• 検索結果がありません。

ペルシャ帝国と『英国三兄弟の旅』

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "ペルシャ帝国と『英国三兄弟の旅』"

Copied!
29
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

ペルシャ帝国と『英国三兄弟の旅』

著者 勝山 貴之

雑誌名 主流

号 77

ページ 21‑48

発行年 2015‑10‑30

権利 同志社大学英文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015253

(2)

21 

ベルシャ帝国と『英国三兄弟の旅 J

勝 山 貴 之

I.序

現在,ウエスト・サセックスのベトワース・ハウスに所蔵されているロ

tート・シャーリ− (Robert Sherley)の肖像画は,見る者に様々なことを 語りかける.画家ファン・ダイク(VanDyck)の筆になるという絵の中に 描かれたこの人物は,およそ17世紀の英国人の服装とはかけ離れた衣服を 身に纏っている(図1) .うずたかく頭に巻かれたターバン,肩から羽織っ た絹の衣に刺繍された異国風の人々の姿,それを取り巻くように配置された 珍しい図柄,柄の曲がった剣,そして左手に持たれた弓,これらはすべてベ ルシャに由来するものである.ロパート・シャーリーは兄アンソニー(おithony) と共に,ベルシャ皇帝シャー・アパス(ShahAbbas)の外交使節として,

ヨーロッパ各困を歴訪し,イスラム教国ベルシャとキリスト教国の同盟関係 を説いてまわった.肖像画には描かれていないものの,彼のターパンには ローマ法王より授けられた銀の十字架が輝いていたという.まさに彼の出で 立ちは,自らがイスラム教世界とキリスト教世界をひとつに結ぶ架け橋とな

る人物であることを宣言するものであった(Parr28). 

彼の傍らには常に,ベルシャ人でありながら彼の妻となったテレジア (Teresia)の姿があった彼女は,初めてキリスト教国を訪れたベルシャ女 性として,各国で評判になり,その姿もまた肖像画に描かれた(図2).絵 の中の彼女は,右手に火打ち石銃を,そして左手には懐中時計という,一般 に女性が携行するには珍しい物を持たされている.実は,これらがキリスト 教国によって,ベルシャにもたらされた文明の利器であることから,キリス

(3)

22  ペルシヤ 荷凶と 英l:il:兄弟の旅j

図I Robert Sherley by Van Dyck  Petworth House, West Sussex, 1622 

(4)

ペルシャ帝国と I英国三兄弟の旅j 23 

図2 Teresia Sherley, artist unknown. c.  1617 

(5)

24  ペルシャ帝聞と~·英国三兄弟の旅J

ト教西洋による東洋ベルシャの文明開化がさりげなく,絵の中に表現されて いるのである.

しかしこうしたロパートとテレジアの姿も,彼らに疑いのまなざしを向け る人々にとっては,剛笑の的であった.そうした人々にとってロパートはベ ルシャの間諜に過ぎず,奇妙な衣装を纏ったその姿は,皇帝の道化ともいえ る滑稽なものと映ったのである.1625年,ロパートの名声を織すような事 件が起こる.この年,英国のジェイムズ王のもとを訪れたベルシャの外交使 節によって,ロパートが殴打されたのである.ベルシャ人外交使節は,自分 たちからすれば卑しい身分の異国人に過ぎないロパートが,妻テレジアを皇 帝の姪と偽札皇帝一族との姻戚関係を吹聴していたことを知って,皇帝に 対するあまりの非礼に激怒したというのが事の真相であった(Parr18, 28‑ 9). 

ベルシャは,古典の中ではギリシャやローマと敵対する強固としてその名 を轟かせ,中世においては豊潤の都として広く人々に知られた存在であっ た.しかし16世紀の英国人にとってイスラム教国ベルシャは,同じくイス ラム教国であるオスマン・トルコ帝国と軍事的緊張関係にあるという意味に おいて,重要な意味を持つ国であった.オスマン・トルコ帝国の拡大を警戒 するキリスト教諸国にとってのベルシャは,たとえ異教国であるとしても,

早急に同盟関係を結ぶべき国であった.それ故に ベルシャを訪れたシャー リー兄弟の旅は当時,人々の関心を呼び;彼らに関する多くの旅行記が出版 され,芝居として上演されたのである.この小論では,膝史の中におけるベ ルシャ表象の変化を辿りながら, 1590年代のシャーリー兄弟の旅によって,

にわかに政治性を帯びることとなったベルシャ帝国について考えてみたい.

更に,兄弟の旅行記を舞台化した,ジョン・デイ(JohnDay),ウィリアム・

ロウリー(WilliamRowley),ジョージ・ウイルキンス(GeorgeWilkins)の 合作による『英国三兄弟の旅 (Theαvelsof the Three English Brothers) j 

(1607)を紐解色作品の持つ政治的・宗教的プロパガンダについて考察し

(6)

ベルシャ帝悶と『英国三兄弟の旅』 25  てみることとする.

E司英国におけるべルシャのイメージ ( 1 )古典に描かれたペルシャから近代初期のペルシャヘ

イザ、ヤ書に登場するキュロス二世(CyrusII)をはじめ,ダレイオス一世 (Darius I)やクセルクス一世(XerxesI)など,アケメネス王朝(BC550‑

BC331)時代のベルシャの様子は,ヘロドトス(Herodotus)やブルタルコ ス(Plutarch)など,多くの歴史家によって記されてきた.これらギリシャ の古典に見出せるべルシャに関する記述は,古典教育を通じて近代初期の英 国の知識人たちに大きな影響を与えた.なかでもギリシャの歴史家クセノポ ン(Xenophon)の記した『キュロスの教育 (Cyropaediα)』は,教材とし ても用いられたことから, 16世紀英国の人文主義教育に大きく貢献したと いう.

他方,中世においては,東洋を旅した経験を記した様々な害:物のなかに,

豊かな富を有する固としてのベルシャの様子が度々記された.マルコ・ボー ロ(MarcoPolo)やサー・ジョン・マンデビル(SirJohn Mandeville)に よる旅行記,更には十字軍の残した記録のなかに,ベルシャ皇帝の専制政治 の有り様やその豪華絢嫡たる宮廷生活の様子が描かれ,これらの書物を紐 解く近代初期英国の読者の心に豊潤の都ベルシャのイメージを形成する 一助となった.スペンサー(EdmundSpenser)の『妖精の女王 (TheFlαerie  Quee九日)

I .

