記憶をめぐる戦い : 第二次世界大戦時における英 国のプロパガンダ政策(中)
著者 津田 正太郎
出版者 法政大学社会学部学会
雑誌名 社会志林
巻 66
号 3
ページ 169‑193
発行年 2019‑12
URL http://doi.org/10.15002/00022516
1 記憶とプロパガンダ
アイヴォーン・カークパトリックは,第二次世界大戦中に英国放送協会(BritishBroadcasting Corporation:BBC)の外交アドバイザーを務めた人物である。後年に出版した回顧録のなかで,
1939年9月の戦争勃発直後の英国の状況について彼は次のように述べている。
多くの集団のなかに,われわれは1914年から18年までの戦争をプロパガンダによって勝利し たのであり,同じ武器をうまく使うことで同じ過程を繰り返せるという聞こえは良いが不幸な 考えが存在していた。これほどまでに巨大な幻想も存在しなかっただろう。(Kirkpatrick 1959:147)
本稿の主題は,カークパトリックがここで示している「不幸な考え」がどのような文脈のもとで生 まれ,いかなる帰結をもたらしたのかを検討することにある。言い換えるなら,「将軍たちはつね に先の戦争を戦う準備をする」という有名な格言が示す通り,第二次世界大戦時における英国のプ ロパガンダ政策,とりわけドイツに向けられたそれを検討するにあたっては,当時において第一次 世界大戦がどのように記憶されていたのかを分析することが不可欠なのである。
無論,そうした記憶がつねに正確であるとは限らない。多くの人びとによって共有される集合的 記憶および忘却は,取捨選択の結果であるのみならず,ねつ造されたものを取り込むこともありう るからである(石田2000:247)。だが,正確であるか否かに関わらず,それが記憶として多くの人 びとに共有されれば,その後の行動にも影響を及ぼしていくことになる。「第一次世界大戦におい て英国はプロパガンダによってドイツに勝利した」という記憶は,後述するように事実とは言い難 いにもかかわらず,連合国のプロパガンダ政策ばかりか,対枢軸国政策全般に影響を及ぼすことに なったのである。
加えて,本稿において重要なのは,記憶はプロパガンダに携わる人びとの行動に影響を及ぼすだ けではなく,彼らもまたターゲットの記憶を分析し,それに働きかけることがありうるという点で ある。とりわけ第二次世界大戦の半ば以降には,ターゲットがいかなる状況にあるのかを分析し,
それに合わせたプロパガンダを展開する必要性が英国の関係者のあいだではより強く認識されるよ
記憶をめぐる戦い
─第二次世界大戦時における英国のプロパガンダ政策(中)―
津 田 正太郎
うになる。対独プロパガンダの場合,「ドイツ人が有すると想定される第一次世界大戦の記憶」を 踏まえたうえで,彼らが第二次世界大戦後において持つべき「記憶」のあり方が論じられていたの である。本稿では,英国のプロパガンダ関係者が有していた記憶と区別するために,彼らが想定し,
働きかけようと試みていたドイツ人の記憶を「記憶」として表記することにしたい。この関係を図 で示すと以下のようになる(図1)。
本稿ではまず,既存研究の整理と本稿の位置づけについて述べ,以上の問題意識をやや異なる角 度から論じる。次に,第二次世界大戦時における英国のプロパガンダ政策全般の特徴を明らかにす るため,プロパガンダの分類について考察を行う。続いて,時間軸を少し遡り,第一次世界大戦が いかに記憶されたのかという問題について論じる。そのうえで,英国による対独プロパガンダの変 遷について時系列的にみていくことにしたい。
2 対独プロパガンダの評価をめぐって
第二次世界大戦時における英国のプロパガンダに関しては数多くの研究やノンフィクション作品 が存在しており,拙稿(2018)でも紹介している。対独プロパガンダについて言えば,Fraser
(1957),Briggs(1970),Balfour(1979/2011),Taylor(1999),Seul(2015)などを先行研究と して挙げることができる。また,発信元を偽って情報の拡散を行うブラック・プロパガンダの研究 としては,Newcourt-Nowodworski(2005)がある。加えて,本稿の後半で取り上げる,ナチスと 一般のドイツ人とを同一視する立場である「ヴァンシタート主義(Vansittartism)」については,
Snell(1959),Goldman(1979),Ramsden(2007)などの研究がある。
図1 本稿における分析対象
こうしたプロパガンダ研究にみられる特徴として,実際にプロパガンダに携わっていた人物が後 に研究書を出版するケースが少なくないということが挙げられる。上述の研究でいえば,Fraser
(1957)の著者リンドリー・フレイザーは,第二次世界大戦中にBBCのドイツ語放送で対独プロパ ガンダに携わっていた。また,Balfour(1979/2011)の著者ミシェル・バルフォアは,対敵プロパ ガンダを担当した政治戦争執行部(PoliticalWarfareExecutive:PWE)のインテリジェンス部門 に勤務したのち,連合国遠征軍最高司令部(SupremeHeadquartersAlliedExpeditionaryForce:
SHAEF)の心理戦争部(PsychologicalWarfareDivision:PWD)でプロパガンダに関わっている。
関連年表
1938年 9月15日 ミュンヘンにてチェンバレンは,ヒトラーと会談し,チェコスロバキアから のズデーテン地方の分離を提案。
9月24日ごろ キャンベル・スチュアートが敵国プロパガンダ部(EH部)の責任者(予定)
として招集される。
9月27日 BBCドイツ語放送の開始。チェンバレンの演説の翻訳を放送。
9月29日 ミュンヘンにてチェンバレン,ヒトラー,ムッソリーニ,ダラディエが会談。
ドイツによるズデーテン地方の併合が決定。
1939年 9月1日 ドイツ軍がポーランドに侵攻を開始。
3日 英国およびフランスがドイツに宣戦布告。
4日 情報省が正式に発足。
1940年 5月10日 ドイツ軍がベルギーとオランダに侵攻開始。
チェンバレンが首相を辞任し,チャーチルが新首相となる。
26日 英国軍とフランス軍がダンケルクから撤退を開始(~6月2日)。
6月10日 イタリアが英国およびフランスに宣戦布告。
22日 ドイツとフランスの間で休戦協定が調印。
7月22日 経済戦争省のもと,特殊作戦執行部(SOE)が正式に設立される。対外的な 諜報活動を担当。
8月 スチュアートが対独プロパガンダ関係の職を辞任。
11月24日
~12月6日
ロバート・ヴァンシタートがBBC海外放送で6回の講話を放送。その内容 が翌年1月に『ブラック・レコード』として出版される。
1941年 2月3日 情報省からアイヴォーン・カークパトリックがBBCの外交部門の「アドバ イザー」として派遣される。
6月22日 ドイツ軍がソ連に侵攻開始。
8月8日 外務大臣,情報省大臣,経済戦争省大臣が,政治戦争執行部(PWE)の設立 文書に同意。議会での答弁によりその存在が明かされたのは9月11日。
8月14日 英米両国により大西洋憲章が発表される。
12月7/8日 日本軍によるマレー作戦開始。真珠湾攻撃。
11日 ドイツ,イタリアが米国に宣戦布告。
1943年 1月24日 カサブランカ会談の記者会見にてローズベルト大統領が枢軸国に対して「無 条件降伏」を要求することを表明。
9月3日 イタリアが無条件降伏を受諾。
1944年 6月6日 ノルマンディ上陸作戦開始(~7月)。
7月20日 ヒトラー暗殺未遂事件発生。
1945年 5月7日 ドイツが無条件降伏を受諾。
