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九州大学学術情報リポジトリ

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

近代日本における中学校教育成立に関する研究 : 中 学校教育の地方的形成と統合

新谷, 恭明

https://doi.org/10.11501/3106933

出版情報:Kyushu University, 1995, 博士(教育学), 論文博士 バージョン:

権利関係:

(2)

四 頁

知知一一立国平近世教育と近代教育の連続の問題について

問題の設定

近世教育と近代教育の連続性をめぐる議論は教育史学会では積年の議論であった〔二O

殊に中学

校教育の成立

は移入された枠組みと伝統的教育の統合の問題であるから、この問題は中学

校教 育成立の出発点を一示すものであ

多くの近世的 る

学校が廃藩置県ないしは『学制』を契機に一旦は廃絶の事態を迎え、

後に近代的学

校として再生

するといういわば歴史的断絶の時期を持つことになる。福岡県域の諸藩校もまた然りであった。藩校の解体をも

っとも象徴的に一不すのは福岡藩であるのかもしれない。周知のよう

に福岡藩

では天明四(一七八四)年

に設けら れた東西の学問所を源流とする藩校修猷館の九十年近い伝統があった。しかし、修猷館は廃藩置県後はその「教 職員は罷免せられ、蔵書万余巻、諸具什器悉皆県庁に納付し、閉校することとなった」3のであるが、明治六

年にこの跡に変則中学校を設けている。この変則中学校は「学課ヲ八級ニ分チ毎級六ヶ月一週二十四時間ノ習業

トス」三)というもので、校舎を旧藩校の跡においていたために当時は旧慣にしたがい「修猷館」と俗称されて おり、文部省への報告も「福岡変則中学校(旧号修猷館)」と記され(里、『文部省第二年報』にもこの名称で

記載されている。この変則中学校は明治八年に英語学校ヘ改組されている。また、明治六年には同じ修猷館跡に

数学所を設けた。これは成業ノ上各区小学校ノ教師ニ採用スヘキ為メ一先ツ生徒百人ヲ撰ヒ凡三ヶ月ノ間洋法算

(3)

一五 頁

術ヲ教授セシメ候」というもので新しい小学校の教員養成をめざしたものであった。さらに同年中に修館館内に

学科取調所を設け教員養成を本格的におこなうようになった。

この学科取調所は翌年教員伝習所、九年には福岡

師範学校と改称している。一方、

明治七年末には診察所が設置されている。

これは「此度修猷館内ニ於テ診察所 相設ケ不日同所修繕ノ上ハ病院並ニ医学所相開講義ヲモ可為致筈ニ付」云々というもの

で、これは後に福岡病院、

福岡医学校として発展・継承される

ものであった。

こうしてみると藩校修猷館は明らかに廃されたが県はその跡

地とそこにしみ

ついた旧藩校の威信をたくみに利用しつ

つ、

旧修猷館跡地をして県の近代教育の

中核に位置づけ

ょうとしていたのである。

明治七年十月に定められた修猷館事務職制には「修猷館ハ総テ管内ノ学校ヲ統轄匿督

スル所」とされ、県の教育行政機関も含まれていた。

このように藩校修猷館は解体の過程を踏んだのであるが

、重

要なのはその過程で藩校修猷館の名称がたくみに

利用されたことであった。これは修猷館に限らず、

多くの藩校所

在地に置かれたもしくは藩校を継承したと自覚

する多くの「中学校」にみられる問題であるが、

旧藩校に対する士族層の思い入れが中学校をはじめとする諸学

校の設立に貢献していったのである。その地に変則中学校であれ

、師

範学校であれ設置され

てい

くことは、それ

らの学校が「学制」が目標とする教育体系に位置づく中学や師範学校ではなく、藩校という旧藩の最高学府の継

続・再編という役割を意識の上で有していたからにほかならな

い。

それは藩校の教育伝

統の中に

伝えられてきた

時務の意識に基づくものと考えて良いだろう。

藩校における「時務の認識は藩校の存立にかかわる重要な要素で あった」きが故に藩校は維新後も、否、維新以降の転換期であるからこそそれぞれの時務の認識のもとに教育

(4)

一ムハ

の刷新をすすめていった。そこには確かに、井上義巳氏の指摘する「時務意識の根本的限界性」が存在したし、「藩によってなされる真の時勢の認識が廃藩それ自体によって果され、藩校が行う真の時務実行の教育が根本的に藩校それ自体の否定を志向するものであったことは、避けることの出来ない歴史の法則であった」5ことは

いうまでもない。にもかかわらず、長きにわたる藩と藩校の伝統は廃藩後も「時務実行の教育」を遂行せしめよ

うとしたのである。しかしそれは「真の時勢の認識」を欠くが故に「真の時務実行の教育」たりえず、あたかも

騎手を失った馬が疾走を続けようと

いうの

に似ている。すでに姿を消した藩の幻想のための疾走であるが故に、

そこで構想される中学校教育は明治国家が構想したものとまったく異質なものとならざるをえない。なぜなら、

これらの学校は近代的学校に旧藩校の幻影を投射したにすぎないものであったからである。

そうしたなかで豊津育徳館は名称に変更は多々あるも

のの

一貫して連続を保って自己認知

されているので

ある

50 育徳館の場合、 藩校から中学校へ という継承を見せ

るのだ

が、

その過程で豊津における藩校観は如何にし

て豊津中学校観へと転換したのか、を検証することができよう。少なくとも育徳館の組織化と再組織化の過程の

なかに解決の糸口が見いだせるのではあるまいか。そしてそのことは日本における近代中学校観の形成過程に関

する一つのモデルを提供してくれると考えられる。

次いで三瀦県において旧久留米藩洋学校と旧柳川藩洋学校を合体させたかたちで設立された宮本洋学校につい

て検証したい。宮本洋学校は旧久留米藩医学校好生館の英学部を前身とする旧久留米県洋学校と旧柳河藩校廃止

の跡に設置された旧柳河県洋学校とが合併して成立した学校である。その存在期間は明治五年十一月から明治七

(5)

年十二月までのわずか二ヶ年にすぎない。この時期は旧藩の教育伝統を存続させ、近代的学校として再出発させるための努力がそれぞれの旧藩関係者の手でおこなわれた時期でもあった。明善堂が解体していくなかで久留米 県が漢学と洋学の合体をはかったり、柳川県が新たに英学校を設置した試みはそうした旧藩校の教育伝統のえん

めいをはかろうとしたものであった。しかし、久留米、

柳川両県を統合して三瀦県が成立する

と事態はかわって

くる。旧藩教育の時務意識とは別の新しい意思によって新たな学校の構想が持ち上がったのである。

それ が宮

洋学校であった。そして明治五年十一月に宮本洋学校が設立されたのである。三瀦県は敢えて二つの旧藩の学校

の系譜を統合して旧藩の伝統に依拠しない

特異な近代的中等教育機関の設立をめざした。

これはまったく新たな 教育観を持ち込もうとした点で歴史的な実験とでもいうべきものであったといえる。この宮本洋学校がわずか二 年間の短命に終わったということはその試みが何らかの限界性を持っていたことを示すものではないだろうか。

本章では宮本洋学校がどのような事情で設立されるに至ったか、

そしてそ

こではどのような教育がおこなわれ、

またどのような文化的葛藤が生じたのかを検討することから宮本洋学校が短命に終わった要因を検証したい。そ

のうえで近世から近代への過渡期における藩校を母胎とする中等教育機関の成立の条件、すなわち藩校と中学校

を結ぶ意識上の連続の問題に接近してみたいのである。

一七頁

(6)