をはじめ,マーロウ(ChristopherMarlowe)の『マルタ島のユ ダヤ人 (TheJew of Mi.αltα)』,ジョンソン(BenJonson)の『錬金術師 (The Alchemist)

I

 

.

や『ヴォルポーネ(lゐlponeHなどの劇のなかに,こうした賛

を尽くしたベルシャ宮廷生活への言及が見出せることからも,そうした影響 を窺い知ることができる(Grogan2‑14). 

しかし 16世紀のサファピー朝ベルシャ(1501年〜1736年)についての

(7)

26  ペルシャ帝国と『英国三兄弟の旅J

知識は,近代初期英国において限られたものであった.1560年代から 1570 年代にかけてモスクワ会社(MoscovyCompany)が,交易のために幾度か ベルシャを訪れているものの, 1580年代に入ると両国の交易は途絶えてし まう.原因として,クリミア系タタール人の叛乱により通商路の危険性が増 したことや, 1578年に勃発したオスマン@トルコ帝国とベルシャ帝国の戦 渦の影響は否定し難い.更に1581年エリザベスからの特許状を下付されて,

新たに設立されたトルコ会社(TurkeyCompany)の存在も影響したであろ う.軍事力および商業力を一層強化させてくるカトリック教国スペインに対 抗して,新たな通商路を確保する必要性から,英国はイスラム教固との交流 を模索していた.オスマン・トルコとの通商条約を成立させるべく,エリザ ベスの密命を受けたウィリアム・ハーボーン(WilliamHarborne)はトル コ皇帝ムラド三世(MuradIII)との交渉にみごと成功し, 1580年5月に両 国間に通商条約が結ぼれて,翌1581年9月にはオスマン@トルコとの貿易 を一手に引き受けるトルコ会社が設立された

背景には, 1578年夏よりペルシャとの軍事的緊張関係にあったオスマン・

トルコ側の思惑も働いていた. トルコ皇帝ムラドは,ベルシャとの戦役に向 けて新たな兵器の獲得に興味を示し英国はこれに応えて,錫,青銅をはじ め,銃など,オスマン・トルコ側の軍備拡張に必要とされるものの提供をも ちかけていた. したがって,オスマン・トルコとの聞に通商条約を結びなが ら,同時に英国がオスマン・トルコの敵国ベルシャとの交易を続けていくこ とは外交上,得策ではないと判断された.オスマン・トルコをいたずらに刺 激することを避けるためにも 商業上の利益を上げることが難しくなりつつ あったベルシャとの交易は, 1日1年のジョン・ニューペリー(JohnNewbrrie) のベルシャ訪問を最後に完全に途切れてしまう.以降, 1598年にシャーリー 兄弟がベルシャを訪れるまで,ほほ20年の歳月にわたり,ベルシャと英国 両国間における交流の記録は見当たらない(Grogan21, MacLean 64‑68,  Vlami 13‑30). 

(8)

ペルシャ帝国と『英国三兄弟の旅』 27  (2)第三勢力としてのぺルシャ

商取引においてはオスマン@トルコ帝国と友好関係を推し進めてきたように みえる英国

b

大陸におけるオスマン。トルコの勢力拡大に対しては,つねに 警戒の目を向けていた 1588年にジョパンニ・トマソーミナドイ(Giovam

Tomrnaso Minadoi)のHistoriαdellαGuerrαfrαTurchi, et Persiαniが大陸 で出版された. トルコとベルシャ聞で戦われた戦争について記したこの書物 は,アブラハム・ハートウェル(AbrahamHartwell)によって英訳され,

1595年に『トルコとベルシャ戦記 (TheHistory of the Wαrres between the  Turkesαnd the Persiαns)』の書名で,英国読者に向けて出版されている.

原作者ミナドイは書の冒頭に添えられた「読者に向けた序文」のなかで,

自分がこの書の執筆を思い立った理由を,本書を紐解く人々にイスラム勢力 の侵攻を受けた国々がいかに悲惨な境遇におかれているかを伝え,イスラム 教国の脅威を知ってもらうことにあると述べている.そして彼は,イスラム 勢力に対抗するため,すべてのキリスト教国の君主たちが力を合わせ,武器 をとって立ち上がることを提案するのである.同時に,第一章の中で,オス マン・トルコ帝国がベルシャとの戦いに巻き込まれることによって,両者間 の戦争がキリスト教国に利すると彼は言う.

A warre not onely long & bloudie, but also very commodious and  of great oportunitie to the Christian Commonwealth: for that it  hath granted leisure to the Champions of Christ to refresh and  encrease their forces, being now much weakened by warres both  Forreine and Ciuill. 

ベルシャとオスマン・トルコの戦が長期化すれば,その間にキリスト教諸国 が英気を養うことができるとミナドイは説く.すなわち両国の争いは,キリ スト教諸国から見れば,オスマン・トルコの関心を東方に逸らさせる絶好の

(9)

豆13CharlWhitwellsmap of Persia in Giovannifommaso Minadoi, The History of the Wαrres between  the Turkes and the Persiαns, translated by Abraham Hartwell (1595). 

~ λ﹄でや寸議E

H hmEUvpgqu栄﹄

(10)

ペルシャ帝国と『英国三兄弟の旅』 29  機会であり,帝国が商へ酋へと侵略の手を伸ばすことに一時的とはいえ歯止 めをかける可能性を持つものであった.そうした観点からベルシャは,西洋 のキリスト教諸国にとって第三の勢力であり,オスマン・トルコと敵対する という意味においては東洋のイスラム固でありながら,またとない同胞と呼 べる固と映ったのである(図3). 

古典のなかでローマに抵抗する大帝国として描かれたベルシャは,中世の 時代には莫大な富を誇る豊潤の者ISとして想い描かれ,その足跡を西洋文学の なかに留めてきた.しかし1580年代後半から 1590年代になると,拡大を続 けるオスマン・トルコ帝国とキリスト教諸国の衝突のなかで,オスマン・ト ルコに敵対する第三勢力と目されることによって,にわかに政治性を帯びる こととなったといえるであろう.そうした英国人のベルシャに対するイメー ジの変化は文学作品のなかにも反映され,キリスト教世界とは決して相容れ ることのないオスマン・トルコの他者性を一層強調するための引き立て役と しての役割を,ベルシャは担わされることとなったのである(Parr11‑12,  Ghatta 66‑67) .この意味において,『英国三兄弟の旅』は, 1590年代の後 半に挙行されたシャーリー兄弟のベルシャへの旅をもとに害:かれた作品でも あり,同時代のベルシャを題材にした異色の作品として,また政治的プロパ ガンダ色の強い演劇として注目に値する.

