「我友山本覚馬」 : 廣澤安任の遺した資料
著者 吉田 幸弘
雑誌名 同志社談叢
号 34
ページ 179‑197
発行年 2014‑03‑01
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014159
一七九「我友山本覚馬」―廣澤安任の遺した資料―
「我友山本覚馬」 ―廣澤安任の遺した資料―
吉 田 幸 弘
三沢市先人記念館は青森県三沢市谷地頭にある道の駅みさわ斗南藩記念館光村の中に位置する施設である。明治五年(一八七二年)に始まる開牧社に始まる廣澤牧場の跡地に立つ当館は平成七年(一九九五年)に開館して以来、廣澤安任を始め地域に寄与した先人達を顕彰するべく運営してきた。当館は約九千点の資料を収蔵し、その殆どが廣澤家寄贈のものである。始めに廣澤安任について触れておきたい。廣澤安任は天保元年(一八三〇年)に会津藩の下級武士廣澤庄助の次男として会津若松に生まれた。兄の安連は武家の嫡男として武道に励み、安任は次男であったため学問で身を立てるため藩校日新館を始め江戸の昌平校や各藩の諸士に学んだ。文久二年(一八六二年)安任は箱館奉行に随行し、後に牧場を開いた陸奥国北郡(現青森県南部地方)を通り、大間から箱館へ渡っ
三沢市先人記念館
一八〇「我友山本覚馬」―廣澤安任の遺した資料―た。しかし、藩主松平容保が京都守護職に任命されると、箱館を引き上げ事前に情報を得るために京都へ向かった。京都では公用人として諸藩の藩士たち、朝廷の公家らとの橋渡しをしながら、『鞅 おうしょうろく掌録』を書き留め、慶応四年(一八六八年)江戸で新政府軍に捕縛されるまで第一線で活躍した。江戸で拘留されている間、獄中で読んだ歌に注を付け加えて記したものが『囚中八首衍 えんぎ義』である。釈放された後、明治二年(一八六九年)会津松平家が容保の嫡男である松平容 かたはる大を藩主として陸奥国に三万石の領地を賜り斗南藩として再興され、藩士たち約一七三〇〇人は新たに北辺の地で厳しい生活を始めた。安任も少参事としてまだ幼い容大の代わりに権大惨事山川浩らと共に藩政を担った。しかし明治四年(一八七一年)に廃藩置県で藩主が東京へ移ると多くの藩士たちは会津若松や東京などの土地へ移ってしまった。安任はこの地に残り青森県の合併運動に参加、明治五年に八戸藩の太田廣城、アルフレッド・ルセー、アンドリュー・マキノンらと共に谷地頭に我が国初の民間洋式牧場である開牧社を設立、後に廣澤牧場と名を変え同地の開拓や乳製品の生産、販売などを行い、明治十二年(一八七九年)には開牧以後五年間の経営の記録をまとめた『開牧五年紀事』を刊行、明治二十一年には南豊島郡淀橋町角筈村(現新宿西口付近)に進出、出張所を構えた。「野にあって国家に尽くす」と大久保利通に始まる幾度とない政府の勧誘も断り続け、明治二十四年 廣澤安任
一八一「我友山本覚馬」―廣澤安任の遺した資料― (一八九一年)に亡くなるまで牧畜業に従事、その発展に貢献した。当館では平成二十三年度、二十四年度の二度に渡り収蔵資料の整理を行い、資料の全体像を把握することが出来た。改めて資料を整理する中で確認できた廣澤安任と山本覚馬、彼ら二人の関わりを見ることができる四点の資料について紹介したい。●山本覚馬肖像写真この写真は収蔵資料の整理を行う過程で平成二十四年十一月に確認された。写真は堀写真館(現:堀真澄写真館)で撮影されたも
