IV.出土部材からみた山田寺建築
I
山田寺と飛鳥・奈良の寺院建築
山田寺の発掘では東面回廊が倒壊した状態で出土し、飛鳥時代の建築様式を知る重要な 資料として注目をあっめた。東面回廊出土部材は、『部材集成』で報告され、回廊の復元、
法隆寺西院回廊との比較、現存する飛鳥・奈良時代の建物からみた位置づけがなされてい る。また、『報告』でも、宝蔵・大垣から出土した部材や石材について報告された。これ らの報告によりつつ、出土部材からみた山田寺建築の特徴をまとめる。
飛鳥・奈良時代の建築との比較 飛ら寺の建立以後、7世紀代には寺院の創建が相次い だ。しかし、現在ではこれらの寺院建築は失われ、7世紀末〜8世紀初の法隆寺西院伽藍 が最古の遺構である。山田寺で発見された東面回廊は7世紀中頃の建築で、これにより、
寺院建築の技術史が数十年さかのぼることとなった。それでは、山田寺の建築は、現存す る飛鳥・奈良時代の建築の流れの中でどのように位置づけられるのだろうか。
復元された回廊の構造形式には、柱の胴張、組物の肘木・斗の形、断面丸の垂木、継手 の手法など、飛鳥・奈良時代における寺院建築技術の変遷に符号する点がみられる。
回廊の柱は胴張をもち、腰長押位置で最も太くなる。こうした胴張は、7世紀末〜8世 紀初頭の法隆寺西院伽藍や法起寺三重塔などの建物にかぎられ、8世紀の建物にはみられ ない。飛鳥時代の特徴といえよう。
回廊の組物の特徴としては、①皿斗がない、②肘木に「笹繰」と「舌」がっく、③肘木 木口の下角が外に張り出すという特徴がある。皿斗は大斗の下にある皿状の部材で、法隆 寺西院伽藍や法起寺で用いられたほかは、現存する古代建築では見られず、↓2世紀以降、
浄土寺浄土堂(兵庫県、1192年)や東大寺南大門(奈良県、1199年)など、「大仏様」(鎌 倉時代の東大寺再建時に大勧進重源が用いた様式)の建築で再び採用されている。笹繰は、
現存する奈良時代の建物にみられ、一般的な手法だったとみられる。舌は薬師寺東塔には あるが、その後の建物にはなく奈良時代前半までの特徴といえる。肘木木口の下角が外に 張り出すのも法隆寺西院伽藍や薬師寺東塔など古い時期の建物に限られる。したがって、
山田寺回廊出土の肘木は、時代相をよく示すといえる。
また、回廊の垂木は、一軒で断面が丸い。現存建物では、垂木断面は矩形と丸があり、
一軒で円形断面の垂木は簡略な構造の建物に限られる。また、地垂木と飛槍垂木の二軒で は地垂木を丸・飛複垂木を矩形とするか、地垂木・飛槍垂木とも矩形とする事例はあるも のの、丸垂木のみの二軒は現存しない。山田寺では、垂木先瓦が円形なので、金堂・搭・
講堂・中門は一軒の丸垂木だったとみられる。こうした丸垂木のみを使用した古代の金堂 や搭は現存しないが、垂木先瓦の出土例や、四天王寺講堂(奈良時代前期)から出土した
41
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法隆寺西院回廊と山田寺回廊 1:70
丸い扇垂木などから、飛鳥時代から奈良時代前期にかけて存在していたとみられる。
また、回廊の部材の継手には奈良時代以降の建物に使われているものと同様の技法が使 用されていた。頭貫や桁には箱鎌の鎌継が使用され、長押には目違い風の継手がみられる。
一方で、現存する飛鳥・奈良時代の寺院建築にはあまり例のない、山田寺独自の特徴も あげられる。その一つが石材の加工である。金堂・回廊に使用された蓮弁付礎石や、金堂 階段の獅子像や流紋の装飾的な彫刻など、山田寺堂塔では高い石材加工の技術が認められ る。7世紀代の寺院では、本薬師寺、法隆寺など方座や円柱座のみを造り出した礎石や、
川原寺のように方座上に円柱座を造り出した礎石はあるものの、山田寺のような装飾的な 蓮弁は例がない。また、金堂前の燈寵にみられる上段の連子窓を一石から造り出し、下段 に猪目を刳り貫く技法も、現存事例にはみられない凝った技法である。
また、頭貫と柱の納まりも特徴的である。山田寺回廊では、頭貫の上端が柱頭より高く、
大斗をのせる位置のみ頭貫を欠き取って柱頂部と同高としている。このような技法は、飛 鳥時代・奈良時代の寺院建築にはみられず、大仏様で再び用いられている。大仏様では、
