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飛鳥寺と飛鳥大仏

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Academic year: 2021

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飛鳥寺と飛鳥大仏

解 説 書

奈 良 県 明 日 香 村

関西大学文学部考古学研究室

(2)

ごあいさつ

わたしたちの明日香村は、古墳や寺院、宮殿跡、石造物などの多くの遺跡

と豊かな自然との織りなす風景が「日本人の心のふるさと」として親しまれ

ています。これらの貴重な遺跡や人々の心を癒す原風景の重要性を改めて認

識し、多くの人々に感じていただけるよう、明日香村において様々な保存整

備事業や環境整備事業が実施されています。

その保存活動の一環として、明日香村と関西大学は平成 18 年2月に地域

連携に関する協定書を交わしました。そして、連携活動のひとつ「古代遺跡

再現事業」において、『石舞台古墳~巨大古墳築造の謎~』を制作し、これに

続く第2弾として、このたび『飛鳥寺と飛鳥大仏』が完成いたしました。

前作と同様、関西大学文学部 米田文孝教授の監修により、飛鳥寺創建当時

の様子を映像やコンピューターグラフィックスでわかりやすく表現しており、

併せて解説書をご活用いただくことで、より一層理解を深めていただけるも

のとなっています。

小学校・中学校での総合学習や、遠足・修学旅行で明日香村を訪れる児童・

生徒の事前学習用の資料として、幅広くご活用いただければ幸いです。

「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の世界遺産登録を目指す明日香村と

して、今日まで守ってきた文化財や、すばらしい景観を広く発信していくと

ともに、訪れる人が古代飛鳥をイメージ、体感していただけることを願って

います。

 最後になりましたが、この DVD 及び解説書の制作につきまして、ご指導、

ご協力を賜りました先生方をはじめ、多くの関係機関のみなさまに厚くお礼

申し上げます。

平成 25 年 3 月

明日香村長  森川 裕一

(3)

目 次

  シーン一覧 ………  2 Ⅰ 飛鳥寺(シーン①②) ………  4 Ⅱ 飛鳥寺の発掘 (シーン④⑤⑥⑦) ………  7 Ⅲ 飛鳥大仏(シーン⑨⑩) ……… 11 Ⅳ 飛鳥寺周辺の環境 ……… 13 年表 ……… 20 用語解説(シーン⑪⑫) ……… 22 飛鳥・藤原京の時代 ……… 24 飛鳥寺建立に関する史料(シーン⑧) ……… 26 主要参考・引用文献・図版出典・関連本の紹介 ……… 27

例 言

ⅰ . 本書は「飛鳥寺と飛鳥大仏CG」の解説書として、関西大学文学部考古学研究室が作成した。 ⅱ . 本書は、米田文孝・今井真由美・鮫島えりな ( 関西大学 ) が執筆した。 ⅲ . 本CGムービー中に用いたイラストは、早川和子氏の作成した原画を使用した。 ⅳ . 本CGムービー中における音声担当は、朱雀 ( スー ) =桜井美宇、白虎 ( タイガ ) =橋爪玲奈    である。 ⅴ . 「飛鳥寺と飛鳥大仏」の制作、及び資料の収集に際してご教示・協力を賜った個人・機関は以    下のとおりである。ご芳名を記して深謝申し上げます。 ( 順不同・敬称略 ) 福井正浩・阪口哲人・小倉幸夫・吉川ゆかり・鬼平可奈・西光慎治 ( 明日香村 )、 池内克史・ 大石岳史 ( 東京大学池内・大石研究室 )、花房孟胤 ( 東京大学 )、角田哲也 ( アスカラボ )、 早川和子、梅原章一、吉田晶子、佐々木聖子、近藤康司、奈良県立橿原考古学研究所、 奈良文化財研究所 ≪経歴≫ アニメーター時代に「天才バカボン」「はじめ人間ギャー トルズ」「ガンバの冒険」などの動画を担当する。整理員を経て 1989 年頃から考古学復元イラストを描くようになる。  『日本歴史館』・『よみがえる日本の古代』( 小学館 )『日本史復 元』(講談社 )『発掘された日本列島』(2004 ~ 2007)( 朝日新聞社 ) 奈良文化財研究所が開催した「平城京展」「長屋王展」「飛鳥・藤 原京展」などの図録、馬高縄文館、いましろ大王の杜ほか、遺跡 案内パネルの復元画を多数作成している。 早川 和子

