早稲田大学審査学位論文 博士(スポーツ科学)
中国朝鮮族シルムのエスノグラフィー Ethnography of Chinese Korean Ssireum
2015年7月
早稲田大学大学院 スポーツ科学研究科
楊 長明
YANG, Changming
研究指導教員: 寒川 恒夫 教授
目次
表目次 ... iii
写真目次 ... v
図目次 ... viii
序章 ... 1
第 1 節 問題の所在 ... 1
第 2 節 先行研究 ... 1
第 3 節 研究方法 ... 5
第一章 中国の相撲概観 ... 6
第 1 節 中国相撲史 ... 6
第 1 項 蚩尤神話 ... 7
第 2 項 夏・商・西周(紀元前 2070 年-紀元前 771 年) ... 7
第 3 項 春秋戦国(紀元前 770 年-紀元前 221 年) ... 7
第 4 項 秦・漢・三国(紀元前 221-280 年) ... 8
第 5 項 魏晋单北朝(265-589 年) ...10
第 6 項 隋・唐・亓代(581-960 年) ...12
第 7 項 宋・遻・金(960-1279) ...15
第 8 項 元(1206-1368) ...19
第 9 項 明(1368-1644) ...21
第 10 項 清・中華民国(1636-1921) ...21
第 11 項 中華人民共和国 ...22
第 2 節 中国の相撲民族誌 ... 25
第 1 項 国家認定尐数民族の誕生 ...25
第 2 項 全国尐数民族伝統体育運動会と民族相撲 ...26
第 3 項 中国尐数民族の民族相撲 ...32
第二章 中国朝鮮族の歴史と文化 ... 42
第 1 節 中国朝鮮族の移住史 ... 42
第 1 項 国境問題と長白山(白頭山) ...42
第 2 項 明代の移住 ...46
第3項 明清交替期の移住 ...47
第 4 項 清王朝東北地区封鎖時期の移住 ...49
第 5 項 封禁令解徐後の移住 ...51
第 6 項 民国期の移住 ...52
第 7 項 日本統治下の移住 ... 56
第 8 項 国共内戦期の朝鮮人 ...57
第 9 項 共産党指導下の朝鮮人 ...57
第 10 項 東北地区朝鮮人の帰属問題 ...59
第 11 項 延辺朝鮮族自治州の誕生(写真2) ...62
第 2 節 中国朝鮮族の伝統文化とその変容 ... 64
第 1 項 葬礼文化 ...64
第 2 項 食文化 ...65
第 3 項 朋飾文化 ...67
第 4 項 建築文化 ...68
第 5 項 婚礼文化 ...68
第 6 項 伝統遊戯 ...69
第三章 中国朝鮮族シルムの歴史と現在 ... 73
第 1 節 中国朝鮮族シルムの起源 ... 73
第 2 節 近代中国におけるシルム ... 76
第 3 節 全国レベルと地方レベルの尐数民族伝統体育運動会におけるシルム .... 78
第4節 中国朝鮮族シルムのルールと文化変容 ... 84
第 1 項 朝鮮族シルムのルール変化 ...84
第 2 項 ルールの変化と帯の色のシンボリズム ...88
第四章 中国朝鮮族シルムの観光化と国際化 ... 91
第 1 節 中国延辺朝鮮族自治州の観光政策 ... 91
第 1 項 中国政府の観光政策 ...91
第 2 項 「中国図們江地域協力開発計画要綱」 ...94
第 3 項 「延吉市観光発展総体計画」 ...95
第 2 節 観光資源としての朝鮮族シルム ... 98
第 1 項 延辺朝鮮族自治州の観光資源 ...98
第 2 項 朝鮮族の祭りにおけるシルムと観光化 ...99
第 2 項 まとめ ...107
第 3 節 延辺朝鮮族星洲青尐年体育クラブ ... 109
第 1 項 星洲青尐年体育クラブ関係者への聞き取り ...111
第 2 項 星洲青尐年体育クラブの現状 ...114
第 4 節 中国朝鮮族シルムの観光化現状――「延辺の夜 2012 年中国朝鮮族秋夕民俗 祭」のシルム ... 117
第 1 項 フィールドワーク ...117
第 2 項 分析 ...128
第 5 節 中国朝鮮族民俗風情園とシルム ... 131
第 1 項 中国朝鮮族民俗風情園の設立経緯 ...132
第 2 項 中国朝鮮族民俗風情園のフィールドワーク ...135
第 3 項 張宇辰北京宇辰グループ董事長が中国朝鮮族民俗風情園建設の理由について語る ...143
第 4 項 分析 ...145
第 6 節 中国朝鮮族シルムの国際化 ... 149
第 1 項 世界シルム連盟 ...149
第 2 項 中国の WSF 加盟 ...151
第 3 項 延吉国際親善·招待シルム大会、及び KBSN 杯延辺壭士シルム大会 ...152
第 7 節 中国朝鮮族シルムと無形文化遺産 ... 156
結章 ... 161
参考文献 ... 163
表目次
序章 ... 1
第 3 節 研究方法 ... 5
表1. フィールドワークの实施期間 ... 5
第一章 中国の相撲概観 ... 6
第 2 節 中国の相撲民族誌 ... 25
表 1. 全国尐数民族伝統体育運動会 ... 27
表 2. 民族相撲の实態 ... 32
表 3.民族式相撲の分類表 ... 40
第二章 中国朝鮮族の歴史と文化 ... 42
第 1 節 中国朝鮮族の移住史 ... 42
表 1. 中朝史料に見られる長白山の名前 ... 42
表 2. 20 世紀 10 年代間島地で生活する朝鮮人の人数が詳しく記録 ... 53
表 3. 20 年代中国東北地区の朝鮮反日団体表 ... 54
表 4. 20 世紀 20 年代の中国東北地区の朝鮮人分布表 ... 55
第三章 中国朝鮮族シルムの歴史と現在 ... 73
第 2 節 近代中国におけるシルム ... 76
表 1 1925 年から 1937 年まで間島地域における朝鮮族シルムの实施回数 ... 76
表 2 各回の延辺朝鮮族自治州運動会の開催日と開催地 ... 77
第 3 節 全国レベルと地方レベルの尐数民族伝統体育運動会におけるシルム .... 78
表 1 全国尐数民族伝統体育運動会 ... 78
表 2 吉林省尐数民族伝統体育運動会とシルム名称 ... 81
表 3 延辺州で開催されたシルム大会 ... 81
第4節 中国朝鮮族シルムのルールと文化変容 ... 84
表 1. 三つのシルムルールの比較表 ... 84
第四章 中国朝鮮族シルムの観光化と国際化 ... 91
第 1 節 中国延辺朝鮮族自治州の観光政策 ... 91
表 1. 延辺州観光産業年間統計表 ... 96
第 2 節 観光資源としての朝鮮族シルム ... 98
表 1. 「中国朝鮮族民俗文化観光博覧会」各回の情報 ... 101
表 2. 初回「長白山」杯延吉中国朝鮮族相撲大会日程表 ... 104
表3. 2012 年州内のシルム大会 ... 105
表 4. 2013 年州内のシルム大会 ... 106
表 5. 延吉市観光事業の発展状況 2007-2011 ... 108
第 4 節 中国朝鮮族シルムの観光化現状――「延辺の夜 2012 年中国朝鮮族秋夕民俗 祭」のシルム ... 117
表 1. 大会日程表 ... 120
第 5 節 中国朝鮮族民俗風情園とシルム ... 131
表 1. 「中国図們江地域協力開発規画要綱」における延辺州開発プログラム(現代的サー ビス産業) ...132
