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Kyushu University Institutional Repository
朝鮮開国の要因に関する研究 : 初期的開化論と国際 環境の影響を中心として
孔, 義植
https://doi.org/10.11501/3180660
出版情報:Kyushu University, 2000, 博士(法学), 論文博士 バージョン:
権利関係:
第4主主 朝鮮開国の国際的要因
西洋列強の対立が激化し、 その勢力が極東に向って押し寄せてきた19世紀 の後半、 朝鮮は、 凶洋列強ではなく凶洋列強によって先に開国された日本に よって開国されることになった。 しかし、 日本による朝鮮開国と言っても、
19世紀の凶勢東漸という凶際社会の大きな波がすでに極東に押し寄せてきた 当時の時代的背景を視野に入れて見れば、 朝鮮の開国を日本と朝鮮とのこ国 rMJだけの構図からは説明するのは不充分であることを見逃すわけにはいかな し、。
すなわち、 朝鮮での優越的な地位を守ろうとした清国、 それから中国大陸 での利権を巡る西洋列強相互間の慕藤と対立、 特にロシアの南下政策に警戒 感を持っていたイギリス、 さらに、 ヨーロッパ列強に遅れて極東分割に入り 込んだアメリカの利害などが絡み合って、 この地域で合従連衡の様子を見せ るなかで行われた朝鮮開国は、 こうした周辺列強から直接的・ 間接的影響を 受けざるを得なかった。
つまり、 朝鮮開国の要因は、 日本の海外膨張政策と朝鮮内部の思想的な変 化のみでなく、 周辺列強の勢力争いというもう一つの要因を入れて考察しな ければならないと思うのである。
以下第四章では、 朝鮮開園に利害関係を持っていた清凶を始めイギリスや アメリカを中心に、 それらの国々の対外政策、 特に清国の対朝鮮政策やイギ リスとアメリカの対極東政策が、 朝鮮の対日開国にどのような影響をおよぽ し、 また、 どんな役割を演じたかを論じたい。
ここで、 ロシアを朝鮮開凶の周辺要因から外したのは、 ロシアは、 朝鮮の 開凶過程で、 日本をはじめ、 清国・ イギリス・ アメリカから主な誉戒の対象 耳になっていて、 また、 ロシアも朝鮮に関心を持つてはいたが、 この時期ま でロシアは朝鮮進山に積極的ではなかったため、 朝鮮の開国に直接的な影響 を及ぽすことはなかったからである。 1)
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第1節 朝鮮開国と清国
1. 朝貢制度と清朝関係
近代以前、 東アジアの凶際関係を支配していた国際秩序観は、 中国を世界 の中心とし、 他の全ての国を夷秋視する華夷思想に基づいて形つくられた華 夷的秩序観であったことは、 すでに述べた。 つまり、 この東洋的国際秩序観 は、 中国(中華・中原・華夏・諸夏)文化の優越性を前提とする華夷思想から 形成された秩序観であって、 この秩序が政治的に制度化されたのが朝貢制度 であった。
朝頁の起源は、 周代の天子と諸侯との関係から始まった。 朝貢は、 周代に 完成された宗法的封建制度下て\ 君臣との間で行われた礼儀の中で、 諸侯が 礼物をもって天子を拝謁することによって諸侯としての礼を表し、 君臣之義 を明らかにする最も基本的な礼式であった。 2)朝貢は、 諸侯が定期的に天子 を拝謁する「朝」と天子拝謁の時礼物を贈呈する「貢」と言う形で成されて いたが、 これによって天子と諸侯とは、 尊卑・高下を明らかにし、 上下の秩 序の中で相互不可侵と宗属の結束を図ったのである。 3)これは一方では、 天 子が諸侯を統制し、 支配するための一種の政治的支配手段でもあった。
天子と諸侯とのこうした関係は、 当時高度に発達した中国文明に憧れて接 近する周囲の諸民族にも拡大運用され、 中国と異民族との関係においても適 用されるようになった。 4)
しかし、 同じ従属国でありながらも、 その宗属関係の相違によって従属国 の地位は二つに分かれていた。 つまり、 自治権は与えられたものの主権を持 たないまま中国の法律・制度に直接的に拘束きれる内務と、 独立国家として 主権と独向の法律や制度を持っていながら中国の宗主権を認める外務がそれ であった。 外務は、 朝頁を通じて中国文化の影響を大きく受けながらも独立 国としての地位を維持していた。 内藩の例としては、 モンゴルとチベットを 挙げることができ、 外務としては、 清国を宗主国とする朝鮮と琉球、 越市な どがその典型的な例であった。 5)
中国との宗属関係を願う国は、 中国に対し称臣 ・ 入貢して、 宗主と落属関 係を自ら認めその意向を外交文書である表文に明示しなければならなかっ た。 そうすると、 天子は、 その国に封号と印綬を下賜する冊封を行い、 従属 国としての地位を承認する。 冊封を受けた従属国は、 中国に対して朝貢・朝 凱・奉正朔6)などの義務を持っと同時に、 中国からは回賜と保護を受けたの
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で'ある。 7)
このような中凶を米主凶とする東アジアの宗属関係は、 �洋のそれとは大 きく兵る内容を持っていた。 つまり、 西洋の法律的宗属関係における従属国 は、 米主凶の凶内法の枠内で凶家としての地位が認められた国家であった。
このような従属国の凶際法上の権能は、 普通宗主国の国内法により制限され た。 しかし、 東アジアにおける宗属関係は、 名分的・儀礼的君臣の関係で あって、 天子による直接統治は行っていなかった。 特に中国園内法の適用を 受けなかった外務は、 形式においては従属国でありながら、 実際においては 向主独ftの凶であった。 8)
束アジアの米属関係が凶洋の米属関係と異るもう一つの点は、 西洋の宗属 関係が大体の場合、 宗主凶だけに有利な強制的で一方的な関係であったのに 比べ、 東アジアの宗属関係は、 事大字小の観念、 朝貢に対する回賜、 珊封に 対する保護など向発的・双務的な関係であったと言う点である。 9) さらに、
朝貢嗣の義務は、 凶洋のような法律的なものではなく道徳的なものであっ fこ。 10)
つまり、 東アジアの宗属関係は、 権力よりは権威に依存する面が強く、
同時に儒教の規範によって維持・合理化されたので、 その結果、 国家聞の上 下関係は当然視された。 武力により強大国へ従属を余儀なくされた西洋の従 属国において宗属関係は、 屈辱的関係であったのに比べて、 天・地、 陽・
陰、 上・下、 高・低など自然の階序的な秩序をそのまま人間や国家間の規範 に適用して調和を図った儒教的自然秩序観では、 国家聞においての上下関係 は当然なことであって、 上下の名分に対する屈辱感や差恥心は存在しなかっ
fこ。 11)
中凶と朝貢関係を維持することは、 夷秋においては文明の象徴である中国 文明への参入を意味し、 反って誇るべきことであった。 12)
さらに、 中国も朝頁・冊封の関係を強者の弱者に対する屈辱の強要ではな くただ儒教的礼規範の拡大と見なしたのである。 13)
このように中凶と朝貰凶との関係は、 家父長的人倫関係の中で成立・維 持され、.11:当化されたので、 向者との関係は、 軍事的な側面よりは徳治が強 調され、 また、 それが優先的に用いられたのである。 14) そのため、 中国と 朝貢副との関係は、 対立的関係ではなく相互補完的関係であった。
