2016年度 博士学位論文
漢族地域観光と宗族文化の再構成
ー中国徽州文化をめぐるマクロと ミクロのダイナミクス
立教大学大学院観光学研究科博士課程後期課程
李 崗
【正誤表】
No.
該当箇所 誤 正1 ⅱ 17 行目 第 4 節 考察 第 5 節 まとめ
2 ⅳ 24 行目 土地革命 土地改革
3 P9 4 行目 とう直接的 という直接的 4 P9 19 行目 「何づけ」 「名づけ」
5 P9 脚注 4 の 1 行目 に参照されたい を参照されたい
6 P21 3 行目、 8 行目 再編成 再構成
7 P27 12 行目 は確認された を確認した
8 P29 20 行目 . 。
9 P30 脚注 17 の 5 行目 違いに 互いに
10 P41 6 行目 ようにあった ようになった
11 P44 9 行目 名乗り行為 「名乗り」行為
12 P51 11 行目 なっった なった
13 P51 26 行目 (ティム・オークス, 2008 : 91 ) ( Oakes, 2010: 57 ) 14 P52 6 行目 捕らえられ 捉えられ
15 P75 16 行目 第 4 節 考察 第 5 節 まとめ
16 P81 11 行目 彼に属する 彼が属する
17 P81 19 行目 中西は 井上は
18 P84 6 行目 受けたいた 受けていた
19 P84 1 、 7 、 8 、 9 行目 土地革命 土地改革
20 P89 1 行目 身につけ 身につき
21 P89 21 行目 宗族に人 宗族の人
22 P111 3 行目 期待される 期待する
23 P112 28 行目 開発にされなくて 開発にさらされなくて
24 P123 22 行目 曾士才 曾士才先生
【参考文献追加】
アーネスト・ゲルナー(
2002):民族とナショナリズム.加藤節 監訳.岩波書店,254p.
永渕 康之(
1996)
:観光=植民地主義のたくらみ-一九二〇年代のバリから.山下晋司 編,観光人類学,新曜社,35—44.
Oakes, Tim. (2010) Alchemy of the Ancestors: Rituals of Genealogy in the service of the Nation in
Rural China. Oakes, Tim and Donald. S. Sutton ed. Faiths on Display: Religion, Tourism, and
the Chinese State. Rowman & Littlefield Publishers. 51-78.
目 次
第1章 序 論 ... 1
第1節 問題の所在 ... 2
1 .研究の目的 ... 2
2.研究の背景 ... 7
第 2 節 研究方法と調査の概要 ... 10
1.文献研究 ... 10
2.フィールドワーク ... 10
第 3 節 研究対象地域 ... 12
1 .安徽省・徽州地域と黄山市 ... 12
2 .西逓 ... 16
第4節 本論の構成 ... 20
第 2 章 中国における文化政策の変遷と観光振興 ... 23
第1節 改革開放以前の中国観光 ... 24
1.華僑や香港・マカオ同胞の親族訪問や帰国観光 ... 24
2.国際観光 ... 24
3 .文化大革命期の政治巡礼 ... 26
第 2 節 改革開放以降、中国における文化政策の変遷と観光 ... 27
1 .伝統文化の再発見と政治資源化 ... 27
2 .観光資源の制度化 ... 30
3.観光開発の主体の多様化 ... 35
第 3 節 同じ「漢族」、多様な「地域」 ... 35
1.中華民族多元一体構造論の提起 ... 36
2.文化区の画定 ... 36
3 .文化生態保護区制度の発足 ... 37
第 4 節 まとめ ... 41
第 3 章 再創出される「徽州」と資源化される徽州宗族 ... 43
第1節 黄山市の観光 ... 44
第 2 節 黄山市における観光開発の方向の転換
− 観光における「徽州」の登場 ... 47
1 .観光前史 ... 47
2 .自然観光地としての黄山市( 1980 年代〜 1995 年) ... 48
3 .徽州文化観光への着手と発展( 1996 〜 2003 年) ... 50
4.黄山観光と徽州文化観光の並行期( 2004 年〜現在) ... 52
第 3 節 「徽州」と「名乗る」地方政府と地域社会 − 「徽州」の誕生 ... 53
1.黄山市における徽州学の展開と「徽州人」の組織 ... 54
2.歴史の再構築 —篁墩
コ ウ ト ンの再発見と宗族の資源化 ... 55
3 .「徽州」の「名」を取り戻す活動 ... 61
第 4 節 中央政府による「名づけ」 − 徽州文化生態保護区の建設 ... 63
1.徽州文化生態保護区の発足と博物館の建設 ... 64
2.博物館における徽州地域の展示 ... 66
3.徽州宗族に関する表象 ... 74
第 4 節 考察 ... 75
第 4 章 西逓村における宗族の再構成と資源化に関する民族誌的記録 ... 79
第1節 徽州村落の代表地としての西逓 ... 80
1 .歴史上の西逓村と宗族 ... 80
2 .西逓の観光発展 ... 84
第 2 節 西逓観光における宗族の人たちの活動 ... 87
1.ガイドブックの編纂 ... 88
2.宗族に関する展示 ... 89
3.祖先祭祀の再創造 ... 93
第 3 節 西逓宗族の活動の拡大 ... 99
1 .ローカルを超える − 族譜の整理とルーツ探し ... 100
2 .徽州宗族の代表としての西逓宗族 ... 101
3 .グローバル世界へと広がる − 宗親会への参加 ... 101
第 4 節 宗族文化の接合とそれをめぐる葛藤 ... 102
1 .国家の政治理念との接合−観光における「孝」 ... 102
2 .葛藤−祖先祭祀儀礼をめぐって ... 105
第 5 節 まとめ ... 107
第 5 章 考察および結論 ... 109
参考文献 ... 115
謝辞 ... 123
図・表・写真の一覧
図
図 1−1 安徽省と西逓の位置関係 ... 12
図 1 − 2 世界遺産の指定範囲と周辺地域 ... 16
図 1 − 3 西逓村における観光資源の分布図 ... 17
図 1−4 論文の構成 ... 22
図 2−1 2013 年までに指定された国家級文化生態保護区の分布 ... 38
図 2−2 中国歴史文化名村の分布図 ... 40
図 3−1 黄山市内の観光スポットの分布図 ... 44
図 3−2 安徽省黄山市におけるインバウンド観光者
※数と外貨収入の推移 ... 46
図 3−3 安徽省黄山市における国内観光者数の推移 ... 47
図 3 − 4 歴史上徽州地域における主な宗族の村 ... 59
図 4 − 1 西逓における観光者数と観光直接収入の変化図 ... 87
表 表 1−1 現地調査の期間と内容 ... 11
表 2−1 1978 年以降の中国観光の重要な出来事 ... 28
表 2−2 中国における観光資源の制度化 ... 31