E固シャーリ一兄弟の旅 ( 1 )シャーリー兄弟

サセックスナトlウイストンの庶民院議員サー・トマス・シャーリー(Sir Thomas Sherley)を父として,長男トマス(Thomas),次男アンソニー

(Anthony),そして三男ロパート(Robert)は育った.上の二人トマスと アンソニーはオックスフォード大学のハートホールに通ったと言われ, トマ スは引き続きイナーテンプル法曹学院(theInner Temple)へと進んだ.ア

(11)

30  ベルシャ帝国と『英国三兄弟の旅J

ンソニーは,エセックス伯爵ロパート@デブロー(SecondEarl of Essex,  Robert Devereux)の従;兄弟にあたるフランシス・ヴァーノン(Frances Vernon)と結婚.この結婚が彼とエセックスを結びつけることとなったと いう.シャーリ一家は経済的に困窮しており,多くの借財を抱えていたばか りか,フランシスとの婚姻は女王の不興を買うこととなった.汚名返上を願 うアンソニーは,ギニア湾におけるポルトガルの定住地を襲撃するため海外 遠征を決行するが,成功をおさめるには至らず,ヴェニスに辿り着いた頃に は,更なる借財を重ねることとなっていた.

そうした兄のもとに末弟のロパートが合流し 1598年二人はベルシャに 向かうこととなる.ジ、ェーン・グローガン(JaneGrogan)は,彼らの旅の 目的を三つ挙げている. ひとつにはペルシャ湾にあるポルトガルの所有地 に攻撃を加えるための計画を練るため,あるいはペルシャ皇帝シャー・アパ ス(ShahAbbas)にオスマン・トルコの勢力を抑え込むことを念頭にキリ スト教固と同盟関係を結ぶことを提案するため,はたまたベルシャとの商取 引に手を染め,東洋からの様々な商品を輸入すること等が考えられるという

(Grogan 152).彼らの旅のルートを考えると,ポルトガルの所有地への攻 撃の可能性は低い.グローガンの考える通り,ベルシャ皇帝へのキリスト教 国同盟の提案はあくまでも大義名分に過ぎず,本音はベルシャとの交易によ る利益獲得であったのかもしれない.残念ながら,彼らの旅の真の目的は未 だ不明のままである.

兄弟はアレッボから陸路アナトリアを通ってベルシャに入札皇帝シャー・

アパスに拝謁することを許された.既に皇帝は,拡大を続けるオスマン・ト ルコ勢力を抑え込もうとする教皇や枢機卿をはじめヨーロッパ各国の国王か

ら,キリスト教国との箪事同盟の締結を繰り返し打診されていた.そうした 意味では,シャーリー兄弟による同盟の提案は,アパスにとって何ら目新し いものではなかった.しかし皇帝の関心はそれ以上に,ベルシャの最大の輸 出品であった絹の交易路の獲得にあったのであろう.ベルシャの絹は当時,

(12)

ペルシャ帝国と『英国三兄弟の旅J 31  ヴェニスやトルコの仲買人を通して,ヨ」ロッパの市場に流れていたので,

仮に中間商人の手を経ることなく,直接ヨーロッパの商人との取引によっ て,市場に商品を届けることができたなら,ベルシャの国庫は一層潤うはず であった.更に,隣国オスマン@トルコとの紛争は,ベルシャの絹の輸出に 大きな障害と成り得る可能性があり, トルコを通過せずにベルシャの製品を ヨーロッパ市場に送り届ける経路を早急に確保しておく必要があったのであ る.シャーリー兄弟の来訪は,そうした意味において,アパスにとっても絶 好の機会であった(Dale12122).

ベルシャでの6ヶ月に及ぶ滞在の後,アンソニーはキリスト教国へ同盟締 結を求めるアパスの外交使節としての任務を背負って旅立ち,弟のロパート は人質のような形でベルシャの地に残されることとなった.アンソニーは,

モスクワ大公国,ポーランドのクラクフ プラハ ローマなどを歴訪した が,彼の外交活動は期待されたほど功を奏することはなく,大した成果をあ げることもできないまま 最終的には各国の諜報活動に携わるようになった と言われる.ベルシャに留め置かれていたロパートもまた,数年後にベル シャの外交使節としてヨーロッパ各地を訪問することとなるが,彼の場合は キリスト教固との軍事同盟よりも,通商条約の締結が主たる目的であった.

アンソニーもロパートも,ベルシャの外交使節という大義名分を掲げていた ものの,その実体はキリスト教諸国の実情を探るために遣わされた,ベル シャ皇帝の間諜に過ぎなかったのかもしれない.

他方,三兄弟の長兄トマスは私掠船活動に携わっていたが,オスマン・ト ルコ側に象捕され,一時コンスタンチノープルの牢獄に繋がれていた.英国 王ジェイムズによる釈放を求める書状のおかげもあって,牢獄から釈放され たトマスは,命からがらロンドンに戻ったものの,本国ではレパント会社の 活動妨害に対する各や逆諜報活動の疑いをかけられ,ロンドン塔への幽聞を 経験することとなる.ょうやくロンドン塔を出ることを許された後も,彼は 多くの借財を抱え,家屋敷を売り払い,なんとか庶民院議員の地位に甘んじ

(13)

32  ペルシャ帝国と『英国三兄弟の旅J

て,三人の兄弟のなかでは唯ひとり英国の地で亡くなった.

様々な歴史的資料から浮かび上がる三兄弟の実像は,英国への愛国心や信 仰心において様々な疑義を抱かせるものがあり,彼らの取り巻きが祭り上げ た英雄像,あるいは彼ら自身が演出して造り出した愛国者的イメージとは,

随分異なるものである.