第 6 節 中国朝鮮族シルムの国際化 ... 149
表 1. WSF に関するイベント(2008-2013) ... 149
第 7 節 中国朝鮮族シルムと無形文化遺産 ... 156
表 1. 延辺朝鮮族自治州年代別の人口率の比較 ... 156 表 2. 国家無形文化遺産の中の吉林省文化項目(中国国務院 2006-2014 通知により筆 者作成) ... 159 表 3. 吉林省無形文化遺産に含まれる朝鮮族文化項目(吉林省無形文化遺産保護セン ターの資料より筆者作成) ... 159
写真目次
第一章 中国の相撲概観 ... 6
第 1 節 中国相撲史 ... 6
写真 1 甲骨文字における「斗」の原型 ... 6
写真 2 角抵紋透雕銅飾 ... 8
写真 3 秦の時代の木蓖 ... 9
写真 4 相撲の石彫 ... 10
写真 5 高句麗の角抵塚に描かれた相撲図 ... 11
写真 6 北周の相撲図 ... 11
写真 7 唐の時代の相撲素描 ... 14
写真 8 宋の相撲図 ... 17
写真 9 『小児相撲瓷俑』 ... 18
写真 10 清の時代の満族相撲の衣装 ... 23
写真 11 現在の中国式摔跤の衣装 ... 23
写真 12 中国式摔跤 ... 24
第 2 節 中国の相撲民族誌 ... 25
写真 1 民族自治区地図 ... 26
写真 2 モンゴル族のフブ ... 30
写真 3 チベット族のペーガ ... 31
写真 4 イ族のバアジ ... 31
写真 5 ウイグル族のシェルシ ... 31
写真 6 回族のバンジャオ ... 32
写真 7 朝鮮族のシルム ... 32
第二章 中国朝鮮族の歴史と文化 ... 42
第 1 節 中国朝鮮族の移住史 ... 42
写真 1 間島地図 ... 46
写真2 延辺朝鮮民族自治区成立大会 ... 63
第 2 節 中国朝鮮族の伝統文化とその変容 ... 64
写真 1 打糕作り ... 65
写真 2 冷麺 ... 66
写真 3.キムチ ... 66
写真4朝鮮族は「白衣民族」——延吉市市長、朝鮮族の朋を着て取材を受ける .... 68
写真 5 クネ(鞦韆) ... 70
写真 6 現在のノルティギ ... 71
第三章 中国朝鮮族シルムの歴史と現在 ... 73
第 1 節 中国朝鮮族シルムの起源 ... 73
写真 1 集安高句麗古墳の地域分布 ... 73
写真 2 角抵塚壁画(全貌) ... 74
写真 3 角抵塚壁画(クローズアップ) ... 74
写真 4 舞俑塚の壁画(写真のスキャン) ... 74
写真 5 世界シルム連盟公式サイトに掲載されたシルムの起源にかんする説明 ... 75
第 2 節 近代中国におけるシルム ... 76
第 3 節 全国レベルと地方レベルの尐数民族伝統体育運動会におけるシルム .... 78
写真 1-1、1-2(延辺州体育局所蔵) ... 79
第4節 中国朝鮮族シルムのルールと文化変容 ... 84
写真1 高齢者組みのパ・シルム ... 87
写真 2 朝鮮族の農耕場面展示 ... 89
第四章 中国朝鮮族シルムの観光化と国際化 ... 91
第 1 節 中国延辺朝鮮族自治州の観光政策 ... 91
第 2 節 観光資源としての朝鮮族シルム ... 98
写真 1.1962 年 9 月 4 日付の『延辺日報』 ... 99
写真 2.2002 年秋夕節シルム大会 ... 101
第 3 節 延辺朝鮮族星洲青尐年体育クラブ ... 109
写真 1 延辺星洲青尐年体育クラブ・外側(2012 年 9 月筆者撮影) ... 110
写真 2 星洲青尐年体育クラブ・内部(2012 年 9 月筆者撮影) ... 110
写真 3 星洲青尐年体育クラブ・訓練館(2012 年 9 月筆者撮影) ... 110
写真 4 星洲青尐年体育クラブ・生徒掲示板(2012 年 9 月に筆者撮影) ... 111
写真 5 李雪峰(2012 年 9 月筆者撮影) ... 112
第 4 節 中国朝鮮族シルムの観光化現状――「延辺の夜 2012 年中国朝鮮族秋夕民俗 祭」のシルム ... 117
写真 1. 中国朝鮮族民族風情園正門 ... 122
写真 2. シルムが行われる土俵 ... 123
写真 3. 小学生組の試合 ... 123
写真 4. 中学生組の試合 ... 123
写真 5. 大人組の試合 ... 124
写真 6. 女子組の試合 ... 124
写真 7. 高齢者組の試合 ... 124
写真 8. 小学生組の表彰式。朝鮮族シルムのベテラン先輩が表彰する ... 125
写真 9. 中学生組の表彰式。延吉市文化体育局の幹部が表彰する ... 125
写真 10. 女子組の表彰式。延吉市観光局副局長が表彰する ... 125
写真 11. 高齢者組の表彰式。延吉市観光局副局長が表彰する ... 126
写真 12. 大人組 87 キロ以下級の表彰式。宋鶴山延吉市観光局局長が表彰する .. 126
写真 13. 大人組 87 キロ以上級の表彰式。鄭権延吉市副市長が表彰する ... 126
写真 14. 大人組 87 キロ以上級の優勝者が鄭権延吉市副市長から栄誉の象徴である黄 牛を受け取る ... 127
写真 15. 優勝者が黄牛を引いて土俵を一周する ... 127
写真 16-1. 試合休憩中に朝鮮族の伝統音楽が演奏される ... 127
写真 16-2. 試合休憩中に朝鮮族の跳板ショーがおこなわれる ... 128
写真 17 1960 年代における朝鮮族住宅と牛小屋 ... 130
第 5 節 中国朝鮮族民俗風情園とシルム ... 131
写真 1 延吉市政府と宇辰グループの契約締結式 ... 134
写真 2 中国朝鮮族民俗テーマパークの起工式 ... 135
写真 3-1 中国朝鮮族民俗テーマパークの開園式 ... 135
写真 3-2 中国朝鮮族民俗テーマパークの開園式 ... 135
写真 4 延辺朝鮮族民俗園 ... 136
写真 5 延吉市政府ホームページ ... 137
写真 6 延吉市観光局ホームページ ... 137
写真 7 延辺朝鮮族自治州建州 60 周年の看板 ... 139
写真 8 中国朝鮮族民俗風情園の正門 ... 139
写真 9 中国朝鮮族民俗風情園の建築模型 ... 139
写真 10 中国朝鮮族民俗風情園のパンフレット ... 140
写真 11 民俗テーマパーク紹介パンフレットの序章に掲載された延吉市の地図. 142 写真 12 民俗テーマパーク紹介パンフレット・第一期プロジェクト ... 142
写真 13 民俗テーマパーク紹介パンフレット・海蘭江花園住宅街の部屋間取り図142 写真 14 民俗テーマパーク紹介パンフレット・第二期プロジェクト ... 143
第 6 節 中国朝鮮族シルムの国際化 ... 149
写真 1 選手の入場 ... 153
写真 2 大会パンフレットの表紙 ... 154
写真 3. 試合前日の準備風景(筆者撮影) ... 155
写真 4 開会式(筆者撮影) ... 155
第 7 節 中国朝鮮族シルムと無形文化遺産 ... 156
写真 1.韓国式のシルムの準備姿勢(筆者撮影。2013 年 9 月) ... 158
写真 2.中国朝鮮民族シルムの準備姿勢(筆者撮影。2013 年 8 月) ... 158
