中国学術交流紀行
木 村 時 夫
はじめに
昭和五十四年七月二十八日から八月十一日までの十五日間︑第二次早稲田大学友好訪中団の一員として︑北京1
一南京i無事一上海一北京の学術交流の旅をしてきた︒出発前に団員は最低二回の学術講演をすることにな
っているといわれ︑予じめ講演題目を外事課に提出するよう求められていたが︑私はそれをしなかった︒というの
は今回の訪中は中日友好協会からの招待によるものであったが︑先方の希望で︑団員は中国が現に進めている四つ
の近代化に︑直接貢献し得るような︑理工系および日本語関係の教員を主とするようになっていると聞いていたか
らである︒そのためか予じめ講演の対象から外されていた副団長の勝村教授︵政治学︶︑秘書畏の安藤教授︵中国
問題︶を除けば︑人文・社会系の専門家は法学の篠塚教授と会計学の青木教授と私の三人だけで︑いわぽ一行中の
お添えもののように思われたからである︒もう一つは私の二年前の訪中の体験からいって︑中国における日本史に 職対する関心はきわめて薄く︑恐らく日本史専攻の私にお声はかからないであろうと思っていたからでもある︒そし
て何よりも私は中国人の前で日本の近代史を語る自信がなかったのである︒それは日本の近代史が中国侵略の歴史 32を避けて通ることができなかったからである︒出発前︑私はそのことを二︑三の人々に語り︑私が講演者の対象に 一
なっていないことを秘かに確信していたのである︒そのため私は何の準備もすることなく︑そして何の資料も持た
ずに出発したのである︒
十四時五分︑日航機は予定通り北京空港に着陸し︑中日友好協会副会長孫平平氏をはじめ︑中国科学院や北京大
学︑市革命委員会等の代表多数のお出迎えを受けて市内に向う車中の人となった︒私の車には語研の武部教授が同
車されたが︑同時に通訳の王さん︵婦人︶も乗って来られ︑途端に今後の日程表を渡された︒そして王さんは︑
﹁木村先生の学術活動は明後三十日の午後ですね﹂と確認を求められた︒たしかに渡された日程表の三十日の所に
は︑ ﹁木村時夫 二・二五発 対外友好協会﹂と記されているのである︒私は突然のことで胸が一杯になるととも
に︑自分の軽卒な一人合点を後悔した︒
前回の訪中は厳寒の十二月の末であったから︑空港からの道は凍てついており︑両側の街路樹は全くの裸木で︑
しかもそれが暗い闇の中に仔立していた︒今や夏の最中で︑街路樹のポプラは豊かな緑を風にそよがせ︑見はるか
す広大な野も一面の緑で︑そこで耕作するのどかな農民の姿も見えた︒しかし私はそれらを比較して感傷にふける
余裕もなかった︒ただ胸が一杯だった︒
六時半から宿舎の北京飯店で︑中日友好協会主催の招宴があった︒隣には社会科学院の美術史の専門家が坐ら
れ︑親切にシルクロードの現状や大同石窟の話をされるのだが︑私にはうまくその受け応えができなかった︒こう
いう専門家を前に︑明後日の私は何を話したらよいのか︑それだけを考えていた︒
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翌二十九日は北京観光のメイン・ルートともいうべき︑万里の長城と明の十三陵の見学が予定されている︒それ
は前回の訪中の際も行ったことのある︑いわぽ曽遊の地である︒しかし前回は車の故障で︑居溶蝕を少し行った所
で引返さざるを得なかったので︑長城ははるかに遠望しただけで︑実際にはこの足で長城を踏みしめてはいない︒
長城に立って朔北の大広原をこの眼で見たかった︒講演の準備もさることながら︑私はこの欲望には克てなかっ
た︒ 翌二十九日︑北京は珍らしく雨だった︒雨にぬれた長城のしっとりとした趣きはまた格別であった︒日曜のせい
か︑駐車場はバスに盗れ︑見学者は多かった︒中国人家族が水筒をさげ︑ビニールの︑柄の太い雨傘をさしている
のが印象的だった︒ハイヒールを手に下げた外国西入の姿も面白かった︒日本人の団体客にも会った︒
帰途の十三陵では雨もはれた︒定陵の地下宮殿は前に見学したので︑一入早々と広場に戻り︑そこのベンチであ
れやこれや明日の構想を練った︒前の時とちがって︑中国人の服装はカラフルになり︑ことに婦人はワンピース姿
やブラウスとスカート姿が多く︑夏のせいもあろうが人民服は見られなかった︒解放軍の兵士が写真機の前で︑ポ
ーズをとって記念撮影をしているのも平和な光景だった︒
三十日は午前中︑一行のうち六名の方が工業経済研究所︑鉄鋼学院︑対外友好協会等へそれぞれ講演のため赴か
れ︑その他の者は周恩来総理事跡展を参観の予定であったが︑私はそれを断おり︑⁝人部屋にこもって講演の準備
に当った︒