ので、明確な撮影時期は分からないが、晩年の容姿であることや台紙の裏部分が明治二十一年(一八八八年)撮
影の「洋装の新島八重」(同志社社史資料センター蔵)と同じであることから明治二十年前後と推定される。山本覚馬の肖像はこの写真が確認できるまで写真二
山本覚馬(表)
山本覚馬(裏)
一八二「我友山本覚馬」―廣澤安任の遺した資料―枚、肖像画一枚のみであった。どれも同志社社史資料センターに所蔵されているものであるが、そのうちの肖像画一枚はこの写真に酷似している。写真を見ると着物を着用した首元から上が写っており、背景にはイスの背もたれのようなものも確認できる。もし前述の八重の写真と同じ時に撮影されたのだとすれば八重が付き添って堀写真館を訪れたのかも知れない。撮影はおおよその撮影時期から二代目堀真澄によるものと推測される。堀写真館の最も古い姿は初代堀真澄から数えて五代目の堀光彦氏が所蔵している大正三年の堀写真館年賀状に映る写真館外観、内観を伺うことができる。堀光彦氏によると台紙の裏にあるように当初は寺町通高辻北(現:恵美須之町)に店を構えていたという。残念ながら当館にはこの写真に付随する資料はなく、写真の出処や送られた理由ははっきりしない。しかし、この写真が廣澤家から寄贈された当館の資料群にあったということは、廣澤安任と覚馬の交友関係を示す意味を持った貴重な資料であることは確かである。後述の『近世盲者鑑』の執筆にあたって安任が覚馬と書簡のやりとりをした可能性も考えられるが、当館や同志社にそれを示す資料がないため、あくまで推測でしかない。いずれにせよこの写真の情報を掘り下げられるような新たな発見を待つのみである。
●手代木勝任から廣澤安任への書簡旧会津藩士手代木勝任から、同じく旧会津藩士廣澤安任へ贈られた書簡。手代木勝任は文政九年(一八二六年)に生まれた。通称は直右衛門。父は佐々木源八で弟は佐々木只三郎である。源八の生家である手代木家に跡取りがいなかったため勝任は養子となり手代木家を継いだ。会津藩九代
一八三「我友山本覚馬」―廣澤安任の遺した資料― 藩主松平容保の京都守護職就任にあたり公用人となり新選組と強い関わりを持った。会津戦争で会津藩が降伏した際は秋月悌次郎とともに城を出され、降伏の意を伝える使者となった。その後謹慎を受け明治五年(一八七三年)に許されると左院に出仕したのち香川県、高知県の権参事を勤め、岡山県の川上郡、賀陽郡長、岡山区長を歴任した。明治三十三年(一九〇〇年)に八重の養女となった甘糟初子は勝任の二女・中枝の娘で勝任の孫に当たる。左に本文を掲載するが、改行は実際の資料の改行に基づいている。解読できなかった文字は□で表しており、一部資料に基づいて小字になっている箇所がある。なお、誌面の都合上解説は覚馬の記述部分に留めさせていただく。《本文》打続御無音罷在候処昨九日客月廿日之芳墨勤達忙手拝閲久々ニ而御平宣り拝承逢賀仕候御営業愈御盛大之御様子は追々伝承然ニ最初御目途通りニハ運び兼候云々被仰遣候処万事
一八四「我友山本覚馬」―廣澤安任の遺した資料―目込之始ニハ参候好習ひニ好えとも素ゟ皇国第一着手ニ好へハ永年之御楽モと相成候事欣喜之至ニ堪へす此上御勉励所私ニ御座候泰温事不相替之御厄介可相成無御見権御鞭策奉願候老僚土佐翦職後ハ世上之平ヲ絶一向糊口一□ニ残□ヲ終候積ニテ万事豚児ニ打任せ居候へとも中ニハ少々小商業思立候事も有之終ニハ食込と相成今般以外官辺ニ就候畢竟御察之通県令旧被ヲ忘れす極テ深切之世話ニ預候故ニ御座候如□諭一郡ノ人民ニ直接之義ニ而老駑