八 頁

信知一餅則時務意識の擬制的継承||小笠原藩における藩校の組織化と再編||

はじめに

小笠原藩は寛永九年小倉藩主細川氏が熊本ヘ移封となったあと播磨国明石から小笠原忠真が豊前六郡(企救、

田川、京都、仲津、築城、上毛)に入って成立した。細川氏の転封した後にはほかに播磨国竜野から小笠原長次

が豊前二郡(下毛、仲津〉に、忠真の弟忠知が豊後杵築に、領津国三田より松平重直の四譜代大名がそれぞれは いった。周知のように豊前は交通の要地であり、幕府の九州統治の最前線ということで譜代四大名の筆頭である 小倉小笠原藩は江戸幕府の「九州探題」と称されたというえ)O ところでそうした幕府の期待を背負った小倉小笠原藩ではあったが、幕末維新期は歴史の荒波に弄ばれ、不運

な末路をたどることになった(略年表参昭…)。小笠原藩は第二次長州征伐の敗北後、田川郡香春ヘ藩庁を移し、

その後明治に入ってから豊津に安住の地を求めて移転し、ここで近代への新しい道を歩み始めることになったの

である。藩校も小倉藩時代より思永館なる学校を維持してきたが、豊津移転後は育徳館と名称を変え、近代を意

識した再組織化をはかっていったのである。

ここで小笠原藩における幕末維新期の学校の組織化に焦点をあてて議論するのであるが、その際に右のような

小笠原藩の特異な状況を念頭においておかなくてはならない。それは小倉戦争の敗北と香春での暫定政府のもと

での学校の再建、そして豊漆での新たな学校建設というように小笠原藩にとって激動の幕末維新期の数年間は教

(7)

一九頁 育においても自己変革を遂げざるを得なかった数年間であった。但し、小笠原藩の維新期の学校改革は特異に見 えつつも実は維新期に起こるべくしておきた学校の組織化に関する一切の現象を凝縮して象徴して示していると

も言えよう。

第一に学校組織化についての藩の自覚性においてである。小笠

原藩が小倉から香春ヘ藩庁を移したときは

あく

まで瞥定的な移転であり、

豊津に藩庁を定めたのは明治新政府の下での新天地を求めてのことであって、

藩政の

改革においても学校の組織化においても明確な転換期に自らが位置していることを小笠原藩は自覚せざるを得な

かったということである。

学校教育に限定していえば、

香春での思永館の再

建は小倉戦争に敗北した藩体制の建 て直しを目途とするものであり、

藩は一つの時代の終わりを感じつつあっ

たといえよう。

一方、豊津育徳館の建

設は新天地において新時代を読み取り、

自身が生き残るための戦略と

しての学校の組織化をはからねばならない という歴史状況を藩は体感していたに違いないからであ

る。

即ち、

小笠原藩の幕末維新

期における学校改革・組

織化は実に自覚的に行われたのではないか、ということである。

第二に学校の近代的組織化という側面にお

いてである。

弘は幕末維新期の学校組織化という問題の基本的な命 題を近世教育から近代教育への移行過程の検証という点に措こうと考

える。第一の課題意識と重ね合わせて言う

ならば、思永館の教育は近世の教育であり、就中、香春藩時代の回心

永館は近世教育の終罵時代であったのかもし

7ν ・弘 、 。

ふd、中人、'Vしかし、

明治政権下の豊津藩もまた自覚的とはいえ当初は近世教育の再生を目論んだのであ

り、

根本的

な近世教育から近代教育への

橋渡しはこの豊津

移転後の育徳館において起こったのだと想定できるからである。

(8)

o

そうすると小笠原藩における近世教育から近代教育への移行は主として豊津育徳館において行われたことになる。

豊津藩の成立について

先にも少し触れたが、

小笠原藩は始めは小倉藩十五万石の譜代藩として成立した。

然るに幕末期の政治的変動

は西南地域における譜代大名である小倉藩に難題を与え

た。

小倉・長州両藩の確執と抗争そして長州に敗北を喫 して小倉から香春そして豊津へと藩庁を移していった経緯については周知の

ことでもあるか

ら詳述することは避

けよう。後の説明のために概略のみを述べれば以下のようにな

る。

即ち、慶応二年の第二次長州征伐に際し、小倉藩は 孤立無縁の戦いを強いられ、当然の帰結として長州藩の武力に屈せざるを得なかった。そして戦うこと一ヶ月半

にして小倉藩は自ら小倉城に火を放ち、小倉の位置する「企救郡と田川・京都両郡の境に防衛線を敷き長州軍と

相対し」き長期戦に持ち込んだのである。藩庁も田川郡香春に退避し

、長

州軍と一進一退を繰り返した。

れそ

も消耗戦の様相を呈してきたので、肥後・薩摩両藩に止戦の斡旋を依頼し、同年十二月になってようやく最初の

止戦の談判が行われ、翌一月末に企救郡の長州占領を条件に和議が成立した。小笠原藩は敗北したのである。

年貢は皆済されず、新政府の命による東北出兵などで藩財政は崩壊の寸前にあったという。しかし、時勢も落

ち着きを見せたため、明治元年十一月に藩士の投票によって仲津郡錦原の地に城地を定めることを決し、豊津と

命名した。そして二年秋より漸次藩の役所を豊津へと移転したのである。

(9)

思永館の盛衰

イー

小倉思永館 小倉田心永館は第四代藩主忠総の治世時の宝暦八(一七五八)年に小倉城西三ノ丸内の藩儒石川麟洲5の舎宅

に書斎を設置し、思永斎と名付けた。

これが小倉藩における学校の濫鱒であった。

更に天明八(一七八八)年に

文武を統一して思永

館と改称した。以後、

思永館は小倉藩の藩校としてほぼ八十年間(思永斎より数えれば一一 0年間)存続してきた。学統としては一貫して京学系朱子学の系統を守り、

石川麟洲|石川彦岳l矢島伊浜とい う学問的な継承が為されてきている。

思永斎創設以後寛政六(一七九四)年及び天保十四(一八四三)年に講習(習読)書目に改

正があったが、殊

に天保十四年の改正は時務に応ずるという危機感から為されたものである。

天保十一(一八四O)年に矢島伊浜

が思永館頭取に就任したが、「此の時藩学漸く萎扉の兆あり」(十一)ということで矢島伊浜は改革を志し、

習業書

自の制定をおこなった。そして天保十四年新たに藩主

となった小笠原忠固は学校の条目を改訂掲示し、

思永館の

活性化をはかっている。

その 条目は左

の通り

である

〈十一一 ) O 定

(10)

文武忠孝ヲ励シ礼儀ヲ正シ候ハ公義御条目ノ第一ニモ候問愈以無油断可相心得事 学問ハ孝経四書五経素読ノ上一ト通リ大意ヲ承リ追々徳業成就候様相心掛文武芸術ハ各二流宛得手ノ芸ヲ習 覚へ其上ニテ志次第幾流モ遂修行可究奥儀事

総テ他流ノ批判無益之説話ハ不及申他稽古場覗見壁ヲ議シ物ヲ損シ

候等万端猿成義有之悶敷事 万一師命ニ違背シ不順教導輩ハ其師ヨリ申出次第可及沙汰事 稽古場ニ於テハ格式ニ不相拘高第ヲ尊ヒ深切ニ可致修行事 右ノ条々堅可相守者也 右掲示スル所ノ条目義解有リ学校引受家老小笠原縫殿長成学頭矢島四郎右衛門