しかし、 朝貢関係が儒教的規範によって合理化された関係であっても、 そ れが両者において実質的な利益が存在しなかったら、 こうした制度が長く維
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持されることはできなかったであろう。 つまり、 両者は、 対外的には経済的 交易・文化交流、 また対内的には政権の安定と対外的安全保障と言う政治 的・安全保障的利益があったためこうした関係の維持が可能てーあったのであ る。 15)
このように中国の周辺凪は、 中国との朝貢関係を結ぶことによって向国 の政治的安定を図ると共に経済的利益と先進文物の吸収に努力した。
朝鮮半島に存在していた函々と中国との朝貢関係は、 その典型的なもので あった。
以下では、 中韓宗属関係について述べて見る。
漢民族は、ー山・代から非中国、 つまり非漢民族を「夷秋」と言い、 中凶東北 部・朝鮮半島・日本列島に居住していた民族を「東夷Jと呼んだ。
東方の異族であった韓民族国家は、 中国の外藩として早くから中国との朝 貢関係を結んでいた。 中韓の朝貢関係は、 すでに三国時代(高句麗・新緑・
百済)に始まった。 凶暦32年に高句麗は、 漢から王号を受けたのであり、 円
済 は、 372年に始めて中国に使臣を派遣、 翌年に東晋に入貢した。 更に、 新 羅は、 数年後に秦に入貢した。 また、 624年には高句麗が宗主国の象徴であ る中国の年号を採用し、 新縦も650年に唐の年号を採用した。 また、 651年に は、 新経の入唐使が始めて宿衛(一種の人質制度)となった。 16) しかし、 真 の意味での中韓朝貢関係が成立したのは、 高句麗が243年に前燕に対して称 臣した以後のことであった。 17)
三国時代にすでに朝頁関係が確立された中韓朝貢関係は、 新緑時代にもほ ぼ先時代の延長とも言えるほど大した変化は見られなかった。 ただ、 738年 からは王妃冊立の例が始まったことや、 819年には唐の要求により3万の兵 士を派兵したことがあり、 また、 新羅が百済の土地を占領したことに対して 唐が問責したことなど18)、 新緑に対する唐の干渉が相当行われたことが分か る。 しかしながら唐と統一新緑の宗属関係は、 他の時代に比べて友好的な関 係が持続されていた時期であって、 朝貢関係外の交流19)も活発に行われてい た時期であった。
しかし、 こうした中韓朝貢関係は、 中国が北方民族である遼・金・元に支 配きれてからは、 その形式と内容が相当変った。 遼は、 高麗に対して先例の ない国王の入朝を要求したことがあり、 国王や王世子の誕生日に使行を送る など高麗に対する統制を強化した。 また、 金も高麗に対して遼とほぼ同じ政 策を取ったが、 国王の入朝を要求する代りに、 藩属国としての誓表を提山す
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るよう強要した。 却)
金に代って中凶を支配するようになった元の対高麗政策は、 儀礼的な朝貢 関係ではなく積極的な干渉政策であった。 元は、 高麗の内政にも深〈干与し て行政組織をモンゴル風に改編することや遷都をも要求した。 また、 国王や 王世子の入朝を強要し、 彼らを人質として数年あるいは10年余りも元に抑留 することもあった。 21)
こうした元と高麗との関係は、 儀礼的・間接的な支配を原則とする朝貢関 係の範時を越えた直接統治に近い支配形態であって、 厳密な意味では朝貢関 係とは言えない特殊関係であったと言えよう。
北方民族に代って再ぴ中原を支配することになった漢族は、 明を建国した 後、 高麗に対して明に直接的な影響を与えない限り高麗の内政に干渉しよう とはしなかった。 こうした高麗に対する明の政策は、 高麗の後を継いだ朝鮮 に対しても同様であった。
遼・金・元の内政政策に強く反発していた高麗とは異って、 朝鮮は、 建国 とともに自ら明に対して臣下の礼を示し、 冊封を頼んで中国を中心とする朝 貢秩序への編入を希望した。 これは、 易性革命によって政権を獲得した朝鮮 王朝が、 新しい政治権力の成立を対外的に承認させ、 それによって王朝成立 の名分と基盤とを国際的に固めようとした22)ことから成されたことであった が、 これにより中朝の朝頁関係は、 以前の時代とは異る新しい局面に入った のであった。 つまり、 この時期における両国間の朝貢に伴う諸内容が定期 的・恒例的なものとなって慣例化し、 後代に受け継がれて行ったのである。
中韓聞の朝貰関係は、 三国時代から始まって、 各々の時代によってその内 容や性格が少しずつ異っていたが、 清国と朝鮮との朝貢関係は、 複雑な朝貢 関係の典�とも言えるほど制度化された関係であった。 お)
以下はその清朝の復雑に制度化された朝貢関係について述べて見る。
儀礼的・名分的宗属関係であった清朝間における朝貢関係は、 主として朝 貢使臣の派遣を通じて維持されていた。 24)
前にも述べたように、 朝貢関係はある面においては双務的な関係でもあっ たが、 それはあくまで中国の俊位を前提として成立された位階関係であった ため宗主凶に対する朝貢凶の義務が朝貢関係の主な内容を成していた。 朝貢 困はそうした義務を朝貢使節を送って果たしていた。 清代において朝鮮が清 国に送っていた朝貢使館iの名称は、 秦清行・陳秦行・陳慰行・進香行・問安 行・参版行などであった。
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各積の使節の任務は多様であったが、 大きく分けると清困の吉・ 凶事の時 の進貨・陳慰、 貢物の献上と回賜の受取り、 朝鮮内の事件に対する清副の問 責や誤解に対する解明、 犯越・犯禁・刷遠・潔民に対する処置と、 後になっ て行われるようになった日本や西洋の事情に対する報告等があった。 25) こ れを分野別に分けて見ると次のようであった。
経済関係では、 朝貢と凶賜、 儀礼関係では封典・告哀・進賀・際慰・ 謝 恩、、 政治関係では、 年弓・と暦の採用 ・陳秦・倭情や洋情の報告などであっ た。 26) これに対して清の皇帝は、 朝鮮の国王に勅使を派遣して清廷の意思 を伝えたが、 たまには入京した朝鮮の使臣に依頼する場合もあった。 両国の 使臣は「人臣無外交」に見られるように文書の伝達が主な任務であって外交 交渉-や政治協商等は行なっていなかった。
以上のような朝貢使臣の任務や両国との聞に行われた交流の内容を見ても その殆んどが儀礼的な関係であって、 宗主国の従属国に対する政治的・軍事 的支配関係ではなかったことがわかる。 つまり、 清国は、 朝鮮が清国に称巨 し、 珊封を受け、 毎年定期的に朝貢使臣を派遣する等の形式的な朝貢関係に 満足して、 朝鮮の内政には干渉しなかったのである。
朝鮮側としては、 中尉との朝貢関係の維持によって対内的には権力の正統 性を認めてもらうことができ、 支配者としての地位を固めたのみでなく、 対 外的な安保も確保したのであった。
さらに、 経済面では、 朝鮮側は中国の皇帝に献上する貢物より回賜品とし てもらう品物の量の方が多かった。 また、 朝貢使臣により行なわれた公私貿 易の利益も無視できない量であったため朝鮮ではできるだけ朝貢使臣の派遣 回数を嶋ゃそうとしたのに対し中国ではこれを制限しようとしたのである。