Newcourt-Nowodworski(2005)の著者であるニューコート―ノボドボルスキーも,少年時代にド イツ占領下のポーランドでドイツ兵の士気低下を狙ったプロパガンダ活動に携わっていたという経 験をもつ。また,プロパガンダに関わっていたわけではないが,BBC公認の歴史家であり,本稿 でも参照しているBriggs(1970)の著者エイサ・ブリッグスは,ドイツ軍の暗号を解読するために ブレッチリーパークに集められた専門家の一人であったことも記憶されてよいだろう(Briggs 2011)。
上記の著作は研究書として位置づけられるが,回顧録や講演において英国の対独プロパガンダに 言及している関係者もいる。重要なものとしては,上述のPWEの責任者を務めたブルース・ロッ クハートの回顧録および講演記録であるLockhart(1947;1950)と,前掲のバルフォアと同様に PWEからSHAEFのPWDへと移ったリチャード・クロスマンの回顧録および講演記録である Crossman(1949;1952)を挙げることができよう。また,英国のブラック・プロパガンダで中心 的な役割を果たしたセフトン・デルマーの回顧録であるDelmer(1962)も,一部の内容の正確さ については疑義が呈されているものの,貴重な証言と言えよう。これらは対独プロパガンダに関し て,当時の担当者が直面していた課題を知るうえで貴重な資料となっている。さらに,PWEの設 立から運営,諸問題についてそのメンバーが1945年から46年にかけて執筆した報告書であり,
2002年になって出版されたGarnett(2002)は,その内部において生じていた利害や意見の対立を 知るうえで有用である。これらの資料からうかがえるのは,当時の英国のプロパガンダ組織の内部 および組織間においてさまざまな対立が発生しており,決して一枚岩的な存在ではなかったという 事実である。たとえば,1941年8月にロックハートは会合において以下のように発言したとされる。
敵国に対して向けられるべきであったエネルギーのほとんどが,省のあいだでの闘争や嫉妬に よって散逸してきたというのは,われわれのように様々なプロパガンダ機関の内部におり,ま た正直な者であるなら,誰も否定しない明白な真実でしょう。(Garnett2002:79)
なお,プロパガンダの関係者による研究や回顧録などにおいて注意すべきは,それが時にプロパ ガンダの影響力を過大に評価することがありうるという点である(津田2018:29-30)。プロパガン ダの効果の強調は,それを展開した自身のスキルを誇示し,場合によってはその後のキャリアへと つなげることも可能になるからである。
ところが,これまで挙げてきた論者に共通してみられるのは,プロパガンダの効果についてはむ しろ慎重な評価をしているということである。たとえば,先にもその言葉を引用したロックハート は戦後の講演で次のように述べている。
われわれのホワイトな,もしくは公然のプロパガンダは,ドイツの人民にほとんど効果をもた なかったというのが私の熟慮の末の見解です。われわれのブラック・プロパガンダは,ドイツ の戦争機構を誤導し,混乱を拡大させるうえで価値ある支援をなしたと私は考えています。そ
れでも,先の戦争において,1918年に降伏した段階をはるかに越えてドイツ人が戦い,望み のない闘争を引き延ばしたという事実は残るのです。(Lockhart1950:199)
すなわち,ブラック・プロパガンダにはドイツに混乱を生じさせる一定の効果が認められるものの,
発信元を明示するBBCドイツ語放送のようなホワイト・プロパガンダにはほとんど効果がなく,戦 争をより早く終結させることはできなかったというのである。
本稿の趣旨は,以上のように評価されている第二次世界大戦中の対独プロパガンダについて,そ の効果の有無を論じることにあるのではない。むしろ,本稿の冒頭で引用したカークパトリックの 言葉に示されるように,戦争勃発直後には存在していたプロパガンダの効果に対する強い期待が,
戦争の後半には消失し,より控えめな評価が下されるようになった背景を探ることにある。そこで の鍵となるのが,すでに触れた「第一次世界大戦において英国はプロパガンダによってドイツに勝 利した」という記憶および「記憶」なのである。
また,本稿ではいわゆる社会構築主義の立場は採用していない。社会構築主義に立脚するなら,
後述する「第一次世界大戦において英国はプロパガンダによってドイツに勝利した」という主張も,
それを虚偽だとする指摘も,それぞれ真偽を問うことなく言説として扱う必要がある。しかし,本 稿では前者の主張は誤りだとの立場を支持しており,いわば真偽の判定に踏み込んでいる。もっと も,本稿で取り上げるあらゆる言説について真偽の判定を行っているわけではなく,たとえばヴァ ンシタート主義がドイツ人の団結を本当に強化していたのか否か,ブラック・プロパガンダはドイ ツの敗北を加速させるうえで有効だったのかどうか,あるいはホワイト・プロパガンダは本当に効 果がなかったのかといった問いは本稿の視野の外にある1。真偽の判定をあくまで論文の骨子に関 係する部分のみにとどめることで,本筋ではないところで誤る可能性を減らすという研究方針に基 づく判断である。
次節では,英国による対独プロパガンダ政策を分析するための準備作業として,プロパガンダの 分類について概観しておきたい。それによって当時の英国のプロパガンダ政策の特徴がより明確に なると考えられるからである。
1 もっとも,こうした評価自体がプロパガンダだという可能性もある。政府やメディアにとって「プロパ ガンダに長けている」という評価は決してプラスではなく,それらの機関が発した情報に対する警戒感を 強めてしまいかねないからである。本文中で言及したクロスマンの言葉を借りるなら「自身が『ピアノを 弾くように公衆の精神を奏でることができる』と主張するプロパガンディストは,うぬぼれたアマチュア である。もし彼がほんとうにそう『できる』とすれば,自らのスキルを公衆から隠し,単純な真実を語る 単純な男だとつねに思われるようにすることが彼の主要な目的になる」ということになる(Crossman 1949:333)。この意味において,当時の関係者が英国のプロパガンダの効果の大きさを否定することには インセンティブがあるとも考えられる。とはいえ,第二次世界大戦の末期になるまでドイツ国内の軍需生 産は高水準を維持し,ナチス政権の転覆につながるような大規模な蜂起が同国内では発生しなかったこと を踏まえるなら,その効果は限定的であったという評価は妥当といえよう。
3 プロパガンダの分類
プロパガンダには様々な分類が可能である。ここでは,(a)ターゲットによる分類,(b)発信元 の表示による分類,(c)使用メディアによる分類について論じたい。
図2 第二次世界大戦時の英国における対外プロパガンダ組織の変遷
まず,(a)ターゲットによる分類について言えば,戦争時のプロパガンダの目的は①自国の国民 や兵士の士気高揚をねらうもの,②敵国の国民や軍隊の士気低下や混乱をねらうもの,③同盟国や 中立国の支持獲得をねらうものに分類することができる。第二次世界大戦時の英国では幾度かの組 織再編の結果,①と③については情報省が,②については特殊作戦執行部(SOE)や政治戦争執行 部(PWE)がそれぞれ責任を担うことになった(図2)。
ただし,こうした役割分担はしばしば不明瞭であったことに加えて,「名目上のターゲット」と
「想定されているターゲット」とがつねに合致していたわけではない点にも注意する必要がある。
第二次世界大戦中のヨーロッパではプロパガンダに対する強い不信感が広範にみられ,一般の聴取 者によっても他国向けの放送の「傍受(eavesdrop)」がさかんに行われていた。たとえば,英語が 理解できる人びとは,BBCのヨーロッパ向けサービスよりも,同局が英国内に向けて行う放送の ほうが信頼度は高いと考え,それを聴取する傾向にあったとされる(Briggs1970:489)。英国政府 やBBCもそれを把握しており,そうした傍受を意識した番組制作が行われていた。この点について,