表 2−3 国家級重点紅色旅遊区 ... 34
表 3−1 2005 年以降に開かれた黄山旅行祭のテーマ ... 53
表 3−2 主要な宗族の村の現状 ... 60
表 3−3 徽州における博物館・記念館の一覧 ... 65
表 4−1 土地革命以後、西逓の人事変動 ... 84
写 真
写真 1−1 黄山の山岳風景 ... 15
写真 1−2 宗族の功績を顕彰するための牌楼 ... 20
写真 1−3 西逓村の町並み ... 18
写真 1 − 4 宗祠「追慕堂」 ... 20
写真 1 − 5 宗族の祖先祭祀儀 ... 19
写真 3−1 徽州文化促進会が立ち上げた「故園徽州フォーラム」 ... 55
写真 3−2 篁墩村の展示館にある展示パネル ... 57
写真 3−3 2014 年に篁墩村程霊洗の墓の前で祖先祭祀を行う様子 ... 58
写真 3−4 歙県における「改徽建徽」 ... 60
写真 3−5 休寧県における「改徽建徽」 ... 61
写真 3−6 「永遠の徽州ー徽州 888 周年記念集」 ... 62
写真 3 − 7 安徽省徽州文化博物館の正面 ... 66
写真 3 − 8 徽州地域の自然環境と景勝地 ... 66
写真 3−9 徽州人と徽州地域の誕生 ... 67
写真 3−10 徽州商人になる歴史背景の紹介 ... 67
写真 3−11 江南地域で活躍する徽州商人 ... 68
写真 3−12 海外にも進出した徽州商人 ... 67
写真 3−13 徽州商人を支えた徽州の女 ... 68
写真 3−14 「東南鄒魯」 ... 69
写真 3 − 15 「程朱闕里」 ... 68
写真 3 − 16 徽州地域の歴代状元の一覧表 ... 69
写真 3−17 徽州地域の著名な宗族の分布図 ... 70
写真 3−18 徽州宗族の拡散図 ... 71
写真 3−19 祠堂で議論を交わす宗族の人たちの様子 ... 71
写真 3−20 徽州村落にある主な祠 ... 71
写真 3−21 徽州地域の牌坊の分布図 ... 72
写真 3−22 展示された族譜 ... 73
写真 3 − 23 徽州村落の代表例 — 西逓村 ... 73
写真 3 − 24 徽州建築の特徴 — 「馬頭墻」 ... 73
写真 3−25 徽州建築の内部構造 ... 74
写真 3−26 「徽州三彫」その 1—木彫り ... 73
写真 3−27 「徽州三彫」その 2—石彫り ... 74
写真 4−1 西逓村の牌楼 ... 81
写真 4 − 2 宗族によって建てられた祠堂 — 敬愛堂 ... 82
写真 4 − 3 西逓全景 ... 85
写真 4−4 宗族の人によって編纂された西逓ガイドブック ... 88
写真 4−5 修復された始祖の墓 ... 90
写真 4−6 現在、追慕堂に置かれる「龍椅」 ... 91
写真 4−7 修復された追慕堂の内部 ... 91
写真 4−8 追慕堂における西逓胡氏宗族の族譜に関する展示 ... 92
写真 4−9 追慕堂で供養される唐の皇帝唐太宗李世民の像 ... 92
写真 4 − 10 西逓村委員会にある宗族の族譜の展示 ... 93
写真 4 − 11 2004 年に行われる始祖誕生 1100 年記念活動の写真 ... 100
写真 4−12 敬愛堂にある「孝」 ... 99
写真 4−13 追慕堂にある「十四孝図」 ... 102
写真 4−14 新たに建設された霊園の入口 ... 102
写真 4−15 霊園にある「孝」の字 ... 105
第1章
序 論
第1節 問題の所在
1 .研究の目的
本 論 文 は 徽 州 地 域 を 事 例 地 と し て 取 り 上 げ 、「 国 家 級 文 化 生 態 保 護 区 制 度 」 と い う 新 た な国家政策の実施にともなって、観光という文脈で漢族地域の多様性が再構成され、地域 文化が資源化されるダイナミズムを明らかにすることを目的とする。
昨今、先進国・発展途上国を問わず、経済振興の手段として観光開発を取り入れること が一般的になっている。特に、国際貿易システムにおいて不利な立場に立たせられがちな 発展途上国において、外貨獲得の手段として国家主導で観光に取り組むことは広く見られ る。途上国の観光開発はほとんどの場合、経済政策として国家あるいは地方レベルの政府 によって決定されている(山村, 2006 : 44 )。また、発展途上の国々によく見られる国家主 導の観光開発政策は、ただ経済的な発展を目指すものではなく、同時に国民国家としての 統合を高めるための文化政策でもある(高谷,2014)。
人類学における観光と文化をめぐる議論を概観すると、観光の政治性の問題に必ずしも 十分な関心を払ったとはいえない。これまで観光の政治性をめぐる論考は、植民地主義と の関連の中で展開されたものと、国民国家という枠組みの中でなされたものと、大きくこ の 2 つに分けられると考えられる。前者については、観光が植民地支配の正当化を図るた め植民地統治の一環として植民地政府によって取り入れられたものとして捉えられている。
例えば、日本の植民地政府によって組織された、満州や朝鮮、台湾など日本の支配下に置 かれた植民地への視察や修学旅行、植民地の国民による内地観光はその典型的な例といえ る。そこで、日本の植民地政府は日本の国民に植民地経営の成果を見せ、帝国の臣民とし ての誇りを向上させようとした一方、植民地の国民に日本の優位性を実感させ、日本への 帰服を促そうとしたのである(高, 2005;李, 2007;千住, 2012)。また、1920 年代のバ リ島において、バリの伝統文化の保護とともに進められた観光開発は、植民地政府が「良 き」統治者であることを証明し、宣伝する意図が込められていたのである(長渕, 1996:
38 )。後者の場合、国民意識を育成し国民の統合を図る文化政策として、観光が国家によっ て推進されるのである。特に少数民族の文化を資源とするエスニックツーリズムは、対内 的に少数民族の国民国家への帰属意識を高める一方、国際社会に国家の民族文化政策の有 効性を誇示する意図が伺える(山下, 1999;曾, 2001)。
一方、観光と文化との関係をめぐる人類学的観光研究は、論文集「Hosts and Guests :The
Anthropology of Tourism( Smith,1989)」の出版がその端緒とされる。その中では、ゲストに 当たる観光者の来訪がホスト社会の伝統文化に与える負の影響が強調され、ホスト側のア イデンティティの喪失をもたらす恐れがあるという観光に対する批判的な意見が顕著であ
る( Greenwood,1989: 171-186 )。1990 年代以降、観光による伝統文化の変容という「消滅の
語り口」から一転して、観光が導入されることによって伝統文化が必ず衰退するとは限ら ず、新たに創出される可能性が秘められているという、いわゆる「生成の語り口」が主流 となった(山下,1996)。観光資源化に携わる各主体が創造力を発揮し、伝統にはない創意 工夫を旺盛に行うこと、いわゆる「文化の客体化」 (太田,1993)が肯定的に評価されてい る。観光者のために構成された「観光文化」はかえってホスト社会に還元され、自らのア イデンティティの拠り所とされることはバリ観光(山下,1999)、日本の遠野ふるさと観光
