佐藤政権初期の東南アジア外交 : 第1回東南アジア 開発閣僚会議開催過程を中心に
著者 中西 友汰
雑誌名 同志社法學
巻 72
号 6
ページ 1927‑1974
発行年 2021‑01‑31
権利 同志社法學會
URL http://doi.org/10.14988/00028132
佐藤政権初期の東南アジア外交
──第1回東南アジア開発閣僚会議開催過程を中心に──
中 西 友 汰
目次 はじめに
第1章 佐藤政権成立時の東南アジア外交重視路線の形成 第2章 佐藤の東南アジア外交構想の停滞
第3章 第1回東南アジア開発閣僚会議開催 おわりに
はじめに
戦後日本は、戦後初期の段階から東南アジア地域を中国大陸に代わる市場・
資源供給地として確保するため経済外交を展開した。戦後初期の政治指導者 たちは、日本が主に経済分野で東南アジア地域に対して主導権を発揮するこ とを当然視していた1)。しかしながら、太平洋戦争から日が浅いこともあり 東南アジア諸国には対日不信が根強く残っており、日本の主導権発揮は難し い状況であった2)。
1970年代前半に戦後日本は沖縄返還・日中国交正常化を達成し、敗戦によ って失った地位を回復する戦後処理外交を終えた。そこで、1970年代後半に 福田赳夫政権は戦後処理外交とは異なる外交の展開を目指し、福田ドクトリ ンに代表されるような東南アジア外交の経済重視から政治重視への転換を打
1) 吉田茂『回想十年(中)』(中央公論新社、1998年)391頁。原彬久編『岸信介証言録』(中央 公論新社、2014年)448頁。
2) 保城広至『アジア地域主義外交の行方:1952-1966』(木鐸社、2008年)117~119頁。
ち出した。
このような戦後日本の東南アジア外交の潮流の中で、1960年代日本の東南 アジア外交、特に佐藤榮作政権期の東南アジア外交はどのように位置付けら れるのだろうか。池田勇人政権期に日本は
OECD(経済協力開発機構)加盟
とIMF
(国際通貨基金)8条国移行を達成することにより名実ともに経済大 国の地位を獲得した。しかし、池田政権は日本の経済力を外交で十分に活か すことができなかった。「経済成長の果実」を外交政策に反映することがで きたのは佐藤政権になってからであった3)。佐藤政権は池田政権と比較した 場合、国内では経済大国化によるナショナリズムと、国外ではアジア情勢の 緊迫化に向かい合う必要があった。佐藤や彼のブレーン集団であるS
オペ は戦後のナショナリズムを舵取りすることに意欲を持っていた。そして、彼 らは戦後のナショナリズムを重視し、アジア外交ではアメリカとは異なる政 策を追求しなければならないと考えるようになったのである。佐藤は東南アジア外交について、アジアの大国である日本が責任を果たす べき地域と認識していた。そこには、日本の東南アジア外交を市場確保とい った経済利益重視からより政治的な観点を重視する意図が存在していた。背 景には「経済成長の果実」を東南アジア外交で活用し、政治的な役割を発揮 することでアジアの大国として国際社会から認められるという日本の国際地 位向上を目指す考えが存在した。このような佐藤の外交構想が形となったの が第1回東南アジア開発閣僚会議であった。開発閣僚会議は、佐藤が政権初 期から検討してきた東南アジア外交積極化の第一歩と位置づけることができ るのである。
以上の問題関心から、本稿の目的は第1回東南アジア開発閣僚会議開催に 至る政治外交過程から佐藤の東南アジア外交構想を明らかにすることであ る。具体的には本稿において、佐藤という政治指導者の視点を入れることに より、外務省の視点では読み取れない佐藤の東南アジア外交構想における開
3) 波多野澄雄編著『池田・佐藤政権期の日本外交』(ミネルヴァ書房、2004年)3頁。
発閣僚会議の位置づけ、そして、開発閣僚会議に至るまでの政策形成過程に おける佐藤の与えた影響を明らかにすることである。より広い文脈では、佐 藤政権期の東南アジア外交について、戦後日本外交の流れの中で占める位置 を明らかにすることにつながる。
本稿の結論を先取りすると、佐藤政権初期の東南アジア外交は、日本国内 におけるナショナリズムに対する応答、そして、「経済成長の果実」を活か して地域大国として政治問題にも関与を増加させなければならないという佐 藤自身の東南アジア地域への問題関心を背景としていた。結果として、佐藤 政権初期の東南アジア外交は、アジアに新たな外交基盤を作ることにより外 交地平を拡大させることに成功した。そのことから佐藤政権期の東南アジア 外交は福田ドクトリンに至る戦後日本の東南アジア外交の1つの潮流を形成 したといえよう。
先行研究
菅英輝氏は主にアメリカ政府が公開した外交文書を用いて、開発閣僚会議 を分析している。菅氏は、佐藤がベトナム戦争支持の立場に加えて、東南ア ジア地域の政治的経済的安定と日本の安全保障とを関連付けていたとして佐 藤が対米協調を重視する立場から開発閣僚会議を開催したことを示した4)。 鄭敬娥氏は部分的に公開された日本の外交文書と、アメリカの外交文書を用 いて日本の東南アジア外交を分析している。鄭氏は開発閣僚会議について、
外務省が日本の役割分担を意識した対米協調という立場から、佐藤が沖縄返 還交渉の推進という立場から、それぞれ推進したことを明らかにしている5)。 2000年代前半から開発閣僚会議に関する日本の外交文書の公開が大きく進 展したことにより、外務省や政権内部の動向についてより詳細な研究が発表 された。高橋和宏氏は、開発閣僚会議開催に至る過程における外務省とライ
4) 菅英輝「ベトナム戦争と日米安保体制」(『国際政治』第115号、1997年5月)77頁。
5) 鄭敬娥「60年代における日本の東南アジア開発――「東南アジア開発閣僚会議」と「アジア 太平洋圏」構想を中心に」(『国際政治』第126号、2002年2月)117~131頁。
シャワー大使(
Edwin O
.Reischauer
)といったアメリカ政府の動きを中心に 分析することにより、ライシャワーが開発閣僚会議開催に大きな役割を果た したことを明らかにしている6)。保城広至氏と曺良鉉氏は開発閣僚会議開催 過程における外務省の動向を中心に分析している7)。高橋氏と保城氏の研究 は、財政均衡と国内世論の反発を懸念する佐藤と大蔵省が開発閣僚会議の開 催に消極的であったと評価している。曺氏は開発閣僚会議開催について、経 済協力を通じたアジア外交の積極化という政治的動機を外務省が抱いていた ことを明らかにしている8)。さらに野添文彬氏は当時通産大臣であった三木 武夫と財界人が開発閣僚会議の開催の後押したことを明らかにしている9)。 外交文書公開の進展により、一連の研究は開発閣僚会議開催に至る過程を 詳細に明らかにした。しかしながら従来の研究は日本とアメリカの外交文書 を中心に分析を行っているため、日本側の動きは外務省といった省庁レベル の問題関心に注目が集まっており、政権担当者である佐藤の東南アジア外交 構想という点は十分に明らかにされていない。本稿では、佐藤のブレーン集 団であるS
オペに属し、1967年から佐藤の政務担当秘書官を務めた楠田實 の残した史料である楠田實資料を用いて、佐藤の東南アジア外交構想を明ら かにする。楠田資料を用いた評伝的研究として、服部龍二氏は佐藤が政権発足時から アジア外交、特に日韓国交正常化に意欲を持っていたことを指摘している。
しかしながら、服部氏の研究は佐藤政権の外交について沖縄返還への取り組 みに焦点を当てている10)。村井良太氏の研究は、佐藤政権成立前から
S
