第 Ⅲ章 迫退
1 第一次大極殿 院の地理的状況
奈良盆地北端のほぼ中央、三方が山や丘陵で囲 まれ、南 に平地が広 く開ける地 に平城京は造 営 されている。平城京 は和銅元年 (708)に元明天皇が下 した平城遷都 の詔 か ら、古代 中国の 設計思想 に したがい四神相応 と称 される吉相の地 を選んで建設 されたことがわか り、平城京の 平面 もまた中国の都城 とりわけ唐 の長安城 にならい宮 を京の北端 中央 に配置す る形式 を採 って いる。 したが って、平城宮 は地勢上、平城京の後背 に控 える奈良山丘陵の南麓 に位置 してお り、
全体 に緩やかな南下が りの地形 となっていることが第一の特徴 として挙 げ られる。ただ し、一 見平坦 にみえる平城宮内には、 自然地形 を反映 した起伏があって、奈良山丘陵か ら南へ舌状 に 延 びる
3本
の支丘の存在が確認で き、発掘調査やボー リング調査 の結果か ら、丘陵 を削 り谷地 を埋 めて全体 に平坦 な宮内の敷地 を造成 したことが判明 している。3本
の支丘の うち東側の支 丘上 には東院、中央の支丘上 には第二次大極殿院、そ して西偵1の支丘上 には第一次大極殿院が 位置 してお り、主要施設 を地理的な条件が良い丘陵上 に配置す るように宮内の施設配置が計画されていることが うかが える。
平城京の建設 にかかわる明確 な資料 は現在 に伝 えられていないが、中国の都城 との関係 を踏 まえれば、平城京の設計上の基点が、北極星、すなわち天の中心 を意味す る大極殿 に置かれて いた ことは想像 に難 くない。上述 した ように大極殿 は奈良山丘陵か ら奈良盆地 に延 びる支丘上 に建設 されているが、同時に大極殿や朱雀 門、朱雀大路等が配 される平城京の南北の中心軸 は 古代 の基幹道路の一つである下 ツ道 と一致 していることが知 られている。下 ツ道は南北 に長い 奈良盆地の中央部 を南北 に真直 ぐ延 びる道路であ り、その名が示す とお り盆地内の標高が最 も 低い ところを縦貫 し、古代 における交通の大動脈 として機能 していた と考 えられている。平城 京の建設 はこの下ツ道の軸線 を京全体 の中心軸 と定め、 この線上 に大極殿の立地 を定めること か ら始 まった と考 えることがで きる。
古代 における第一次大極殿 院の地形 については『平城報告 』 の中で、発掘調査で確認 され た土層 とボー リング調査 による土質サ ンプルにもとづ く詳細 な復原検討がなされている。その 成果 によれば、第一次大極殿 院は丘陵の 自然地形である南緩斜面や段丘 を利用 し、段丘上 に大 極殿 を含 む大極殿院の北半 を配 し、切土 と整地土 によって南か ら北へ段状 に高 くなる院内の地 形 を造成 してお り、 自然地形 を巧みに利用 した建設計画の一端 をみて とることがで きる。
現在、第一次大極殿 院地区か らは、北 は奈良山丘陵、東 は若草山、西 は矢 田丘陵ご しに生駒 山まで望むことがで き、 また正面 に広が る平地の向こうには、遠 く吉野の山々まで見渡せ る絶 好の立地であることが実感で きる。第一次大極殿 院は、下 ツ道 と交わる奈良山丘陵か ら張 り出 した支丘上で、東西南の三方 に視界が開ける高台 を選んで定め られたのであろう。 この ように 57
第Ш章
遺
跡
地理 的環境 か ら読 み とれ る第一 次大極殿 院の立地 は、
構 造 や建 設過程 に も少 なか らず影響 をお よぼ して い る
平 城京 の設計 思 想 の基 底 をな して、 そ の と思 われ る。
2 地形造成 の変遷
第一人大極殿 院地区は、丘陵の傾斜の とお り北か ら南へ緩やかに下が る地形 を基本 とす る。地区の北部 と南部では約
5mの
高低差があ り、この差 をうまく利用 して、区画内の施設 を計画的に造営 している。 また、第一次大極殿 院地区の北西部分 は造営前の地形が特 に低 く、X‑144,898付
近では、Y‑18,955付
近か ら西に向かって急激に下がることが確認 されてい る。地区の北側は、東半の地山の高い部分では地山を削 り出して平城宮造営時に整地作業をお こなっているのに対 し、西半では地山上に最大で約2mも
の盛土 を施 して平坦面を築いている。また、地区の南辺では、青灰色の地山上に整地 (南面回廊付近では約30cmが残存
)を
施す。この ように、第一次大極殿院地区の造営にあたつては、地山の高いところは削 り、低いところは盛 土をして全体の整地をおこなったうえで区画内の諸施設を築いているのである。なお、南面築 地回廊周辺にみ られる黒褐色粘質土 (第一次大極殿院整地上)か
ら、和銅3年
(710)の紀年木簡≒
N前2茶褐色礫混 リシル ト
1
茶褐色礫混 リシル トNJⅧ
NJ6Ⅷ
68 0
/
与
! II q5 111 42m(標高
67 0 A No17
71 o
\ 70oて
図
19
現状地形とボーリング調査 (『平城報告 』より転載)2
地形造成の変遷が 出土 してい ることか ら、第一次大極殿院地区は、平城京が遷都 された段 階ではまだ完成 して いなかった ことがわかる。
地 区の西辺では、黒褐色粘質土の整地 を施 し (第一次大極殿院西辺整地上
:1 1期
)、 基幹排水 路 (SD3825A)を 南北 に通す。 この基幹排水路 の上流 には後 の佐紀池の前 身 となる水源があつた もの とみ られ る。地区の東辺 に も基幹排水路 (SD3765)を 設 ける。
整地 をお こなった後、第一次大極殿院 を画す る築地 回廊 と回廊 内部 を整備す る。回廊部分 は、
北側 の地山の高い東半では地山を掘 り込んで、その他の整地 を施 した部分 では、整地上 を掘 り 込 んで掘込地業 を施すか、整地上の上 に直接 回廊基壇土 を積 み、回廊 を造成す る。回廊 の内側 は、地山を削 り出 して土壇 を造 り、土壇の前面 に碑 を積 んで擁壁 を築 く。土壇上 には大極殿 と 後殿 を中軸上 に建て、周囲は礫 を敷いて舗装す る。土壇 よ り南では、整地土の上 に礫 を敷 き広 場面 を形成す る。以上が平城宮造営 当初 にお こなわれた第一次大極殿 院地区の造営内容である
(I‑1期
。時期区分については次項で述べる)。その後、地 区の東辺で は基幹排水路 (SD3765)を 埋 め立 て、その東側 に新 たな基幹排水路 (SD3715)を 設 ける。第一次大極殿 院地区の南 には中央 区朝堂 院が造営 される
(I‑2期
)。 南面 では南 門の東西で築地の一部 を取 り壊 して2棟
の楼 閣建築 を増築する。それ まで回廊 内部の内 庭部分 は、北 か ら南へ と緩やかに傾斜 し、雨水 な どのつ'水
は回廊入隅部 に設け られた雨落溝で 受 け、回廊 の外へ は東南隅 と西南隅に設け られた木樋暗渠 に よって排水 していた。 しか し楼 閣 の増築 に ともない、南面 回廊北雨落溝 よ り北約
16mの
位置 に新 たに東西溝 を設け、南面 回廊か ら東西溝 の間は盛土 によつて地面の傾斜 を逆 に して東西溝 に水 を集め、東面お よび西面 回廊の 雨落溝 を通 つて回廊 の外へ排水す るように変更 した。 このつF水計画は奈良時代前半 を通 じて踏 襲 される。またこの頃、区画の西では再度盛土が なされ整地がお こなわれる (第一次大極殿院西辺整地上:
1 2期
)。 造営 当初 の整地上 の上 に新 たに土 を積 み、佐紀池 を造成 し、基幹排水路の取水 口を 佐紀池の南岸 に設 け、基幹排水路 を改修す る。I‑2期