辰ヲシテ撰述セシムル

所ニシテ其十二月之ヲ諸士ニ頒布ス 改訂以前の条目は文化元年に達せられたものであったが、

「兵焚ニ羅リ其記録ヲ亡ス」十三)とされ、

正文はわ

からない。矢島伊浜はこれの解説

として『思永館御条目義解』を著し、

その改革の趣旨を説明している字型。

れによれば例えば第一条の文武忠孝について「(旧御条目

では)只文武忠孝之義者と計り有之、

此度は全文を御

あげ被成候者如何成御趣意有之事や」という問いかけをおこなっている。

すなわち旧御条目では「文武忠孝につ いては」という程度しか書かれていなかったのをかなり詳細に記し

ているという宇き、

そのことの理由を述べる

かたちで解説している。

一一 一

(11)

-・答日誠に厚き御趣意可有御座義と奉存候故者旧文(H旧御条目)の時代にては面々之家に取ても父祖

以上之頃にて俗習手厚き時節に候故誰々も此御条目式をハ能々相心得居候折柄此上ハ只右心得候事を忘却仕 らぬ様ニとの御趣意ニて片時も忘却せしむヘ

からすと御一不し被成

候事故全文を御示しニ及ハす只文武忠孝と 御座候得者最早御趣意相分り候也近頃ハ天下の人気うハずり真実う

すき風俗なれ共面々事ハ流石 御家の厚き御風儀の中に相住候故其病をうけず候得共 上ニハ兼而御気遣被為遊候ニや右御条目詰所役所杯ニ御張出し有之を拝見仕る迄ニてしかと読もせぬ位ニて ハ深き御趣意をも健二相心得候事難かるへきかとて則御学館ニおひてヶ様に全文を御あげ被成候て事新敷御 示し被仰付候御義と奉存候

共夫故ニ其下の句に愈以無油断可相心得事にて御座候ニて勘考可仕事ニ候旧文ハ 肝要を以て教を務られ此度ハ切実を以て御一不し被

仰付旧文ハ戒教を主ニし此度ハ修業を要

と被仰付候御

義と奉存候・・・・・

とそれ

に答える形で当時の藩士の時代に押されて浮ついた風潮を引き締めることに

よっ

て変動しつつある時代

に対応していく方向性を持った改革であった。

それ故

に第二の学問についての条目は以下のように解説さ

れる

学問ハ孝経四書五経素読之上一通り大意を承り追々徳業成就御稽古

心懸此学文こそ右之文武忠孝礼儀の心得

を修行仕る事に候尤其文武忠孝礼儀の本意ハ面々の身を善きか上

ニも善き様ニとこしらヘあげ

(12)

一二四

君の御用ニも相立家をもおこし只なから御家風の妨ニはならぬ位の身とハなり可申と心懸る事に候則其修行 と申すハ学問の事ニて孝経四書五経の大意一通り承るより始る事ニ御座候元より右定二週り承り相済候得ハ 則文武忠孝礼儀之趣向ハ合点相なる事ニ御座候者愛に略し申候 すなわち朱子学の原点に帰り、

孝経、四書、

五経の基本に立ち戻ることから始めることを

指図している。矢島

伊浜が非常時にこそ原点に立ち戻った学校での藩士教育を必要とするという視点を持っていたこ

とを暗示させる。

この天保の改革の際に確認された学校観、

教育観が香春ヘ撤退した時期にお

いても定着していたとする

ならば、

そこにはまさに非常時の学校が設立され

なければならないこ

とになる。

この非常時の学

校は小笠原藩における近 世的学校観の本流と見なしてよいと考える。

ロ.香春思永館

ところで、

前述のように小倉藩は慶応二年の対長州戦争の無残な結果により、

学校は無論のこと藩庁そのもの を香春ヘ暫定的に避難させるという悲劇を迎えた。

避難先の香春ではかつてのような城下町が形成されている筈

もなく、

おもだった民家に下宿(!)して藩政

を執らざるを得なかったのである宇さo

しかし、小笠原、毛利両藩の和平交渉の目途がつき、士民の生活にも落ち着きを取り戻したと思われる慶応三

年五月一目、藩は思永館再興のお触れを出している〔十七)O光願寺なる寺院を借り受けての開業であるから、暫定

(13)

的なものであることは明確だが、

世の中が落ち着きを見せるやすぐに学校設立に取り掛かったのは前述のように 非常時における学校への期待度が高かったからであろう。

特筆すべきはこの再興された香春の思永館は藩内各地に支館を持っていたことである。

『豊津高等学校七十年 史』の整理しているところでは慶応三年中に取建が構想された支館は以下の通りである。

但し、

このうち五箇所 慶応三年の支館処割

については「取建差支」などの理由で開業しなかったと思われる。

田川郡上赤村支館(照福寺) 田川郡田原村支館(蓮側寺) 仲津郡大村支館(瑞龍寺) 仲津郡木井村支館(即侍寺) 築城郡本庄村支館(信福寺) 仲津郡節丸村支館(阿弥陀寺) 郡別府村支館(法蓮寺)

五月一日取建触出 五月一日取建触出 五月一日取建触出 五月取建、

七月廿二日発業 五月一日取建触出、

七月十八日取建差支 五月一日取建触出、

七月十八日取建差支 築城郡安武村支館

八月十九日取建触出

五月一日取建触出、

七月十八日取建差支 田川郡弁城村支館 築城郡支館

取建触出六月か、

差支発業に至らず 取建触出月日不明、

七月十八日未だ出来不致

一二五

(14)

築城郡伝法寺村支館

取建触出十月か

(『福岡県立豊津高等学校七十年史』より抜粋) 右の資料によれば田川郡、

仲津郡の支館は早々に位置が決定し、

開業に至っているが、

やや遠隔地である築城 郡の支館は十月に伝法寺村に設置されるまでは計画が

いったんは立てられたもののなかなか設置されなかった。

中村天郁氏が調査したところでは上赤村(赤村)、

田原村(川崎町)、

大村(犀川町)、

木井村(犀川町)の四 支館は七月には確実に開業したとのことである〔十八)O

これ

らの支館が設置されたのは先に示し

たように藩士の宿 所は田川郡は勿論、

仲津郡、

築城郡まで藩領全体に散在し

ていたことによると思われる。

その散在していた藩士 たちを学校で学ばせる

には領内各地に支館が必要なのは当然であった。

豊津育徳館及び大橋洋学校の設立

イ.

育徳館の設立 明治元年十一月九日、

藩では新たなる藩庁の所在地を藩士の投票によって仲津郡錦原に決定した(十九v)

そ し て翌年一月には新しい藩校の名称は育徳館とされ、

二一月には新藩校育徳館の敷地が選定されて、

建築工事が始ま

った。

建築費用は行事村の玉江彦右衛門の出資によるものである。

このことは後に大きな意味を持つことになる。

一二ムハ

(15)

一二七

この段階で名称は育徳館となったものの、実態は従前と変わるところはなかった考えてよい。名称が育穂館となったときに、再び喜田村崎蔵が教授となっている。四月には権大参事入江淡が教授職について新生育徳館の牛耳