二時過ぎ通訳の陳君が迎えに来てくれたので︑同行して対外友好協会を訪れた︒午後は天壇公園の見学が予定さ 33 1れていたが︑前回すでに訪れたことがあるのでそれは惜しくなかった︒対外友好協会は北京飯店を出て︑前の長安
街を横切り︑しぼらく行ったところにあり︑徒歩で七︑八分であった︒もと某国の公使館であったところとかで︑
広い敷地に瀟洒ないく棟かの建物があった︒会場では世界歴史研究所アジア研究室主任の万峰先生が出迎えてくれ
た︒万尋先生は戦前の日本に長く滞在されたことがあり︑日本語は流暢であり︑すでに﹃日本近代史﹄という著書
もある日本史の専門家である︒出発前︑社会科学研究所の依田教授から紹介されており︑同教授が事前に私の訪中
を連絡しておいてくれたらしく︑旧知のような親しみをもって迎えて下さった︒集まられた方窟は世界歴史研究
所︑中国社会科学院および北京大学歴史系の方々で︑アジア史や日本史を専攻されており︑約半数は日本語を解す
るようであった︒万事先生が私を紹介し︑また同先生の司会で私の講演を進められた︒以下は私の講演の要旨であ
る︒
134
日本ナショナリズムの特色
1
ナショナリズムの定義
私は早稲田大学友好訪中団の一員として参りました木村であります︒到着以来お国の方々の熱烈な歓迎をうけ︑
深く感謝しております︒今日は熱心な方々がお集りになって︑私の話を聞いて下さるとのことで深く感謝しており
ます︒ 私は日本の近代史を専攻しておりますが︑日本の近代史はヨーロッパを模範とした︑近代化と侵略戦争の歴史で
あります︒したがってお国との不幸な戦争についても避けることができません︒しかしそのことについて今日︑直
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接触れることは私にと一.て非常に苦しいことであります︒したがって今日はそういう経過をとらなけれぽならなか
った︑零本近代史の背後にあった︑日本のナショナリズムの特色についてお話しすることにします︒実は私は一九
四五年八月十五日の日本の敗戦を︑この北京にほど近い石景山において︑軍人として迎えたものであります︒私の
日本近代史研究はその日に始まったともいえましょう︒私は日本の近代史に大きな反省をもっています︒そしてそ
の反省は日本の今後の生き方の上に活かされねぽならないと思います︒
さてナショナリズムというのは御承知のように︑民族国家の樹立もしくは植民地支配からの脱却を志し︑独立国
家の達成︑その維持発展をはかろうとする主義・運動・政策等をいうもので︑日本ではこれを民族主義︑国家主義
・国粋主義等の名で呼んでおります︒しかし日本の場合はこのような普通に欧米で行われているナショナリズムの
定義はあてはまりません︒それは日本が建国の最初から民族国家として独立しており︑その独立も異民族に対する
武力討伐の結果達成されたものでもなけれぽ︑また戦後の占領時代という一時期を除いては︑異民族から支配され
たこともないからであります︒
それにも拘らず日本にはナショナリズムの発生があり︑現にそれらは豚々として生き続けております︒このよう
な特異な日本のナショナリズムについて考える場合︑日本が世界で珍らしい単一民族国家であるということに注目
せざるを得ません︒
2 軍一民族国家
塒お国には全人口の六%︑約四〇〇〇万人の異民族がいると聞いております︒このようにお国を合めた大多数の国
々が︑いわゆる複合民族国家であります︒ところが日本は︑アイヌ民族のような異民族を慰んでおりますが︑その 36数はきわめて少く︑国民の九九%までが日本民族であり︑日本国民は人種的にも言語的にも同一であります︒ −
私は一昨年の冬︑お国の東北地方を旅行し︑その際ハルビンにおいて︑面白い体験をいたしました︒それは同市
で上海歌舞団の上演を見せていただいたのですが︑舞台の両側に︑漢字で書かれた字幕が出ます︒われわれ訪中団
のためなら︑日本語の字幕が出るでしょうのに︑漢字の字幕はどういう意味かと通訳の方に質ねたのです︒通訳の
方が言われるのに︑ ﹁上海から来た歌舞団のせりふは︑ハルビンの人々には分らないのだ﹂というのです︒私は中
国はさすがに広いと思いました︒
それはともかく︑日本が単一民族国家であるということは︑国民間の意志の疎通が容易で︑その結果団結力が強
く︑しかも世論が容易に形成され︑しかもそれが左右に大きく浮動するという事態を生みます︒日本が一大家族国
家をなしているといわれるのもそのためであります︒すなわち天皇は国民の父であり︑国民は天皇の赤子であると
いわれました︒それは上からの命令が徹底し易い反面︑下の者の犠牲が強制されることにもなります︒家庭と同じ