の整地土 よ り神亀 の年紀 をもつ木簡が出土 してお り、その年代が明 らかである。
恭仁京か ら遠都直後の
I‑4期
には、築地回廊 の基壇 を貫 く木樋暗渠 を増設 し、それ にとも ない築地回廊 内側の雨落溝 を改修 し、内庭広場 の礫 を敷 き直す。地形 はI‑2期
を踏襲 してお り、変更 はない。 しか し、築地回廊 を貫 く暗渠 を大幅 に増設 してお り、特 に南面築地回廊の東西隅 部 に多 くの木樋が集中 していることか ら、区画内の排水 に苦心 したようである。
奈良時代後半 (H期
)に
は、奈良時代前半の区画 を変更す る。区画 を限る築地回廊 は、東西 幅は奈良時代前半の築地 を踏襲 し、南北幅 を狭 め、新たにほぼ正方形の区画 を設ける。区画内は、区画 を南北 に
2分
す る位置 まで、I期
以来の段差 を南 に拡張す るように盛土 をおこない、壇 の 前面 に石積 みの擁壁 を設ける。壇上 には新 たに殿舎群 を建 て、地表面は礫敷舗装 を施す。段 の 南側の広場 に も、礫が敷 き直 される。区画の西側 は再度整地がお こなわれ、基幹排水路 を改修している。
平安時代初頭 のⅢ期の遺構 も若千の整地土がみ られる以外 はⅡ期 とほぼ同 じ面で検 出 してお り、Ⅲ期 には大規模 な地形造成 はお こなわれず、 Ⅱ期 の地形 を踏襲 した と考 え られる。
j,
第 Ⅲ章
遺
跡
3 検 出遺構
検 出 した遺構 は、層位、 出土遺物、配置等 により、
I〜
Ⅲ期 の大 きく3時
期の変遷が認め ら れ る。I期はさらにI‑1〜 I‑4期
の4時
期、 Ⅲ期 はⅢ‑1・2期
の2時
期 に区分 される。各 時期 の年代比定 と遺構変遷 については第V章
で詳 しく述べ ることとし、 ここでは検 出 した各遺 構 について説明す る。遺構 は時期 ごとに述べ、 さらに① 区画内の遺構 、② 区画施設、③ 区画外 の遺構、 と分 けて説明す る。 なお、すでに [平城報告 』 で報告 している遺構 で、今回新 たな 知見のない遺構 に関 しては報告 を割愛 したが、新 たに検 出 した遺構 と関連す るものについては 再度報告す る。遺構 の大半 は国土方眼座標 (第Ⅵ系
)に
対 して北で西 にわずか に振 れ る。F平城報告 』 で は平 城 方位 (内裏北面築地回廊SC60の北雨落溝の方位を基準 としたもので、国上方眼座標北に対 し て西に0°07′47″振れる)に
近 い数値 を採 る と した。本報告 で はI期
南 面築 地 回廊 の中心 の点 (X‑145,115109、 Y‑18,850353)と 、SB7200(大
極殿)基
壇の中心 (X‑144,870673、 Y‑18,851236) を通 る直線 を、第一次大極殿 院地 区南北方向の中軸 とす る。その振 れは北 で西 に0°12′ 26〃で ある。1)
遺構の柱呑付 は建物の南東隅の柱 を起点 とし、模式図を付 した。
A 奈 良時代 以 前 の遺構
本報告範囲における奈良時代以前に属する遺構はわずかである。
SD3840(遺
構実測図17・ 18・ 19、 図版 9)第28次調査 区 を、北 西 か ら南 東 に流 れ る溝 。 幅約16m。 断面 は
V宇
形 で 、堆積 土最下層 (灰色粗砂
)よ
り、弥生 時代 後 期 の土 器片 が 出土 した。SK3833に掘 り込 まれ る。SD18222(遺
構実測図18、 図版 9)SD18220の下 層 で検 出 した古墳 時代 の 自然流路 。北西か ら南東方 向 に流 れ る。埋 土 よ り埴輪・
布 留 式土器 や炭化材 な どが 出土 した。
B I期 の遺構
I期は、南北3179m、 東西
1769mの
、築地回廊 によって囲 まれた区画で限 られ る。区画の 内部 は北3分
の 1を 壇状 に造 り、前面に碑積 みの擁壁 を設ける。壇上 の中央 には大型建物2棟
を南北に配置 し、擁壁 よ り南 は礫敷の広場 とす る。 また、東西の区画外 には、平城宮内 を南北 に横 断す る基幹排水路が設 け られる。以下、各時期の遺構 を説明す る。i I‑1期 の遺構
平城宮造営当初。大極殿 と後殿、区画施設などを造る時期である。
①区画内の遺構
SB7200(遺
構実測図8・ 9・ 10・ 13・ 14、 図版10,11・ 12・ 13、 図20・ 21)大
極 殿
SB7200は
基 壇 地 覆 石 の 据 付 ・抜 取 痕 跡 を検 出 した大 型 建 物 で 、 第 一 次 大 極 殿 に比 定 され る。」イ
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図20
大41Ttt SB7200遺構平面図 1 :400第Ⅲ章
遺
跡
南東部分 と南西隅部 は削平が著 しいため、地覆の痕跡は残存 していなかったが、北西部分では 溝状 の据付痕跡 と抜取痕跡が明瞭に遺存 していた。東西幅 は抜取痕跡の心 々で532m、 南北幅 は
287mと
なる。地覆据付掘方は、幅13〜1.6m、 深 さは内側が深 く、外側は徐 々に浅 くな り、深 い部分 で
20cm程
度残存す る。埋土 は茶灰褐色砂 質土。抜取痕跡 は幅04〜 05mで
、 ほぼ垂 直 に立 ち上が る。深 さは約15cm程
度が残存 し、埋土 は黄灰褐色砂 質土で、屍灰岩片や瓦片 を 含 む。 この凝灰岩片 は、分析の結果、「流紋岩質溶結凝灰岩 (ヤヽわゆる竜山石)」 と「流紋岩質凝 灰角礫岩 (二上層群 ドンヅルボー累層産出)」 であることがわかった。東面以外 の
3方
では地覆痕跡が外側 にコの字形 に突出す る部分があ り、いずれ も階段の取 り つ きを示す遺構 である。北面は全体 を4分
す る位置に3基
あ り、階段幅はそれぞれ等 しく、溝 の心 々で約50m(17尺
)、 階段 の出は約42m(14尺 )と
なる。北面 中央階段 と北面東西階段 の 心 々間距離 は約15mで
ある。西面 は階段 を中央南寄 りで1基
確認 した。階段幅は約52m(17尺
)、階段 の出は約
4.2m(14尺 )と
なる。南面 は、中央 に1基の階段痕跡 を確認 した。階段 の幅は約109m(37尺
)、 階段 の出は約44m(15尺
)。 他の階段 と異 な り、階段が位置す る部分 に も基壇 地覆の痕跡がある。後述のSB6680な どの前面 に建つ建物 との関係 よ り、南面階段 は基壇造営 後 しば らくして設置 された と考 えられる。東面は、階段 の痕跡 は確認 していないが、以上の成 果 より、西面 と同規模の階段が備 えられていた と想定す る。 また、 これ らの階段の位置 と基壇 の規模 か らSB7200の建物 の規模 は、桁行7間、梁行2間
の身舎 に1間の廂が まわ り、柱 間寸 法 は桁行約50m(17尺
)、 梁行約5,3m(18尺
)、 廂の出約4.4m(15尺
)と考 えられる。これ らの成果 をまとめると、発掘遺構 よ り導かれる基壇 の規模 と詳細 は以下の とお りとなる。
す なわち、SB7200の基壇規模 は、東西
532m(180尺
)、 南北287m(97尺
)と な り、階段 は、南 面 中央 に1基
、北面 に3基
、東西中央南寄 りにそれぞれ1基
が取 りつ くこととなる。基壇外装 は、地覆の据付痕跡が、外側が浅 く内側が深 く下が る
2段