をとることとなった。

育徳館は明治二年十二月に落成し、翌年一月より開業することになった。

支館については思永館時代から継続していたもののうち上赤村(現在の赤村

)、

田原村(川崎町)、

木井村

(犀川町)の支館は明治二年中に廃館になり、

新たにこの年に神崎村(金田町)、

今井村(行橋市)、

添田

(添田町)、光富村(豊津町)、香春村(香春町)に設けられたが、今井村を除いてはいずれも廃館になってい

る(二十

明)。

治三年には築城村(築城町)に支館が新設されて、豊津の育徳館が開講する明治三年の支館は伝法寺

村、大村、今井村と築城村の四支館に代わっていた。これは藩庁が豊津に移り、学校も移るということからくる

暫定的な措置であったと考えられる。最終的に豊津の城下町が完成すれば無用となったのだと思われる。

明治三年の支館生徒数は左の通りである(二十こが、これが正しいとすれば支館はかなり初歩的な教育内容であ

ったと考えられる。

数 文

手 跡

(16)

一二八

伝 築 今 大

寺 城 井 村

1"""'\ ,,-、 r、、 fヘ

築 築 仲

城 城 JJ

郡 郡 郡

\国J '--" '--" 、回〆

一一 五

一 一

一 五

一 一一

一 一 一

一 一

九 五 -ノi\

A

J\

九 七

Cコ

J\

(『福岡県立豊津高等学校七十年史』)

ロ.大矯洋学校の開校

育徳館が学校としての再組織化を行ったとすれば、従来考えられなかった洋学を採用したことであろう。もと

より豊津藩は洋学への関心は薄く、医学の領域ですらほとんど洋学は行われていなかった。近隣諸藩に比して洋

学研究の立ち遅れていた育徳館が洋学の導入に踏み切ったのは大変な方針の転換であったといってよい。育徳館

開業の年の秋、即ち明治三年十月大橋(現在の行橋市)の御茶屋に洋学校を開いたのである。豊津が藩庁所在地

(17)

であり藩の行政機能が集中した町であるのに対して大橋、行事といった海に面した土地は商業地域として形成されていた。豊前最初の洋学校が豊津ではなく大橋であったのは「洋学を拒否する勢力が豊津に居たことと、洋学 を学ぶことを希望する徳人層が大橋・行事両村に住んでいたこととのこつの事情が重なり合って実現したと云っ

てよかろう」〈二士一vという理由が妥当と思われる。

特に第二の理由について若干説明を加えるならば古賀氏は洋 学校の入学者の中に草野信吉という行事村の百姓身分の者がいることを根拠にしてい

る。確かに大橋は幕末から

維新期にかけて経済的に急成長を遂げており、

文久三年から明治三年にかけての藩への献金件数は小笠原領内の

四五%にのぼったという〔二士三O

当然ながら豊かさは教育要求を生み出すし、

それにともなう種々の条件も整っ

ていたといえるであろう。

最初の洋学校は当時の在学生であった伊東景直という人物の記憶によれば左のような組織であった(二十四vo

一、学科

一、教師(変名ヲ用フル者アルモ知ル可カラス、後ノ教師モ亦然リ)

望月誠門松代人]瀧川久

〔静 岡人]佐藤彪 一、職員(職名ヲ詳ニセス)花見仲六布施源太郎早川延太郎(後ニ知寛)恩田叔蔵(布施早川ノ後 一

、、J

右ノ外記憶スル所ナシ

一二九頁

(18)

o

一、生徒喜田村寛治岩垂邦彦大前退蔵島田省中島長平野口文治

佐野文之助(旧名)高橋種之丞(旧 名)小口久五郎白根孫七郎竹林熊次郎(後ニー卓爾)大貫敬司

喜久田虎次郎

時枝満槌

谷頭熊次郎 演島彦太郎金子鹿太郎宮城勇福原多門草野信吉宮下清太郎森友彦六三村某(後ニ断二〉

粟屋寛伊東直(後ニ景直)右之外記億二十仔セス。此中大前退蔵

ハ同年十一月ニ長崎ニ遊学シ、

喜田

村寛

治ハ其後二一鹿児島ニ

遊学

シ、

其外ニ中途退学シ

、又

ハ開校後日ヲ経テ入学シタルカ如キモノアレドモ、

一々其氏名ヲ指斥スルコトヲ得ス

(岩垂邦彦ト伊藤直トハ、

藩庁 ヨリ洋学修行入寮申付候事トノ辞令ヲ受ケテ入学シタルモ、

一般生徒モ亦同

様ナルヤ否ヤ詳ナラス。前者ハ白ラ志望ヲ申出テ此命アリ。後ハ自ラ請フコトナキニ、此命ヲ与ヘラレタリ。

蓋シ後者ハ周年中其前ニ藩庁ヨリ文学修行トシテ、三ヶ年間鹿児島藩ヘ差遣ハサレタルニ、父ノ死亡ニ因テ

中途帰藩シタリ。而シテ再ヒ鹿児島ニ赴クヘキコト当然ナルニ、

一家ノ都合ニ依リ、

遊学ヲ免サレンコトヲ

請ヒ、聴許セラルノ所トナレリ。或ハ此故ヲ以テ特ニ前叙ノ命アリタルモノナランカ)

これによれば教師はいずれも小笠原藩の外部から招聴しており、当時の小笠原藩の洋学研究の立ち遅れが顕著

に示されている。また、生徒中筆頭に掲げられている喜田村寛治と岩垂邦彦はいずれも育徳館学頭であった喜田

村緒蔵の子である(二十五)ということからこの洋学校にかける期待は藩としては大きかったと思われる。

(19)

そして翌明治四年オランダ人フハン

・カステlルを教師として採用し、

本格的な洋学教育がすすめられること カステ!ルとの契約書は左の通りである

《二十50

V」

、みつ

' - o

yT+J

ヲ 争j

豊津藩庁ノ命ヲ奉シタル渋田見大属ト

和蘭人フハンカステlルトノ約定書 第一ケ条

学校英仏語

学ノ教 師タラン事ヲ、

初筆ノ者ト

郎大属ヲ云

約定セリ。

来藩ノ一第二筆ノ者

即カステ!ルヲ云

上ハ

、学

校課大属

ト諸事相談スベ

シ。

第二ケ条

一第二

筆ノ者居宅

ハ豊津藩ヨリ用意スベ

シ。

其外自身入用ノ品ハ悉皆

二筆ノ者自分調之ヘシ。

第三ケ条 一第二筆ノ者へ月給ハ一ヶ月百七拾五両ツ旨月末ニ渡スヘキ事。

但日本通用貨幣

ノ事。

第四ケ条

一此約定ハ日本明治四未年五月八日即西洋千八百七拾一年六月廿八日ヨリ来ル申年五月八日即西洋千八百七 拾二年六月廿八日迄一ヶ年ヲ期トスベキ事。

第五ケ条 一若豊津藩庁ニオイテ差支出来致シ此約束ヲ期限前ニ廃スル時ハ右残ル期限マテノ給料ヲ二筆ノ者へ相渡ス

一一一 一一 頁

(20)

へ+寸議苧。第六ケ条

一此約定ヲ更ニ延期

スルヤ否ハ期限

一ヶ月前ニ第二筆ノ者エ告知スヘシ。

第七ケ条

一此約定ヲ第二筆ノ者ヨ

リ廃スル時ハ職務ヲ取リシ日迄ノ

給金ヲ払

フヘシ。

第八ケ条 一第二筆ノ者、

病気ノ節、

三十日ヲ過キ猶全快ノ見込無之時ハ

此約定ヲ廃スヘシ。

然ル時ハ東京マテ旅行ノ 入賞ヲ豊津

藩ヨリ出スヘシ。

尤給金ハ廃約ノ日マテ払フヘシ。

第九ケ条

一此 事二筆ノ者、

豊津藩迄旅行ノ入費、

井ニ東京迄帰途ノ入賞ハ藩ヨリ払フヘシ。

第十ケ条

一第二筆ノ者、

其職ヲ怠リ酒色ニ耽リ、

放蕩ノ所業アル時ハ此約定ヲ可廃。

給金ハ廃約ノ

日迄払フヘシ。

第十一ケ条

一第二筆ノ者、

学用ニ付テハ豊津近傍ノ他行許容タルヘシ。

其余無拠外出ハ学校課大属ヘ可申談事。

生徒ハ学校課大属ヨリ取極ル者而巳ヲ教授スベシ。

第十二ケ条

一一一 一一一 頁

(21)