ように義務だけが強調され︑権利を主張することができません︒日本では人権という観念が発達せず︑一個の人間
としての主体性に欠けるところがあります︒人の意見に動かされ易いのも︑日本人の大きな欠点であります︒
また日本人は民族というものの差別を知りません︒どの民族も日本民族と同じであると考え︑同時に他の民族に
日本民族と同じであることを求め︑時にそれを強制することがあります︒ことに明治維新以来︑西欧を範とした近
代化の成果に対して自負心をもち︑他のアジアの国々を蔑視しました︒日本とアジアの国々との不幸な関係の一つ
はここから生じたと思います︒
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3
島国という地理的条件
第二に︑日本はお国とちがい︑比較的大きな四つの島から成り︑周囲を海で囲まれ︑船の助けなしには外国へ行
けません︒この島国であるということが︑そのナショナリズムに大きな影響を与えています︒すなわち島国という
ものは︑交通手段の発達しない時代においては封鎖性と孤立性とが顕著でありました︒言いかえれば他民族と政治
的文化的な文渉なしに過した長い期聞がありました︒日本がお国と多少の交渉をもつようになるのは︑三世紀ごろ
のことですから︑それまでは全く孤立しており︑その間に独自な文化︑風俗︑思想が生れました︒お国との交渉に
よって︑お国から得たものは衣食住の形式から︑文字︑政治機構︑法律︑思想等︑非常に多いのですが︑その反
面︑日本人は中国語を学ぼうとはしませんでした︒中国の文章は日本読みにしました︒食生活においても肉食の風
は学びませんでした︒箸は使っても︑椅子とテーブルとの生活は︑少くとも家庭生活には取入れまぜんでした︒寝
台も用いなかったのです︒異質文化に対する好奇心は強く︑それを取入れることはしましたが︑それによって日本
人の基本的生活様式が根本的に変るということはなかったのです︒むしろ逆に異質文化の摂取が過度になると︑そ
れを排斥して︑日本固有の文化に戻ろうとすることがしばしばありました︒七〜八世紀が中国文化中心の時代であ
りますと︑九世紀以降は日本風の文化がそれにとって代りました︒また十七世紀以降は儒学が盛んでありました
が︑それに反発して国学や神道というものが盛んになりました︒また十九世紀の中頃までは西欧文化中心の時代で
ありましたが︑二十世紀初期になりますと︑国粋主義的傾向が顕著でありました︒その結果でしょうか︑現代日本 餅の文化は︑日本に固有な文化を基底として︑種々な系統の文化が縁どよく調和して併存しております︒
島国のもつ封鎖性という特色は国防上でも安全な環境といえます︒蒙古軍が日本を占領できなかったのも︑島国
のためだったでしょう︒しかしそれは蒸気機関が発明され︑汽船が海の上を走るようになり︑今日のように航空機
が発達してきますと︑それは何処からでも攻めることのできる国ということになり︑島国のもつ開放性という特色
が明らかになります︒海を利用して船によって︑どこからでも攻められる可能性があるという危機感が︑十八世紀
末から十九世紀にかけてにわかに論ぜられ︑国防思想が高まりました︒明治維新の原因の一つはここにあります︒
明治以後の日本が強大な海軍力の維持に努力を傾注し︑海軍力の縮少に対し︑国内に大きな反対があったのはこの
ためであり︑今度の戦争においても︑大和︑武蔵という大きな軍艦の威力に固執したのもこのためでしょう︒
138
4 天皇中心の思想
第三に︑日本のナショナリズムには欧米風の定義があてはまらないと申しましたが︑日本のナショナリズムは常
にいろいろな意味で天皇を中心に進められてきたので︑天皇というものについて一言しなければなりません︒
現在でも天皇というと︑過去の戦争に結びつけて考え︑また天皇制の廃止を主張する者は今日でもあります︒た
しかに明治憲法が規定する天皇の権限は大きく︑宣戦︑講和︑条約の締結︑軍の統帥︑議会の召集︑解散︑裁判︑
教育等にまで及んでおりました︒新しい憲法の規定では︑天皇は日本国民統合の象徴とされ︑何らの政治的実権を
有さぬものとなりました︒多くの人々は戦前と戦後とでは︑天皇の地位が大きく変ったといいます︒しかし戦前の
天皇といえど︑その大きな権限は内閣の補助と︑議会の協力によって行使され︑軍事面においても︑実際にはそれ
ぞれの決定を承認するだけだったのです︒天皇自身の個人的意志を政治に実現したことはありません︒