オペ6) 高橋和宏「「東南アジア経済開発」とヴェトナム戦争をめぐる日米関係(1)」(『筑波法政』第 36号2004年3月)176~194頁。高橋「「東南アジア経済開発」とヴェトナム戦争をめぐる日米 関係(2・完)」(『筑波法政』第37号2004年9月)249~266頁。
7) 保城『アジア地域主義の行方』(木鐸社、2008年)曺良鉉『アジア地域主義とアメリカ―ベト ナム戦争期のアジア太平洋関係』(東京大学出版会、2009年)。
8) 曺『アジア地域主義とアメリカ』157~158頁。
9) 野添文彬「東南アジア開発閣僚会議開催の政治経済過程:佐藤政権期における日本の東南ア ジア外交に関する一考察」(『一橋法学』第8号1巻、2009年3月)61~99頁。
10) 服部龍二『佐藤栄作――最長不倒政権への道』(朝日新聞出版、2017年)。
が、新しい外交方針としてアジア外交の積極化に言及していたことを明らか にしている。また、佐藤がベトナム戦争への関与に慎重な態度を維持しなが らも、日韓国交正常化後にアジア外交の積極化に傾いたことを明らかにして いる11)。しかし一連の評伝的研究は、佐藤の東南アジア地域に対する関心の 内実を十分に明らかにしていない。また佐藤は日中関係の悪化、日韓国交正 常化の達成、沖縄返還の早期達成が難しい状況を受けて、次の外交目標とし て東南アジア外交を積極的に展開していることから、佐藤の外交目標の変遷 や国内政治との関連を明らかにする必要がある。
本稿の意義は第1に佐藤政権期の日本外交全体の中で東南アジア外交に与 えられた役割を明らかにすることにより、沖縄返還交渉という戦後処理外交 とは異なる佐藤政権期の日本外交像を提供することである。第2に東南アジ ア外交に対する佐藤の関心を明らかにすることにより、従来の研究では十分 に明らかにされていなかった政治指導者レベルの東南アジア地域への関心を 解明することである。
本稿の分析視角は、第1に佐藤と
S
オペの東南アジア外交に対する認識 に焦点を当てる。従来の研究では、日米の外交文書を用いて分析を行ってい るため、佐藤の東南アジア外交構想について明らかにされていない。本研究 は日米の外交文書に加えて楠田實資料を用いることで、この点を明らかにす る。第2に日本の国内世論や国内政治が佐藤政権の東南アジア外交に与えた影 響を踏まえて分析する。このことにより、佐藤や
S
オペが世論を考慮に入 れて、東南アジア外交構想を検討したことを明らかにする。本稿の展開を簡潔に説明する。本稿は開発閣僚会議開催に至る過程につい て、第1章で佐藤政権成立前から1965年1月の佐藤訪米までを扱う。第1章 では政権発足当初の佐藤や
S
オペの東南アジア外交に関する意欲が政権当 初の東南アジア外交の積極姿勢につながる過程を描く。第2章では1965年411) 村井良太『佐藤栄作――戦後日本の政治指導者』(中央公論新社、2019年)。
月のジョンソン構想の発表から同年11月の日韓国会までを扱う。同年4月に ジョンソン構想が発表され、佐藤がジョンソン構想に賛成しつつも、ジョン ソン政権のベトナム政策に対する国内世論の批判や日韓基本条約の批准を優 先する中で、東南アジア外交の積極化に慎重な姿勢を維持したことを明らか にする。第3章では日韓基本条約の国会批准を終えた1965年12月から1966年 4月の第1回東南アジア開発閣僚会議までを扱う。この時期、佐藤は徐々に 東南アジア外交に対して積極的な姿勢に転じる。また
S
オペや外務省は日 韓基本条約の国会批准が通過したことを受けて、次の外交目標を検討し始め ていた。日本国内および国外の状況が変化する中で、佐藤が東南アジア外交 を積極的に展開する方針へと変化した過程を明らかにする。なお本稿では、史資料として、楠田實資料、外務省文書といった日本側史 料、アメリカ国務省文書といったアメリカ側史料に加えて、当事者・関係者 の日記、回想録、オーラルヒストリー、新聞、雑誌などを用いる。
第1章 佐藤政権成立時の東南アジア外交重視路線の形成
⑴ 政権成立前の佐藤の東南アジア外交構想
佐藤は首相就任前から東南アジア外交に関与する機会があった。池田政権 期に佐藤は通産大臣として援助問題に関与していた。佐藤は1961年の第1回 日米貿易経済合同委員会に通産大臣として出席し、日米間の貿易問題を主た る問題として議論する一方で、東南アジア地域に対する経済援助についても アメリカ側と議論を交えていた12)。また翌1962年9月から佐藤は45日間にわ たる欧米諸国外遊を行った。佐藤は訪米した際、ケネディ大統領(
John F
.Kennedy
)と会談した。この会談で佐藤は「先進国の後進国に対する責務」をケネディ大統領に力説していた13)。佐藤は首相就任前から経済援助により
12) 『朝日新聞』(1961年11月3日朝刊)2頁。
13) 佐藤榮作『今日は明日の前日』(フェイス、1964年6月20日)271~272頁。
途上国の安定が達成できるという考えを持っていたのである。
1963年12月24日に産経新聞政治部デスクの楠田實が佐藤の自宅を訪れ、佐 藤と会談した。その際に楠田は総裁選に言及し、政策立案への協力を申し出 て、佐藤の了承を得た。そして、このブレーン集団を「佐藤オペレーション」、
略して
S
オペと称することになった14)。S
オペは1964年1月15日に東京の東 京グランド・ホテル414号室で作業を始めた。メンバーは、楠田のほかに、笹川武男(産経新聞)、麓邦明(共同通信)、千田恒(産経新聞)といった新 聞記者、佐藤の通産相時代の秘書官であった山下英明、佐藤派の衆議院議員 の愛知揆一であった15)。佐藤は池田と政権禅譲をめぐる交渉が失敗したため、
同年7月に自民党総裁選に出馬した。
S
オペは同年4月から政策の検討作業 を開始していた。総裁選に向けた政策検討作業においてS
オペは外交問題 について中国問題を中心に検討していた16)。一方でS
オペは中国以外のアジ ア地域に対する関与のあり方についても検討していた。S
オペはアジア外交 について「日本はアジアの一員、世界の緊張がアジアに集約されている、軍 事協力はしない」と考えていた17)。同年5月20日にS
オペは「私はこう考え る(第2次案)」を作成した。同文書では外交の基本姿勢の1つとしてアジ ア外交に重点を置くことが含まれていた18)。さらに「私の政治理念」という 総裁選挙初期に作成された文書において、「アジアの平和への道は、アジア の貧困とのたたかいである」として日本にとってアジアの平和は「今後の外 交の最大の課題」と位置付けていた19)。S
オペは東南アジア外交の積極的な 展開を求めつつも、アメリカのベトナム政策とは距離を取るという考えを持 っていた。またS
オペはこの考えを政権発足後も持ち続け、佐藤に影響を 与えたのである。14) 楠田實『首席秘書官――佐藤総理との10年間』(文藝春秋、1975年)24~28頁。
15) 千田恒『佐藤内閣回想』(中央公論社、1987年)104~105頁。村井『佐藤栄作』123頁。
16) 千田『佐藤内閣回想』121頁。村井『佐藤栄作』125~128頁。
17) 「ノート「政策案」」(「楠田實資料」1964年4月26日)E-1-169。
18) 「私はこう考える――第二次案」(「楠田實資料」1964年5月20日)E-2-122。
19) 「“わたくしの政治理念”」(「楠田實資料」1964年6月26日)E-2-4。