一八五「我友山本覚馬」―廣澤安任の遺した資料― 輩ニ一重荷ニ有とも書記事務ニ馴居候故打任せ置候日新風は駟馬も及ぬ程と申もの東京闕下杯と違ひ民事ハ矢張り旧ニ依りし事多分有之且四五年前ニ絞りへハ銘分着実之風ニ相成候歟ニ奉存候又県令ニハ浮薄開化ハ好ミ不申先勤能き方と奉存候三渕香坂共ニ郡長三渕ハ備前和気郡片上香坂ハ作州英田郡倉敷ニ在り孰れも無事三渕ハ不相替品等宜事務家ニは無之候へとも郡長ニハ相当之人と存候牧畜会計簿御編集第二課上梓本県へも御廻送可相成至極之
一八六「我友山本覚馬」―廣澤安任の遺した資料―美事拝観楽ミ居候山田安五郎阿賀郡へ高梁朽山ノ 事 を矩ル八里斗之所へ隠逃候所昨春カ死去遂ニ面会不仕残念ニ御座候辻ハ三州繁原ニ在て高梁ヘハ返らす是ハ可也活計相立申候其他両三輩之旧知存在候追々尋来候へとも孰れも落魄○山本覚馬ハ依然タリ身體格別衰弱不致志ハ以より盛ナリ基督教ヲ信ル以より深くそれが為槇村ニ容られされとも晏如タリ私二女末女京都女学校へ入塾為致置候故万事世話ニナリ居候今度府議会之議長ニ選
一八七「我友山本覚馬」―廣澤安任の遺した資料― れ候よし細君以前之妾ニ扶られ議場ニ上候ナルヘシ秋月ハ焼亡後困追之様子久々絶音之処昨夏出京之容姿出逢人参植立ニ出カケ之よしニテ到社長ニけり勉強斗承候然ニ人参は価一昨年より極々下落足立仁十郎も商売替之見込ニテ当春ニかけ倅監蔵出坂致候程之場合不利之先生等巨多之資本ヲ入取懸候ハ如何と外愁致居候柴ハ鹿児島ヲ去りし後会津ニ行尓来便ナシ数奇気毒ニ御座候彼年輩ニは矢張第一等ニ御座候○御熟劫之通三円モ備作因伯等ハ有名之牛産ニ候処昨
一八八「我友山本覚馬」―廣澤安任の遺した資料―年暮頃ゟ俄然騰貴畢竟喰尽せしナリ尊兄ノ利益実ニ料ルベカラス桃桜真盛ニ候へとも山間□邑とものふ人共なけきハ只うかうかと消口折柄音明御示し懐旧之情ニ堪へすこれゟも怠らす相伺可申候間何卒折ニ御文通奉願候自家不同之候御自重奉祈候也 四月十日 勝任 拝具
広沢賢台
追テ御老人様御娘へ宜御致達願上候
一八九「我友山本覚馬」―廣澤安任の遺した資料― 主なる内容は旧会津藩士たちの近況を知らせるものである。冒頭に「打続無音罷在候処 客月廿日之芳墨……」とあることから廣澤安任から送られた書簡への返事であると思われる。文面からは勝任と同様に岡山県内の郡長を勤めた三淵高 たかひら衡と香坂宗 むね精 きよ、陽明学者で松山藩の藩政改革を行った山田安五郎(方谷)、山本覚馬、東海散士として『佳人之奇遇』を著した柴四朗、陸軍大将となった柴五郎兄弟の長兄、柴太一郎らの名前を見ることができる。勝任も幕末、京都守護職時代は安任と共に公用人として奔走した間柄である。久方ぶりの手紙はさぞ嬉しかったであろう。「何卒折ニ御文通奉願候」とこれより以後も廣澤からの手紙を望んでいる様子が伺える。この書簡の書かれた時期だが、文中の「三渕香坂共ニ郡長 三渕ハ備前和気郡片上 香坂ハ作州英田郡倉敷 ニ在り」「三淵、香坂の両名は共に郡長となり、三淵は岡山県和気郡の片上に、香坂は岡山県英田郡の倉敷にそれぞれいます」とあり、『岡山県郡治史 上巻』(岡山県、一九三八)によると三淵は明治一一年(一八七八年)九月二〇日から明治一五年(一八八二年)二月一〇日まで和気郡の郡長、香坂は同じく明治一一年(一八七八年)九月二〇日から明治一五年(一八八二年)五月一九日まで英田郡の郡長に就任している。