BBCドイツ語放送で対独プロパガンダに関わっていたフレイザーは次のように述べている。
人びとは自分たちに向けられた放送よりも,表面的,公式的には彼らに向けられていない放送 からつねにより強い印象を受ける…。自分たちに語りかけてくる番組を聴くとき,彼らはより 疑い深く,懐疑的になりがちである。他方,どう見ても自分たちには向けられていない放送に 対して,いわゆる傍受をするとき,彼らは相対的にガードを下げる傾向にある。加えて,問題 の番組が外国語で,なおかつ彼らの隣人のほとんどがおそらくは理解できない言語であったと きには,個人的な優越感によって彼らの信頼は高まるのである。(Fraser1957:93)
無論,このような傍受を行っている聴取者の数は限られてはいたものの,「自分だけが知ってい る」情報を彼らが優越感から周囲に伝えることも期待されていた。マスコミュニケーション効果研 究になぞらえて言えば,マスメディア経由で得た情報をオピニオン・リーダーが周囲のフォロワー に拡散するという「コミュニケーションの二段階の流れ」の存在が認識されていたのである。その ため,BBCは多言語で放送を行うなかにあっても,それぞれの放送の間で一貫性を保ち,聴取者 の信頼を維持するとともに,ドイツの対抗プロパガンダによる矛盾の暴露を回避しようと努めてい た2(前掲書:94)。
2 ロックハートが紹介している事例では,BBCルーマニア語放送では「ドイツがハンガリーにトランシ ルヴァニアを与えると決定した」と伝え,同ハンガリー語放送では「ドイツがルーマニアにトランシルヴ ァニアを与えると決定した」と伝えよとの指示がPWEに対して行われたことがあったという(Lockhart 1950:201)。ロックハートは,トランシルヴァニアにはルーマニア語とハンガリー語の両方を理解する住 民が数多く存在し,英国の偽善性が際立つ危険性が高かったことに加えて,ドイツがそうした矛盾を対抗 プロパガンダの材料として利用する可能性があったと述べている。ただし,そうした放送が実際に行われ たか否かは不明である。
次に,(b)発信元の表示による分類とは,既に述べたホワイト・プロパガンダとブラック・プ ロパガンダ,さらには「グレー・プロパガンダ」との区別を指す。第二次世界大戦時の英国による ラジオ・プロパガンダを例にとれば,発信元を正確に明示して行われるホワイト・プロパガンダは おもにBBCによって担われ,発信元を偽るブラック・プロパガンダは研究ユニット(Research Unit:RU)と呼ばれる放送局によって行われた。Garnett(2002)に掲載されている一覧表には48 のRUの存在が記録されている(Garnett2002:210-211)。これらRUはナチスによる公式の娯楽放 送を装うものから,ドイツ国内のレジスタンス組織やカトリック組織による放送を装うものなど,
ターゲットに応じた架空の設定に基づき,ドイツ語,イタリア語,フランス語,チェコ語等で放送 を行った。
そして,ホワイト・プロパガンダとブラック・プロパガンダとの中間的存在として位置づけられ るのがグレー・プロパガンダである。ブラック・プロパガンダには,自らの設定に真実味をもたせ るべく努力したとしても,多くの聴取者がすぐにその虚偽性を見抜いてしまうという問題があった。
とりわけ,RUが大出力の中波放送を行う場合,ドイツ当局に発見されることなくそれが同国内か ら行われているという設定には無理が生じ,聴取者を説得するのが困難になるという問題があった
(Crossman1952:321)。そこで,架空の設定を放棄しつつも,英国から発信されたものではないと いうことのみを主張し,発信元を明示しないグレー・プロパガンダが考案されたのである(Garnett 2002:207)。当時のドイツやその占領下にある地域では外国語放送を聴取することに対して厳しい 罰則が課されていたことから,仮にそれが英国からの放送であることに聴取者が薄々気づいていた としても,聴取が発覚したさいの言い訳を提供できると考えられた。
図2でも示したように,第二次世界大戦の中盤以降にはホワイト,ブラック,グレー・プロパガ ンダの全てにおいてPWEの役割が大きくなっていった。しかし,PWEの内部にあってもブラック・
プロパガンダやグレー・プロパガンダの存在は機密事項とされていた。そのため,ホワイト・プロ パガンダを担当する人びとの多くは,聴取者の歓心を買うために卑猥な内容までも流す「ダーディ ーな」放送に自らの組織が手を染めているということすら知らなかったという(Newcourt- Nowodworski2005:67)。さらに,それらの放送について知る人びとも嫌悪感を示す傾向にあった。
一時期はチャーチルに匹敵する人気を博したとも言われる労働党の政治家スタッフォード・クリッ プスは自国のブラック・プロパガンダの存在について知ったさい,外務大臣のアンソニー・イーデ ンに書簡を送り,そのなかで「もしこれが戦争に勝利するために必要とされる類の事柄なのであれ ば,負けたほうがましだ!」と述べたという(Rankin2008:435-436)。
虚偽情報を流すことも多いブラック・プロパガンダに対して,とりわけ強く反発したのが自らの 発信する情報の正確さにプライドを有するBBCであった3(Briggs1970:434)。RUの存在が結果的
3 厳密にいえば,ブラック・プロパガンダを担当する人びとのあいだにも,虚偽情報を発信することへの 嫌悪感は存在していた。担当者自身が虚偽だと知っている「ニュース」を彼らはしばしば他のニュースの なかに埋もれさせようとしたため,責任者であったセフトン・デルマーはそうした傾向と戦わねばならな かったという(Garnett2002:209)。
にBBCの信頼性までも損なっているというのである。しかし,RUが虚偽情報による謀略を引き受 けたからこそ,BBCがそれに加担させられる機会は減少したという指摘は妥当だと言えよう
(Balfour1979/2011:99)。その意味では,今日まで続くBBCの国際的な名声の背景には,わずかで はあれブラック・プロパガンダを担当したRUの存在があったと考えることもできる。
本節で取り上げるプロパガンダの分類として,最後に(c)使用メディアによる分類について論 じておきたい。プロパガンダのために使用されるメディアには,話し言葉から写真,小冊子など 様々なものが含まれるが(Fraser1957:11),第二次世界大戦時にドイツやその占領地域に向けて 使用された主要メディアとしてはビラ(リーフレット)とラジオを挙げることができる。だが,そ の双方で同じメッセージを伝えたことが大きな政治的問題を引き起こしたこともあり4,当時のプ ロパガンダ担当者にとってメディアの選択は重要な検討事項になりえた。
メッセージが印刷されたビラの散布方法としては,第一次世界大戦時には風船が用いられること が多かった。それに対し,第二次世界大戦時には爆撃機からの投下や,砲弾に詰めて敵陣に発射す る方法など,より確実性の高い方法が用いられるようになった。たとえば,1944年6月のノルマ ンディ上陸作戦の直前には,4日間のうちに3200万枚のビラが印刷され,現地のフランス人とド イツ兵に向けて散布された(Lockhart1950:197)。連合国遠征軍最高司令部(SHAEF)の心理戦 争部(PWD)だけで,戦争終結までにヨーロッパ全土で散布したビラは60億枚に達したのだとい う(Taylor1999:212)。