同年7月の自民党総裁選で公開された佐藤の政権構想である「明日へのた たかい――未来からの呼びかけにこたえて」作成の検討作業では、今後の日 本外交が自主外交と平和共存外交を掲げるべきであると考えられていた。検 討作業時に作成されたメモでは、日本の国際的地位が経済力と共に向上した ことにより、今後は小さい視野で自国の利益だけを追求するのではなく、国 際協調が重要であると主張した。その上で、日本の使命は、アジアから貧困 を撲滅する戦いに最大限の努力をすること、そして、中国を国際社会に入れ て平和共存へと導くことであると主張した20)。自主外交を実践する場として アジア外交が選択された理由は、日本の経済力の向上により地域の指導的役 割を担う必要があること、そして、アメリカのベトナム政策とは異なるアプ ローチを取る必要があること、という2点であった。
佐藤と
S
オペはアジア外交を日本の外交課題の1つとして考えていた。この時期検討されていたアジア外交に対するアプローチは、日本の経済力を 用いてアジア地域の安定に寄与することであった。すなわち池田政権時には 十分に活かすことができなかった経済力という「経済成長の果実」を佐藤政 権では活用しようとしたのである。
⑵ 政権成立時の佐藤の東南アジア外交構想
S
オペは1964年11月10日の政権発足初の記者会見に向けた検討作業を行っ た際、今後の日本外交の方針として自主外交を打ち出すことが必要であると 考えていた。その理由についてS
オペは、第1に世界経済に占める日本の 国際的地位が重大なものとなっているにもかかわらず、「世界政治のなかで の、日本の地位や発言は不当に低いものだ」として「政治的ボイス」を大き くする段階にきていること、第2に日本がアジアの先進国という立場から経 済的利益の追求だけでなく「アジアの平和民生安定」を考える段階にきてい ること、第3に通商上の不利益をアメリカから受けていることに対して「自20) 「自主外交とは…」(「楠田實資料」1964年)E-2-107。
信と勇気」をもって交渉する必要があること、といった点を挙げていた21)。
S
オペが日本外交の基本方針に自主外交を定めた背景には、国内で高まるナ ショナリズムを穏健な方向へ導く必要と、池田政権と異なり経済力をより積 極的に外交資源として活用するという問題意識があったのである。
S
オペは日本外交の基本方針を踏まえ、東南アジア地域に対する日本の役 割について「アジア諸国の民生安定に協力し、アジアの平和を乱す原因とな っている各国の政情不安を解消していくよう努力」することであると考えた。このような
S
オペの考えの背景には「東南アジアは日本にとって、アジア の平和を守る点からも、貿易市場としてもきわめて重要」であると位置づけ ていたことが存在していた22)。このS
オペの自主外交という方針は東南アジ ア外交において、アメリカのベトナム政策とは異なる外交の追求に結実して いくのである。同年11月10日、池田の病気退陣により佐藤が首相に就任した。佐藤は午前 9時半から政権発足初の記者会見を開いた。記者会見で佐藤は、中国問題と 日韓国交正常化が佐藤政権に課せられた最大の使命であると主張した。さら に佐藤は、池田政権期よりもアジア外交について経済利益に基づく関与から 日本の安全保障や国際社会における地位向上といった政治的な目的を持った 関与に移るべきであると主張した23)。佐藤の中国問題と日韓国交正常化に対 する熱意は世論の注目を浴びた24)。佐藤と
S
オペは、日本の国際社会におけ る地位を国力に相応しいものにしなければならないという問題意識を共有し ており、彼らは東南アジア外交を通じて国際社会における影響力を獲得する ことに意欲を見せていたのである。佐藤の記者会見について朝日新聞は「国際社会におけるわが国の政治的発 言を強めたいとした点」に注目していた。池田政権期に日本の国際的地位が 高まった一方で、池田政権には「軍縮あるいは中国問題を焦点とするアジア
21) 「記者会見(第一次案)」(「楠田實資料」1964年11月7日)E-1-172。
22) 同上。
23) 『朝日新聞』(1964年11月10日夕刊)1頁。
24) 『毎日新聞』(1964年11月10日朝刊)2頁。
の緊張緩和についての自主的な外交」が欠けており、「漫然たる対米依存」
が存在していたと批判し、アジア外交に意欲を示す佐藤の発言を評価してい た25)。そして、佐藤が日韓国交正常化交渉の積極的打開が強く打ち出すこと により、池田外交を継承する一方で、今後の外交方針について佐藤政権の独 自色を盛り込もうとしていると報じた26)。読売新聞は佐藤政権がアジア外交 や経済外交といった分野で自主外交を打ち出すことにより、今後外交面で経 済利益重視から政治重視に移行すると考えていた27)。毎日新聞は池田政権の 政策が経済重視であり、政策理念が不十分であると指摘した。そして、池田 外交が経済外交以外に「外交らしい外交をなしえないまま終わった」として、
後継の佐藤政権に自主外交の展開を期待した28)。さらに佐藤が経済協力の分 野でアジア唯一の先進国として振る舞うことに対する東南アジア諸国の期待 が高まっていると主張した29)。佐藤は初閣議で談話を了承し、公表した。こ の談話は内外の諸懸案という項目で、日韓問題、中国問題を中心とする外交 政策の樹立への意欲を掲げ、また「これからの日本の役割は、世界の福祉の 実現のため欧米先進諸国と協力しつつ、南北問題の解決、とくにアジアの民 生安定をめざすことにある」とアジア外交への意欲を主張した30)。佐藤は、
日韓国交正常化交渉と中国問題が直面している課題と主張する一方で、東南 アジアを含むアジア問題全般について、池田政権よりも積極的に関与する姿 勢を明らかにした。佐藤は、経済重視の池田外交からより政治的関与を強め る方向に外交を転換させようとしていたのである31)。
佐藤は東南アジア外交の転換について世論にアピールするだけでなく、実 際に行動し始めた。同年11月11日午後1時から佐藤は椎名悦三郎外相ら閣僚 を招き、池田政権の方針について説明を受け、今後の新内閣の政治、経済、
25) 『朝日新聞』(1964年11月11日朝刊)2頁。
26) 『朝日新聞』(1964年11月16日朝刊)1頁。
27) 『読売新聞』(1964年11月11日朝刊)1頁。
28) 『毎日新聞』(1964年11月10日朝刊)5頁。
29) 『毎日新聞』(1964年11月12日朝刊)5頁。
30) 『朝日新聞』(1964年11月10日朝刊)1頁。
31) 『朝日新聞』(1964年11月10日夕刊)2頁。『朝日新聞』(1964年11月11日朝刊)2頁。
外交政策について検討した。この時佐藤は椎名に経済、外交政策全般にわた り佐藤路線という独自色を打ち出すことに意欲的な構えを見せていた32)。同 年11月14日に佐藤は椎名や黄田多喜男外務事務次官ら外務省首脳陣と会談し た33)。佐藤はこの会談で国際情勢や外交問題について説明を受けた上で、佐 藤外交の展開の基礎固めを行おうとしていた。一方で外務省は「日本の外交 方針を急速に転換する時期ではないことを首相に強調」する方針であった。
