ロシアにおけるイザドラ・ダンカンの舞踊学校
── 創設から閉鎖まで ──
柳下 惠美
はじめに
20世紀初頭、ギリシア風チュニックに裸足というスタイルで独自の舞踊を創出 したイザドラ・ダンカンは、世界各地の公演で芸術家を初め多くの人々を魅了 し、モダンダンスの創始者として名を残している。しかしながら、彼女が自身の 舞踊精神の具現化として理想の舞踊学校をドイツのグリューネヴァルト、フラン スのベルヴュ、ロシア(1)のモスクワに創設し、子供たちに無償で教育を施してい たことはあまり知られていない。
本稿では、イザドラ・ダンカンの晩年にあたる1921年、彼女がロシア政府から 依頼され創設したモスクワの舞踊学校に焦点をあて、学校創設から閉鎖までの経 緯と学校運営、またそこで行われていた舞踊教育と公演活動、イザドラがロシア を去った後の舞踊学校等について、当時学校で学んでいたリリー・ディコヴスカ ヤと他の生徒達の回想やインタヴュー、新聞記事、公演パンフレット、公演批 評のほかイザドラの愛弟子の1人であるイルマ・ダンカンの著書Duncan Dancer、 ナタリア・ロスラヴレヴァのDance Perspectives 64などを基に明らかにする。
モスクワの学校創設の経緯
イザドラがモスクワに学校を創設しようと決意したのは、ロンドンで彼女が 踊った『スラヴ行進曲(2)』を観て感動した通商人民委員レオニード・クラシン(3)
から学校創設の提案を持ちかけられたことが発端であった。イザドラはこの提案 から、人民教育委員のアナトリー・ルナチャルスキーに次のような条件付き受諾 の書簡を送っている。
私の仕事の代償を金銭に換算しないでください。私が欲しいのは私と生徒達 の住む家を兼ねたスタジオ・ワークショップと、簡素な食事、簡素なチュニッ ク、それに私たちの最大の成果を発表できる機会です。〔中略〕民衆のために
一三〇
踊りたいのです。私の踊りを観に 来られるだけの十分なお金もなく 働いている労働者階級の人々のた めに無料で踊りたいのです。〔中 略〕もしこうした条件の下に受け 入れて下さるのならそちらに参 り、ロシアとその子供たちの未来 のために仕事をしましょう。(4)
これに対し、ルナチャルスキーから 下記の電報が届いた。
モスクワに来られたし。学校と1,000人の生徒を提供します。あなたは自身 の計画を大規模に実現できるでしょう。(5)
この電報を受け、イザドラはイルマと共にロンドンからモスクワに向かうこと になる。多くの反対者がいたにも関わらず、彼女は政情の不安定なモスクワ行き をどうして決意したのであろうか。1914年に創設したベルヴュの学校閉鎖以来、
公演で訪問した国から具体的な学校支援が得られないという焦りが生じる中、身 近な人にも裏切られるという耐え難い苦悩(6)を学校創設という新たな希望により 克服したかったのであろうか。そのような状況下、ロシア政府に学校創設の話を 持ちかけられ、そこに一縷の望みを持ったのであろう。ロシアには1904年以後、
何度も公演に出向く度に手ごたえを感じ、その時出会った演出家コンスタンチ ン・スタニスラフスキーをはじめ芸術界に知人がいたこともイザドラの決断を勇 気づけたと推察できる。また、不安定な政治情勢を立て直し、新改革を打ち出そ うと必死になっている当時のロシアに自身の人生を重ね、そこに学校創設という 生きる望みを見つけた可能性も考えられるが、イザドラがイギリスの雑誌に宛て た公開文からその答えとなるヒントが読み取れる。
今回の訪露は私にとって何物にも代えがたい素晴らしい経験です。〔中略〕
新しき世界、新たに創造されし人類。不平等な古き世の破滅、そして機会均 等なる新世界の創造。それが今、この国で進められている事業であり、それ がために、その第一歩に、子供たちの教育に助力するために呼ばれた私の心 は、喜びと誇りでいっぱいです。〔中略〕未来における愛は「私の家族」へ のものではなくて「全人類」へと向けられ、「私の子供」へではなくて「すべ 図1 左:アナトリー・ルナチャルスキー 右: コンスタンチン・スタニスラフ
スキー
一二九
ての子供」へ、「私の国」へではなくて「あらゆる民族」へと向けられるもの なのです。広い愛を有する未来社会の誕生に敬意を表して。(7)
彼女はこの時、子供たちの教育を通して上記の構想を実行することが自身の生 きがいに繋がると考えたのであろう。極めて理想主義且つ博愛主義的な思想を掲 げていたが、それを継続するのがいかに困難なことであるかを実感するのは数年 経ってからのことであった。
1921年6月25日、イザドラはロンドンのクイーンズ・ホールにおいて、当時ロシ アに随行する予定であった3人の愛弟子(8)、イルマ、リザ、テレサと共にさよなら 公演(9)を行ったが、最終的にイザドラに随行したのはイルマ一人であった(10)。
同年7月13日(11)、イルマとメイドを伴いモスクワに向かったイザドラ一行(12)
は、到着後、仮宿として巡演に出掛けていたボリショイ・バレエ団のプリマ・バ レリーナ、エカテリーナ・ゲルツァー(13)のアパートに住むことになった。この 時学校や1,000人の子供が用意されていなかったところをみると、ルナチャルス キーはこれほど早くイザドラがやってくるとは思っていなかったと推察される。
クレムリンでルナチャルスキー(14)に会ったイザドラは、彼の前で「音楽と舞踊 は驚くべき教育の力である」と持論を展開し、舞踊の究極的な到達点は演劇的な ものではなく教育的なものにあることを力説、教育の重要性を訴えた(15)。
1920年代前半のロシアは内戦がまだ終結しておらず、非常に困窮していた状況 であったが、政府は暫くするとイザドラの学校のための建物として、ウシュコフ という裕福な紅茶栽培場の経営者(16)とその妻でボリショイのプリマ、アレクサン ドラ・バラショーヴァ(17)が住んでいたプレチステンカ通り20番地の邸宅を用意し た(18)。8月23日からイザドラとイルマはこの邸宅に住むことになる(19)が、まだこ の時点では学校は正式に開校できず、クラシンほか政府の要人たちが協力し合い
図2 1921年当時のプレチステンカ通り 20番地
図3 現在のプレチステンカ通り20番地
一二八
イザドラの下に多くの子供たちを集めている状況であった(20)。
この2人の世話と通訳には舞台芸術の愛好家でイザドラを尊敬しているイリ ヤ・シュナイダー(21)が任命され、イザドラの理想に共鳴し理解を示したシュナ イダーは長期間にわたり学校の経営に携わることになった。彼は早速モスクワ・