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シーン一覧

シーン①

   シーン②

          

シーン③

       

シーン④

   

   

   

   

   

   

  

 

シーン⑤ シーン⑥

『石舞台古墳~巨大古墳築造の謎~解説書』シーン③~⑧参照

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シーン⑦        シーン⑧

 

  

  

   

  

シーン⑨         シーン⑩

   

 

シーン⑪      シーン⑫ 

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Ⅰ 飛鳥寺

 飛鳥寺は奈良県高市郡明日香村飛鳥にあり、蘇我氏の氏寺であるとともに、日本で初めて造られ た本格的な寺院です。  現在、その地には安あ ん ご い ん居院という寺院が飛鳥寺の中金堂があった一角に建っており、そこに安置さ れている仏像は、飛鳥寺創建時の本尊である通称「飛鳥大仏」とよばれる釈迦如来坐像です。

1.名称の変化と飛鳥寺のその後

 当初、「 法興寺」「元興寺」「飛鳥寺 」などの名称でよばれていたこの寺院は、『日本書紀』の 記述では「飛鳥寺」という名称が多く使われていました。このことから、一般的には「飛鳥寺」と よばれていたと考えられます。平城遷都の8年後、飛鳥寺は平城京に移り、「元興寺」となります。 飛鳥に残った寺院は、「 本元興寺」という名でよばれ、そのまま飛鳥の地に残されました。  奈良時代以降、飛鳥寺に関する資料は乏しく、735( 天平7) 年の斎会、748( 天平 20) 年の元正天 皇の初七日の誦経のほか、十五大寺の1つとして疫病や旱魃の終息や豊作の祈願などがみえますが、 かつての姿はなかったと思われます。その後、鎌倉時代には落雷で焼失したりしますが、江戸時代 に至るまで、年月とともにその荒廃はひどく、ただ飛鳥大仏だけが、石の台座に残されていたそう です。1632( 寛永9) 年にある夫婦が小さい仏堂を寄進し、その後、香久山にあったお寺の僧が飛鳥 寺に隠居して、寺号を「安居院」と改め、破損していた飛鳥大仏を補修しました。それが、現在の 真言宗安居院につながるようです。

2.仏教公伝と仏教の受容

 日本に仏教が公式に伝えられた時のことは史書に記載されています。『 上じょう宮ぐうしょう聖徳とく法ほう王おう帝てい説せつ』に よると 538 年、『日本書紀』では552 年と伝わった年に違いがありますが、百済の聖明王から釈迦 如来像と仏具・経論が贈られてきたことが記載されています。  欽明天皇は、大臣蘇我稲目にこの時に贈られた仏像の安置と礼拝を許しましたが、仏教の受け入 れに反対する大連物部尾輿の讒言により、破却されました。そして、稲目の子の蘇我馬子も仏教を 受け入れようとしましたが、585( 敏達 14) 年に再び弾圧を受けました。このような仏教を受容しよ うとする蘇我氏と排除しようとする物部氏の対立は、ついに587( 用明2) 年、皇位継承争いと連動 して武力衝突に及びました。馬子はこの戦いに臨んで、寺院建立と仏法流布を誓い、物部守屋を滅 ぼすと崇峻天皇を擁立し、飛鳥寺の建立に着手しました。  そして、仏教は645( 大化元 ) 年8月に至り、孝徳天皇は、これまでは蘇我氏が主導してきた仏教 興隆を今後は大王家が引き継ぎ、寺院造営を援助すると宣言しました。仏教が日本に伝えられてか ら約 100 年後、ついに仏教が公に認められることになりました。

3.飛鳥寺造営経緯

 飛鳥寺造営の経緯は、『日本書紀』や『元がん興ごう寺じ伽が藍らん縁えん起ぎならびにる幷流記ざいちょう』( 以下、『元興寺縁起』) にみられます。それらによると、蘇我馬子は飛鳥真神原にあった 衣きぬぬいのみやつこのおや縫 造 祖 樹こ の は葉の家を壊して、 造営を開始し、それから約 20 年をかけて完成しました。