また、山本覚馬は明治一二年(一八七九年)に京都府議会選挙で当選、最初の議会で議長に選ばれているが「今度府議会之議長ニ選 れ候よし」「今度府会議長に選ばれるとのことで」と書かれていることからも明治十二年(一八七九年)の書簡であることがわかる。それでは覚馬についての記述を見て行きたい。まず、「山本覚馬ハ依 然タリ身體格別衰弱 不致志ハ以より盛ナリ」と始まっているが、覚馬は元治元年(一八六四年)の禁門の変において砲兵隊を率いて長州藩と戦った。その際に目を負傷し盲目となっており、加えて足腰も弱り歩けなくなっていた。しかし、志は前もって強くなっ
一九〇「我友山本覚馬」―廣澤安任の遺した資料―たと述べている。また、「基督 教ヲ信ル以より深くそれが 為槇村ニ容られされとも 晏如タリ」とある。キリスト教を信じるとあるが、覚馬が洗礼を受けたのは明治一八年(一八八五年)であるため、新島襄の同志社英学校設立に助力したことが伝聞され、勝任が解釈したものと思われる。「槇村ニ容られされとも 晏如タリ」というのは京都府顧問を解雇されても動じることはなく落ち着いていたという意味であろう。前述した勝任の二女・中枝とその妹は「私二女末女京都 女学校へ入塾為致置候 故万事世話ニナリ居候」とあるように、覚馬の世話で京都女学校に入学したようである。「京都女学校」とあることから女学校及紅場(現在の京都府立鴨沂高等学校)だと思われる。中枝の嫁ぎ先である甘糟家とは明治十五年(一八八二年)に新島襄が甘糟三郎に会っているが、それよりも前に中枝自身と覚馬は面識があったと思われる。議長選出の文は前述した通りである。その後ろに「細君以前之妾ニ扶られ 議場ニ上候ナルヘシ」と続く。細君は妻を指す言葉でこの場合覚馬に後妻として入った時栄のことである。後述するが『近世盲者鑑』で安任は時栄についても少し触れている。戊辰戦争後、安任は斗南へ移住した後は晩年に東京へ移ったものの、殆どを青森県で過ごし西へ行った記録は見られない。一方勝任は岡山県という覚馬同様西へ赴いた。正反対の地で互いに新たな生活を始めた二人は廣澤の手紙をきっかけにまた繋がりを持ったのである。当館には勝任の他に文中にも出てきた柴太一郎、斗南藩では権大参事を務めた山川浩、元会津藩家老西郷頼母(維新後は保科近悳)など、同時期に活躍した藩士たちと交わした書簡も残されている。もちろん彼らと交わした書簡も貴重なものではあるが、他の藩士についての近況を多く記していることにこの書簡ならではの価値があるように思う。勝任を始めとして、記載された人
一九一「我友山本覚馬」―廣澤安任の遺した資料― 物について調査することで、彼らの関係性や新たな資料、事実を追い、この書簡と合わせて解読していきたい。●近世盲者鑑『近世盲者鑑』は明治二十二年(一八八九年)に刊行された、廣澤安任が著した盲目の人物の経歴、業績や逸話等をまとめた本で、刊行された本の序文は国学者の渡辺真楫による。当館所蔵のものはその草稿本に当たる。本文の最後に「明治十九年一月記」とあることから実際に書かれたのは明治十九年、その後推敲などを経たと思われる。慶長年間から明治十九年までの間で閑齋、後藤松軒、杉山検校、村井見朴、高蘭亭、谷玄圃、長澤楽浪、塙保己一、山本覚馬の九人について記載がされている。