これは、 朝鮮初期に朝鮮が「一年三貢Jを要求したのに対して清国は「三年 一貢Jを主張したことからもその事情を伺うことができる。
東アジアにおける朝貢制度と言う特殊な外交関係は、 東洋的家族関係が国 際関係まで拡長・適用され、 これが儒教的な規範により一般化・正当化され た秩序であったため、 儒教的世界観を理解していなかった凶洋人にとって清 朝関係に対する正しい酔.解は無理であった。 しかし、 こうした清朝関係を西 洋の国際公法を持って打破しようとしたのが日本であった。
2. 清朝宗属問題と日本
伝統的な清朝関係は、 朝貢制度に基づいた儀礼的な関係であったので、 清
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国は、 朝鮮の内政と外政に関しては不干渉主義を取っていたことはすでに述 べfこ。
清朝の政治関係は、 西勢東漸の波が朝鮮に押し寄せてくる前までは別に問 題はなかった。 こうした両国の関係が外交的問題として浮かぴ上げ始めたの は、 凶洋列強が中国の影響力を利用して朝鮮への接近を試みたことからであ る。 清闘が凶洋国家に対して最初に朝鮮不干渉政策を明らかにしたのは、
186 4年6月で あった。 すなわち 、 駐清フランス公 使であったベルティミ (Berthemy)は、 清国に対してフランス宣教師の朝鮮での宣教活動を認めてく れるよう要請した。 しかし、 清国は、 「朝鮮は清国の年号を用いて、 定期的 に朝貢する困であるが、 朝鮮が願わないことを清国が勧めることは難 し い幻)jとの理由でベルティミの要求を拒絶した。
その後、 清国は、 1筋6年10月シャーマン(General Sherman)号事件の生存 者救出要請沼)や、 1871年2月アメリカの朝鮮遠征を知らせる書簡の朝鮮伝達 要請29)にも同じ理由で拒訴した。
清国は、 このように朝鮮に対して「朝鮮は、 属国であるがその政治・法 令・宗教等は朝鮮の自主により行う却)jと言う国際公法上矛盾する論理を以 て朝鮮と凶洋列強との交渉や紛争に巻き込まれることを避けようとした。
こうした朝鮮での宗主国としての地位を保ちながら朝鮮の問題には関与し ないと言う清国の対朝鮮政策は、 西洋との対応においては幾分効果をあげた が、 江草島事件後その論理の矛盾を執劫に追求し、 その矛盾を利用して朝鮮 との事件解決を試みた日本の登場により壁にぶつかることになった。
以下清朝京属問題を巡る日清の対立と、 その結果清国が朝鮮の開国にどの ように影響を及ぽしたかを調べて見ょう。
1875年9月 、 江華品事件が起こると日本政府は、 この問題の処理において は朝鮮の宗主闘であった清国に京任を問い、 清国が朝鮮政府の行為について 責任を負うことを拒絶した場合に初めて日本政府が行動に出た方がよいと言 う参議木戸孝允の意見を受入れ、 朝鮮に全権大使を派遣するに先んじて清国 に対清交渉使節を派遣することを決めた。 31)
そこで外務少輔森有礼が特命全権公使に任命され、 1875年11月24日、 日本 を山発して1876年1月5日北京に到着した。 32)
森は北京に着くとまず、 北京駐在イギリス公使のウェード(Wade)に会っ て、 日本政府は、 朝鮮に対して平和的に使節を派遣し、 朝鮮を説得しようと しているとの意思を伝えて、 清国政府が朝鮮政府に対して影響力を行使し、
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日本の尉交開始要求を受諾してもらえるようウェードが総理街門を動かして くれることを頼んだ。 しかし、 ウェードは、 雲南事件お)が解決されていない 状況で総理街門にそのような助言をするのは困難であるとの理由で森の提案 を矩絶した。 34)
ウェードを通じて清凶を説得しようとした計画が失敗すると森は、 清凶と の直談判に臨んだ。 1876年1月10日、 森は書記官の鄭永寧・法制局御用掛竹 添進一郎らをつれて総理街門を訪問し、 軍機大臣兵部尚書沈桂j}. 工部尚子号 の毛利照以下諸大臣と会談した。 お) 日本側は、 対朝鮮交渉の過程と全権派 遣の趣旨を)Jßぺた覚書36)を提出した後、 まず森公使が清朝宗属関係について 質問した。 すると沈桂奈は、 「朝鮮国ハ裁国ノ属管礼部街門ニ隷スルj好ニシ テ…政教禁令ノ如キ総テ彼レノ自カラ為スニ任カスJと答えた。 37) これに
「政教禁礼既ニ其国ノ自カラ為スニ任カス其ノ外国ニ対スル事ニ至ッテハ如 何」との森の質問に沈は、 「外国ト交ル如キモ彼ノ自由ニ任セテ中国之ニ関 セサルナリ乃チ朝鮮ノ如キ我ガ属国タルヲ以テ我ガ貴国ト親睦ナル如ク彼ノ 貴国ト交ルモ猶然ラン事ヲ期望スJと明白に答えた。 沼) また、 冊封につい て、 それが清国の意、によるものかあるいは属国の請願によるものかの質問に 対して沈は、 「我ヨリ撰ミテ立ツルニ非ス彼ノ請ニ従テ珊封スルノミ我属国 皆然リ」と冊封が属国の要請によって行われていることを明らかにした。 39) 森は、 外国が朝鮮に武力を加えた場合、 清国の取る処置について開くと、 沈 は、 条約に基づいて処理すべきと答えたが、 これに対し森が、 各国との条約 文の中に属国についての条文があるのかと聞くと、 沈は、 「条約文中是ノ明 文アル事ナシト雌モ属国ヲ侵越スルコトハ情理上ニ於テ作シ得サルノ事ナ リ40)jと近代国際法上には通用しない論理をもって答えたのである。
ここまでの森の質問は、 朝鮮問題に入る前の清国の属国に対する基本的)T.
場を確かめるためのものであって、 朝鮮問題で清国側を論理的に攻めるため の事前工作であったとも言えよう。
そして森は、 いよいよ本論に入って「若シ不幸ニシテ裁ト朝鮮ト事有ルニ 至リ我勝チ彼敗シ我兵陸に上リ其戦地ニ於ケル勢ヒすヲ得シハ寸ヲ占メ尺ヲ 得レハ則尺ニ拠ラサルヲ得ス其時ニ至ッテハ貴国ノ之ヲ祝ル知ラス何等ノ観 を何倣スヤ」と日本兵が朝鮮の領土を占領した場合における清国の態度につ いて答弁することを求めた上、 「若シ今日此席ニ於テ凹決ヲ得サルハ明後12 日ヲ期シ其回決スル所ヲ書ニシ以テ之ヲ送リ示サノレ」ことを提案したが、 こ れに対して沈は、 恭親王の意見を聞いて回答することやその期日を13日にす
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ることを言ってその日の会見を終えた。 41)
この日の会談の結果、 清国の属国の概念と森が考えている属国の概念が全 く異っていることを縫認した森は、 両者聞の意見の一致は不可能であること を 知 った。 それで、 彼は、 礼儀上の立場から定義している清国の属国概念を 法律上の立場から定義している日本の属国概念に従わせるよう務 め、 清国側 の論理の矛盾を次第に追及した。
その翌日の1月11日、 森公伎は、 鄭永寧書記官を総理街門に 派遣し、 清国 政府が朝鮮に使節を急派して朝鮮が日本 弁理大臣(黒田)を応接して日朝国交 を聞くよう朝鮮政府に働き掛けてくれることを要請した。 これに対して総弁 周家鏑は「清国ノ朝鮮ニ於ケル只彼ノ方貢ヲ納レ彼ノ王位ヲ冊封シ或ハ両民 互市スル而己ノ事ニテ古ヨリ彼カ内事ニ与問セス其自主ニ聴カセJと述べ、
これは清代に始まったことではなく歴代の例典であることを説いて丙寅・辛 未洋擾の時も同じ理由で関与しなかったことを例に挙げ、 「此国守旧ノ頑固 ナル如此笑ニ奈何トモスベキナシト」述べて、 朝鮮の内政は自主に任せてい ることや、 朝鮮が頑固に鎖国を 主張しているので清国としても方策がないと 答え42)、 森の特使派遣の要請を断わる態度を取った。