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 また、仏教公伝以来、百済をはじめとした朝鮮半島諸国からは、仏教に関する様々な人や物がも たらされました。例えば、百済王は仏舎利を贈り、何人もの僧侶と寺工・露盤博士・瓦博士・画工 などの専門技術者を派遣しました。『元興寺縁起』にみえる塔露盤銘によれば、 東やまとの漢あや氏うじが建設に あたり、金工は忍海・朝妻・鞍部・山かわ西ちの各氏が統率したとあります。 表 1 朝鮮半島からもたらされたもの (『日本書紀』による ) 百 済 新 羅 高句麗 552( 欽明 13) 釈迦仏の金銅像1体、経論若干巻、幡蓋 ( 撞幡と天蓋 ) 若干 554( 欽明 15) 五経博士 1 人、僧9人 577( 敏達6) 経論若干巻、律師・禅師・比 丘尼・呪禁師・造仏工・造寺 工を6人 579( 敏達8) 仏像 584( 敏達 13) 弥勒石像1体 588( 崇峻元 ) 仏舎利、僧、寺工2人、画工 1人、露盤博士1人、瓦博士 4人 595( 推古3) 僧1人 僧1人 602( 推古 10) 僧1人 僧2人 605( 推古 13) 黄金 300 両 表 2 飛鳥寺造営過程 『日本書紀』 『元興寺伽藍縁起流記資材帳』 587( 用明2) 蘇我馬子飛鳥寺造営発願 仮垣・仮僧房を作る、僧6人を住ませる、寺の木組を作る 588( 崇峻元 ) 飛鳥寺造営開始 590( 崇峻3) 寺に使う用材の切り出し 592( 崇峻5) 仏堂 ( 金堂 ) と歩廊 ( 回廊 ) を建てる 593( 推古元 ) 塔心礎に仏舎利を置き、心柱を立てる 596( 推古4) 飛鳥寺完成、善徳 ( 蘇我馬子の息子 ) を寺司 にする、2僧が住む 飛鳥寺完成、塔に露盤があげられた 605( 推古 13) 鞍作止利を造仏工に任命、飛鳥大仏を作り始 める 飛鳥大仏の銅・繡各1体と脇侍を造る 606( 推古 14) 飛鳥大仏完成、金堂に飛鳥大仏が置かれる 609( 推古 17) 飛鳥大仏が完成し、飛鳥寺に置かれた

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図 1 飛鳥寺周辺 ( 南東から撮影 )

現在の飛鳥寺

飛鳥寺の寺域

現在の飛鳥寺

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Ⅱ 飛鳥寺の発掘

 飛鳥寺は、1956( 昭和 31)~1957( 昭和 32) 年に奈良国立文化財研究所 ( 現、奈良文化財研究所 ) が 実施した第1~3次の発掘調査で、主要な堂塔がみつかっています。以来、現在まで奈良文化財研 究所や明日香村教育委員会、奈良県立橿原考古学研究所が飛鳥寺とその周辺の発掘調査を継続し、 伽藍の様子や寺の範囲などが、徐々に明らかになりつつあります。

1.寺域

 飛鳥寺の東西南北の範囲は、寺域全体に発掘調査が及んでいないため確定していませんが、今の 段階では次のように考えられています。 東限:寺域推定部分の北端で寺域の北側とのコーナー部分が確認されています。そこから南限まで    延ばしたライン。 西限:南門の両脇から続く築地塀が西側で門を開いています。これが飛鳥寺の西門で、この門とそ    れに続く塀のライン。 南限:南門のさらに南側の石敷きの広場。 北限:中金堂の約 220 m北側。  寺域全体の形をこの範囲で考えると、南門から東西に延びる築地塀は、寺域東南コーナーでやや 北東に屈曲して、さらに北にまっすぐ延びるという五角形に近い形となります。  ただ、創建当時からそのような五角形に近い形だったのか、四角形だった寺域を後に変更したの かということは不明です。

2.伽藍

 飛鳥寺の伽藍配置は、一塔三金堂をもつ「飛鳥寺式伽藍配置」とよばれ、その起源は清岩里廃寺 ( 高句麗 ) や王興寺( 百済 ) に求められるのではないかという考え方がありますが、飛鳥寺と全く同じ 伽藍配置をもつ寺院は、現在のところ他にありません。  また、伽藍地 ( 堂塔や門が建つ敷地 ) は、寺域の中心で はなく、西南部分に偏っているため、伽藍の中軸線も寺域 全体の西寄り3分の1に位置しています。  飛鳥寺式伽藍配置をもう少し詳しくみると、中軸線上に 南から南門・中門・塔・中金堂・講堂が一直線に並び、さ らに西金堂と東金堂が、塔を正面にして対称に配置されて います。中門から左右に続く回廊は、中金堂の背後で閉じ、 講堂はその北側に配置されています。門は南門と西門が確 認されていますが、通常は南門が大きく造られますが、こ こでは西門が南門に比べて規模が大きいことが特徴です。  また、西門の前には、中大兄皇子と中臣鎌足が出会った 「飛鳥寺の槻の木の広場」だと考えられている空間が広がっ ています。そして、寺域東南部には、礎石建ち建物が確認 図 2 飛鳥寺の伽藍配置