他方,1920年代から30年代にかけて英独の両国でラジオの普及は急速に進み,プロパガンダの 手段としての可能性は大きく開かれていた。そのため,ラジオを使ったプロパガンダへの警戒も強 まっており,上述のようにドイツやその占領下にある地域では外国からの放送の聴取には厳罰が課 せられていたことに加え,ジャミングによる受信妨害も行われていた5。しかし,妨害電波を過度 に強めると自国の放送まで妨害してしまいかねないという技術的制約から,英国からの放送を完全
4 英国の爆撃機軍団を率いていたアーサー・ハリスは,1942年5月に自らの名前が入ったビラをドイツ 全土に配布することに同意した(Lockhart1947:168-173;Garnett2002:106-109)。それは,英米の航空 産業の生産力の優越性やドイツの抵抗の無益さを説くとともに,ドイツ人がナチス政権を転覆させなけれ ば熾烈な爆撃を受けることになると警告するものであった。ところが,PWEのクロスマンがそのハリス のメッセージをドイツ向け放送で発信したことから,内閣の許可を得ることなく軍の責任者が政治的メッ セージを発したとしてチャーチルらの憤りを買い,この問題の経緯について厳しい調査が行われることに なった。
5 対照的に,英国政府はドイツの英語放送に対するジャミングを行わなかった。その理由としては,ジャ ミングは自国の政府には何かやましいところがあるのではないかという猜疑心を生み,敵国の放送に対す る関心をむしろ高めてしまうという危惧があったとされるが(Briggs1970:66-67;McLaine1979:81),
より大きな要因としてはジャミングに必要な出力を備えたトランスミッターが不足していたという技術的 制約や,仮に英国がジャミングの実行に踏み切ったならばドイツ側は英国の国内放送まで妨害を仕掛けて くる可能性があり,そうしたジャミング合戦に英国は勝利できないという判断などがあったと考えられる
(Garnett2002:114-116)。
にシャットアウトすることはできなかった(Newcourt-Nowodworski2005:211)。遠方に向けたプ ロパガンダの手段として,それまでには考えられないほどの射程をラジオは保ち続けたのである。
ところが,大戦の初期,英国が対独プロパガンダにおいて重視したのはラジオではなくビラであっ た。それではなぜ,英国政府はビラによる説得を重視したのだろうか。次節では,この点を明らか にするためにも,第一次世界大戦にかんする記憶および「記憶」について考察することにしたい。
4 プロパガンダ神話としての「背後からの刺殺」
第一次世界大戦でドイツはどのようにして破れたのか。標準的な記述を参照するなら,その展開 は以下のようになる6。1918年3月にドイツ軍は連合国軍に対して大攻勢を仕掛けたが,7月中旬 には守勢に転じ,後退を重ねていく。ドイツの同盟国は次々と戦争から脱落し,9月には同国の軍 事指導者であったパウル・フォン・ヒンデンブルクとエーリヒ・ルーデンドルフが帝国政府に対し て連合国との即時休戦を求める。ドイツでは新たに発足した政権が休戦交渉を開始したが,海軍は 英国海軍との決戦を企図し,全艦隊をキール沖に集結させた。その自殺的な作戦に対して水兵たち は命令に服従せず,「キール軍港の水兵反乱」が発生する。この動きを陸軍兵士や社会主義政党,
一般国民が支持,各都市で兵士評議会(レーテ)が結成されてドイツ革命が勃発し,帝政が崩壊す る,という流れである。
ここで注目されるのは,ドイツ軍が決定的には崩壊しなかったという事実と,即時休戦を求めた 後のルーデンドルフの言動である。物資補給の面で連合国軍には遠く及ばず,軍事的にはほぼ絶望 的な状況にあったものの,軍隊組織はなお温存されていた。9月に即時休戦を求めたルーデンドル フは,10月中旬にはまだ戦えると訴えるようになり,その主張が容れられなかったことで軍を去 っている。そして戦後になると彼は「ドイツは戦場では破れなかったが,背後から刺されたことで 敗れた」との主張を展開するようになる。これが「背後からの刺殺」にまつわる神話の始まりであ り,敗戦直後からドイツでは急激な広がりをみせたという。
この神話が広まった一因として,それが英国人の言葉に由来しているからだという指摘もある
(Fraser1944:17)。もともと「背後からの刺殺」という言葉は,1919年秋に英国のニール・マルコ ム少将がルーデンドルフと会食していたときに発したのだという(Wheeler-Bennett1938:200)。
その会食においてルーデンドルフは,自らの戦略は間違っていなかったと主張し,敗北の要因とし てドイツ帝国政府の姿勢や市民の態度を延々と非難していた。その冗長な語りを要約するため,マ ルコム少将は「将軍,貴方は背後から刺されたと言いたいのだろうか?」と問うた。それを聞いた ルーデンドルフは目を見開き,「背後から刺された?そう,まさにその通りだ。われわれは背後か ら刺されたのだ」と応じたのだという。こうした会話の文脈が無視され,英国の将軍が「背後から の刺殺」を語ったということが神話の信憑性をいっそう増したというのである。
6 以下の記述については,ベッケール/クルマイヒ(2012)および木村(2014)を参照した。
それでは,神話において「背後からの刺殺」は何によって生じたとされたのか。その黒幕として 共産主義者や平和主義者,ユダヤ人などの存在が挙げられる一方,重要な要素とみなされたのが英 国によるプロパガンダである。たとえば,ルーデンドルフとともにミュンヘン一揆を起こしたアド ルフ・ヒトラーの『わが闘争』第1巻(原著の出版は1925年)には,以下のような記述がみられる。
(英国は戦時宣伝を:引用者)少数の観点に制限し,もっぱら大衆を考慮し,うまざる根気を もって行った。全戦争の間,一度正しいと認められた根本的な考え方と実施形式は,ほんの少 しの変更さえも一度もなされずに,用いられた。それは,はじめはかれらの主張のあつかまし さに,常軌を逸しているように思えたが,その後不愉快になり,最後には信ずるようになった。
四年半後にドイツに革命が起った。その時のスローガンは敵の戦時宣伝から出ていた。(ヒト ラー1973:244)
すなわち,「背後からの刺殺神話」は,戦闘によってではなくプロパガンダによって敵を崩壊させ ることができるという「プロパガンダ神話」でもあったのである。
そして,こうしたプロパガンダ神話は,ドイツのみならず英国にも流入することになった。それ をうかがうことができるのが,キャンベル・スチュアートの著作『クルーハウスの秘密』(1920年)
である7。この著作は,第一次世界大戦末期に英国政府が設立した敵国プロパガンダ部(Department ofPropagandainEnemyCountries/通称クルーハウス)に所属したスチュアートの体験をもとに 執筆されている。彼はこの著作で英国のプロパガンダの効果の大きさを論じており,その重要な論 拠とされているのが「(ドイツ:引用者)最高司令部はそれら(英国のプロパガンダ出版物:引用 者)を提出した者には報奨金を出したが,われわれはそれらが兵士たちの心を汚染していくのを防 げなかった」といったルーデンドルフの証言なのである(Stuart1920:133)。いわば,英国のプロ パガンダの効果を強調することで敗戦の責任を回避したいルーデンドルフと,自らの手腕を誇示し たいスチュアートとの共犯関係のもと,ドイツ人は英国人の発言を根拠に,英国人はドイツ人の発 言を根拠としながら,プロパガンダ神話に基づく第一次世界大戦の記憶はドイツと英国の両方で広 がっていったと考えられる。
