中 世 前 期 に お け る 清 華 の 家 格 と そ の 昇 進
│
│ 蔵 人頭
・ 三 位中 将 就 任者 の 分 析を 中 心 に│
│
坂 田 桂 一
は じ め に 中世
の貴 族社 会に おい て︑ 家格 は︑ 身分 や昇 進を 決定 づけ る大 きな 要素 とし て機 能し た︒ 院政 期に は︑ 近世 まで 続 く 摂関 家・ 清華
・羽 林・ 名家 の各 家格 が成 立し てく ると され る︒ とり わけ 清華 とい う家 格は
︑佐 伯智 広氏 も指 摘す る よ うに
!
︑院 政期 に新 たに 成立 して くる もの であ り︑ 基本 的に 血統 の固 定化 に留 ま る 羽 林や 名 家 とは 質 的 に異 な っ て い る︒ 後述 のよ うに
︑従 来清 華の 家格 の成 立は
︑大 臣・ 近衛 大将 への 任官 状況 や︑ 摂関 家と の関 係な どか ら論 じら れて き た
︒そ の一 方︑ 羽林 の家 格と の関 係は あま り触 れら れて おら ず︑ さら に検 討す る必 要が ある と思 われ る︒ また
︑清 華 の 家格 の指 標と して
︑三 位中 将か ら中 納言 への 任官 が一 つの 基準 とさ れて きた が︑ 後述 する よう に︑ 院政 期に はこ の 基 準を 満た さな い者 も数 多く 見ら れる
︒ 家格 の成 立後
︑特 に承 久の 乱以 降に 目を 向け ると
︑藤 原氏 の西 園寺 家・ 花山 院家 や村 上源 氏は
︑庶 流か らも 大臣 を
― 553 ―
少 なか らず 輩出 し︑ 西園 寺家 庶流 から 新た な清 華の 家格 を獲 得す る家 も現 れる
︒こ のこ とか ら︑ 承久 の乱 以降 の清 華 の 家格
︑お よび
︑嫡 庶の 関係 につ いて も考 える 必要 があ ろう
︒ そ こで 本 稿 では
︑中 世 前 期に あ た る 院政 期 か ら鎌 倉 時 代 にか け て の貴 族 の 昇進 の 実 態 の一 端 を 明ら か に す る た め に
︑院 政期 に新 たに 形成 され る階 層で ある 清 華の 家 格 を構 成 す る閑 院 流 藤 原氏
︵以 下
︑閑 院 流と 略 す︶
・ 花山 院 流 藤 原 氏︵ 以下
︑花 山院 流と 略す
︶・ 村 上源 氏の 公卿 を対 象に
︑こ れ ら の人 々 の 蔵人 頭 お よ び三 位 中 将へ の 就 任状 況 を 分 析 する こと で︑ この 時期 の閑 院流
・花 山院 流・ 村上 源氏 それ ぞれ の門 流内 部に おけ る昇 進秩 序と
︑昇 進に おけ る蔵 人 頭 およ び三 位中 将の 機能 を考 察す る︒ なお
︑昇 進に つい ては
﹃公 卿補 任﹄ を 参照 し
︑蔵 人 頭に つ い ては 竹 内 理 三・ 米田 雄 介 編﹁ 主要 官 職 一 覧﹂
︵児 玉 幸 多
・小 西 四 郎・ 竹内 理 三 監修
﹃日 本 史 総 覧 補巻
中 世 三
・近 世 三
﹄新 人 物 往 来 社
︑一 九 八 四 年︶ も 併 せ て 参 照 し た
︒家 名に つい ては
﹃公 卿補 任﹄ を参 照し たが
︑清 華の 嫡流 の人 々の み家 祖か らそ の家 名を 記し た︒ また
︑室 町時 代 に 断絶 した 洞院 家に つい ても
︑清 華の 家格 を獲 得し た家 の一 つと して 扱う こと にす る︒ 一︑
家 格 の成 立 と 蔵人 頭
・ 三位 中 将 本節
では
︑閑 院流
・花 山院 流・ 村上 源氏 から 蔵人 頭お よ び三 位 中 将に 就 任 する 人 々 の 特徴 や 傾 向を 捉 え る こと で
︑ 家 格の 成立 時期 を検 討す る︒ はじ めに
︑こ れら の人 々の 辿っ た昇 進コ ース につ いて 確認 して お く︒ 橋 本義 彦 氏!
に よ れ ば︑ 摂関 政 治 体制 の 成 立 は
︑一 部の 官職 を名 目化 させ
︑単 なる 身分 標識 とし ての 性格 を強 めさ せた こと によ って
︑出 自と 絡ん だ各 種の 官途 昇
中世前期における清華の家格とその昇進 ― 554 ―
進 コー スを 創り 出し た︒ 摂関 の子 弟を 除く 上流 貴族 は︑ 近衛 中・ 少将 を兼 ねる 頭次 将か ら公 卿に 昇る ルー トを 辿る こ と とな った
︒さ らに 笹山 晴生 氏!
に よっ て︑ これ らの 人々 の中 将に 至 る ま での 典 型 的な 経 歴 が︑ 侍従
↓兵 衛 佐
↓少 将
↓ 中将 と進 むコ ース であ った こと が指 摘さ れて おり
︑そ の後
︑兵 衛佐 を省 略し た侍 従↓ 少将
↓中 将と 進む コー スが 一 般 的と なっ てい くこ とが
︑北 山良 雄氏
"
によ って 明ら かに され てい る
︒院 政 期 以降 の 閑 院流
・花 山 院 流・ 村上 源 氏 の 人 々も
︑原 則と して
︑侍 従↓ 少将
↓中 将と 昇進 した
#
︒ 次に
︑家 格に つい て触 れて おく
︒院 政期
︑後 世ま で貴 族社 会の 階層 的構 成の 基本 とな る︑ 摂関 家・ 清華
・羽 林・ 名 家 の家 格が 成立 した こと は︑ 多く の先 行研 究に よっ て明 らか にさ れて いる
︒こ の四 つの 家格 のう ち︑ ここ では 清華 と 羽 林の 家格 に関 して
︑先 行研 究を 確認 して おき たい
$
︒蔵 人頭
・三 位中 将の 性 格 を 考え る 上 で︑ この 二 つ の家 格 の 成 立 時期 は︑ 非常 に重 要な 意味 を持 つと 考え られ るた めで ある
︒ 橋本 義彦 氏%
は
︑院 政期 に生 じた 摂関 と外 戚の 分離 が︑ 摂関 と太 政大 臣の 分 離 と 相俟 っ て︑ 太 政大 臣 を 極官 と す る 清 華の 家格 を創 出し た︑ と論 じた
︒す なわ ち︑ 摂関 が律 令官 職と は別 個の 独自 最高 の地 位と なっ たこ とで
︑太 政大 臣 は
︑廟 堂の 長老 に与 えら れる 名誉 職的 な地 位と 化し
︑摂 関と 外戚 の分 離以 後︑ 外戚 を遇 する 恰好 の地 位と なっ た︒ そ れ が︑ 院政 期に 外戚 の地 位に つい た閑 院流
︑村 上源 氏ら の官 途と なり
︑清 華の 家格 を形 成し た︑ と指 摘し た︒ 羽林 の 家 格に つい ては
︑頭 次将 ルー トが 主に 上流 貴族 の庶 流の 官途 とな り成 立し た︑ と指 摘し た︒ この 橋本 義彦 氏の 研究 をう け︑ 各家 格の 成立 時期 を詳 細に 検討 し た のが 玉 井 力氏
&
で ある
︒玉 井 力 氏は
︑清 華 の 家 格 の基 本的 なあ り方 が鳥 羽院 政期 に固 まっ た︑ と論 じた
︒そ して
︑家 が清 華の 家格 を確 立す るた めに は︑ 家の 世襲 的 な 職歴 に︑ 近衛 大将 と︑ 三位 中将 から 中納 言へ の昇 進︑ の二 つを 取り 込む 必要 があ った
︑と 指摘 し︑ 清華 の家 格を 確 実 なも のと する には
︑天 皇家 との 外戚 関係 のみ なら ず︑ 院近 臣で ある こと をま た必 要で あっ た︑ と指 摘し た︒ 羽林 の
― 555 ― 中世前期における清華の家格とその昇進
家 格に つい ては
︑後 白河 院政 期︑ 旧来 の公 達に
︑新 規に 近衛 中・ 少将 を昇 進コ ース とし た院 近臣 家を プラ スし た形 を と って 定着 して いっ た︑ と論 じた
︒ これ らの 研究 に対 し︑ 疑問 を投 げか けた のが 佐伯 智広 氏!