掘 りとなることか ら、地 覆の外側 に延石 を設けていなかった と考 えられる。 また、地覆の抜取痕跡 はほぼ垂直 に立ち上 がっているので、地覆石 は抜取痕跡の中にお さまると考 え られ、その場合地覆石の幅は12〜 13
尺 と推測で きる。 さらに、地覆の抜取痕跡の埋土 よ り凝灰岩片が出土 していることか ら、基壇 外装 に使用 された石材 は疑灰岩 と考 えられる。
SB7200の南 で は、 後 述 す る東 西 棟 建 物SB6680を 検 出 して い る。F平城 報 告 』 で は、
SB6680の中央
3間
の柱 間の広い部分 は、SB7200建設当初 に設 けた南面階段 の位置 に相 当す る ため、他 よ り柱 間間隔を広 げて階段 を避けていた と解釈 した。 しか し、北面階段 と同規模 の階 段が南面 に も設 け られていた と仮定 し、北面階段 を南面 に折 り返す と、SB6680の柱穴 と重複基壇 西辺(X‑144,8686) 基壇 北辺(Y‑18,8724) 西階段 北側(Y‑18,8799)
X‑144,871
│
抜取痕跡 据付痕跡
H‐728m 2
図
21 SB7200基
壇・階段外装据付・抜取痕跡断面図1
3
検出遺構して しまい、 階段 幅が北 面 階段 よ りも狭 くない 限 り、両者 は併存 しない。 また、SB7200の南 面 西側 階段 が検 出 され なか った こ とよ り、SB6680は、SB7200の南 面 に階段 が存 在 しなか った 時期 に建 て られた もの と解釈 で きる。す なわち、SB7200の南面階段 は、北面階段 の ように3 基存在 したのではな く、中央 に北面階段 よ りも幅の広い階段が
1基
のみ取 りついてお り、 この 南面階段 は、SB7200建設 当初 は存在せず、後 に敷設 した もの となる。 この ことは、南面階段 の突出位置において基壇外装の痕跡が延長 していることか らも想定で きる。このほか、基壇土、柱穴 などの建物 に関す る遺構 は確認で きなかった。 また、雨落溝が確認 されていないことと、壇上西部で造営当初の舗装 と考 え られる礫敷遺構が確認 されていること か ら、SB7200には雨落溝 を設けず、周囲は礫敷で舗装 されていた と考 えられる。
SS17864(遺
構実沢1図8・ 9・ 10・ 13・ 14、 図版10・ 11・ 12・ 13、 図20)地覆石据付痕跡 よ り約
15m離
れた位置で検 出 した小穴列 で、SB72001こ ともなう足場穴 と考 えられる。柱 間は21〜 33mと
不規則で、柱穴の直径 は40〜 50cm、 深 さは40cm程
度が残存す る。SB6680(遺
構実測図13・ 14、 図版14、 図20)SB7200の南 に位置す る桁行
9間
×梁行1間の掘立柱東西棟建物。柱 間は、桁行 は東か ら2、5、
8間
目を約55m(19尺 )と
し、他 は約48m(16尺 )で
、梁行 は約6m(20尺 )で
あ る。第 295次 調査で、改めて北東部の柱穴3基
を確認 した。柱掘方が約08mと
小振 りであるため、仮 設的な建物 と考 え られる。SB6643,SB6636(遺
構実測図13・ 14、 図版14、 図20)大極殿SB7200の南 に位置す る掘立柱建物。SB6643は、『平城報告 』 で は桁行
4間
、梁行4間
と推定 していたが、第295次 調査で未発掘部分 を調査 した ところ、北側1間は検 出されず、梁行3間の掘立柱 の東西棟総柱建物であることが判 明 した。SB6680と の重複関係 は不 明。柱 間は、桁行、梁行 ともに約
30m(10尺 )等
間。柱掘方は隅丸方形で、一辺約08m。また、 この成果 を受 け、SB6636も 梁行
3間
の掘立柱 の東西棟建物 と改 める。柱 間、柱穴 の 規模等 は、SB6643と 同 じである。SB8120
大極殿後殿 である。北面築地 回廊南雨落溝SD130か ら南 に延 びる
L字
形の溝SD244を、北面 築地回廊 か ら後殿へ接続す る歩廊 の東雨落溝、SD244の南東 の南北溝SD8103を後殿 の東雨落 溝 と考 える と、後殿が存在 した と解釈す ることがで きる。 この場合、後殿 の基壇規模 は東西51m以
下 とな り、南北幅 は不明。後殿その ものの遺構 は未検 出であ り、大部分 は未発掘部分 に 位置す ると考 えられる。SX6600・
SF9232A・ SF14255A(遺
構実測図12・ 13・ 14・ 15・ 16、 図版15'16・ 17、 図22・ 23)区画 内部 の北
3分
の1の位 置 で、丘 陵 の支脈 をほぼ東西 に切 り崩 し、上 部 を削平 して、SB7200な どの遺構 がの る広大 な土壇 を形成す る。その土壇 の段差の前面 には、碑 を積 み上 げ た擁壁SX6600が築かれ る。東半 は『平城報告 』 で既報告であるが、西側入隅部 よ り西側斜 路へ続 く部分 と東側斜路の一部 を新 たに検 出 した。
碑積擁壁 は、土壇の前面 を東西 に約
100mに
わたって直線的に延 び、約55°の角度で東側 は東 南へ、西側 は西南へ屈 曲 し (第1屈曲点)、 約mm直
進 した後 に、東側では東南東 に、西側では 西南西 に約22°の角度で屈 曲 し (第2屈曲点)、 さらに約12m直
進 した地点で南 に折れ曲が り(第足
場
穴
樽 積 擁 壁
jタ
斜
第Ш章
遺
跡
3屈 曲点)、 東側斜 路SF9232A・ 西 側斜 路SF14255 Aを形 成す る。
東 半 で は、地 山 を切 り崩 した直上 に碑 を積 み上 げ るが 、西 入 隅部 よ り西 で は、地 山の上 に盛 土 を施 し碑 を積 み始 め る。積 み上 げる際 に、背面 の地 山壁面 お よび盛土 との間 に、 白褐色粘 質 土 の裏込土 を入 れ、前面 を揃 え、碑 と碑 の間 に も同 じ土 を用 いて積 み上 げる。盛土上 に積 む部 分 で は、碑 の破 片 をか ませ るな どの高 さ調節 をお こなってい る。
擁 壁 は、最 も残 りの良 い部分 で最 下段 よ り
7段
までが残存 していた。西側 の斜路 で は碑積 と そ の抜 取痕跡 とみ られ る溝 を検 出 してい る。碑積 の傾斜 は、前面 で約73°、 第1屈曲点 よ り第2屈
曲点 まで は約70°、第2屈
曲点 よ り第3屈
曲点 まで は約65°、 第3屈
曲点 よ り南 の斜 路 の部 分 は、斜路 自体 の積 土が失 われ、碑 も最大3段
分 を残 す程 度 で角度 は不 明で あ る。720mH‐
710mH苺
H‐710m
―
―
―
―
―
―
― 一
― ―――――― H=
Y‑189085 700m 図
22
薦積擁壁SX6600
断面図1:50
m H≡
705
一
H‐
705m
705mH=
X‑144,902
│
‐ ̲̲― 一
― … …
一
← 第2屈 曲点ヘ
3
検出遺構碑 積 に使用 され る碑 の法量 は、長 さ約30cm、 幅15〜 16cm、 厚 さ約8.5cmで、 日地 を1段置 きに揃 える長手積 み を基本 とす る。屈 曲点 で は、隙 間 をつ くらない ように斜 め に打 ち欠 いた り、
小 口面 が正 面 になる ように揃 えて積 んだ りとい った調節 をお こなってい る。
擁壁 の当初 の高 さは削平 によ り不 明であるが、仮 に壇上 の南北 の傾斜 をⅡ期 で検 出 した南 北溝 と同 じである として、SB7200の地覆石抜取痕跡検 出高か ら南 にお ろ して くる と、擁壁の 天端 は標高
726m程