総理街門は、 約束通り14日に日本側に10日の質問に関する回答を送った。
その中で、 総理街門は、 清国は朝鮮の政事には関与していないが、 朝鮮の安 全を切望している趣旨を伝え、 日本の朝鮮への武力行使については、 「須ク 自ラ万全ヲ�画シ務テ双方ノ情願スルヲ期シ各各彊土ヲ安ンシテ終ニ此ノ修 好条規ノ両国ニ属セル邦土ハ相侵越セザルトノ言ヲ守リ給ハン言ヲ是則チ本 王大臣ノ切二時所ノ者也」と10日の答弁とは異った反応を見せた。 43) すな わち、 前回の会談で、 沈は、 外国が朝鮮に武力を行使した場合の対策につい て「条約文中是ノ明文アル事ナシト雌モ…」と言って諸外国との条約(日 ・ 清修好条約合む)にそうした条文がないと明言したが、 今回の回答では、 日 清修好条規の「両国所属邦土ハ相侵越セズ」と言う条文を引用して日本の朝 鮮に対する武力行使があった場合、 それは日清修好条約に反する行為になる と答弁した。
これに対して森は、 翌円(15円)総理街門に書簡を送って次のように清国の 論理を反駁した。 すなわち彼は「同月十日総理街門談判中に朝鮮ノ地ハ清国 ノ所領ニ非ス故ニ彼尉ノ内政ニ干与スル事能ハス亦其外交ノ事ニ至テモ彼ノ 自主スルニ任スト明ニ言ヲ発セシヲ以テ観レハ其ノ所調属国の実更ニ見ル可 キ者無シ夫レ内政外交権利ヲ全有スルノ国ハ其政体勢力等ノ如何ニ拘ワラス
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之ヲ独烹自主ノ凶ト云フ;是レ公法諸家ノ皆其説ヲ同スル所ニシテ1--1.ツ欧米諸 国現ニ此ノ型ヲ公認シ其ノ外交ヲ掌理ス…万国公法第二編第一章第六三条ニ 此型
イ
大意ヲ論述セリ夫レ公法ノ理既ニ如此而シテ我カ政府ノ朝鮮ヲ認ル処 亦タ独立国ヲ以スルアルニ因リ今後凡ソ日本朝鮮ノ間ニ係ル事件ニ付テハ清 国政府ヲシテ片言モ容/レノレ事能ノ\サラシムルカ為ノ…44)Jと書いて、 清凶は 朝鮮と日本とのIMJにどんな事が起こっても日清修好条約により朝鮮のことを干渉することはできないと主張した。
つまり、 森は、 清凶が朝鮮の宗主国であるならば朝鮮に対して責任を取る べきであり、 朝鮮が独fr凶であるならば清国は、 朝鮮のことには干渉するこ とができないと言う論却を以て清国側に二者択ーの選択を迫ったのである。
特にこの時点で森は、 尉際公法上朝鮮の独立国たる地位を強調して、 日朝の 聞に起こるかも知れない武力衝突に清国の介入を排除しようと努めた。
この日本側の書簡に対して18日、 清国は、 また、 反駁書簡45)を送り、 19円 には日本側がこれを反駁する書簡46)を送る等、 両国間には同じ趣旨の論争が 繰り返されて結論には至らなかった。
こ こで森は、 総理街門が朝鮮に対して積極的に関心を持っていないこと や、 そうする余裕もないことを看破して総理衛門との論争を打ち切って、 事 実上清国の最高実力者であった直隷総督李鴻章との会見を決心し、 総理街門 にこれを申し入れた。 総理街門は、 李鴻章の外交手腕に事態解決の望みを 持って森公使の要請を受入れた。 李鴻章と森との会談は、 1月24日、 直隷省 城保定において行われた。
まず、 森は、 最近の世界情勢について論じ、 西洋学問に対する中国学問の 後れを説いた後、 凶際IMJの問題はいずれが強いかによって決まる「武力外 交」がものを言うのであり、 国家聞の条約は無用であると言い山した。 47) これは、 日清修好条約を用いて日本の朝鮮に対する武力行使を牽制しようと する清国の意図に釘をきすための発言であった。
これに対して李は、 条約の遵守と共に少なくとも10年間は到行条約を改正 すべきでないことを主長し、 両者は最初から対立した。 48)
次に朝鮮の独立凶としての地位問題について森は、 「条約中ニ朝鮮ハ貴邦 ノ属国タル旨ヲ明示セル条款アルヲ見ス之ニ反シテ我政府ハ終始朝鮮ヲ独立 不鴇ノ国ト看倣シ…貴政府曾テ明言シテ言フ朝鮮ニハ自家ノ政府アリテ随意 ニ内外ノ事務ヲ整理ス清困ノ、牽モ之ニ干与スル事ナシ」と清国政府の朝鮮に 対する不干渉政策を上げ、 朝鮮を独立国と看倣すべき事を主張したのに対し
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て、 李は、 「実ニ貴説ノ如ク朝鮮ハ独立ノ国ナリ然リト雌モ其国王ハ現皇帝 ノ命ニ依テ立ツ是ヲ以テ清困ノ属隷」する点から朝鮮は中国の属国であるこ とを主張し、i刈者とも自分の説を諮ろうとはしなかった。 49)
李は、 江華島事件が日本艦の挑発にその原因があったことを非難しながら も「朝鮮ニ於テハ貴国ト交通ヲ開クノ意ナキニシモア ラサル可シト難モ彼レ 深ク其彫響ヲ憂慮スル也子iシ他ノ各国貴邦ノ例ヲ追ヒ彼ノ狭黙ナル商業ヲ営 マハ朝鮮ノ\忽チニ表ヒセン是レ彼レノ恐ルル所ナリ」と一歩退いて、 朝鮮が 日本との修交を拒んでいるのは、 それが切っ掛けになって西欧への門戸開放 を余儀なくされることを恐れているからであると、 日本の理解を求めた。 日) 森は、 李のこうした態度の変化に自信を持って「此事憂フルニ足ラサルナリ 有クモ朝鮮ニ於テ其海岸ニ襟着ノ外国人ヲ懇待スル以上ハ外国通商ノタメ朝 鮮海測量ノ自由ヲ得セシメハ乃チ可ナラン」と、 日本との修交が直ちに諸外 国との通商.をもたらす事はないと答えた。51) さらに、 森は、 日本が中国や オランダと数百年の間通交関係を持ちながらも、 西洋諸国とは一切通交しな かったことを例にあげ、 朝鮮が中国や日本とのみ修交すればいいと説いて、
日本が朝鮮へ使節を派遣するに際して清国が好意的仲介をしてくれるよう李 を説得した。 臼) こうした森の説得が奏効したのか、 李は、 「朝鮮ノ事ニ就 テハ拙者急ニ一番ヲ総理街門ニ致サン」と森の要請を受入れ、 総理街門をし て朝鮮に妥当な方策を設けるよう働きかけることを約束した。 日) 森の李鴻 章との会談は、 成功したのである。
しかし、 ここで注目しなければならない事は、 李が1月24日の森との会談 で約束した内容は既に李によって意見書として総理街門に送られた内容で あったことである。 すなわち、 李は、 総理街門と森との論争について報告を 受け、 1月19円総型街門に意見再を送ったのである。
その中で、 まず、 李は、 江華島事件により日朝聞の武力衝突が起る可能性 を指摘し、 その場合朝鮮は軍事的に日本の敵にならない貧弱な国であるから 朝鮮は、 過去明に救援を要請したこのに倣い、 清国に応援を要請するだろう と見た。 さらに、 彼は、 朝鮮が日本に占領されれば東三省は藩蔽(まがき)を 失い、 清国自身も属亡掬来之愛にさらされることの問題点を挙げ、 次のよう な対策を提示した。 臼) つまり、 彼は、 日清修好条約の第一条を根拠にして 日本の朝鮮侵越を問責しでもその結果は効果的でないので、 日本が和を求め 武力を軽々しく用いないと明言しているうちに、 総理街門が朝鮮政府に日本 使節を礼遇するよう説得して、 日朝の武力衝突を予防するのが良策であると
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建議したのである。 日)