で ある
︒佐 伯 智 広 氏は
︑従 来 の 研究 の 問 題点 と し て︑ 院 政 期に は︑ 家格 相当 の昇 進ル ート によ って 昇進 し︑ 相当 の極 官に 至り なが ら︑ それ が子 孫に 受け 継が れな い事 例が 多 数 見ら れる こと
︑ま た︑ 結果 的に 家格 を維 持し た家 にお いて も︑ 院政 期に は︑ 政治 情勢 の影 響に より
︑子 孫の 昇進 が 困 難と なる 時期 を経 験す る事 例が
︑特 に清 華の 家格 に多 数見 られ るこ と︑ の二 つを 挙げ た︒ そし て︑ 家格 の成 立を 論 じ るた めに は︑ 昇進 が政 治状 況に 左右 され ず︑ 出自 によ って 半自 動的 に昇 進過 程と 上限 が決 定さ れ︑ それ が子 孫に 継 承 され るよ うに なる 過程 を明 らか にす る必 要性 を指 摘し た︒ この よう な視 角か ら︑ 清華 の家 格に つい ては
︑後 白河 院 政 期以 前の 段階 では
︑家 格と 評価 でき るだ けの 安定 性は 備わ って いな かっ た︑ とし た上 で︑ 後白 河院 政末 期か ら後 鳥 羽 院政 期に かけ ての 大臣 と近 衛大 将の 変質 に注 目し た︒ すな わち
︑後 鳥羽 院政 期に は︑
︵ 1︶ 左大 将に は摂 関家 嫡子
︑ 右 大 将 には 清 華 の中 の 大 納 言筆 頭 が それ ぞ れ 任じ ら れ る︑
︵ 2︶ 大臣 は 左 右大 将
︑摂 関 家庶 子 の 中 か ら 選 任 さ れ る
︑
︵3
︶右 大将 は大 臣昇 進後
︑右 大将 を辞 任す る︑ とい う 三 つの 原 則 が確 立 し
︑ま た︑ そ れま で 終 身官 と い う性 格 を 持 っ てい た大 臣の 辞任 が一 般化 する こと を明 らか にし た︒ 後鳥 羽院 政期 に見 られ るこ のよ うな 変質 や︑ 政務 運営 と現 任 官 職 の 乖離 現 象 から
︑家 格 の 成 立は
︑後 鳥 羽 院政 期 に 至っ て
︑議 政 官 がそ の 実 質を 喪 失 した こ と に よ っ て 達 成 さ れ た
︑と 結論 付け た︒ 以上 見て きた よう に︑ これ まで の研 究に よっ て︑ 鳥羽 院政 期に 清華 の家 格の 基本 的な あり 方が 固ま り︑ 後鳥 羽院 政 期 に家 格が 安定 性を 備え て固 まっ たこ と︑ 羽林 の家 格は
︑院 政期 に上 流貴 族の 庶流
︑お よび 新た に近 衛中
・少 将を 昇 進 コー スに 取り 入れ た院 近臣 家の 官途 とし て定 着し てい った こと が明 らか にさ れて きた
︒
中世前期における清華の家格とその昇進 ― 556 ―
しか し︑ 以下 のよ うな 問題 も残 る︒ 第一 に︑ 院政 期か ら鎌 倉時 代に かけ て︑ 清華 の嫡 流で あり なが ら︑ 三位 中将 か ら 参議 に任 じら れた 者や
︑三 位中 将と なら ず四 位の 参議 とし て公 卿に 昇る 者が 見受 けら れる こと であ る︒ 徳大 寺家 を 例 に挙 げれ ば︑ 実能 以降
︑実 定・ 実基
・実 孝の 三人 は三 位中 将か ら権 中納 言へ 任じ られ たも のの
︑公 能・ 公継
・公 孝
・ 公清 の四 人は 四位 の参 議と して 公卿 に昇 って いる
︒こ れは 玉井 力氏 の挙 げた
︑三 位中 将か ら中 納言 への 昇進 を家 の 世 襲的 な職 歴に 取り 込む
︑と いう 家が 清華 の家 格を 確立 する ため の条 件に 反す るこ とに なろ う︒ 第二 に︑ 昇進 実態 の 分 析対 象が 大臣
・近 衛大 将な ど一 部に 留ま って いる こと であ る︒ 確か に︑ 大臣 や近 衛大 将は
︑清 華の 家格 の官 途と し て 重要 な意 味を 持っ てい たが
︑そ こへ 至る まで の昇 進ル ート にも
︑ス ポッ トを 当て る必 要が あろ う︒ か かる 問 題 意識 か ら︑ 結 果的 に 清 華 の家 格 を 勝ち 得 た 家 の属 す る 閑院 流
・花 山 院流
・村 上 源 氏 か ら 公 卿 と な っ た 人 々を 対象 とし
︑そ れら の人 々の 蔵人 頭お よび 三位 中将 への 就任 状況 を分 析し
︑家 格の 成立 につ いて 考え るこ とに す る
︒ そも そも
︑蔵 人頭
・三 位中 将と はど の よう な 地 位で あ っ たの か
︒﹃ 官 職 秘鈔
﹄と
﹃職 原 鈔﹄ に よっ て 確 認し て お き た い!
︒ まず
︑蔵 人頭 であ る︒ 第一 に︑ 蔵人 頭 は︑ 参議 昇 進 の道 の 一 つで あ っ た︒
﹃ 官職 秘 鈔﹄ で は︑ 参議 昇 進 の道 の 最 初 に 蔵人 頭を 挙げ る︒
﹃ 職原 鈔﹄ では
︑蔵 人頭 は﹁ 有参 議闕 必任 之︒
﹂と され るよ うに
︑参 議へ の昇 進を ほぼ 約束 され て い た地 位で あっ たと い える
"
︒松 薗 斉 氏#
も
︑三 位 に 至っ て も 参議 以 上 にな れ な い 者が 増 加 する 状 況 下︑ 蔵人 頭 の 地 位 を確 保す るこ とが
︑そ の﹁ 家﹂ を公 卿の
﹁家
﹂と して 安定 させ る重 要な 条件 であ った こと を指 摘す る︒ 第二 に︑ 蔵人 頭は
︑鎌 倉時 代に おい て も才 能 の ある 人 物 が選 ば れ て いた よ う であ る
︒そ れ は︑
﹃官 職 秘 鈔﹄ に﹁ 近 衛 司弁 官清 撰其 人︒
﹂ とあ り︑
﹃職 原鈔
﹄に
﹁仍 古来 為重 職︒ 又奉 行大 小公 事之 間︑ 非器 無才 之輩 不能 競望 者也
︒以 之
― 557 ― 中世前期における清華の家格とその昇進
思 之︑ 雖末 代可 謂清 撰歟
︒﹂ と ある こと から 推測 され る︒ 次に
︑三 位中 将で ある
︒三 位中 将に つい ては
︑﹃ 官 職秘 鈔﹄ と﹃ 職原 鈔﹄ の間 で記 載内 容に 相違 がみ られ る︒
﹃官 職 秘 鈔﹄ には
︑﹁ 至 于二 位三 位中 将者
︑非 執柄 子息 一世 源氏 者不 叙留 之︒ 而実 能公 始為 三位 中将
︒自 爾以 降多 此例
︒﹂ と あ り︑ 三位 中将 にな るこ との でき る者 はご く限 られ てい たが
︑徳 大寺 実能 以降
︑そ の事 例が 増加 した こと が読 み取 れ る
︒こ れに 対し
︑﹃ 職 原鈔
﹄で は︑
﹁二 位三 位中 将 非大 臣 子 若孫 者 不 任之
︒至 二 位 中 将者 執 柄 息外 希 例 也︒
﹂と あ る よ う に︑ 三位 中将 とな るた めに は︑ 大臣 の子 また は 孫で あ る こと が 必 要で あ っ た と解 釈 で きる
︒﹃ 官 職 秘鈔
﹄の 時 点 か ら する と︑
﹃ 職原 鈔﹄ の時 点で は︑ 三位 中将 にな るこ との でき る者 の範 囲が 拡大 して いる とい えよ う︒ それ では
︑閑 院流
・花 山院 流・ 村上 源氏 の人 々は
︑ど のよ うな ルー トを 辿っ て参 議以 上に 昇進 して いっ たの か︒ 玉 井 力氏 が清 華の 家格 成立 の端 緒と 見做 す保 安三 年︵ 一一 二二
︶に 権中 納言 に任 じら れた 徳大 寺実 能を 基準 とし て︑ そ れ 以前 とそ れ以 後に 分け て見 て行 きた い︒ まず
︑実 能以 前に つい て検 討す る︒ 十一 世紀 以降 に限 定す ると
︑閑 院流
・花 山院 流・ 村上 源氏 出身 の公 卿は
︑二 十 六 人を 数え る︒ この うち 二十 一人 は︑ 蔵人 頭を 経て 参議 に任 じら れて いる
︒ 実能 まで に蔵 人頭 を経 ずに 公卿 に 昇っ た 人 物と し て︑ 源 師房
・源 俊 房
・藤 原 家忠
・源 顕 仲・ 源 雅定 の 五 人 がい る
︒ こ のう ち︑ 師房
・俊 房父 子は
︑摂 関家 との 密接 な関 係に よっ て昇 進が 優 遇 さ れた と 考 えら れ!