大斗の下に皿斗がっくため、皿斗と頭貫の天端があうように頭貫を柱頭より高くしている。
しかし、皿斗のある法隆寺西院伽藍の堂宇や玉虫厨子では頭貫の天端を高くする表現はみ られず、このような納まりを採用した背景は今後の課題である。
このように、山田寺出土部材から判明した建築像は、現存する飛鳥・奈良時代の建築の 系譜に連なる技法が7世紀中頃まで遡ることを示した。一方で、山田寺独自の特徴や法隆
寺建築との差異は、寺院建築の導入時期に大陸からもたらされた技法が色濃く反映され たか、あるいは当時の寺院建築が技術集団による多徐既を示していた可能性もあろう。後 述する長い肘木についての問題など、山田寺の建築にはまだまだ課題が多い。
2 長い肘木
山田寺出土の建築部材の中でも、『報告』で「肘木07」として紹介された部材は、長手 方向に延びた形状を持つ肘木で、現存する日本の古代建築には見られない特異な部材であ る。山田寺に続く時期に建設された法隆寺金堂等に用いられる雲肘木と形状が大きく異な るばかりか、その解釈如何によっては、組物のみならず構造システム全体が法隆寺系の建 造物と異質なものになる可能性も秘めている。この部材の特徴について詳述した上で、そ の古代建築史上に占める意味を考察してみたい。
け)「肘木07」の特徴
この部材は、南面回廊南方の遺物包含層から出土したもので、どの建物に用いられたか は不明である。一方の側面全体と、上面、下面の一部は腐っており、材本来の加工面が確 認できないが、もう一方の側面全体及び上面、下面の一部に、部材として加工された当時 の面を残しており、部材の主要寸法、形状、加工痕、組手の状況が窺える。材の寸法は長
さ156.1cm (復元長約157cm)、幅18cm、高さ22cm。断面寸法は回廊肘木とほぼ同寸である。
また、上面中央部は幅30cm前後、深さ10cm強に渡り欠損及び腐朽しているが、材の高さの ちょうど中央付近に、側面と直交する平滑な面が認められる。
部材はほぼ直材で、両端の木口面は上半部を垂直に落とし、下半部を曲面に削っている。
また、側面上端部は両木口側18cm分を残して笹の葉状に斜めに削っており、古代の肘木に 共通してみられる笹繰が施されたものと知られる。つまり、古代の肘木の形状を取るもの だが、通常の肘木に比して横長の比例をもつ。残存する当初面には、いくっかの痕跡が刻
まれている。以下に列挙し、検討していきたい。
側面下端凹部 材の側面下端付近に3箇所の凹部が認められる。幅各約30 cm、心々距離 は約44cmである。これは回廊の三斗の寸法とほぼ等しく、当該部材は下端に通常の比例を
持つ三斗が咬み、二段目に重ねられた肘木、すなわち二の肘木ということになる。
上面巻斗痕 上面両端部より18cm位置に風蝕差が認められ、風蝕のない端部の中央に 直径3. 5cm程の円形の柄穴があけられている。両端に巻斗が載っていた痕跡である。これ
により、当該肘木の一段上に、さらにもう一つの長い材が載せられていたことが判明する。
側面中央部凹部 側面中央下半部には、残存部の全高に渡り、幅18cmの凹 上面中央部朽損 上面中央の
朽損部には、下端より11cmの高 さに角が認められ、その上面が 幅2cm程度に渡り平滑になって おり、加工面の可能性が考えら
れる。この面より内側はすべて
部がある。
卜血
側血
肘木O7 1:15
お
②壁面に平行して用いられる二の肘木で、手先方向の部材を同高で相欠きに組む。
中央部の朽損箇所及び側面の凹部の解釈により、いずれの形式についても一長一短があ り、部材自体からいずれが妥当かを決定するには根拠が不足している。ここでは両案の可 能性を併記するに留めておきたい。
(2)「肘木07」が用いられた組物
次に、この肘木が用いられた組物と構造との関係について考察しておきたい。まず、上 記2種のいずれの形式をとっても、二手先以上の組物であることがわかる。
①の場合、法隆寺金堂等の組物形式と近似する。法隆寺の雲肘木を二手・二段に改め、
斗と肘木を別材とすれば、ここで考察してきた組物形式と一致する。ただし、二の肘木と 力肘木の間に通肘木が挿入されることとなり、法隆寺よりも通肘木の数が多くなるため、