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日本の天皇の祖先は同じ日本民族の中から︑武力を行使しないで︑平和的に日本を統一したのです︒今日の中国
は例外ですが︑多くの国は支配者と被支配者とではその民族を異にします︒それは多くの場合︑異民族間の争いを
通じて建国したからであります︒
武力によって国家の統一を完成したのではない︑天皇の住居は他の国々の君主の宮殿とはちがいます︒日本の都
の制度はお国の長安にまねました︒しかし日本の都にはお国のような城壁も濠もありません︒お国のような厳重な
門もありません︒剣によって立った者は剣によって亡ぶという諺がありますが︑武力によって立つたのではない天
皇は︑武力によって攻撃される危険性がなかったのです︒今も残っている京都御所はそのよい例で︑東京にある現
在の皇居は昔の将軍の居所をそのまま用いたもので︑皇居本来の形式を示すものではありません︒
それでは天皇の祖先はどうして日本の支配者となったのでしょうか︒それには種々な説がありますが︑天皇の祖
先は昔から新しい農業技術の指導者であり︑同時に五穀の豊饒を神に祈る司祭者でもあったと思います︒今も皇室
の種々な行事の中にその痕跡を見ることができます︒天皇は昔から政治に関係しなかったのです︒それでいて国民
から尊敬され︑また愛された存在でありました︒
日本の政治史を見ますと隅太政大臣︑摂政︑関白︑将軍という︑常に天皇に代って政治の実権をもつ存在があり
ました︒大化改新で日本は中国の政治制度を取入れましたが︑中国のような天子の独裁は行われず︑中国にはない
太政大臣というものを置いて︑一切の政治を代行させたのであります︒天皇が不親政でありましたから︑政治情勢
の変化や戦争の勝敗とは無関係に存在し得たのでしょう︒ 39 1 明治維新は将軍に代って天皇の支配となり︑王政復古といいますが︑天皇の地位は以前と変るところはなく︑や
がてそれが立憲制︑議会制によって定着していったのです︒ですから戦後においては︑天皇の戦争責任が喧しく論
議され︑天皇の退位すらが公然と議論されましたが︑国民の大多数はそれに賛成しませんでした︒天皇も皇室も依
然として存在し︑今後も長く存続すると思います︒しかも注意しなけれぽならないのは︑この天皇というものが︑
日本が国内的にも対外的にも非常の事態に置かれたとなると︑定って天皇によってそれを克服しょうとして︑大き
な勢力となるということであります︒明治維新もそうでありましたが︑昭和初頭以来︑資本主義の弊害が著しくな
り︑政党政治が腐敗をきおめ︑対外的にも外交不振となると︑天皇の親政によってそれを克服しようとする動きが
現われてきました︒陸軍がその先頭に立ったため︑昭和の悲劇が生じました︒しかし私はそれは天皇という存在の
ためでも制度の欠陥でもなく︑その運用を誤った国民全体の責任であり︑また軍部の専横に盲従した︑国民全体の
責任であると思います︒今日の我々はこの反省に立ってやっております︒
140 5
武士支配の影響
第四番目に︑日本は武士支配が長期間続きました︒この期間の武士支配が日本のナショナリズムを大きく特色づ
けております︒普通に日本の封建制度はこの武士支配の時代をいうのでありまして︑それは十二世紀に始まり︑十
九世紀後半の明治維新まで続きます︒武士は士農工商という︑日本に特有な身分制度の最上位にあり︑一般人民の
支配階級であります︒この武士はその特権を利用して人民を苦しめたこともありました︒しかし一面指導者として
の責任も自覚もあり︑武道の修練はいうまでもなく学問にも精励しました︒これら武士の道徳は武士道といわれて
おりますが︑それは死を恐れず︑その主君のために献身し︑恥ずべきことをせず︑質素に甘んじ︑一般人民の模範と
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なることでありました︒人民はこの武士のために不当に扱われ︑苦しめられることもありましたが︑多くの人民は
武士の生活態度に憧れ︑これを模範とし尊敬もしました︒この武士崇拝は近代になって軍人崇拝に転化しました︒
近代の一般人民の理想は文官ならぽ大臣︑武官ならぽ大将とされ︑大臣と大将は同格でありました︒お国の諺に︑
﹁良い鉄は釘にならぬ︒良い人間は兵隊にならぬ︒﹂というのがあると聞いておりますが︑日本の場合と非常に異
なるところであります︒戦前における歴代の総理大臣中︑記入の占める率が非常に高いのですが︑それはこのよう
な風潮にもよるものです︒
つまり日本人の大多数は︑軍人は国のために尽すものであり︑軍人に限って悪いことはしないという信仰があっ