(川森, 2001)などに関する研究によって報告されている。
これらの論考を概観すると、観光の政治性に関しては必ずしも十分関心を払ったとはい えない。また、菊池が指摘しているように、 「支配的な知と力を行使する『中央』に対して、
対抗や流用の主体として『現地』に生きる人々の積極性を評価するまなざしは、奇妙なこ とに、当の「現地」なるものを過剰に自律的な統合体として切断し、そこに生きる人々の 内部的差異を隠蔽してしまう(菊池, 2001: 253)。
1978 年以降、共産主義の実現から経済発展を核とする近代化に政策の方向を転換した中 国では、観光産業においても改革が実施され、海外観光者による国際観光のみならず、一 般中国人による国内観光も盛んに行われるようになった。そこで、自然景観や多様な民族 文化、地域文化などが国内外の観光者の眼差す対象となってきた。中国の観光発展の歴史 を概観すると、 1978 年以前国際観光は外交の一環として展開され、国内観光は主にイデオ ロギー教育の強化手段として位置付けられていたが、観光開発を本格化した 1980 年代以降 の中国観光も依然として政治的色彩を帯びている(松村,2000:160;韓,1996:169)。松
村( 2000)はホスト側の「見せ方」に注目し、中国における観光資源の再発見と制度化の
過程を辿りながら、中国における観光の政治性に接近しようとした。 「現代中国における観 光現象は、常に政治的問題をはらんで展開し、 (中略)意味や価値が充填された国土空間の 生産のみならず、国民意識やナショナリズムの育成、さらに国境を越えた中華民族主義の 喚起などにも関連してきた」と結論付けた(松村,2000: 21)。1980 年代に中国政府が主 導的に観光を推進するにあたって、伝統的中国文化の保護・社会主義イデオロギーの堅持・
経 済 発 展 を 核 と す る 近 代 化 の 3 つ の 異 な る 目 的 を 調 整 す る 役 割 が 期 待 さ れ た の で あ る
( Sofield and Li, 1998)。社会主義国家である中国における観光現象について考える際、中 央政府は無視できない存在である。 「人民公社が解体され、対外的にも開放政策がとられる ようになった今日でも、共産党が政治面でのチャンネルを一元的に掌握していることに変 わりはない。かつ、共産党は全面的に排撃してきた文化を無条件で容認するようになった わけでは決してなく、むしろ近代化を実現するためにそれらを選択的に政策に動員しはじ めたのだ」と川口は分析している(川口, 2013 : 29 )。
1980 年代から中国で本格化した観光開発政策に関して、「中国観光における土着文化と 地域文化のあり方は常に政府の文化政策と連動している」という韓の指摘がある(韓 2005)。
「伝統文化」の復権、再編、創出は、国家の政策の枠内である程度意図的・選択的に行な われてきたことも否定できない(瀬川,2003: 154)。すなわち、ある地域・集団に根付い た「伝統文化」が経済発展という名のもとで観光資源として再評価・再構成される。その 過程の中で、常に国家の思いとのすりあわせが行われる。国家の文化政策の変化に対応し ながら、中国の各地域は自由競争の中で生き残るために、積極的に「地域文化」の再構成 に力を入れてきた。
一方、中国の文化観光の創出について考える際見落としてはならないは、中国では経済 的・社会的・文化的に異なる民族・地域が存在し、それに観光に関わる各レベルの国家機 関も必ずしも一枚岩ではないことである。曾が指摘しているように、 「社会主義国である中 国では、縦割りの行政組織のヒエラルキーが整然としているため、中央集権一辺倒である かのような印象を持ってしまう。しかし、中央レベルと省レベルとの間や、省レベルと県 レベルとの間では思惑が異なることも稀ではない。」また、「民族観光のプロモーターとし て の 『 国 家 機 関 』 を 語 る 場 合 、 中 央 レ ベ ル と 地 方 レ ベ ル と を 区 別 す る 必 要 が あ る 」( 曾 , 2001 : 88-89 )。
そして、中国の観光開発には国家主導と地域の自律的観光開発という2つの特徴がある
(韓,2007:59)。改革開放政策により市場競争に直面する中国の各地方政府は、自地域の 発展のために積極的に文化観光の創出を進めている。グローバリゼーションが村落社会ま で浸透しその威力を発揮する 1990年代以降、グローバル資本が投資先を選択するにあたり、
「文化」がますます重要な要素となりつつあることが加担して、地域文化の再構成が地方 政府や地域住民の急務となった。
このように、中国における観光と文化について考察する際、国家レベルでの文化政策と
地方政府や地域住民の両方に目を向ける必要性が生じてくる。地域文化の再構成は自地域
の経済発展のための観光開発に寄与されると同時に、国民形成を促進する中国という国家 の中で地域アイデンティティを構成・確認し、文化的序列において自らを位置付ける上で も重要になってくる。
56 の公式民族を抱え地域的特色に富む中国では、多様な民族文化・地域文化を観光資源 とする取り組みが盛んに行われている。その中で、人口の 90 %以上を占め国土の広範に亘 って存在し中国社会のマジョリティに当たる漢族とカテゴライズされる民族集団は、実際 には、その内部に社会的および文化的多様性が認められ、その多様性こそが近年ますます 異質性・他者性を求める「観光のまなざし」の対象となりつつある。事実、改革開放以降、
漢族社会の多様な地域文化をめぐって、有・無形文化遺産の登録や歴史文化名城・鎮・村 の指定、生態博物館の建設など、一連の文化政策が国家によって実施されてきた。2008 年 に国家の文化政策の新たな試みとして、 「文化生態保護区」制度が発足した。第3章で詳述 するが、無形文化遺産の保護を目的に発足したこの制度は、地域文化が育まれる土台とさ れる自然環境を含む地域全体の再評価・再構成を目指すものであり、ローカルとナショナ ルを繋ぐために国家が打ち出した文化政策と考えられる。
観光という文脈で漢族地域の多様性が再構成され、地域文化が資源化される現象が中国 各地で見られる一方、それをめぐるダイナミズムを考察する人類学的観光研究は少ないの が現状である
1。筆者は博士課程前期課程では、文化の「資源化」という概念を用いながら、
漢族の地域における文化観光を研究課題とした。稲垣(2011)は観光資源について、観光 という社会制度の中で生み出される存在であり、先験的な観光資源は存在せず、事物・事 象は観光者の欲望と向き合うことで初めて資源化するとみなすことができると指摘してい る。 「文化資源」の概念については、森山が指摘しているように、単に「文化」が「『資源』
である」という、それ自体としては静的な位相だけでなく、むしろ「文化」を「『資源』に する」という契機、すなわち「資源化」という動的な契機を対象化するものである(森山,