︑家 忠 につ い て も︑ 摂 関 家嫡 流で ある 師実 の二 男で ある こと によ って 速い 昇進 を遂 げた と考 えら れる
︒顕 仲に つい ては
︑刑 部卿
・神 祇伯 と い った 官歴 から 推測 する に︑ 村上 源氏 の人 々が 原則 とし て辿 る頭 次将 ルー トを 早く に外 れて しま った 結果
︑蔵 人頭 に な れな かっ たの であ ろう
︒残 る雅 定 の参 議 任 官に つ い ては
︑﹃ 公 卿 補 任﹄ によ る と﹁ 右 府辞 大 将 替﹂ とあ り
︑右 大 臣 で ある 父雅 実の 左大 将辞 任を 引き 替え にし た辞 官申 任に よる もの で あ った
︒酒 井 宏 治氏
"
に よれ ば
︑辞 官 申任 を す る
中世前期における清華の家格とその昇進 ― 558 ―
こ とで
︑超 越昇 進が 可能 とな り︑ 昇進 のス ピー ドを 速め るこ とが でき た︒ 雅定 が蔵 人頭 を経 るこ とな く︑ 参議 にな る こ とが でき たの は︑ 父雅 実が 左大 将を 辞任 した 代償 とい う面 が強 いと 考え られ る︒ 以上 から
︑例 外と なる 五人 につ い て は︑ 個々 に特 殊な 事情 が存 在し たた め︑ 蔵人 頭を 経る こと なく
︑公 卿に 昇り 得た と考 えら れる
︒ この よう に︑ 実能 以前 の段 階に おい て︑ 閑院 流・ 花山 院流
・村 上源 氏の 人々 は︑ 原則 とし て蔵 人頭 を経 た上 で︑ 公 卿 の仲 間入 りを 果た して いた と考 え られ る
︒﹃ 官 職秘 鈔
﹄や
﹃職 原 鈔﹄ の参 議 昇 進 条件 に 従 えば
︑近 衛 中 将に 任 じ ら れ ただ けで も条 件を 満た した こと とな るが
︑実 質的 には
︑蔵 人頭 を経 るこ とが 公卿 にな るた めの 条件 とな って いた よ う であ る︒ 次に
︑実 能以 降は どう か︒ 家格 の成 立の 問題 と絡 むた め︑ 嫡流 と庶 流に 分け て検 討す る︒ まず は︑ 嫡流 につ いて 考え る︒ 結論 から 言え ば︑ 清華 の家 格の 嫡流 の人 々は
︑徐 々に 蔵人 頭を 経ず に公 卿に 昇る よ う にな る︒ 早い 時期 では
︑保 元元 年︵ 一一 五六
︶に 徳大 寺実 定
︑治 承 三 年︵ 一一 七 九︶ に 大炊 御 門 頼実
︑!
文 治 五 年
︵一 一 八九
︶に 花 山 院忠 経 が︑ そ れ ぞれ 蔵 人 頭を 経 ず に三 位 中 将 とな っ て いる
"
︒こ の 実 定・ 頼 実・ 忠 経 以 降︑ 徳 大 寺 家・ 大炊 御門 家・ 花山 院家 の嫡 流の 人々 は︑ 原則 とし て蔵 人頭 を経 ずに 公卿 に昇 るよ うに なる
︒ 後鳥 羽院 政期 に入 ると
︑他 の清 華の 家格 を構 成す る家 々も 蔵人 頭を 経ず に公 卿に 昇る よう にな る︒ 建仁 元年
︵一 二
〇 一
︶に 久 我通 光
︑承 元 五年
︵一 二 一 一︶ に 西園 寺 実 氏と 三 条 実親 が
︑そ れ ぞ れ蔵 人 頭 を経 ず 三 位 中 将 と な っ て い る
︒そ し て これ 以 降︑ 久 我家
・西 園 寺 家・ 三 条家 の 嫡 流の 人 々 も︑ 原則 と し て 蔵人 頭 を 経ず に 公 卿 に 昇 る よ う に な る
︒ ただ しこ れ以 降に も︑ 花山 院定 雅・ 洞院
︵山 階︶ 実雄
・今 出川 兼季
・大 炊御 門冬 信の 四人 が蔵 人頭 を経 てい る︒ こ の うち
︑実 雄・ 兼季
・冬 信の 三人 は︑ いず れも 蔵人 頭就 任の 時点 では 庶子 であ った ため
︑蔵 人頭 を経 るこ とに なっ た
― 559 ― 中世前期における清華の家格とその昇進
と 思わ れる
︒定 雅に 関し ては
︑﹃ 民 経記
﹄貞 永元 年︵ 一二 三二
︶十 月四 日条 に﹁ 蔵人 頭 内蔵 頭平 有親 朝臣
︵先 朝頭
︑ 坊 時 亮︒
︶ 左 中 将 藤原 定 雅 朝臣
︵坊 時 権 亮︒
︶﹂ と あ る よう に
︑そ れ まで 春 宮 権 亮で あ っ た た め︑ 四 条 天 皇 即 位 に 伴 い
︑蔵 人頭 に就 任し たと 考え られ る!