ワーカー紙に「イザドラ・ダンカンの指揮の下、舞踊の国立学校を開校し労働者 の子供たちを募集する」という記事を掲載、これに応えて約150人ほどの子供が 参集した(22)。
プレチステンカ通り20番地での教育
(公式に学校が開校される前)募集により、9月初めから学校に集った子供たち(23)は、連日ダンカン舞踊に必 須な動きを教えられた。モスクワのプレチステンカ通り20番地の学校で直接イザ ドラとイルマに学んでいたリリー・ディコヴスカヤは最初のレッスンを次のように 回想している。
私たちは2人ずつ組になり、階段を駆け抜けて大きなスタジオに続くドアを 開けました。そこには青のカーペットに合う青いカーテンが掛けられてお り、私たちの身に付けていたチュニックも部屋に合うように青色でした。後 に赤いチュニックを与えられましたが。イザドラは私たちを列にして「今か ら音楽を聴いて。両手をここ(太陽神経叢)において音楽を聴いて」と言い ました。ピアニストはシューマンを弾き、イザドラは次のように言いまし た。「私についてきて。両腕を上げて、ゆっくりと持ち上げて、ゆっくり上 に向かって、そして大きな動きを作って。」これが最初の動きでした。そし て彼女が再び「ついてきて」と言い、両腕を上げたり下げたりしましたが、
それはとても美しい動きでした。(24)
このように、イザドラは自身の動きを見せてそれを真似させるという教育手法 を取っていた。ディコヴスカヤによれば、イザドラは基本的な動作として、「両 手を持ち上げて、地面を見て、再び元に戻って」と腕の動きと立ち方を教え、次 に歩き方については「歩くときは常にあなたの身体を前に向けて、後ろに反り 返ってはいけません。足を下ろす時は、つま先から先に下ろして、両腕を保って いなさい」と指示している。また歩いている間の腕の動きについては「何かを運 んでいるように両腕を持ち上げて、それから歩きなさい」と分かりやすく教えて いたようである(25)。これらの教えは100年近く経った現在でも、ダンカン・ダン スの基本的な教えとして引き継がれている。
一二七
その後、子供たちはスキッ プ、 ポ ル カ、 ワ ル ツ を 学 び、
その他毎日の訓練としてグル ジェフ(26)のエクササイズも習 得するなど、多くのことを学 んだ(27)。生徒の1人、ユリア・
ヴァシェンツェヴァはレッス ン を 行 う イ ザ ド ラ に つ い て、
次のように語っている。
私たちは大きな青の部屋に連れていかれ、そこでイザドラの指導のもと、ク ラスが行われました。すべての子供が赤いチュニック(28)を身に着けていまし た。イザドラは私たちを見つめて立ち、どのように木が揺らぐのか風の中で どのようにそよぐのかを見せました。〔中略〕彼女の腕と手の動きは本当に 美しかったです。私たちのような幼い子供であってもそれはわかりました。
素晴らしいピアニスト(29)がグランドピアノで美しい音楽を奏で私たちを別 世界に誘い魅了しました。立っているイザドラは美しく、他の人とは異なっ ていました。彼女は違っていたのです。彼女は天才で真の革命家でした。ク ラスは3か月間行われました。(30)
ロシア革命4周年ガラでの公演
3か月のダンスの訓練が終わると、イザドラは、募集で集まった子供たち全員 をモスクワのボリショイ劇場で催されるロシア革命4周年祭(31)の公演に参加さ せることにした(32)。舞台では子供たちに『インターナショナル』を踊り謳わせ るため、公演の前には学校の青の間で使用していた青色のカーテンとカーペット を劇場に設置してリハーサルを行っている(33)。この時の公演プログラムの表紙 はロシア語と英語で表記されており、下記のプログラムとなっていた。
1部 ルナチャルスキーによる最初の挨拶 2部 1.インターナショナル
2.チャイコフスキー 第六交響曲(悲愴) イザドラ・ダンカン 3.チャイコフスキー スラブ行進曲(34) イザドラ・ダンカン 4.インターナショナル イザドラ・ダンカン
図4 ロシアの学校での生徒達
一二六
ニコライ・ゴロヴァオフ指揮によるボリショイ・オーケストラ(35)
社会的情勢を取り入れたイザドラのガラ公演は、観客席にいた政府の最高責任 者レーニンを大変感動させ喜ばせた。この時の様子は、当時観客席にいたクリス ト・パコフ(36)の次の回想から読み取れる。
私はレーニンの表情をかなりはっきりと見たが、非常に表現豊かで感情がこ もっていた。繊細な鏡のように、芸術家(イザドラ)の細かい動きやジェ スチャーに反応していた。『インターナショナル』の間、ウラジーミル・イ リーチ(レーニン)は自分の席から前に動いたように見えた。〔中略〕『イン ターナショナル』の最後のコードが流れた時、レーニンは立ち上がり、称賛 の声に参加し、大きな声で「ブラヴァー、ブラヴァー、ミス・ダンカン」と 叫んだ。(37)
子供たちが踊った『インターナショナル』については、著名な批評家オサフ・
リトヴスキーが「振付の点においては、未だ出来上がっていなかったが〔中 略〕子供たちは互いに手を取り合い、イルマに続き蛇のようなスパイラルを形 作り、円を壊す動きをした。彼らは旗のために使われる安物の赤いコットンの チュニックを着ていた。子供たちの多くはとても幼く、その光景は非常に感動 的だった(38)。」とイズベスチヤ紙に記している。この記述から、子供たちの踊り も大好評で成功裡に終わったことが窺える。
学校の入学者の選抜方法と学校生活
入学者の選抜方法と学校生活については、ディコヴスカヤの証言と記述を基 に、生徒達の学校での様子を見ることにする。
ディコヴスカヤによれば、ダンスのクラスは通常マーチ、スキップから始ま り、ポルカを最初は1人で、次にペアで、最後に円になって動くことを、その後 に走ることや大きなジャンプ、ワルツを教えていた(39)。このような訓練は数か 月続き、最終日にイザドラが生徒を選別し、ピンクのチケットを与えられた者だ けが次に学校に来たとき寄宿することができると告げられた。学校内のベッド数 が限られていたため、最終審査に合格した40〜50人だけが学校への入学を許さ れ(40)、1921年12月3日に学校は正式に開校した。
彼女の証言をまとめると、学校の1日のスケジュールは下記の通りであった。
一二五
① 朝
・柔軟体操 ・シャワー ・朝食
・一般教養―算数、天文学、地理学、語学 (ロシア語、英語、フランス語)
② 午後 ・昼食
・30分〜1時間の昼寝(時には散歩の時間)
・お茶
・自由時間(読書など)
・ロシア語、ロシア文学
③ 夕方 ・夕食