また、佐藤が10日の記者会見で触れた国際的発言力の強化について、具体的 な方法について佐藤から聞き出すことを外務省は考えていた34)。外務省はこ の会談で事前に作成した援助政策の基本構想を提示した。一方で佐藤は「わ が国の経済力も先進国並みになった現在、国力に応じて低開発国援助を強化 すべきだ」と発言した上で、援助政策の重点をアジア地域と、日本の輸出超 過となっている低開発国に向けるとともに、援助条件の緩和をはかるなど援 助強化の具体化を外務省に指示した35)。同年11月18日に佐藤は再び椎名や黄 田ら外務省首脳陣と会談した。この会談では東南アジア外交を中心に1時間 意見交換がなされた。佐藤はこの会談で、日本の安全保障および自由と平和 の確立という観点から東南アジア外交を最重点施策として取り上げることを 主張した。佐藤は、日本の東南アジア外交の強化が経済利益だけでなく、日 本の安全保障という観点から重要であると主張し、椎名の同意を求めた。椎 名は佐藤の意見に同意し、東南アジア地域に対する経済協力を経済的観点だ けでなく政治的観点を含めていくと応じた36)。佐藤は外務省首脳陣との会談 後に行われた記者会見で訪米やアジア外交について語った。佐藤は「アジア 外交について、外務省当局は低開発国援助などに熱心だが、とかく東南アジ アを市場として捉えている。しかし、国際緊張がアジアに集約されている現 状から、私は、自由を守り平和を確立するという見地から低開発国援助も進
32) 『朝日新聞』(1964年11月11日夕刊)1頁。
33) 『毎日新聞』(1964年11月14日朝刊)2頁。
34) 『朝日新聞』(1964年11月14日朝刊)1頁。
35) 『朝日新聞』(1964年11月15日朝刊)1頁。
36) 『毎日新聞』(1964年11月19日朝刊)1頁。
めてゆかねばならぬと考えている」と述べ、経済的利益よりも政治的目的か ら東南アジア外交への意欲を示したのである37)。また、この記者会見で佐藤 は自身と外務省との間で東南アジア外交について認識の違いが存在している ことを隠さず、自身の方が外務省より積極的な立場であることをアピールし たのである38)。
同年11月18日の佐藤と椎名、外務省幹部との会談そして記者会見での佐藤 の発言から、佐藤が従来の経済重視の方向から、地域の安定への貢献といっ た政治的な目的を重視する方向に日本の東南アジア外交を変化させる必要を 認識していたといえよう。佐藤はまた、ニクソン元副大統領(
Richard M
.Nixon
)と会談した際、日本の国際社会における影響力が小さいことについて問題意識を抱いていると発言した上で、「東南アジアに当面の国際緊張が 集約されているように思うが、日本はこの地域での自由と平和の防衛のみな らず、この地域の経済的市場としての重要性も考えねばならない立場」であ り、アメリカの助力を得ながら関与する意欲を表明した39)。佐藤が具体的な アメリカの助力として利子平衡税の適用除外を挙げていることから、アメリ カの経済的な支援を受けながら、日本が東南アジア地域に政治的な関与を深 める方針を明らかにしたと評価できる。佐藤は、ニクソンにも経済的利益に とどまらない政治的な意味合いの強い東南アジア外交を拡大させる方針を示 した。その背景にはアジア地域における指導的役割を果たすことにより、経 済力に相応しい政治的影響力を獲得するという問題意識が存在したのである。
同年11月21日に行われた佐藤の所信表明演説は、外交政策について、平和 と自由を守り、自主外交と世界の福祉向上を基本姿勢として打ち出した。そ の上で、佐藤は具体的な外交政策に言及し、中国問題について池田政権の政 経分離の基本方針を維持する一方で、東南アジア外交では、経済発展をなし
37) 『朝日新聞』(1964年11月19日朝刊)1頁。
38) 『毎日新聞』(1964年11月19日朝刊)1頁。
39) 「佐藤総理・ニクソン元副大統領会談録(昭和39年11月18日)」(「日米要人会談」、請求番号 2018-00170)。
遂げた日本が東南アジア地域に対して政治的安定と経済的繁栄に寄与すべき 責任が重くのしかかっていること、そして、日本の責任を自覚して友好関係 を発展させ、経済技術協力を重点的に推進すること、という2点を主張し た40)。
佐藤の所信表明演説について、朝日新聞は自主外交という基本姿勢を打ち 出したこと、外交問題の中で中国問題を最初に取り上げ、最も多い時間を割 いたことに注目した。さらにアジア外交では積極的な佐藤色を滲ませたいと いう意欲が出ており、これらは今後の外交路線を示唆すると報じた41)。毎日 新聞は、佐藤の所信表明演説について、日本がアジア諸国に政治的安定や経 済発展をもたらす重い責任があると表明したことを評価していた42)。読売新 聞は佐藤の主張した自主外交に注目し、今後、アジア外交や経済外交におい て自主外交を展開すると予想していた43)。新聞論調はアジア外交が佐藤の自 主外交の実践の場となることを予想していた。特に中国問題において、佐藤 政権がアメリカと異なる政策を追求することを期待していたのである。
この時期の
S
オペの検討作業では中長期的な日本の中国政策の転換につ いても検討されていた。しかしながら、親台湾派の存在といった自民党の党 内事情もあり佐藤は中国政策の転換に慎重な態度であった44)。佐藤が同年11 月21日の所信表明演説において政経分離を基本とする池田政権の路線の維持 を表明したことからも伺える。中国問題に対する姿勢は佐藤とS
オペとの 間で差異が生じていた。その一方で、東南アジア外交について、佐藤とS
オ ペとの間で差異は生じておらず、両者とも、日本の経済力を用いて地域の安 定に寄与するという地域における指導的役割を果たすことに意欲を持ってい たのである。40) 『朝日新聞』(1964年11月21日夕刊)1頁。
41) 『朝日新聞』(1964年11月22日朝刊)2頁。
42) 『毎日新聞』(1964年11月22日朝刊)5頁。
43) 『読売新聞』(1964年11月22日朝刊)1頁。
44) 井上正也『日中国交正常化の政治史』(名古屋大学出版会、2010年)304~309頁。
⑶ 佐藤訪米
政権発足後、
S
オペ内部で佐藤訪米の時期や目的が検討され始めていた。S
オペは、佐藤の訪米時期について1月上旬から中旬の早い時期を提言した。S
オペが1965年1月の佐藤訪米を提言した主な理由は、ジョンソン政権が年 頭教書を作成する前に訪米することで、日本の意見をジョンソン政権の外交 政策に影響を与えることができると考えていたからであった。またS
オペ は1964年12月の椎名・ラスク会談が期待できないことから、佐藤自身が訪米 する意義が高いと考えていた45)。S
オペ内部で椎名に対する信頼が低かった と考えられる。外務省から出向して佐藤の秘書官を務めていた本野盛幸も佐 藤外交は佐藤が椎名や三木といった外務大臣に任せず自らが主導権を握るス タイルであったと証言していることから、外交において佐藤が自身で主導権 を握ることを好んだといえよう46)。訪米における佐藤の基本姿勢について
S
オペは、「米国と対立し、戦う姿勢」であると主張した。その一方で佐藤外交を訪米後、アジアの平和と自由を守 る力強いものにするため、日米関係を強化することを提言した。中国、沖縄、
ベトナム、経済関係といった日米の利害が衝突する問題について、
S
オペは「アジアの新しいナショナリスト」である佐藤が時代の要請と日本の要請と に真剣に応える必要があること、そして、日米の意見の相違を正面に出すこ とが1965年のテーマであることを提言した47)。また
S
オペは佐藤政権の東南 アジア外交について、南ベトナムへの関与を避けつつ、東南アジア地域に対 して非軍事協力を実施することにより地域の安定を達成すること、地域への 政治的な関与を積極化すること、という2点を提言していた48)。S
オペの共 通認識は、ベトナム戦争がアメリカの失敗で終わるというものであり、その45) 「首相の1月上旬訪米について(第1次報告)」(「楠田實資料」、1964年11月)E-1-66。
46) C・O・E・オーラル・政策研究プロジェクト『本野盛幸オーラルヒストリー』(政策研究大 学院大学、2005年)123頁。
47) 「首相の1月上旬訪米について(第1次報告)」(「楠田實資料」、1964年11月)E-1-66。