度 となる。擁壁前面の礫敷面 (SH6603A上 面)と
の高低差 は約2mと
な り、碑 は約25段積 まれていた と考 え られる。 また、第
3屈
曲点か ら南の碑積 か ら回廊雨落溝 までの 範囲を斜路の路面 とす ると、斜路の路面幅は約16mと なる。SX17865(遺
構実測図6、 図版27)平城宮造営当初 の、SX6600北側の壇上部分の舗装面。径
4〜
8 cmの礫 を整地土直上 に敷 き 詰める。壇上の西辺付近 にのみ残存す る。西の限 りは西面築地回廊東雨落溝の東肩 を形成す る 見切 り石 までである。SH6603A(遺
構実測図14・ 15。 20・ 21・ 22・ 23・ 24、 図版18)碑積擁壁SX6600の南か ら、回廊 内側の雨落溝 までに広が る、礫敷 を施 した大極殿 院の内庭 広場 である。F平城報告 』 ですでに報告 した ところであるが、西半の状況 と併せ て改めて報 告す る。
第一次大極殿 院の造成段 階では、北側の高い部分 は地山を削 り、南の低い部分 は地山上 に盛 土 をして整地 を し、回廊 の基壇土 を積 み上げ区画 を整備す る。碑積擁壁 よ り南の内庭部分 には、
この整地土 に径
5〜 10cmの
礫 を敷 き、内庭部分の舗装 としている。碑積擁壁際の標高 は
705m付
近、南面築地回廊北雨落溝際では675m付
近 とな り、約3mの
高低差が認め られ、北か ら南 に緩やかに傾斜 していることがわかる。
SD7142(遺
構実測図15)広場 内 を南北 に通 る素掘 りの溝。幅約12m、 深 さ15cm。『平城報告 』で既報告の遺構で あるが、今 回改めて検出状況 を検討 した。
SD7142は、
X‑144,925か
らX‑145,072に かけて断続的に検 出 している。北端 は第217次東調 査 区において も確認で きず不明である。また、南 にい くにつれ遺構が不鮮明 となっている。もっ とも良好 に検 出 した北半部分では、内庭広場 の下層礫敷SH6603 Aを 掘 り込み、後述す る上層 礫敷SH6603Cに
覆われるが、中層礫敷SH6603Bと
の重複関係 は不明である。 よって、『平城報 告 』 で報告 したように、中層礫敷 にともなう東西溝SD5590Aと
の重複関係 も不明である。なおSD7142は、大極殿 院地 区の南北 の中軸 よ り東 に
185mに
位置す る。 中軸 の西側 に対称 の遺構 を想定 し、両遺構が広場内中央 を通 る南北通路の側溝 とす ると、溝 と溝の間隔=通
路の 幅は約37m(125尺
)と なる。② 区画施設
I期の区画施設は、周囲を複廊 の築地回廊で囲い、南面 中央 に南門を設ける。
SB7801 A(遺
構実測図24、 図版19、 図24・ 25)大極 殿 院 の南 面築 地 回廊 中央 に開 く大極殿 院の正 門。 F平 城報告 』 で報 告 した後 、北 面 階 段 西側 と南 面 階段 の調査 をお こない、新 たな成果 を得 た。 旧成果 と併せ て報告す る。
南 門SB7801は、基壇 よ り上部が削平 されてお り、柱 位 置 を示 す痕跡 は失 われてい る。 しか し、
壇上 の舗 装
内 庭 広 場 (下層礫敷)
大 極 殿 院 居朽 F弓
第 Ⅲ章 跡
Eo
∞Φ
亡還
..
一 ヨ 翼
X‑145,107
│
図24
SD18200
南Ftt SB7801 Jヒ 辺
Y‑18,846
│
│
平面 図・ 断面 図
1:60
Y‑18,844
│
145,122X―
X―
145,124 二̲̲̲̲―
下日の階段
SH18591
…上層 階段 にともなう遺構 下 層階段 にともなう遺構
│ │
図
25
南門SB7801南面階段地覆抜取痕跡1:50
基壇にともなう掘込地業や、基壇外装 と南面・北面階段の地覆の痕跡、その周囲を巡る雨落溝 などにより、その存在 と規模の想定が可能である。
南門付近では、地山上 に30〜
50cmの
整地土 を積み、基壇の掘込地業 を施す。掘込地業は、南北17.45m、 東西312m、 深 さ50〜
60cmの
方形で、掘込地業底部の四周 と中軸線の東西約5,7ω
X一
︲45︐︲ 一
3
検出遺構mの
ところでは帯状 に礫 を敷 く様子が確認 されている。 この うち北辺 と西辺以外では深 さ20〜30cmの
溝 を掘 り込んで礫 を詰めてお り、 さらに東南隅を40cmほ
ど深 く掘 り込んで礫 を詰め込 んでいることが確認 された。基礎部分の水抜 きの役割 を担 っていた とみ られる。掘込地業 は版 築 により、礫混 じりの粘質土 と砂混 じりの粘質土 を5〜 10cmの
厚 さで交互 に積み重ねている。掘込地業の上 には礫混 じりの粘質土 を積 んで基壇 を造成す るが、様相が一様ではな く、南面築 地回廊基壇 の積土 とも混 じり合 うことか ら、南門 と回廊 の基壇 は一連の工程で施工 された とみ
られる。
基壇 の北面では、基壇外装の据付痕跡SD18200、 抜取痕跡SD18201を検 出 した。SD18201は 上層礫敷面で検 出 した遺構 で、F平城報告 』では
SD7852Bと
して報告 した ものである。地覆 の改修 にかかわる痕跡 は確認で きず、後述の ように北面お よび南面の階段 は改4笏されたが、基 壇その ものは改修 されなかった と考 えられる。 また、 この時期 に対応す る雨落溝 は検 出で きな かった。基壇 に取 りつ く階段 は、北面お よび南面でそれぞれ確認 された。北面階段 は、上層礫敷・中 層礫敷・下層礫敷それぞれにともなう痕跡が確認 され、造営以後
2回
の改修がお こなわれたこ とがわかる。造営当初の北面階段 の遺構 は、階段正面の地覆抜取痕跡 とみ られる溝 を確認 して お り、規模 は幅約45cm、 深 さ約20cmで
、 この溝か ら基壇外装抜取痕跡 までの距離 (階段の出) は1.lm(37尺)と
なる。南面階段 については
2時
期の遺構 を確認 した。下層は、踏石の据付掘方 と抜取痕跡 を確認 し ているが、抜取痕跡が据付掘方 を大 きく壊 しているため据付掘方が確認で きたのは断面観察の みである。抜取痕跡 は幅約80cm、 長 さ約28mが
残存する。石材 は全 く残 つていない。 これ ら の階段痕跡 の南狽↓には朝堂院礫敷SX18591が広が る。以上 の遺構 よ り想定 され る基壇 の規模 は、東西27.8m(94尺 )、 南北
162m(54尺 )で
あ る。北面 階段 は東西幅
154m(51尺
)、 階段 の出は1lm(37尺
)、 南面階段 は東西 幅13.2m(45尺)、階段 の出は約
68cm(23尺 )で
ある。SC7820(遺
構実測図22・ 23・ 24、 図版22・ 24、 図26・ 27)大極殿院の南面築地回廊のうち南門SB7801よ り西側の部分で、東側のSC5600に 対応する。
築地本体は削平のため残存 しないが、基壇土、南北雨落溝、側柱礎石痕跡などを確認 した。
基壇の造成過程 を順 に説明する。まず、青灰色粘土の地山上に厚 さ15〜
30cmの
整地土を広Y‑18,193 Y‑18,192
1 1
Y引8,922 六
十
I期南面築 地 回廊西半
必 紳一
抜取 掘方
④
︲ I ωN ヨO
H‐675m 図
26
南面築地 回廊SC7820側柱礎石据付・抜取穴1:50
び′
I期
南 築 地 回 足場
面 廊 穴
第Ш章
遺
跡
く敷 く。整 地土 は、木簡等 の木 質遺物 を含 む黒褐 色 粘 質土 や暗灰褐色粘 質土 で、黒褐色粘 質土 は
Y‑18,910付