一一一 一一一 一 頁

一宗旨ノ儀ハ教示スベカラズ。

第十三ケ条

一第二筆ノ者

商売或ハ外国貿易筋ノ周旋一切スベカラス。

明治三(四ヵ)年辛未月日

渋田見大属判

千八百七十一年月日 カステiルとの

契約は

この

約定書によれば月給は百七十五両、

雇用期間は明治四年五月八日から

一年間、

豊津

藩(

育徳館)における

英仏語学の教授となっていた。

しかし、

豊津への着任は洋学を嫌う守旧派の不穏な動きか らしばらく差し止めとなった。

『藤田弘策日誌』によれば「明治四年六月七日蘭人フハンカステル氏ヲ藩邸ニ勝 シd英語教師トシd本日開

業d余今日ヲ以テ英学ヲ始ム。

」とあるからカ

ステ!ルは六月七日よ

りとりあえず豊津 藩の東京藩邸において英語の授業を開始したようである。

そして廃藩置県後の「八

月廿二日藩論カステル氏ヲ本 国豊前ニ迎ヘd青年輩ヲ教授セシメd亦遊学ヲ許サル弘事ニ決スo

」という決断を藩は行っ

た。即ち、カステ!ル を大様洋学校ヘ赴任させる

こととなったのである。

大矯洋学校にフハン

・カステlルが着任したのは九月十四日、

開講は十月一日であった。

そしてそれまで大

橋洋学校で教鞭を執っていた日本人教師と一部の生徒を豊津の育徳館ヘ移し、

以後洋学は豊

津と大橋

の双方で行う

ことにな

った

(二十七)O

かくして大矯

洋学校は純

然たる洋学校としての

体裁を整

えたが、

(22)

一三四

然豊津へはカステiルをいれることはできなかった。これが実現したのは明治六年四月のことで以後育徳館は洋学を主とする中学校へと転換する。言わば藩校から近代の学校へと脱皮したのである。

育徳館の教育

豊津の地に落成なった育徳館ではまず十月二十一日に左のような『

文武の職掌

』が制定された〔二十八)O

文武の職掌

文 学

皇学漢学、両曹ヲ分ツ

、 都

教一人、其人ヲ不得ハ欠之他日ヲ待ツ、専ラ教育ノ業ヲ執ルヲ掌ル、

助 教

人、掌都教ニ同ジ、訓導師無定員、内一人兵学ヲ兼ヌ、句読師無定員、生員問、習書師同

武 学

都教一人、文学都教ニ同シ

、 諸 武技教育ノ業ヲ掌ル、剣術教導師一人、五等以上、槍術問、一人同、砲 術

同 一人問、柔術問、一人同、剣術教導師助無定員、転旋砲教一不一

人、

六等以上、水術

問、

一人同、

楽隊問、一人問、算術向、一人問、各芸生員無定員(本館六、支館三) 医 学

教授一人、同助無定員

これによると組織的には文学は皇学、漢学の二部門に分化して時代への対応を示している。しかし、十二月二

十五日に制定された『文武教場の御条目』には従来通りの藩校のスタイルを堅持することなっていたご∞)。

(23)

篠一、

文武教場を直別すと難も、

雨輪不可偏巌の儀を目的とすべき事 御

一、

文皐は図体を明かにするは勿論、

義理を研究し、

古今を推考し、

身を修め、

事に廃する

の道を講習して、

忠孝の資と錯すべき事

一、

武皐は射放撃刺の技を修行して、

心臓を正大にし、

威武不可屈の気節を自得して、

忠孝の資と錯すべき事 とはいえ、

藩内の守旧派といわれる牧野郷三の背後

には

国学者佐久間種〔二十九)なる人物がイデオロiグとして 控えていたという

から(三十)

皇学の設置は

く意味のないことではな

ったのかも

し れない。

いずれにせよ育徳館 の教育は当面は原則として従前通

りの 漢学教育を主体とした形式で継続することとなっていた。

また、これ

と前後して十二月二十二日に『遊学生出入期限人員ノ規則』が出された。

これは遊学の

「人員百人

を限り候事、

但自力を以願立候向計にて上より被申付候向は本文の外

に候事」とあるように、

自費遊学生を制限

して、

藩費遊学生を積極的にしか

るべき所ヘ派遣して成果を

得ょうというものと考えてよい。

そのため「遊学は 三年を限り候、

尤一年にて見込無之向は差返し可申事」と厳しい条件がつけられていた。

実際、

この規則に従つ て藩命によって

佐賀、

鹿児島などヘ優秀な

ものを遊学

生として送り出している2十

)O

この時期の遊学が佐賀

と鹿児島であったことは興味深い。

政治的に非常に維新期を苦労した小笠原藩

であるが ゆえに、佐賀、

鹿児島等への遊学は相当大きな期待を負わせられたも

のであったと思われる。

この遊学生の規則

一三五

(24)

一一ニムハ

『日本教育史資料』には「藩費ヲ以テ他国ニ遊学セシムル弘化年間J名ヲ長崎ニ遺リ蘭学ヲ修ルヲ鳴矢トシ漸次増員殆ント百名ノ生徒ヲ撰テ各処ニ遊学セシムルニ至ル」とあって定員 では遊学の人員を百名に限定している。

一杯の遊学生を送り出していたかの感も見受けられるが、実際には『日本教育史資料』に書かれているように百 名の生徒を遊学させているというのは稲疑わしい。何故ならば同じ『日本教育史資料』に「維新後寄宿生徒日

計四百四十余名

通学生徒日計千二百十余名但本支館合計高」と

あるが、支館はほとんど手跡などの基礎教育を

施していたに過ぎない。しかも「維新後生

徒増加スルハ職トシテ一一層奨励法ヲ立テ歩卒ニ至ル迄就学セシムルニ

由ル」ということであるか

ら、

実際 遊学生として藩に貢献できる人材は相当少ないと考えられる。また寄宿生徒 中藩脅(寄宿生は「六十名乃至七十名」とされていることを見れば、藩の期待を担って遊学を命ぜられる者の層は おおよ

そ限られてくる。以上の事情から察するに、百名というのは百名に遊学生を制限したということで必ずし

もそれだけの遊学生を出していたというものではないと考えられる。

ところで、

この

遊学生の規則が制定されたことは豊津藩が自らの教育力に限界を感じつつあったことを示して

はいないだろうか。例えば当時の遊学生の回顧するところによれば育徳館の現職教員も遊学生として派遣しておれソ三一一十二)、それなどはその後の育徳館の教育への刺激を要求して

いる

ことと理解できる。そうした遊学政策の成

果が洋学導入へのきっかけのすべてではないと思うが、一つの要因を為していたと考えられる。実際、鹿児島の

洋学局ヘ派遣されていた野沢勝太郎という人物は帰国後大橋洋学校のスタッフに入れられているのである(帰国

させてスタッフに入れたとも考えられる)。

(25)