48) 「多忙なスケジュールの今度の総理訪米…」(「楠田實資料」1965年1月)E-1-72。
ため、佐藤に対してベトナム戦争への直接的な協力を避けるよう求めていた のである49)。
この時期、国務省は、佐藤訪米の主な目的が日本国内における佐藤政権の 評価を向上させること、そして、東南アジアや共産圏に対するジョンソンの 評価を知ることであると予測していた。また国務省は、佐藤がアジアにおい て日本の自主的な役割を拡大させるつもりであると評価していた50)。さらに 国務省は、佐藤が東南アジア外交や日韓国交正常化交渉において主導権を発 揮すると考えていた。国務省は、佐藤政権の外交姿勢について、日本国内で 高まるナショナリズムを反映していると評価していたのである51)。
佐藤は政権を維持するために、国内におけるナショナリズムに応じて外交 政策で池田政権との違いを鮮明にする必要があった。佐藤や
S
オペは国内 で経済成長に伴いナショナリズムが高まっていると認識していた。また佐藤 自身も国内で高まるナショナリズムを肯定的に捉えており、日本国内で高ま るナショナリズムへの対応とそれに伴う佐藤外交の確立という2点を打ち出 す必要性を意識していた。実際に1965年1月1日に佐藤は朝日新聞のインタ ビューにおいて、「アジアについて、日本は平和の維持と政局の安定を心か ら望んでいる。(中略)米国が主役を演じ、同時に日本がアジアに位(原文 ママ)しているその地位から、日本が主役を演じなければならない問題があ る」と述べていた。さらに池田外交に言及し、佐藤は「池田内閣は自由主義 諸国の三本柱といったが、たしかに経済力では大きな柱になっていると思う が、国際政治についてのわが国のボイス(発言)(原文ママ)というものも、三本の柱にふさわしいものであってほしい」と批判した。このことから佐藤 がナショナリズムへの対応と佐藤外交の確立という問題意識を持っていたこ とを裏付けることができる52)。
49) 千田『佐藤内閣回想』121頁。
50) Memo, “Your Meeting with Prime Minister Sato,” January 9, 1965, Digital National Security Archives (hereafter cited as DNSA), JU00430.
51) From Thomas L. Hughes to Rusk “Sato’s Visit and His Regime,” DNSA, JU00424.
52) 『朝日新聞』(1965年1月1日朝刊)2頁。
佐藤訪米を受けて国務省は日本と東南アジア地域との関係について分析を 行っていた。国務省は佐藤政権が東南アジア外交を再検討しており、1964年 12月の椎名・ラスク会談から、東南アジア地域を市場として捉えるだけでな く政治的意味を持つ経済的文化的紐帯を発展させると予想した。しかしなが ら、国務省は東南アジア地域における日本の役割は複数の要因によって制限 されていると認識していた。1つ目の要因は日本の世論、政党、政府が東南 アジア地域における日本の戦略的利害を相対的に低いと見なす傾向にあるこ と、2つ目の要因は日本の世論が南ベトナムをはじめとする東南アジア諸国 におけるアメリカの反共政策の軍事的側面への日本の巻き込まれに反対して いることであった。2つ目の要因について、国務省は自民党や政府部内でさ え、アメリカの東南アジア政策の将来やアメリカの東南アジア政策への過度 な関与によって日本が抱える長期的なリスクに深い懸念を抱いていると認識 していた53)。国務省は佐藤政権に対して東南アジア外交の積極的な展開に期 待していた。具体的には中国の影響力が東南アジア地域に拡大することを阻 止するという政治的な観点から、佐藤政権が東南アジア諸国に経済協力を展 開することを期待していたのである54)。
1965年1月上旬に佐藤は訪米し、ジョンソンと首脳会談を行った。首脳会 談で佐藤はマレーシア紛争について日本の今後の関与を表明するなど、南ベ トナムにとどまらない東南アジア外交への意欲をジョンソンに示した。ジョ ンソンは日本の東南アジア外交の積極化を歓迎しつつも、彼にとってはベト ナム政策に対する日本のより一層の支援の獲得がより重要であった55)。しか し、佐藤はアメリカの東南アジア政策に対して「モラル・サポート」以上の 具体的な支援を行うことを約束しながらも、すでに決定していた南ベトナム
53) Background Paper, “Visit of Prime Minister Sato,” January 11-14, 1965, (『日米関係資料集』(東 京大学出版会、1999年))616~617頁。
54) Talking Paper, “Asian Situation and the Position of Japan,” December 29, 1964, DNSA, JU00385.
55) Memorandum of Conversation, January 12, 1965, Foreign Relations of The United States
(hereafter cited as FRUS), 1964-1968, Volume XXIX, Part2(United States Government Printing Office,2006), pp.66~74.
とラオスに対する非軍事援助以外の具体的な政策を提示しなかった56)。佐藤 は訪米について、「すべて話はとんとん」と進み、「概して成功なりと各面の 批評よろしい」と満足していた57)。
Sオペは佐藤の訪米前から中国問題を含むアジア外交の積極的な展開を提 言していた。佐藤の東南アジア外交について、
S
オペは南ベトナムに対して は医療援助にとどめる一方で、インドネシアやタイといった東南アジア諸国 との政治的経済的な協力関係を構築し、地域の安定に大きな役割を果たすこ とを提言していた58)。S
オペは経済援助による地域の安定を目指すだけでな く「佐藤カラー」の東南アジア外交は、「時をみて、政治的アクションを起 こすこと」であると主張した。南ベトナムへの佐藤政権の関与については「医 療援助以外、なんら打つ手をもっていないし、またもつべきではない」とし て、ベトナム戦争に佐藤政権が協力することに反対していた59)。その一方で、S
オペは南ベトナム以外の東南アジア諸国に対して非軍事面の協力を行うこ とで、ジョンソン政権からの理解を得ようとした。S
オペはアメリカのベト ナム政策に違和感を抱いており、日本はアメリカとは異なる政策を追求する 必要があると考えていた。S
オペはアジア唯一の先進国である日本がアジア 外交でアメリカに追随することへの違和感を抱いていたのである。同年1月18日に椎名は朝日新聞のインタビューに応じ、「アジア外交のス ローガンを考えることはしないが西欧の合理主義とアジアの民族主義の高ま りの双方を理解できる日本の立場を十分に生かしながら外交政策を推し進め る」方針であると述べ、また「経済外交も安全保障あってのことだから、安 全保障を基調として、商売を度外視した平和建設の協力もやっていこう」と 述べた60)。佐藤が政権発足時に指示した内容は椎名ら外務省首脳陣に受容さ
56) Schaller, Michael, Altered States: The United States and Japan Since the Occupation,
(Oxford University Press, 1997)p.189.