近 を西 限 と し、 それ よ り西 には広 が らない。地 山は西 にい くにつれ徐 々に低 く な ってお り、それ に ともない整 地土 も上面 を水平 に保つ ように徐 々に厚 く積 まれ る。掘込地業 は、南 門側 の約
30mの
範囲でのみ確認 した。回廊心 の部分、幅約08mを
畦状 に掘 り残 し、その南北 を深 さ40cm程
度掘 り込む。中央 を掘 り残す地業 は、東半のSC5600や東面築 地回廊SC5500でも確認 されている。地業内は、橙灰色土 と暗灰色土 を厚 さ8〜 10cmの
単位で 版築状 に積み、中央の掘 り残 し部分の上面の レベルで平坦 にす る。掘込地業 をお こなっていな い西端では、整地土お よび地山を掘 り込 んで幅20〜35cmの
浅 い溝 を掘 る。基壇土 を積 む範囲 を示 した ものか、基壇外装の抜取痕跡 とみ られる。掘込地業 をお こなわない部分では基壇土 と 整地上の間を礫敷 とす ることが確認で きた。 この礫敷は東寄 りの部分で顕著であ り、人頭大程 度の礫 を敷 き並べ るが、西 にい くほど礫が小 さ くな り、 また密度 もまば らになる。基壇土 は、厚 さ30〜
40cm程
度が残存す る。灰褐色砂 質土や黄褐色 ・茶褐色粘質土 を厚 さ5〜8 cmの単位で版築状 に積み上げる。
基壇外装 はすべ て抜 き取 られて残存 しないが、基壇外装 の据付 ・抜取痕跡 を確認 した。北 面基壇外装の痕跡 は
2時
期確認で き、下層礫敷 に ともなう地覆据付 ・抜取痕跡SD18519A・B
と、上層礫敷 を掘 り込み、築地回廊解体 時の瓦 だ ま りに覆 われる上層の地覆据付 ・抜取痕跡 SD18520 A・
Bが
ある。SD18519 A・ Bは、西楼 よ り西狽1の断面でのみ確認 した。回廊 の基壇土 を積 み上tデた後、基壇土の北辺 を切 り込んで地覆 を据 え、礫 の混 じった黄灰色粘質土 を裏込め にす る。一方南面基壇外装 は、削平 によ り遺構の残存状況が良 くない ものの、断続的ではある が約32m分
の幅70cm程
度の溝SD18521を検 出 した。基壇 の上面 は削平 を受け礎石 は残存 しないが、礎石の据付痕跡が残存する。礎石据付痕跡 は、
一辺0.8〜
14mの
方形で、遺構検 出面か らの深 さは最大25cmで
あ る。一部の据付穴 には径15〜
40cmの
根石 とみ られる玉石が残存す る。 また、もっとも東の礎石据付痕跡 は検 出で きなかっ たが、南面築地回廊廃絶時に上面 を削平 された とみ られる。すなわち、南面築地回廊 の基壇 は 南 門の基壇 に向けて徐 々に高 くなっていた と考え られる。以上 よ り、南面築地回廊 の規模 を整理す る。南北の地覆抜取痕跡 よ り導かれ る基壇 の幅 は 105〜
110mと
な り、F平城報告 』 で提示 したSC5600の基壇 幅108mと
同規模 であろ う。柱 間寸法は、梁行が総長約7.09m(24尺)、 桁行が1間約458m(155尺
)、西端の2間
は3.54m(12尺)となる。 この うち梁行 中央の棟通 りには築地があった と想定 されるので、梁行1間、す なわち 築地心か ら各側柱心 までの距離 は12尺となる。 また基壇の高 さは、出土遺物か ら礎石の大 きさ を高 さ50〜
60cmに
設定す ると、下層の内庭礫敷SH6603 Aの 上面か ら80cm程
度 に復原で きる。SS18599(遺
構実測図22)南面築地回廊基壇 の南北両側で検 出 した小穴列。穴の規模 は直径30〜 50cm、 深 さ20〜
25cm
とば らつ きがある。 また検 出状況 も断片 的であるが、北側で は約
28m間
隔で3基
の穴が並ぶ 様子が確 認で きることか ら、基壇 のタト側 に沿 つて設 け られた小柱 穴列 の一部 とみることがで きる。 この うち南側 の穴 は南側雨落溝SD18596Aに
掘 り込 まれ、 また北側 の穴 は北側雨落溝SD18595Bに
掘 り込 まれ、SD18595Aと
の重複関係 は認め られない ことか ら、築地回廊建設時 の足場穴である可能性が高い。鬱
酪
│ 図
27
南面築地回廊SC7320基
壇断面図1:60
I期
南 面 築 地 回 廊 雨落
溝
I期
西 面 築 地 回 廊第Ⅱ章
遺
跡
SD18595A・ SD18596A(遺
構実測図22、 図版23、 図27)南面築地 回廊西半SC7820の雨落溝 である。SD18595は北雨落溝 で、内庭礫 敷SH6603の改修 と対応 して
3時
期が確認で き、下層か ら順 にA、 B、 Cとす る。SD18595Aは
幅約50cm、 深 さ約15〜30cmで
、溝心が南面築地回廊の想定基壇縁か ら約12m
北 に位置す る。基壇外装抜取溝
SD18520Aと
同様 に中層礫敷、上層礫敷お よび西楼 の基壇土 に 覆われるため平面での検 出は部分的であるが、断面観察 によ り南面築地回廊 の北側基壇縁全体 に残存す るもの と判断で きる。SD18596は 南 側 の雨 落溝 で、朝 堂 院 内庭 の礫 敷 に対 応 してA・ Bの
2時
期 を確 認 した。SD18596Aは
、幅約37cm、 深 さ約8 cm。 検 出範囲が限 られるため、遺構 の時期や広が りは明 らかではないが、朝堂院広場SH18591を掘 り込んでいることか ら、造営当初 の もの と判断 した。SC13400(遺
構実測図2・ 6・ 11・ 20・ 21・ 22、 図版25'26、 図15)大極殿 院の西側 を限る築地 回廊。I期東面築地回廊SC5500に対応す る遺構 である。遺構上 面は後世の造替や削平が著 しく、 とくに西縁部分 は全体的に削平 されている。そのため基壇縁 や西雨落溝 な どは破壊 されている ものの、築地の基底部分や側柱 の礎石抜取穴が部分的に残存
してお り、遺構 の存在が確認で きる。
前述の とお り、西面築地回廊 の北半部分 は造営前の地形が著 しく落ち込 んでいるため、回廊 基壇土 を積 む前 に
2m以
上の造成 をお こなっている。基壇土は地山 もしくはこれ ら整地土の直 上 に積み上げる部分 と、掘込地業 をともなう部分がある。掘込地業 は、西面築地回廊 中央部分 のみで確認 した。幅12〜 13m、 深 さは最大で65cm残
存す る。色調の異 なる粘質土 を交互 に7 層前後 (各層厚さ5〜10cm)積
み上 げている。東面築地回廊SC5500では、中心 の幅約3mを
掘り残 しているが、西面築地回廊ではその ような施工状況 はみ られなかった。南端部分では、基 壇縁 に幅
15cm程
度の浅い溝状 の落 ち込み を確認 した。基壇土 を積 む前 に、積 む範囲 を示す た めに掘 られた 目安の溝か、 もしくは基壇タト装の抜取痕跡 と考 えられる。基壇土は、砂質土 と粘 質土 を交互 に積 み上げる版築の層が確認で きる。各層の厚 さは5〜 20cmと
一定ではない。側柱の抜取穴 は、南隅部分の東側柱列 を
2基
のみ検 出 したが、他 は削平のため確認で きなかっ た。確認 した柱穴 も、深 さ10cm程
度が残存す るのみであるが、根石 と思われる直径15〜29cm
の九石が残 る。西狽J柱列 は削平のため、確認で きなかった。柱 間は、西面築地回廊では1間の みの検 出であるが、桁行約
45m(155尺 )と
な り、東面築地回廊SC5500の知見 と一致す る。西面築地回廊 の基壇外装 は、すべて抜 き取 られてお り残存 しない。外装 を抜 き取 つた痕跡 も、