もとより小笠原藩では洋学に関心は薄く、近隣諸藩に相当に遅れをとっていた。洋学者としては唯二白雄正安

なる人物がいただけであった。しかし、その吉雄が明治二年七月十九日に育徳館の蔵書買い付けのためにJ五O

。両を携えて大阪ヘ赴いている【三士一一vのは、

この頃から洋学への関心が芽生えてきていたことを示す

ものかもし

L

r

除 、

争4+ん干u‘

にもかかわらず育徳館開業の頃には洋学摂取への動きは見られない。

ただ、鹿児島への遊学生中にそこ

で洋学を学んでいるものがいることは事実であり〔三

十四:育徳館設立前後から洋学摂取の底流がひそかに流れて

いたと考えられる。

豊津藩をして洋学摂取ヘ傾かしめた積極的要因は定かではない。

藩士の中には相当に洋学を嫌悪する向きも少

なくはなかったようで、

開明派の代表的存在とされる喜田村緒蔵でさえその部屋の入り口に「蟹文字を読むもの 入るべからず」と貼り紙をしていたというから(三十五)、

こうした洋学摂取の方針が出てきたのは如何なる動機付 けがあったのかは定かではない。古賀武夫氏はその喜田村街蔵が発案したと想定しているが三十さ

、 考

えられる

とすれば対長州戦争の敗北が強い周期付けになっているのかもしれない

。 対

長州戦争では長州軍が周知のように

洋風の軍隊を駆使していたのに対し、小笠原軍は「悠々山家流ノ軍鼓ヲ鳴ラシ、螺ヲ吹ク。兵士之ト和シテ緩歩、

其状吐綬鶏ノ歩スルガ如夕、意気揚々本丸ヲ出テ室町、京町ヲ経テ門司口ヨリ進軍ス。其行装或ハ甲胃ヲ著シ、

或ハ烏帽子直衣ノ者アリ。黄又ハ緋羅紗ノ陣羽ヲ服シ。陣笠ヲ被フルアリ。手ニ弓槍ヲ持アリ。又僕ヲシテ槍ヲ

捧ケシムルアリ、鉄棒ヲ堤クルアリ、銃ヲ荷フアリ、総テ頭額二白鉢巻ヲナシ、概ネ切鮭ヲ穿ツ」十七vといゆっ

有り様であったから、敗因の一端がこの辺りにあったと経験的に理解したとするならば、それが洋学摂取の一つ

一三七

(26)

の要因となったと見ることもできよう

大矯洋学校が開校して半年後の明治四年四月に突如育徳館は改革のために一時間館となる。

そして五月に東京 でのカステ!ルとの契約が結ばれ、

一方、

国元豊津育徳館では新学則の制定がなされている。

カステlルが六月七日から東京の藩邸で英語の教授を始めたことはすでに述べたが、

そのときの教授日課は次

ようなもの

ので あっ た

〔三十八)O 修業規則

ア午前七時ヨリ八時迄英語 ア午前八時ヨリ九時迄温習 ア午前十時ヨリ午後二時迄

休息 ア午後二時ヨリ三時迄洋算 ア午後三時ヨリ四時迄翻誇

但日曜日休業

カステiルは英語の教授にあたっていたが洋算は早川延太郎という日本人教師で

あった。

こ の日課から察する に体系的な洋学教育というより、

英語及び洋算の講習という色彩が感じられる。

カステ!ルの負担は僅かに一日

一三八

(27)

一三九頁 「翻訳」にも関与したとして二時間に過ぎない。これでは百七十五両という高給には見合わない。カス テlルはもとより豊津の育徳館で教授するために雇われたのであり、

この東京藩邸での洋学教授は暫定的措置で

一昨吋問問、

あっ

たことために

このような日課になったものと思われる。

問題は同じ頃、

育徳館において行われた新学則である。

この学則は「

方今西洋諸蕃学術大ニ関ク。

其精綴往々

可用者不亦齢、又以テ

我用トナス」と積極的に洋学を採用する方向で構想されていた

三十九)O

この学則は小学校、中学校、専門学と分かれており、

学科課程は和洋の折衷になっている。

例えば小学校の三

級では次のようなものが学

科課程にあげられていた。

国史略十八史略一克明史略

英仏綴字習字同単語暗記

数術(数字

位命

加減

乗除)

習書(御誓文告諭大意公用文章)

従来の漢学教育とも異なって三級

の和漢学は歴史書が並んでいる。

他の級においても経典が無い訳ではないが、

扱いは一一教養教科と鳴っているとみなしてよいだろう

。英

仏綴

字習字

と英仏二語の学習が挙げられているのは

「英仏語学ノ教師」

(前掲約定書)として契約するカステlルを念頭においていたからであろう。

(28)

中学校及び専門の学則は以下の通りである。

中学校学則

一読書

一輪講

一洋学一数学

一一復文記事

一助業渉猟

一聴講一練兵

一剣術柔術 一馬術

一試銃 九字ヨリ三字迄

神皇正統記日本政記

職原抄四書

天文地理器械化学究理大喜

二次方程式迄 令義解

素読講論

開平開立

点憲開平開立 幾何

平面式

八線正斜三角

六国史日本史

日取興廃刻合小学ニ同シ

小隊迄

日取刻合小学ニ同シ

同前

正業前小学ニ同シ

日本外史綱鑑易知録

書経 大学術義

万国史学

万園地理学等之書

一四O

(29)

一水泳同前

専門学則

武学部

歩兵将校之科

戦法

築 造 砲 術 軍 律 操練 砲兵将校之科

数 学 砲 術 軍 律 操練 戦法

築造 器械学化学 築造将校之科

数学築造水理学

戦法

砲 術

器械学

化学

軍 律 文学部政律科文事科

利用科 小学校と同様に中学校

の教

育内容も和漢学校でも洋学校で

もなく和漢学及び外国語学と洋算を満遍なく学ぶ普 通教育を構想していた

よう である。

また、

武術も重要な教科となっている。

専門学

は武学と文学とに区分されるが、

武学は従来の藩士教育に見られた

文武統一という考えに基づく武士と しての文武の修養ではなく、

明確

に近代軍事教育H軍人養成を指向

していることである。

やはり小倉戦争での敗 北の体験が大きく響いていたのであろうか。

またこの規則には別に「学則」が付されていて、

就学年齢、

検試システム、

遊学の申し合わせなどが定められ てい た。

更 に、

「書籍不足居寮未備生徒ノ員確定無之故」を以て「当分規則」を設定していた

それだけ現実的

な改革を指向していたものといえよう。

この「当分規則」中に「洋学所落成ノ後従来ノ洋学生徒ノ内ヲ撰テ洋学

四 頁

(30)

四 頁

皇漢ヲ助業トシ切ニ標目ヲ追テ読シメスト難トモ標目外ノ書ヲ読ヘカラス皇模学ノ徒モが専門アリ洋学ヲ助業トス其人ヲ観テ之ヲ許ス」とあり、洋学を育徳館の大きな柱にしていくことを想定している。ま 専門トシ

た「寮中規則」に

は「外人来訪之節応援所ニて対面するを得」と記されているのを見れば近いうちに外国人教師 を育徳館に連れてくることが改革の前提になっていたことがわかる。

即ち、 この学則の制定と並行してカステ!ルを東京で雇用したの

は、

ゆくゆくは彼を豊津に迎える予定であっ

たことを示しているが、

そのカステ!ルをすぐには豊津ヘ連れて釆ずに敢えて

東京で開講させたのは外国人に対

する抵抗が豊前では強かったからであろう。

学則制定の目的は当

然のことながら本館で

ある豊津育徳館の近代学

校化にあったとみてよい。

カステ!ルの雇用はそのためには欠かせないことであったのだが、

まずは藩としての

外国人からの洋学の摂取を行うことが先決であった。そしてそれは東京でよかった。外国人に対する抵抗の強い 豊前よりも東京での外国人教師による洋学摂取のほう

が無難であると判断し

たのかもしれない。

そして国元との

洋学教育の連動性を確立していけばよかったのである。問題は大橋の洋学、豊津の漢学という並立の教育システ ムを統合して学則に示したような総合的な普通教育を行う方向を狙っていたことにあった、と考えられる。

ところが七月に廃藩置県が断行され、豊津県が誕生することになる。そうなれば東京にカステ!ルを置いてお

くことは東京の小笠原家の洋学教育と豊前の育徳館の総合教育とが連動性を失ってしまう。このことがカステ!