︒ した がっ て︑ 後鳥 羽院 政期 に至 っ て
︑清 華 の家 格 の 嫡流 の 人 々は
︑蔵 人 頭 を 経 ずに 三位 中将 また は四 位の 参議 とし て公 卿に 昇る 原則 が確 立し たと 考え られ る︒ 蔵人 頭を 経ず に公 卿に なる こと は︑ 嫡流 の人 々が 安定 して 速い 昇進 を遂 げる こと に繋 がっ たと 思わ れる
︒蔵 人頭 は 院 政 期 に入 り
︑勧 修 寺流 藤 原 氏 をは じ め︑ 名 家の 人 々 も昇 進 コ ー スと し た ため
︑多 く の 人々 が 競 望 す る こ と と な っ た
︒し たが って
︑蔵 人頭 を経 ずに 公卿 に昇 る昇 進コ ース を確 立す るこ とは
︑蔵 人頭 への 就任 を待 つた めに 昇進 がス ト ッ プし てし まう リス クを 回避 する こと に繋 がっ たと 推測 され る︒ 反対 に︑ 蔵人 頭を 昇進 コー スの 一部 とし てい る羽 林
・ 名家 の人 々に とっ ても
︑清 華の 家格 の人 々と 蔵人 頭を 巡っ て争 う必 要が なく なり
︑自 身の スム ーズ な昇 進に 繋が っ た と思 われ る︒ 以上 を整 理す れば
︑徳 大寺 実能 が蔵 人頭 を経 ずに 公卿 にな ると いう 先例 をつ くり
︑そ れが 他の 家の 人々 にも 用い ら れ
︑後 鳥羽 院政 期︑ 清華 の家 格の 嫡流 の者 は︑ 蔵人 頭を 経ず に公 卿に 昇る とい う昇 進コ ース が確 立し た︑ とい う流 れ を 想定 しう る︒ この 流れ を家 格の 成立 の過 程の 中に 位置 付け る︒ まず
︑非 参議 から 中納 言へ の昇 進を 果た した 徳大 寺実 能に つい て で ある
︒実 能は
︑そ れま で蔵 人頭 を経 て参 議に 昇進 する コー スを 辿っ てい た閑 院流 の出 身で ある にも かか わら ず︑ そ れ を経 ずに 三位 中将 とな った
︒こ の昇 進は
︑三 位中 将か ら中 納言 への 昇進 や近 衛大 将就 任と 同様 に︑ 優遇 され たも の で あっ たと 考え られ る︒ しか し︑ すぐ には 蔵人 頭を 経ず に公 卿に なる 昇進 コー スは 定着 しな い︒ 清華 の家 格の 嫡流 の 人 々が 蔵人 頭を 経ず に公 卿に 昇る 原則 が後 鳥羽 院政 期に 確立 する と考 えら れる こと は︑ 佐伯 智広 氏の 指摘 した 大臣 と
中世前期における清華の家格とその昇進 ― 560 ―
近 衛大 将の 変質 およ び議 政官 の形 骸化 の時 期と 一致 する とい えよ う︒ この 位置 付け を踏 まえ るな らば
︑清 華の 家格 の成 立は 以下 のよ うに 考え るこ とが でき よう
︒先 行研 究が 指摘 する よ う に
︑清 華 の家 格 の 成立 は
︑徳 大 寺 実能 の 蔵 人頭 を 経 ない 三 位 中 将就 任
︑権 中 納言 直 任︑ 近 衛大 将 就 任 に 端 を 発 す る
︒そ の後
︑外 戚関 係や 政治 状況 に左 右さ れな が ら徐 々 に 固ま っ て 行き
︑最 終 的 に︑ 佐 伯智 広 氏 が指 摘 す る よう に
︑ 後 鳥羽 院政 期に 確立 した
︒玉 井力 氏の 指摘 した 清華 の家 格を 確立 する ため に必 要と され た︑ 三位 中将 から 中納 言へ の 昇 進を 家の 世襲 的な 職歴 に取 り込 むと いう 条件 は︑ 蔵人 頭 を経 ず に 公卿 に な るこ と を 家 の世 襲 的 な職 歴 に 取 り込 む
︑ と する こと で︑ より 明確 に清 華の 家格 を各 家が 確立 して いく 様子 を捉 える こと がで きる ので はな いか
︒ つい で︑ 実能 以降 の庶 流の 人々 につ いて 考え る︒ 嫡流 の者 の庶 子の 場合
︑嫡 子と 同様 に蔵 人頭 を経 ずに
︑三 位中 将 や 四位 の参 議と して 公卿 に昇 る事 例も 散見 され るが
︑庶 流の 人々 は実 能以 前と 同様 に︑ 蔵人 頭を 経て 参議 に任 じら れ る 事例 が多 い︒ とこ ろが
︑蔵 人頭 を経 ずに 公卿 に昇 る者 も現 れて くる
︒ 承久 三年
︵一 二二 一︶ まで に︑ 蔵人 頭を 経ず に公 卿と なっ た庶 流の 者は 二十 五人 に及 ぶ︒ この うち
︑四 位で 参議 と な った 花山 院流 の光 忠・ 家経
︑三 位中 将と なっ た閑 院流 の公 衡ら 三人 は
︑嫡 流 の 庶子 で あ った
︒!
そ れ 以 外の 二 十 二 人 は
︑い ず れも 中 将 を兼 ね な い 非参 議 と して 公 卿 と な っ て お り︑ こ の う ち︑ 十 八 人"
は 参 議 以 上 に 昇 る こ と が で き ず
︑非 参議 で終 わっ てい る︒ 参議 以上 に昇 るこ との でき た四 人を 見て も︑ 正二 位権 大納 言ま で昇 進し た徳 大寺 実能 の 庶 子で ある 公保 を除 き︑ いず れも 参議 止ま りで あり
︑か つ参 議も 数年 で 辞 し てい る#
︒こ の よう に
︑庶 流 の人 々 は 実 能 以降
︑蔵 人頭 を経 ずに 公卿 とな る者 も現 れる が︑ 嫡流 の庶 子を 除き
︑参 議以 上へ の昇 進は 稀で あっ たと いえ よう
︒ 非参 議止 まり の庶 流の 人々 が現 れた のは なぜ か︒ 背景 とし て︑ 百瀬 今 朝 雄氏
$
も 指摘 す る よう に
︑官 職 には 定 員 が あ るの に対 し︑ 位階 には 定員 がな く︑ 任官 より も叙 位の 方が 容易 で あ った こ と が推 測 さ れる
︒ま た
︑佐 古 愛 己氏
%
の
― 561 ― 中世前期における清華の家格とその昇進
指 摘す るよ うに
︑こ の時 期に 年労 制的 昇進 が排 除さ れ︑ 多様 な昇 進方 式が 成立 した こと も関 係し よう
︒ 最後 に︑ 本節 で述 べて きた 事を 纏め てお きた い︒ 徳大 寺実 能が 蔵人 頭を 経ず に三 位中 将︑ 参議 を経 ずに 権中 納言 へ と 優 遇 され た 昇 進を 遂 げ る まで
︑閑 院 流・ 花 山院 流
・村 上 源氏 の 人 々 は︑ 原則 と し て蔵 人 頭 を経 て 参 議 に 昇 っ て い た
︒ とこ ろが 実能 以降
︑嫡 流の 人々 は︑ 徐々 に蔵 人頭 を経 ずに 三位 中将 や四 位の 参議 とし て︑ 公卿 の仲 間入 りを 果た す よ うに なり
︑後 鳥羽 院政 期に はそ れが 定着 した
︒こ の流 れは
︑清 華の 家格 の成 立に も位 置づ けら れる と考 えら れ︑ 蔵 人 頭を 経ず に四 位の 参議 また は三 位中 将と して 公卿 に昇 るこ とを
︑家 の世 襲的 な職 歴に 取り 込む こと が︑ 清華 の家 格 を 確立 する ため の条 件の 一つ とな った と捉 える こと がで きる と思 われ る︒ 嫡流 の人 々が 蔵人 頭を 経な くな るこ とは
︑蔵 人頭 に就 任す るま で昇 進が 滞る とい う事 態を 防ぎ
︑安 定し た速 い昇 進 に 繋が った と考 えら れる
︒こ のこ とは
︑他 の蔵 人頭 を競 望す る人 々に とっ ても
︑有 力な 競望 相手 が減 り︑ スム ーズ な 昇 進に 繋が った と思 われ る︒ 一方
︑実 能以 降の 庶流 の人 々は
︑実 能以 前と 変わ らず
︑蔵 人頭 を経 て参 議に 昇進 した
︒中 には
︑蔵 人頭 を経 ずに 非 参 議と して 公卿 に昇 る者 も存 在し たが
︑多 くの 場合 は︑ 非参 議止 まり であ った
︒背 景に は︑ 任官 より も叙 位の 方が 容 易 であ った こと
︑年 労制 的昇 進が 排除 され 多様 な昇 進方 式が 成立 した こと があ った と推 測さ れる
︒ 二︑
承 久 の乱 以 降 の蔵 人 頭
・三 位 中 将 本節
では
︑前 節で 検討 した 蔵人 頭・ 三位 中将 の機 能が
︑後 鳥羽 院政 期以 降︑ どの よう に変 化し たの か考 察す る︒
中世前期における清華の家格とその昇進 ― 562 ―
まず
︑蔵 人頭 につ いて 検討 して いく
︒承 久 の乱 以 降︑ 閑 院流
・花 山 院 流・ 村上 源 氏 か ら蔵 人 頭 に就 任 す る 者に は
︑ 大 まか に以 下の 三つ の傾 向が 見ら れる
︒ 第一 に︑ 代々 蔵人 頭に 任じ られ てき た家 の者 が任 じら れた
!
