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P-1 日本橋小伝馬町歴史散策の資料 (10 月 19 日 ) 平成 28 年 9 月吉日 作成 植田善朝 1) 宝田恵比寿神社とべったら市江戸時代の中頃 宝田恵比寿神社の門前で 十月二十日の夷講にお供えするため 前日の十九日に市が立ち 魚や野菜 神棚などが売られたのが始まり 糀をべったりつけた浅漬

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P-1 平成28年 9月 吉日 作成 植田善朝 1)宝田恵比寿神社とべったら市  江戸時代の中頃、宝田恵比寿神社の門前で、十月二十日の夷講にお供えするため、前日の 十九日に市が立ち、魚や野菜、神棚などが売られたのが始まり。糀をべったりつけた浅漬け大根 がよく売れたので「べったら市」とよばれるようになった。この神社は室町時代までは、今の皇居 前広場のあたりにあった宝田村鎮守だった。慶長11年(1606)江戸城拡張の時、村人と共にこの 地に移された。商業の守護神として江戸商人の信仰を受けていた。江戸時代には商で商売繁盛 を願って恵比寿神を祀っていた。毎年10月20日この恵比寿様にことよせて顧客や親類縁者を 招いて、祝宴を披く夷講という年中行事がありました。この夷講の道具を商う市が宝田神社の 社前に立っていて、明治以降べったら市に変化したもの。日本橋七福神の恵比寿様が祀られて います。 2)牢屋敷跡  十思公園とその西隣の元日本橋小学校の周辺が伝馬町牢屋敷のあったところ。伝馬町牢屋敷 は江戸初期延宝5年(1677)常盤橋門外からこの地移され、明治8年市ヶ谷監獄が出来るまで 約200年続いた。市ヶ谷に移転したその跡地は無償で与えると言うことになったが誰も処刑者の 恨みを気味悪がって貰い手が付かなかった。そこで十思小学校や身延山別院、大安寺、鬼子 母神などになっていったのである。この牢屋に入れられた者は全期で数十万人と言われる。 総面積は2618坪(8639平方)周囲に土手を廻し、旗本の入牢者には揚座敷、武士・僧侶などは 揚屋、町民は大牢、百姓は百姓牢、それに女牢の区別があった。安政の大獄では吉田松陰、 橋本左内ら50余名が入獄し処刑されている。十思公園の茂みの中に吉田松陰先生終焉の 地碑がある。刑場のあったあたりの大安楽寺(十思公園前)に延命地蔵があります。 3)十思公園  小伝馬町は大伝馬町とともに荷役の運搬をする人たちの住んだところである。東となりの 馬喰町と同じである。小伝馬町1丁目北側の十思公園、小学校あたり一帯が伝馬町牢屋敷で あった。十思公園は昭和5年7月1日に開園、25年から区立公園になりました。この公園には 牢屋敷を発掘した説明パネルがあります。 4)石町時の鐘  十思公園に時の鐘の鐘楼があります。江戸城下の人々に時刻を知らせた時の鐘。本石町 (現日本橋室町4丁目)の鐘つき新道にありました。2代秀忠の時代(1605~1623)に設置さ れたのがはじめと言われている。江戸市中に幕府公認の時の鐘は9ヶ所に設置されていたが、 この石町の鐘が最初に置かれたもので、有名だった。鐘の音が響く範囲は48ケ町におよぶと 言われ、その範囲の商家から一月4文ずつ鐘撞料を徴収していた。明治になると鐘撞もなく なり鐘だけが昭和5年に現地に移転した。 5)大安楽寺  十思公園の前に大安楽寺がる。山号を新高野山というが、和歌山県高野山金剛峯寺から 弘法大師像を迎えて本尊としたことによる。明治8年に伝馬町牢屋敷が廃止になった後、 次頁へ続く。 日本橋小伝馬町歴史散策の資料(10月19日)