2007a:62)。 「文化資源」という用語を用いるとするならば、そこで主題化されるのは、①
誰が、②誰の「文化」を、③誰の「文化」として(あるいは誰の「文化」へと)、④誰を目 がけて「資源化」するのかという、「誰」をめぐる四重の機制なのである(森山,2007b:
84)。筆者が初めてフィールドの安徽省黄山市に入った 2008 年は、ちょうど黄山市が中央
1 例えば、韓(2005)は雲南省和順郷の観光開発の過程に見られる地域文化の再構築と文化表 象について調査した。瀬川(
2004)は広東省の南雄珠キ巷の建設や土楼の保護に関わる地方政
府と観光業者と宗族らの関係について調査し考察を行った。政府に徽州文化生態保護実験エリアに指定された年であった。その時、徽州の歴史や文化 の再構成が市政府や地域住民によって盛んに行われていたことをフィールドで目にしたの である。そこで、博士課程前期課程では、黄山市の西逓村を研究事例として取り上げ、そ の 地 域 の 特 色 を 表 す も の と し て 宗 族
2と い う 父 系 親 族 組 織 に 関 連 す る 文 化 や 各 々 の 文 化 要 素が観光者の眼差しを惹きつける資源として再構成され、再創出された過程を報告した。
①国家と、②村(及び宗族)と、③観光業者との 3 つの資源化の主体に注目し、従来村の 日常生活の場で実践される文化がいかに観光資源化されたかについてフィールドワークを 行い、修士論文として纏めた。
だが、国民国家という枠組みの中で社会的次元の両極端に位置するナショナル(国家)
とローカル(村)を直接対置させ、そこで展開される地域の再構成と文化の資源化をめぐ る交渉に関する事象を記述し考察するという研究手法は、文化資源化の政治性を浮かび上 がらせるのに便利ではあるが、それゆえに議論が硬直的になり、結果的に短絡的な結論に 導かれることになる恐れがある。まず、ローカルという言葉で名指される空間的・社会的 範囲は、文脈によってかなり伸縮性があるため、地域の観光について分析するにあたって は、議論の困難さや曖昧さを増幅させる恐れがあると指摘しなければならない。それに加 えて、ローカルなレベルでの文化のあり方は国家の文化政策に影響され、時には直接的に 規定されることがあるとしても、実際それをめぐる交渉が行われるのは、往々にして文化 の所有者と、ローカルとナショナルとの中間に位置する「リージョン
3」との間である。 「地 域」という中間的な存在が、ローカルとナショナルとの直接的な対峙を避け、両者間の交 渉が成立するのに仲介的な役割を果たすと考えられる。
先行研究では地域の再構成に関して、地域側の視点から考察する議論が見られる。グロ ーバル化が進展する現代社会におけるローカリティの再構成の問題について、人類学者の アパデュライは以下のように指摘している。 「あらゆる『地域』は、それぞれ自分なりの『地 域』を考える、或いは生産するという考えから、ローカリティは、スケールにかかわるも
2 宗族とは、中国漢人の父系親族集団であり、理念的には一つの宗族は一つの村を形成してい る 場 合 が 多 い 村 落 の 立 地 や 村 落 内 の 諸 施 設 ( 住 居 や 墓 地 ) は 風 水 思 想 に 基 づ い て 配 置 さ れ る 。 その主な機能は、祖先祭祀、宗祠や墓地あるいは基本財産としての族産の共有運営、族譜の刊 行などである。
3 中国語では「リージョン」を「地域」と訳するのが一般的である。本文でもこれより「地域」
という語を使う。中国における「地域」という用語の意味について、単なる地理的範囲を指す のではなく、自然環境に規定されて歴史的に形成され、政治的文化的に国家に組み込まれると いう意味合いが強いことを指摘したい。
のでも、空間的なものでもなく、何よりもまず関係的で文脈依存的なものとされる。」また、
ローカルな実践やプロジェクトの発動は、そうしたエスノ・スケープを背景にして想像さ れるのだと認識されるという(アパデュライ,2004: 321−322)。橋本(2007)は日本国内 の地域文化観光の事例を取り上げ、ゲルナーのナショナリズムの形成過程(ゲルナー, 2002)
を参考しながら、地域性とは地域のことを考え、地域に対して愛着を持つ人たちによって 育て上げられるもので、地域とは地域性が現出する場であると指摘している。さらに、地 域性はナショナリズムからの圧力やグローバリゼーションで求められる画一性に直面する 際に姿を表すと橋本は主張している。
そこで、宗族及びそれに関連する文化の地域的多様性を視野に入れる本研究では、 「地域」
が分析の概念として有用性を持つようになる。それを導入することによって、従来の「ロ ーカル対ナショナル」という枠組みでは、解釈できなかった地域の再構成と文化の資源化 をめぐる各ファクターの実践の数々を掬い上げ、それをめぐる複雑な事象を整理すること が可能になると期待される。
このような問題意識に基づいて、本研究では中国の漢族地域における地域の再構成に焦 点を当て、 「文化生態保護区」制度の実施に伴う地域文化、特に地域における宗族文化の資 源化をめぐるナショナルとローカルとの動態的関係を人類学的フィールドワークに基づい て明らかにしようとする。
2.研究の背景
改革開放以降の中国では、市場経済の導入により急速な経済成長を遂げてきた。金銭的・
時間的余裕の増大に後押しされ観光消費活動が拡大しつつあるとともに、観光地間の競争 がいっそう激しくなってきた。地域特色のある文化が観光者を惹きつける貴重な資源であ ることを認識した地方政府や地元知識人、地元住民は、積極的に地域性の創出に取り組み、
地域文化の再構成を進めてきた(韓, 1996;曾,2001;横山, 2004)。ナショナルなレベル、
さらにはグローバルなレベレでの市場競争に直面せざるを得ない中国の各地域では、本来 地域の日常生活に根付いた伝統文化が、市場主義的価値基準に基づいて取捨選択され、再 構成され、地域性を表す表象として資源化される。
一方、観光における漢族の表象について韓は次のように指摘している。 「漢族の民族性が
あまりにも多様で、あるいはあまりにも単調なため、漢族の『民族表象』の限界がどうし
ても出てくる。漢族の表象は結局地域表象や家族、宗族のようなある集団の表象になって
しまう傾向が見られる」という。 「地域出身の英雄、有名人、地域の歴史、中原文化との関 連性などをネタにする地域文化の再構成がよくみられる」 (韓,2008:258)。例えば、湖南 省の韶山市は、中華人民共和国の創設者の一人である毛沢東の生誕の地として、毛氏宗族 の祠堂や、毛沢東記念館や毛沢東の泊まったホテルなどを整備・建設し、巡礼観光とレッ ド・ツーリズムを推し進めてきた(韓, 2008 )。福建省南部では、一部の客家に属する「円 形土楼」という建築様式を地域の象徴として観光振興を図ろうとする事例が報告されてい る(瀬川,2012)。また、観光スポットの著しい増加にともなう相互競争の激化も生じてい る。それはより地方的特色を強調した差異化の動きへとつながっている。瀬川が指摘して いるように、文化資源の開発は、その初期段階においては、多くの人に知られているステ レオタイプ的な文化要素が対象となる傾向をもつものの、開発の進展に従い、観光スポッ トや観光要素間の競争が激化する段階になると、より少数の人のみが知る隠れた文化要素 へと『掘り進み』が行われる傾向をもつ(瀬川,2012: 222)。