中でも山本覚馬についての記述は存命の間に書かれたもので、安任の甥、廣澤安宅が著した『幕末会津志士伝』(一九二三年、非売品)、青山霞村の『山本覚馬』(一九二八年、同志社)よりも早い時期に書かれたものであることから山本覚馬という人物の全体像を把握できる資料としては最も古いと思われる。《内容》『近世盲者鑑』は刊行された一冊の本であり、本来であれば全文について紹介したいところであるが、紹介する資料は草稿本であり、訂正された箇所や後から付け加えられた文章も多い。本稿中に引用した箇所は可能な限り訂正した状態などを再現しているが、是非その状態を見て頂きたいので本文全体の掲載を別紙にて行った。また、この資料においても解説は山本覚馬について述べた箇所に留めさせて頂くことを先に断っておく。
一九二「我友山本覚馬」―廣澤安任の遺した資料―この資料のポイントの一つでもあるのが「現ニ京師ニ鳴ルモノハ我友山本覚馬アリ」と記された冒頭の文章である。前述で紹介した肖像写真の存在からも伺えるように安任と覚馬の関係性を如実に表している。また、同じく会津藩士である水島純も『会津会々報 八号』(会津会、一九一六年)内の記事である「廣澤先生山本先生に關する懐舊談」において二人が親しい間柄であったことを述べている。印象的な書き出しで始まる文章は覚馬の生まれ、人物像に言及しながら佐久間象山の門下に入ったことに触れている。安任も同じく象山のもとで学び、未遂で終わったものの天皇を彦根に移し遷都しようとした計画には安任と覚馬が大きく関わったと言われる。象山に始まり、覚馬もまた多くの人物と交友関係にあったことが本文で述べられているが、この『近世盲者鑑』ではその点よりも覚馬の近親者について触れられている点に注目したい。まず、覚馬の妹である八重の最初の夫、川崎尚之助である。本文では「河嵜尚之助ハ丹但州出石ノ人ナリ故アリテ藩ニ来ル亦蘭書ヲ学ビ技術ニ長セリ」と彼が藩に来た理由こそ分からないものの、出石の出身であることや蘭学を学んでおりその技術に長けた人物であることが記されている。また、「覚馬相得テ大ニ悦ヒ延テ之ヲ其家ニ寓セシメ共ニ講習切磨セリ(ソノ間藩命の奨励誘導等モアリテ覚馬等ノ盡力モ亦寡ラストス)」とあり、覚馬の家に居候し、共に勉学に励み、会津藩の西洋技術取り入れの改革に彼らが尽力したことに言及している。覚馬が会津藩の蘭学所で教授となった頃、安任はまだ会津にいたと思われ(翌年昌平校に入学)、覚馬や尚之助と意見交換をするなど交流を深めていたとも推測できる。時期は移り、京都守護職時代の覚馬について触れられている箇所では元治元年に覚馬が京都に上ったことが記されている。また、覚馬が公用人でないにも関わらず、日々攘夷派による危機を案じ、藩士たちに一生懸命
一九三「我友山本覚馬」―廣澤安任の遺した資料― 訴え、公用人であった野村佐兵衛、外嶋機兵衛、安任らも同様に訴えていた事がわかる。その中で藩外にいた蘭学者たちと盛んに交流を持ち論議を交わしていたことが記されている。その中には後に著作『百一新論』に覚馬が序文を寄せる西周の名前もある。覚馬が京都に上った元治元年には禁門の変が起こり、覚馬はこのとき目を負傷している。それについて安任は「共ニ出テ京中ノ境界ヲ巡視セシヿアリ時ニハ云フ遠望スレハ糢糊トシテ霧ヲ帯ルカ如シ」と覚馬が視力の低下について安任に話したことがわかる。また、安任と共に京都を巡視していたということは覚馬も公用人の仕事をしていたとも言える。禁門の変以後覚馬自身にも大きな変化があった。