⑴ 東南アジア外交積極化への佐藤の変化
1965年11月12日に衆議院で日韓基本条約が通過したことを受け、
S
オペは 次の外交目標について検討を始めていた。S
オペは11月に佐藤政権の内政・外交全般にわたる基本問題の検討を求める提言書を作成した際、日韓国交正 常化の達成により「戦後処理」が片付いたと評価していた120)。
同年12月11日に日韓基本条約は民社党を除く野党の本会議場からの抗議の 退場といった場面があったものの参議院を通過した。新聞論調は、参議院に おける強行採決の責任が自民党にあると考えていた121)。また、参議院での 強行採決について佐藤政権の国会における議論軽視や「力の政治」という批 判が出ており、佐藤政権の日韓国会における政治手法に対して世論の批判が 高まっている状況であった122)。佐藤もまた日韓国会における対応により世 論からの視線が冷たくなっていると認識していた123)。新聞論調は佐藤の国 会対応を批判する一方で、佐藤が日韓国交正常化により「外交的に身軽」に なったことから今後、「広い視野と自主的な発意に基づく外交」を展開する と期待していた124)。日韓国交正常化をアジア外交の出発点と主張していた ため、日韓国会後の佐藤外交に世論の注目が集まっていたのである。
同年12月29日にハンフリー(
Hubert Humphrey
)副大統領が訪日した際、佐藤は東南アジア開発閣僚会議開催に対する関心を表明した125)。ライシャ
120) 「基本問題検討の提案」(「楠田實資料」1965年11月24日)E-1-108。
121) 『朝日新聞』(1965年12月14日朝刊)2頁。
122) 『朝日新聞』(1965年12月12日朝刊)2頁。
123) 『佐藤榮作日記第2巻』1965年12月14日の項。
124) 『朝日新聞』(1965年12月12日朝刊)1頁。
125) Telegram From Vice President Humphrey to President Johnson, December 31, 1965, FRUS, 1964-1968, Volume XXIX, Part2,(United States Government Printing Office,2006), p.135.
ワーは、この時期に佐藤が東南アジア外交に積極的な姿勢に転じてきたとい う印象を抱いていた126)。アメリカは再び、東南アジア外交の積極化に関し て佐藤政権に期待し始めたのである。
佐藤は同年12月に入ると東南アジア外交を積極的に進める意向を示し始め た。
S
オペも佐藤に新年の挨拶での内容を提案した際に「国際情勢は東南ア ジアを中心に流動的」であると指摘した上で、「わが国もアジアの平和と安 定のため国際的な協力」に関与していくことを提言していた127)。S
オペは、世論が佐藤政権に対して外交面で、「アジアの緊張緩和」の役割を果たすこ とを求めていると考えていた。その上で、
S
オペは国民からの政権支持を獲 得するためには、政権発足当初に打ち出していたアジア外交の積極化を推進 する必要があること、そして、日韓国交正常化といった重要懸案を解決した ことを踏まえ、長期政権としての方向性を打ち出す必要があることという2 点を提言した128)。この時期にS
オペは世論の動向に配慮しながら、佐藤政 権の今後の外交目標を模索していた。検討作業を経て、S
オペは佐藤に対し て東南アジア外交を実行して、佐藤政権のアジア外交を示す必要があること を提言した。佐藤はS
オペの提言を踏まえて、東南アジア外交に積極的な 姿勢を示し始めたのである。佐藤は東南アジア外交への意欲をアメリカだけでなく世論にもアピールし た。佐藤は毎日新聞のインタビューに応じた際、アジア唯一の先進工業国で、
アジア諸国と深い繋がりを持っている日本が「アジア諸国に協力し、援助し、
そして経済的繁栄と平和を確保するため貢献する」ことを当然視し、日本が 積極的に役割を果たすことに意欲を見せた。そして、佐藤は紛争地域への援 助や協力に限界があると指摘した上で、「いまのうちに計画だけでも早急に 進め体制を早く固めておくべきである」として、アジアの直面している問題 について、「どういうふうに認識すべきか、どのように解決してゆくべきか
126) ライシャワー『ライシャワー大使日録』1966年1月9日の項。
127) 「日韓条約の批准を始め懸念解決…」(「楠田實資料」1965年12月30日)E-1-109。
128) 「施政方針演説について」(「楠田實資料」1966年1月13日)E-2-24。
アジア人同士で、胸襟を開いて相談するのが一番好ましい姿だと考えて、東 南アジア開発閣僚会議を東京で開催しようと積極的に乗り出している」と主 張し、東南アジア外交の積極化の第一歩として開発閣僚会議を位置付けてい た129)。読売新聞のインタビューでも同様に、佐藤は東南アジア地域に「経済、
技術協力、援助」することについて、「民族的な使命があり、国家的な役割 がある」と主張していた130)。佐藤は
S
オペの提言を踏まえて、世論に次の 外交目標として東南アジア地域への関与の積極化を示した。具体的に佐藤は、政権発足当初から主張していた経済力を用いて東南アジア地域の安定を目指 すことを再び主張し始めた。そして、佐藤は東南アジア地域に積極的に関与 することが民族的使命かつ国家的役割であると位置づけ、関与に強い決意を 示したのである。