(2)旅行記の出版

シャーリー兄弟がベルシャに滞在した後,外交使節として,あるいは通商 使節としてヨーロッパ各地を訪れたことから 兄弟の活動に対する様々な記 録が,公文書をはじめ多くの歴史資料のなかに残されている 記録は,兄弟 の活動に対する友人たちによる賞賛から,敵側の人間による誹詩中傷まで,

実に多様である.そうしたなか, 1600年初頭には,シャーリー兄弟自身が その立場を正当化するためか,自ら出版を仕組んだように思われる旅行記の 出版や,彼らの協力者の筆による冒険談の出版が相次いだ.1600年に執筆 者不明の形で世に出た小冊子『サー・アンソニー。シャーリーの旅行の真実 記(ATrue Report of Sir Anthony Sherlies Journey) cj,  1601年にウィリア ム・パリー(WilliamParry)によって出版された『サー・アンソニー−

シャーリーの旅行についての新たなかつ詳細な記述(ANewαnd Lαrge  Discourse of the Trαvels of Sir Anthony Shirley) j,そして1607'.fj三ウィリ

アム・ニクソン(WilliamNixon)によって執筆された『英国の三人兄弟 (The Three English BrothersH等はすべて,シャーリー兄弟の活躍を伝え る書物である.なかでもニクソンによって書かれた『英国の三人兄弟

J

は, ジョン・デイ},ウィリアム・ローリー,ジョージ@ウィルキンズの合作に よる芝居『英国三兄弟の旅』の種本とされた劇のt演のすぐ後にニクソン の書物が出版されていることから,デイー,ローリー,ウイルキンズの三人 は,芝居を書くにあたって,ニクソンの審物の原稿をあらかじめ手に入れて いたと考えられる (ThreeRenαissαnee Trαvel Plαys 8, Parr 18). 

(14)

ペルシャ帝国と『英悶三兄弟の旅J 33 

N胃ディー,口ーリー,ウィルキンズの合作『英国三兄弟の旅』

( 1 )劇のあらすじ

記録によれば,デイー,ローリー,ウイルキンズの合作による『英国三兄 弟の旅 (Trαuelsof Three English Brothers)』の上演は1607年夏である.そ の前々年の1605年には, 1590年代に登;場し評判となつた芝居『トマス.ス トユ一クリ一船長 (Cα:ptαinThomαs Stukely)jの脚本が出版されていた.

アンソニ一@パ」(AnthonyParI

リ一船長

J

は脚本の出版時期に合わせて,再ぴフォーチュン座にかけられた ことが考えられ,『英国三兄弟の旅』はそれに対抗すべくレッド・ブル座で 準備された演目だ、ったのであろうという (ThreeRenαissαnee TαuelPlays  5‑6)積フォーチュン座での興行が,悪名高い海賊の破天荒な生涯を描いた冒 険物語の芝居であったのに対し,『英国三兄弟の旅

J

はキリスト教徒の信仰 の勝利を描いた旅物語の芝居だからである.『英国三兄弟の旅jは翻訳され ておらず,日本ではあまり知られていない作品であるため,すこし詳細に劇 のあらすじを記しておきたい.

*  *  * 

舞台上にシャーリ一三兄弟が登場し,英国に残る長男トマスと別れ,次男 アンソニーと三男ロパートはベルシャへ旅立つ.ベルシャで皇帝との謁見を 許された二人であったが,皇帝は戦場で捕らえた敵の首を切り落とし槍の 先に据えて行進するという残酷な戦いの慣習を模擬戦争の形で二人に見せる

(第I場47‑52行).アンソニーとロパートは,これに対して戦場の捕虜に慈 悲をかけ,捕囚として生きながらえることを許すというキリスト教的な戦闘 のありかたを示し皇帝を感嘆させる(第l場101llO行, 120‑127行).ア ンソニーは皇帝にトルコとの戦に有利なようにと,キリスト教固との同盟を 薦め,皇帝は大いに乗り気になって,アンソニーをベルシャの大使としてキ リスト教国に派遣することとなった(第2場).他方,人質としてベルシャ

(15)

34  ベルシャ帝悶と『英国三兄弟の旅』

に残った三男ロパートは, トルコとベルシャの戦いにおける活躍により名声 を得るばかりか,皇帝の姪の愛情も勝ち取ることとなる(第3場).ベル シャ皇帝の大使として各国を歴訪する次男アンソニーであったが,彼に対す る皇帝の寵愛が気にくわないベルシャの高官ハリベック(Halibeck)たち は,同行した国々でアンソニーに対する妨害を繰り返し,彼は行く先々で 様々な困難に巻き込まれる(第 4, 5場).その頃,長男トマスはキクラデス 諸島の島キーアにおいて勇敢にもトルコとの戦いに臨んだものの,味方の裏 切りにあい, トルコ側の捕虜となってしまった(第6場).偶然にも,自分 の兄が捕虜の身となっていることを知った三男ロパートは,ベルシャ皇帝の 許しも得ないまま,捕虜となっていたトルコの名将20人と兄トマスの交換 を申し入れてしまう(第 7, 8場).旅の途中で偶然にも次男アンソニーと出 逢った英国の道化ケンプとイタリアの道化が知恵比べを披露する幕間狂言が 挿入される(第9場).アンソニーは,ヴ、エニスで強欲なユダヤ入金貸しザ リフの民にはまり,莫大な借金をしたうえ,ベルシャの高官たちの裏工作も あって窮地に陥る(第10場).三男ロパートが皇帝の姪と恋仲であることに 嫉妬した高官たちは,許可も得ず敵側と交渉したロパートの裏切りと姪との 密通を皇帝に暴露する.ロパートの所行に激怒し一時は極刑に処すことも 考えた皇帝であったが,やがて真実が明らかになり,ロパートは無罪放免と なった(第 11場). トルコの捕虜となっていた長男トマスを救出すべく英国 王ジェイムズの親書がトルコ皇帝に届けられ, トマスの釈放が決まる(第 12場).三男ロパートは,ベルシャの賢者に諭され,皇帝にキリスト教教会 の建立を申し出る.皇帝は,ロパートの申し入れを快く受け入れ,教会の建 設を許可するばかりか,ロパートと蛭との聞に生まれた赤子にキリスト教の 洗礼を授けることも認め 自らが名付け親となると言う.外交使節として、派 遣されていた次男アンソニーの無実も明らかとなり,三男ロパートに対する 嫌疑においては裏で糸をヲ|いた高官たちの悪事も露見した(第13場).大団 円となるエピローグの舞台上には擬人化された「名声(Fame)」が登場し

(16)

ベルシャ帝国と『英国三兄弟の旅J 35  魔法の望遠鏡によって,ロンドンのトマス スペインのアンソニー,ベル シャのロパートと,それぞれ幸せに暮らす三兄弟の様子が観客に示され,め で

、fこしとなる.