ルを豊前ヘ赴任させる動因となったのであろう。しかし、もとより外国文化に対する抵抗の強い豊津へはすぐに

カステiルを入れることは欝路した。その帰結が一日一大橋洋学校にカステiルを採用し、それまで大橋洋学校で

(31)

教えていた日本人教師と一部の生徒を豊津ヘ引き揚げ、豊津の育徳館に合併したのである。果たして、合併後の 育徳館の教育は「従前ノ学科(国学漢学数学等)以外ニ英語ヲ教授スルコトトナレリ」

83と学則の構想する洋

学を含む普通教育を行うことになったのである。

即ち、

豊津藩における近代学校の組織化は明治三年十月の大橋洋学校の設立を準備段階として洋学の導入、

学教育との統合という戦略の上に具体化したといえる。

学則制定の段階では統合を長期的に考えていた

のかもし

れないが、

廃藩置県がそれを早め

たといえよう。

五 育徳館から近

代中学校への移行

育徳館に次の変化が訪れたのは明治六年の四月であ

った。既に『学制』は施行せられ、育徳館は名実ともに近

代学校として位置付けられねばならなかっ

た。

通常、

『学制』を機に旧県の設立にな

る学校は廃止と決まってい

たが、育徳館はなぜかそのまま教育活動を継続していた。しかし、「明治六年(四月カ)小倉県時代育徳館廃セ ラレ其ノ校舎ニ後継ノ大橋洋学校大橋ヨリ転入セリ。

是レヨリ育徳学校ト称シタルカ如シタルカ」

〔四十一vとカス

テールの大橋洋学校を豊津に移転させることにしたのである。ようやくカステ!ルは豊津ヘ入ることができた。

このことで統合された普通教育が完成したかというと、必ずしもそうではなかったようだ。新たに再編制された 育徳館の教授内容は大橋洋学校のそれに従い、

「英語仏語独逸話ト洋算トナリ」四十二)と和洋折衷の普通学は取 りやめられ、全面的な洋学教育となっている。

大橋 洋学

校の教育方法に一一冗化されてしまったのである。

ま た

一四三

(32)

一四四

「洋習字ハ所謂変則ニ在テハ教授セリシモ、

是時元トノ変則学生ニ初メテ授業ヲ受クルニ至レリ」

戸四十三Mと従来

からの育徳館の生徒もそのまま残ってカステ!ルの教授を受けたようであるから制度的組織的には統合、

内容的

には大橋洋学校化となったといってよい。

カステ!ルは十一月の契約切れ以降は契約を更新せずそのまま東京ヘ戻ったようである。

少なくとも「明治七

年五月頃ニハ豊津ニ在ラサリシモ其ノ豊津ヲ去リタル年月ハ之ヲ詳ニスルヲ得ス」

四十四)というように長居はし

ていない。この時点で

豊津の洋学教育は姿を消し、

新生の育徳学校へと再生されたのである。

この育徳学校は財

政的な窮状から小倉県の勧めで第三十五番中学区内の人民から三、

000円の拠金を集めて第三十五番中学校と して人民共立の中学校となり、

後の 県立豊津中学校へと変貌していくのである。

大橋の洋学校をカステiルもろとも豊津の育徳館ヘ合併した時点で従来の育徳館は廃止され洋学校に転身した と見なすことは容易であるが、

もとよ

り明泊四年五月制定の育徳館の『学則』において中学校H高等普通教育と 専門教育を指向していたのであるから、

洋学はあくまで藩校的漢学専門教育から近代的高等普通教育へと転換し ていくための触媒の役割を果たしたのであろう。

そうするとカステ!ルの

任務は育徳館の高等普通教育に洋学の 刺激を与えることにあったのであって、

外国語教育を最終目的

とするものではなかったといえよう。

だからおそ

らくはカステ!ルを豊津に移したときに一時的には洋学一辺倒の色彩は濃厚になったもののそれは高等普通教育

を目指す過程での暫定的なものであったとみてよい。

カステiルの去った後、

育徳校の洋学教育は次第に衰退していったと思われる。

明治九年の「第五大学区巡視

(33)

一四五

功程」では育徳校に併設された小学教員養成科について言及する中で

「豊津伝習生ハ従前ノ藩校ニ拠リ中学生百 二三十名ト合シ加フルニ変則英学ヲ以テスル者従来ノ洋学ヲ接続シ生徒ノ志願ニ因リ教授スル而己」

円四十きと記

述されている。

この記述から判断すると洋学教育は衰退しており、

主流は「中学」になっているようである。

た、

ヵステ!ル帰京後は外国人教師を雇っていないことも外国語教育から離れていったことによるものであろう。

このことは育徳校が純然たる高等普通教育の道を進むことになったことを意味する。

その道は藩校育徳館の時 代に決定された『学則』の構想に従った既定の路線で

あったし、

育徳館教育

の持っていた時勢の認識即ち、

時 務実行の教育」(四十さを近代化の文脈の中で遂行しよ

うとしたとい

うことはで

きまいか。換言すれば、

育徳館は 近世教育機関から近代教育機関へと自らの自己改革の力によって自身を再編していったということである。

そのことは育徳館が全国的に希少な例として廃藩置県、

学制実施を通じて断絶することなく継続してきたこと

と無縁ではない。

例えば育徳館の地所の取り扱いについては以下の史料に興味深い記述が見られる〈四十七}O

管下学校之儀ニ付伺

一、地坪弐千五拾五坪五合豊津中学校

此建坪五百九拾三坪五合

一、

地坪九百拾坪八合

中津学校

此建坪百八拾坪

(34)

一四六

右ハ管下変則中学校設立有之候処中小学校地弐御下渡云々昨七年第百三十壱号御達之次第モ有之候二村取調候処豊津変則中学校之儀ハ去辛未年廃県之瑚旧豊津県より引送リ相成外官民舎倉庫等」同図面相添壬申十

一月廿九日付大蔵省ヘ御届致置候内々有之候処其節ハ引送リ之侭不取敢御届致候儀ニテ官民之区別等モ判然

書分無之畢寛調方不行届ヨリ今更不都合ニハ候得とも右旧岡県之瑚岡県管内一一般ノ為メ行事村玉江彦右衛門

弘金ヲ以建築致候儀ハ衆庶知ル処ニテ全ク民間之舎ニ相違無之候条可然御聞置被下度尤地処之儀ハ管内中小

学校一

同取調追而相伺猶又中津片端町学校之儀ハ旧中津県文武学館

ニ取設有之者辛未年廃県之節引送リ相成

前向断一同大蔵省江御届致置候官受之分ニ候得ハ官舎

御払下ケ之御規則ニ依リ入札之方法ニテ御払下ケ之儀 可相伺ハ勿論之処右中津之儀ハ三十六番中学区内ニテハ第一転鞍之地人家モ禰密ニ而既ニ盛大ニ相運居候儀 ニ一候追々中校ニ可引直見込ニ有之県而ハ万一他人江落札相成候而ハ教官生徒其他人民ニ於テモ企望モ挫ケ遺