57) 佐藤榮作(伊藤隆監修)『佐藤榮作日記第2巻』(朝日新聞社、1998年)1965年1月12日の項。
58) 「多忙なスケジュールの今度の総理訪米…」(「楠田實資料」1965年1月)E-1-72。
59) 「マレイシア紛争をめぐる日本の役割についての提案」(「楠田實資料」1965年1月23日)
E-1-164。
60) 『朝日新聞』(1965年1月18日朝刊)1頁。
れていたのである。
帰国した佐藤は訪米の成果と東南アジア外交への意欲とを繰り返し主張し た。1965年1月20日に佐藤は記者会見において、東南アジア外交の基本路線 として、東南アジアに対する経済協力、民生安定のための協力を積極的に行 い、平和国家として日本の国際的発言力を高めることを表明した61)。同年1 月25日に佐藤は、施政方針演説を行った際に、東南アジア諸国訪問に意欲を みせた62)。このことから、就任後一貫して佐藤が日本の「東南アジアへの
“使
命と責任”を強調」し、東南アジア外交重視を打ち出していると評価され た63)。佐藤は同年2月11日に日米協会において演説を行った際にも、訪米の 成果を強調した。佐藤は「アジアでただ一つの工業先進国として、アジアの 平和と安定のため独自の貢献」をすることを主張し、さらに今回の訪米によ り「日本が単に米国のよき理解者であるという地位に止まらず、みずからの 判断に基づいて、アジアの安定と繁栄、ひいては世界平和のため、その地位 と力にふさわしい役割を果たすことが、今や米国自身の希望であり、期待で もあること」が確認できたと述べた64)。佐藤はアメリカが日本に自主的で積 極的な外交の展開を期待していると主張したのである65)。同年2月15日に佐 藤は外国人記者との昼食会に出席し、日本が直接利害関係を有していない問 題について「応分の力をかす余裕がようやく備わってきたのである。今や日 本は国際社会に対しその分に応じた貢献をするだけの体力を回復した」こと から、アジアでの経済開発や紛争解決に貢献することを主張した。また「経 済開発を通じてアジアの連帯感の強化に貢献する」と述べ、日本がその役割 を担うことに積極的な姿勢であった66)。この訪米後の佐藤の一連の演説から61) 『朝日新聞』(1965年1月20日夕刊)1頁。
62) 『朝日新聞』(1965年1月25日夕刊)1頁。
63) 『朝日新聞』(1965年1月26日朝刊)2頁。
64) 『朝日新聞』(1965年2月11日夕刊)3頁。
65) 社団法人日米協会編/五百旗頭真・久保文明・佐々木卓也・簑原俊洋監修『もう一つの日米 交流史――日米協会資料で読む20世紀』(中央公論新社、2012年)220~221頁。
66) 『朝日新聞』(1965年2月15日夕刊)1頁。
読み取れることは、佐藤が東南アジア地域の安定に日本が貢献することによ り、日本の国際社会における発言力を高めることを考えていたことである。
また、佐藤は国内世論が求める自主外交と対米協調が両立し得ると考えてい た。日本がその地位にふさわしい役割を果たすことが、アメリカの期待であ ると主張していることからもうかがえる。この考えは、日米関係を基調とし つつ、各国との外交関係を積極的に展開する福田政権の「全方位外交」に通 じる考えと評価できる。
朝日新聞は日本がアジア外交を積極的に展開しなければならない段階に来 ており、自主外交は日本がアジア地域において指導的役割を担うことに繋が ると捉えていた67)。新聞論調は、日本が経済大国となったことで、アジアで 指導的役割を担う必要があると主張した。つまり、国内のナショナリズムの 高まりはアジア地域への関与を求める国内世論を形成したのである。佐藤も 日本がアジアの指導的役割を担う段階にきていると考え、アジア外交への意 欲を示したのである。
しかし、その後ベトナム戦争が激化し始めると、佐藤は国内のベトナム反 戦運動の盛り上がりに直面し、また池田政権から受け継いだ懸案である日韓 国交正常化を優先する立場から、東南アジア外交の展開に積極的な立場から、
慎重な立場に転じたのであった。1965年12月に日韓国会が峠を越すまでの間、
佐藤はアメリカからの東南アジア外交積極化の要請と国内情勢との間で難し いかじ取りを余儀なくされるのである。
第2章 佐藤の東南アジア外交構想の停滞
⑴ ジョンソン構想に対する佐藤政権の反応
1965年4月7日にジョンソンはジョンズ・ホプキンス大学において演説を
67) 『朝日新聞』(1965年2月2日朝刊)2頁。
行い、東南アジア地域に平和と安定をもたらすために、東南アジア地域の貧 困問題の解決が重要であると主張した。その第一歩として東南アジア諸国が 経済開発のために団結する必要があることを指摘し、そのためにジョンソン 政権が10億ドルの資金援助を議会に要請する意向であることを表明した68)。 このジョンソン構想の目的は、過激なナショナリズムによる地域紛争の発生 を抑制すること、共産主義の浸透を阻止すること、東南アジア地域における アメリカの負担を軽減すること、という3点であった69)。国務省はジョンソ ン構想への日本の積極的な支持と参加を期待していた。国務省は、日本がア メリカの援助を受け入れないカンボジア、インドネシア、ビルマといった中 立主義国に働きかけることを期待していたのである70)。ライシャワーは、ア ジア地域唯一の援助供与国として日本がジョンソン構想に対するアジアの好 ましい反応を促すという役割を果たすことができること、そして、ジョンソ ン構想への日本の参加が日本の東南アジア地域におけるより責任ある役割を 果たすことにつながると評価した。ライシャワーは、このような日本の役割 が佐藤と日本人にとってナショナリズムを表出する機会となり、そして、国 際社会においてより大きな役割を果たしたいという彼らの願望を満たすと期 待していた71)。ライシャワーは、佐藤と国内世論とが国際社会において従来 よりも大きな役割を果たすことを望んでおり、ジョンソン構想がそのきっか けとなると考えていたのである。
佐藤はジョンソン構想について「具体的で、大いにこの声明を歓迎する」
と高く評価した72)。また、佐藤はライシャワーに電話をかけ、ジョンソン構
68) “Address at Johns Hopkins University: “Peace Without Conquest”,” April 7, 1965. Public Paper of the Presidents of the United States Lyndon B. Johnson 1965, vol. 1(United States Government Printing Office, 1966), pp. 396-397.
69) 菅「ベトナム戦争と日米安保体制」77頁。
70) 高橋「「東南アジア経済開発」とヴェトナム戦争をめぐる日米関係(1)」182頁。
71) From Embassy of Tokyo(hereafter cited as EMT)to Department of State(hereafter cited as DOS)3220, April 9, 1965, DNSA, JU00463.