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されており、これは『続日本紀』や『日本三代実録』、あるいは『類聚国史』にみえる道昭 (653( 白 雉4) 年に唐に渡って玄奘三蔵に師事し、後に帰国した僧 ) が建てた東南禅院ではないかと考えら れています。

 

3.塔

 仏塔の起源は古代インドにさかのぼります。仏教の始祖である仏陀が入滅した際に、その遺骨を 納めた半球状の土の塚が造られました。これが、仏塔の起源といわれています。  しかし、仏陀の遺骨には限りがあり、各地に建てられたすべての塔には納められないため、遺骨 の代わりに玉類などを仏舎利として納めるようになりました。  その後、仏教が中国に伝わり、塔は様々な形に変化し、朝鮮半島を経て日本に伝わりました。 【心礎】 心礎とは、塔の中心に据える柱( 心柱 )を支える礎石のことです。そのため、心礎は地下や 地表に据えられます。飛鳥寺のような初期の寺院ほど、地中深くに心礎が据えられる傾向がみられ ます。  飛鳥寺では、地表面から約3m 下に据えられていました。東西約 2.6m、南北約 2.4m の大きさ の心礎には、中央に舎利を納めた孔があり、多くの埋納物が出土しました。 図4 飛鳥寺 塔心礎 図 6 飛鳥寺 塔心礎埋納物 ( 2) 図 5  飛鳥寺 塔心礎埋納物 ( 1) 図3 飛鳥寺 仏舎利 容器と外箱 ( 鎌倉時代 )

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【舎利埋納物】 1197( 建久8) 年の弁暁上人の記録によると、前年の建久7年に焼失した飛鳥寺の塔 の心礎から掘り出した舎利と荘厳具を再び納めたとあります。第3次調査で出土した舎利容器は、 その形態から鎌倉時代のものであり、上人が仏舎利を納め直した時のものと思われます。  このように、第3次調査で出土した埋納物は、創建時のままの姿ではありませんでしたが、それ でも、わが国初の寺院の塔の舎利荘厳具として貴重なものです。それらは、硬玉・碧玉・琥珀・水 晶・銀・ガラスなどで作られた勾玉・管玉・切子玉・空玉・トンボ玉などのおびただしい数の玉類、 金環、金銀延板と小粒、金銅製打出金具・金銅鈴・金銅製瓔珞、青銅製馬鈴、挂甲、蛇行状鉄器、 刀子など多岐にわたります。 【基壇】 基壇とは土で築かれた壇のことです。礎石に支えられた柱や瓦屋根をもつ大きな建物を建 てるためには、その地盤は強固なものでなければなりません。そのためには、土と粘土を交互にしっ かりとつき固め( 版築 )、そして側面を切石や塼・瓦などで覆います。瓦で覆った瓦積基壇、切石で 覆った切石積基壇、人頭大の川原石で覆った乱石積基壇などがあります。切石を使った基壇の中で、 特に束石という石を使うことで、より強度を保つものを壇正積基壇といいます。瓦積基壇では檜隈 寺講堂など、壇正積基壇では川原寺塔などに採用されています。  飛鳥寺の場合は、塔と中金堂に壇正積基壇、東・西金堂は同時代に建てられたにもかかわらず、 塔・ 中金堂とは異なった乱石積基壇が採用され、さらにその外側にも段が設けられて、二重に基壇 が造られていたのです。 図 7 飛鳥寺 乱石積基壇  図 8 飛鳥寺 塔壇正積基壇 図 9 檜隈寺 講堂瓦積基壇 図 10  川原寺 塔壇正積基壇