・ダンスのクラス(17時から19時まで)
・夕方のダンスクラス
日 曜:美術館やボリショイ劇場(リハーサル見学)に行く。親は日曜ご とに学校訪問が可能で、生徒も3週間毎の日曜に家への帰宅を許 可される。
夏季期間:シュナイダーが生徒全員を田舎に連れて行き、そこで過ごす。
これによると、午前中に一般教養を教えダンスのクラスは夕方に設けている。
日曜日は美術館やボリショイ劇場に連れていくなど子供たちに芸術面の教養も身 に付けさせていたことがわかる。
またディコヴスカヤによると、イザドラはダンスのクラスで、「音楽に合わせ て踊るのではなく音楽を踊る(41)」と常に生徒達に話していた。ダンカン舞踊は
図5・図6 モスクワの学校内の様子(イザドラ、イルマと生徒達)
一二四
音楽そのものを踊ることが基本の1つであり、その点音楽に合わせて踊る他の舞 踊とは異なることから、イザドラが自らの舞踊精神の神髄を幼い生徒達にしっか りと伝えていたことがわかる。
学校内の教育環境
子供たちの学校内の教育環境はどのようであったのだろうか。これについて ディコヴスカヤは次のように回想している。
最初にこの学校に入った時、そこはまるで宮殿のようでした。大きなホール で目に留まったのは、ミロのヴィーナスの像でした。大理石のベンチが右側 の壁に置かれて、中央には非常に大きなドアがあり、窓からは夏の庭が見え ました。建物の左側にはフルートを吹いているサテュロスの像があり、素晴 らしい大理石の階段は巨大な柱で支えられていました。〔中略〕1921年の秋、
イザドラとイルマはこの部屋で150人の志願者たちを指導し、観察していま した。建物の中には日本の間と呼ばれていた場所や壁が桃色の絹で覆われた 桃色の部屋と呼ばれる部屋がありましたが、そこは別名東の部屋ともいわれ ていました。〔中略〕日本の間は一日の始まりを過ごす部屋でした。体操を 指導する専門の女性教員がおり、私たちは毎朝訓練を受けました。〔中略〕
ロシア政府関係の人たちが時々学校を訪問し、生徒達の踊る姿を観ていまし た。(42)
この回想によれば、建物は宮殿のように豪華で、学校内にはギリシア彫刻や絵 画が数々の部屋に設置されるなど、芸術を身近に感じる環境を与えており、そこ は労働者階級に生まれた子供たちにとっては夢のような場所であった。また「日 本の間」と呼ばれる部屋が存在していたことから、イザドラが日本に関心を抱い ていたことも窺える。筆者は2013年5月、モスクワの学校があったプレチステン カ通り20番地を訪れ、建物がほぼそのままの形で存在し、現在、外交関係を取り 扱う組織がこの建物を使用していることを確認した(43)。
学校での舞踊教育と公演活動
12月になると、学校は開校されたがダンスを行う部屋に暖房がないため、厳寒 の日はしばしばクラスをキャンセルしなくてはならない状況となった(44)。しか し大声でダンスのクラスを要求する生徒に対して、イザドラとイルマは空腹を忍
一二三
んで指導にあたっていた(45)、とイルマが記述している。このように、生徒達は 舞踊を学ぶことに対し大変貪欲で、また楽しみにしていたようである。
当初、イザドラは子供たちを理想の舞踊のデモンストレーションの場でのみ躍 らせたいと考えていたが、学校維持の必要性から、子供たちは非常に幼い段階か ら公演をするようになっていった。開校前からイザドラとイルマが指導にあたっ ていたため、子供たちは入学した年の夏には飛躍的な進歩を遂げていた。公演グ ループに入っていたムシア・ミソヴスカヤ(46)も次のように述懐している。
公演中に、私たちは訓練を続けました。私はイザドラがどのように歩くのか 教えたのを覚えています。それは科学であり、啓示でした。私たちは上半身 を少し前に向けるように言われました。脚は太ももから歩き始め、つま先は 非常に伸ばして、最初に地面に届くようにと指示されました。イザドラは
「動く方向に身体を前に持っていかなければ、決して踵が先に着くような歩 図7 ジムナスティック
図9 イルマと生徒達
図8 食堂
図10 寝室
一二二
き方にはならないでしょう(47)」と言いました。(48)
またダンカン舞踊について次のように語っている。
私たちは上半身に美しく「位置した」部位(49)がありました。これが私たち の偉大な遺産でしたが、私たちが何も持っていなかったことを意味している わけではありません。私はダンカン・ダンサーがテクニックを持っていない といわれるといつも怒りに駆り立てられます。〔中略〕私たちのテクニック はイルマに教えられたものであり、それは非常によくできたものでした。(50)
この証言から、モスクワの学校ではイザドラが海外公演に出向いている間、イ ルマの下で極めて的確にイザドラのテクニックは教えられていたと思われる。実 際、イルマの遺したダンカン舞踊の技法書The Technique of Isadora Duncanは、イル マ自身がイザドラから学んだことや、モスクワで教えた経験を基に1937年に刊行 されている。ミソヴスカヤの次の言説から、この学校ではテクニックの1つとし て高く跳ぶことを教えており、彼女はこのテクニックを習得していたと思われ る。
私たちはおよそ胸の高さに持ち上げられた紐の上をジャンプしました。その ジャンプが「はさみ跳び」と呼ばれた時、それはより高いものでした。上半 身を後ろに持っていくもので、前足は少し曲がっており、着地する前に伸ば されます。一方で後ろ足は未だ空中にあり、殆ど頭に着くほどです。私は首 のうなじを感じたことを覚えています。(51)
このことをよく表している下記図11の写真がイルマの技法書の中に掲載されて いる。
イルマの技法書の項目には次のような記述がある。「頭を後ろに投げて、胸を 上げ、両腕は空に向かって上方にストレッチして、ヴァルハラを駆け巡るワル キューレのように!(52)」このジャンプの説明と図11を合わせて見ると、ダイナ ミックなジャンプ力を要求されていたことが読み取れる。ディコヴィスカヤもモ スクワの学校ではゴム飛びや蛙飛びなどでジャンプ力を強化するトレーニングが 行われていたと語っていることから、このことは裏付けられる。
その他のテクニックとして生徒達はあらゆる種類の回転技を学んだようである が、特にミソヴスカヤが好んでいたのは、支えている足から床を離れジャンプ し、その間に動く脚が臀部から後方に上がり、3つの小さなステップで完全に回
一二一
転を終える(ワルツ・ターン と呼んでいる)ものだった。
このエクササイズはワルツの リズムと共に行われ、多くの ダンスの中の主要な部分で、