本稿の冒頭で引用したカークパトリックの証言に示されるように,こうした記憶は第二次世界大 戦へと至る流れのなかで英国のプロパガンダ政策にも無視しえない影響を及ぼした。1930年代半 ば,ヨーロッパの国際関係が緊張の度合いを増すなかで,第一次世界大戦後に廃止されたプロパガ ンダ機関を再建するための準備が英国でも開始されることになった。1935年には英国国内や中立 国に対するプロパガンダを準備することになる情報省の設立準備が始まり,1938年9月のミュン ヘン危機のさなかに敵国プロパガンダ部(本拠を置いた建物の名称からエレクトラハウスと呼ばれ るようになる)の再建も外務省により開始される8。そして後者の責任者として招集されたのがス
7 この著作の問題点については,拙稿(2018)でも論じた。
チュアートであった。しかも,第一次世界大戦終結後にプロパガンダ機関にかんする書類は廃棄,
紛失されていたため,それらの再建にあたって利用されたのが『クルーハウスの秘密』のような回 顧録の類だったのである(Taylor1999:118)。
これらの理由から,第二次世界大戦後が勃発した当初の英国には,プロパガンダの効力が過大評 価される土壌が存在していたと考えられる。そして,それに拍車をかけることになったのが,チェ ンバレン政権の戦争遂行方針であった。次節では,この点を含め,英国のプロパガンダ政策の変遷 についてみていくことにしよう。
5 対独プロパガンダ政策の変容
(1)「良きドイツ人」の探求
1939年9月に英仏がドイツに宣戦を布告したとき,英国ではドイツ空軍による空爆が即座に始 まると予想されていた。だが,英仏とドイツとの交戦が本格的に始まったのは翌年5月からであり,
それまでの期間は「まやかし戦争(phonywar)」と呼ばれる。とはいえ,まやかし戦争のあいだ,
英国がドイツに対して何も仕掛けなかったというわけではない。ドイツによる報復を避けつつ,ナ チス政権を転覆させるための手段としてプロパガンダによる攻撃が試みられたのである。
BBCのドイツ語放送は,1938年9月のミュンヘン危機のさなかにフランス語,イタリア語放送 とともに既に開始されており,英国の平和的意図やその政治的/経済的制度の優越性をドイツ人に 伝えるべく放送を行っていた(Briggs1970:343;Seul2015:381)。BBCの外国語放送は受信料収入 ではなく政府予算によって運営され,当初から外務省のインフォーマルな統制下に置かれていたが,
同局の信頼性を維持するため,そうした事実はドイツ人の聴取者には伝えられなかった。ドイツの 全体主義に対して英国の民主主義の優越性を説くことがドイツ語放送の使命であり,そこでは英国 における「言論の自由」がさかんに喧伝されていた以上,放送が国家の統制下にあるという事実は 伏せられねばならなかったのである。そして,戦争勃発後には情報省海外部門とのあいだで管轄権 をめぐる混乱があったものの,敵国プロパガンダ部がBBCドイツ語放送を直接に担当することに なり,外務省がその最終的な権限を有するという形になった9(Briggs1970:35)。
戦争初期において,対独プロパガンダの前提となっていたのは「良きドイツ人」と「悪しきドイ ツ人」という区別であった。英国が戦っているのはあくまで「悪しきドイツ人」たるナチスだけだ ということである。そうした姿勢が端的に表れているのが,戦争勃発当初にチェンバレン首相が
8 もっとも,プロパガンダ機関の準備はそれぞれ秘密裏に進められていたために,情報省,敵国プロパガ ンダ部,そして敵国内での転覆工作を行うことになっていたMI6のD班(SectionD)の活動の調整は難航 した。戦争勃発直後,情報省は一時的に敵国プロパガンダ部の管轄権を得たものの,情報省内の海外部門 もドイツへのプロパガンダを行うことを企図していた。そのため,BBCは敵国プロパガンダ部と情報省 海外部門から異なる指示を受け取ることになり,混乱の要因となった(Garnett2002:20)。
BBCを通じてドイツ人に送った以下のメッセージだと言えよう。
この戦争において,われわれはあなたがたと戦うのではありません。自身の国民のみならず,
西洋文明全体,そしてあなたがたとわれわれとが大切にしている全てのものを裏切ってきた暴 虐で虚偽的な体制とわれわれは戦うのです。(Nicholas1996:150)
また,初代の情報省大臣を努めたヒュー・マクミランも,プロパガンダに関する彼の「指導基準」
として「ドイツに対処するさいには,敵意が人民ではなく,その支配者や政策に向けられている点 を明確にすること」を挙げている(Briggs1970:170)。
こうしたプロパガンダ方針にみられるのは,ドイツから英国へと亡命していた人びとに代表され る「良きドイツ人」がドイツ国内にはまだ数多く存在しており,彼らを扇動することでナチス政権 を転覆できるとする期待である。そして,そのような期待を支えていたのが,ドイツの経済的,政 治的な脆弱性に対する思い込みであった(Todman2017:202)。すなわち,ドイツ経済は脆弱な基 礎の上に成り立っていることに加えて,英仏との開戦によって政治的不安が高まっているとみなさ れたため,経済封鎖によって国内を不安定化させれば,ナチス政権への不満が顕在化し,体制転換 へとつなげることが可能だと想定されたのである。
まやかし戦争の大部分のあいだ,BBCのドイツ語放送はこうした観点から,①ドイツの財政状 況に関する不安の喚起,②同国政府が発する情報に対する懐疑の拡大,③戦争の早期終結に対する 願望の涵養を目指して対独プロパガンダを展開した(Seul2015:385)。同放送は「良きドイツ人」
と「悪しきドイツ人」との区別を強調するため,「ナチ」という用語を多用し,ポーランドに対す る「ナチの絶滅戦争」や英国海軍に沈没させられた「ナチの商船」について語った。他方で,「良 きドイツ人」に対しては,英国とともに栄誉ある平和を享受しうる非ナチス政権の樹立を促してい た。
もっとも,先に述べたようにスチュアートの指揮のもとで展開された「良きドイツ人」へのプロ パガンダにおいて重視されたのは,ラジオよりもビラであった。その理由の一つとしては,BBC のドイツ語放送は英国内でも聴取可能であったのに対し,ドイツに向けて散布されるビラを一般の
9 ただし,戦争勃発当初,敵国プロパガンダ部の実質的な拠点は,空襲を避けるためにイングランド中部 に位置するウォバーンアビーという施設に置かれており,BBCのブロードキャスティングハウスがある ロンドンからは約70km隔たっていた。両者の意思疎通にはしばしば齟齬が生じ,その混乱は敵国プロパ ガンダ部が特殊作戦執行部(SOE)を経て政治戦争執行部(PWE)へと再編され,BBCのヨーロッパ部 門がロンドンのブッシュハウスへと移転した後にも続いた(Lockhart1947:126)。そのため,PWEのホ ワイトプロパガンダ担当部門は,ロンドンのフィッツモーリスプレイスを経て最終的にブッシュハウスへ と移転し,BBCとのコミュニケーションの円滑化が行われた(Garnett2002:85-86)。ただし,ブラック・
プロパガンダやグレー・プロパガンダを担当する部門はウォバーンアビーに残り,ブッシュハウスのBBC との摩擦をしばしば引き起こしたとされる(Grisewood1968:142-143)。
英国人が入手する機会は乏しかったため,英国内の世論を考慮せずにプロパガンダを展開しうる手 段としてビラが重宝されたということが挙げられる10。そして,もう一つの理由として挙げられる のが,第一次世界大戦の記憶の影響である。すなわち,先の大戦ではビラによるプロパガンダ攻勢 が「背後からの刺殺」を可能にしたという記憶が,「良きドイツ人」の理性に訴えかけるのに適し たメディアとしてビラを選択させたのである(Garnett2002:3)。加えて,戦争勃発当初にはドイ ツを爆撃することで反撃不能の報復を招くことを恐れていた英国空軍からもビラの配布は歓迎され た11。空軍側には,プロパガンダによるナチス転覆に対する期待ではなく,ドイツ上空の夜間飛行 のためにパイロットを訓練したいという期待があったとも指摘される(Newcourt-Nowodworski 2005:56-57)。