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P-2 平成28年 9月 吉日 その跡地は長い間空地になり荒れ果てていた。刑場のあとでもあり嫌って利用する人はい なかった。明治政府は市街地に寺院をつくらせない方針だったが、この地に例外的に寺院を 建造することを許した。創建は明治15年10月、発起人は大倉喜八郎、安田善次郎他数名。 この地はもともと大倉、安田両名の所有地なのでその頭文字をとって寺名とした。 6)身延山別院  大安楽寺の西となりは身延山別院である。明治15年9月、山梨県身延山久遠寺座主の 新井日薩が創建したもの。久遠寺にあった日蓮聖人坐像を本尊とした。この坐像はヒノキ材 の寄木造り。像内に銘があり室町時代後期仏師定蓮が造ったものです。 7)椙森(スギモリ)神社  宝田恵比寿神社の参道口を南に行き右に曲がると椙森神社があります。 日本橋七福神巡りの恵比寿神が祀られています。「江戸名所図会」によれば、藤原秀郷が この神の加護で平将門を滅ぼし、この地に社を建てたのがはじめで、後に太田道灌がこの 神に祈って旱魃を逃れたと言う。江戸時代には新橋の烏森、深川の柳森とともに江戸 参森と呼ばれ杉が生い茂っていた。 椙森神社境内ではしばしば奉納相撲や富くじ興行が行われていました。境内にある冨塚碑は 当社で行われた冨札興行を記念して大正8年に建立したもの。関東大震災で倒壊したが 現在の碑は昭和29年に再建された。 8)玄治店(ゲンヤダナ) 江戸時代のアパート  町内会が建てた碑。昭和43年10月に人形町三丁目町会が建碑しました。 江戸初期、この地に幕府の医官であった岡本玄治の拝領町屋があった。岡本玄治は京都に 生まれた医師。元和9年(1623)2代将軍秀忠に招かれて幕府の御用医師となり将軍家光の 疱瘡を治したことで名前を高めた。のちにその功によってこの地を与えられたこの拝領町屋は 時代とともに商業盛んな土地となり、ここに多くの店(タナ、貸家)ができ、玄治店と言われた。 歌手春日八郎の「お富さん」にもゲンヤダナが歌詞として出てきます。 9)聖大観音寺 「おおかんのんじ」  浅草寺の末寺。江戸33観音札所第3番霊場。石灯籠が二基ある入口が聖観音宗 聖大観音寺です。お百度石も入口脇に保存されています。ここには鉄造菩薩頭があります。 この鉄造観音頭は本殿の奥にしまわれていて毎月の縁日(17日)に拝観出来ます。 鉄造観音頭は鎌倉の鶴岡八幡宮の鉄の井から発見されていました。明治元年の神仏分離 の法令の対称であったので有志が深川の御船蔵前に運び仮安置しました。 明治13年にこの鉄造漢音頭をご本尊とする聖大観音寺が創建されました。 10)水天宮  総本社は福岡県久留米市にあります。本来は水難除けの神として船乗りの守護神であった。 現在では安産にご利益がある神社として有名。久留米の水天宮は久留米藩歴代藩主 (有馬家)により崇敬されています。水天宮の創建は建久元年(1190)壇ノ浦の戦(1185)で 生き延びた平家方の按察使の局伊勢が筑後川のほとりに逃れて安徳天皇と平家一門の 霊を祀る祠を建てたのが始まりです。その後兵火をさけて今の場所に移り慶安3年(1650) 久留米藩2代藩主有馬忠頼が社地と社殿を寄進しました。文政元年(1818)9月9代 次頁へ続く。

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P-3 平成28年 9月 吉日 藩主有馬頼徳が江戸の三田の江戸上屋敷に分霊を勧請した。これが江戸水天宮の始まり。 江戸でも水天宮の信者が多く、一般参拝の許可がなされ毎月5日に一般開放されたので 大変な賑わいであった。祭神は主神として天地創造の神である天御中主大神(あめのみなか ぬしおおみかみ)と水難除災の神として祀られた安徳天皇、配神として女難を救う神として まつられた安徳天皇の母建礼門院と祖母二位ノ尼である。明治4年(1871)有馬家屋敷が 移転で赤坂へ遷座。明治5年(1872)明治新政府により藩邸が接収されて有馬家中屋敷の あった現在の地に移転した。関東大震災により社殿が焼失、権現造りの旧社殿は昭和42年 に建てられた。今般江戸鎮座200年記念行事として建て替えられて平成28年4月完成した。 <<次頁に下見時のスナップ写真>>

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Pー4 <<下見時のスナップ写真>>

<十思公園への道>      <十思公園>

<江戸伝馬町処刑場跡(大安寺)> <吉田松陰終焉の地碑>

(5)

P−5

    <身延山別院>    <宝田恵比寿神社>

<扁額>      <椙森神社>

(6)

P−6

<大観音寺>     <水天宮 遠望>

<水天宮入口>     <水天宮本殿>

参照

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