かなりのスピードで成し遂げ られた(53)ようである。
1922年 か ら 翌 年 8 月 ま で、
イザドラが夫のセルゲイ・エ
セーニン(54)を伴い国外公演に出かけている間、イルマは非常に熱心に生徒達の 指導にあたり、1923年4月にはモスクワの中央に位置しているコルシュ劇場でマ チネ公演を行った(55)。この公演はイザドラが国外公演中ということもあり、イ ルマ自身が初めて生徒達と行った公演であったが、選ばれた生徒達は年齢と経験 に相応しい踊りを見せ、公演は大成功であった。イニシャルDという人物がイ ズベスチヤ紙に寄せた次の記述からこの公演の成功が裏付けられる。
4月15日に行われた学校の公演は1年前に観た公演に比べると非常に成長し たように見えた。生徒達はイザドラの愛弟子であるイルマの下で飛躍的に成 長を遂げている。彼女たちの踊りは、子供のゲームのレプリカであったり、
簡単に走ることや跳ねることなので、人生そのものから流れているように見 えるが、彼女たちがリズム的な優美さに調和することを抑制することなし に公演していることは、同時に明確な喜びであり、ハーバード・ジョージ・
ウェルズ(56)の幸福なユートピアの人々はこのようでなければならないと思 うであろう。(57)
学校の経営状況と当時の人々の評価
新しい経済政策が始まり、多くの経済改革が行われると(58)、ロシアの国内情 勢は劇的に変化した。当時の政府にはイザドラの学校の子供たちに支援する余裕 はなくなり、学校への公的支援が国家の予算から外されたが、他の学校と同様
「国立学校」という名前だけは保持し生徒達にはなんとか無料で教育を施してい た。この学校を立ち上げ価値あるものにしたルナチャルスキーでさえも、これを 贅沢であるとみなす人から面会を拒否され(59)、同時期のボリショイ・バレエ学 校も疑いの眼差しが向けられて、バレエダンサーは雑誌の中で自転車に乗ってい るサーカスのペットと比較されるまでになった(60)。このように、イザドラの学
図11 ジャンプのエクササイズ
一二〇
校だけでなく、当時の国内状況下において舞踊に対する世間の対応は冷酷であっ た。
学校維持の方策として、昼に授業料を課して教えるクラスを設けたり(61)学校 の中から才能のある生徒を選抜した公演グループを結成した。昼間この学校に 通う生徒達は公演で踊ることはなかったが(62)、イザドラの学校は知名度が高く、
子供を通わせる親たちは学校の教育システムや日常生活に賛同していたようであ る(63)。1922年12月3日、学校は1周年記念祭として公演を開催し、観客に公演 のチケット代を支払わせるなどその収入を学校維持のために使用した。またシュ ナイダーは人件費削減のため、スタッフの人員を縮小する道を選ぶなど学校運営 に対し改革を行った。
この頃新聞では、ダンカンの学校の生徒達がプロフェッショナルであるかどう かという点を巡り多くの議論がなされていたが、学校が掲げる壮大な理想と踊っ ている子供たちが創り出す感動的な印象から、イザドラの学校の必要性を訴える 次のような記事も掲載された。
イザドラ・ダンカンの学校はこの芸術を証明している。それは簡素で光のよ うに明るく、喜びを与えるため必要不可欠なものである。すべての公演は簡 潔さ、無邪気さ、そして幸福を示唆している。〔中略〕これは私たちが殆ど 失っていたものであるため、必要なのである。(64)
このようなイザドラの学校に対する熱狂はペトログラード(現在のサンクトペ テルブルク)のバレエ評論家ヴォリンスキーに共有されることはなかった。ヴォ リンスキーはイザドラのユートピア的幻想に疑問を持ち、彼女の学校の生徒が見 せた動きについて「礼儀があり、貴族的に大げさで、気質が欠けており、殆ど不 活発で一本調子で、あらゆる考えや意志の急激な高まりから創造性は感じられな かった(65)」と酷評し、さらに「子供のようなせわしげな動きで走っているとき に足のアーチも形を成しておらず、素晴らしい音楽から完全にはずれており、こ れらは倦怠以外の何ものももたらさない(66)」とバレエ的分析に基づいて厳しく 批判した。
ヴォリンスキーは生涯にわたりバレエ愛好家であったため、イザドラが提唱し た美的概念を共有することは難しかったと思われる。このようなヴォリンスキー の批判をかわすべく、イザドラの学校は内部改革と教育の発展に一層力を注ぐこ とになった。
一一九
学校のサマースクール
毎年夏になると、シュナイダーは生徒達を郊外にある領地に連れて行き、そこ で過ごさせるようにした。イザドラ不在の1923年は、生徒達はリトヴィノヴォで 過ごし、フランス語と英語を学び、ジャガイモ畑や庭の雑草を取る作業を行って いる。シュナイダーが「あらゆる子供に快適な環境を与え、学問も学ばせ、手作 業もさせるサマースクールがある」と新聞や演劇雑誌に宣伝したところ、学校 の財源を満たす程の反響があり多くの子供たちが参加した(67)。下記の図12、13、
14、15の写真は生徒達が郊外で過ごしている様子である。
レッド・スタジアムでの教育
1924年の夏は、帰国したイザドラと年長の生徒達がスポーツ・アリーナのレッ ド・スタジアムで労働者の子供をボランティアで教えることになった。この場所 はプレチステンカ通りからさほど遠くないモスクワ川の近くで現在のゴーリキ イ公園の反対側に位置していた(68)。当時生徒の一人であったロスラヴレヴァは、
スポーツ・アリーナで無料のダンスのクラスが開催される、というポスターが街 図12 野外で柔軟体操している様子
図14 野外で踊っている様子
図13 畑作業をしている様子
図15 野外で円になって踊っている様子
一一八
の公立学校の近くに貼られていたと回想している(69)。イルマも自伝に、ポドヴォ スキー(70)が多くの子供たちに踊る機会を与えるため野外にある大きなスポーツ・
アリーナを用意することを約束し、新聞に無料で教えるダンスクラスのことを宣 伝したため、その反響は予想以上であったと述懐している(71)。
このダンスクラスには多くの男子も含めて約600人の子供が参加した。イザド ラとイルマは一度にこの多人数を教えることは不可能と考え、年長の生徒達をア シスタントとして任命、それぞれが精通したイザドラのダンステクニックの重要 な部分を構成したグループの子供たちに教えることにした。このスタジアムで学 んだ生徒達は短期間で見事な成長を遂げたため、政府もこの出来事に注目し、ル ナチャルスキーがイズベスチヤ紙にイザドラの学校を讃えるような記述を残して いる。