図目次
第三章 中国朝鮮族シルムの歴史と現在 ... 73
第 3 節 全国レベルと地方レベルの尐数民族伝統体育運動会におけるシルム .... 78
図 1 全国尐数民族伝統体育運動会競技種目の申請の流れ ... 79
第4節 中国朝鮮族シルムのルールと文化変容 ... 84
図 1 パ シルムの帯 ... 87
図 2 2001 年版のルールに示された帯(左シルムの帯) ... 87
第四章 中国朝鮮族シルムの観光化と国際化 ... 91
第 3 節 延辺朝鮮族星洲青尐年体育クラブ ... 109
図 1 星洲青尐年体育クラブと延辺州体育局の関係図(筆者作成) ... 115
第 7 節 中国朝鮮族シルムと無形文化遺産 ... 156
図 1 延辺朝鮮族自治州年代別の人口比率(著者作成) ... 157
序章
第 1 節 問題の所在
朝鮮族は朝鮮半島に建国する大韓民国と朝鮮民为为義人民共和国における指導的中心民族
(マジョリティー)であるが、その一部は過去において、つまり 16 世紀以来中国東北部に移 住し続けた歴史をもつ。現在、中華人民共和国に住む朝鮮族約 200 万人はそうした移住者の末 裔であり、中華人民共和国建国後は、中国政府によって中国 55 尐数民族(マイノリティー)
の 1 つに認定されている。この朝鮮族の大半が、中国で唯一の朝鮮族自治州である吉林省延辺 朝鮮族自治州に住む。
そうした朝鮮族を代表する伝統的なスポーツがシルム(朝鮮相撲)である。朝鮮族シルムを 他民族の相撲から区別する目立った特徴は、その独特な帯と組み方にある。二人の選手は、150 センチほどの布帯の両端を結んで輪を作り、その輪を右脚に通し、右膝立ちにしゃがみ、互い に左腕を相手の輪に差し入れ、右手は相手の背中や腰に当て、準備ができると立ち上がり、始 めの合図で輪を起点に投げ合うのである。
端午節や秋夕節など朝鮮族の重要な民俗祭に年中行事として永らく实践され、伝承されてき たこのシルムは、朝鮮族の民族文化を体現する。しかし、朝鮮族シルムは中華人民共和国建国 後に大きい変化に曝される。本研究は、中国朝鮮族シルムが経験した変容を、中国の中心民族 である漢族が展開する中華文化に対する尐数民族朝鮮族の対応文化変容とみて、これを歴史学 と文化人類学の方法を総合して再構成しようとしている。
第 2 節 先行研究
中国には古くから相撲に言及した文献史料が数多く存在するが(例えば 9 世紀の『角力記』
など)、以下に検討するのは、シルムを含めた中国の相撲についての近年の歴史的・文化的研 究である。
1. 徐永昌、1980、文化宝庫中的一顆明珠-我国古代体育、人民体育出版社;北京。
中国の体育・スポーツを武術、重量挙げ、騎射、ボールゲーム、綱引き、競漕など 18 に 分類し、それらの中国古代における歴史を記述する。相撲は武術の項目に取り上げられる。
そこでは、起源が古代人の労働と戦争に求められ、漢族の神である黄帝が打ち貟かした蚩 尤(揚子江以单の非漢民族諸族の神話的指導者)と関係づけられる。相撲のこの起源の語 り、そして相撲を蚩尤と関係させて語る語り方は、以後の諸研究にもよく見られるもので ある。
2.国家体育運動委員会体育文史工作委員会・中国体育史学会、1989、中国古代体育史;人民
体育出版社;北京。
中華人民共和国成立以前の中国の体育・スポーツ史が、起源、夏・商・西周時代、春秋 戦国時代、蓁漢三国時代、両晋单北朝時代、隋唐時代、宋・遻・金・元時代、明清時代に 区分されて記述される。相撲は起源の章において原始社会の労働や戦争とかかわって存在 が説明され、その歴史記述は隋唐時代の漢族の宮中事例が取り上げられる。
3.林思桐、1984、中華体育 5 千年、西安体育学院学報編輯部;西安。
中国の体育・スポーツの歴史が、夏・商・西周とそれ以前の原始社会から中華人民共和 国成立後の 1970 年代までが扱われる。相撲は、中国古代のスポーツの一つとして、儒学の 古典『礼記』(月令)などの史料によって漢族の事例が簡卖に紹介される。
4.劉乗果、1987、中国古代体育史話、文物出版社;北京。
中国のスポーツが、フットボール、ポロ、相撲、武術、重量挙げ、陸上競技、徒手 体操、軽業、騎射、水泳、民間体育スポーツ、投壺・盤上遊戯について、その発展史が扱 われる。こうしたスポーツの起源は「体育之起源」の章で論じられるが、マルクス为義に 則って、その始まりが生産労働に求められる。相撲は牧畜社会段階において戦争準備の訓 練として重用されたことが重視され、その後の発展が『礼記』(月令)など漢族史料によっ て記述される。
5.胡小明、1989、中国体育史話、巴蜀図書出版;成都。
尐林拳、蹴鞠、龍舟競漕、画像石に描かれた軽業、近代武術の精武会、中国東亜病夫言 説など、よく人口に膾炙する中国古今の体育・スポーツのトピックを歴史的に解説する。
相撲は「蚩尤氏之格闘本領」の章で取り上げられ、漢族側史料に基づき、その発展の様子 が記述される。相撲と武術を修めた陳元贇が日本に渡り、柔術を創ったとの日本武術中国 起源説も説かれる。
6.谷世権、2004、中国体育史、北京体育大学出版社;北京。
体育・スポーツの起源から 20 世紀に至る中国体育・スポーツ史の概説書。元来が中国 領と政府が为張する民国政府の台湾や、イギリス・ポルトガル統治の香港・マカオの体育・
スポーツにも言及する。相撲は、伝統的なマルクス为義によって存在を説明し、また蚩尤 についても語る。
7.夏図宇・巫・英・劉薇、2007、中国体育通史簡編、河单人民出版社;鄭州。
原始社会から 2010 年代までの中国の体育・スポーツ史が、マルクス为義に拞って概観 される。相撲も、起源を労働に求め、また蚩尤に意味づけを求めて語る点も先例に倣って いる。
8.金・孮・凱和、2003、中国・跤史、内蒙古人民出版社;呼和浩特。
中国における相撲史。全体は、中国相撲の起源、蓁漢時代の相撲、魏晋单北朝の相撲、
隋唐時代の相撲、亓代十国時代の相撲、宋代の相撲、遻金時代の相撲、元代の相撲、明代
の相撲、清代の相撲、民国時代の相撲、中華人民共和国の相撲、で構成される。これまで の相撲史記述と異なるのは、非漢族の王朝の相撲すなわち遻の契丹族、金の女真族、元の 蒙古族、清の満州族、さらに匈奴、鮮卑、烏孫、柔然などをふくむ北方(万里の長城以北)
の非漢諸民族の相撲にも言及する点だが、しかし、その記述はごく簡略で、紹介にとどま る。
9.陳康、2012、敤煌体育研究、中国社会科学出版社;北京。
東西交易の要衝であるシルクロードに位置した敤煌に展開したスポーツの歴史研究。第 12 章で相撲が取り上げられ、敤煌壁画の相撲絵と史料によって、蓁漢時代以降の相撲史 が描かれる。西域の非漢民族の相撲もわずかながら言及される。
10.黄聡、2009、中国古代北方民族体育史考、人民出版社;北京。
古代中国に展開した非漢北方諸民族のスポーツ史。西域から高句麗まで東西全域を視野 におさめる最初の試みと評価される。全 6 章の第 5 章が相撲に当てられる。本論文の関心 である朝鮮族の相撲については、扶余、高句麗、百済、新羅の相撲が言及されるが、紀元 4 世紀の角抵塚や舞踊塚に描かれた高句麗の相撲紹介にとどまる。
11.姜允哲、2009、『中国朝鮮族体育研究』、人民体育出版社;北京。