たのです︒これが軍人の政治介入を許すことになりました︒軍人の政治は軍事的観点からする侵略主義であり︑そ
の外交は武断外交でありました︒遺憾ながら国民の多くはこれを歓迎し︑話合いによる外交問題の解決は軟弱外交
といって非難されました︒お国との交渉や︑お国に対する侵略には︑常にこの軍入的政治と外交とがあり︑それが
国民の多数によって支持されていたことは︑我々が深く反省しなければならないことです︒この反省は今日の日本
に活かされております︒すなわち戦後においては文民優先︑つまりシビリアン・コントロールが厳重に守られてお
ります︒しかし一面それが国民の国防意識を低下させている現状は反省を要することでしょう︒
武士が日本の近代に与えたもう一つの面も見過してはなりません︒それは武士が明治維新以後︑日本の近代化︑
なかんづく近代産業推進の主要な担い手となったことであります︒明治政府は富国強兵政策を推進しましたが︑強
兵も富国あってのことでありますから︑産業の開発を進め︑大いに外貨の獲得につとめました︒産業の発展こそが
国力の充実につながると覚った時︑旧武士は競って経済界に転じました︒主君のために戦場で死ぬことを任務とし
141
た︑武士の心構えと日頃の鍛練とは︑経済の発展という国家目的とよく結合し︑旧武士はそれに向って献身的努力 42をしました︒福沢諭吉︑渋沢栄一︑岩崎弥太郎等はその代表的人物でありますが︑明治から大正にかけての︑経済 −
界の指導者の圧倒的多数は旧武士出身でありました︒
戦争のための勇気と決断力︑またそのための計画や人間の管理等の︑武士としての訓練の成果が経済の進展に大
きな貢献をしました︒しかも武士は目的のためには利害関係を超越するという傾向もありました︒明治時代に汚職
や贈収賄事件が非常に少かったのもこれと関係がありましょう︒
6 今後の課題
以上の四つの事柄のうち︑日本のナシ.ヨナリズムを悪く推進したものについては︑我々は十分に反省し︑考え方
を改め︑制度的にも改革しました︒
日本が今後覇権を求め︑他の民族や国家に被害を及ぼすことは絶対にないと信じます︒しかし重要なことは時の
経過とともに︑人の心は少しつつ変るものであるということです︒とくに平和な時代が長く続くと︑改革の努力を
忘れ︑過ぎ去った時代をなつかしみ︑そこへ戻ろうとすらする傾向を生むものです︒
そういう意味で現代の日本にも︑注意しなければならない萌しというものがいくつかあります︒また逆に国内の
政治が腐敗したり︑外国の影響が余り強くなりすぎた時︑日本を取巻く国際関係が経済的に軍事的に緊張してくる
と︑日本のナショナリズムが過度に高揚し︑危険な様相を帯びたことは︑過去の日本の近代史が示すところであり
ます︑
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我々が生きていくということは︑これから起るいろいろな事態に賢明と決断とをも︵.て対処し︑各国との平和を
維持していくことであります︒
今度北京に参りまして︑市民の方々の明るい表情に接し︑また中国人民の皆様と︑こういう風に学術の交流をす
ることの出来る嬉しさ︑平和の有難さを痛感しております︒両国の連帯の絆を一層強くし︑歴史を通じてそれぞれ
の国に対し︑より一層の理解を深めたいと存じます︒長時間の御静聴を心から感謝します︒
中国側からの質疑
私の講演に対しては万丈先生から丁重な謝辞があり︑輪回されるところ多大であったという賛辞もあった︒つい
で聴衆からの意見や質問があうた.︑その主なるものは次のようであるが︑それに対する私の意見および説明は省略
する︒0日本のナショナリズムを特色づける四点のうち︑三点は理解でぎるが︑天皇の起源については︑中国についても
言えることで︑日本に限ったことではないのではないか︒
○封建制度下の武士が︑︹本の近代化に貢献したということが理解できない︒
○日本民族の起源はどこか︒定説はどういう風に定着しつつあるか︒
○邪馬台国の位置は北九州説が有力なようであるが︑その根拠は何か︒
○高松塚古墳の壁画について︑北鮮と韓国とで︑それぞれ見解を異にしているといわれるが︑それはどういうこと 43か︒ −
O好太王の碑文の解釈について︑戦後新しい説が出たというが︑それはどういうものか︒ 440戦後になって二宮尊徳に対する評価が変ったといわれるが︑どう変ったのか︒ 1
0明治天皇は日本人の問で評判がよいと聞くが︑どういう点を評価するのか︒
○不平等条約改正のため︑日本人民はどのように闘ったか︒
○アメリカの占領政策を日本人民はどのように受けとめ︑またいかに評価しているか︒