︒こ の当 時の 昇 進 に おい て
︑重 代 であ る こ とが 重 要 な 要 素と なっ てい たた めで ある と考 えら れる
"
︒ 第二 に︑ 嫡流 の庶 子で ある 者も 任じ られ た︒ 本来
︑閑 院流
・花 山院 流・ 村上 源氏 にお いて は︑ 蔵人 頭か ら参 議に 昇 る とい う昇 進コ ース が一 般的 であ った
︒そ のた め︑ 嫡流 の嫡 子が
︑蔵 人頭 を経 ない とい う優 遇さ れた 昇進 を遂 げる よ う にな って も︑ 嫡流 の庶 子の 者は
︑変 わら ず蔵 人頭 から 参議 に昇 ると いう 昇進 コー スを 辿っ たた めと 考え られ る︒ 一 方
︑庶 流の 庶子 の者 が蔵 人頭 とな るこ と は難 し く なっ て い たよ う で あ る︒
﹃勘 仲 記﹄ 弘 安九 年
︵一 二 八六
︶九 月 二 日 条 では
︑蔵 人頭 に任 じら れた 花山 院流 の宗 親が
﹁嫡 子経 氏卿 補蔵 人了
︒次 男又 補之 条︑ 希代 之栄 耀也
︒当 時仙 洞近 臣 逢 遇之 秋歟
︒﹂ と 評さ れて いる
︒ 第三 に︑ 春宮 権亮 であ った 者が 東宮 の即 位と とも に任 じら れた 事例 が散 見さ れる
︒先 述の 花山 院定 雅の 他︑ 花山 院 家 庶流 の鷹 司清 雅︑ 久我 家庶 流の 中院 光忠 がこ れに 当た る︒ 特に
︑中 院光 忠の 父六 条有 房は
︑亀 山院
・後 宇多 院の 近 臣 とし て活 躍し
︑内 大臣 に至 った 人物 であ り#
︑ 光忠 の蔵 人頭 就任 は︑ 大覚 寺統 との 深い 関係 が想 定さ れる
︒ 以上 の傾 向に 当て はま らな い者 が蔵 人頭 にな るた めに は︑ 院・ 摂関 家・ 西園 寺家 とい った 権勢 を誇 った 人々 との 関 係 が 大 きな 意 味 を持 っ た と 考え ら れ る$
︒ 他流 の 事 例で は あ る が︑ 嘉禄 二 年︵ 一 二二 六
︶︑ そ れま で 蔵 人 頭を 経 る こ と のな かっ た御 子左 流藤 原氏 から 為家 が蔵 人頭 に任 じら れた
︒そ の背 景に は︑ 為家 のお じに 当た る西 園寺 公経 の尽 力 が あっ たこ とが
﹃明 月記
﹄同 年正 月一 日条 など から 窺え る︒ 蔵人 頭に 任じ られ るた めに は︑ 実務 能力 も重 視さ れた こと も見 逃せ ない
︒村 上源 氏の 中で も弁 官を 昇進 コー スと し
― 563 ― 中世前期における清華の家格とその昇進
て いた 雅兼 流の 事例 では あ る が︑
﹃勘 仲 記﹄ 弘 安六 年
︵一 二 八 三︶ 七月 二 十 日条 に は︑
﹁ 従三 位 藤 忠 輔︑ 源雅 憲
︑︵ 左 大 弁
︑不 経 蔵 人 頭 直 上 階
︒邂 逅 也
︒昇 進 也
︒代 々 大 弁 貫 首 参 議 大 弁 也︒ 依 無 才 非 器 如 此 昇 進 歟
︒︶
﹂ と あ り!
︑ 兼 仲 は
︑蔵 人頭 に任 じら れる こと なく 従三 位を 叙さ れ た源 雅 憲 につ い て︑
﹁ 無才 非 器
﹂で あ った た め では な い かと 推 測 し て いる
︒こ の雅 憲の 事例 が先 例に なっ てし まっ たの か︑ 以降
︑雅 兼流 村上 源氏 から
︑蔵 人頭 が輩 出さ れる こと は無 か っ た︒ 次に
︑三 位中 将に つい て見 て行 きた い︒ 三位 中将 は︑ 既に 確認 した
﹃官 職秘 鈔﹄ と﹃ 職原 鈔﹄ の記 載の 相違 のよ う に
︑就 任者 の範 囲が 拡大 して いく
︒そ こで 注目 され るの は︑ 西園 寺家
・花 山院 家・ 久我 家の 三家 にの み︑ 多く の三 位 中 将就 任者 が認 めら れる こと であ る︒ それ 以外 の家 は︑ 嫡流 の庶 子が 三位 中将 に就 任す る事 例は ある もの の︑ 庶子 の 子 の代 まで 三位 中将 に就 任す る事 例は 無い
︒ では なぜ
︑三 位中 将の 拡大 範囲 がこ の三 家に 限 定さ れ た のか
︒注 目 す べき は
︑鎌 倉 時 代後 期 の 天皇 の 生 母 であ る
︒ 後 嵯峨 天皇 から 光厳 天皇 まで の各 天皇 の生 母は
︑い ずれ もこ の三 家 か ら 輩出 さ れ てい る"
︒西 園 寺家
・花 山 院 家・ 久 我 家に おい て︑ 三位 中将 の範 囲が 拡大 した 要因 の一 つと して
︑こ の三 家が 天皇 家と の外 戚関 係を 築い たこ とが 考え ら れ る︒ た だし
︑花 山 院 家に つ い ては
︑天 皇 家 と の外 戚 関 係の み で は 説明 し き れな い
︒後 伏 見天 皇 の 誕 生 す る 弘 安 十 一 年
︵一 二八 八︶ 以前 にも
︑多 くの 者が 三位 中将 とな って いる ため であ る#
︒ 花山 院家 にお いて 庶流 出身 の三 位中 将が 出現 した 要因 の一 つと して
︑花 山院 家内 にお ける 嫡流 の優 位性 が未 確立 で あ った こと が考 えら れる
︒佐 古愛 己氏
$
によ れば
︑鎌 倉時 代前 期の 花山 院 家 は︑ 家 長の 不 在︑ 忠 経の 嫡 子 であ っ た 忠 頼
・経 雅の 相次 ぐ夭 折︑ 後見 人の 不在 によ り︑ 家 中の 統 制 にも 事 欠 く有 様 で あ った
︒ま た
︑や や 時代 が 下 る もの の
︑
中世前期における清華の家格とその昇進 ― 564 ―
鎌 倉時 代後 期に 花山 院家 内に お いて 嫡 流 と 庶流 の 関 係が 問 題 とな っ て い たこ と は︑ 既 に市 沢 哲 氏!