*  *  * 

三人の兄弟の冒険をひとつの芝居で扱おうとするため,どうしても筋が 錯綜し,場面展開が追いづらくなるという難はあるものの,他の劇の要素 を巧みに組み込んで、,観客の興味を尽きさせないようにと工夫された様子 が窺われる.マーロウのパラパス(Barabas)やシェイクスピアのシャイ ロック(Shylock)を思わせるユダヤ人の金貸しザリフ(Zariph)が登場し たり,サミュエル・ダニエル(SamuelDaniel)の『フイロタス (Philotαs』) (1604/5)のクラテラス(Craterus)を初得とさせる高官ハリベツクやカリ マス(Calimath)が登場したりするのは,こうした工夫によるものであろ う.しかし何より興味深いのは,イスラム教ベルシャとキリスト教国の外交 交渉であり,更には, ミナドイの『トルコとベルシャ戦記』に見られたよう な,対オスマン。トルコ政策を念頭においた第三勢力としてのベルシャの位 置づけである.

(2)イスラム教固とキリスト教国

劇『英国三兄弟の旅』の中では,侵略と拡大を続けるオスマン・トルコ常 国が周辺諸国を恐怖と混乱に陥れる悪の権化として描かれている.呆てしな く膨張する帝国の様子を誇るオスマン・トルコ皇帝の台調は,止まるところ を知らないオスマン・トルコの倣慢と野望を余すことなく表現する.

Greαt Tur・k.Thus like the sun in his meridian pride,  Attended by a regiment of stars, 

Stand we triumphantmongst our pretty kings.  Upon the highest promont of either globe 

(17)

36  ペルシャ帝国と f英国三兄弟の旅』

That heaves his forehead nearest to the clouds  Fix we our foot; and with our eagles wings  Canopy oer three quarters of the world. 

(viii, 1‑7) 

更に,皇帝は続けて,自らを「地上の唯一の王(" thesole god of earth)

J

,「王 のなかの王( Kingof all kings)」,「楽園の統括者( provostof Paradise)

(viii,  17‑18)と喰えるが,同様の表現は,実際に 1606年にオスマン・トル コ皇帝がローマ法王に送った書簡のなかに実際に見出せる.書簡のなかで,

皇帝は自らを「パピロンの擁護者,地上の神, トルコの王,ユダヤの国の 王…そしてキリスト教固に君臨する未来の征服者」と呼んでいるのである (Three Renαissαnee Trαvel Plαys 99).  )剥に描かれたオスマン・トルコ皇 帝の倣慢さは,まさにキリスト教徒たちが想い描く現実世界のオスマン・ト ルコ皇帝の姿に他ならない.劇のなかで オスマン@トルコ皇帝とその支配 は,繰り返し「暴君」(viii,709),および「トルコの専制政治」(xii,98)と 部撤され,舞台上では捕虜に対する残忍な拷問の様子が描かれる(xii,100).  圧政と恐怖による支配こそが,オスマン・トルコ帝国の真の姿なのである.

同じイスラム教徒であっても キリスト教徒と協調できるベルシャに対し て,オスマン・トルコは悪であり,キリスト教国の完全なる「他者」であ る.ベルシャは,このようにオスマン・トルコの負のイメージを一層強調す るための効果的な役割を果たしている.

しかしやはりキリスト教徒からすれば,異教徒に他ならないベルシャを 同胞と見倣すことには抵抗があることも事実であろう.イスラム教ベルシャ とキリスト教国の同盟関係を考える上で,両国の宗教観の違いを,劇『英国 三人兄弟の旅』のなかでどのように描くかは非常に難しい問題である.ベル シャ皇帝がキリスト教という異教の使者を受け入れることについて説得力あ る説明が求められると同時に 観客に異教徒と友好関係を結ぶことの妥当性

(18)

ペルシャ帝国と n1~1主|三兄弟の旅1 37 

を納得させる必要があるからである.この点に関して,劇の第一場で,ベル シャ皇帝がアンソニーに尋ねる「私たちペルシャ人とお前たちの違いは何 か」(i,162)との問いかけは興味深い.問いかけに対してアンソニーはすか さず「至上の神が異なることを除けば,何の違いもございません( None but the greatest,')」(i163)と答える.彼は,イスラム教徒もキリスト教 徒も共に人と呼ばれ,姿形が似ているように肉体も感覚もすべて同じであ

る,と言葉を続ける(164‑71).唯一異なるのはそれぞれの inwardoffices   ( i,  174)すなわち「宗教的しきたり(modeof religious observance)」であ るが,それとて人聞の一生の営みを考えると大きく異なるようには思えな い,と彼は言葉巧みに力説する.

We live and die, suffer calamities, 

Are underlings to sickness, fire, famine, sword.  We all are punished by the same hand and rod,  Our sins are all alike; why not our God? 

(i.177‑80) 

アンソニーがここまで説明したところで 危急の報せをもって伝令が舞台上 に姿を現し二人の会話が中断されるため,皇帝が異なる宗教観に触れて,如 何なる反応をしたかは知る由もない. しかしトルコ軍が反撃に出ょうとして いるとの報告を受けた皇帝は,キリスト教徒にあらためて歓迎の意を表し,

「余は,すべてのキリスト教徒を愛しておる(" ... do I love all Christians.)

(i.190)と口にする.皇帝の発するこの言葉から判断して,おそらくアンソ ニーの説く,たとえ信仰する神は違えどもすべての人間は同じであるとする 説明に皇帝は満足したのであろう.同じく,舞台を観守る観客たちも,イス ラム教とキリスト教の相違を乗り越え,異教徒との相互理解を言葉の上では 納得したと思われる.

(19)

38  ベルシャ帝国と『英国三兄弟の旅』

宗教上の違和感が取り除かれたところで,ベルシャとキリスト教国の問に 結ぼれる同盟がいかに強大な箪を擁するものになるかが,アンソニーの口か ら語られる.「キリスト教固と手を組まれますれば,皇帝は最も高い地位に つく将軍となられ,皇帝の戦では天使たちの援軍があなたをお護りし皇帝 のために戦うこととなりましょう

J

(ii.  168‑70).更に続けて,アンソニーは 天上の神のために,また正義のために戦うキリスト教徒の力強さを誇るので ある.