○占領軍の指導による戦後の教育改革を︑日本人民はどのように受け入れ︑また現在それをどのように評価してい
るか︒現在それに対する再改革は行われているか︒
万峰先生との対談
これら一連の質疑を通じて私が感じたことは︑中国の歴史家の間では︑日本歴史に対する体系的な研究が行われ
ていないということであり︑ことに近代史については︑日本人研究者が昭和初頭以降︑満州事変︑日華事変を経て
太平洋戦争にいたる経過に重点をおき︑それを国の内外における事情と関係させて研究しているのに対し︑中国歴
史家はそういう視点を全く欠いているということである︒これは前回東北地方のいくつかの大学を歴訪し︑その歴
史科の教授と談合した時も感じたことである︒
日本近代史への関心は︑主として日本が敗戦の衝撃と占領体制下から︑いかに脱却して急速な経済発展を遂げた
かという一点にあるようである︒
また武士と日本の近代化との関連についても︑唯物史観の硬直した思考から自由でないとも感じた︒私は武士は
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徳川時代中期以降はもはや軍人ではなく︑行政官であったということも付け加え︑万峰先生も中爵語でそれに対し
附加的な説明をしてくれたのであったが︑理解されるにはいたらなかった︒
その翌日の三十一日午前︑万峰先生から日本史学界の現状について︑二人だけで話合いたいという中出があった
ので︑予定されていた故宮博物院の見学を犠牲にして︑再び対外友好協会を訪れた︒この時は李君が同行してくれ
た︒ 私は日本の史学界について語る前に︑かねてから抱いていた疑問と不満とを率直に万方先生に披委した︒ ﹁中国
においては日本歴史をどのように研究しているか﹂ということをである︒その結果はかつて東北地方の諸大学にお
いて聞いたのと同じであって︑殆んどやっていないということであった︒万峰先生の所属する世界歴史研究所も︑
大別してアジアとヨ1ロッパとアメリカの三つになるが︑そのアジア部門でもソ連とインドおよびシルクロードを
中心とする東西交渉史だけであるという︒ソ連は国境を接している関係上︑軍事的にも政治的にも︑また経済的に
も研究せざるを得ない︒インドはアジア文明の源流であるからというのだ︒
しかし葉越先生は︑﹁これからやるのです︒やらなければならないのです︒﹂と強調され︑最近は日本史専門の若
手研究員を育成しているといわれた︒まだその成果は挙っていないので︑残念ながらお見せできるような刊行物も
ないと言づておられた︒
﹁日本史のどこに重点を置かれるのか﹂という私の問いに対しては︑日本の近代化︑なかんづく経済発展の経緯
および教育制度の整備等である︑といわれた︒ 45 1 約二時間の対談を終って︑私は李君と協会を出た︒李君は北京大学日本語科の出身で︑眉目秀麗な青年だった︒
その李君は︑今日は通訳もすることがなく︑終始私たちの対談に耳を傾けていたわけであるが︑ ﹁口本史にも面白
いことがいろいろありますね﹂といった︒私は﹁折角日本語を学んだのだから︑単なる語学に終らせず︑日本の歴
史なり文学なりに進んだらどうか﹂と言った︒二君は日本の文化史︑なかでも平安時代に関心がある︑というの
で︑大いにそれをやるように勧め︑そのためには﹁︐日本にいらっしゃい﹂とも言った︒李君は突然一中国は馬鹿で
すよ︒自力更生自力更生といって︑外国の援助を拒否しています︒今の中国はもっともっと外国の援助を受け入れ
て︑学ぶべきものを学ぽなけ航ぽいけないのです﹂と言った︒私はそれに同意し︑日本に国際交流基金というもの
があること︑それを利用して日本を訪れる外国人の多いこと︑近くそれが中国にも適用されるであろうということ
を言った︒李君は﹁たとえそうなっても︑私より先に行く人が多いでしょう﹂と自嘲的に言った︒それは同じ日本
語通訳でも︑序列があるということの他に︑幹部とのコネの有無を指しているようであった︒
146
南京にて
私たち一行は八月二日午後三時二十四分︑北京発の列車に乗って南京に向って南下した︒三日︑朝六時十五分南
京着︑一泊︑翌四日南京を立って三時七分無溶着︑太湖畔の迎賓館に二泊した︒ ﹁労の後には逸がなければなりま
せん﹂と同行の文主任が≒.口つた︒恐らく北京における我々の学術報告の労を多とし︑ここでゆっくり休養をとらせ
るという意味であったろう︒
南京といえば南京大虐殺の悲劇の思い出が胸をつく︒しかし南京大学での招宴の席上︑一行中の何人かがそれに
触れた時︑同席した中国人老教授は﹁それは過去のことです︒過ぎ去ったことをかれこれ言っても甲斐のないこと