や 樋 口健 太 郎 氏"
が 指摘 して いる
︒も う一 つ︑ 傍証 とな ると 思わ れる のが
︑大 炊御 門家 にお ける 冬輔 の昇 進で ある
︒文 永七 年︵ 一二 七
〇
︶︑ 庶 子で ある 冬輔 は三 位中 将と な り︑ 同 十一 年
︵一 二 七四
︶に 参 議
︑建 治 三年
︵一 二 七 七︶ には 権 中 納言 と 順 調 に 出世 を続 けて いた
︒と ころ が︑ 弘安 九年
︵一 二八 六︶
︑ 嫡流 で あ る兄 信 嗣 の嫡 子 良 宗 が権 中 納 言に 任 じ られ た の と 同 日に
︑冬 輔は 権中 納言 を辞 任し てし まい
︑以 後出 世す るこ とは なか った
︒こ れに 対し
︑花 山院 家で は嫡 流の 者が 納 言 や参 議に 任じ られ たと して も︑ 庶流 の者 が辞 任し ない 事例 が数 多く 見ら れる ので ある
︒ 以上 のよ うに
︑三 位中 将の 範囲 の拡 大が 西園 寺家
・花 山院 家・ 久我 家に のみ 認め られ るの は︑ 天皇 家と の外 戚関 係 が 考え られ る︒ 加え て︑ 花山 院家 に関 して は︑ 嫡流 の優 位性 が未 確立 であ った こと も考 える 必要 があ ろう
︒ この よう な三 位中 将の 範囲 の拡 大に 関連 して
︑庶 流の 者が 三位 中将 とな るこ とへ の批 判が
﹃民 経記
﹄仁 治三 年︵ 一 二 四二
︶四 月九 日条 にみ える
#
︒ 仁 治三
︑四 月九 日︒
︵ 辛酉
︒︶ 今夜 被 行臨 時 除 目︒
︵中 略
︶除 目 者以 不 驚 目 為善 云 々︒ 政 反淳 朴 之 世也
︒然 而 有 労 之 者弃 捐︒ 末代 之法 言而 無由
︒為 之如 何︒
︵ 中略
︶ 従 三位 源通 成︵ 中将 如元
︒︶ 不 聴禁 色︒ 非大 臣・ 大将 之凡 人子 息為 三位 中将 事︑ 先規 未聞
︒縦 被優 旧労
︑参 議可 宜歟
︒就 中徒 閣其 闕︑ 求 而 被授 之︒ 太不 可然 歟︒ 通方 卿末 子也
︒非 清華 之可 重只 旧労 一事 歟︒ 補蔵 人頭 之後
︑纔 卅一 个日 也︒ 超上 臈 通 行朝 臣︒
︵ 故前 内府 末子
︒︶ 誠是 一日 九遷 之運
︑雖 非可 驚︑ 非明 王之 法言
︒末 代事 何為 々々
︒︵ 中 略︶ 今 度除 書殊 以所 驚目 也︒ 土御 門前 槐似 魏徴 之鑑 古︒ 而身 上事 誠無 術事 歟︒
﹃ 民経 記﹄ の筆 者経 光は
︑久 我家 庶流 の通 成が 蔵人 頭 か ら三 位 中 将に 昇 進 し たこ と に 対し
︑大 臣
・近 衛 大将 で は な
― 565 ― 中世前期における清華の家格とその昇進
い 者の 子息 が三 位中 将と なっ た先 例を 聞い た事 がな いと 非難 する
︒ 花山 院家 に関 して も︑
﹃ 平戸 記﹄ 寛元 三年 六月 二 十 六日 条 に﹁ 従 三位 師 継 卿︑ 中 将如 元 之 由即 被 宣 下云 々
︒尤 謂 過
マ ヽ
分 歟︒ 随自 身不 好頻 難渋 云々
︒﹂ と ある よう に︑ 庶流 であ る師 継の 三位 中将 就任 に対 して 批判 が加 えら れて いる
︒ 以上 述べ てき た三 位中 将の 範囲 の拡 大は 何を もた らし たの か︒ 最も 大き な影 響は
︑三 位中 将の 時点 にお いて
︑嫡 流 と 庶流 の昇 進差 別が 消滅 して しま った こと であ ると 考え られ る︒ この こと は︑ 鎌倉 時代 後期
︑村 上源 氏内 の源 氏長 者 を めぐ る争 いや 花山 院家 の家 門を めぐ る争 いが 生じ た遠 因の 一部 とな って しま った と推 測さ れる
︒ま た︑ 樋口 健太 郎 氏!
が指 摘し た准 大臣 や従 一位 大納 言と いっ た傍 流昇 進ル ート が用 いら れる よ う に なっ た 原 因の 一 つ にも
︑三 位 中 将 に よる 嫡庶 の昇 進差 別の 消滅 があ った と考 えら れよ う︒ つい で︑ 蔵人 頭と 三位 中将 がど のよ うな 関係 にあ った のか 考え たい
︒前 節で 検討 した よう に︑ 嫡流 が蔵 人頭 を経 な い 優遇 され た昇 進コ ース を確 立し たこ とを 考え れば
︑三 位中 将に 就任 する こと の方 が︑ 蔵人 頭に 就任 する こと より も 優 れて いた と認 識さ れて いた と推 測さ れる
︒ この こと は︑ 家格 確立 期︑ 花山 院家 の忠 雅・ 兼雅
︑三 条家 の実 房・ 公房 の四 人が 蔵人 頭を 経た 後︑ 三位 中将 にな っ て いる こと から も窺 える
︒清 華の 家格 の確 立を 考え る上 でも
︑こ のよ うな 昇進 は︑ 蔵人 頭を 経な い昇 進コ ース を形 成 す るま での 過渡 的な 姿で ある と評 価す るこ とが でき よう
︒ また
︑﹃ 明 月記
﹄嘉 禄二 年︵ 一二 二六
︶十 二月 十四 日 条 にも 注 目 すべ き 事 例 があ る
︒当 時︑ 蔵 人頭 で あ った 花 山 院 宣 経は
︑﹁ 雑 人説 云︑ 公雅 卿猶 解官
︑範 輔任 之︒ 宣経 申三 位︵ 忠雅 公中 納言 子︒ 通方 不聴 禁色
︒又 我子 由入 道被 申︶
︒﹂ と ある よう に︑ 従三 位を 叙さ れる こと を望 んだ
︒そ の根 拠と して
︑花 山院 忠雅 が中 納言 の子 であ った こと
︑中 院通 方 は 禁色 を聴 され なか った こと
︑﹁ 入 道﹂ が宣 経を 自分 の子 であ ると して いる こと
︑の 三点 を挙 げた
︒
中世前期における清華の家格とその昇進 ― 566 ―
これ らを 根拠 に挙 げた 理由 は︑ 宣経 が三 位中 将を 望ん だた めと 推測 され る︒ ここ で登 場す る忠 雅は
︑蔵 人頭 を経 て 三 位中 将と なっ た人 物で あっ た︒ 宣経 は︑ 自身 の父 家経 が中 納言 まで 昇進 した こと を︑ 忠雅 の父 忠宗 が権 中納 言ま で 昇 進し たこ とと 重ね 合わ せ︑ 先例 とし て持 ち出 した と考 えら れる
︒ま た︑ 中院 通方 も蔵 人頭 を経 て三 位中 将と なっ た 人 物で あっ た︒ 承久 三年
︵一 二二 一︶ 正月 五日 に既 に禁 色を 聴さ れて いた 宣経 は︑ 禁色 を聴 され なか った 通方 の事 例 を 挙 げ るこ と で︑ 自 身の 経 歴 が 優れ て い る こ と を 主 張 し た の で あ ろ う!
︒ さ ら に︑
﹃ 公 卿 補 任﹄ の 宣 経 の 尻 付 に は
︑
﹁入 道右 大臣 忠経 公為 子︒
﹂と あり
︑こ の﹁ 入道
﹂は 忠経 を指 すと 考 え られ る
︒佐 古 愛己 氏"
によ れ ば︑ 宣 経は 花 山 院 家 継承 の可 能性 も含 めた 養子 とし て︑ 忠経 に迎 えら れて いた
︒嫡 流で ある 忠経 の子 であ れば
︑嫡 子の 場合 は言 うま で も なく
︑庶 子の 場合 であ って も︑ 三位 中将 とな った 事例 が存 在す る#
︒ 宣経 が︑ 蔵人 頭と いう 参議 がほ ぼ約 束さ れて いた 地位 にい たに もか かわ らず
︑三 位中 将を 望ん だと 考え られ るこ と は
︑三 位中 将に 就任 する こと がそ れだ け名 誉な もの であ った こと が推 測さ れる
︒当 時の 花山 院家 嫡流 に有 力な 人物 が い な か った こ と も︑ 宣経 を 後 押 し し た と 思 わ れ る$
︒ し か し 結 局
︑宣 経 は 三 位 中 将 と は な れ ず︑ 安 貞 元 年︵ 一 二 二 七
︶四 月九 日︑ 参議 に任 じら れて いる
︒ 三位 中将 の優 位は
︑承 久の 乱以 降︑ 原則 とし て蔵 人頭 を経 た者 の子 息が 三位 中将 に就 任し てい ない こと から も推 測 さ れる
︒こ の例 外と して
︑今 出川 実尹
・花 山院 師賢
・堀 川具 守・ 久我 俊通 の四 人が 挙げ られ る︒ 実尹
・師 賢・ 具守 の 三 人は
︑先 述の 三位 中将 の範 囲拡 大と 同様 に︑ 天皇 家と の外 戚関 係が 大き な要 因と なっ たと 考え られ る︒ 俊通 に関 し て は︑
﹃ 勘仲 記﹄ 正応 二年
︵一 二八 九︶ 十月 十八 日条 に﹁ 蔵人 頭不 達得 之︑ 昇上 階兼 中将 云々
︒﹂ とあ るよ うに
︑蔵 人 頭 に就 任す るこ とが でき なか った 代わ りに
︑三 位中 将に 就任 した こと が知 られ る︒ そ の一 方 で︑ 三 位中 将 と いう 地 位 に は不 安 定 な側 面 も あ った と 考 えら れ る︒ 一 つは
︑近 衛 中 将 と い う 官 職 を 失 え
― 567 ― 中世前期における清華の家格とその昇進
ば
︑一 般的 な非 参議 の公 卿と 変わ らな くな って しま うこ とで ある
︒さ らに
︑ひ とた び三 位中 将に なれ なか った 者を 出 し てし まっ た場 合︑ その 子孫 から 再び 三位 中将 を 輩出 す る こと は 容 易で は な か った よ う であ る
︒﹃ 吉 続記
﹄正 応 二 年 九 月 二 十 三 日 条 に は︑
﹁粟 田 口 三 位︵ 教 経︶
︑任 中 将
︒驚 目
︒其 外 一 向 雑 任 也︒ 当 時 除 目 毎 度 莫 不 驚 目
︒﹂ と あ り!