前述したように、漢族地域の多様性の再構成が地域社会の観光振興の取り組みと相まっ てますます活発になりつつある一方、国家によっても注目されるようになってきた。観光 振興が本格化した 1990 年代以降、漢族社会の多様な地域文化をめぐって一連の文化政策が 国家によって実施されてきた。1990 年代以降の中国では、中国の社会人類学者・費孝通に よって提起された中華民族多元一体論の隆盛と同調した形で、多様に現出する地域文化が 中華民族の伝統文化の多元性の表れであるという論調が主流となってきた。さらに、 2008 年に国家の文化政策の新たな試みとして、 「文化生態保護区」の建設が始まった。無形文化 遺産の保護を主な目的に発足したこの制度は、中国という国土空間から地理的・文化的に 特色の顕著な地域を伝統文化の見本として選び出し、重点的に保護・保存するとともに観 光振興を含む地域の経済的・文化的活性化に利用・活用し、民族統一と愛国心の育成に寄 与することを目指すものである。つまり、文化生態保護区制度は、国家主導で文化という 尺度を用いて各地域に対して再評価を行い、その再構成と活用を促進するものとも考えら れる。このように、中国における漢族の地域文化の再構成を考える際、地域による取り組 みと国家による文化政策の両方に目を向け、総合的に考察することが求められる。
ところで、観光という文脈での地域の創出は、内堀による「民族の生成」に関する議論 を想起させる。内堀によれば、民族とは上蓋を全体社会、基底を対面的共同社会(小集団)
とした、その中間に位置づけられる範疇だという。中間範疇としての民族の生成は、当該
集団自らによる「名乗り」と、外部者(国民国家の場合は国家)による「名づけ」の相互
交渉の過程の中で生成される。 「民族」範疇のあり方は状況によって変わり、国家または共 同社会によって操作されうる。国民国家の場合、制度化された政治権力としても「国家」
による「名づけ」は、民族の生成において決定的に重要であるという。 「国家」が「人と人 とう直接的影響力をもととせず、なんらかの中間範疇を媒介としてそこに含まれる人々を まとめ、それに働きかけることによって人を動か」そうとするものである(内堀, 1989 : 30 − 32 )。
また、民族の水平的分化について、内堀は「全体社会が『国家』の存在によって規制さ れる歴史的世界にあっては、 『国家』の『名づけ』に対して共同社会がそれを受け入れ承認 することは、全体社会の秩序化への服従であるとともに、それを機会として捉えた自己の 拡張と組織化への志向でもありうる」と述べる( ibid: 34)。この「名乗り」こそが民族の 分化のメカニズムの初源であるとされる。
そして、「「名」は中間的媒介的範疇としてその最も根底的なところでは物質的なものを もたない「民族」に与えられる、唯一ではないが最も効果的な物質代替物である。( ibid : 35 )」。「「名乗り」の実践は他者との相互行為のなかで他者に対して自己を違いとして表現 するだけでなく、同じ「名乗り」を用いるものに向けて自己同一を繰り返し確認し、その ことによって「名乗り」の基礎にある「名」をいっそう物質的なものに見せる。 (内堀, 1989:
27−43)」さらに、この「名」のもとに、過去を備え未来を語りうる民族として実現する可 能性が現在にあるものとしての共同社会に開かれるのである。
内堀の論文は、民族の生成について議論するものであるが、対面的共同社会と全体社会 の中間に位置するその他の人間集団の分化を考察するにあたって、「名乗り」と「何づけ」
による民族の生成理論が示唆的である。本研究では、内堀の民族に関する議論を、多様性 に富む漢族社会における「地域」の生成の解明に援用する。上述のように、現代中国にお いては漢族内部の多様性が地域側によっても国家によっても注目されている。地域という 中間範疇を媒介に地域の人々を動かし漢族の統合を図ろうとする国家による文化政策の実 施と、地域の創出をめぐる地域の実践が同時進行している。具体的には、調査対象地であ る安徽省黄山市
4における、 「徽州」と「名乗り」、ローカリティを創出しようとする地域社 会の取り組みと、それを「徽州文化生態保護区」に位置付けようとする国家の「名づけ」
4 研究対象地域の選定理由及びその紹介は第2節に参照されたいが、ここで簡略に説明すれば、
安徽省黄山市は歴史的に宗族の発達した地域で、中国全国から見ても率先して観光振興を地域 の発展戦略に取り入れ、地域文化の再構成と資源化に積極的に取り組む地域である。
行為に注目し、特に観光という文脈において宗族及びその文化が再構成され、資源化され る動態に注目する。
第 2 節 研究方法と調査の概要
中国観光における地域の再構成をめぐる国家の側と地方政府や地域住民などの行為者の 相互作用を考察するにあたっては、中国の文化的状況を規定する国レベルでの文化政策の 精査と具体的な事例分析が不可欠である。そこで本研究では、まず観光との関連を意識し ながら改革開放以降の中国における文化政策の変遷を整理する。次に、調査対象地域とし て安徽省黄山市を取り上げ、黄山市政府の「名乗り」行為と国家の「名づけ」行為に焦点 をあて、徽州地域の再構成に関する地域と国家との動態的な相互交渉について、地域レベ ルの文化政策の整理や政府関連機関への聞き取り調査などを通して明らかにする。さらに、
徽州地域の再構成というマクロな状況に置かれながら、日常的に文化の資源化に関わる宗 族を含む地域住民の実践と思惑を描き出すため、中長期にわたる人類学的フィールドワー クが有効であると考えられる。具体的には以下のように示す。
1 .文献研究
(1)地域文化のあり方は伝統文化に対する中国政府の文化政策と深く関わっているため、
中央・省・市の文化部、無形文化遺産関連部局の発布した法律・規定や組織の活動などに ついて精査した。特に、 「文化生態保護実験エリア」が設立される歴史的背景や経緯、政策 の内容について調査した。
(2)事例対象地・安徽省黄山市における徽州文化をめぐる地域の方針や、観光開発にお ける宗族文化の位置づけと徽州地域の表象の変化について、 「人民日報」、 「安徽日報」のよ うな公的新聞メディアや、地方知識人によって設立された徽州学研究所の刊行物や、地方 誌などの資料を広く収集した。
2.フィールドワーク
(1)黄山市における地域レベルでの文化政策の変遷や観光政策の変化、文化生態保護実
験エリアの現状などについて、市・県の政府観光機関へ聞き取り調査を行った。徽州地域 の文化的中心地であり、市政府の所在地でもある屯渓市で短期間滞在し、地方誌や族譜、