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4.飛鳥寺出土瓦

 飛鳥寺は、日本で初めての本格的な瓦葺き建物です。588( 崇峻元 ) 年に百済から僧侶や寺工等と ともに瓦博士4人が訪れ、造瓦技術をもたらしました。  瓦には多くの種類がありますが、軒先に飾られる紋様の施された瓦を軒瓦( 軒丸瓦・軒平瓦 )とい い、他には丸瓦・平瓦や面戸瓦・熨斗瓦や垂木先瓦や鬼瓦など、多くの種類の瓦があります。  なお、寺院地の南東で飛鳥寺の瓦を焼いた窯跡がみつかりました。丘陵の斜面をトンネル状に刳 り抜き、床には階段を設けていることがわかりました。 【軒丸瓦】 軒丸瓦の紋様は、古代では特に蓮の花をモチーフにした蓮華紋が多く使用されます。ま た、蓮華紋の花びらは、1枚のもの(素弁・単弁)と2枚のもの( 複弁 ) に大きく分けられますが、創 建期の飛鳥寺では、素弁が使われました。この創建期の素弁の軒丸瓦には、通称、「花組」「星組」 とよばれる2系統の紋様がみられます。これらの素弁の2系統の瓦は、素材となる粘土やその作り 方が異なり、それは丸瓦や平瓦にもあてはまることがわかっています。つまり、飛鳥寺創建時の造 瓦に関わった工人のグループも2系統あったようです。なお、「星組」の紋様のうちの1つは飛鳥 寺の後、豊浦寺さらに法隆寺 ( 斑鳩寺 ) で使われたことがわかっています。  一方、複弁紋様の瓦は川原寺で使われた紋様に影響を受けたと考えられ、飛鳥寺では7世紀の後 半に伽藍地が再整備された時に使用されたものです。 【軒平瓦】 飛鳥寺の発掘調査では、重弧紋や唐草紋を施した軒平瓦が出土していますが、これらは、 後の寺の補修や増築の際に使用されたもので、創建時には、紋様をもった軒平瓦ではなく、普通の 平瓦を重ねて軒に葺いていました。 図 11 飛鳥寺創建瓦 ( 花組 ) 図 12 飛鳥寺創建瓦 ( 星組 )

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Ⅲ 飛鳥大仏

 飛鳥大仏は、鞍作鳥 ( 止利仏師 ) が造ったと『日本書紀』 は伝えています。その中で、飛鳥大仏は「丈六仏」と示され ています。   丈六とは一丈六尺のことで、約 4.8m にあたります。一般 的に立像の場合は一丈六尺、坐像の場合は八尺 (2.5m) 以上 の仏像のことを大仏と呼びますが、飛鳥寺の丈六仏は像高が 約3m の坐像で八尺を超えているため、「飛鳥大仏」と呼ば れるようになりました。 飛鳥大仏は火災により堂が消失して からは風雨に晒されてきたため、当初の部分は頭部の額から 下、鼻から上の部分と、右手の第2から第4指だけで、他の 部分は後世の鋳直しと考えられてきました。

1. 鞍作鳥 ( 止利仏師 )

 鞍作鳥は、飛鳥時代に活躍した仏師として有名ですが、鞍 作氏は鳥の祖父( 司馬達等 )の時に中国あるいは朝鮮半島から 渡ってきた金属製品を作る渡来人の一族です。  鳥の代表作は、飛鳥大仏の他に法隆寺金堂釈迦三尊像がありますが、いずれの作品も顔は面長で 杏仁形の目、仰月形の口元が、その特徴です。  『日本書紀』には、完成した大仏を飛鳥寺の金堂に入れようとしたところ、扉よりも大仏の方が 大きいため、扉を壊して中に入れようと話をしていましたが、鳥の工夫により、扉を壊さずに大仏 を中に入れることができました。その褒美として、鳥は、近江国坂田郡に水田を 20 町賜ったとい う話が記されています。

2.大仏鋳造

 飛鳥大仏は、それまでに造られた金銅像と比較すると類をみない程、大きな像です。そのため、 既存の鋳造技法とは異なった技法で造られたと考えられますが、どのような鋳造技法で造られたの か明らかにされていません。現在、明らかにされている最古の例は、飛鳥大仏造立から約 150 年 後の奈良時代に作られた東大寺大仏です。ここでは削り中子 ( 中型 ) 法が用いられたことから、本 CGムービーでは、削り中子 ( 中型 ) 法による飛鳥大仏鋳造の様子を再現しました。  削り中子 ( 中型 ) 法は大型の鋳造物を造るのに適した方法です。作業工程をみていきましょう。 【削り中子法】   ①造りたい仏像の形を土で造ります ( 原型 )。 ②外鋳型を造る。 原型を覆うように表面に土を厚く塗ることで、原型の形を写し取った外鋳型が出来上がります。 ③原型全体を削る。 図 13 飛鳥大仏復元図