Then Christian princes join their hands with yours  And sweep their several nations to a heap 

With one desire to number out their men,  Knowing who fight for heaven each soldier  ten,  And every hand is free in shedding blood  Since tis to wash the evil from the good. 

(ii.  18186)

イスラム教ベルシャとキリスト教国同盟によるイスラム教オスマン。トルコ に対する戦いは,オスマン・トルコ帝国という悪の枢軸に対する聖戦とな り,まさにアンソニーの言葉通り,ベルシャ皇帝にとって,「その名に名声 を,そしてその魂に至福を」(ii.188)もたらすものとなるはずで、ある.皇帝 に,誓願の目的をいま一度確認されたアンソニーは,皆の前で高らかに宣言 する.

That you by embassy make league with Christendom  And all the neighbour princes bordering here,  And crave their general aid against the Turk,  Whose grants no doubt of So shall your grace 

(20)

ペルシャ常閣と『英岡三兄弟の旅』

Enlarge your empire living, and being gone  Be called the champion for the holiest one. 

39 

(ii. 241‑46) 

オスマン・トルコ帝国の拡大を阻止しキリスト教諸国の主権を護るために も,ペルシャとキリスト教国の同盟関係は,宗教の相違を乗り越えて結ばれ るべきものなのである アンソニーの主張は,まさに 1590年代における英 国内で巻き起こりつつあったオスマン・トルコ帝国の危険性を訴えるイデオ ロギーと見事に呼応する.それは,オスマン・トルコ帝国対キリスト教国の 対立という国際社会の緊張関係の場に,第三勢力としてのベルシャを引きず り込み,豊穣の固と聡えられた,いにしえの王国ベルシャに,同時代の政治 的役割を担わせようとするものであった.同時に,キリスト教国である英国 の民に,イスラム教ベルシャと同盟を結ぶことの妥当性と必要性を強く訴え かけるものでもあったのである.この意味において,この作品はシャ}リー 兄弟の渡航目的を正当化し彼らの愛国的英雄像を確立するという,非常に プロパガンダ色の強いものであると言わざるをえない.1605年に起こった,

カトリックの陰謀による火薬事件の記憶も覚めやらぬなか,カトリック勢力 への風当たりは強かったが,オスマン・トルコという全キリスト教国の敵に 対する結束を福い上げるプロパガンダは,カトリックとプロテスタントの区 別を超えて,それなりに説得力を持っていた (ThreeRenaissαnee Travel  Plays 10‑11, Niayesh 131). 

v .

ぺルシャのキリスト教化と包摂

共通の敵であるオスマン・トルコ帝国と敵対するため,同盟関係を結ぶペ ルシャ帝国とキリスト教英国であるが,両者の聞に対等の関係は存在し得な い.劇の中では,英国からの使者の言動に驚嘆し英国人に魅了されるベル

(21)

40  ペルシャ帝国と j英国三兄弟の旅j

シャ人の様子が繰り返し描かれているからである.舞台を観守る英国人の優 越感を掻き立てるような台調が,芝居の随所に挿入されていることを蔑ろに することはできない.

劇の前半,初めて日にする英国人アンソニーの姿に,おもわず感嘆のこと ばを漏らす皇帝の様子からもこのことは窺える.「このキリスト教徒は,この 世の者たちとは思えない( Methinksthis Christians more than mortal.)」 (i. 75).ベルシャ皇帝にとって,かつて見たことのない英国人の姿はまさに 天上からの使者とも思える存在である.皇帝が一目で英国人の姿に惹き付け られてしまう様子を,ベルシャの高官ハリベックの台調がことさら強調す る.「皇帝は,既にこいつのことを溺愛しておられる」(i.80).遥か彼方よ りベルシャを訪れたこの異邦人に対する皇帝の寵愛は,側近の者たちの嫉妬 を買うほどのものであることが理解される.続いて,皇帝の御前で披露され た模擬戦闘においても,イスラム教徒ベルシャ人とキリスト教徒英国人の捕 虜への対応の仕方の違いが対照的に捕かれ,神のごときキリスト教徒の慈悲 深さが皇帝の心を揺さぶる.敵の死を確かなものとするため,ペルシャ人が すべての敵兵捕虜の首をはねるのに対して(i.51‑2),キリスト教徒は投降 した敵兵の血を流すことはない.降伏した敵には,「寛大な処置( clemency)」 を施すことがキリスト教徒の流儀だ\とのアンソニーの説明にペルシャ皇帝 は一層驚嘆する.

I more and more doubt thy mortality.  Those tongues do imitate the voice of heaven  When the gods speak in thunder; your honours  And your qualities of war more than human. 

(i. 121‑24) 

こうした両国の戦闘のしきたりの比較は,投降した捕虜の首をはねるという

(22)

ペルシャ帝国と『英国三兄弟の旅』 41  ベルシャの風習を粗野で、野蛮な行為として観る者に訴えかけ,文化的にイス ラム世界が文明国であるキリスト教世界に遥かに遅れていることをいま一度 印象づける.そしてベルシャと英国の慣習の違いに感嘆する皇帝の様子は,

まさに未聞の文明が,キリスト教という,より高度な文明に触れて,開眼さ れ啓蒙される様を描いて,舞台を観守る観客を喜ばせるのである.

シャーリー兄弟は,皇帝ばかりかベルシャの女性たちを,たちまち魅了し てしまうこともまた事実である.皇帝の姪は,侍女に英国から来た兄弟のこ とをそれとなく尋ねる.「本当のことを聞かせて,おまえは英国から来たと いうこ人の兄弟のことをどう思う」(iii,与4).侍女は,質問に隠された女主 人の真意を察しすかさず的をえた応えを返す.「思うに,お嬢様,あのか たたちが見た目のようにl床も良いなら,召し上がっても美味しいお料理だと 思いますよ

J

(iii. 5‑6).胸の内を見透かされた姪は,「キリスト教徒の習慣 や態度のことを尋ねただけなのに」(iii.19)と自らの問いかけの意味を取り 繕うが,彼女がシャーリー兄弟に大いに関心を寄せていることは傍目にも明 らかである.実は姪は,宮廷の高官ハリベックから好意を寄せられており,

度々遣いの者を送られて求愛され続けている.にもかかわらず彼女は,宮廷 の実力者であるハリベックを尻目に,異教徒であり身分も異なる英国人ロ パートの容姿に激しく心惹かれるのである(iii.114‑5). 