だが,まやかし戦争の末期になると,このような「良きドイツ人」と「悪しきドイツ人」という プロパガンダ上での区別は崩れていく。その要因の一つとして挙げられているのが,「ナチズムは ドイツ人の性格の自然な帰結」と考えるフランスの放送局の脚本を使った番組制作である(Briggs 1970:171)。そうした番組制作に対してはBBCの海外インテリジェンス部門から「ナチの支配層と ドイツ人民を区別しないことは,ドイツの人びとをさらに頑なにさせてしまいかねない」という危 惧が表明されていた。「ナチスがそれに向けてつねに努力しているより強い国民的連帯の達成に貢 献してしまうことになる」というのである。しかし,1940年4月までに英国のプロパガンダ方針 はすでに「良きドイツ人」と「悪しきドイツ人」との区別を放棄する方向へと舵を切っており,
「ナチ」という用語の使用も控えられるようになっていった。
そして,こうした方向転換を決定的なものとしたのが,同年5月のチェンバレン政権の瓦解であ る。ノルウェー作戦の失敗に起因する政変によって首相の座に就いたチャーチルは,プロパガンダ では戦争に勝てないとの認識のもと,あくまで軍事力による勝利こそが必須だと考えていたからで
10この件に関連して,米国の特派員であった作家のジョン・ガンサーと情報省の担当者との次のようなや りとりがよく知られている。1939年9月,すでに数百万枚もドイツに散布されているビラの内容を開示 するようガンサーが求めたところ,担当者は「敵にとって価値があるかもしれない情報の開示は,われわ れには許可されていない」と答えたというのである(Nicholson1967:32)。これは情報省の硬直性を象徴 的に示す出来事としてしばしば引用されるエピソードであるが,ビラの内容がドイツ人には開示できても 英国人にはできなかった理由として,対外的なプロパガンダが国内での政争の原因となることで,結果的 にドイツのプロパガンダに材料を与えてしまう可能性が挙げられている(Lockhart1947:55)。言い換え ればこれは,世論が強直するなかで対外的な情報発信を民主主義的統制のもとに置くべきか否かという問 題だったのである。
11ただし,注4でも触れたアーサー・ハリスは,爆撃機によるビラの投下に対して当初は好意的でなかっ たとされる。ハリスはビラを「トイレットペーパー」と呼び,配布自体には反対ではなかったものの,そ のために爆撃機を危機に晒すことには強く反対した(Lockhart1947:168)。戦争が始まった段階では,ビ ラの配布は尾部銃手の手作業で行われており,投下のためには数分間にわたって銃座を離れる必要があっ た。ハリスはそのあいだに爆撃機が攻撃されることを危惧しており,彼の要請によって後に機械式の投下 装置が導入されることになった。
ある(Briggs1970:3;Balfour1979/2011:65)。プロパガンダ神話の唱道者であったスチュアートも,
同 年 7 月 に 経 済 戦 争 省(MinistryofEconomicWarfare) の も と で 特 殊 作 戦 執 行 部(Special OperationsExecutive:SOE)が発足し,敵国プロパガンダ部がそこに編入されると,その翌月に 辞任している(Garnett2002:36)。こうしたなかで浮上してくるのが,「良きドイツ人」と「悪し きドイツ人」との区別を否定した「ヴァンシタート主義」なのである。
(2)ヴァンシタート主義とプロパガンダ神話の解体
プロパガンダ研究では,今日的なプロパガンダにおいては敵対する国家全体を悪魔的に表象する のではなく,敵国の指導層を腐敗した,暴力的で異常な存在として描くのに対し,その国民につい ては戦争を望まない無垢な犠牲者として描くと言われることがある(キーン1994:53-54)。しかし,
これまで述べてきたように,第二次世界大戦時の英国のプロパガンダ政策にはそれと逆の流れをみ ることができる。すなわち,ナチスだけを攻撃することで一般のドイツ人との分断を画策するプロ パガンダから,ドイツ人そのものに戦争の原因があるという発想に基づいてドイツ全体を攻撃する プロパガンダへの変化がみられるのである。
そうした発想が広がるにあたって大きな役割を果たしたと言われるのが,外務省の元常任次官で,
戦争勃発時には政府のチーフ外交アドバイザー(ChiefDiplomaticAdviser)の職にあったロバー ト・ヴァンシタートである12。ヴァンシタートは,ドイツという国家,国民全体への嫌悪を隠さな い人物であり,ナチスとは突然変異的に現れた存在ではなく,むしろ同国の軍国主義的な文化の延 長線上に位置づけられるべき存在だと論じていた。チェンバレン政権下では冷遇されていた彼は,
チャーチル政権発足後には前節で触れた特殊作戦執行部(SOE)のチーフアドバイザーに就任した ほか(Garnett2002:36),ラジオや新聞など数多くのメディアで持論を開陳するようになった13。 とりわけ注目されたのが,1940年11月から12月にかけて彼がBBCで行った一連の講話と,それら の内容を抜粋した『サンデー・タイムズ』の記事,そしてそれらが編集され,翌年に出版されたパ ンフレット『ブラック・レコード』である。以下では,発行部数が50万部に達したとされる『ブ ラック・レコード』と,ヴァンシタートが1943年に出版した『私の人生の教訓』という著作をも とに,彼の主張のポイントを抽出しておこう。
これら二冊の著作に通底しているのは「強烈な被害者意識をもつドイツ人は,他国を征服,服従 させることを行動原理とし,そのためには残酷な行動や嘘をつくことに何らのためらいも覚えない 国民である」という認識である。ドイツ人全体を攻撃するヴァンシタートのこうした主張には,無
12この役職は,1937年にネヴィル・チェンバレンが首相に就任したさい,ヴァンシタートを左遷するた めに新たに設置されたポストであったと指摘される(Goldman1979:159)。チェンバレンはヴァンシター トと意見が合わなかったために,義務と責任の面で重要性を欠く新しいポストへと異動させたのだという。
13ドイツに関する見解についてチャーチルとヴァンシタートは多くを共有していたものの,1941年2月 以降,チャーチルは個人的にヴァンシタートから距離を置くようになったとされる(Goldman1979:165)。
論,ナチスの人種理論との共通性を指摘する声が上がる。それに対し,彼は次のように反論する。
まず彼は,個人の次元では「良きドイツ人」が存在することを否定しない。だが,「良きドイツ人」
はつねに少数派であり(彼はその割合を25%と見積っている),集団としてのドイツ人こそが問題 なのだと主張する(Vansittart1941:18;1943:32)。次に,彼はドイツ人に変化が生じる可能性を 否定しない。ドイツ人の「再教育」こそが必要なのであり,軍国主義的な文化や歴史教育,制度や 組織を徹底的に破壊することで,ドイツの平和的繁栄は可能になるというのである(Vansittart 1941:54)。
こうしたヴァンシタートの主張は,英国内において大きな論争を巻き起こした。彼を批判する人 びとはこうした考え方を「ヴァンシタート主義」と呼び,彼は「良きドイツ人とは死んだドイツ人 だけである」という観点からナチスがユダヤ人を扱うのと同じやり方でドイツ人に対処することを 望んでいると誇張を交えて論難した。それに対し,彼自身はヴァンシタート主義を「ドイツ軍国主 義の完全破壊」を目指す立場として再定義するなど,さまざまな場所で反論を展開した(Vansittart 1943:33;Goldman1979:169)。