ダンカンの学校はモスクワの労働者階級の子供と共に重要な仕事を遂行し、
ロシアの興味深く貴重な芸術的教育機関の1つとして存在している。ダンカ ンの学校の生徒は〔中略〕夏季休暇を取らずに、赤のスタジアムのスポー ツ・アリーナで夏の間オープン・クラスを行った。この参加者は後に素晴ら しい成功を収めた。病弱で臆病に見えた子供たちはすぐに健康的になり、日 焼けし、すっかり生まれ変わった。〔中略〕ダンカンの学校の並外れた重要 性、ロシアの新しい世代の調和的な成長という巨大な未来、労働者は学校に 自身の子供たちの大多数を送る必要性、それは極めて望ましいことであると 認識している。(72)
新聞にはその他にも同様の好意的な記事が子供たちの写真と共に掲載された。
イザドラがロシアを去った後の学校の様子
1924年の秋、イザドラは学校の運営資金を得るため海外公演を決意しベルリ ンに向かうが、その後ロシアに戻ることはなく、これが生徒達との最後の別れと なってしまった(73)。ベルリンでの2回の公演は不評だったため、イザドラの収入 はさほどあてにできず、支援団体の基金も底をついてしまったため、学校を維持 することは非常に困難となった。学校はイザドラのスローガンである「自由な身 体に自由な精神が宿る(74)」を掲げ、シュナイダーやポドヴォスキーの支援を得て、
生徒による国内での公演を行うことにした。さらに可能な限り、機会がある度に イザドラの理想を表現し、シュナイダー自身も、イザドラ・ダンカンと彼女の学 校創設の目的について講演するなど資金を得るためにあらゆる方策を試みた。
一一七
この頃の学校のスケジュールを開校当初と比較すると、学校運営が大変な状況 にもかかわらず、歌、絵画、デザイン、手編み、家事、料理など日常生活に必要 なカリキュラムが加わり、一層充実したプログラム構成になっていた。その他、
学校内には内科医がおり、図書館、救急車、薬局、裁縫のワークショップ、洗 濯、風呂、台所なども用意され、教育や生活面において内部改革が行われてきた ことがわかる(75)。
イルマと生徒の国内ツアー
イザドラの海外公演の収入が全くあ てにならなくなると、1925年8月、舞 踊学校を任されていたイルマは、19人 の生徒を伴いロシア全域を巡演すると いう大掛かりなツアーを行うことにし た。しかしこの時期にロシア人ではな いイルマが国内で公演を行うことは特 例であった(76)。ディコヴスカヤの著 書には、イルマがシュナイダーと結婚
していたとの記述があり(77)、それが確かであれば、シュナイダーを夫としてい たイルマに特例が施され、ロシア国内での巡演ツアーが許可された可能は高い。
イルマの自伝によれば、公演はトムスク、ヴォロネジ、バクー、ティフリス、イ ルクーツク、チタ、クラスノヤルスクなどで行われた(78)。
イルマはこの公演でアレクサンダー・グレチャニノフの歌『アイ=ドゥ・
ドゥ』、『子守唄』などに振付け、子供たちは歌を謳いながら踊った。その他には イザドラが振付けたシューベルトの『ワルツ集』も加えられたが、その中で最も 可愛らしいダンスは『スカーフの下で』であった。この作品は、2人の踊り手が 長いスカーフの端を持ち、音楽が最高潮に達した時、3人の踊り手がスカーフの 下をくぐるという振り付けで、そこが一番の見せ場となっていた。これら彼女た ちの国内ツアーはいずれも大好評であった。
中国ツアー
1926年、マネージャー(79)にハルビン(80)で公演するように話を持ち掛けられた イルマは、生徒を伴いこれを実現させることになる。この時の公演予定がハルビ ン・オブザーバー紙(81)やハルビン・デイリー・ニュースに掲載されており、前
図16 『スカーフの下で』の踊り
一一六
者の新聞には、日本公演の予定が大正天皇の崩御によりキャンセルとなったこと が記されていた。このことから、イルマは中国ツアー後、日本での公演も予定し ていたことが判明した。ハルビンでの公演評は「イザドラの仕事はイルマの中で 具現化されている(82)。」と国内ツアー同様高い評価であった。
イルマによると、当時中国は治外法権が存在し外国人は自身の特権で住んでい たため、英国人、フランス人、日本人など様々な国の人たちが観客席にいたが、
中国人は上流階級から選ばれた人たちだけであったようである(83)。
このツアーで、イルマはイザドラ・ダンカンの生徒だったという西太后の侍女、
徳齢(84)と出会っている。北京の公使館地区にあるアポロ劇場の楽屋に会いに来た 徳齢は「数年前に私はイザドラ・ダンカンの生徒でした。〔中略〕1902年に妹(85)
と私はパリで彼女のクラスに出ていました。彼女が舞踊家として有名になるのに、
さほど時間がかかりませんでした(86)。」と語っている(87)。彼女の父親はフランス に中国公使として滞在していた(88)時期があり、海外で教育を受けていた徳齢は、
英語でイルマと意思疎通ができた(89)。実際、徳齢のパリ滞在期間は1898年からの 4年間であったことから、彼女たちはイザドラが月謝制のクラスを開いたパリの ヴィリエール通りのスタジオで、短期間学んでいたと考えられる。
学校閉鎖に至るまでの経緯
中国ツアーを成功させ帰国したイルマと生徒達は、1927年9月、イザドラの悲 劇的な死のニュースを耳にした。ロシアではイズベスチヤ紙がバレエ評論家の ヴィクター・アーヴィングの「彼女は限られた舞踊家の役割を正に音楽の解釈へ と導いた。彼女は教育的企画の偉大な社会的役割と特別な教育環境を通して、新 しい調和した人間を創造するという美しい夢と共に全生涯を生きた。〔中略〕彼 女は子供の最初の意識段階から美によってすべての世代を育てたいと思っており
〔中略〕そのため自然自体が持つ権利を復権させ、芸術を生活に近づけた。」とい う追悼記事を掲載しイザドラ・ダンカンを讃えた(90)。
イザドラ・ダンカン亡き後、政府からイザドラの学校についての将来構想を議 論する重要な会議に出席するよう促されたイルマは、長い間考案していた公的教 育機関のカリキュラムにダンカン・メソッドを導入するという企画を教育省に伝 えた(91)。プレチステンカ通りの学校は将来の教師を育成する教育機関になること で、この企画は教育省によって是認され、イルマはイザドラが描いていた夢がつ いに実現したと喜んだ(92)。しかし、その喜びも束の間、彼女はすべての芸術的事 柄を規制する新政策を理解していないとされ、芸術監督という地位を退かされ、
一教師として働くことを命じられてしまった。そして学校にいる誰もが新しい政
一一五