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外鋳型を一旦取り外し、原型を削ります。この削っ た部分の厚さが仏像の厚さとなり、削って加工し た原型は中型となり、「中なか子ご」とよばれます。 ④中子の周りに外鋳型を戻す。 外鋳型を元の位置に戻すと、両者の間に隙間がで きます。 ⑤銅を流し込む。 ④の工程でできた隙間に溶かした銅を流し込みま す。この時、銅を溶かすために高い温度が必要と なるので、人力で風を起こして火力を上げる「た たら」という送風装置を用いたと考えられていま す。 ⑥銅が冷えて固まったら、外型を外すと原型と同形・  同大の仏像が現れます。鋳造が終わるとあとは修  正して、金箔を貼って完成です。    東大寺の大仏は、像高が約 16 m、使用した銅は 250 tもあり、一度に鋳型に銅を流し込んで造るこ とはできないために、まず原型を作った後、②から ⑤までの工程を1つの作業単位として、これを8回 繰り返したのではないかと考えられています。 図 15 鋳造の様子 たたら 向い合った人が踏板 を交互に踏むことで風を起こ し、こしき炉へ風を送ります 木炭 燃料に用います こしき炉 銅を溶かす ために1000度以上の 高温に保たれました 銅 鋳造仏の主原料は銅と 錫であると考えられています 前段で流し込んだ銅 外 鋳 型 土を盛り、外鋳型を しっかり固定し、溶 かした銅を流し込み ます 原  型 外鋳型に模様を 写し取ります 原 型 前段で流し込んだ銅 前段で流し込んだ銅 外 鋳 型 中子 ( 型 ) 中子 ( 型 ) ↓ 原型を削ります 前段で流し込んだ銅 図 14 東大寺大仏鋳造の工程

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Ⅳ  飛鳥寺周辺の環境

 飛鳥寺が造営され始めた頃は、政治は飛鳥を中心におこなわれていました。初めて飛鳥に宮を置 いたのは、推古天皇です。最初は豊浦宮、そして小墾田宮に遷ります。この推古天皇の宮は、飛鳥 寺の北西に位置していますが、推古天皇の後、飛鳥以外に置かれた宮を除いて、宮は飛鳥寺の北西 から南に移動し、飛鳥岡本宮以降は、飛鳥板蓋宮→後飛鳥岡本宮→飛鳥浄御原宮が、ほとんど同じ 場所に重なって置かれました。 そして、飛鳥寺が造営されて以降、百済大寺や川原寺などの官寺や山田寺や坂田寺などの氏寺が 次々と建立されました。

1.飛鳥の宮

592( 崇峻5) 年、推古天皇が豊浦宮で即位してから約 100 年の間、何度か離れたことはありますが、710( 和銅3) 年、元明天皇が平城京に都を遷すまで、宮はずっと飛鳥と その周辺に営まれました。 ここでは、飛鳥寺を建てた蘇我氏と密接な関係をもつ豊 浦宮と小墾田宮に焦点をあて、あわせて飛鳥岡本宮、飛鳥 板蓋宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮にも若干の説明を加 えたいと思います。 【豊浦宮】(592 ~ 603 年、推古天皇) 592 年 12 月、推古 天皇はこの豊浦宮で即位しました。588 年に造営が始まっ た飛鳥寺の北西に宮が置かれたことは、推古天皇が蘇我系 の天皇であり、その治世を通じて蘇我氏との強い結びつき があったことから、蘇我氏がその勢力圏内に宮を置いたこ とに他なりません。そして、飛鳥時代はこの時から始まる のです。  発掘調査では豊浦寺の金堂や講堂のさらに下から、石敷 きをめぐらす建物跡や礫敷きがみつかりました。限られた 面積の調査であったため、全貌は明らかにはなっていませ んが、豊浦宮は、宮が小墾田に遷った後に豊浦寺となった という記述が『日本書紀』にあるので、それまでははっき りと所在地がわからなかった豊浦宮ですが、この調査に よって、現在、明日香村豊浦にある向原寺周辺にあったと 考えられています。             図 17  小墾田宮復元図 ( 岸俊男氏 1993 より) 図 16  豊浦寺下層から発見された建物跡