彼の主張をとりわけ強く批判したのが左派の人びとであり,たとえばレフトブッククラブの創設 にも関わったヴィクター・ゴランツは1942年初頭,「ドイツ問題に関するヴァンシタート卿への回 答」という副題をもつ『われらの子どもたちは生きるか,死ぬか?』という著作を発表し,ヴァン シタート主義がドイツ人に対する憎悪と復讐心を高揚させているとの批判を行っている(Gollancz 1942)。また,ヴァンシタートは自らの主張を元外交官としての「専門的知識」の基づくものとし て正当化していたのに対し,彼の主張はむしろ社会学の領域に属するものであり,専門家としての 見解とは言えないとの批判もあった(Martin1942:35)。
加えて,前節でみたBBCの海外インテリジェンス部門による危惧と同様,ヴァンシタート主義 は結果的にドイツ人をナチスのもとに団結させてしまうとの批判も行われている(Ramsden2007:
198)。「良きドイツ人」と「悪しきドイツ人」とを区別することなく,ドイツ人全体に対する厳し い対処を要求するヴァンシタート主義は,「もし連合国に敗北したならば,あらゆるドイツ人に恐 るべき運命が待ち受けている」とするナチスのプロパガンダに手を貸してしまっているというので ある。実際,ゲッベルスは自らの日記にドイツが勝利した暁には同国の勝利に貢献した英国人とし てヴァンシタートのモニュメントを建立すべきだと記しており(Goebbels1948:342-343),『ブラ ック・レコード』の抜粋をドイツの諸都市の壁に貼り付け,ドイツ人の危機感を煽っていたとされ る(Ramsden2007:198)。
こうした批判に対してヴァンシタートは,ドイツ人はすでにナチスのもとで団結しているのであ り,「良きドイツ人」はむしろこれから作り出されねばならないのだと反論している(Vansittart 1943:31-33)。ドイツに対して厳しい処遇を求める方針が,結果的にドイツ人の団結を促進させる か否かというこの論点は,戦争後半の「無条件降伏(unconditionalsurrender)」要求をめぐる論争 においても再び現れることになる。
ヴァンシタート主義や無条件降伏要求がドイツ人の団結を促進したか否かは今日においても見解
の相違がみられる点ではあるが,いずれにせよチャーチル政権においてはヴァンシタート主義に近 い方針が採用された。チャーチルやイーデン,クレメント・アトリーら有力政治家に加えて,プロ パガンダ政策と関係が深かったダフ=クーパー,ブレンダン・ブラッケン,ヒュー・ダルトンなど もヴァンシタート主義と類似した立場をとっていたからである(Goldman1979:156)。一例を挙げ ると,1941年7月19日,イーデンは外国人記者協会に向けて,次のように語っている。
われわれの生涯にわたっての平和を欲するのであれば,ドイツの人民は教えられてきたことす べてを,ヒトラーによって教えられたことだけではなく,過去数百年にわたって彼の先駆者,
多くの哲学者や教師,すなわち血と鉄の使徒たちによって教えられてきたすべてを捨て去るこ とを学ばねばならない。(Balfour1979/2011:313)
こうして英国のプロパガンダでは「良きドイツ人」と「悪しきドイツ人」という区別は大々的に は語られなくなった。たとえば,1941年6月にドイツがソ連に侵攻したのを受け,あらゆる反ナ チスは友であるが,ヒトラーとともに歩むあらゆる人物あるいは国家は敵であるとチャーチルが宣 言したとき,反ナチスのドイツ人は後者ではなく前者のカテゴリーに入るとBBCが放送するのを 彼は許さなかった14(Ramsden2007:181)。また,1944年7月にヒトラー暗殺未遂事件が発生した さいにも,BBCドイツ語放送は当初「ドイツで内戦が勃発しました」と伝えたものの,むしろそ の後に続いた大規模な粛清から「良きドイツ人」による政権転覆は絶望的だと判断され,彼らに決 起を促すようなプロパガンダは展開されなかった(Balfour1979/2011:391)。
これらのエピソードからも示唆されるように,ヴァンシタート主義の広がりはまた,プロパガン ダ神話にとっても重要な意味を有していた。この点を検討するうえで有用なのが,戦前にはアバデ ィーン大学で経済学を教え,戦争中にはBBCドイツ語放送に従事していたリンドリ―・フレイザ ーの著作『戦間期におけるドイツ』(1944年)である。ナチスのプロパガンダの「虚偽性」を暴露 することを目的としたこの著作は,先に述べた「背後からの刺殺神話」の検討から始まる。フレイ ザーは「第一次世界大戦において英国はプロパガンダによってドイツに勝利した」という主張が誤 りであることを示すとともに,プロパガンダの効力には明確な限界があると論じる。すなわち,プ ロパガンダが効力を発揮するのはターゲットがそれを「信じたい」場合に限られ,プロパガンダそ のものに人びとの思想を変化させる力はほとんどないというのである(Fraser1944:172)。したが って,ナチスがドイツ国内で展開したプロパガンダについても,その圧倒的成功を認めつつ,ドイ ツ人はそれに騙された被害者だという論理をフレイザーは採用しない。この点について,同書から 引用しておこう。
14先に述べたように,BBCは1940年4月にはすでに「良きドイツ人」と「悪しきドイツ人」との区別を 放棄する方向に動いていた。しかし,決してヴァンシタート主義一色には染まらず,ドイツ人全体を明確 に攻撃するよりもあくまで含意として攻撃対象に組み込んだとされる(Nicholas1996:155)。
(ドイツ人は:引用者)歴史のわい曲に対する熱狂的かつ狂信的な信念に向けて自分たちが扇 動されることを許してきた。語りかける相手が喜んで被害者になるようなことがなければ,つ まり納得させられるのを望まなければ,プロパガンディストたちは決してそのような勝利を得 ることはできなかっただろう。「この意味において」ドイツ人の大多数は自身が国民社会主義4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 者だったのである4 4 4 4 4 4 4 4。(前掲書:172,強調は引用者)
つまり,「ナチスと一般のドイツ人とは一体である」とするヴァンシタート主義と,「プロパガンダ の効果は限定的である」というプロパガンダ神話否定論とは明確に結びついていたのである。こう して,戦争勃発直後とは異なり,戦争後半になるとプロパガンダとはあくまで補助的手段であり,
それ自体で戦局を変える力はないとの認識がプロパガンダ関係者のあいだでも共有されるようにな っていった(Lockhart1947:155)。
このようにプロパガンダ政策全般の方針転換が図られるなか,まやかし戦争の時期に試みられた 英仏の強力さの誇示がかえって信頼性を損なったという反省のもと,BBCドイツ語放送は連合国 軍が戦闘に敗れたという情報の伝達も含め,事実により忠実なニュースの放送を志向するようにな った15。それでは,プロパガンダ神話が解体するなかで,英国はどのような対独プロパガンダを展 開したのだろうか。次項では本稿の主題である「記憶」に着目しながら,この点についてより詳し く見ていくことにしよう。
(3)「記憶」へのプロパガンダ
ヒトラーの『わが闘争』には,プロパガンダの「教訓」として以下の有名な記述がある。
大衆の受容能力は非常に限られており,理解力は小さいが,そのかわりに忘却力は大きい。こ の事実からすべて効果的な宣伝は,重点をうんと制限して,そしてこれをスローガンのように 利用し,そのことばによって,目的としたものが最後の一人にまで思い浮かべることができる ように継続的に行なわなければならない。(ヒトラー1973:238)