府の一員にとって替えられ、イルマはその方針に従わざるを得ない非常に厳しい 状況を強いられた(93)。スターリン率いる新政府によってダンカン舞踊の精神的な 側面は等閑視され、学校は女性と子供たちのジムナスティックに化すなど(94)、隷 属化された社会には自由思想の芸術家のための場所はなかった。イルマはロシア に残って政府の支援のために一教師としてイザドラの夢を少しでも実現させよう と努力するか、ロシアを去って自由な社会の中で全てをやり直すかという大きな 選択を迫られた。最終的に後者の考えを選択した(95)イルマは自伝に次のように記 している。
私が関わり生きている限り、(ダンカン舞踊の)伝統は残るでしょう。その 穢れのない形式を保持するために、私はそれを成長させ、未来の舞踊家、自 由な身体に自由な精神を持つ、すべての人類が属するであろう踊り手を花開 かせるため、安全な避難所を見つけました。(96)
イルマがイザドラの意志を受け継ぐために最後に見つけた安全な避難所は、イ ザドラ・ダンカンの母国アメリカであった。こうしてイザドラ亡き後、学校を継 いだイルマが1928年にロシアを去ることにより、1921年プレチステンカ通り20番 地に創設されたイザドラ・ダンカンの舞踊学校の門は開校後およそ7年で閉じら れることになった。
おわりに
イザドラ・ダンカンと愛弟子のイルマは、当時厳しい政治・経済状況下のロシ アにおいて、多くの子供たちに夢を与えるために理想の学校を創設し指導にあ たった。イザドラがロシアを去った1924年以後、イルマがロシアに留まり彼女の 舞踊精神を継続させていたが、新政府の改革にそぐわず、彼女も1928年にはアメ リカに移り、その後永遠にロシアに戻ることはなかった。
それ以後の学校の経緯については未詳の点が多いが、イルマの弟子ジュリア・
レヴィンによれば、学校の生徒であったタマラとアレクサンドラの2人が1947年 頃までロシアでダンカン舞踊の指導、公演を行った(97)。さらにイザドラの踊り にインスピレーションを得たゲプタフォというグループがダンカン風の踊りを指 導、そのほかにもダンカン風の踊りを披露していた人物が現れたようである。ロ シアといえばクラシック・バレエのスタイルが先行しがちであるが、イザドラが 1904年にロシアで初公演を行って以後、裸足にギリシア風チュニックで踊るバレ エダンサーの登場や、ボリショイ・バレエ団の芸術監督アレクサンドル・ゴルス
一一四
キーがギリシア・チュニック風の衣裳で踊る『白鳥の湖』を演出するなど、ロシ アにおけるイザドラ・ダンカンと彼女の舞踊教育の影響は計り知れないもので あったと推測できる。
21世紀に入った現在、ロシアではダンカンのスタイルを受け継ぐクラスが存在 し、毎年イザドラの誕生月である5月にサンクトペテルブルクでイザドラ・ダンカ ン・フェスティバルが開催されている。アメリカ人イザドラ・ダンカンが当時、政 治的・経済的に大変厳しい状況下にあったロシアの地に自身の舞踊精神の具現化 として学校を創設し教育を施したことは、芸術史上においても大変意義深いこと であったといえよう。
注
(1) この時代のロシアは正確にはロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国であるが、
本稿では、全てロシアという表記で統一する。
(2) 『スラヴ行進曲』は奴隷解放を描写したものであり、アレクサンダー2世が1861 年に行った農奴解放とボルシェヴィキ革命が同じ方向性を持ったものと考えたイザ ドラの革命賛歌であった。
(3) 当時ロシアからロンドンに親善興行を行いにきていたボルシェヴィキのあらゆる リーダーの中で、最も教養があり魅力的であったとされる人物。
(4) Isadora Duncan’s Russian Days (以下IDRD), pp.12-13.
(5) Life into Art (以下LIA), p.156.
(6) 愛弟子アナとイザドラが当時信頼していた恋人ルンメルが恋仲になり、イザドラ との関係に不和が生じ、イザドラはこの時期不信感からやるせない気持ちになって いたと思われる。
(7) The Art of the Dance, pp.109-110.
(8) 弟子のアナ、エリカは既にイザドラの許を去っており、マーゴは健康を害し踊る ことはできなかった。
(9) ロンドン交響楽団と共演し好評のうちに終わった。
(10) リザ、テレサは追随を拒んだ。追随しない表向きの理由はリザには恋人が、テレ サは婚約者がいるからとなっているが、実際は新聞や人の話から政情不安定なロシ ア行きには不安が募ったことが主原因ではないかと思われる。
(11) Duncan Dancer ( 以 下DD), p.218. IDRD, p.20, Isadora: A Revolutionary in Art and Love
(以下IARIAAL), p.185には、7月12日に乗船し、ロシアに向かっているとの記述が ある。
(12) 7月24日の日曜日の早朝、モスクワに到着した。イザドラはこの頃お付きなしに 旅することはなかったようである。DD, p.223.
(13) エカテリーナ・ゲルツァー(1876-1962)ボリショイ・バレエ団で1898年から1935 年まで踊っていたバレエダンサー。一般的に最初の「ソヴィエト」バレリーナと見 做される。1884年からボリショイの学校で学び、1994年に卒業してバレエ団に入団。
20世紀初頭を代表するバレリーナで、1910年にはディアギレフのバレエ・リュスと 一緒にパリで踊っている、1935年にボリショイ・バレエ団を引退したが、ロシア国
一一三
内を精力的に巡演し続けた。1925年にソヴィエト連邦人民芸術家の称号を初めて授 与されたバレリーナの1人。この時、エカテリーナはツアーでアパートには住んで おらず、IDRD, p.39によると、ゲルツァーはロシアの南の方に旅行に出かけていた との記述がある。
(14) ルナチャルスキーは、政治的要因からパリに亡命していた際、トロカデロ劇場で イザドラ を見ていた。
(15) Dance Perspectives 64 (以下DP64), p.7.
(16) ウシュコフはGubkin & Kuznetsov Tea Companyを経営していた。
(17) バラショーヴァは1921年にフランスに亡命、1931年までフランスで踊っていたよ うであるが、ディコヴスカヤは、ウシュコフとバラショーヴァは1917年に亡命して いたとみている。Dikovskaya, p.19.