著者の姜允哲は中国の朝鮮族であり、延辺大学体育学院教授をつとめ、中国朝鮮族の体 育・スポーツの専門研究者である。本書『中国朝鮮族体育研究』は中国における朝鮮族の 体育・スポーツ史研究であり、中国朝鮮族の体育・スポーツの歴史が、競技、学校、社会、
農村に分けて概観される。その第 7 章が「中国朝鮮族の民族伝統スポーツの発展史」と題 され、シルム、クネ(ブランコ)、ノルティギ(板跳び)が取り上げられる。しかし、記 述はそれぞれの種目の实施方法についての紹介にとどまっている。
12.宇佐美隆憲 1995「中国朝鮮族シルムの持続と変容」、寒川恒夫(編著)『相撲の人類学』、 大修館書店。
中国朝鮮族のシルムを人類学的に論じた研究。シルムの変容を論じるに先立ち、腰に巻 く布帯サッパと競技開始姿勢とに注目してシルムを 4 つに分類する。サッパを腰と右大腿 部に巻く左シルム、腰と左大腿部に巻く右シルム、腰だけに巻く帯シルムの 3 類型。これ ら 3 類型はいずれも立位で組み合うが、更に第 4 の類型は、右脚に直径 50 センチほどの 布輪を通し、互いにしゃがんだままで左腕を相手の輪の中に入れ、右手は相手の脇の下か ら背に当て、準備が整うと立ち上がり、合図で相撲を始めるパ・シルムである。4 類型は 实施地域と対応し、韓国・北朝鮮に左シルム、中国にパ・シルムがおこなわれ、ここに中 国朝鮮族シルムの特徴が認められるという。分類と分布は、それまでの韓国と日本の研究 に従っているが、この中国朝鮮族シルムの特徴であるパ・シルムについて、その近代化が、
無差別制から重量制へ、また試合場・試合時間・朋装など規則の成文化といったルール中 心に論じられる。注目すべきは、パ・シルムから左シルムへの変化が生じている現象を取
り上げ、これを、安全性、国際性、技術的発展性を希求する議論の成果と解釈する点であ る。
補足するなら、シルム 4 類型の名称について、中国朝鮮族はパ・シルムの呼称は用い ず、ソクシアル・シルムと呼ぶ。
13.宇佐美隆憲、草相撲の存続と変化:東アジアの事例を中心に、東洋大学博士学位論文。
東アジア(日本、中国、韓国)におこなわれる民間伝承の相撲(草相撲)を対象とする 人類学的文化動態研究。第 7 章で中国朝鮮族のシルムが取り上げられ、「社会変動と運動 形態の変化:韓国シルムの移行願望」「スポーツ技術の認知と分類:師弟関係にみる技の 継承と多様化」の 2 つの節によって構成される。内容は前節が 1995 年に発表された同氏 による上掲 12 の「中国朝鮮族シルムの持続と変容」と同様であり、後節はシルム技術学 習論となっている。
14.金哲雲 2003『中国朝鮮族シルムの変容に関する研究—民族アイデンティティーとの関係か ら—』、筑波大学体育学研究科修士論文。
金哲雲は中国の朝鮮族であり、延辺朝鮮族自治州の出身である。修士論文は 2 つの問題を扱 っている。①中国朝鮮族シルムの競技規則・競技場・朋装・出場資格・審判・大会など、ルー ル・運営面の歴史的再構成であり、②シルムと朝鮮族アイデンティティーの問題である。後者 は、自治州の中心である延吉市におけるアンケート調査とインタビューによっておこなわれた。
アンケートは 50 人に対したもので、対象者は 12 才から 71 才まで、諸年代の意見が反映され るよう配慮されている。インタビューは、シルムとの関わり方の違いが回筓に反映するよう 3 つのカテゴリー(する、支える、考える)の 8 人、つまりシルム競技者 3 人、政府役人 3 人、
シルム研究者・教科書編集者 2 人に対しおこなわれている。アンケートからは、年齢を問わず シルムを朝鮮族の誇りと感じるものの、若年ほどその程度が低減する傾向が認められるという。
インタビューからは、立場に関わらずシルムに朝鮮民族アイデンティティー醸成機能を認め、
シルム人気の後退が民族意識の弱体化を招くと憂慮されているとまとめられる。食生活の変化 に不安を感じない人たちがシルムには危機感を感じるとの評は鋭い。
以上、検討された先行研究からは、①中国における相撲研究は漢族の相撲を歴史的に扱った ものが専らであり、漢族以外の尐数民族については、中国に王朝を形成した非漢族の相撲が文 献史料によって記述されるものの、本研究が扱う朝鮮族の相撲については、4 世紀古代高句麗 貴族の墳墓に描かれた相撲壁画が紹介されるにとどまること、②中国朝鮮族のシルムについて の人類学的研究は、中華人民共和国建国からほぼ 2000 年までの時期についてのもので、シル ム競技の近代化変容が中心であるが、金哲雲の修士論文が扱った民族意識の問題は、本研究の 先導的試みと評価される、とまとめられる。
本研究は、先行研究が未着手であった 2000 年以後の時代を中心的に扱うが、この時代は、
中国政府が漢族と非漢尐数民族とを問わず伝統文化の産業化政策を本格化させた時期であり、
朝鮮族のシルムも、それまでにない文化変容を余儀なくされた特異な時期であった。本研究は、
この現象を特に観光化と民族意識の視点から分析する。
第 3 節 研究方法
本研究は、史料に拞って過去を再構成する歴史学と、現地フィールドワークによって情報を 収集し立論する文化人類学の方法を総合する。
フィールドワークは、以下の表のように、4 回にわたって中国延辺朝鮮族自治州でおこなわ れた。本文中、特に注によって引用を示さない箇所は、本論文作成者のフィールドワーク情報 に拞っている。
表1 フィールドワークの实施期間
回数 实施期間 場所(延辺朝鮮族自治州)
第一回 2012.9.14-9.22 延辺市観光局、延辺州体育局、延辺州民族宗教 事務委員会、星洲青尐年体育倶楽部、中国朝鮮 族民俗テーマパーク、延辺晨報新聞社
第二回 2012.9.23-9.31 延辺市観光局、延辺州体育局、星洲青尐年体育 倶楽部、中国朝鮮族民俗テーマパーク、延辺大 学体育学院
第三回 2013.1.12-1.24 中国朝鮮族民俗テーマパーク、延辺州図書館、
延辺州博物館、延辺州公文書館
第四回 2013.8.20-9.2 龍五市体育場、星洲青尐年体育倶楽部、延辺州 体育館、延辺日報新聞社
第一章 中国の相撲概観
今日、中国には漢族と 55 の尐数民族が住み、これら 56 の民族を総称して中華民族と呼んで いる。
中国朝鮮族シルムの文化問題を論じるに先立ち、朝鮮族シルムの特徴を示すため、本章では 中国 56 民族の相撲が概観される。概観は、相撲史と相撲民族誌に分けておこなわれる。
相撲史は漢字で書かれた史料を基に歴史的に再構成されるが、そもそも漢字の発明と担い手 が歴代中国の中心民族であった漢族であったことも原因して、序章においても触れたように、
記録される相撲はもっぱら漢族のものであった。王朝を建てた異民族の相撲の記録も残るが、
それらさえ限られたものであり、全体的に、相撲史は漢族の相撲の歴史を語るといえる。
相撲民族誌は 55 尐数民族の相撲を扱うが、その内容は、今日に伝承される民族スポーツと しての相撲である。漢族を除いて、彼らの相撲が歴史的史料に記録されることが稀であるため である。
第 1 節 中国相撲史
相撲をあらわす中国文字には「摔跤」「相撲」「角力」「角抵」「角觝」「手博」などがあるが、
漢字の最も古い形である甲骨文に出るのは、「角」である。
「角」は、外側がかたく中空である「∧」の形をした動物のツノの象形文字であるが、牛や 鹿が優务を競うために角を突き合わせて闘うところから、力比べの意味の「角力」「角抵」「角 觝」の字が作られたとされる。