︑ 吉 田経 長は
︑摂 関家 庶流 であ る粟 田口 教経 が三 位中 将と なっ たこ とを 批判 して いる
︒粟 田口 家は
︑近 衛家 の庶 流で あ り
︑近 衛基 実の 庶子 忠良 は︑ 三位 中将 とな った もの の︑ そ の後 は 三 位中 将 に なる こ と の でき な い 状況 が 続 い てい た
︒ そ して 結局
︑教 経以 降は 再び 三位 中将 を出 せな くな って しま った
︒ もう 一つ は︑ 蔵人 頭と は異 なり
︑参 議以 上へ の昇 進を 確約 され てい ない こと であ る︒ 閑院 流・ 花山 院流
・村 上源 氏 に おい ては
︑蔵 人頭 を経 ずに 三位 中将 とな る昇 進コ ース の成 立事 情か ら︑ たと え確 約さ れて いな くて も︑ 昇進 を果 た す こと がで きた と考 えら れる
︒そ の一 方で
︑こ のよ うな 三位 中将 の地 位の 不安 定さ の犠 牲と なっ てし まっ た人 々と し て
︑摂 関家 庶流 の人 々を 挙げ るこ とが でき よう
︒ 摂関 家庶 流の 人々 も︑ 原則 とし て︑ 蔵人 頭を 経ず に三 位中 将と して 公卿 に昇 って いた
︒し かし
︑こ こで の三 位中 将 は
︑先 に検 討し たよ うな 清華 の家 格の 嫡流 とし ての 優遇 され た昇 進コ ース では なく
︑あ くま で摂 関流 の基 本的 な昇 進 コ ース であ った と考 えら れる
︒し たが って
︑参 議を 約束 され た蔵 人頭 より も優 遇さ れた 昇進 コー スと いう 意味 合い は な く︑ 参議 以上 への 昇進 は確 約さ れて いな かっ たと いえ よう
︒ また
︑摂 関家 庶流 の人 々が 蔵人 頭に 任じ られ た事 例も ない
︒そ の理 由は
︑既 に検 討し たよ うに
︑重 代で ある こと が 優 遇さ れて いた 当時
︑蔵 人頭 を世 襲的 な職 歴に して いな かっ た者 の就 任は 困難 であ った こと
︑蔵 人頭 を経 るよ りも 三 位 中将 を経 る方 が優 れた 昇進 コー スで あっ たと 認識 され てい たこ と︑ 蔵人 頭に は実 務能 力が 要求 され たこ と︑ の三 点 が 挙げ られ よう
︒こ のよ うな 三位 中将 と蔵 人頭 の特 徴が
︑摂 関家 庶流 の人 々の 参議 以上 への 昇進 を阻 む結 果と なっ て
中世前期における清華の家格とその昇進 ― 568 ―
し まっ たと 推測 され る︒ 最後 に︑ 本節 で述 べた こと を纏 めて おき たい
︒承 久の 乱以 降︑ 閑院 流・ 花山 院流
・村 上源 氏か ら蔵 人頭 に任 じら れ る 人々 は︑ 代々 任じ られ てき た者
︑嫡 流の 庶子
︑春 宮権 亮で あっ た者
︑の 三つ のう ち︑ 少な くと も一 つに 該当 する 者 が 多く 任じ られ た︒ これ らに 当て はま らな い者 は︑ 院・ 摂関 家・ 西園 寺家 とい った 権勢 を誇 った 人々 との 関係 が重 要 な 意味 を持 った
︒ま た︑ 蔵人 頭に は実 務能 力も 重視 され たと いえ る︒ 三位 中将 は︑ 西園 寺家
・花 山院 家・ 久我 家の 庶流 にも 範囲 が拡 大し た︒ その 要因 とし て︑ これ らの 家が 後嵯 峨天 皇 以 降の 生母 を独 占し
︑外 戚関 係を 築い たこ とが ある と考 えら れ︑ 加え て︑ 花山 院家 は︑ 嫡流 の優 位性 が未 確立 であ っ た こと も考 えら れる
︒ 三位 中将 の範 囲が 拡大 した こと で︑ 三位 中将 の時 点に おけ る嫡 流と 庶流 の昇 進差 別が 消滅 して しま った と考 えら れ る
︒こ のこ とは
︑鎌 倉時 代後 期に 生じ た家 内部 での 争い の遠 因と なり
︑准 大臣
・従 一位 大納 言と いっ た新 たな 嫡庶 差 別 をし た昇 進ル ート を形 成し たと 想定 され る︒ 三位 中将 とい う地 位は
︑蔵 人頭 を経 る昇 進ル ート より も優 れた もの と認 識さ れて いた 一方
︑不 安定 な側 面も あっ た と 考え られ る︒ そし て︑ その 不安 定な 側面 の影 響を 最も 受け てし まっ たの は︑ 摂関 家庶 流の 人々 であ った と考 えら れ る
︒
お わ り に 以上
︑本 稿で は︑ 公卿 に昇 る段 階に 注目 し︑ 清華 の家 格と それ に関 わる 人々 の昇 進の 実態 を検 討し てき た︒ その 結
― 569 ― 中世前期における清華の家格とその昇進
果
︑家 が清 華の 家格 を確 立す る上 で︑ 蔵人 頭を 経な いこ とが
︑一 つの ポイ ント にな った と考 えら れる こと
︑鎌 倉時 代 に は三 位中 将が 庶流 にも 広が り嫡 庶の 昇進 差別 とい う役 割を 失っ てし まっ たと 考え られ るこ と︑ 本質 的に 三位 中将 は 蔵 人頭 より も優 位と 認識 され た一 方︑ 不安 定な 側面 を抱 えて いた と推 測さ れる こと 等を 明ら かに した
︒ もち ろん
︑各 家の 清華 の家 格の 確立 時期 につ いて は︑ 政治 情勢 に大 きく 左右 され た面 も見 逃す こと はで きず
︑嫡 流 の 人々 の蔵 人頭 への 就任 の有 無と いう
︑あ る時 点に のみ 注目 する だけ では 確定 する こと はで きな い︒ 鎌倉 時代 後期 に 頻 発し た家 産争 い等 にも 注目 する 必要 があ ろう
︒ま た︑ この 当時 蔵人 頭に 就任 した 者は
︑名 家の 人々 など 他に も数 多 く
︑当 時の 蔵人 頭に 就任 する 意味 など は︑ さら に検 討す る必 要が あろ う︒ 検討 する こと ので きな かっ た羽 林の 家格 の 人 々も 多い
︒特 に︑ 中御 門流 藤原 氏の 人々 は︑ 院政 期︑ 大臣 を数 人輩 出し たこ とは 注目 しな けれ ばな らな い︒ 検討 す べ き点 はま だま だ多 いが
︑今 後の 課題 とし たい
︒
! 註 佐 伯 智 広
﹁ 中 世 貴 族 社 会 に お け る 家 格 の 成 立
﹂︵ 上 横 手 雅 敬 編
﹃ 鎌 倉 時 代 の 権 力 と 制 度
﹄ 思 文 閣 出 版
︑ 二
〇
〇 八 年 所 収
︶
"
橋 本 義 彦
﹁ 貴 族 政 権 の 政 治 構 造
﹂︵
﹃ 平 安 貴 族
﹄ 平 凡 社
︑ 一 九 八 六 年 所 収