更に劇の後半では,ロパートが処刑されたものと思い込み,偽物の首にす がって嘆き悲しむ彼女の姿が描かれる(xi.197‑8).異教の徒であるにもか かわらず,ペルシャの女性は,宗教の相違や身分の違いを乗り越え,なす術 もなく英国男性に心惹かれ,彼を心から愛しその愛は皇帝ですら引き離す ことができない程のものなのである(xi.231‑34).ここでも異文化社会にお ける英国人の優越性が強調されていることは歴然としている.たとえ異国の 地を訪れ,異教徒の社会に身を

i

置こうとも,英国男性はつねに異教社会の女 性の乙女心を,しかも高位の女性の心を易々と射止めることができるのであ る.女性の目からすれば,その社会において,とりわけ地位の高い男性です

(23)

42  ペルシャ帝国と『英国三兄弟の旅』

ら,英国男性に遥かに及ばぬ存在でしかない.

アンソニーやロパートが異国の地で異教徒たちを魅了したように, トルコ の捕囚となった長兄トマスも,その信仰心の篤さでトルコ皇帝を驚かせる.

残忍な拷問でもってイスラム教への改宗を迫るオスマン。トルコ皇帝に, ト マスは「私の名が背教者と呼ばれる前に まず太陽が絶え聞なく輝き続ける その場所から溶け落ちてしまうであろう」(xii.1134)と,如何なる苦痛を 与えられようとも,決して変わることのない篤き信仰を吐露する.その頑な までの信心に,オスマン・トルコ皇帝もおもわず「其方の信仰の篤さには,

余も驚き呆れるばかりである.拷問台からおろし牢へ連行せよ.こやつを どのように扱えば良いのか余も判断がつきかねる」(xii.1224)と口にし,

トマスの処遇に困り果て嘆息する キリスト教徒の篤き信仰心の前に,異教 徒のトルコ人が精神的敗北を味わう様子が,台詞を通して捕かれる.戦場で トルコを撃退したロパートと同じく,たとえ捕囚の身となろうと,決して魂 を売り渡すことのないトマスの姿は,イスラム教支配に対するキリスト教信 仰の完全な勝利を讃えているのである.

キリスト教徒の優越感を掻き立てずにはおかない様々な場面を踏まえなが ら,いよいよ芝居の大詰めでは,あらためてキリスト教信仰の重要性に目覚 めたロパートの,大胆な申し入れがベルシャ皇帝になされる.「私の子にキ リスト教信仰によって洗礼を受けさせ,父の知っている神と同じ神を,この 子に知らせてやりたいと思います」(xiii170‑71) .皇帝の姪との聞にもうけ た子供を受洗させたいという,このあまりにも大胆なキリスト教徒の嘆願に 対する皇帝の応えは驚くべきものである.

Baptize thy child, ourself will aid in it;  Ourself will answer foxagodfather.  In our own arms we11 bear ittheplace  Where it shall receive the complete ceremony. 

(24)

ペルシャ帝国と『英国三兄弟の旅』 43  (xiii, 172‑75) 

ベルシャ皇帝は,自分の血の繋がった子供にキリスト教の洗礼を授けること を許可するだけではなく,自分自身も洗礼式に参列することを申し渡す.思 いがけない皇帝の言葉を耳にしたロパートは,ベルシャ皇帝から帝国内にキ リスト教教会の建立の許可を取り付け,キリスト教の教えに従って教育を授 ける施設の建設までも願い出る.

I would by your permission raise a house  Where Christian children fomtheir cradles  Should know no other education, 

Manners, language nor religion 

Than what by Christians is delivered them. 

(xiii, 187‑91) 

キリスト教徒の,この傍若無人なまでの嘆願に,またしても皇帝は,「其方 の嘆願を審議する会議を招集する必要はない,余は既に承諾した」(xiii. 192‑93)と快く応ずる.

劇は,ベルシャ帝国とキリスト教団が互いに同盟関係を結ぶことの重要性 を訴えながら,その実,キリスト教国である英国人の優越性と信仰の篤さを 誇り,更には,イスラム教ベルシャにキリスト教信仰を伝導するための礎と して,教会堂の建立と教育施設の建設を想、い描くもので、あった.同盟という 名の下に,イスラム教ベルシャはキリスト教に包摂され,回収されることに よって,異教徒との交流に動揺を覚えずにはおれない観客の心に,満足と安 堵感を与えるものとなっているのである シャーリー兄弟は,ベルシャと共 にトルコを撃退しそればかりかキリスト教圏にベルシャを組み入れること に成功した愛国の士であることを高らかに彊い揚げて劇は終わる.この政

(25)

44  ベルシャ帝国と『英国三兄弟の旅J

治・宗教的プロパガンダの要素の強い芝居においては,キリスト教はつねに 異教に対して勝利せねばならず,英国人は異国人からの尊敬と崇拝の的でな ければならないのである.

VI.結び:英国の現実

しかしベルシャにおいて英国人の直面した現実は全く異なるものであっ た.当時の英国は,大陸の西のはずれに位置する島国に過ぎず,大陸の列強 固と肩を並べるどころか,地中海貿易においても主要産物は毛織物しかない という弱小国であったことは否定し難い事実である.それに対してベルシャ 帝国は歴史と文化を誇ると共に,絹の産地であり輸出国として近東に君臨す る大貿易国であった.主な取引先は,ロシア,コーカサス,アルメニア,メ ソポタミア,オスマン・トルコ,そしてヨーロッパであり,各国から多くの 商人が集まった.オスマン・トルコは ベルシャの輸出する絹の中継ぎ貿易 によって,大いに潤ったのであり,オスマンートルコとベルシャの争いも,

絹の輸送経路をめぐる両国の紛争から生じたものでもあったのである (Frank 83).交易の拡大を狙うイタリア人たちは, 1501年にサファビ一朝 が始まる遥か以前からベルシャの宮廷に出入りしており,ローマ法王も東洋 における宣教を目的として,スペイン人やポルトガル人の宣教師を送り込ん でいた.16世紀半ば,エリザベス女王は自国の商人たちの交易を後押しす るために,ベルシャ皇帝に親書を送り届けている.ラテン語と英語の両方で 書かれた親書の中で,女王は交易を行なうことで両国間に利益と繁栄がもた らされることを説き,両国を固い来!とで結ぼうではないかと呼びかけている.