しかし、 彼は、i何回の通 商関係については、 朝鮮の向主に任せると?fう 態度を取っていたが、 彼の建議文の全体的な脈絡から見た;場合、 彼は朝鮮と 日本との外交関係の凶復を願っていたのであり、 これは後に述べる李鴻章と 朝鮮の実力者李裕元とのIMJに交換された書簡からもわかる。 56)
当時清国の実質的な外交政策の決定者であった李鴻章の以上のような建議 は、 総理街門によりそのまま取り入れられ、 朝鮮に伝えられたのである。
この李鴻章の建議を契機として清国の対朝鮮政策は、 政治的不干渉政策か ら干渉政策ヘー転換して行ったが、 こうした清国の対朝鮮政策の変化は主とし て李鴻章の判断によるものであった。
では、 李のこうした情勢判断は、 いかなる事情から生じたものであったの だろうか。 当時日本は、 清国に対して朝鮮を属国にするかそれとも独立副と 認めるかの二者択一を迫り、 それに相応しい処置を取るよう要求した。 それ で李は、 何らかの形で態度を取らなければならなくなり、 前者を選んで朝鮮 への説得をするようになったのであった。 李のこの選択は、 伝統的な朝貢制 度によって朝鮮を属国視する中国人の観念からのみでなく、 朝鮮を巡って行 われていた周辺国の動きや当時清国が置かれていた状況の不利きから出たも のであった。 つまり、 清国が従来の不干渉政策を取って朝鮮をこのまま放置 した場合、 日朝の武力衝突は避けがたいことになる。 日朝の戦争となれば、
まず気掛かりになるのがロシアの動きであった。 つまり、 そうなるとロシア が日本の朝鮮出兵を切っ掛けに兵力を黒竜江口に進駐させることはたやすく 予想できることであり、 実際にちょうどその時期に李は、 駐清フランス代理 公使のロシューとイギリス公使ウェードからロシア軍の黒・竜江山兵と朝鮮進 出意図に関する情報を得ていた。57) 李としては日朝戦争は防がなければな らない緊急の課題であった。 日本が朝鮮に出兵した場合、 朝鮮は清国に数援 を要請するだろうし、 ロシア兵のこの地域への進駐に清国が兵を進めないわ けにはいかない。 そうなると大騒動が起こることは必至であると李は判断し たのである。
当時清国は、 内外とも困難な状況に直面していた。 新彊省で起きた回教徒 の反乱は未だに平定されずこれに乗じてロシアは伊型を占領していた。 さら に1875年に起きたマーガリ一事件もまだ解決されていなかった。 そのほか前 年の日本の台湾遠征で暴泌されたように清国の軍事力が日本に比べて劣勢で あったという事情もあった。 このような事情のもとで、 清国政府は到底朝鮮
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を属国として支援する後勢を貰徹するわけには行かなかった。 日) こうした 園内外の事情も考慮した字鴻章は、 朝鮮が日本と国交を開始するよう働きか け、 この地域で予想されている紛争を予防しようとしたのである。
李鴻章が主導した清国の対朝鮮政策の変化がもたらしたのは、 まず、 朝鮮 の対日開国への政策変更である。 すなわち、 対日紛争の解決において清国に 大きく頼っていた朝鮮政府は、 清国の意思を確認することにより対日強行策 を和らげ対日戦争を避けようとしたのである。
もう一つは、 これにより清凶の対朝鮮政策が従来の朝貢制度による宗属関 係から近代的な意味の宗属関係への転換点になったことである。 すなわち、
この時期から清闘は、 朝鮮に対して儀礼的な関係の従属関係ではなく西洋式 の法的従属関係を以て宗主固としての権利を行使しようとしたのである。
3. 李裕元ととド鴻章との書簡交換と朝鮮の開国
清国は、 基本的には対朝鮮不干渉政策を維持しながらも朝鮮の鎖国自治政 策と日本の対朝鮮強硬政策とがぶつかって日朝戦争になった場合、 それが清 国にもたらす混乱を恐れ、 朝鮮政府に1876年2月に行った総理街門の官吏と 森有礼との会談の内容や、 森と李鴻章との会談内容を2回の呑文(通知文)を
出して朝鮮に知らせた。 59)
1回目の容文で、 総理街門は、 「森駐清日本公使が、 日朝交渉について清 国の関与を要請してきたのに対して、 清国は朝鮮が清国の属国ではあるがそ の政教禁令は一切朝鮮の自主に任せており、 清国は関与していないこと、 し たがって今回の円本との修交においても朝鮮の自主に任せるという趣旨の回 答をした。 こうした事実を朝鮮の国王に伝えるのを止めようとしたが、 日朝 関係は凶洋諸国と異り、 また、 日清修好条規第1款に両国所属邦土相侵越せ ずとの明文もあるので放置することはできないとの意見があった(だからこ の事実を通知する一筆者註)。 日本国公使の話によれば、 日本国全権が近く 朝鮮の者15門に至るということで、 総理街門はすでに森公使との交渉を終えた ので、 とりあえずこの主旨を朝鮮国王に知らせる必要を認めた印}Jと言うこ とを知らせたのである。
こうした清凶からの日朝問題に対する消極的な朝鮮不干渉政策の知らせ は、 もし円朝fMJに戦争が起った;場合、 清国は積極的に朝鮮に対する支援を行 う意、思がないことを示唆するもので、 朝鮮政府は大きな衝撃として受けたで あろう。
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2回目の呑文61)では、 江華島事件の解決のために朝鮮に渡る円本使館jに丁 寧な礼遇をすることと円本との和解を勧告した。 礼部から 2回目の容文が朝 鮮に着いたのは、 日朝修交条約が締結された後であったため、 この容文は条 約締結後の朝鮮の対円政策に彫響を与えたことはあっても朝鮮の開国に直長 な影響を与えることはなかった。
朝鮮政府が日本と条約による開国政策を選ぶのに影響を受けたのは、 総J!M 街門と森との1月10円から14日までの会見内容を知らせた 1回目の容文(1月 19日発送)であったが、 さらに、 朝鮮が対日開国への道を選ぶのに大きく影 響を受けたのは、 朝鮮政府の実力者李裕元と李鴻章との書簡であった。 62)
李裕元と字鴻章は、 1875年から1881年にかけて合計17凶の書簡を交換した が、 そのなかで李鴻章は、 日本の琉球併合までは「反露連日論Jから朝鮮に 対日開国政策を説き、 日本の琉球併合以降は、 日本への筈戒感から「反円鋸 連欧米論」の立場にたつ欧米への接近を説いていた。 臼)
朝鮮では、 1876年には対日開国を実行し、 1882年にはアメリカとの国交樹 立を始め、 西洋諸国に門戸を開放したが、 こうしたことは、 李鴻章の対外路 線にそのまま一致するものであったことがわかる。
ここでは、 1875年末から1876年の初めにかけて行われた両人の書簡の交 換、 特に李鴻章が李裕元に送った書簡の内容と、 それが朝鮮の対日開国に果 たした役割について調べて見る。
1873年以後、 実際的に朝鮮の政権を揮っていた高宗の外戚勢力は、 まだ政 治的な経験や知識が浅かったのみでなく、 政権から退けられた大院君勢力の 根強い抵抗もあって、 彼らを政治的に支えてくれる有力者が必要であった が、 李裕元はまさにその政治家であった。 64) 李裕元は、 1841年朝鮮の高級 官吏の登用試験であった科挙の文科に合格した後、 憲京・哲宗・高来の3代 にかけて国王に仕え、 高示親政以後には、 1864年に右議政、 翌年に左議政、
1873年に領議政(首相格)、 1875年には領中枢府事となり、 大院君の政治勢力 と対立していた当時の政界の有力者であった。 白)