72) 『佐藤榮作日記第2巻』1965年4月8日の項。
想に対する支持を表明した73)。さらにジョンソンに対して佐藤は書簡を送り、
ジョンソン構想への支持を正式に表明した74)。そして、佐藤は外務省に対し てジョンソン構想への日本の対応案を作成することを指示した。
S
オペは佐 藤訪米直後から佐藤政権の東南アジア外交について、南ベトナムに対しては 医療援助にとどめる一方で、インドネシアやタイといった東南アジア諸国と の政治的経済的な協力関係を構築し、地域の安定に大きな役割を果たすこと を提言していた75)。さらにS
オペは、日本が経済力を用いた地域の安定への 寄与だけではなく、東南アジア情勢に関与すべきであると考えていた76)。S
オペは政権発足時からアメリカのベトナム政策に日本が協力することに慎重 であった。そのため、S
オペはジョンソン構想についても国連を中心とした 枠組みではないとして、佐藤に慎重な対応を求めた77)。佐藤はジョンソン構 想について、S
オペよりも積極的な態度であった。一方でS
オペはアメリカ とは異なる東南アジア外交を追求したのである。佐藤の指示を受け、同年4月21日に外務省経済協力局は日本の対応案とし てアジア平和計画を策定した。平和計画の目的はアジアにおける平和を達成 するため経済安定を確立することとされ、日本がアメリカの10億ドルに次ぐ、
5億ドルを出資するとされた78)。経済協力局は、平和計画に日本がアメリカ に次ぐ出資を行うによって、日本の熱意を示す必要があると考えていた79)。 同年4月23日に椎名が佐藤に平和計画を説明した。その際、佐藤は出資額の 大きさと計画の大規模な内容から平和計画に反対した。佐藤は韓国と台湾に
73) From EMT to DOS 3220, op. cit.
74) “Message to President Lyndon B. Johnson from Prime Minister Eisaku Sato,” April 10, 1965, DNSA, JU00464.
75) 「多忙なスケジュールの今度の総理訪米…」(「楠田實資料」1965年1月)E-1-72。
76) 「マレイシア紛争をめぐる日本の役割についての提案」(「楠田實資料」1965年1月23日)
E-1-164。
77) 「[外交]「前提」外交の基本として…」(「楠田實資料」1965年5月E-1-80)。
78) 経済協力局「アジア平和計画の構想について」1965年4月21日,外務省記録「東南アジア開 発閣僚会議関係 開催経緯」第1巻,B’.6.1.0.63-1-1,外務省外交史料館。
79) 経済協力局「アジア平和計画に対するわが国の拠出の意義」1965年4月15日,外務省記録「東 南アジア開発閣僚会議関係 開催経緯」第1巻,B'.6.1.0.63-1-1,外務省外交史料館。
対する日本の重い負担を主張し、佐藤は950万ドルの南ベトナム向け商業借 款を橋、ダム、道路建設に向けることという限定された小規模な計画を求め ていた80)。佐藤は韓国と台湾に対する経済協力に加えて、昭和40年不況の中 で、安定成長路線への経済方針転換と財政均衡主義とを目指していたため、
巨額の出資はできなかったのである81)。しかし、佐藤は引き続きジョンソン 構想への対応案の検討を外務省に指示した82)。
同年5月10日、佐藤は第2回海外協力強調運動記念式典で挨拶を行った際 に「この提案(筆者注:ジョンソン構想)に積極的に答え、この構想の受け 入れ機構を作るべきだ。これを実現するにはアジアの関係諸国と具体的な点 について協議し、米国の一方的な提案に終わらず、アジア人の気持ちをくん だアジア諸国が心から歓迎する計画となるよう努力すべき」と主張した83)。 佐藤は平和計画のように大規模な資金拠出に難色を示す一方で、アメリカが 自らの考えに近い構想を提案したことを受け、東南アジア外交を積極的に打 ち出す必要性を認識していたのである。
しかしながら、佐藤はこの時期に東南アジア外交を積極的に展開しようと せず、ジョンソン構想に賛成していた佐藤は一転して慎重な姿勢に変わった。
その理由は、財政上の懸念に加えて、日韓国交正常化と国内でのベトナム反 戦運動の本格化という2つの要因であった。同年2月に椎名が訪韓し、日韓 基本条約への仮調印が終わり、同年6月22日に日韓基本条約ならびに4つの 附属協定が締結された。そして、次に佐藤政権は国会における批准を控えて いた。さらにこの時期、日本国内のベトナム反戦運動がこの時期本格的に動 きだしていた。「ベトナムに平和を ! 市民連合」(ベ平連)の運動が始まった。
同年4月には作家の小田実の呼びかけで、東京でもベトナム反戦を訴える抗 議運動、さらには社会党や総評によるベトナム反戦を訴える抗議運動が活発
80) From EMT to DOS 3430, April 24, 1965, DNSA, JU00469.
81) 高橋「「東南アジア経済開発」とヴェトナム戦争をめぐる日米関係(1)」183頁。
82) 経済協力局「東南アジア開発提案に対するわが国の態度(案)」1965年6月9日,外務省記 録「東南アジア開発閣僚会議関係 開催経緯」第1巻,B'.6.1.0.63-1-1,外務省外交史料館。
83) 『朝日新聞』(1965年5月10日夕刊)1頁。
化した84)。社会党はベトナム戦争と日韓国交正常化を結び付けようと、日韓 国交正常化を「北東アジア条約機構(NEATO)」への第一歩であり、ベトナ ム戦争といったアメリカの反共政策を支援することになると批判した85)。実 際に韓国がベトナム派兵を実施する動きを見せたことにより、日韓国交正常 化はベトナム戦争と連関関係にあるという国内の反対論に根拠を与えること になった86)。新聞論調も国内での野党や市民団体による日韓国交正常化反対 運動とベトナム反戦運動の広がりに合わせて、佐藤の外交姿勢が対米協調に 傾斜しているという批判を展開した87)。そのため、佐藤は日韓基本条約の国 会批准を優先して、アメリカのベトナム政策との関連で世論から攻撃される 恐れのある東南アジア外交の具体化を控えざるを得ない状況となったのであ る。
実際に佐藤はアメリカ側にも東南アジア外交について消極的な姿勢を見せ るようになった。ライシャワーから日本の東南アジア地域に対する経済協力 を尋ねられた際、佐藤は池田の経済政策の失敗により、経済協力を拡大でき る状態ではないと述べ、否定的な立場であった88)。佐藤は経済要因を理由に しているが、国内情勢も佐藤の発言に影響を与えていたと考えられる。
第7回参議院選挙を控えた同年6月10日の自民党演説会において、佐藤は 外交問題について演説を行った。その際、佐藤はアジア外交において「民生 の安定はわが国として比較的容易に貢献できる」とアジア地域の安定に寄与 する意欲を表明した。その一方でジョンソン構想について佐藤は、歓迎の意 を表明する一方で、具体的な日本側の対応について触れなかった89)。背景に は、野党や市民団体を中心としたベトナム反戦運動の広がり、
S
オペによる ジョンソン構想への慎重論を反映したと考えることができる。この時期の佐84) 『朝日新聞』(1965年4月25日朝刊)14頁。『朝日新聞』(1965年4月26日夕刊)1頁。
85) 月刊社会党編集部『日本社会党の30年(3)』(社会新報、1975年)180~182頁。
86) 李鐘元・木宮正史・磯崎典世・浅羽祐樹『戦後日韓関係史』(有斐閣、2017年)82~89頁。
87) 『朝日新聞』(1965年4月7日朝刊)2頁。『読売新聞』(1965年4月7日朝刊)1頁。
88) From EMT to Dos 4232, “For Bundy From Ambassador”, June 15, 1965, U.S. Declassified Documents Online(hereafter cited as U.S.DDO), CK2349093612.