この親書を手渡されたベルシャ皇帝は,果たしてどのような思いで,遥か遠 くの島国の女王から届いた,あたかも両国が対等の関係にあるかのように記 された書状を眺めたであろう.

英国人の話す言語である英語は,地中海貿易に携わる国々において,外

(26)

ペルシャ帝国と『英国三兄弟の旅』 45  交・交易における主要言語とは見なされておらず,ましてや英国の文献が大 陸で翻訳されることなどほとんと守なかった.他方 ベルシャ人たちの話すペ ルシャ諾は中近東の宮廷社会における権威ある言語と見なされ,オスマン・

トルコ帝国の宮廷においても,またムガール帝国の宮廷においても,ペル シャ語は解された.劇中,ペルシャの宮廷を訪れたシャーリー兄弟は,英国 の様子を得々と皇帝に話して聞かせたことになってはいるが,実際には彼ら の英語が通じるはずもなく,皇常と彼らの聞には常に通訳の存在があった.

ベルシャを訪れた英国人たちは ペルシャの宮廷人たちと対話をするにあ たって,常にイタリア人やポルトガル人の通訳に頼らねばならず,交易を行 うにもカトリックの宣教師たちの助けを借りずには,交渉すらままならな かったのである(Grogan17‑20). 

こうした現実があったからこそ余計に英国人は心の中で,ベルシャに対す る対抗意識を燃やしベルシャ人に対する優越感を抱くことを夢見ずにはお れなかった.自らの内にある不安と劣等感は,ベルシャ皇帝の信任を得るこ とによって,そしてベルシャ女性の愛を勝ち取ることによって,更にはベル シャにキリスト教寺院を建立しキリスト教を広めることによって,乗り越え られ克服されるものなのである.他者に対する支配・征服欲の裏には,常に 自らの胸の奥に,決して口にすることのできない不安と劣等感が存在するの である.

大陸におけるオスマン。トルコ帝国の脅威は,英国にも伝えられ,人々の 不安と恐怖を掻き立てた.交易に出た英国の帆船が,オスマン・トルコの船 に掌捕されるようなことがあれば キリスト教徒は割礼を強要され,イスラ ム教徒に改宗させられるという鳴が,実しやかに語られた.しかしオスマ ン・トルコと同じイスラム教固とはいえ オスマン・トルコと敵対するベル シャはキリスト教固から見れば,まさに同盟国であった.この時点で,文学 の中に永々と伝えられて来たベルシャのイメージは一転し,にわかに政治性 を帯びるものとなったのである. しかしイスラム教徒ペルシャ人に表象され

(27)

46  ペルシ吋帝国と『英国三兄弟の旅.!

る,「他者」という如何ともし難い事実をいかに受容し許容するかという問 題は,英国人にとって容易に受け入れ難い問題であった.そうした英国人の 抱える内面の葛藤に,真正面から取り組み,その不安と恐怖を安心と優越感 に書き換えようとする試みこそ,この芝居の意図するところなのである.

『英国三兄弟の旅jは,ロンドンばかりか地方巡業の演目にも選ばれ,英国 各地で上演ーされたという.旅役者たちは,シャーリー兄弟の夢物語を地方の 人 々 に 届 け , 国 際 情 勢 を 知 ら し め る こ と に よ り 少 し ば か り 民 衆 を 啓 蒙 し 彼

らの無邪気な愛国心を掻き立てたのである.

Giovanni Tommaso MinadoiのHistoriαdellαGuerrαfrαTurchi, et Persiαni  をAbrahamHartwellが 英 訳 し た TheHistorie of the Wαr betweene the Turkes  αnd the Persiαns (London: 1595) B3.  STC 437:07.  201561日アクセス(http:// eebo. chadwyck.com) 

チヤード・ウィルソン(RichardWilson)は,アンソニーとロパートの二人が共 にカトリックへの改宗者で、あったこと,またアンソニーがエセックス伯爵と特に親し い関係であったことなどから,密かに伯爵の命を受け エリザ、ベス女王の外交政策を 破綻させる目的で,ペルシャ皇帝アパスに接近したのだと,兄弟のペルシャ訪問を分 析する.しかしそれはあくまでウィルソンの憶測でしかないように恩われる.

Richard Wilson When Golden Time Convents:抗elfthNight and Shakespeares  Eastern Promise.を参P..

The Travels of the Three English Brothers については, ThreeRenαissαnee Trαvel  Plαysに収められたAnthonyParr編注によるテキストを使用することとし以降の 引用では場と行数のみを示すこととする

Parr 67n. 

参考文献

Blow, David. Shαh Abbαs:  The Ruthless King Who Beeαmeαn Irαniαn Legend.  New York: L.B. Tauris, 2009. Print. 

Burton, Jonathan. 

English Brothers and the Global Early Modern." Emissαries in Eαrly Modern  Literαtu reαnd Culture.Mediαtion,Trαnsmission, Trαffic,  1550‑1700. Ed. 

図 I R o b e r t  S h e r l e y  by Van Dyck  P e t w o r t h  H o u s e ,  West S u s s e x ,  1 622 
図 2 T e r e s i a  S h e r l e y ,  a r t i s t  unknown. c .   1617 

参照

関連したドキュメント

限はもっぱらイギリス本国に留保されていた︒この時代︑イギリス本国における強力な反株式会社感情を踏まえた

の商標です。Intel は、米国、およびその他の国々における Intel Corporation の登録商標であり、Core は、Intel Corporation の商標です。Blu-ray Disc

本章では,現在の中国における障害のある人び

Microsoft/Windows/SQL Server は、米国 Microsoft Corporation の、米国およびその

青年団は,日露戦後国家経営の一環として国家指導を受け始め,大正期にかけて国家を支える社会

スキルに国境がないIT系の職種にお いては、英語力のある人材とない人 材の差が大きいので、一定レベル以

Bruno, Arcot, Sridhar and Bruno, Valentina, In Letter but not in Spirit: An Analysis of Corporate Governance in the UK (May 2006). Available at

)から我が国に移入されたものといえる。 von Gierke, Das deutsche Genossenschaftsrecht,