︑ 初 出 は 一 九 七 六 年
︶
# 笹 山 晴 生
﹁ 平 安 前 期 の 左 右 近 衛 府 に 関 す る 考 察
﹂︵
﹃ 日 本 古 代 衛 府 制 度 の 研 究
﹄ 東 京 大 学 出 版 会
︑ 一 九 八 五 年 所 収
︑ 初 出 は 一 九 六 二 年
︶
$ 北 山 良 雄
﹁ 平 安 中
・ 後 期 の 公 卿 の 補 任 状 況
﹂︵
﹃ 古 代 文 化
﹄ 三 九
│ 五
︑ 一 九 八 七 年
︶
% 例 外 と し て
︑ 村 上 源 氏 雅 兼 流 は
︑ 弁 官 を 経 て 公 卿 に 昇 る 昇 進 コ ー ス を 歩 ん だ
︒ こ の 他 に も
︑ 侍 従 を 省 略 し て 少 将
↓ 中 将 と 進 む 者 や
︑ 少 将 を 省 略 し て 侍 従
↓ 中 将 と 進 む 者 も い た
︒
&
以 下 に 挙 げ る 先 行 研 究 の 他 に
︑ 清 華 の 家 格 の 成 立 に つ い て 論 じ た も の と し て
︑ 経 実 の 婚 姻 政 策 に 注 目 し た 久 保 木 圭 一
﹁ 清 華 家
﹁ 大 炊 御 門 家
﹂ の 成 立
│ 始 祖 藤 原 経 実 の 婚 姻 関 係 を 中 心 に
│
﹂︵
﹃ 日 本 歴 史
﹄ 六 九 七
︑ 二
〇
〇 六 年
︶ が あ る
︒ ' 前 掲 註"
橋 本 氏 論 文
中世前期における清華の家格とその昇進 ― 570 ―
"
玉 井 力
﹁﹁ 院 政
﹂ 支 配 と 貴 族 官 人 層
﹂︵
﹃ 平 安 時 代 の 貴 族 と 天 皇
﹄ 岩 波 書 店
︑ 二
〇
〇
〇 年 所 収
︑ 初 出 は 一 九 八 七 年
︶
# 佐 伯 智 広
﹁ 徳 大 寺 家 の 荘 園 集 積
﹂︵
﹃ 史 林
﹄ 八 六
│ 一
︑ 二
〇
〇 三 年
︶︑ 前 掲 註! 佐 伯 氏 論 文
$
﹃ 官 職 秘 鈔
﹄﹃ 職 原 鈔
﹄ の 本 文 は
︑ 続 群 書 類 従 本 に 拠 っ た
︒ な お
︑ 引 用 し た す べ て の 史 料 は
︑ 適 宜 句 読 点 を 改 め
︑ 旧 字 体
・ 異 字 体 を 通 用 字 体 に 改 め た 箇 所 が あ る
︒
% た だ し
︑ 必 ず 参 議 に な れ た 訳 で は な い
︒ 従 三 位 に 叙 さ れ て 蔵 人 頭 を 離 れ る 場 合 も あ っ た
︒﹃ 明 月 記
﹄ 承 元 二 年
︵ 一 二
〇 八
︶ 正 月 七 日 条 に は
︑﹁ 今 日 人 々 云
︑ 従 三 位 平 親 国 卿 薨
︒ 経 職 事
・ 弁 官
・ 蔵 人 頭
︑ 預 三 位 推 叙
︑ 又 以 短 命 歟
︒ 或 云
︑ 散 位 之 怨 欝
︑ 時 而 不 休
︑ 心 肝 摧 尽 終 命 云 々
︒﹂ と あ り
︑ 蔵 人 頭 か ら 従 三 位 に 推 叙 さ れ た 親 国 の 無 念 を 窺 う こ と が で き る
︒︵
﹃ 明 月 記
﹄ の 本 文 は
︑ 国 書 刊 行 会 本 に 拠 っ た
︒ ま た
︑ 稲 村 榮 一
﹃ 訓 注 明 月 記
﹄︵ 松 江 今 井 書 店
︶ を 参 考 に し た
︒︶
&
松 薗 斉
﹁ 藤 原 定 家 と 日 記
│ 王 朝 官 人 と し て の 定 家
│
﹂︵
﹃ 愛 知 学 院 大 学 文 学 部 紀 要
﹄ 二 五
︑ 一 九 九 六 年
︶ ' 坂 本 賞 三
﹁ 村 上 源 氏 の 性 格
﹂︵ 古 代 学 協 会 編
﹃ 後 期 摂 関 時 代 史 の 研 究
﹄ 吉 川 弘 文 館
︑ 一 九 九
〇 年 所 収
︶ ( 酒 井 宏 治
﹁ 辞 官 申 任 の 成 立
﹂︵ 大 山 喬 平 教 授 退 官 記 念 会 編
﹃ 日 本 国 家 の 史 的 特 質 古 代
・ 中 世
﹄ 思 文 閣 出 版
︑ 一 九 九 七 年 所 収
︶ )
﹃ 玉 葉
﹄ 治 承 三 年
︵ 一 一 七 九
︶ 十 月 十 一 日 条 に は
︑﹁ 又 頼 実 為 一 上 之 嫡 子
︑ 今 度 之 頭
︑ 尤 可 補 歟
︒ 但 経 房 又 得 其 理 歟
︒ 只 頼 実 微 運 之 令 然 歟
︒﹂ と あ り
︑ 兼 実 は
︑ 蔵 人 頭 に な る べ き 人 物 の 筆 頭 と し て 頼 実 を 考 え て い た よ う で あ る
︒ こ の 翌 月
︑ 頼 実 は 三 位 中 将 に な っ て い る
︒﹃ 玉 葉
﹄ の 本 文 は
︑ 図 書 寮 叢 刊 本 に 拠 っ た
︒
* こ の 他 に
︑ 久 安 六 年
︵ 一 一 五
〇
︶ に 雅 通 が 蔵 人 頭 を 経 ず に 参 議 に 任 じ ら れ て い る
︒﹃ 公 卿 補 任
﹄ に は
﹁ 不 経 頭
︵ 母 服 間
︶︒
﹂ と あ り
︑ 母 の 死 に よ る 服 喪 の た め
︑ 蔵 人 頭 を 経 る こ と が で き な か っ た よ う で あ る
︒ + な お
︑ こ の 時 に は
︑ 五 位 蔵 人 に つ い て も
︑ そ れ ま で 春 宮 大 進 で あ っ た 九 条 忠 高
︑ 春 宮 権 大 進 で あ っ た 勘 解 由 小 路 経 光 が 任 じ ら れ て い る
︒ , 光 忠 は 大 炊 御 門 経 実 の 子
︒ 家 経 は 花 山 院 兼 雅 の 子
︒ 公 衡 は 徳 大 寺 公 能 の 子 で 実 守 の 養 子 と な る
︒︵
﹃ 尊 卑 分 脈
﹄︶ - 公 俊
︑ 公 明
︑ 実 保
︵ 以 上
︑ 閑 院 流
︶︑ 兼 季
︑ 家 宗
︑ 資 頼
︑ 頼 房
︑ 頼 輔
︑ 宗 長
︵ 以 上
︑ 花 山 院 流
︶︑ 有 通
︑ 具 定
︑ 家 俊
︑ 顕 信
︑ 清 信
︑ 宗 雅
︑ 顕 兼
︑ 兼 定
︑ 雅 行
︵ 以 上
︑ 村 上 源 氏
︶ の 十 八 人
︒ こ の う ち 堀 川 具 定 は
︑ 近 衛 少 将 に 任 じ ら れ る の を 待 た ず に
︑ 侍 従 の ま ま 従 三 位 と な っ て お り
︑ 侍 従
↓ 少 将
↓ 中 将 と い う 一 般 的 な 昇 進 コ ー ス を 辿 る 途 中 で あ っ た と 解 す る こ と が で き る
︒ . 閑 院 流 の 公 清
︑ 花 山 院 流 の 忠 定
・ 雅 経 の 三 人
︒ 忠 定 に つ い て は
︑﹃ 明 月 記
﹄ 建 保 六 年
︵ 一 二 一 八
︶ 正 月 十 四 日 条 に
︑﹁ 蔵 人 頭
― 571 ― 中世前期における清華の家格とその昇進