1875年、 国王高宗は、 王世子を元子拓66)に定め、 例によって清の珊封を奏 請するため領中枢府事の李裕元を陣奏兼奏請正使に任命して清国に派遣する ことにした。 67) この頃、 朝鮮の内部では清国政府が元子の世子珊封を承認 しないだろうとのl噂もあって、 朝鮮政府では政府の笑力者であった李裕元を 奏請使に任命したのである。 飽)
李裕元は、 1875年10月北京に到着して世子冊封の使事を無事に終えて帰国
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途中、 直隷永平府に宿泊したが、 そこで彼は、 知府器産智開を通じて李鴻章に 書簡 を送った。69)
当時の朝鮮では、 対日修交問題で国論が分かれ、 国王の高宗としては清国 の意見を聞きたいと思っていたので李総元の書簡は単なる彼個人の私信では なく国王高宗の意を受けたものであった70)と思われる。
1876年1月9日に李鴻章に届いた李俗元の書簡は、 国事にふれていなかった が、 李鴻章自身、 李裕元が会談を要望する用件が対日外交に関するものであ ることは容易に推測できることであった。71)
李鴻章は、 李裕元の書簡を手にした翌日に返書を送った。 その返事の中で 李鴻章は、 朝鮮の開副問題について具体的には述べなかったが、 清国が鎖国 自治の不可能なことから門戸を開放せざるを得なかったことを明らかにした うえで、 外交に 言及して、 日本との国 交再開の必要性を示唆した の であ る。72)
これを見ても分かるように李鴻章は、 既に森有礼との会談以前から朝鮮の 対日開国の必要性を認識していた。清国においてこうした認識を持っていた 官吏は、 李鴻章のみではなかった。李裕元は、 奉天で奉天将軍崇実と会見し たが、 崇実は日本が近年旧制を捨てて西法に倣い火砲の鋭を持って自ら持み としているのに、 朝鮮は果たしてこれを防備する計画を持っているかと問 い、 暗に無謀な排外政策を戒めた。73)
李鴻章は、 江華島事件の処理における清国側の取るべき処置について総理 街門に提示した建議文の中で、 李裕元との書簡の往来に言及し、 李裕元を通 じて自分の意志を伝えたことを明らかにしていた。74)
こうした李鴻章の対日開凶を示唆する書簡や、 朝鮮の排外政策を望 ましく 思わない清国官支との接見は、 李裕元をして朝鮮の対日開国を決心させるの に十分であったと忠われる。
さらに、 清国滞在中に清国政府が日本と対等条約を結んで日本人の服制や 尊称等にも異議を唱えないで全く対等な礼を持って交流しているのを見たの も李裕元に対日開国の決心を容易にした要因になったのであ ろう。このよう にして朝鮮の対円開凶に対する清国の態度を確認した李裕元は、 1876年1月 12日帰国した。
4 . 対日開凶への道
朝鮮政府では、 大院君の失脚後対日i遊歩の態度を取り、 鎖国政策から積極
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的に対日政策の転換を図ろうとした。
しかしながら日本の書契受理問題は依然として解決されず朝鮮側の対応は 混乱していた。 書契受理問題が大院君下野以降にも容易に解決きれることが できなかったのは、 前にも述べたように政界の各分野に残っていた大院π勢 力の反発と、 衡正斥$派大臣や径益銭を代表とする儒林の根強い抵抗があっ たからであり、 そのうえ、 国王高宗を始めとする政権担当者の確固たる対円 政策にたいする 意志の欠如がその主な原因 であった。 例えば1875年6月13 日、 王宮の照政堂で聞かれた原任75)及び時任大臣、 政府堂上官76)以上の御前 会議で、 日本書契の受理問題を巡って論議が展開された。 この会議で、本卜珪 寿は日本は国の法制を変え、 隣好を主張しているが、 これを矩否すれば不利 の端初になろうから、 十分に考えた方がよいとの趣旨で書契の受理を主張し たが、 出席した35人の中で書契の受理に賛成した者は5人、 反対した者は7人 で、 残りの殆んどは可訴の決定ができず国王の決断に任せるという有り様で あった。77)
こうした中 で起きた江華島事件は、 一定した対 日政策方向を持っていな かった朝鮮政府に、 一層の混乱を加え、 朝鮮の国論は大きく分裂した。
江華島事件後、 日本政府は、 朝鮮に事件解決のための使節派遣を通報78)す る一方、 兵力を動員するなど迅速な対応を見せたのに対して、 朝鮮では和・
戦の両様の対策も持たない まま12月12日になってようやく書契問題につい て、 左議政李最応の緩和策が受入れられ書契の受理を決定した。しかし、 こ れをもって日本に対応するのは、 既に時期遅れであった。79) 政府のこのよ うな無原則の対応に乗じて在野の儒林たちは、 政権から退けられていた大院 君の政権への復帰と環者15を要求しながら、 対日修交反対の気勢を上げていた のである。加)
江華島事件を起こし、 朝鮮に強硬な姿勢を以て開国を迫っていた日本に対 する朝鮮の政治指導者の反応 は、 開化論が公論化され、 大きく和・戦両論に 分かれていた。頑固な鎖凶主義者であった大院君を中心とする一派は、 対円 修交に猛反対であり、 金術学・洪淳穆・梁憲株・李容照等を中心とする保守 的な強硬派もあくまで斥和論を主張し、 日本との一戦も辞きないという態度 を取った。彼らを支持していたのは、 佳益鉱・張。告根等を筆頭とする在野の 儒林であって、 雀主主鉱は政治的主義主張においては大院君と異った立場を 取っていたが、 対日修交反対という点では一致していた。
こうした在野の儒林の強硬な対日修交反対 は、 廟議にも大きな影響を与え
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た。 81)
一方、 右議政朴珪寿・堂上訳官呉慶錫などは、 世界の大勢を察知して、 鎖 国朝鮮に対する深い危機感から対日開国を主張した。 そ うした洞察力から開 国を主張する者は少なく、 外威勢力のように ただ反大院君というだけの理由 や旧交の回復という立場から、 開国に対する明確な所見も持たずに開国論に 賛成する者が多かった。
朝鮮政府 内で は、 いつまでも和 ・戦両論に対する議論が紛糾するだけ で、 容易に結論を出すことは出来なかった。
このように江華島事件後の対日政策を巡って朝鮮政府内で紛糾が続いてい た1876年1月12日、 世子冊封のことで奏請正使として清国に派遣された李裕 元が帰国したのである。 82)
彼は、 李鴻章と直接会談は出来なかったが、 李鴻章の書簡や清国官吏ら の態度から清国政府の意図を読んでいた。 李裕元は、 こうした李鴻章の意や 北京政府の雰囲気を伝えた上で、 対日開国が不可避であることを説いたロ こ れは国王と戚族勢力が大院君を中心とする排外論者を抑え、 対日開国への道 を開くのに大きな要因となったはずである。 回) 続いて同月13日、 清国の礼 部から1月10日�14日までの総理街門と森有礼との会談を記録した容文が到 着してその内容が明らかにされた。 84)
総理街門と森有礼との1月10日--14日の聞の会談の内容については前述し た通りであるが、 朝鮮側に大きな衝撃を与えたのは、 森が「政教禁令既ニ其 国ノ自力カラ為スニ任カス其ノ外国ニ対スル 事ニ至ッテハ如何Jと質問した のに対して沈桂姦が「外国ト交ル如キモ彼ノ自由ニ任セテ中国之ニ関セサル ナリ乃チ朝鮮ノ如キ我か属国タルヲ以テ我か貴国ト親睦ナル如ク彼ノ貴国ト 交ルモ猶然ラン事ヲ期望ス」邸)と答えた事であった。 こうした清国の明白な 対朝鮮不干渉政策と朝鮮に対日開国を勧告するような内容の意思表明は、 清 国を頼って権力の維持を図っていた外戚勢力だけでなく保守的衛正斥邪論者 の期待をも裏切る意外な事実であった。