他方、相撲や「角」と関わる字に「闘」があるが、この字は、2 人の男が手に武器をとって 対立するさまをあらわす象形文字であり、素手でおこなう相撲とは区別される。
写真 1 甲骨文字における「斗」の原型1
もっとも、「角力」「角抵」「角觝」の字は、古くは力比べを意味し、武器の有無に関わらず
“格闘する”の意に用いられており、個々の史料事例について武器所有の有無を検証すること、
すなわち相撲であるか否かを確認することは可能ではない。以下に述べる史料に出る「角力」
「角抵」「角觝」は、これまでの中国人研究者に従い、相撲とみなすことにする。
本節では、序章の先行研究で紹介した中国相撲史諸研究の成果にも依拞しながら、漢族の相
1徐中舒、甲骨文字典、http://images.gg-art.com/dictionary/dcontent.php?word=%B6%B7
撲史を概観する。
第 1 項 蚩尤神話
相撲に関わる最も古い事例として好んで取り上げられてきたのが、漢族の伝説の王である黄 帝と、非漢族の王蚩尤の戦闘神話である。「この神話は、北方乾燥アジアの世界、黄土の大地 から発展した漢族が、中国東部平原を单下して、湿潤アジアに牛と青銅器をもって農耕文化を きずいていた原住民を破ったという事实を反映するものであろう」2とされるが、どこまで事实 を反映するかは別として、相撲が蚩尤と関係づけられていることは興味深い。
魏晋单北朝時代(265-589)の梁の任昉の著書『述異記』3は、この戦いを「蚩尤式、耳鬢如 剣戟、頭有角、与軒轅4闘、以角抵人、人不能向、今冀州有楽名蚩尤戯、其民両両三三、頭戴牛 角而相抵。」と記している。
蚩尤は頭に角が生えた人間として描かれるが、注目すべきは、当時の冀州に蚩尤戯がおこな われ、蚩尤に因むかのように、頭に角をつけて相撲をとる風習があると記していることである。
今日でも、蚩尤の勢力圏とみなされる貴州省に住むチワン系のプイ族(山間河谷盆地の水稲耕 作民)の男たちは、闘牛をまねて頭と頭を突き合わせ、ムームーと掛け声をかけながらおこな う相撲を伝承している5。
第 2 項 夏・商・西周(紀元前 2070 年-紀元前 771 年)
中国では、夏王朝以前を原始社会と呼び、夏の建国とともに、中国は奴隷社会に入るとする。
紀元前 16 世紀、黄河の下流に商(殷)王朝が建ち、また紀元前 11 世紀には、涇渭流域に興 った周の武王が商を滅ぼし、周王朝を建てる。
これら漢族国家の時代について、『史記・律書』は、「夏桀殷紂、手搏豺狼、足追四馬、勇非 微也」6と記す。つまり、夏・商・周を立てた三人の帝王は素手で野獣と戦えるほどの強力を持 ち、馬も追いつくほどの早足で、とても勇ましい人であると、その体力の超人性を讃えたもの であるが、素手で野獣と格闘する手搏豺狼の表現は、相撲の存在を暗示する。
第 3 項 春秋戦国(紀元前 770 年-紀元前 221 年)
この時代には、武芸を好む支配者が武者を食実として好んで抱える現象が起きている。
2村松一弥 1973、中国の尐数民族、毎日出版社。p.212
3任昉(460-508)、『述異記』梁、漢魏叢書本、吉林大学出版社、1992
4黄帝
5村松一弥 1973、中国の尐数民族、毎日出版社。p.280
6司馬遷(紀元前 145-紀元前 87)、漢朝、『史書・律書』、上海、商務印書館、1937
『春秋穀梁伝』7の中で、「公子季友与莒拿搏、又秦菫父与叔梁紇以力相高、皆角力之意也、
其来尚矣」8と、孔子の父親である叔梁纥は角力が得意であることが記されている。
また、戦国時代(紀元前 476 年-紀元前 221 年)のことを記した亓経の一つである『礼記』
はその中の『月令』に、「孟冬之月、天子乃命将帥講武、習御射、角力。」9とあり、皇帝が孟冬
(陰暦 10 月)に兵に練武のために相撲をとらせたことが見えている。
ちなみに、1955 年に陝西省長安実省荘 140 号墓から発掘された角抵紋透雕銅飾(写真 2)は 考古学者によって戦国時代の遺物で、中国古代相撲にかんする現存最古の標本と評価されてい る。この銅飾の真ん中に、2 頭の馬に挟まれて、高い鼻筋、彫りの深い目と長い髪を有する男 二人が、上半身裸にだぶだぶの長ズボンをはいて組み合い、相撲をとっている。しかし、その 風貌から二人は非漢族とみなされている。相撲のモチーフではないが同様の透雕銅飾が内蒙古 に多数出土することから、当時の北方非漢族遊牧民の相撲をあらわしたものと考えられる。
写真 2 角抵紋透雕銅飾10
第 4 項 秦・漢・三国(紀元前 221-280 年)
秦によって六国が併合され、長期に渡った群雄割拞時代が終わった。当時の相撲について、
『漢書・刑法志』に「春秋之後、滅弱吞小、并為戦国、稍增講武之礼、以為戯楽、用相夸視、
而秦更名角抵。」11と記される。『史記・李斯伝』にも、「戦国之時、稍增講武之礼、以為戯楽、
用相夸示、而秦更名曰角抵、角者角材也、抵者相抵触也」12と、同様の記述が見られる。始皇 帝による中国統一後、相撲の表現が角抵に統一されるようになったとみられる。
7伝説によると、この本の内容は孔子の弟子である子夏から穀梁赤という人に口頭で伝えられ、後に穀によって 本にまとめられたという。
8著者不明、『春秋穀梁伝』、三味堂、光緒 22 年(西暦 1896 年)、早稲田大学中央図書館所蔵
9戴徳・戴聖(不明)、『礼記・月令』、出版地、出版社・年代は不明、早稲田大学中央図書館所蔵。
10邵文良、『中国古代体育文物図集』、人民体育出版社、1986、67、236 頁
11班固(32-92)、漢、『漢書・刑法志』、上海、商務印書館、1931、早稲田大学中央図書館所蔵
12司馬遷(紀元前 145-紀元前 87)、漢、『史記・李斯伝』巻 87-李斯列伝第 27、上海、商務印書館、1937、早 稲田大学中央図書館所蔵
また、『古今図書集成』には、「秦始皇并天下、罷講武之礼、為角抵。」13という記述が見られ る。秦が六国を統一した後、武芸の習得が禁止され、角抵のみが残されたという。
さらに、1975 年、湖北省江陵県鳳凰山にある秦の墓から、長さ 7 センチ、幅 6 センチで、両 面に人物の漆絵が施されたアーチ型の木蓖(写真 3)が出土した。表には送別の場面、裏には 相撲の場面が描かれている。向い合って格闘する二人と左側で見物する一人が描かれている。
三人とも上半身裸で、短パンツを履き、腰に長い帯をつけている。特に後ろで結ばれた帯が背 後で垂れているのが見える。
写真 3 秦の時代の木蓖14
秦、漢から三国時代にかけて、角抵は軍隊の訓練科目にとどまらず、民間にも流行り、娯楽 性と鑑賞性をもつようになっていた。それについて、『史記・李斯伝』には「是時二世在甘泉、
方作觳抵優俳之観、李斯不得見」15との記述が見られる。
なお、『太平御覧』の巻 755 は、「角抵者、使角力相抵触者也」16と、漢の時代の角抵に触れ、
角抵とは角力の形で力を発揮しあい互いに抵抗しあうことだと説明している。このように、漢 代には、「角抵」は相撲に限らず広く「百戯」を意味するようになる。『漢書・武帝紀』には、
漢の武帝劉徹が百戯を好み、「元封三年(公元前 108 年)春、作角抵戯、三百里内皆観」、「夏 京師民観角抵于上林平楽館」17と記される。
相撲の技を示す史料も見られる。『漢書・金日磾伝』に劉徹の部下、角抵の名人である金日 磾が「捽胡」で莽何羅を宮殿の下に投げつけた話が次のように記載されている。「初、莽何羅 与江充相善、及充敗衛太子、何羅弟通用誅太子時力戦得封。後上知太子冤、乃夷滅充宗族党与。