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【小墾田宮】(603 ~ 628 年、推古天皇) 小墾田宮の位置は、豊浦寺の北方、古宮土壇と呼ばれる 土の高まりが現在も残る一帯と考えられていましたが、1987( 昭和 62) 年、雷丘東方遺跡で奈良時代 の井戸から 「小治田宮」 と記された奈良時代の多数の墨書土器が出土したことで、その場所が、少 なくとも奈良時代には、「小治田宮」 と呼ばれていたことがわかりました。  雷丘周辺では、それ以外の発掘調査でも建物 ( 倉庫群を含む )・溝・池・石敷きなどが確認され ており、その一帯に推古天皇の時代から奈良時代にわたって、「小治田宮」 が存続していたのでは ないかと考えられています。推古天皇のあと、宮は遷されますが、642 年に皇極天皇が一時的に使っ たり、760 年に淳仁天皇が使ったりしたことが、『日本書紀』や『続日本紀』に記載されています。  さらにこの宮は、天皇の住まいとしての大殿を閤門で画し、その前面の朝廷の左右に朝堂 ( 役所 )、 さらにその南に宮の門として南門を配しています。藤原宮や平城宮のように、中心施設である大極 殿はありませんが、私的空間と政治を司る公的空間が分けられ、宮としての構造がわかる初めての ものです。 図 18  飛鳥浄御原宮復元模型 天皇 592 - 628推古 629 - 641舒明 642 -皇極 645 孝徳 645 - 654 655-662斉明 662 - 672天智 672 - 687天武 687 -持統 年 592   603     628 630 636  640   641 643 645   651   655 656      667     672          694 飛鳥地域 豊浦宮 小墾田宮 飛鳥岡本宮 飛鳥板蓋宮 後飛鳥岡本宮 飛鳥浄御原宮 飛鳥以外 百済宮 難波長柄 豊崎宮 近江大津宮 藤原京 表3 飛鳥時代 ( 推古天皇~持統天皇 ) の宮変遷

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飛鳥京跡 飛鳥京跡は、明日香村岡にあり、奈良県立橿原考古学研究所による発掘調査が、 1959( 昭和 34) 年から継続しておこなわれています。その結果、この遺跡は4時期 ( Ⅰ期・Ⅱ期・ Ⅲ-A期・Ⅲ-B期 ) の遺構が重なっていることがわかっています。 【飛鳥岡本宮】(630 ~ 636 年、舒明天皇) 飛鳥京跡のⅠ期にあたる遺構が、この宮の時期にあた ります。しかし、その後の度重なる宮の造営によって、Ⅰ期の遺構は大部分が削平されていて、あ まり残っていませんが、Ⅱ期以降のものとは建物の主軸方向が異なることがわかっています。 【飛鳥板蓋宮】(643 ~ 645 年、皇極天皇) 飛鳥京跡Ⅱ期の時期にあたりますが、この宮も発掘調 査からは、まだ詳細な内部構造などは明らかではありません。この宮は、645 年に中大兄皇子と 中臣鎌足が中心となって起こした乙巳の変の舞台でもあります。 【後飛鳥岡本宮】(656 ~ 667 年、斉明天皇) 飛鳥京跡Ⅲ-A期の時期にあたるこの宮は、内郭で 構成され、内郭の内部を北区画と南区画とに分けています。北区画 には2つの正殿が、南区画に は前殿が配置され、北区画には玉石が敷かれ、南区画にはバラス ( 砂利 ) が敷かれており、天皇の 私的空間と公的空間を分けているのではないかと考えられています。 【飛鳥浄御原宮】(672 ~ 694 年、天武~持統天皇) 飛鳥京跡のⅢ-B期にあたる遺構で構成され ます。重複して営まれた飛鳥京跡の宮の中では、一番新しい宮であるため、この時期の遺構が最も よく残っています。壬申の乱の後、天武天皇が後飛鳥岡本宮を整備して、さらに宮の南東に大型の 建物を中心とした郭を加えて造営した宮です。なお、この建物や郭は、現在、その小字名をとって、 それぞれ「エビノコ大殿」「エビノコ郭」とよんでいます。 【飛鳥池遺跡】 奈良県立万葉文化 館の建設に先立って実施された発 掘調査でみつかった遺跡で、飛鳥 寺東南部の谷を利用して、7世紀 後半~8世紀初頭にかけて操業し ていた工房跡です。ここでは、金 属の加工、玉類・漆芸・鼈甲細工・ 瓦の生産などがおこなわれ、わが 国最初の鋳造貨幣、 「富本銭」も 作っていました。また、約 8,000 点 もの木簡が出土しており 、それら は大きく飛鳥寺に関するもの、皇 室に関わるもの、工房に関わるも のに分けられます。近年、飛鳥京 跡や藤原京からおびただしい数の 木簡が次々に発見され、飛鳥池遺 跡の木簡も含めて、その当時に書 かれた文字資料は、歴史の解明に 大きな役割を果たしています。 図 19  飛鳥池遺跡復元模型