プロパガンダを行うにあたって「同じことを繰り返す」必要性は,英国のプロパガンダ担当者に も意識されていた。第二次世界大戦中,同国でプロパガンダ作成に携わった人びとは主に元ジャー
15無論,完全に「事実に忠実な」情報の伝達が試みられたわけではなく,あくまでそれはBBCの「客観 性」に対する信頼を涵養しながらも,情報の解釈と取捨選択を通じて聴取者をひそかに説得しようとする 試みであった(Crossman1949:342-345)。しかも,意図的な虚偽の流布が完全に否定されたわけではなく,
「7年間にわたって正確な情報をある人物に与えたならば,あなたの観点から見て彼(ママ)にそうさせ ることが必要になったとき,8年目の最初の日に彼は不正確な情報を信じるかもしれない」といった思惑 が対独プロパガンダの背後に流れていたと言うこともできる(Crossman1952:324)。
ナリストと元広告業者から構成されていたが,彼らを指揮する立場にあったリチャード・クロスマ ンは興味深い指摘を行っている(Crossman1952:325)。それによれば,元ジャーナリストは「ホ ットなニュース」の発信にこだわるために,同じことを繰り返すのが苦手なのだという。それに対 して,元広告業者はセールストークのような手法(「体臭に悩んでいる?それならビングのデオド ラントを買いたまえ」というのと同じやり方で「国民社会主義に悩んでいる?それなら英国の民主 主義を買いたまえ」と言ってしまう)で反ナチス感情を煽ろうとしがちな弱点を抱えながらも,同 じことを言い続ける必要性については深く理解していたとされる。
その一方で,上記のヒトラーの主張とは異なり,英国の対独プロパガンダ担当者のあいだでは
「大衆の忘却力は大きい」という想定は完全なミスリーディングだという知見が共有されるように なったとも指摘されている(Fraser1957:79)。とりわけターゲットがプロパガンダに対して反感 を抱いている場合,彼らは与えられた情報のなかで虚偽や非一貫性を積極的に探すようになるため,
「忘却力」の大きさを想定するのは誤りだというのである。ところがナチスはその点を理解せず,
ターゲットの忘却を前提としたプロパガンダを国外に向けても展開したことから,その非一貫性が 露呈することになったとも論じられる。
こうした指摘からも明らかなように,プロパガンダにおいて重要なのはターゲットがいかなる態 度,または「記憶」を有しているかを調査し,それに合わせた放送を行う必要性があるという認識 がみられるようになった。たとえば,1942年9月に中立国のスウェーデンにおいてドイツから帰 国したばかりのスウェーデン人やドイツ人から得られた情報をもとに執筆されたレポートでは,ド イツでは女性よりも男性のほうがドイツの勝利を頑なに信じているといった傾向のほか,ゲッベル スが発表する統計の数字にもはや満足できなくなってきたがゆえに連合国側が統計を出しても人び とはそれを信頼しなくなっていることなどが報告されている16。
ターゲットに合わせた放送について言えば,聴取者の多くが英国への亡命者に対して好意的な態 度を有していると想定されるフランスに向けてのBBCの放送では,フランスからの亡命者が番組 の企画から出演までをこなし,時にジョークを交えた娯楽色の強い内容の番組が流された(Fraser 1957:101-103)。対して,ドイツ向けの放送では,聴取者の多くが英国への亡命者に対して敵対的 であると想定されたため,トーマス・マンが米国から送ってくるものを除き,ニュースのコメント はあえて英語訛りのドイツ語を話す人物に行わせるという方針が採用された(Crossman1949:
343;Hickman1995:115)。
さらに,ターゲットの「記憶」を前提としてプロパガンダを展開せねばならないのであれば,ド イツ側がかつて発した情報の誤りを暴き,それによって同国発の情報の信頼性を棄損するという手 段も視野に入ってくることになる。たとえば,1940年12月31日,ヒトラーは1941年が最終的な勝 利の年になるだろうと宣言した。それ以降,BBCドイツ語放送はあらゆるニュースを「今日はヒ
16‘ExtractsfromPoliticalMemorandaforB.B.CIntelligence,’dateunknown,TheNationalArchives, FO898-41.
トラーが最終的な勝利を約束した…日目です」という言葉で始めるようになり,その年の最後のニ ュースは「今日はヒトラーが最終的な勝利をあなたに約束した年の最後の日です」という言葉から 開始されたのだという(Hickman1995:117)。同様に,1941年10月8日にナチスの機関紙『フェル キッシャー・ベオバハター』によって東部戦線での戦闘が終了したという宣言が行われると,毎年 10月8日にその紙面の縮小版を数百万枚も作成し,ドイツとその占領地域に配布するという作戦 が戦争終結まで続けられた(Lockhart1950:197)。これ以外でも,ドイツ側のかつての放送を録音 し,それと現状との矛盾を指摘するという手法は繰り返し用いられており,ドイツ側にとって不都 合な「記憶」を活性化させ,同国に対する不信感を涵養することが目指されていたのである
(Balfour1979/2011:433)。
しかし,ターゲットの「記憶」を前提にするということは,プロパガンダにおいて安易な予言や 約束は慎まねばならないということも意味している。とりわけ,1940年4月にノルウェーに侵攻 したドイツ軍の軍事的攻勢は間もなく崩壊するであろうとの予言をBBCドイツ語放送が行ったこ とに対しては,その信頼性を大きく失墜させる要因になったという強い反省が生まれていた(Seul 2015:387)。さらに,英国軍が撤退を決定した後にも情報省にはそのことが知らされなかったため に,英国はノルウェーとともにあるという約束を同省は流し続けることになり,英国のプロパガン ダ全体を崩壊の危機にさらしたのだという(Kirkpatrick1959:151)。
もっとも,1941年8月のローズベルトとチャーチルとの会談後に発表された大西洋憲章の第6 項(恐怖と欠乏からの自由に向けた努力)は,ドイツ人も対象に含むと解釈することも可能であり,
その意味ではドイツ人に対する戦後の約束としてアピールしうる余地もあった(Crossman1949:
331)。だがその後,英米のプロパガンダ担当者によるそうした約束をほぼ不可能にする決定が下 されることになる。それが「無条件降伏」要求である。
(4)「無条件降伏」要求という制約
1943年1月にローズベルトとチャーチルが行ったカサブランカ会談における共同記者会見上,
両国は枢軸国側に「無条件降伏」を要求するという方針がローズベルトにより表明された。この
「無条件降伏」要求には,解釈の相違や賛否があったことはよく知られている。解釈については,
①勝者は敗者に条件を示さず,また敗者が条件を付けることも許容せずに降伏を受け入させる,② 勝者は一定の条件を提示し,敗者にそれを無条件に受け入れさせる,という相違に分かれるとされ,
ローズベルトの念頭には①の解釈があったと考えられている(藤田2007:8-16)。
この方針への批判については,たとえば1944年11月まで米国の国務長官を務めたコーデル・ハ ルによる反対論を挙げることができる。彼によれば,無条件降伏は連合国が長期間にわたって枢軸 国の統治を引き受けることを意味し,したがってその負担が増すことに加えて,枢軸国側の徹底抗 戦をもたらし,戦争がより長期化する可能性があるという理由によって反対だったのだという(ハ ル2001:324-325)。彼は,無条件降伏要求はナチスによる戦意高揚のプロパガンダの材料に使われ てしまったとも論じており,上述したヴァンシタート主義への批判者と類似した立場にあったと言