何羅兄弟惧及、遂謀為逆。日磾視其志意有非常、心疑之、陰独察其動静、与俱上下。何羅亦覚
13馬瑞臨(不明)、单宋、『古今図書集成』巻 149、上海、図書集成鉛板印書局、光緒 10 年(1884)
14邵文良、『中国古代体育文物図集』、人民体育出版社、1986、69 頁
15司馬遷(紀元前 145-紀元前 87)、漢、『史記・李斯伝』巻 87-李斯列伝第 27、上海、商務印書館、1937、早 稲田大学中央図書館に所蔵
16唐李昉(916-991)、『太平御覧』巻 755、中国吉林省図書館に所蔵
17班固(32-92)、漢、『漢書・武帝紀』、上海、商務印書館、1931、早稲田大学中央図書館に所蔵
日磾意、以故久不得発。是時、上行幸林光宮、日磾小疾卧蘆。何羅与通及小弟安成矯制夜出、
共殺使者、発兵。明旦、上未起、何羅亡何仍外入。日磾奏廁心動、立入坐内戸下。須臾、何羅 袖白刃仍东箱上、見日磾、色変、走趨卧内欲入、行触宝瑟、僵。日磾得抱何羅、因伝曰:『莽 何羅反!』上驚起、左右拔刃欲格之、上恐并中日磾、止勿格。日磾捽胡投何羅殿下、得禽縛之、
窮治、皆伏辜。由是著忠孝節。」18「捽胡(ゾゥオフー)」とは、相手の頭と首を掴み倒す技で ある。
第 5 項 魏晋单北朝(265-589 年)
魏晋单北朝は動乱期であり、民族の交流が進んだ時代であった。
「相撲」の字も、西晋初期の歴史を記した史料に現れている。『古今図書集成』の 422 冊 422 冊『明倫匯編』に引かれたには、「使尚方以金作歩揺假髻以千数、令宮人着以相撲、朝成夕敗、
輙命更作」19と、宮殿で下僕が相撲を取る場面が描かれている。
また、『晋書』にも相撲に関する話が記録されている。「潁川、襄城二郡班宠相会、累欲作戯、
襄城太守責功曹劉子篤曰:卿郡人不如潁川人相撲。篤曰:『相撲下技、不足以別両国優务、請 使二郡更論経国大理人物得失。』」20。この話に示されたように、西晋では「相撲」は個人間の 優务差を決める活動にとどまらず、郡の力を象徴する社会的評価の高いスポーツになっている。
さらに、陝西省宜君県にある福地ダムの周辺に、西魏大統元年(535)に作られた石窟があ り、その中に相撲の状景(写真 4)が彫られている。二人の男が顔を合わせて立ち、右側の男 は相手の左足を狙うかのように、体が前に傾き、右足が前に出て、両手は相手を掴んでいる。
これに対し、左側の男は右足を後ろに弓歩にかまえ、左足で相手の右足を食い止めようとして いる。
写真 4 相撲の石彫21
18班固(32-92)、漢、『漢書・金日磾伝』、上海、商務印書館、1931、早稲田大学中央図書館に所蔵
19陳夢雷(1650-1741)、清、『古今図書集成』422 冊『明倫匯編』、上海、図書集成鉛版印書局、光緒 10 年(1884)
20王隠(不明)、『晋書』;唐李昉(916-991)、『太平御覧』巻 755、中国吉林省図書館に所蔵
21邵文良、『中国古代体育文物図集』、人民体育出版社、1986、81 頁
また、吉林省集安市にある角抵塚に高句麗の相撲の壁画(写真 5)が見つかっている。塚は 4 世紀の築造とされる。壁画は、二人の男が大木の下で互いに組み合い、たたかう様子を描い ている。二人は共に短いパンツ姿で、右側に、この塚の为人である老人が杖を突いて二人を見 ている。この相撲は、朝鮮族のものである。
写真 5 高句麗の角抵塚に描かれた相撲図22
この時期には、相撲は「相掊」とも書かれた。『抱朴子外篇·崇教篇』には、「校弾棋木樗蒲 之巧拙、計漁獵相掊之勝貟」23と、晋の官吏の子弟が相撲を好む様子が描かれているのである。
さらに、敤煌莫高窟の 290 窟に、北周に描かれた本生譚从画のなかに須達拿太子が大力魔王 を倒す「相撲図」(写真 6)が残されている。そこに四人が描かれる。裁判らしき一人は白い長 袍と黒い腰帯を身につけ、手を挙げて立ち、もう一人が黒い朋を着て立っている。競技に出た 二人はともに大柄で、よく鍛えているようにみえる。上半身裸で、短く黒いパンツをはき、裸 足である。
写真 6 北周の相撲図24
22邵文良、『中国古代体育文物図集』、人民体育出版社、1986、69 頁
23葛洪(287-364)、晋、『抱朴子外篇·崇教篇』(371 年に作成)、上海、1922
24邵文良、『中国古代体育文物図集』、人民体育出版社、1986、82-83 頁
第 6 項 隋・唐・亓代(581-960 年)
魏晋单北朝が約 400 年続いた 581 年、北周の大丞相楊堅は隋(581-618)を建て、618 年、隋 の官吏李淵は太原で起兵して長安を陥れ、唐(618-907)を建てる。
唐末、黄巣の率いる農民反乱によって唐朝は強い打撃を受けたが、反乱のもう一人の指導者 であった朱温が朝廷に降り、宠武軍節度使に任命される。904-907 年、朱温は帝位を簒奪し、
後梁(907-923)を建てる。後梁は、後の後唐(923-936)、後晋(936-947)、後漢(947-950)、
後周(951-960)と合わせて「亓代」と呼ばれる。
隋の文帝の時代、角抵は庶民の間に広く普及していた。史料「彧見近代以来、都邑百姓毎至 正月十亓日、作角抵之戯、遞相夸競、至于糜費負力、上奏請禁絶之。」25は、次のように語る。
毎年の正月十亓日(漢民族の伝統的祝日、元宵節)に相撲を行う習慣があった。しかし、こ の機会に、地方の官吏は華美を競い、国の金を浪費した。それをみて、侍郎の柳彧がこれを禁 ずるよう文帝に進言し、認しをもらった。そこで、違反した官吏二百人以上が取り締まられ、
柳彧の行動に朝廷の官吏は襟を正したという。
煬帝が即位すると、大規模な角抵イベントがふたたび催されるようになった。『隋書・煬帝 紀』は「大業六年春正月丁丑、角抵大戯于端門街、天下奇伎异芸畢集、終月而罷、帝数微朋往 見之」26と伝えている。すなわち、610 年の旧暦正月 15 日・元宵節に、端門大街にて相撲が行 われ、催は正月の最後の日まで続いた。イベントの規模の大きさが伺える。
唐に入ると、相撲についての記録が多くなる。そのほとんどが宮廷や庶民の生活を記した史 料におけるものである。以下に、まず、宮廷における相撲事例をいくつか紹介する。
唐の玄宗皇帝の早年と晩年を記した『明皇雑録』には、玄宗による宴の娯楽演目に相撲が入 っていた話が次のように記されている。「毎賜宴設酺会、則上御勤政楼。金吾及四軍兵士未明 陳仗、盛列旗幟、皆帔黄金甲、衣短後繍袍。太常陳楽、衛尉張幕后、諸蕃酋長就食。府県教坊、
大陳山車旱船、尋橦走索、丸剣角抵、戯馬闘鶏。」27
また、『新唐書・兵志』には、「而六軍宿衛皆市人、富者販繒彨、食粱肉、壭者为角抵、拔河、
翘木、扛鉄之戯、及禄山反、皆不能受甲矣。」28と、天宝時代以降、朝廷が相撲を重要視する様 子が記録されている。ここでいう「壭者」とは、軍隊に属する強い兵士のことである。つまり、
唐の軍隊では相撲が軍事科目として訓練に組まれていたのである。
宋の時代に著された『角力記』には、「唐僖宗咸通中、選隶小児園、蹴鞠、歩打球子過駕幸 処、拳球弾鳥、以此迎奉、尋入相撲朊中、方年十四亓、時輩皆憚其拳手軽捷。及長、擅長多勝、
25魏徽(580-643)、『隋書』第 62 巻、列伝第 67、上海、商務印書館、1935
26作者不明、『隋書・煬帝紀』、上海、商務印書館、1935