外戚勢力はともかく正統的儒学者が主流を成している衛正斥邪派にも伝統 的に宗主国の中国に対しては情緒的信頼感を持っていて、 中国は朝鮮が危機 に置かれた際、 当然手を貸してくれると思っていたからである。 従って、 こ うした清国の明白な態度表明により戚族勢力は一層対日開国を急ぐようにな り、 斥和論者が心理的に萎縮したことは容易に推測できる。
もう一つ、 朝鮮政府をして対日開国の方向に政策を転換させるよう作用し
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たのは、 朝鮮に修交条規締結以外の何の補償も求めなかった森の巧みな政略 であった。 すなわち、 森は、 総理衛門へ出した覚書でも、 沈との会談でも、
日本政府が朝鮮に要求する第一の目的 は、 修好条規の締結であり、 これさえ 抱否しなければ日朝関係断絶の恐れはないと述べていた。 86) これを読んだ 朝鮮政府では、 日本の条約締結要求を旧交の回復程度と理解することになっ たのである。
こ うして、 部分的ではあったが、 開国論の公論化や初期的関化論者の開国 主張、 清国の意を伺ってきた李裕元の意見や清国からの容文の影響、 そして 当時実権を握っていた外威勢力の反大院君政策としての対日開国政策を背景 に、 2月14日の御前会議で接見大臣の報告を待 って、 交渉権を接見大臣に委 任することが決議 され、 2月18日、 議政府は、 開国通商を許可する啓言87)を 接見大臣に発送した。 これで朝鮮政府は、 日本に対する開国を事実上承認す る事になったのである。
このように朝鮮が日本との戦争を避け、 条約による開国をしたのは、 当時 の日本の対朝鮮政策たるものが武力を伴う侵略ではなく、 あくまでも条約に よる漸進的な朝鮮進出という征韓を図ったからである。
このような迂余曲折を経て1お8年以来続いてきた日朝両国間の図書を巡る 紛争 は、 一応終止符が打たれた。 しかしこれは、 両国において新しい葛藤へ の始まりを告げるものでもあった。
註
1)ロシアが朝鮮半島に関心を寄せるようになったのは、 バルカン半島を通じて の南下企図がイギリスやフランスにより挫折させられ、 東アジアからの陶
下政策の出口を探してからであった。 その一環としてロシアは、 lお4年朝 鮮の東海にある永興轡を強制占領した事もあった。 さらに、 ロシアは、
1860年11月、 清福北京条約の締結により沿海州地域を獲得し、 朝鮮と国境 を接するようになってからは朝鮮にたいして交易の要求をすることもあっ た。 このように、 ロシアは、 沿海州地方を手にいれることにより、 東アジ アでの勢力基盤の構築が可能になりバルカン半島に代えてこの地域から南 下政策を進める道を探していたのである。 しかし、 こうしたロシアの束ア ジアでの勢力拡張は、 反ってイギリスなど欧米国家の牽制を受けることに なり、 ロシアのこの地域での活動は非常に制約された。 たとえば、 ロシア は、 1861年太平洋進出の要衝地である日本の対馬を占領したこと があった が、 イギリスの厳しい抗議にぶつかり退去せざるを得なかった。 このよう
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なことから 、 ロシアは積極的な朝鮮への進出が清国はもちろんイギリスな ど欧米国家を刺激 することになり現状維持さえできない状況になるのを恐 れたのである。すなわち、 ロシアは朝鮮での勢力拡大が反って英仏によ る 朝鮮占領を促し、 沿海州の軍事的価値まで減少させることを恐れ、 対朝鮮 政策を非常に消極的にしたのである。ロシアのこうした恐れはイギリスに ついても同様のことがいえ る。イギリスもロシアを刺激しないつもりで朝 鮮への積極的な対応を向制して、 日本に朝鮮開国を勧めたのである。 ロシ アが、 本格的に朝鮮半島に関心を持ち、 朝鮮半島への進出を企てたのは、
1880年代以降、 朝鮮が欧米諸国と修交条約を締結してからである。(佳文 衡, 『帝国主義時代の列強と韓国』民音社,1990年。虚啓銭 『韓国外交史
研究』甲寅出版社,1983年参照)
2) 権普弘 「束アジア開沿期の不平等条約研究」一文明基準の視覚を中心にー 延世大学校博士論文, 1988年,27頁。
3) 李春植 「朝貢の起源、とその意味J r中国学報J 10, 961 9 年, 3-4頁 。 4)李春植 「漢代の縞燦政策と事大朝貢J r史学志J 4, 1970年,66頁。
5)閲斗基 「中国的天下秩序と韓国J r韓国人J 1984年,66頁。
6) この奉正朔は、 宗主権に対 する典型的な承認の表しで、 宗属国が宗主国であ る中国の冊歴・年号を使用する事である。これは、 外藩には天の運行を計 算する}語法の制定権がなく、 その暦法に基づいての年号の制定も出来な
かったからである。従って宗属国は中国で定めた暦法や年号を使う事に なっており、 宗属国が独自の年号を使うことは、 この朝貢秩序からの脱退 を意味した。
関斗基,向上, 67頁。
7)格普弘,前掲論文,27頁。
8)中国と朝鮮との宗属関係は時代と王朝によって異った内容を持っていた。特 に中国の主人公が漢族でない北方民族であった際は宗属国に たいする干渉 が強化される傾向があった。 元の高麗に対する干渉政策はその好例であ る。 中韓宗属関係については、 心村秋態樹教授回甲記念論文集刊行委員会 r韓中政治の伝統 と展開』 大旺社, 1犯4年。董徳模 「東洋における伝統 外交の概念ー韓国の伝統外交を中心として一J r中国学報J 10, 1978年。
秋態樹 「李朝末の韓中関係研究」 延世大学校 r延世論叢』 延世大学校 出版部, 1967年。茂木敏夫「李鴻章の属国支配観」東京大学中国学会編 r中国』第2号。浜下武it; 「朝貢貿易システムと近代アジア」日本国際 政治学会制 『世界システム論J (r国際政治J 82 号)有斐閣 1986年。
芳賀登 「阿片戦争・太平天国・日本J 田中正美先生退官記念会論文刊行 会 r 中函近代史の諸問題』 国書刊行会, 1984年。 ロナルド・トピ 佐 藤正幸(訳)r近世におけるH木型華夷観と東アジアの国際関係J r日本歴 史J 463 , 1968年参照。
9) Fairb卸11<, John K.,The trade and diplomacy on the China c,αぉt : 1百e opening 01 treaty ports, 1842-1皮)4, 2vols. Cambridge, Mass. Harverd Univ. Press, 1953, pp. 27-28.
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10) Key-HiはKirn,The l,αst phase 01 the east Asianωorld order : Korea,
Japan and the Chinese empire, 1皮幻-1882. Berkely : univ. of Califo口1Ìa press, 1980, p. 7.