89) 「佐藤自民党総裁演説(資料)」(「楠田實資料」1965年6月9日)E-1-86。
藤の演説は1月の訪米直後の演説と比較すると東南アジア外交について具体 論を欠いていた。国内世論や野党はベトナム戦争の動向に関心を示し、特に 野党は選挙においてもアメリカの東南アジア政策と距離を置いた自主外交を 主張した。このような状況を受けて、佐藤は東南アジア地域の安定に貢献す ることを主張しつつも、ジョンソン政権のベトナム政策に批判的な国内世論 への配慮からジョンソン構想への対応案を具体的に打ち出すことを避けた。
佐藤が再び東南アジア外交の積極化に意欲を見せるようになるのは、12月の 日韓基本条約の国会批准達成以降となるのである。
⑵ 東南アジア開発閣僚会議構想と日韓国交正常化
ジョンソン構想への対応案を検討していた外務省経済協力局は、1965年5 月に日韓国交正常化に伴う経済協力案について日本政府内部および韓国側と の交渉を抱えており、他の作業を行う余裕はなかった90)。同年6月の日韓基 本条約調印後に外務省は次の外交目標について検討を開始した91)。同年6月 に入り、経済協力局はアジア平和計画に代わる案を検討し始めた。その理由 は、直接的には同年7月12日から始まる第4回日米貿易経済合同委員会の議 題に「低開発国経済協力」が含まれていたことであった92)。しかし、より大 きな文脈では日韓国交正常化後の日本外交の新たな目標を打ち出すという問 題意識が存在していた。特に経済協力局は第二次世界大戦後に独立を獲得し たアジア諸国に対して、日本が何かしらの支援を行うべきではないか、とい う問題意識を持っていた93)。経済協力局は同年6月25日に東南アジア地域に おける経済開発のムード作りを行うことが望ましいという観点から、東南ア ジア諸国経済開発会議の開催を案出した。開発会議の目的は「東南アジア諸 国の経済開発のため必要な資金の規模、各国が行うべき自助努力、開発阻害
90) 御巫清尚『東の風・西の風』(国際開発ジャーナル社、1991年)43~44頁。
91) 同上45頁。
92) 保城『アジア地域主義の行方』270頁。
93) 御巫『東の風・西の風』45頁。
要因等を討議」することであった。そして、参加者は大臣、開発担当責任者 とされ、参加国は韓国、台湾を除くビルマ以東の東南アジア諸国と日本、先 進国、国際機関からのオブザーバーが想定されていた。またジョンソン構想 との関連について、開発会議が「実施を適当と認められるプロジェクト」に 対してアメリカの東南アジア援助資金を優先的に使用することを想定してい た94)。
同年6月30日に外務省は椎名の賛意を得て、開発会議を発展させ東南アジ ア開発閣僚会議に繋がる東南アジア開発大臣会議構想を作成した。同年7月 1日に第4回日米合同委員会に向けた関係省庁の局長級会議において、外務 省は開発大臣会議構想を説明した。しかし、開発大臣会議構想に対して大蔵 省と通産省といった他省庁からの反対にあった。反対の理由は、大蔵省が
ADB
(アジア開発銀行)への2億ドル出資を決定していたこと、通産省がジ ョンソン構想への日本の関与に慎重であったことであった95)。同年7月2日 の閣僚協議会でも開発大臣会議構想に対する意見はまとまらなかった96)。同 年7月8日に椎名は記者会見で開発大臣会議構想を第4回日米合同委員会で 提示すること、開発大臣会議構想について日本が東南アジア経済協力の基本 態度として考えたもので、ジョンソン構想とは直接結びつかないことを主張 した97)。外務省は同年7月2日の閣僚協議会で開発大臣会議構想を示すと、翌3日に東南アジア諸国の日本大使館に対して開発大臣会議構想を打診する よう指示した。この時期、外務省は会議の開催期間を1週間程度と想定して いた。またジョンソン構想について、外務省は「当面の問題とせず(中略)
米国の資金を受け入れるべしとの意見が多いような場合にのみ」、受け入れ
94) 経済協力局「東南アジア開発の効果的促進のための若干の方途(試案)」1965年6月25日,
外務省記録「東南アジア開発閣僚会議関係 開催経緯」第1巻,B'.6.1.0.63-1-1,外務省外交 史料館。
95) 保城『アジア地域主義の行方』274~275頁。
96) 『朝日新聞』(1965年7月2日夕刊)1頁。
97) 『朝日新聞』(1965年7月9日朝刊)1頁。
のための小委員会を設置すると考えていた98)。また外務省は開発大臣会議へ の参加国がタイやフィリピンといった東南アジア地域の自由主義国だけでな く、中立主義のカンボジア、ビルマ、インドネシアも参加することを重視し ていた99)。
同年7月に第4回日米合同委員会が開催された。ラスク国務長官(
Dean Rusk
)は、日本がアジア向け援助を調整していること、ADB
、開発大臣会議、農業開発基金において日本がイニシアチブを取ることを歓迎した。その上で ラスクは
ADB
へのさらなる出資を促し、ラオスのナム・グァム・ダム(Nam Ngum Dam
)プロジェクトへの日本の援助を希望した100)。椎名と三木はジョ ンソン構想を歓迎すること、そして、GNP
1%を援助に充てることという2 点を表明した。一方で福田赳夫蔵相は日本国内の経済状況や政府の財政事情 を理由に援助拡大に消極的であった101)。その後昼食会において、福田はジ ョンソンから日本が経済資源を用いて東南アジア地域の経済開発に貢献する ことを求められた。ジョンソンは佐藤のベトナム戦争に対するモラル・サポ ートに感謝している一方で、より具体的な支援を行うことを求めた。福田は 佐藤と討議すること、そして、その結果をジョンソンに伝えることを約束し た102)。ジョンソン政権は佐藤と福田が東南アジア外交を積極的に展開する ことに慎重であると判断し、訪米した福田に圧力をかけたのであった103)。 ジョンソンはベトナム戦争による負担がアメリカに重くのしかかる状況のた め、同年1月の佐藤訪米から一貫して日本が経済協力を東南アジア地域に展 開させることによって、アメリカの負担を軽減することを求めていた。ジョ ンソンは福田との会談で佐藤政権が東南アジア外交を積極的に展開させない98) 外務大臣発各公館宛第1852号「東南アジア開発大臣会議」1965年7月3日発、外務省記録「東 南アジア開発閣僚会議関係 開催経緯」第1巻、B’6.1.0.63-1-1。
99) 曺『アジア地域主義とアメリカ-ベトナム戦争期のアジア太平洋国際関係』150~151頁。
100) From DOS to EMT “Joint Econcom,” July 16, 1965, DNSA, JU00497.
101) Ibid.
102) Memo of Conversation, Johnson and Fukuda, “Southeast Asia Development,” 14 July 1965. U.S.
DDO, CK2349128673.
103) 高橋「「東南アジア経済開発」とヴェトナム戦争をめぐる日米関係(1)」191頁。