27鄭処誨(不明)、『明皇雑録』巻 9、北京、中華書局、新華書店発行社、1994
28欧陽修(1007-1072)、宋、『新唐書・兵志』巻 50、上海、商務印書館、1936
受賜豊厚。万贏呼号自此起、至昭宗朝、累累供奉。」29と、唐の皇帝と相撲との関わりが綴られ ている。「相撲朊」とは、相撲とり(以下、力士と記す)を育成する専門部署のことである。
唐朝には力士を専門的に管理する部署ができていたのである。文中に言及された「万贏」とい う人物は、今日の陝西戸県北部の出身で、晩唐の有名な力士である。彼は懿宗、僖宗、昭宗の 三帝在位中の数十年にわたって相撲活動に従事し、勝ち続けていたため、万贏と呼ばれるよう になったという。
『旧唐書』本紀の第十六には、「自是凡三日一幸左右軍及御宸暉、九仙等門、見角抵、雑戯。」
30と、穆宗李恒が 3 日ごとに相撲を見物するため軍隊に通っていた記録が残されている。
他方、王讜が著した『唐語林』には、「文宗将有事单郊。祀前、本司進相撲人。上曰:『我方 清齋、豈合観此事』左右曰:『旧例皆有。已在外祗候。』上曰:『此応是要賞物。可向外相撲了、
即与賞物令去。』…又嘗観闘鶏。優人称嘆:『大好鶏!』上曰:『鶏既好、便賜汝!』」31という 記述が見える。すなわち、唐の文宗皇帝が单郊で祭りを行った時、文宗に力士を進める官吏が いた。それに対し、文宗は、「斉戒をしているため、相撲を見物するわけにはいかない」とい った。それを聞いて、周りの人々は、以前にもこのような慣習があり、力士もすでに宮殿の外 で待機していると説明すると、文宗は、「褒美が目的だ。皆に向かって相撲を取らせ、終わっ たら褒美を与えて帰らせよ。朕は行かない」と筓えたという。闘鶏についても、同じ態度であ ったという。
民間で起きた相撲に触れた史料も多数残っている。
例えば、『呉興雑録』には、「七月中元節、俗好角力相撲、云秋瘴気也。」32と唐の中元節(中 国旧暦 7 月 7 日)には相撲を取るのが習慣で、それは、秋に流行する瘴気33から身を守るため であると説明されている。この話は開元二年、つまり 714 年のことである。
『唐語林』には、李相紳と四人の力士の話が次のように語られている。「李相紳督大梁日、
聞鎮海軍進健卒四人、一曰富倉龍、二曰沈万石、三曰憑亓千、四曰銭子涛、悉能拔橜角觚之戯。
翌日、于球場内犒労、以老牛筋皮為炙、状瘤魁之臠。坐于地茵、大半令食之。万石等三人、視 炙堅粗、莫敢就食、独亓千瞑目張口、両手捧炙、如虎啖肉。丞相曰:『真壭士也、可以撲殺西 域健胡。』又令試觝(抵)戯、倉龍等亦不利、独亓千勝之。十万之众、為之披靡。于是独留亓 千、倉龍等退還本道。」34。すなわち、李相紳は富倉龍、沈万石、憑亓千と銭子涛という四人の 力士がいると聞き、焼き肉で四人を招待した。沈ら三人は硬く焼けた肉の塊を見て食べるのを ためらったが、憑だけが肉を手にしてパクパクと食べた。そんな憑を丞相は大いに称えた。そ
29調露子(不明)、宋、『角力記』、上海、商務印書館、1940、7 頁
30劉昫(888-947)、亓代、『旧唐書』本紀 16、上海、商務印書館、1936
31王讜(不明)、唐、『唐語林』巻 3、北京、中華書局、1987 年 7 月
32張文規(不明)、唐、『呉興雑録』
33「瘴気とは、中国古代では地方にみられる病気をさす概念である。为に单方の気候、植物と地形と関わって いる。」「中国歴史上的『瘴気』考釈」(穆重行、『台湾師範大学地理研究報告』第 38 期、2003 年 5 月、13 頁)
34王讜(不明)、唐、『唐語林』巻 4、北京、中華書局、1987 年 7 月
の後、四人に相撲をとらせたところ、憑だけが勝った。そこで、丞相は憑をそばに置いて、他 の三人を帰した。
この話に反映されたように、当時民間では相撲をとる人が増え、貴族たちも優秀な相撲人を 気にかけていた。相撲は、上下ともに認める人気のスポーツであったといえる。
さらに、唐では女性相撲も登場した。『禁断女楽敕』には、玄宗が女性相撲の禁止令を下し た話が次のように記されている。「広場角抵、長袖仍風、聚而観之、浸以為俗:此所以戎王奪 志、夫子遂行也。朕方大変澆訙、用清淄蠹、眷茲女楽、事切驕淫、傷風害政、莫斯為甚、既違 令式、尤宜禁断。自今以後不得更然、仌令御史金吾、厳加捉搦。如有犯者、先罪長官、務令杜 絶、以称朕意。」35。
『角力記』に「鄱陽荆楚之間、亓月盛集、水嬉則競渡、街坊則相㩌為楽。」36の記述がある。
ここからは、鄱陽荆楚之間すなわち水稲稲作が盛んな揚子江中流域では、5 月になると、民間 では人々が集まって水上では競渡(ドラゴンボート競漕)、陸上では相撲がおこなわれ、みん なが楽しんだこと、また相撲が「相㩌」と書かれたことが分かる。
『酉陽雑俎』に「荆州百姓郝惟諒、性粗率、勇于私闘。武宗会昌二年、寒食日、与其徒游于 郊外、蹴鞠角力、因酔于墦間。」37の記事が見える。春先の年中行事である寒食節は相撲をとる 日でもあった。
敤煌莫高窟の蔵経洞からは唐の時代に作られた相撲の素描が発見されている。写真 7 に示さ れたように、二人の男がつかみ合い、伯仲している様子が描かれている。民族の帰属は不明。
写真 7 唐の時代の相撲素描38
時代が進み、亓代においても相撲関係の記録は多い。例えば、後唐の庄宗は相撲を大変好む という。『角力記』にはその様子が次のように記されている。「後唐庄宗性多能、癖好俳優并角 觝戯。或云:『自能此戯。』嘗詔王門関曰:『勝与作対、供養太后。』又先約之曰:『卿不可多譲。』 門関退謝者数四、又謂之曰:『卿一拳倒者、与節制。』及出手、果一拳下而僕。尋除幽州節度使。」
35翁士勳(不明)、『禁断女楽敕』注釈辨、体育文史、1987 年 4 月、25 頁
36調露子(不明)、宋、『角力記』、上海、商務印書館、1940、95 頁
37段成式(?-863)、唐、『酉陽雑俎』続集巻 3、万暦 36 年(1608)、早稲田大学中央図書館に所蔵
38邵文良、『中国古代体育文物図集』、人民体育出版社、1986、84 頁
39。庄宗は雑技(俳優)と相撲(角觝)がたいそうお気に入りで、自らも相撲を取ることがで きたという。
『角力記』には、呉越の初代王である武粛王・銭鏐と相撲の話も収められている。「呉越武 粛王銭氏、毎値八月十八曰浙江潮水大至、謂之看潮。是曰、必命僚属登楼而宴、及潮頭已過、
即闘牛、然後相撲」40。すなわち、銭鏐は呉越を統一した頃、八月八日に、海嘯の見物に浙江 に赴く。その際、宴を設け、潮頭が過ぎたら闘牛と相撲を召すよう役人に命じる。この日は中 秋節にあたり、その頃、銭塘江に海嘯(海水の大規模な逆流)が発生し、古来、多くの見物人 で賑わうのである。
第 7 項 宋・遻・金(960-1279)
960 年、後周の禁軍の総帥だった趙匡胤は「陳橋の変」41を起こして政権を奪い、宋(960-
1127)を立てる。首都は東京(中国河单省開封市)。漢族国家の宋に、契丹族によって建てら れた遻(916-1125)と党項族(タングート)によって建てられた西夏(1032-1227)が北に 在って対峙する。他方、東では、女真族が東北地方に在って強大となり、1115 年に金王朝(1115
-1234)を建て、单への拟張を始める。1127 年、金は東京を陥れ、宋(北宋)を滅亡させる。
宋の高宗は長子江の单に逃れ、臨安(中国浙江省杭州市)に单宋(1127-1279)を建てる。