(18) DD, p.227によれば、イルマは「当初ロシア政府は皇帝の夏の宮殿がある南部に位 置するクリミアにダンカン一行を住まわせようとしていた。そこであれば、1,000人 の子供を寄宿させることが可能だった。」と記述している。
(19) DD, p.226.しかしDP64, p.9では1921年秋、学校にふさわしい建物が見つかり、それ がプレチステンカ通り20番地にあるバラショーヴァの建物であったとの記述がある。
(20) DP64, p.8.
(21) 1891年モスクワ生まれのシュナイダーは、演劇ジャーナリストとして、主にバレ エについて書いており、劇場芸術への関心を持っていた。実際、彼の書いたバレエ 台本『黄金の王』はコンクールに提出され、ルナチャルスキーから好評価を得てい る。シュナイダーは、自身の創作したバレエの中で思い描いていた人物はイザドラ・
ダンカン以外にいないと断言していた。彼は人民外務委員会の報道局に勤めるとと もにバレエ学校で舞踊の歴史と美学を教授した経験があった。1908年にイザドラが 踊るのを見て、その優雅な踊りに感動していた。
(22) 学校の正式な生徒となりイザドラとイルマに直接学んだリリー・ディコヴスカヤ は、母親とイザドラは既にパリにいた時からの知り合いであり、ディコヴスカヤ をイザドラの学校に通わせることを決意したようである。Dikovskaya, Lily. Personal interview. 12 Apr. 2011.
(23) 10月半ばまでに、数百人集まった子供たちの中から最も才能がある子供50人が選ば れ、12月3日の開校日までイザドラとイルマから連日初級レッスンを受けることにな る。
(24) Dikovskaya, Lily. Personal interview. 12 Apr. 2011.
(25) Dikovskaya, Lily. Personal interview. 18 Sep. 2011.
(26) ゲオルギイ・イヴァノヴィチ・グルジェフ(1886-1949) アルメニア生まれ。著述家、
舞踊作家、作曲家。1912年からモスクワ、その後にサンクトペテルブルク、1920年 までロシア各地を転々して指導にあたっていた。
(27) Dikovskaya, pp.21-22.
(28) ディコヴスカヤは先に青色のチュニック身に付けて学び、後に赤色のチュニック を与えられたと記憶している。これが正しければ、ヴァシェンツェヴァはディコヴ スカよりも少し後に学校に入学した可能性が高い。
(29) ピョートル・ルボシッツかマーク・メイトチック。
(30) DP64, pp.12-13.
(31) 1921年11月7日に開催された。
一一二
(32) DD, p.228 ルナチャルスキーがボリショイ劇場で開催されるガラ公演でイザドラ に踊る話を持ちかけた。すべてのチケットは多くの労働者の組織と赤十字に無料で 配られていた。ディコヴスカヤによると、レーニンとルナチャルスキーが劇場での 公演を手配してくれた。Dikovskaya, p.22.
(33) Dikovskaya, pp.22-23.
(34) スラヴ行進曲は皇帝賛歌の箇所があったので、革命4周年祭のガラにはふさわし くないといくつかの機関は反対していた。しかし、問題なく公演を終えることがで きた。観客はイザドラの寓意を読み取ることができた。DD, p.229.
(35) B+ȼɨɫɩɨɦɢɧɚɧɢɹɫɱɚɫɬɥɢɜɨɝɨɱɟɥɨɜɟɤɚɋɟɦɟɪɨɩɥɹɲɭɳɢɯ
=C:#(=, 2007, p.261.
(36) 当時パイロットのためのロシア軍事学校で学んでおり、後にブルガリア軍の大佐 になった。
(37) DP64, p.10.(Blair, p.298にはレーニンは『スラヴ行進曲』に感動し、称賛したとの 記述がある)
(38) Izvestia 9 Nov.1921. DP64, pp.10-11.
(39) Dikovskaya, Lily. Personal interview. 12 Apr. 2011.
(40) Dikovskaya, Lily. Personal interview. 13 Apr. 2011.
(41) Dikovskaya, Lily. Personal interview. 18 Sep. 2011.
(42) Dikovskaya, Lily. Personal interview. 13 Apr. 2011.
(43) 入口から入って左側には大理石の階段があり、それは当時と同様の形を保ってい ることが確認できた。
(44) DD, p.227.
(45) DD, p.227.
(46) ルナチャルスキーが彼女の父に10歳の娘ムシアをダンカンの学校に入学させるよ うに助言して、学校に入学した。
(47) イルマが執筆したイザドラ・ダンカンの踊りの技法書の「歩く」にも同内容が記 述されている。
(48) DP64, p.20.
(49) イザドラの踊りの源泉であるとした太陽神経叢のことを指していると思われる。
(50) DP64, p.20.
(51) DP64, p.20.
(52) The Technique of Isadora Duncan, p.9.
(53) DP64, p.20.
(54) 21歳の時に初めて詩集『ラードニツア』を刊行し、ロシアの詩人として広く知ら れていた。1922年5月22日、イザドラが44歳、彼が27歳の時に結婚した。
(55) DP64, p.18.
(56) イギリスの小説家。社会活動家、歴史家としても多くの業績がある。
(57) DP64, p.18.
(58) DD, p.230には1921年の新しい経済政策により、金銭システムが再建され、金単位 でルーブルが標準化され、労働者は再び賃金労働者になったとの記述がある。実際 この新経済政策により多くのことが変動した。政策は国民の疲弊を救うため1921年 3月21日に施行されていたが、ロスラヴレヴァによれば、学校が支援から外された のは1922年11月11日となっているので、1年以上は支援を受けていた可能性がある。
一一一
(59) DP64, p.16
(60) DP64, p.16.
(61) Dikovskaya, p.58.
(62) しかし、彼女達も踊りたいと希望すれば踊ることができた。Dikovskaya, p.58.
(63) 一方でルーシー・フラックマンのように学校で提供される学問に満足せず、2年 程在籍した後に学校を去って行った生徒もいた(DP64, p.23) 彼女達は裕福な家庭の 生まれだったため、授業料を支払っていた。(Dikovskaya, p.58)
(64) DP64, p.16. Poslednye Novosti (Petrograd) 20 Aug. 1922, no.6.
(65) DP64, p.16.
(66) DP64, pp.17-18. Zhizin Iskusstva (Petrograd) 5 Sep. 1922, no.35.
(67) DP64, pp.24-25.
(68) IARIAAL, p.241, p.246ではスパロウ・ヒルズにあるスポーツ・アリーナと記述され ている。ロスラヴレヴァはスパロウ・ヒルズと記述しておらず、DD, p.237にはモス クワの外にあるとの記述があるので正確な場所は不明である。
(69) DP64, p.25.
(70) 1917年に軍事革命委員の委員長になったポドヴォスキーは、労働者の身体的発達 を改善しようと努力しており、様々な種類のスポーツを拡げることに熱心になって いた。
(71) DD, p.237.