です︒未来のことを語りましょう︒﹂と言って我々の真剣な眼差しを受け入れなかった︒
もう︹つ感じたことは︑南京大学の騰史学科の講座内容の中にも︑日本史関係がないことである︒さすがに本国
史は原始時代から近代にいたるまで︑それぞれ講座と教授︑助教授が配備されていたが︑外国史の中にヨーロッパ
関係や︑ソ連︑インド︑−はあっても︑日本史関係の講座はなかった︒わずかに末尾に選択科目として一つ︑日本史と書
かれており︑その担当者の氏名もなかった︒
上海における学術交流
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八月六日午後五時十二分上海に着いて︑錦江飯店に投宿した︒そこでも上海滞在中の日程表を渡され︑私の講演
は八日午後と記されてあった︒七︹の午前中︑上海国際問題研究所理事の許心礼先生が事前の打合せのため︑同僚
数名と通訳とを連れて来訪された︒
私は北京での体験で︑中国人の核心にふれるような話をすることができないという反省があったので︑許先生に
対し︑﹁どのようなテーマを希望されるか︑それに対して準備をしてお話しましょう﹂と言った︒許先生は予じめ
それを用意しておられ︑それを私に提示した︒
1 明治維新に対する現代日本の評価︑およびその評価をめぐる学説について
2 日本の近代化と中国の近代化との比較考察 即 3 日本史学界における主なる論争点
4 明治維新以降の日本の対外関係の概要 48 私は出来るだけ御期待に添いたいが︑時間の関係でその全部には触れることができないかもしれない︑と前以て 一
お断りしておいた︒
入日の午前中は上海少年宮の見学が予定されていたが︑私はそれを断って自分の部屋で準備にあたった︒
講演はホテルの会議室で行われた︒参会されたのは上海国際問題研究所︑上海財経学院︑上海師範大学︑復旦大
学︑上海歴史学会の方々で年輩の方が多く︑婦人も一入いた︒
私の講演要旨は省略するが︑第一項の明治維新の評価については︑いわゆる講座派と労農派の見解と︑その古典
的論争を紹介し︑維新の原因についても尊王論︑百姓一揆論︑封建破綻説等々を紹介し︑最近は外圧説が有力であ
ることを説明した︒そして戦後においては︑明治維新が日本の近代にプラスであったかマイナスであったかをめぐ
り︑大きな論争のあったことにもぶれた︒
また多少意識的に︑明治維新の性格を特定史観によって絶対主義政権とするか︑ブルジョア政権とするかなどに
ついて論ずるのは︑意味のないことで︑それ以前に︑正確な史料にもとづいて明治維新を再現し︑改めてその性格
を考えてみることが必要ではないかと言った︒これは私の唯物史観に対する批判のつもりであったのだが︑許先生
はそれに素早く反応を示され︑ ﹁先生は独自の見解を我々に示された﹂といわれたが︑その是非については何も付
言されなかった︒
第二項の日中両国の近代化については︑西欧の文明に触れた時期において︑日本よりも中国の方が早かったにも
拘らず︑その摂取や近代化の達成において︑中国の方が遅かった点を中心に私の考えを述べた︒
その第一は︑科挙の試験にも見られるように︑中国人は伝統的に形而上のことがらは尊重するが形而下のこと︑
すなわち技術や実務を蔑視する傾向のあったことや︑また西欧人を政府の枢要な地位に付けることをしなかったこ
と︑第二には国民に教育が普及していなかったことを指摘した︒
第三には清朝末期の洋務運動や変法自強の近代化の努力にふれながら︑それが成功しなかった理由として︑それ
が清朝という異民族支配の下で行われたこと︑国民のナショナリズムを結集することができなかった事情︑および
中国を取巻く西欧列強の外圧の厳しさを指摘した︒そして日本においてはそれらの事情が中国と全く異なっていた
ことを種々事例を挙げて説明した︒そうして私の持論である︑ ﹁近代化はパックにして送り込むことの出来ないも
ので︑それを達成するためには︑それを消化発展させる教育の普及と︑国家意識の結集がなけれぽならない﹂と結
んだのであるが︑これは参会者一同の共感を得た︒許先生は中国の今後の方針として︑教育の整備充実が急務であ
るといい︑この点についても日本に学ばねばならぬといわれた︒
中国学術交流紀行
通訳を入れての話であるから一時間半を予定した内容も︑実際には三時間以上となったので︑第一日分をここで
終り︑翌日を約して散会した︒少しもじもじした様子の許先生が通訳を通じて︑ ﹁少しこの辺を見学させてもらっ
ていいか﹂と私の許可を求めた︒私には最初その意味が分らなかったのであるが︑通訳の説明によれぽ︑今日の参