研究機関の学術誌のような文字資料を広範に収集した。それに加えて、徽州地域や宗族の 表象について、博物館の関係者や一般市民、観光者などを対象に聞き取り調査を実施した。
(2)黄山市の代表的な村落とされる西逓村に 7 回にわたり、観光現場では宗族文化がど のように再構成され、観光業者、政府関係者、地元の人々がどのような交渉を行っている かについて、現地調査を行った。より多くの地域住民から資料を集めるため、訪れるごと に異なる民宿に泊まることにした(表 1−1)。
表 1 − 1 現地調査の期間と内容
第1回
(2008年
3月15日~2008年3月25日)
西逓村の歴史や西逓観光の歴史、観光資源、西逓 観光に関する資料の収集;
西 逓 観 光 に か か わ る 人 ま た は 組 織 へ の 聞 き 取 り 調査。
第2回
(2008年
12月25日~2009年1月5日)
黟県観光局、黟県世界遺産管理弁公室、西逓旅遊 服務公司の関係者に西逓・黟県の観光発展と企画、
遺産保護などについて;
西逓村共産党党員、西逓胡氏宗族の子孫、雑姓の 村人、西逓旅遊服務公司の関係者、西逓以外の地か ら 来 て 観 光 業 に 携 わ る 人 々 や 観 光 者 に そ れ ぞ れ 観 光への態度、村人間の関係、観光資源としての祖先 祭祀などについて。
第3回
(2009年
8月20日~2009年9月10日)
祖先祭祀を中心に。
第4回
(2011年8月15日~2011年9月13日)
3回目の調査と1年間の時間的な差があるため、
そ の 間 で の 黄 山 市 観 光 の 変 化 と 西 逓 村 の 地 域 社 会 の変化を読み取ることに集中しながら、歴史的には 徽州の一部であった江西省婺源(うげん)の宗族村 を訪れ、宗族の活動状況や西逓村との連携について 調査した。
第5回
(2012年
8月21日〜2012年9月17日)
徽州文化生態保護区制度の現状と実施状況につい て 黄 山 市 の 文 化 局 の 関 係 者 に 聞 き 取 り 調 査 を 行 っ た。中国徽州文化博物館をはじめ、徽州区域内の博 物 館 建 設 と そ こ に お け る 宗 族 の 表 象 に つ い て 調 査 した。
第6回
(2014年
7月25日〜2014年8月20日)
徽州文化生態保護区建設に伴う西逓の変化につい て宗族のリーダーに聞き取り調査を行った。
第7回
(2015年
7月21日〜2015年7月25日)
新たに編纂された地方誌の入手と編纂過程につい ての聞き取り調査の実施。徽州文化生態保護区制度 の進行状況
第 3 節 研究対象地域
地域の再構成において、ローカルの文化をめぐる国家と地域のダイナミズムの解明を目 的とする本研究では、研究対象地域として安徽省黄山市と黄山市の 黟県
イ ケ ンに所属する西逓村 を選定した。安徽省黄山市は 1990 年代の初めから「徽州」と名乗り、その名の下で地域文 化の再構成に取り組んできた地域である。2008 年に中央政府が「徽州文化生態保護実験エ リア」として徽州地域を無形文化遺産の重点保護地区に指定した。一方、西逓村は、 1980 年代から伝統的な徽州村落の代表地として注目され、 2000 年にはユネスコにより世界文化 遺産に指定された。本研究の目的を達成させるには、安徽省黄山市と西逓村は適切な地域 だといえる。
1.安徽省・徽州地域と黄山市
図 1 − 1 安徽省と西逓の位置関係
(安徽省政府ホームページ http://www.ah.gov.cn/のデータに基づいて作成)
安徽省は中国の内陸部に位置し、省全体の面積は 13.96 万平方キロメートル、人口は約
6143.6 万人を数える(図 1—1)。淮河が省の北部を、長江が省の南部を流れ、この2つの河
川を境に、安徽省は「淮北」、 「江淮」と「江南」と呼ばれる3つの自然区域に分けられる。
地勢的に見れば、平野は北部に集中しており、華北平原の一部を成す。南部は長江沿岸地 域以外の大半を山がちな地形が占める。気候は暖温帯または亜熱帯モンスーンに分類され る(安徽省誌, 1998 )。夏には季節風の影響で干ばつや洪水が多発している。省 GDP に占 める産業別の割合をみると、石炭採掘や鉄鋼業、有色冶金を代表とする第2次産業に次い で第 3 次産業が2番目に多く、省 GDP 全体の約3分の1を占める(安徽統計年鑑, 2015)。
徽州は安徽省の 歙 県
キュウケンを中心に安徽省南部から江西省北部に跨がり、黄山山麓と銭塘江の 水源である新安江流域に小規模に開けた盆地となっている。今日の行政区画から見ると、
安徽省の黄山市と宣城市の績渓県、江西省の婺源
ぶ け んから構成される。 1934 年に婺源は江西省 の管理下に置かれるようになった。 1987 年には中華人民共和国国務院の批准によって徽州 地区が撤廃され、当時県級市の屯渓市(のちの屯渓区)を中心とする地級市
5・黄山市が成 立した。一連の行政区画の調整を経た現在では、 「徽州」という行政単位は既に存在しない。
紀元前 221 年に中華文明発祥の地とされる中原地域を統一した秦の始皇帝は、前 222 年
に王翦
お う せ んを江南の平定に派遣した。秦は揚州に3つの郡を設立し、徽州地域はその管轄下に
置かれた。 4 世紀から、この地域に土着した山越と称される人々の反乱を鎮圧するため派 遣された将兵や中原地域での戦乱から逃れる移民が北から徽州に流れ込み、耕地の開拓や 山林の開発が進められた。 4 世紀の永嘉の乱
6の際、唐代の安史の乱
7から末期の農民戦争の 時期、また北宋と南宋の転換期、これらを中心として、中原や戦場となった他の地域から 多くの人々が逃げ込み、この地に住み着いた。大勢の人々が徽州に進入して来た結果、彼 らを賄うだけの十分な耕地を確保することができなかった。自然環境に恵まれなかった徽 州の人々は、生計のために山を越え、新安江沿いに出稼ぎに行き、商売をしなければなら なかったのである(唐,2004: 7−26)。
「徽州」の名称が用いられるようになったのは、宋の時代( 960 〜 1279 年)に方臘
ほ う ろ うの反 乱
8が鎮圧された後であった。それまで制度上は王朝政府の管轄下に置かれた徽州は、実際
5 中華人民共和国の行政区分は、基本的には省級、地級、県級、郷という4層の構造からなる。
地級市の行政単位は地級市、自治州、地区などがある。
6 永嘉の乱(えいかのらん)とは、中国西晋末に起こった異民族による叛乱のことである。
7
755
年から763
年にかけて、唐の節度使・安禄山とその部下の史思明及びその子供達によって引き起こされた大規模な反乱である。
8
1120
年に王朝政府の苛政を背景に歙県の方臘が起こった反乱である。徽州のほぼ全域が占には自立性が強かったが、この時期から中央の行政権力の統治下に名実ともに完全に組み 込まれることとなったのである(臼井,2005: 6)。
宋の時代に王朝政府が杭州に遷都し、中国の経済的・文化的中心地は黄河流域から江南 地域に転換した後、徽州は次第に長江デルタの市場に組み込まれるようになった。宗族制 度が徽州に定着し、宗族組織が続々と作られた。朱子学からの影響もあり、明の時代( 1368