覚馬の目が見えなくなり一人で生活することが困難になっていたが、そこに一人の娘が覚馬のもとに嫁いだ。小田時栄のことを指している。刊行された『近世盲者鑑』では時栄の名前は伏せられているが、安任の草稿では「名ハ時江トイフ」と名前が記されている。覚馬が囚われていた時にも共に牢に入り、覚馬の世話をしたとも記されているが、ここに覚馬の妻であった樋口うらの名前は一切出てこない。時栄については前述した手代木勝任からの書簡からもわかるように安任は知っていた。しかし、あの書簡には書かれていないことがこの『近世盲者鑑』の文中では書かれており、この点に関してはどのように情報を得たのかがはっきりしない。明治二年(一八六九年)覚馬は釈放されると、府知事槇村正直の元でその手腕を発揮する。覚馬を勧業課に出仕させ顧問としてその対応に当たらせた。槇村の後任である北垣国道も「殊ニ優待ヲ加ヘラル」と厚い待遇をした。ここで覚馬について書かれた文章の中で、最後の関連人物が登場する。八重の二番目の夫で同志社の設立者、新島襄である。襄については
一九四「我友山本覚馬」―廣澤安任の遺した資料―明治八年ニ新嶌襄米国ヨリ帰来ル襄ハ救世耶蘇ノ教ヲ信シ文明ノ本ハ教化ヲ敦スルノ外ナラサルヲ悟リ為ス所アラントス覚馬之ヲ賛成シ謀テ同志社ヲ京ニ設立ス
と明治八年(一八七五年)にアメリカから帰国したことと先進的な文明の手本をキリスト教に見出し、それに覚馬も賛同して同志社を設立したことが記されている。襄の項目に関しては執筆中に情報を得たのか後から欄外に書き加えられている。しかし、後述の安任の手帳「日々日記」には新島襄の住所が載っており、書簡でのやりとりがあった可能性もあるが当館にも同志社にもその跡は見られず、「予ハ相見サル已ニ久シ」とあることからも外からの伝聞の可能性のほうが高いとしか言えず、この文章を書くにあたってどこから情報を得たのかがわからない。この後、覚馬は京都府議会選挙に当選し、議会で議長に選ばれたことについて触れている。最後に安任は覚馬の思想の広がりとそれが年々増してゆくことに対して言及している。
覚馬ノ思想ハ日ニ月ニ進テ高尚ノ地位ニ詣シハ必然ナリト雖モ現ニ未タ測ルヘカラサラサルモノアルハ之ヲ偉見卓識後人ニ譲テ追述セシムルモノ也抑予謂フ覚馬ノ学問ハ失明ノ後ニ進歩セルモノナリ覚馬ハ元ヨリ倦怠屈撓セサルノ資アリテ精思熟考ニ長セリト雖モ目視ル時ハ自ラ動サレ易シ耳目鼻口皆慾アリトモソノ悟入ハ多クハ目ヨリスルモノナリ今覚馬ハソノ主慾ヲ絶タル故ニソノ一身ニ於ケルヤ平居必需品ヲ除クノ外一ノ贅物ナク粛然孤坐清僧ノ如ク夜精思塾考ノ外他念ナキナリト聞ケリ故ニ人ノ諮問ニ對ルモ自ラ懇到ニシテ而シテソノ際ニ己ハ即チ学問中ニ切磨セルナリ猶金ノ烘 ほいろ爐ニアル久シクソノ間渣 さし滓自ラ脱化シ去テ益純粋ヲ極メタル如シ此言果シテ然リヤ否
一九五「我友山本覚馬」―廣澤安任の遺した資料― と述べ、覚馬の考えの深さはこれから先も一層深まり、その考え方は盲目になった後に開花したとしている。こう考えていたのであれば覚馬の『管見』を安任が読んでいればどう感じたであろうか。元より先進的であった考え方はより研ぎ澄まされ、安任の想像を超えていたに違いない。そして、安任がこれを書いている間も覚馬の進歩に目を向け続け、「後人ニ譲テ追述セシムルモノ也」と後の世でまた友人が評価されることを思い続けたであろう。●日々日記最後に山本覚馬に直接の関係はないが、ぜひ紹介したい資料がある。