外観上は壁を形成する構造体が目立つ形式となる。
②の場合、当該肘木上には通肘木が載る。現存の古代建築における、組物と通肘木の関 係をみると、通肘木と相欠きに組まれる手先方向の部材は、法隆寺式の建造物以外ではほ ぼ必ずといってよいほど、内部側に引き込まれて入側柱筋に達している。すなわち、通肘 木は、入側柱上方と側柱上方を繋ぐ材と組まれて軸部を水平に固める役割を持ち、さらに この直交材が跳ね出して組物の力肘木となる、という機能を果たしていることがわかる。
すると、当該肘木の所用組物は、二手先組物の上に力肘木が重なる形状となり、さらに手 先が重ねられる状況を示している。すなわち、この力肘木の上にさらに尾垂木が載り、軒
桁を支える三手先組物である可能性が高い。
上記2種の組物形式には、手先肘木と壁付き肘木とが同高で組まれるか、半段ずれて組 まれるか、という違いに留まらず、建物の構造システム全体に関わる大きな差異がある。
①では、組物は基本的に手先方向に出るのみで、壁付きには通肘木のみが設けられるこ とになる。また、隅で壁面の延長上に組物を出そうとしても、通肘木が手先組物と段違い
長い肘木の組物①(渡り肥の場合) 長い肘木の組物②(相欠きの場合)
石
套
になっているため、三方向に同高で組物を出すことができず、必然的に隅行の一方向のみ に組物が出る形式となる。
②では、組物は壁付きの組物及び通肘木と相欠きに組まれることで、軸部構造と一体化 されている。また、隅では通肘木を延長すれば隅行組物と同高で組物を出すことがで乱 三方向に組物を出す安定した形式が得られることになる。
これらの形式は、いずれの場合においても、これまでの古代建築技術史に新しい知見を もたらすものといえるが、それのみならず、古代建築史の枠組み自体に再考を迫る可能性 を秘めてもいる。①の場合、雲肘木という形式を除けば、中国の隋代建築から、日本の飛 鳥・奈良時代建築への流れに違和感なく納まるかに見える。一方、②の場合は、現存最古 の木造建築である法隆寺金堂よりも建設年代の古い山田寺の建物が、薬師寺東塔以降の奈 良時代建物と近い構造をもっていたことになり、法隆寺金堂の位置が宙に浮いてしまう。
この意味では、①の形式を想定するのが妥当のように見えるが、この組物を山田寺金堂の 柱配置と組み合わせて構造を考察してみると、必ずしも矛盾無くは納まらないのである。
次に、「肘木07」の所用建物について考えることとしたい。
(3)「肘木07」の所用建物
「肘木07」が二手先以上の本格的な組物に使用された部材であることから、この部材が 使用された建造物は中門、金堂、塔に限られよう。南面回廊南という出土位置、そして肘 木の断面寸法が回廊と同寸であることからすれば、中門の部材である可能性が高い。山田 寺の中門は、梁間3間の門であった可能性が指摘されており、法隆寺中門同様の二重門で、
手先を出して軒を深くする形式だったと考えるのが妥当である。
当該肘木が中門所用の部材であれば、中門と同時期の金堂についても同様の組物形式で 建設されたと考えるのが一般的であろう。とすれば、金堂の組物形式は、既往の復元案に 示される雲肘木ではなく、長い肘木を使用していたものとなる。
山田寺金堂は、身舎と庇の柱間数がともに桁行3間×梁間2間と同一となる、特異な柱 配置を持つ。既往の復元案では、隅の組物を隅行の一方向のみに挺出する形式で提案され ているため、特に妻側で軒桁の支点間距離が過大となり、柱間の中間で軒桁を支持するた めの中備を想定せざるを得なくなっている。しかし、そもそも軒桁を直接支持する中備が 当時存在したかどうかについては全く議論されておらず、中国においても同時代にそれが 存在していたとは今のところ考えられていないはずである。組物形式、中備の有無を含め、
今後、山田寺金堂の復元案が根本から見直されることが期待されよう。
以上、「肘木07」から、山田寺の建築形式を考察してみたわけだが、当該部材の古代建 築技術史上に占める意義が明瞭になったことと思う。この考察を契機に、日本に限定せず、
東アジア全域における古代建築技術史の再考が試みられ、古代建築の構造システム全体に ついての展望が刷新されることが期待される。