〜 1644 年)、清の時代( 1636 〜 1912 年)にわたり、宗族の発達が顕著に見られる。とりわ け、明清時代、中央政府から塩の特売権を獲得した徽州商人の発達に伴い、徽州宗族も最 盛期を迎えた。莫大な財産を蓄積した徽州商人は徽州に帰郷し立派な屋敷、祠堂、学校な どを建て、宗族組織の強化に努めた。彼らは積極的に族譜の編纂や祠堂の建設を組織した り、資金を寄付したりした(趙,2004)。宗族結合の発達や江南地域に進出した徽州商人の ネットワークの結成に代表されるように、徽州地域の王朝国家への編入や地域内の統合が 推進された。血縁や地縁に基づくつながりが強められ、文化的な面においても一体性が促 進され、徽州という地域意識が芽生え、成長した(熊, 2003 : 3 − 4 )。 1980 年代に、徽州公 私文書(徽州文書)
9の発見を契機に、徽州の地域社会が注目されるようになった。徽州文 書に対する学術的関心は、徽州地域に関する歴史学的研究にとどまらず、中国前近代史の 研究に革命的転換をもたらすことが期待されたのである。
黄 山 市 は 中 国 安 徽 省 の 南 部 に 位 置 し て お り 、 そ の 南 端 は 江 西 省 の 一 部 と 接 し て い る 。3 区(屯渓区・黄山区・徽州区)、 4 県(休寧県・ 歙 県
キュウケン・祁門
キ モ ン県・黟県
イ ケ ン)を管轄下に置く。面 積は 9807 ㎢で、人口は 148 万人である(黄山市統計年鑑, 2008)。そして、黄山市は中国 の他地域より比較的早い時期から観光業を地域の発展計画に取り入れた。域内に位置する 黄山山麓は、古くから山岳景勝地や宗教信仰地として知られる(写真 1−1 )。明の時代の地 理学者・徐霞客が「黄山を見ずして、山を見たというなかれ」という詩句を残し、後の黄 山観光のキャッチフレーズともなった。 1932 年に区域内にある黄山を山岳景勝地として計 画的に開発するため、黄山建設委員会が中華民国政府によって結成された。 1949 から 1978
領された。翌年乱は鎮圧された。
9 宋 代(
960〜1279
年)か ら 民 国37
年(1948年 )ま で の 、土 地 、賦 役 、商 業 、宗 族 、科 挙 、行 政人事、社会組織、団体、訴訟など、人々の社会経済生活の各側面に関する記録である。その 数は数十万点(冊)にのぼるといわれる。徽州文書の発見は、甲骨文・漢晉簡牘・敦煌文書・明清故宮檔案の発見に続く中国近現代における中国文化史上の「五大発見」であると見なされ るようになった。中国においては「徽州文書」の収集整理によって、徽州の歴史と文化を研究 する学問、すなわち「徽州学」あるいは「徽学」が形成され、1980年代には重点研究とされる に至った。詳しくは劉(
1989)、周( 2000)、中島( 2002)、臼井( 2005)に参照されたい。
年までの間、黄山は主に政府関係者の休養地と外交の接待地として利用された。 1979 年に、
当時の国家副主席・鄧小平は黄山を視察し、地方政府は観光業の発展を地域振興計画に編 入し、観光振興を促進すべきという内容の講演を行った。後に「黄山談話」と呼ばれる国 家指導者によるこの指示は、黄山という自然資源を利用し、観光振興を推進する起爆剤と なった。
写真 1−1 黄山の山岳風景
( 2014 年 7 月 筆者撮影)
1990 年 代 以 降 、 徽 州 地 域 に 関 す る 歴 史 学 的 研 究 の 進 行 と 観 光 開 発 に 伴 う 地 域 資 源 の 発 見・利用が相乗作用し、黄山市
10に お い て は 徽 州 地 域 の 歴 史 文 化 の 独 自 性 を 主 張 し 、 地 域 の 再構成を試みる機運が高まった。 1996 年に、従来の山岳観光に加え、徽州文化の再構成と 地域文化観光の創出が地方政府の明確な経済的・文化的目標として打ち出された。
10 実際
1983
年に、徽州地区に属する太平県を撤廃し、県級市・黄山市を設立した。1986
年 に、安徽省旅遊局は黄山とその周辺地域を観光振興の重点地区として指定した。1987年に、省 の直接管理下にある黄山風景区の観光開発をいっそう推進するため、地級行政区に当たる徽州 地区を黄山市に改名した経緯がある。2.西逓
西逓鎮は、黄山市の北西、黟県の東南部に位置している。面積は 77 平方キロメートル で、人口は 6390 人である。鎮政府が所在する鎮区を除いて、5 つの行政村、23 の自然村か らなる。その中で、世界文化遺産に指定された西逓村の常住人口は 3100 人である(図 1−
2 )。
図 1 − 2 世界遺産の指定範囲と周辺地域
( UNESCO ホームページ http://whc.unesco.org/en/list/1002/multiple=1&unique_number=1168 より転載一部修正)
明経胡氏壬派宗譜によると、西逓は元々西川または西渓と名乗っていた。11 世紀から胡 氏宗族が聚落を開拓し住みはじめた。胡氏の族人の増加が土地の不足をもたらしたため、
徽州地域に一般的に見られるように、西逓の胡氏は商業に従事するようになった。西逓の 商人には銭荘や典舗を経営するものが多く、その中の一人、清乾隆年間(1735−1795 年)
の胡学梓は「江南六大首富之一」とも称された。さらに、西逓胡氏一族は明清時代におい
て、科挙に合格して官職に就く者を数多く輩出し、宰相の娘を嫁として迎えるまで成長し
た。
18 世紀から 19 世紀にかけて、西遞の繁栄は頂点を極め、祠堂 26 棟、廟 3 棟、牌楼 13 棟、屋敷 600 棟が建設された。19 世紀に入ると、徽州地域に戦争が多発していたため、多 くの人々が外地へと出て行った。住民が急激に減り、空き家が増えたので、元々集落の外 に居住していた畑農が移り住むようになった(趙,1994)。西逓は、胡氏一族が集中して住 む集落から、多姓雑居の村落へと変化した。しかしながら西逓胡氏宗族は、いぜんとして 西逓の一大族であった。
社会主義化運動期に、中国政府は共産主義思想に基づいて作られた基準により、宗族を
「封建制度の残留」と規定し破壊しようとした。西逓でも同じような運動が行なわれたが、
貧民の住居、倉庫、牛小屋、食堂などとして使われた祠堂や屋敷の一部は破損が少し生じ たが、あまり大きく破壊されずに済んだ。観光事業が始まった時点で、 保存状態の良い民 居が 200 余棟、祠堂が 4 棟、牌楼1棟があった。これらの建築物、対聯、儀礼が、その後 の西逓観光開発の素材となっている(図 1−3)。
図 1 − 3 西逓村における観光資源の分布図
( 2009 年、 2011 年の現地調査から得たデータに基づいて作成)
1986 年に、西逓は、徽州商人の繁栄に伴い建てられた徽派民家、「楹聯
11」、昔の宗族生 活 を 再 現 す る 祠 堂 ・ 宗 祠 な ど の 宗 族 文 化 資 源 を 観 光 資 源 と し て 観 光 事 業 を 始 め た ( 写 真 1−2 , 1−3 , 1−4 , 1−5 )。同年 に西逓村は、省レベルの重点文化財として指定された。 2000 年には、UNESCO の世界遺産の登録基準の(iii)、(iv)、 (v)