廣澤安任が晩年に用いていたとされる『日々日記』と表紙に書かれた手帳である。『日々日記』は前半と後半でそれぞれメモ欄と住所録に分かれている。前半のメモ欄には安任の論述、新宿に構えた第二牧場の住所、開墾社と呼ばれる会社についてなどが書かれている。後半の住所録には多くの著名人の名が並び、そのうち安任が亡くなった際の香奠帖や会葬者名簿にも同一の人物名が載っていることからも、安任が東京に移る際に新たに用いた手帳ではないかと推測され、安任が実際に用いた数少ない遺品でもある。(資料は別紙にて掲載)その住所録の中に、新島襄の名前がある。「神戸寓 西京同志社 新嶌襄」と書かれ、安任は襄が明治二十一年(一八八八年)から翌明治二十二年(一八八九年)まで神戸に病気の療養をしていたことを知っていたと思われる。推測ではあるが、『近世盲者鑑』の上梓にあたり、襄や覚馬にコンタクトを取りその時に襄の様子を伝え聞いたのではないだろうか。しかし、それぞれとやり取りをした書簡は残っていないため、やはり他の人物
一九六「我友山本覚馬」―廣澤安任の遺した資料―からの伝聞と考えたほうが自然であろう。さらに、襄の住所は載っているが覚馬の住所は載っていないのも気にかかる点の一つである。前述のように手代木勝任には久しぶりの手紙を出す考えがありながら、「我友」とまで称した覚馬に対してはそれを伝えるものが残っていないのは不自然でもある。今現在の段階では覚馬の肖像写真の入手経路に一連の情報のやり取りの手がかりがあると推測するに留まる。
廣澤安任と山本覚馬、彼らは公私を問わず親しく、共に幕末の会津藩を支えた同僚であり、先進的な考え方を持ち合わせた知識人であった。明治維新後安任は青森で牧場を開き、覚馬は京都で街の復興に尽力した。互いに活動の場所は異なっても、故郷から離れた土地でそれぞれ違う形で新しい国家のために働いていたことは事実である。本稿を執筆するにあたり、改めて資料を見なおしたが、それぞれの生き方を見てもやはり安任と覚馬は最も近い存在であり、友であったのではないかと感じている。そして奇しくもNHK大河ドラマ「八重の桜」の放映に合わせる形で山本覚馬についての資料が見つかったのは安任が「後人ニ譲テ追述セシムルモノ」とした覚馬について掘り下げるタイミングをまさに今だと言っているような気がしてならない。今後も新資料の発見に目を配りつつ、彼の歩んだ軌跡と思想の広がりを見つめ直して行きたい。末筆になるが、今年の八月一日から十一月四日まで当館で開催されていた特別企画展「新島八重と斗南」には同志社社史資料センターを始め、学校法人同志社にはただならぬご高配を頂いた。この場を借りて感謝申し上げると共に、その縁でこうして『同志社談叢』の誌面において当館の収蔵資料を紹介する場を頂けたことは感謝に堪えない。改めてお礼申し上げます。
一九七「我友山本覚馬」―廣澤安任の遺した資料― 《参考文献》野口信一・小枝弘和「時代を駆ける 新島八重」歴史春秋出版 二〇一二同志社社史資料センター「新島八重子回想録」同志社大学出版部 二〇一二岡山県「岡山県郡治史 上巻」岡山県 一九三八廣澤安任「近世盲者鑑」博聞社 一八八九廣澤安宅「幕末会津志士伝」廣澤安宅 一九二三
「我友山本覚馬」―廣澤安任の遺した資料―
別紙 「近 世盲者鑑」
覚馬の 項
「我友山本覚馬」―廣澤安任の遺した資料―
日々日記(左のページ右から2行目が襄)