南端の東辺で幅約14m、 深 さ約
40cmを
確認 している以外 はすべ て削平 されてお り確認で きな かった。西面築地回廊 の規模 は、検 出 した遺構 か らの復原は難 しいが、東面築地回廊SC5500と 同 じく、
基壇幅
108m(36尺
)、側柱桁行柱 間寸法45m(155尺
)、梁行寸法71m(24尺
)と して よいだろう。SS18211(遺
構実測図20、 図版26)西面築地回廊想定心か ら西 に
23mの
位置で南北 に並ぶ小穴列。築地回廊建設 もしくは解体 時の足場穴 とみ られる。東面築地回廊で検 出されている足場穴列 と比較 して、柱 間寸法 も一定しない。I期の遺構 である確証 はないが、 この時期の もの としてお く。
面 廊 穴
輌 蜘 場
I 築 足
Y‑18,945 │
m
H 珈 一
m H72 0
H=710m
一
H‐ 710m H‐ 700m H= 710m H= 670mX‑144,8626 X‑144,8978 SB14300柱穴 徹│ 図28 SC13400。SA13404・
SC14230基
壇断面図 1 :60X‑144,9126 X‑145,1066
I期
西 面 築 地 回 廊 東 雨 落 溝目 隠 し 塀
I期
東 面 築 地 回 廊I期
東 面 築 地 回 廊 西 雨 落 溝I期
北 面 築 地 回 廊 南 雨 落 溝第Ⅱ章
遺
跡
SD13401(遺
構実測図6・ 20。 21・ 22、 図版27・ 28、 図28)西面築地 回廊SC13400の東雨落溝。東面築地 回廊 の西雨落溝SD3790に対応す る。溝 の護岸 は上下
2層
に分かれ、上層は幅50〜70cmの
石敷溝で、底 に4〜
5 cmの石 を敷 き詰め、東岸 に 直径10cm程
度の石 を見切 りとして並べ る。下層 は上層 に大部分 を破壊 されているため、南端 部分で厚 さ5〜 15cmの
堆積土 を確認 したのみである。対応す るSD3790で も上下2層 を確認 し ているが、SD13401では下層の残存状態 は良 くない。見切 り石列 よ り東 には、殿舎地区では礫 敷SX17865が、内庭部ではSH6603 Aが広が る。SA17912(遺
構実測図6)西面築地回廊西側柱筋 の西
33mの
位置で検 出 した南北塀。径80cmの
柱穴6基
、5間
分 を検 出 した。全長 は1182m。 回廊 か らの距離、西へ振 れる点な ど共通点が多 くみ られ るため、東 対称位置のSA8229に対応す る遺構 と考 えられる。SA8229は東面築地回廊 に開 く穴門SB8233の目隠 し塀 とされ、SA17912も 同 じ性格 とす ると、遺構 は確認 していないが これに対応す る穴門 が西面築地回廊 にも開いていた と考 え られる。
SC5500(遺
構実測図3・ 16)大極殿 院の東 を限る複廊 の築地回廊。遺構 の大半 は F平城報告 』で報告 した ところである が、第217次東調査 で新たに未検 出部分の南北
10m分
を確認 した。SC5500は、北側の丘陵部 は地 山を造 りだ して基壇 を形成 し、地山が低 くなる低湿 の南半部 分では、掘込地業 を施 し基壇土 を積 み上げる。掘込地業 は、中心の約
3m幅
を掘 り残 し、その 左右 を布掘 りす る。掘込地業 の深 さは約30cm。 礫混土 と粘質土 を3〜 4層
交互 に積 んで水平に仕上 げた後、基壇土 を積み上げる。
基壇外装抜取痕跡 や、狽1柱の痕跡 は確 認 してい ないが、掘 込地業 の外狽1に雨落溝 (西側:
SD3790、 東似1:SD5575)、 その間に基壇があった と考 え られる。基壇幅や柱 間寸法 な どは南面築 地回廊 と同様であった と思われる。
SD3790(遺
構実測図16)東面築地 回廊SC5500の西側 の雨落溝。『平城報告 』 ですで に報告 した ところであ る。幅 90cm、 深 さ
15cmの
礫敷の溝で、上下2層
に分かれる。上層 は見切 り石列 をともない、その内 外 に小振 りの礫 を敷 く。下層 は見切 り石列 を設けず、大振 りの礫 を内外 に敷 く。下層の溝 は、東面築地回廊SC5500の足場穴 を覆っている。
SC8098。
SD130(遺
構実測図2・ 3)北面築地回廊SC80981よ、F平城報告 』 で報告 した ところであるが、改めてその検 出状況 を 記す。北面築地回廊 は、礎石痕跡や築地などは残存 しない。 しか し、北面築地回廊南雨落溝 と み られる石敷の溝SD130に よってその存在が想定で きる。SD130は、全長185m、 幅約
80cmの
東西溝で、南肩 に他の回廊雨落溝 を同 じく拳大の石 を並べ 回廊 内側 の礫敷の見切 り石 とす る。上下2層あ り、上層 は直径
10cm前
後の石 を、下層 は5 cm弱の石 を底石 とす る。溝の北肩お よ び基壇タト装の抜取痕跡 は削平 されている。溝の幅は もっとも残 りの良い ところで60cmで
ある。SD18300(遺
構実測図2)築地回廊 の北西入隅部分 に位置 し、南雨落溝SD130の西延長上で西面築地回廊 を貫 く東西溝。
断面は上面幅75cm、 底面幅
30cmの
逆台形 を呈す る。I‑3期
の西面掘立柱塀SA13404と重複 し、びび
3
検出遺構SA13404最北の柱穴が これ を壊 している。東の対称位置 には約
12mの
木樋暗渠が残 り、他 に暗 渠の抜取 とみ られる痕跡があることか ら、SD18300も 東側 と同様 に回廊基壇 を貫 く暗渠が存在した と考 え られる。
SD17961 A・
SD17963A(遺
構実測図22、 図版30、 図38)SD17961 Aは南 面築 地 回廊 と西 面 築 地 回廊 が接 続 す る回廊 南 西 隅部分 よ り南 北 方 向 に、
SD17963Aは
入隅部 よ り約3.3m北
で東西方向に回廊基壇 の下 を貫 く暗渠。いずれ もI‑4期
に 同位置 に造 られる木樋 暗渠SD17961 B・SD17963Bに
掘 り込 まれるが、その下層 に部分 的に暗 渠の裏込め土 とみ られる灰色粘上が認め られる。暗渠その ものは残存 しないが、掘方の形状 よ り木樋であつた と思われる。断面観察 より、暗渠は回廊基壇土の下の整地土 を掘 り込 んで設置 し、その後基壇土 を上 に積み上げていったことがわかる。①区画外の遺構
SD3825A(遺
構実測図4・ 5'18・ 19、 図版48・ 49、 図29)平 城宮 造営 時 に第一 次大極殿 院 の西 に設 け られ た南 北溝 。西 面 築 地 回廊基 壇 辺 の約
37m西
に 位 置 し、北 か ら南 へ 流 れ る。 途 中未 発掘 部分 を含 め南 北 約160m分
を確 認 した。北 は、後 述す る園池SG8190の前身の池か、 もしくは谷筋の ような地形か ら水 を引 き込んでいた と思われる。第一次大極殿 院東の基幹排水路SD3715に対応す る西狽Iの基幹排水路 と考 え られ、南 は平城宮 の南辺 まで続 くもの と思われる。遺構 を確認 した範囲では、溝幅は最大で
18mが
残存す るが、後のSD3825B o Cにより L部 を破壊 されている。
SD3825は、場所 によ り検 出の状況が異 なるため、
SD3825A〜
Cの対応関係 は、埋土の状況 と出土遺物 よ り求めた。SD3825Aは
第92・ 315。 316次 調査 で は灰色砂 もしくは灰 白色砂、第 28次調査 では灰褐色砂 質土 とな り、和銅6年