(72) DD, p.238.
(73) その後イザドラは1927年9月にニースでの自動車事故で亡くなるまで、ロシアに 戻ることはなかった。
(74) 古代ローマの風刺詩人ユウェナリスの言葉「健全なる精神は健全なる身体に宿る」
に由来している可能性がある。しかし、ユウェナリスの『風刺詩集』第10編第365 行には「強健な身体に健全な魂が宿るように願うべき」と記述されており、こちら の訳の方が正しい。
(75) Emlekkonyv, pp.92-93.
(76) DD, p.273.
(77) Dikovskaya, p.65.
(78) DD, p.273.
(79) どのマネージャーかは不明。
(80) DD, p.277. ハルビンに住む多くはロシア人だったが、日本人も住んでいた。
(81) Harbin Daily News n.d.には “Four Soloists From the Duncan Ballet Troupe.”という見出 しと共に4人のソリストの写真が掲載されている。
(82) DD, p.277.
(83) DD, p.278.
(84) 徳齢(1885-1944)は中華民国時代の文筆家で清朝宮廷を題材にした作品を英文で 発表している。1907年にアメリカの上海副領事と結婚し、1915年から夫と共にアメ リカに移住している。妹の容齢と共に西太后の侍女を務め、外国公使夫人と交流す る際に通訳も担当していた。
(85) 容齢。彼女も西太后の侍女だった。後にバレエダンサーになっている。
(86) DD, p.279.
(87) イザドラは1902年の春になるまではドイツに滞在しているので、彼女たちがイザ
一一〇
ドラから直接学んだ時期は短期間であったと推察される。
(88) 裕庚(不明-1905)。正白旗漢軍旗人で駐日公使、駐仏公使などを歴任した。妻は フランス人だった。
(89) DD, p.279.
(90) DP64, pp.32-33.
(91) DD, p.320.
(92) DD, p.321.
(93) DD, p.321.
(94) DD, p.321.
(95) DD, p.322.
(96) DD, p.325.
(97) Levien, Julia. “Commitment.” Isadora Duncan Foundation Archive. n.d.
文献一覧
Blair, Fredrika. Isadora: Portrat of the Artist as a Woman. New York: William Morrow, 1986.
Dikovskaya, Lily. In Isadora’s Steps. Brighton: Book Guild, 2008.
Duncan, Dorée, ed. Life into Art: Isadora Duncan and Her World. New York: Norton, 1993.
Duncan, Irma and Allan Ross Macdougall. Isadora Duncan’s Russian Days. New York Days. New York: Covici-Frede, 1929.
Duncan, Irma. The Technique of Isadora Duncan. New York: Kamin Publisher, 1937.
Duncan, Irma. Duncan Dancer. Middletown, CT: Wesleyan UP, 1966.
Duncan, Isadora. The Art of the Dance. ed. Sheldon Cheney. New York: Theatre Arts, 1928.
Emlekkonyv. Remembering Isadora Duncan. Budapest: Mozdulatmuveszeti-sorat, 2002.
Macdougall, Allan Ross. Isadora: A Revolutionary in Art and Love. New York: Thomas Nelson&Sons, 1960.
Roslavleva, Natalia. Era of the Russia Ballet 1770-1965. New York: E.P. Dutton, 1966.
Roslavleva, Natalia. Dance Perspectives 64, Winter, 1975.
新聞記事
Harbin Daily News n.d.
Izvestia 9 Nov. 1921
Poslednye Novosti (Petrograd) 20 Aug. 1922, no.6.
Zhizin Iskusstva (Petrograd) 5 Sep. 1922, no.35.
図版出典一覧
図1:Duncan, Dorée, ed. Life into Art: Isadora Duncan and Her World. New York: Norton, 1993, p.165.
図2:Kozodoy, Ruth. Isadora Duncan: American Women of Achievement. New York: Chelsea House Publishers, 1988, p.92.
図3:筆者撮影
図4:B+ȼɨɫɩɨɦɢɧɚɧɢɹɫɱɚɫɬɥɢɜɨɝɨɱɟɥɨɜɟɤɚɋɟɦɟɪɨɩɥɹɲɭɳɢɯ+
=C:#(=, 2007, p.258.
図5:リリー・ディコヴスカヤ所蔵
一〇九
図6:リリー・ディコヴスカヤ所蔵
図7:Dikovskaya, Lily. In Isadora’s Steps. Brighton: Book Guild, 2008, n.p.
図8:Dikovskaya, Lily. In Isadora’s Steps. Brighton: Book Guild, 2008, n.p.
図9:NYPL Digital Gallery
図10:Dikovskaya, Lily. In Isadora’s Steps. Brighton: Book Guild, 2008, n.p.
図11:Duncan, Irma. The Technique of Isadora Duncan. New York: Kamin Publisher, 1937, p.10.
図12:Le Théâtre et Comoedia Ilustré, no.39, 1 Nov. 1924.
図13:Ibid 図14:Ibid 図15:Ibid
図16:Schneider, Ilya Ilyich. Isadora Duncan The Russian Years. New York: Da Capo Press, 1968, n.p.
一〇八
Isadora Duncan s Dance School in Russia:
From the Founding to the Closing
YAGISHITA Emi
Isadora Duncan (1877-1927), a pioneer of modern dance, was born in San Francisco, California, where she studied many types of dance, as well as pantomime. Inspired by literature, art, music, and the movements of Nature, Duncan established her style of dance as an art form. She enjoyed artistic success while performing in Europe and sought to transmit her innovative dance techniques through the creation of an ideal school. First, she founded a boarding school in Grunewald, Germany (1904), then in Bellevue, France (1914), and finally, in Moscow, Russia (1921). Duncan included children from poor families at her schools, providing free instruction. Unfortunately, the schools in Germany and France were closed for various reasons.
However, in 1921, the Soviet Russian government invited Duncan to open her revolutionary dance school in Moscow. In this paper, I focus on the school in Moscow, clarifying its beginnings, its administration, its type of dance education, and school life. Moreover, I will examine the students performances in China and Russia and critics appraisal of the school. My research is based on historical newspapers, brochures, and reviews; the book, Duncan Dancer , written by Irma Duncan, one of Isadora s pupils and adopted artistic daughters ; and the book Dance Perspectives 64 by Natalia Roslavleva, a member of Irma Duncan s Isadora Duncan Dancers of Moscow troupe. In addition, I utilized an interview that I conducted with Lily Dikovskaya, a former student of Isadora Duncan and Irma Duncan. Dikovskaya was the last living person who attended Isadora Duncan s school in Moscow. Therefore, her testimony is an important contribution to an examination of the reality of the school experience.
一〇七