12に合致しているので、同じ県に
ある宏村
こ う そ んとともに世界文化遺産に登録された。それを追った形で、 2001 年に中国国務院は
西逓を「国家重点文物保護単位」に指定した。また、 2003 年に中国建設部と国家文物局に より第 1 回歴史文化名村にも選定された。2011 年に、国家旅遊局に「国家 A A A A A 級観 光地
13」に認定された。
写真 1−2 宗族の功績を顕彰するための牌楼 写真 1−3 西逓村の町並み ( 2008 年 8 月 筆者撮影) ( 2008 年 8 月 筆者撮影)
11 中国で門や柱などに貼ったり吊ったりする対になった文句のことで、「対子」、「対字」、「対 聯」ともいう。赤い紙や板に二枚に書き分けて貼る。普通は、五言句、七言句であるが、四字 句、六字句などもある。部屋の正面の左右にこれを掛け、真ん中には一枚ものの掛け物を掛け る こ と も 多 い 。 入 口 、 壁 、 祭 壇 に 左 右 に 分 け て 貼 っ た り も す る 。 門 柱 、 門 扉 に 貼 る の は 門 聯 、 家の柱に貼るのは楹(えい)聯、新年を祝うものは春聯、結婚の祝いには喜聯、長寿を祝うも のは寿聯、弔問は輓聯と呼ばれる。西逓では、観光資源としているのは楹聯で、各家は春聯や 喜聯などを貼ったりもする。
12
(iii)
現存する、あるいはすでに消滅した文化的伝統や文明に関する独特な、あるいは稀な証拠を示していること。(iv) 人類の歴史の重要な段階を物語る建築様式、あるいは建築的また は技術的な集合体または景観に関する優れた見本であること。(v) ある文化(または複数の文 化)を特徴づけるような人類の伝統的集落や土地・海洋利用、あるいは人類と環境の相互作用 を示す優れた例であること。
13 中国では、「旅遊景区質量等級的劃分与評定(観光地の品質レベルの区分と判定)」に基づ いて、国家旅遊局によって観光地が5つのレベルに分かれる。
A A A A A
級を最上級として、それぞれ
AAAAA
級、AAAA級、AAA
級、AA
級、A 級と表記する。その基準は交通利便性、観光地の整備状況、セキュリティ、衛生状況などの
12
項目が含まれる。写真 1−4 宗祠「追慕堂」
( 2008 年 8 月 筆者撮影 )
写真 1−5 宗族の祖先祭祀儀
(西逓プロモーションビデオより転載)
第4節 本論の構成
本論文は5章から構成されている(図 1-4)。
第1章では、本研究の背景と目的及び研究方法を述べた後、事例地の選定基準や地域の 概要を紹介する。そして、論文の構成と各章の概要を説明する。さらに、本論文に用いる 幾つかの用語について解説を加える。特に本論文のキーワードの一つとされる「地域」と いう用語について、中国における使い方とその範疇を説明する。
第2章では、1949 年に中華人民共和国が成立して以降、特に改革開放以降の中国の観光 政策の歴史を概観する。中国においては、観光に対する国家の関心は経済的なものだけで なく、同時に政治的なものでもある。観光は文化財の保護や国民の愛国心の育成、農村建 設など、文化政策の実施において、常に重要な役割が期待されている。
1980 年代以降、漢族の多様性をめぐって国家によって一連の文化政策が実施されるが、
その新たな試みとして「文化生態保護区制度」があげられる。この新たな制度が実施され る背景や内容、その中での徽州地域の位置付けなどについて、具体的に分析する。
第3章では、まず事例地・安徽省黄山市の観光振興の歴史を整理する。1987 年にいった ん徽州から黄山市へ改名したこの地域は、1990 年代以降再び「徽州地域」と「名乗る」よ うになり、 2008 年の「徽州文化生態保護区」に指定されるに至った経緯がある。自らを「徽 州地域」と「名乗る」地方政府と地域社会が、 「徽州地域」の再構成のために実践してきた 一連の取り組みを説明し、方向転換の時代的背景についても解明する。特に徽州の中での 各村の多様性と、 「徽州」という「名」の下での地域統合をめぐるせめぎあいについて、フ ィールドワークから得た資料に基づいて考察する。
そして、徽州地域では「文化生態保護区」という国家による「名づけ」がなされている。
「文化生態保護区」制度の実施はナショナル・アイデンティティの構築に寄与するものと して、漢族の統合を図る中央政府の思惑が関わっていると考えられる。この文化生態保護 区の建設に当たっては、博物館が重要な役割を果たすため、本章では徽州地域における博 物館の建設と整備についても詳細に記述する。
第4章では、事例地・徽州地域でのフィールドワークから得た資料をもとに、宗族の再
編成と宗族文化の観光資源化の実態を明らかにする。 1990 年代に始まった伝統文化に対す
る再評価の流れを受けて、黄山市では宗族組織の再結成や祖先祭祀の再開といった動きが
現れ、これが観光振興と同調した形で宗族による宗族文化の再構成へと繋がってきた。さ らに、 「徽州文化生態保護区」の建設の一環として「徽州宗族」という「名」が大きな意味 を持ち、その下で再編成に迫られる西逓村の宗族接合のダイナミクスに注目する。
第5章では、まず本論で論じてきた内容を纏める作業を行う。地方政府や地域社会によ
る「名乗り」と国家による「名づけ」とが相互作用し、徽州地域は多様な漢族地域の一つ
として再構成されること、また、そうして再構成された徽州宗族は、地域の文化のみなら
ず生態系を含む徽州全体が観光という文脈において資源化されることを論じる。そのダイ
ナミズムを解明することで、現代中国における国家による統合と地域の文化的再編成との
相互作用的関係を理解する上で重要な視点を提供する。
図 1−4 論文の構成
第 1 章 序 論漢族の多様性
現代的文脈にお ける漢族の多様性
の再構成
民 族 の 生 成 理 論 を援用し、漢族社会 に お け る 地 域 の 再 構成を解明
第 2 章 中 国 に お け る 観光の政治性 漢 族 の 一 体 性 と 多 様 性 を め ぐ る 国 家 政 策
第 3 章 徽州地域におけ る地方政府と地 域社会による名
のり
「 徽 州 文 化 生 態 保護区」を代表と す る 国 家 に よ る 名づけ
第 4 章 徽州宗族の再 構成と観光資 源化に関する 民族誌的記録
— 安 徽 省 黄 山 市西逓村を事 例に
第 5 章 終 章 議論の要 約、結論
第2章 中国における文化政策の
変遷と観光振興
第1節 改革開放以前の中国観光
本章では中国における文化政策の変遷をたどりながら、観光発展の歴史を概観する。中 国において、観光がいかなる役割を担ってきて、またそれが誰によってどのように推進さ れてきたかについて考察する。また、1990 年代に多数民族である漢族の多様性が国家によ って注目された歴史的背景とそれをめぐる国家の文化政策を整理する。さらに、漢族の多 様性を統合する新たな試みとして登場する文化生態保護区制度について詳しく分析する。
まず、本節では 1978 年以前の中国観光について整理する。