(713)の紀年木簡のほか、瓦 な どが出土 している。なお、SD3825 Aの北部 は、SG8190の造成 に ともない
I‑2期
に埋 め立 て られ、SD3825Bに
造 り替 えられる。SD12966A(遺
構実測図4、 図版50、 図34)SD3825Aに
西か ら流れる東西溝。幅約 lm、 深 さ約02m。 埋土 に瓦 を含む。SD12968(遺
構実測図4、 図版50、 図34)SD12966Aの
約3.6m北
に掘 られた幅16m、 深 さ30cmの
東西溝。平城宮瓦編年第I‑2期
の 軒瓦6665Aが
底面 に貼 りついた状態で出土 した。SD12968はSX18255Aの
造営時 に埋 め立て ら れる。SH18591(遺
構実測図22・ 23・ 24、 図版56、 図27)大極殿 院南面築地回廊 の南 に広が る朝堂院広場。暗茶褐色粘質上の上 に直径
5〜 10cmの
小 礫 を敷 き詰める。南門の南面階段 の前面 にも直径3 cm前後の小礫 を敷 き詰めた面 を確認 しており、南面階段地覆抜取痕跡 と北辺が平行することか ら、同時期の ものであろう。南への広が りは、
南 門付近で約
24mを
確認 したのみだが、おそ らく朝堂院広場全体 に礫が敷かれていた と考 えら れる。I‑2期
の遺構南面築地回廊は南門の東西に楼閣建築を増築 し、南面築地回廊周辺の礫敷を改める。西区画
基幹排水路
朝堂 院広場
び7
第Ⅲ章
遺
跡
H‐
680m
670mH‐
X‑144,8656
m
H≡ 鰤
一
m
H≡ 蜘
一
X‑144,8686
X‑144,9616
X‑144,9831
X‑144,9972 図
29 SD3825断
面図1:60
外は再度整地を施 し、北側に池を造成 し、基幹排水路の取水口を設ける。
①区画内の遺構
SH6603 B o SX18600(遺
構実測図22・ 23・ 24、 図版18、 図27・ 30)SH6603Bは
、東西楼増築 に ともな う南面築地回廊 の改修 に合 わせ、南面築地回廊周辺 にの み敷かれた礫敷 (中層礫敷)。 下層礫敷SH6603Aの
上 に灰褐色〜茶褐色粘質土 を積 み、その上 に径2〜
5 cmの礫 を敷 く。積土 は西楼 の北側 では約20cmで
あ るが、それ よ り西の南面築地 回廊北側で は約15cmとやや薄 くな り、SH6603B上
面の標高 も、西楼北側では67,7〜678m付
近であるが、それ よ り西側では67.5m付近 と低 くなる。後述の ように東西楼 の北側 に雨落溝が び8
一
D D D
H=
680m
670m
内 庭 広 場
(中層礫敷)
3
検 出遺構つ くられ てい ない こ と、南 面 築 地 回廊 の北 側 に東 西溝
SD5590Aが
通 る こ とを併 せ る と、 この時期 にはSD5590Aへ
水 が流 れ る よ うに西楼 付近の標高 を高 くした と考 えられる。西楼 よ り西 恨1の南 面築 地 回廊 で は、南 面 築 地 回廊 基 壇外 装抜 取 溝
SD18519Bの
北 約17mの
位 置 に 見 切 り石 列SX18600を検 出 してい る。SH6603Bは
これ よ り北 に敷 か れ た ことがわか る。② 区画施設
SB7801 B o SX18205(遺
構実沢1図24、図版19、 図
24)
一 中 層 礫 敷SH6603Bの
敷 設 に と も ない、南 門 は雨落溝 の改修 と階段 のY‑18,920
│
六
Y‑18,918
│
――H=675m
図
30 SX18600見
切 り石列1:50
付 け替 えをお こなっている (SB7801 B)。 北面 は雨落溝 自体 は検 出されていないが、中層礫敷 の 上面 に幅80〜
100cmの
凝灰岩粉 を多量 に含 む深 さ5 cm程度の土層SX18205があ り、基壇 地 覆 石 の外側 を巡 る敷石 の ような ものの痕跡 と考 え られ る。SX18205はI‑4期
の雨落溝 の直下 に あることか ら、いわゆる散水状 に敷かれた可能性があるが、改修時に捨て られた基壇羽 目石 の 可能性 も残 る。 この凝灰岩粉の土層 は北面階段 の北側 に もあ り、北面階段が この時期 に改修 さ れた根拠 としたが、階段 自体の痕跡 はない。階段 の規模 は造営 当初 の北面階段 を踏襲 した とす る と、幅154m、 階段 の出1lmと
なる。南面階段 は、朝堂院広場 の礫敷SX18591の北辺か ら約
lmの
位置で、ほぼ直線状 に並ぶ凝灰 岩片 を検 出 した。凝灰岩片 は風化が激 しく、 もっ とも残 りの良い もので20×30cm程
度 しか な いが、階段 の地覆石の痕跡 と考 え られる。断面観察 よ り、 この地覆石 はSX18591上の橙褐色粘 質土の積土 を掘 り込んで据 え付 けていることがわかる。 この時の改修で、南面階段 の出は、約13m南
に拡張 された。なお、南面階段改修 の時期 は、I‑4期
に降る可能性 もある。SB18500(遺
構実測図23、 図版20・ 21、 図31・ 32)大極殿 院の南 門SB7801の西側、南面築地 回廊SC7820の北側 に取 りついて建 つ総柱建物。桁 行
5間
、梁行3間の東西棟建物で、側柱 のみ を掘立柱 とし、その他の柱 は礎石建 とす る。南 門 東側 のSB7802と 対応 し、ほぼ同 じ構造 を採 る。 これ らは南 門の東西 の南面築地 回廊 に増築 さ れた楼 閣建築で、SB7802を 東楼、SB18500を 西楼 とす る。掘立柱 は基本 的に東西 に長大 な抜取穴 を有 してお り、直径が大 きい柱 を使用 していた よ う である。抜取穴 は一方の先が細 くなる茄子状 の長 円形 を呈 し、南北幅が
35m程
度であ るの に 対 して東西幅 は6〜 9mに
お よび、隣の抜取穴 と連結 してい る。抜取穴 は、東半の柱 は東側 に、西半の柱 は西側 に長 くなってお り、それぞれ建物の外側 に向けて柱 を抜 き取 つた とみ られ る。深 さは24〜 3mで
漏斗状 を呈 してお り、底辺では幅が70〜90cmと なる。 この大 きさは東南 門階段 の 付 け 替 え
築
︐ 建
楼 閣 西 楼 ぐ
郎ξ
,3
σ・毛°
!預
SB18500基壇土 m
H 蜘 一
m H68 0
H= 670m
一
H‐ 670m X‑145,110 削8500基壇土│
Y‑18,8823 X‑145,100 │
H= 670m
―イ″´″/ 図31 西楼SB18500断面図 1 :60Y‑18.8988
3
検出遺構Y‑18,889
│
いE 卜Φ
=エ
H=
670m
H=
660m
│ 口̲
X‑145,105
│
口
イ
H‐
675m
H=
670m
m
H 鰤 一
Y‑18,905
│
m
H 蜘 一
図
32
西楼SB18500柱穴平面・断面図1:60
77
第Ⅱ章
遺
跡
楼SB7802か ら出土 した掘立柱根 の柱径約75cmと 近似す ることか ら、 ほぼそのまま柱位置 を示 す もの と思われる。柱掘方は、上半分 は抜取穴 によって破壊 されるが、下半分が残存す る。柱 掘方の規模 は一辺2.5〜
3mの
長方形であ り、東西 に長い ものや南北 に長い ものがあって一様 ではない。内部の柱 の礎石 はすべて抜 き取 られてお り、ハ列では抜取穴が大 きく据付穴 をとど めないが、 口列 では比較的良好 な状態で据付穴 を確認で きる。残存す る据付穴 は一辺約1.5m
の方形あるいは一辺14〜2mの
長方形 を呈 し、深 さは約40cmで