会者一同は︑錦江飯店の内部に入ったのは︑今日が初めてなので︑この周辺の部屋や施設を見たいのだというので
ある︒私がその求めに応じたことはいうまでもない︒ 49 1 錦江飯店は上海随一のホテルで︑十数階の高層建築二棟から成り︑その一隅には宿泊者専用の銀行︑郵便局︑喫
茶店から土産物用の売店が軒を並べていた︒私に割当てられた部屋も︑寝室の他に応接室と会議室と専用のキッチ
ンとがあり︑専属のボーイが一人終日いた︒その日の講演も隣りの会議室を利用して行われたのである︒私ですら
もかつて日本で見たことのない豪華なものであったし︑まして長く上海に在住していながら︑初めて入ることがで
きたとしたら︑一同の希望は無理からぬものであったろう︒そしてそういう施設が外国人の専用に供され︑一般中
国人の立入りが禁止されているという現状が︑何か割切れないものを感じさせた︒三十七︑八度の外界の暑熱から
全く隔絶された︑クーラのきいた内部の快適さは︑参会者一同が早くから感じていたものであったらしい︒
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中国研究者との対話
翌九日の午前中は曹揚新村の見学が予定されていたが︑勿論私はそれを割愛せざるを得なかった︒それはいわば
新興住宅街で︑解放後における中国労働者の一般的生活水準を示すものとして︑上海における観光ルートにのって
いるもので︑私としては残念な気もした︒
前日の参会者は昨日の冷房にこりてか︑許先生もグレーの中山服を着て来られ︑その他の人も半ズボンを長ズボ
ンに︑半袖を長袖に変えて来ておられたのが目立った︒昨日の緊張から解放され︑語る私も聴く参会者にもなごや
かな雰囲気が流れていた︒
私は第三項の︑日本史学界の論争点については︑①旧石器代の存在いかん ②邪馬台国論争 ③封建遺制の問題
④天皇制論議 ⑤太平洋戦争に対する評価 ⑧戦後史の評価等を挙げて︑それぞれの問題に対する論争点を簡単に
中国学術交流紀行
説明した︒それに対する質疑は次のようなものであった︒
ω 邪馬台国の位置を北九州とするのと︑大和とするのとで︑日本史はどのように変るのか︒
② 日本の封建制度は大化改新に始まると考えてよいか︒
⑧ 日本の封建制度の特色は何か︒
ω 封建制度が近代に何かをプラスしたとする見解があるか︒あるとすればその理由︒
⑤ 西郷隆盛に対する評価が変ったといわれているが︑どのように変ったのか︒
㈲ 日本の真珠湾攻撃は︑アメリカの陥穽におとしいれられたものであるという説があるが︑事実か︒
ω 太平洋戦争の原因を何だと思うか︒
㈲ 太平洋戦争のプラス面として︑どういうことが言われているのか︒
⑨ 戦後史の研究はどのように進んでいるか︒
⑳ 日本の戦後史の時代区分をどのようにすべきか︒
⑳ 日本の史学界における史料の出版状況はどうか︒
これに対する私の説明の一々は省略する︒しかし話題の多くは太平洋戦争および戦後史の問題に費された︒私は
太平洋戦争の原因を︑それは日本の中国侵略によってではなく︑日本が北進論から南進論に転じた時︑連合諸国と
の利益と衝突するにいたったことが原因と思うと言ったが︑東南アジア史を専攻する許先生の賛成を得た︒
封建遺制の問題については.同が大きな関心を持ったようで︑許先生は一同を代表して︑従来の中国では前代に 51 1学ぶという姿勢が欠けていたことを卒直に表明し︑温故知新という言葉を利用してその必要性を強調された︒しか
し一部の者の間でぽなお︑封建制度から現代が学ぶべきものはないという主張もあった.私はそれに対して︑封建 52制度の実体は︑各民族各国家によってそれぞれ違うものであるから︑個別的な封建制度の研究が進められなければ 一
ならないし︑封建制度から学ぶべきものがあるとする日本の封建制度は︑中国のそれと著しく違うものであること
を説明して了解を得た︒
北京における場合とちがって︑日本歴史に関する知識は深く︑ ︵大化改新をもって封建制度の始まりとする誤解
はあっても︶その関心も強いように思った︒それぞれの分野で︑日本近代史との比較において何かを得たいという
気持が強く現われていた︒北京でのそれと比べて参会者は一様に陽気で活字で︑知的関心に盗れていた︒
初めて長江を渡って見る上海であったが︑民衆の生活︑気風︑その他諸溜において︑北京と対照的な面を数々感
じた︒それにしても中国にはなお私の知らぬ南方があり︑さらに西方の広大な地域があるのである︒ともすれば日
本人の中国論が局部的観察が上に立ってなされている︑安易さの危険性を痛切に感じた︒その一々を今は記す余裕
はないが︑私にとっては貴重な機会であった︒