この時期、佐藤が東南アジア外交の積極的な展開を主張し始めた理由とし て、第1に日韓基本条約の批准が完了したこと、第2にハンフリーとの会談 を通じて日米関係とベトナム問題との関係について認識したこと、第3にラ イシャワーによる吉田や岸といった佐藤周辺の政財界有力者への説得が効果 を出したこと、第4に同年12月24日からジョンソン政権により実施されたベ トナムにおけるクリスマス休戦と北爆を一時的に停止したこと、という4点 が従来考えられてきた131)。加えて、政権発足当初からアジア外交の積極化 を主張していたという点も見逃してはならない。佐藤は国内のナショナリズ ムに応えるという観点から、東南アジア外交を展開することにより、国際社 会において日本の地位を向上させるという問題意識を政権発足時から抱いて いた。この考えは1965年の段階においても佐藤自身持ち続けていた。そして、
この時期、佐藤が開発閣僚会議をアメリカや世論に対して示した理由は、佐 藤と
S
オペが開発閣僚会議を東南アジア外交構想の第一歩として位置づけ ていたからである132)。129) 『毎日新聞』(1966年1月1日朝刊)2頁。
130) 『読売新聞』(1966年1月1日朝刊)5頁。
131) 高橋「東南アジア経済開発」とヴェトナム戦争をめぐる日米関係(2・完)」257頁。
132) 「ベトナム問題にかんする国会答弁案」(「楠田實資料」、1965年7月30日)E-1-91。
アジア外交の中でも中国問題に取り組むことは、党内事情から慎重な態度 の佐藤と、日中関係の冷却化という状況により困難であった。また沖縄返還 は早期に達成できる見込みがない状況であった。当時沖縄はベトナム戦争の 拠点となっており、アメリカ軍による基地の完全な自由使用を認めなければ、
返還が認められないと考えられていた。しかし、アメリカ軍の行動を容認し た場合、世論の猛反発を受けて佐藤政権自体が不安定になる可能性があった のである133)。
⑵ 第1回東南アジア開発閣僚会議開催と佐藤の評価
1966年2月5日、外務省は同年4月6日から7日にかけて開発閣僚会議を 開催する方針を内定し、在外公館を通して関係国への意向打診を開始した。
しかしビルマ、インドネシア、カンボジアの参加はジョンソン構想の10億ド ルとの関連を懸念していることから、困難な状況であった134)。同年2月11 日の閣議では開発閣僚会議を同年4月6日から7日に東京で開催することを 正式に決定した。そして今後、開発閣僚会議を開催する際の議題や会議進行 について検討することとした135)。同年3月24日午前9時から院内大臣室で 外交関係閣僚協議会を開催した136)。その際佐藤は、日本が招集した会議で あることから意見を聞くだけでなく援助拡大を約束することに前向きな発言 をした137)。同年3月22日に
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オペは経済協力局の吉野文六参事官を招いて、開発閣僚会議と日本の経済援助について検討を行った。その際に吉野が用意 した資料では、経済援助規模の国民所得(
GNP
)1%達成には、東南アジア 諸国に対する援助額を年々飛躍的に増加させる必要があると指摘されてい133) 中島琢磨『高度成長と沖縄返還』(吉川弘文館、2012年)125頁。
134) 『朝日新聞』(1966年2月5日夕刊)2頁。
135) 『朝日新聞』(1966年2月11日夕刊)1頁。
136) 『朝日新聞』(1966年3月24日夕刊)1頁。
137) 経済協力局「東南アジア開発閣僚会議開催に関する外交関係閣僚協議会の議事記録」1966 年3月24日、外務省記録「東南アジア開発閣僚会議関係 開催経緯」第3巻、B'.6.1.0.63-1-1、
外務省外交史料館。
た138)。
新聞論調は、開発閣僚会議開催を佐藤政権のアジア外交展開の布石と見な した。その上で東南アジア地域に対して日本が中心となって経済援助を強化 することは「歴史の潮流」であるとして、日本が経済面で東南アジア地域に 主導権を発揮することについて肯定的に捉えられていた。一方で開発閣僚会 議が同年4月のジョンソン構想発表から3カ月後の日米貿易経済合同委員会 の直前に示されたことから、東南アジア諸国から政治的な会議と見なされて いると指摘した上で、できるだけ政治色をなくすことが肝要であると考えら れていた139)。
1966年2月から4月にかけて参加国問題が進展した。シンガポールが参加 に応じ、インドネシアやカンボジアがオブザーバー参加を決定した140)。同 年3月11日にスカルノ大統領からスハルト陸軍司令官に大統領権限が委譲さ れた141)。この出来事によりインドネシアはオブザーバー参加を決定し、そ れに影響され、カンボジアもまたオブザーバー参加を決定したのである。
同年4月6日から7日の2日間にかけて、第1回東南アジア開発閣僚会議 が開催された。主催国の日本以外に、ラオス、マレーシア、フィリピン、シ ンガポール、タイ、南ベトナムから閣僚級の代表が参加し、インドネシアと カンボジアから大使級のオブザーバーが参加した。開会式の後に各国代表に よる演説が行われて、農林水産業、工業化、運輸・通信、医療・教育訓練、
先進国・国際機関からの援助が議論された。佐藤は開催の挨拶で「アジアが 停滞を脱し、真の平和と繁栄が確立されるためには、アジア諸国がまず平等 と相互尊重の立場に立ってこの連帯意識を一層高揚して参らなければ」なら ないこと、そして、「アジア諸国民が連帯意識に立てば、平和的に共存する
138) 経済協力局「東南アジア経済協力倍増案の実現可能性について」(「楠田資料」1966年3月 22日)J-5-36。
139) 『毎日新聞』(1966年4月6日朝刊)5頁。
140) 保城『アジア地域主義の行方』290頁~293頁。
141) 宮城大蔵『戦後アジア秩序の模索と日本――「海のアジア」の戦後史1957~1966』(創文社、
2004年)200頁。