ある。 イ列 の抜取穴 は不整形 な円状 を呈 し、底部で直径08m〜
16m、 深 さは16〜48cmで
あ る。一方、 口列 の抜取穴 は一 辺1,7〜2mの
方形で、深 さは37〜 56cm。掘立柱の抜取穴の埋土 は、下半は単位が厚 く、その上か ら細か くなる傾向が確認で きる。上 半の細かい土層 には木製品や木簡 を多量 に含む ものがあ り、最初 に半分程 を一気 に埋 め立てた 後、廃棄土坑 として も使いつつ徐 々に埋 めていった様子が うかが える。 また二二お よびイーの 抜取穴では、穴底 に杭が突 き刺 さった状態で残存 していた。杭の直径 はいずれ も約
10cmで
あ り、二二では長 さ60〜
70cmの
杭 を2本
、 イーでは長 さ約15mの
杭 を3本
組み合 わせ、柱 の推定位 置に沿 うように設けていることか ら、柱 を抜 き取 る際に用いた ものであろう。ローの柱穴 は他の柱穴 と様相 を異 にす る。ローは側柱の一つであるが長大 な抜取穴が存在せ ず、一辺約
35mの
方形 の据付穴状 を呈す る。 ローの柱掘方内の埋土 は大 きく3層に分かれて お り、下層が掘立柱抜取穴 に似 て一気 に埋 め立てた様相 を示すのに対 し、中層では埋土 を水平 に整 えた様子がみ られ、上層では厚 さ5〜 10cmの
単位で埋土 を版築状 に積 み重 ねてお り、基 壇積土 に近い様相 を示す。下層か らは人頭大の石や長 さ40cm程
度の杭状 の木材が 出土 してお り、二二お よびイーの柱抜取穴の状況 と共通す る。 また上層の上面 には根石状 に拳大の礫が散 在す ることか ら、 ローについては当初掘立柱であった ものをある時期 に礎石建 に改修 したこと が推定で きる。 なお東楼SB7802でも東側柱 の北か ら2本
目の柱穴が ロー と類似 した様相 を呈 す ることが報告 されている (『平城報告 』)。 ここでは掘立柱 の掘方 を基壇積土 と似 た版築で埋 め戻 していることか ら結果的に柱 を立てなかった と結論 しているが、 ローの ように掘立柱か ら 礎石建 に改修 された可能性 も十分 に考 え られ よう。西楼 は南狽↓柱列 (イ列
)が
南面築地回廊 の築地 と、その北側 の口列が南面築地回廊 の北側柱 列 と重複 している。南面築地回廊 の北側 に基壇 を増築 していることが確認で き、大極殿 院の創 建 当初 には東西の楼 閣がなかったことは明 らかである。西楼 の基壇 は回廊 の北側基壇外装 を抜 き取 つて基壇北縁 に沿 った幅70cm〜 lmの
範囲に基壇 を積 み足 した後、改めて残 りの部分 の 基壇 を積 み足 している。 この ように2段
階に分 けて基壇 を増築 した理 由は明 らかではないが、回廊基壇の解体時の応急措置 として、回廊北縁 の基壇 を先行 して造成 した可能性が考 えられる。
西楼 の基壇積土 は下層の内庭礫敷SH6603 Aの上 にやや しま りの悪い粘質土 を一気 に積 んだ も ので、版築状 を呈す る回廊基壇の積土 とは粥瞭に区別で きるものである。基壇の周辺 には基壇 外装抜取痕跡SD18522が巡 り、その外側 に中層お よび上層の内庭礫敷SH6603B o Cを ともな う。
したが って、西楼 の建設 に併せ て内底部 に中層礫敷
SH6603Bを
施す改修が な され、西楼 の存 続 中にさらに内庭部が礫敷SH6603Cに
改修 された ことが わか る。 なお西楼 の基壇周 囲 には雨 落溝 は確認 していない。上記の遺構か ら想定 される基壇の規模 は増築部分で東西約27.6m(935尺)、南北約
89m(30尺
)3
検出遺構で あ る。柱 間寸法 は梁行約
46m(155尺
)等間、梁行約3.8m(13尺 )等間で あ り、基 壇 の 出 は約24 m(8尺
)とな る。基壇 の高 さは回廊 の基壇 に増築 してい る こ とを踏 まえれば、回廊 と同 じであ っ た と考 え られ る。SD18522(遺
構実測図23)西 楼SB18500の基 壇 外 側 を コの宇 に巡 る素掘 りの溝。SB18500の基 壇 外 装 の抜取 痕跡 とみ ら れ る。深 さが20〜 30cm、 幅が30〜
80cmと
出入 りが あ る溝 で、 と くに東西 の溝 はSB18500の 抜 取 穴 に大 き く壊 され てい る。SD18595B(遺
構実測図22、 図版23、 図27)南 面築 地 回廊 の基壇外装 は、東西楼 の増築 に ともない改修 がお こなわれてい る。楼 閣 を増 築 した部分 は基壇外装 を取 り外 し、基壇 土が継 ぎ足 され、楼 閣以外 の場所 で は、楼 閣の外装 と合 わせ て施工 しなお した こ とが わか る。
またこれにともない、下層の北雨落溝SD18595 Aが 埋め立て られ、新たに雨落溝
SD18595B
が造 られる。この溝は、中層礫敷にともなう見切 り石列SX18600に 並行 し、SD18595Aや
、I‑4
期の北雨落溝
SD18595C(後
述)よ
りも約50cm北
狽Jに位置する。①区画外の遺構
SA17951(遺
構実測図22、 図版56)中央 区朝堂院地区を画す る塀で、第一次大極殿院南面築地回廊西南隅に接続す る北面掘立柱 塀。東側の掘立柱塀SA5551 Aに対応す る。柱穴
2基
(柱間約32m)を
検 出 した。柱穴の掘方は 隅丸方形で、一辺1.5m。調査 区の西 に続 き、南 に折れ朝堂院の西 を画す る塀 に接続す るのだろう。SX12971(図
34)SD12965の や や 北 側 の 地 山 上 面 で 検 出 した 幅 約3.9m、 深 さ
05m以
上 の 土 坑 状 遺 構。SX12971は
Y‑19,0005付
近の断割調査でのみ確認 した。埋土 は黒灰色粘質土。それ よ り東側 では確認で きないことか ら、溝ではな く土坑状 の遺構 と考 えられる。埋土 には年代 を示す遺物 は含 まれないが、木屑 を含 むことか らI‑2期
の遺構 とした。SX18257A(遺
構実測図5、 図版53、 図33)西 区画外、
X‑144,8745付
近 に設 け られた東西方向の暗渠。溝幅 は約90cm、 底部 は平坦で 断面は台形 を呈す る。断面形状か らは切石組の暗渠が据 え られていた と考 えられるが、石材 は 残存 していない。埋土 に多量 の瓦 を含 む。I‑2期
の整地上上面か ら掘 り込み、 Ⅱ期の整地土 で覆われている。SG8190・
SX18255A(遺
構実測図4・ 5、 図版48、 図34・ 35)SG8190は、
SD3825Aの
北部 を埋 め立て、大極殿 院北西 に造成 された園池遺構。池の東南隅 部の岸 と、南北溝SD3825Bへ
の取水 口を確認 した。SG8190については、今 回の報告対象区の】ヒ(平城第101次調査、「佐紀池の調査 (101次)」『平城概 報昭和51年度』
)で
、西岸・東岸 ・北岸の一部 を検 出 してお り、その護岸の様子が確認 されてい る。それに よる と、西岸 はほぼ南北 に通 るが、東岸 は現在 の佐紀池 の地形 に近い形状 で、岸 は傾斜約10%の
緩やかな斜面 とな り、拳大の礫 を幅2mほ
ど敷いている。南岸では、 この よう な護岸 の様子 は確 認 されず、堤SX18255Aを
築 き、SD3825Aを
埋 め立 てた位置か らやや東 にSD3825Bへ
の取水 口を開 く。西楼基壇外 装抜取痕跡
南面築地 回 廊 の 改 修
朝堂 院北面 掘 立 柱 塀
園 池 遺 構