11)権善弘, 前掲論;文., 28貞。
12)李用照 『韓国民放主義』 瑞文堂,1m年,146-150頁。
13)柳狼鏑朴忠錫共著 r朝鮮明の政治思想、』 平和出版社,1980年,104貞。
14)李用t�, 前掲書, 166-169頁。
15)金達中 「中国の対韓干渉及ぴ統制政策」延世大学校 r;社会科学論集J 12 1981年,34ー36頁。
16)金海宗 『韓中関係史研究』 一潮閣, 1986年,36-43頁。
17)向上,37頁。
18)向上。
19) 出・と新緑との文化交流は非常に活発に行われた。儒教の経典や仏経・仏像 の伝来と相互交換が頻繁に行われ、 多数の留学生や留 学僧が唐に渡って学 んで・いた。例えば840年には105人の留学生や質子が一時に帰国したことも
あって、 その交流の規模を物語っている。金海宗,向上, 44頁。
20)金海宗,向上,47頁。
2 1)向上 。
22)具箱談 「開港前李朝政治秩序の環境的与件に関する考察J r束斑文化』
10 , 1971年,239-240頁。
23)清朝の典型的な胡寅関係に見える両国間の関係 1) 経済的な関係
朝貢一歳幣と方物の品目が一定になったのは下代のことである。
請求 一 中国側の進買の要求を言い. 上代においては常貢と請求を区別す ることが困難な場合が多かった。
特殊貢物一生日 ・婦女・火者・馬など特殊な貢 物 賜物一中国の出賜
錨免一朝貢の錨免
2)儀礼的関係 ー これは中国側の強要度によって政治的関係(内政干渉)とも 言える. 特に封典の場合はそうである。
封典-建儲・嗣佼 ・冊妃・追崇・封爵・賜衣等 告哀-告言卜・講訟・賜訟
進賀-登極・尊場・尊訟・冊立・討平
民↓!慰-中国側の;虫-礼あるいは宮中の大火災の時。
賜除一朝鮮の臣下にたいする授爵・授職 勝村E 一朝鮮の目下にたいする縛他
謝恩一以上の いろ いろな場合に朝鮮が中国に感謝すること。
其他 一 中国皇帝が地方巡視時間安の 使行を送ること。往来文書の形式に 関すること。
3) 軍事的関係ー請兵あるいは援兵の派遣 中国側の要請
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朝鮮側の要請 4) 政治的関係及び其他
年号 一 中国年号の採用、 年号及び暦の採用は宗属案刑を象徴的に表わ す ことである.
)醤- 中国歴の採用及び天文関係の知識の交換 内政干渉一朝鮮の内政に関する中国の積極的な干渉
隙奏 ー 中国の資聞に対す る解明、 朝鮮の政治的重大事件に関す る報告 倭情 一 倭情に対す る朝鮮の報告
洋舶情形一朝鮮末期の凶F11の侵入に関す る朝鮮の報告 人質 一 人質・宿衛等の派送
通婚-主に宮廷fMJの通婿 其他
清朝の準朝貢関係に見える両国間の関係 5)政治的関係
境界一国境の設定、 その他の遁境問題 犯越 、 州選、 襟氏、
6)経済的関係 交易 犯禁
追徴ー私的債務関係あるいは紛失品の清算 7)文化的関係
儒学一経典・経学者 仏教一仏経・仏像・僧 道教一経典・道士
当籍-儒教経典・歴史書・其他 入学一中国留学因子蛇入学 技長一 工匠 ・画師・薬師・楽器等 金海宗, 前掲者. 31-32貞。
24)向上,60貞。
25)向上. 61-77頁。
26)例外的に孝宗年IMJに小規模の出兵を要求した事がある。 また倭情報告は1860 年代以降、 府 ・ 洋情の報告は1866-1879年まで行われた。 金海宗,向上,
64氏。
2:7) r朝鮮向I低遵奉正朔、 成時朝貢、 該国願否奉教、 非中国所能勉強、 碍難行
)(J
台湾中央研究院近代史研究所制 r清季中日韓関係史料J (以下関係史料と 称す)巻2. 30貞。
28)第四章第2節参照。
29)向上。
30)関係資料, 巻2. 30貞。
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31)田保橋潔, 前掲省, 515頁。
32)向上, 516-521貞.
33)雲陶ーでマーガリーが殺害さ れた事件.
34)朝鮮問題に就き清国駐筏j英国公使ト意見ノ交換ヲ遂ケタルニ閑シ報告ノ件
「明治九年第2号J機併別信第l号ノ1
1月5日英公使ウエド氏ヲ訪ヒ総理街門ニ示ス覚書ノ大意ヲ語リ且ツ問テ日ク 閣下ノ考へ如何清嗣ノ策朝鮮ニ説諭ヲ加へテ事ヲ平隠ニ謀ルニ出ルペキヤ否 ヤウエド氏自貴国ノ主意、和親条約ヲ結フニ在ルカ将タ貿易ニ在ルカ予日ク第 一ノ目的ハ江華烏漫ニ一所ヲ開クニ在ルナリ閣下ノ知ル如ク朝鮮ト裁トハ接 近ノ尉ニシテ彼遁ハ我凶民ノ航海スル者風潮ノ険難ヲ避ルニ必要ノ処ナリ故 ニ先ツ之ヲ談シ以テ我カ難船ヲ救ヒ且ツ字内ノ海客ノ為メニ永遠ノ便ヲ得セ シメントス而シテ朝鮮沿海測量ノ公許ヲ得又我国書ヲ異儀ナク接収セシムル 事ヲ談セントス此三件即チ今般弁理大臣ヲ発スル主意ノ最モ重モナルモノニ シテ外二十二ノ小件アリ清国政府若シ着手ヲ怠ル時ハ閣下或ハ説テ之ヲ為サ シムルヲ欲スルヤ否ヤウエド氏自欲セサルニ非レトモ我ヨリ之ヲ先ニ発スル ハ便ナラズ先般台湾ノ事我レ初メ之ヲ言フ時キ街門諸官以テ意トセス葛藤紛 錯スルニ至リ彼レヨリ米テ之ヲ謀ル我初メ言フ所ノ意ヲ以テ之ニ告ク彼則チ 喜テ之ヲ謝納ス故ニ今般ノ事ニ於テモ我ヨリ之ヲ発センヨリハ彼レヨリ来テ 我ニ謀ルヲ待ツニ如カシ貴君朝鮮事件ヲ我ニ語レリト云ハ、 彼或ハ来ツテ我 ニ謀ル有ンカ尚ホ総理街門ニテ御応接ノ上委曲承リタシト云々
右ハ英公使ト対談ノ大略二候総理衛門ニテ談判後ノ\未タ英公使二逢不申候是 亦為御含街啓申進候也
明治9年1月13�
『日本外交文書』 第9巻140頁。
35) r同本外交文書』 第9巻, 141-151頁。
36) �覚 書
一曾テ臨時代理公使鄭ヨリ
北京 森 有 礼
貴街門ニ報スルニ朝鮮凪発砲ノ情節ヲ以テセリ蕊ニ本大臣更ニ告ル所ノ有ハ 客歳九月二十日我火輪船壱隻牛荘ニ政往シ朝鮮国江華道漣ニ至リ将ニ淡水ヲ需 メントス岸上ノ磁台ヨリ|徒然発砲我船不意ノ繭声ニ逢ヒ勢極テ危逼ナルヲ以テ 巳ヲ得ス相当ノ防禦ヲ為シ僅ニ難ヲ免レテ本国ニ帰ルヲ得タリ夫朝鮮ハ数行年 通交ノ国ニテ殊ニ十年米ハ我政府心ヲ修交ニ尽シ数次使節ヲ派遣シテ其事ヲ謀 ラシム彼頑固ニシテ使意ヲ納レス而シテ接遇ノ際頗レー怪随ヲ形シ将ニ我使命ヲ 辱シムルニ至ラントスルモノ数回ナリ我国人之ヲ聞テ皆憤怒ニ堪ス屡暴動セン ト欲ス市シテ我政府ノ\偏ニ平和ヲ主トシ百方之ヲ抑へ勉テ其数年米謀ル所ノ平
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