憾之至ニ候特別之御詮議ヲ以至当之地価ニ而右学校江御払下ケ相成候様致度猶地弐之儀ハ前同様追而取調可

相伺此段御届労相伺候也

明治八

年二月廿四日小倉県権令小幡高政

内務卿大久保利通殿

右の史料は明治八年において小倉県から内務卿にあてて出した文書で、官有地の払い下げに関するものである

(35)

が、

傍線を付したところにあるように豊津育徳館の土地については官民いずれのものか判然としないままになっ ているが、

建物は行事村の玉江彦右衛門という民間人が私費で建てたことだけは誰もが知っている事実であると して、

それが民間の施設であるとしている。

『学制』実施に際しでも校舎は

民間のもの

という論

理で技術的に廃 校を免れたのかもしれない。

しかし、

このことはもっと重要な教育の連続性にかかわる問題を提起

して

いる

近世的教育理念に従えば藩校 H育徳館は藩士の学校でなけ

ればならない。

にもかかわらず育徳館を方便であれ、

民間の学校にするということ その民間とは

然建物を提供した

玉江

彦右衛門 は実は大きな価値転換を自ら行ったものと見ることもできよう。

などの裕福な平民層を含む広汎な人民を指すものとな

ろう。

実際そうした士族の学校から広く庶民にも身分的に 解放された学校へと育徳館の教育の質も転換したのであろうか。

そしてその転換は近世

と近代の教育を断絶せし める転換であったのであろうか。

既に述べたように確かに大橋洋学校では百姓身分の者を入学させた形跡があったが、

本校である育徳館の教育 主体は士族たちであった。

しかし、

カステ!ルが去り、

統合された育徳館が中学校へと転身していくのと歩調を 合わせるかのように教育主体も変わっていった。

具体的には育徳学校が財政的に困難を極めたため、

小倉県の勧 めで明治八年に第三十五

番中学区内人民からの拠金によって人民共立の第三十五番

中学育徳校と改組されるとこ ろで士族学校から士民に開かれた学校へという転換を行ったのである。

この時の人民賦課の論理は「第三十五番

中学

育徳校

旧豊津藩

設置スルモノ

ニシ

テ乃士族学校ナルヲ以テ廃

以来之ヲ維持スル為士

禄高ニ課シ以テ 一四七

(36)

校費三允テシカ追々時勢沿革士モ亦旧ノ士ニアラサルヲ以テ更ニ中学トシ明治八年ニ至リ之ヲ各区毎ニ隊罪ス」

円四十八vというもので、

これまではあくまで「士族」の学校として士族の禄高に応じた酸金によって維持されてき

たが、

今後は地域内の人民一般に酸金を募るというのである。

その理由は「士モ亦旧ノ士ニアラサル」ことにお いている。

即ち、

廃藩置県以後の社会変化の中で「士」というものの見方が変わってきてい

て、

生得的身分とし ての「士」から獲得的階層としての「士」へと認知が変わってきていることを十分認識しているのである。

ところが人民の評判は必ずしも良くはなかった。

この賦課金について「然ルニ未開ノ人民中学

ノ如何ヲ悶ニ遣 アラス脅出金ヲ矩ムノ情ヨリ往々紛糾ヲ生シ」

〔四十九)という状態がしばらく続いたようである。

実際その頃の小 倉県の状況は「小倉小糸織、

井ニ縮織リハ、

元豊津士族ノ内職ナリシガ、

近来流行セザルニ依テ、

大ニ衰微セリ。

米作ハ、

本年近県中ニテ尤モ悪シ夕、

五分ニ至ラズ。

故ニ米価モ亦高シ。

」〔五十)という惨状で、中学校費の賦課 はかなりの負担であったようだ。

こうした時に旧藩主

小笠原忠伐は「政治ノ要文教ヨリ先ナルハ莫ナシ」という思いから「痛ク衣食ヲ縮メ得ル

所ノ

資五千円ヲ以

同所学校

ニ納シ 益其業ヲ振起シ之ヲ開明ニ一導ントス彼士民

タル者萄

クモ其志ヲ察セハ

奨励ノ

一助タルニ庶幾カラン」と寄附を申し出ている

〔五

十二。

小笠原家にとって育徳校は藩

校であること

に変わりは無 かったからである。

旧藩主が藩校の後喬に援助を惜しまないのは当然としても藩都で

あった豊津では中学校H藩校

の意識は根強く 残っていた。

明治十五年に豊津中学校ヘ入学した堺利彦は「豊津の町の者は、

一人も中学校には来なかった。

一四八

(37)

一四九頁

津の者で中学校にはいるのはみな士族であった。

豊津中学校は藩学育徳館の後身として、

士族の学校たるかの観

があった。

町の者や、

田舎の者(農村の住民を指す士族の言葉)には、

高等の教育を受ける資格がなかった。

にはそ

んな 風に 思わ れて いた

ところが実際は必ずしもそうではなかった。

::::::町人の聞には富豪があり、

農村に地主があり資産家があることをようやくにして学び得た。

中学校には、

それらの地主、

資産家、富豪の子

弟が入学していた

。」(五十二)と回顧しているが、

これはまさに豊津の士族の意識と現実のずれに藩

校と中学校の 教育の連続性の特質を重ね合わせて見ることができる。

即ち、

士族とって育徳校ないし豊津

中学は藩校そのもの

と理解され、

そこ

での

教育は「士」の教育であることを期待されていた。

しかし、

現実は新興の階層が「士」の 実態となっていた、

という意味においてである。

(38)

一五O

信用一一信仰近代的中等教育構想の挫折

歴史的実験としての宮本洋学校

宮本洋学校は旧久留米藩末期からはじめられた好生館英学部の英語教育を源流とする旧久留米県洋学校と旧柳 川藩校伝習館廃止の跡に設置された旧柳河県英学校とが合併して成立した学校である。その存在期間は明治五年 十一月から明治七年十二月までのわずか二ヶ年にすぎない。しかし、当時は廃藩置県の直後であり、未だ旧藩の

政治的・文化的拘束力の強く残っている時期であって

、 多

くの地方では旧藩の学校の系譜をいかに存続させてい

くかが課題となっていた。現在の同じ福岡県域に含まれる旧福岡県(旧福岡・秋月藩)や旧小倉県(旧豊津藩)

において旧藩校の修猷館や育徳館を近代的学校として再出発させるための努力が旧藩もしくは県関係者の手でな

されていたことは

すで に述べたところである。そうした旧藩の学校を継承させようとするときに問題となるのは

旧藩校の教育論理がどのように近代の学校制度の枠内で生かされるかということであろう。例えば、藩学と明治

の中学校との連続性は実際の連続より意識上の連続が強い、

とい

う(五十三)神辺靖光氏の指摘はそうした中等教育

機関の成立のひとつの条件を示唆するものといえよう。

そうした視点から見るならば

久留

米・柳河両県が併合して設置された三瀦県が敢えて二つの藩校の系譜を統合

して宮本洋学校を設立した試みは旧藩の伝統を断ち切ったところで近代的中等教育の形成をめざした歴史的実験

であったといえよう。そして、

この

宮本洋学校がわずか二ヶ年の短命に終わったということ

は、

その試みが何ら

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