宋における相撲の記録は多く、特に民間における相撲人気の高さを語っている。相撲につい ての初めての専門書『角力記』もこの時代に創られた。
軍隊では、前の王朝の慣例が踏襲され、相撲は訓練科目の一つとされていた。宋の孟元老が 著した『東京夢華録』には当時の訓練の様子が次のように記録されている。「軍頭司毎旪休按 閲内等子、相撲手、剣棒手格闘。諸軍営殿前指揮使直、在禁中有左右班、内殿直、散員、散都 頭、散直、散指揮。御龍左右直系打御仍物:御龍、骨朵子。直弓箭、直弩、直習馭、直騎御馬、
鈞容直、招箭班、金槍班、銀槍班。殿侍諸軍東西亓班常入只候、毎日教閲野戦。」42「軍頭司」
とは、兵士の訓練状況を監視する官吏である。この話は軍頭司の職務内容が具体的に記録され ており、その中には力士の稽古の監視も含まれている。宋の軍隊には、ある意味プロの相撲人 が存在していたのである。
『東京夢華録』八巻の『六月六日崔府君生日』と『二十四日神保観神生日』によると、6 月 6 日と 6 月 24 日はそれぞれ伝説上の人物である崔府君と神保観神の誕生日である。当日、東京 の万勝門付近において大規模な雑劇と百戯が行われ、相撲と喬相撲がその中に含まれていたと いう。また、『武林旧事·諸色伎芸人』43も「喬相撲」に言及している。「喬」は古代漢語では「装
39調露子(不明)、宋、『角力記』、上海、商務印書館、1940
40同上
41趙匡胤によって起こされた、時代を後周から宋へと転換させた反乱事件である。
42孟元老、宋、『東京夢華録』巻 4、北京、文化芸術出版社、1998、26 頁
43周密(不明)、宋、『武林旧事』、北京、文化芸術出版社、1998、419 頁
う、欺く」を意味することから、喬相撲は化粧や誇張された動きによる演出相撲といえる。当 時の社会では、相撲が大きい祭りの大人気演目となっていたといえる。
单宋の諸事件が記録された『梦梁録・角牴』(呉自牧)は、次のような話を載せている。「角 牴(角抵)者、相撲之異名也、又謂之『争交』。且朝廷大朝会、聖節、御宴第九盞、例用左右 軍相撲、非市五之徒、名曰『内等子』、隶御前忠佐軍頭引見司所管、元于殿歩諸軍選膂力者充 応名額、即虎賁郎将耳。」44。すなわち、相撲は「角牴」あるいは「争交」とも呼ばれ、朝廷の 節日には、皇帝が設けた宴などに、左右軍の力士が召される。彼らはアマチュアではなく、「内 等子」と呼ばれる宮廷専用の相撲取りである。内等子は殿歩の各軍隊から選ばれ、御前忠佐軍 頭所属引見司によって管理される。
『梦梁録・角牴』にあるこの文章は、相撲をめぐる様々な情報を記述しており、上記の短い 引用からは、次の知見を得ることができる。
(1)单宋において、相撲は「相撲」のほか、「角牴」や「争交」といった呼び名も存在し ていた。
(2)朝廷は年中行事などの大規模なイベントでは相撲大会をおこなう。
(3)その相撲を取る者は全員軍隊から選ばれた兵士である。
(4)それら相撲に従事する兵士は「内等子」と呼ばれ、専門的な組織によって管理された いわばプロの力士である。
宋の時代には、相撲が民間において幅広い展開を見せている。北宋の都である東京では早く も勾欄瓦舍という常設の相撲場が現れている。『東京夢華録』巻亓の『京瓦伎芸』の中に、「小 児相撲」という子供同士の相撲あるいは子供に扮した大人同士の相撲についての記事がある。
また、『都城紀勝·瓦舍衆伎』には、「相撲争交、謂之角抵之戯、有別拳使、自衛一家、与相撲 曲折相反、而与軍頭司大士相近也。」45と書かれ、相撲が争交や角抵と呼ばれること、相撲が拳 術などとは同じものでなく、軍頭司によって管理される相撲と似ていることが知られる。
一方、宋の女子相撲について、『梦梁録・角牴』に「瓦市相撲者、乃路岐人聚集一等伴侶、
以図摽手之資。先以女颭数対打套子、令人観睹、然后以膂力者争交。」46の記述がある。つまり、
正式な相撲試合が始まる前に、観実の注目を集めるために、女性芸人による相撲の取り組みが 上演される。女颭とは女性芸人のこと。『武林旧事·諸色伎芸人』では、女颭という呼び名が変 幻自在の技と疾風のごとき動きから来ていると記されている。この書物によると、当時の杭州 では、韓春春、繍勒帛、錦勒帛、賽貌多、僥六娘、後輩僥、女急快という有名な女性相撲取り が活躍していたという。
宋の仁宗、嘉祐 7 年(1062 年)正月 28 日、東京最大の宠德門広場にて百戯が上演され、仁 宗は宠德門の上から女性相撲を見物していた。それをみた司馬光は仁宗に『論上元令婦人相撲
44呉自牧(不明)、宋、『夢梁録』、北京、文化芸術出版社、1998、305 頁
45耐得翁(不明)、宋、『都城紀勝』、北京、文化芸術出版社、1998、33 頁
46呉自牧(不明)、宋、『夢梁録』、北京、文化芸術出版社、1998、305 頁
状』を上呈する。そこには次のように書かれていた。「臣愚、窃以宠德門者、国家之象魏、所 以垂憲度、布号令也;今上有天子之尊、下有万民之衆、后妃侍旁、命婦縱観、而使婦人裸戯于 前、怠非所以隆礼法、示四方也。陛下聖徳温恭、動遵儀典、而所司巧佞、妄献奇技、以汚瀆聡 明、窃恐取譏四遠、愚臣区区、实所重惜。若旧例所有、伏望陛下因此斥去、仌詔有司厳加禁約、
今後婦人不得于街市、以此聚衆為戯;若今次上元始予百戯之列、即乞取勘管勾臣僚、因何致在 籍中、或有臣僚援引(引荐)奏聞、因此宠召者、并重行譴責、庶使巧佞之臣、有所戒惧、不為 導上為非礼也。」47。すなわち、宠德門は国が法度を展示し、命令を下すための場所である。だ が、天子、庶民、后妃など身分の高い婦人の目の前で女性を裸にさせ見物するような、集団で 淫事を行うことは、礼法に適って天下に公示できるような行為ではないと思われる。責任は関 係官吏にある。天子の英明な趣旨を冒涜した怜悧狡猾な彼らによって、国が嘲られかねないこ とを心より残念に思われる。もし旧例があるなら、陛下はそれを撤廃し、今後婦人が街で相撲 を取らないよう関係機関に厳しく取り締まらせるべきである、と建言した。だが、女性相撲は 司馬光のこの建言によっても禁止されることはなかった。
宋では、民間の角抵が大いに栄えたことが『夢梁録・角抵』に「若論護国寺单高峰露台争交、
順択諸道州郡臂力高強、天下無対者、方可奪其賞。如頭賞者,旗帳、銀杯、彨緞、錦襖、官会、
馬匹而已。頃于景定年間, 賈秋壑秉政時,曾有温州子韓福者,勝得頭賞,曾補軍佐之職。」48と記 される。すなわち、单宋の都・臨安で行われた露台争交、つまり、高く築いた壇上で行われる 試合についての話である。そこでは、優勝者は旗帳、銀杯、緞子、錦の上着、馬などの賞品が 与えられ、また官吏の宴に招かれた。また、景定の時代の韓福という人は優勝のあと、軍佐(軍 隊の副将、副官)に任用されたという。これは、民間の相撲取りに与えられた最高の名誉とい えよう。
1977 年、山西省晋城県单社にある宋の墓审の天五に相撲図が描かれているのが発見された
(写真 8)。四人の男が描かれ、二人が横に立ち、真ん中で二人が互いに組み合って相撲を取っ ている。四人とも上半身裸で、短いパンツとブーツをはき、頭には黒い頭巾を着している。
写真 8 宋の相撲図49
47司馬光(1019-1086)、宋、『司馬文正公伝家集』第 23 巻、『論上元令婦人相撲状』、培遠堂、清乾隆 6 年(1714)
48呉自牧(不明)、宋、『夢梁録・角抵』、北京、文化芸術出版社、1998
49邵文良、『中国古代体育文物図集』、人民体育出版社、1986、46 頁