六 三 年 三 月

︑ 五 一 九

︑ 六 七 七

︑ 六 七 八 頁

︒ 原 文

三 十 五 道 士 合 炁 法

︒ 真 人 内 朝 律 云

︒ 真 人 曰

︒ 凡 男 女 至 朔 望 日

︒ 先 齋 三 日

︒ 入 私 房

︒ 詣 師 所 立 功 德

︒ 陰 陽 并 進

︒ 日 夜 六 時

︒ 此 諸 猥 雜 不 可 聞 說

︒︵ 略

︶ 臣 笑 曰

︒ 臣 年 二 十 之 時

︒ 好 道 術

︒ 就 觀 學

︒ 先 教 臣 黄 書 合 炁 三 五 七 九 男 女 交 接 之 道

︒ 四 目 䫆 舌 正对

︒ 行 道 在 于 丹 田

︒ 有 行 者

︒ 度 厄 延 年

︒ 教 夫 易 婦

︒ 惟 色 為 初

︒ 父 兄 立 前

︒ 不 知 羞 耻

︒ 自 称 中 炁 真 術

︒ 今 道 士 常 行 此 法

︒ 以 之 求 道

︒ 有 所 未 詳

⒀ 大 淵 忍 爾

︑﹁ 五 斗 米 道 の 教 法 に つ い て

︵ 下

︶│ 老 子 想 爾 を 中 心 と し て

﹂︑

﹃ 東 洋 学 報

﹄ 第 四 九 巻 第 四 号

︑ 昭 和 四 二 年 三 月

︑ 九 八 頁

⒁ 王 永 平

︑﹃ 道 教 与 唐 代 社 会

﹄︑ 首 都师 范 大 学 出 版 社

︑ 平 成 一 四 年

︑ 一 九 九 頁

︒ 原 文

﹁ 唐 代实 行 度 牒 制 度

︐ 持 有 祠 部颁 发 度 牒 的 道 士

︐ 方为 正 名 道 士

︐获 得 度 牒 的 道 士 享 有 免 除 徭 役

︑赋 税

︑ 兵 役 的 特 权

︐ 而 且 道 士还 籍 隶 宗 正 寺

︐ 享 受 皇 室 宗亲 的 待 遇

﹂︒

⒂ 王 溥

︑﹃ 唐 会 要

﹄︑ 中 華 書 局

︑ 昭 和 三

〇 年

︑ 八 六 七 頁

︒︵ 初 版

九 六 一 年

︶︒ 原 文

﹁ 長 慶 二 年 五 月 勅 諸 色 人 中 有 情 愿 入 道 者 但 能 暗 記 老 子 經 及 度 人 經 灼 然 精 熟 者 即 任 入 道 其 度 人 經 情 願 以 黃 庭 經 代 之 者 亦 聽 宣 令

﹂︒

⒃ 注

⒁ に 同 じ

︒ 原 文

﹁ 除 国 家发 度 牒 正 式记 录 在 案 的 出 家 道 士 以 外

︐还 有 很 大 一 部 分 私 入 道 的伪 道 士

︑ 女 冠

︒这 些伪 滥 道 士

︑ 女 冠

︐ 名 义 上 是 出 家 人

︐实 际 上 他 们 既 不 住 在宫 观 过 宗 教 生 活

︐ 日 常 起 居 也 不 受 戒 律约 束

︐ 道 教 经 典 把 他 们 称 之为

!

在 家 道 士

"

﹂︒

⒄ 注

⑺ に 同 じ

︑ 三 頁

⒅ 注

⑵ に 同 じ

︑ 二 七 八 頁

︒ 森 鷗 外

﹁ 魚 玄 機

﹂ 論

二 一

(23)

⒆ 辛 島 驍

︑﹃ 漢 詩 大 系 第 十 五 巻 魚 玄 機

・ 薛 濤

﹄ 集 英 社

︑ 昭 和 五 三 年 二 月 第 五 刷

︑ 六

︑ 六 一 頁

⒇ 注

⑺ に 同 じ

︑ 二 頁

│ 大 学 院 文 学 研 究 科 研 究 員

森 鷗 外

﹁ 魚 玄 機

﹂ 論

二 二

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