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2.飛鳥とその周辺地域の寺院

 飛鳥寺が造営されて以降、各地で多くの寺院造営が始まりました。これらの多くは、蘇我氏のよう な力のある氏族や厩戸皇子 ( 聖徳太子 ) の上宮王家などが発願したものですが 、大王家 ( 天皇家 ) が 発願した寺院では、舒明天皇が建立した百済大寺が最初のものです。  ここでは、一族の繁栄や先祖の菩提を弔うために建てた寺院 ( 氏寺 ) である豊浦寺・山田寺・坂田 寺と国家がその運営や維持に直接関与した寺院 ( 官寺 ) である百済大寺・川原寺について説明したい と思います。 【豊浦寺】(奈良県高市郡明日香村豊浦) この寺院は、推古天皇が使用した豊浦宮の跡地に蘇我氏 によって建立された尼寺です。『元興寺縁起』では、593( 推古元 ) 年に建立と記されていますが 、 豊浦宮のところで述べたように、寺の下層でみつかった遺構が推古天皇の豊浦宮だとすれば、小墾 田宮に遷った603( 推古 11) 年以降に建立されたことになり、出土した瓦の年代が7世紀初頭にあた ることからも、『元興寺縁起』の記載とは少しズレが生じます。  伽藍配置などの構造は、発掘調査によって、南から金堂・講堂・僧房があったことは明らかにな っていますが、塔についてはまだわかっていません。現在、豊浦寺の跡地では向原寺がその法燈を 伝えています。 【坂田寺】(奈良県高市郡明日香村坂田) この寺院は、鞍作多須奈が建立したと伝えらていますが、 創建は明らかではありません。  『扶桑略記』によると、522( 継体 16) 年に渡来した司馬達等が造った高市郡坂田原の草堂に由来 するとされますが、『日本書紀』では、鞍作鳥が飛鳥寺の丈六仏を完成させて、無事に金堂内に運 び入れた褒美として、近江国坂田郡に水田を賜ったことを 契機に建立した金剛寺が坂田寺だと考えられています。  創建時期の遺構は未確認ですが、10世紀後半に土砂崩れ に遭い、崩壊した奈良時代の西面する伽藍が確認されてい ます。坂田寺は、現在は国営公園として整備されています。 【山田寺】 (奈良県桜井市山田) この寺は、乙巳の変の後、 右大臣に任命された蘇我倉山田石川麻呂が建立した氏寺で す。641( 舒明 13) 年から建立を開始しましたが、金堂の完 成後の 649( 大化5) 年、無実の罪で石川麻呂が一族ととも に自害したことで一時中断し、天武天皇の時代に再開しま した。676( 天武5) 年に塔が完成し、678( 天武7) 年に金 銅丈六仏像を鋳造し、685( 天武 14) 年に開眼法要をおこな いました。  南門・中門・塔・金堂・講堂が中軸線上に一直線に 並び、中門から発した回廊は、金堂の北側で閉じてい ま す。1976( 昭和 51) 年 か ら 第 1 次 発 掘 調 査 が 始 ま り、 1982( 昭和 57) 年には、東面回廊が倒壊したままの姿でみつ 図 21  山田寺伽藍

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かり、白鳳期の回廊の構造などがわかる貴重な資料となりました。山田寺は、1952( 昭和 27) 年に 国の特別史跡に指定されています。  また、平安時代には、興福寺の僧兵が平家の南都焼き討ちによって焼失した興福寺の再建のため に山田寺に押し入り、丈六薬師三尊像を持ち去って興福寺の東金堂に安置しました。興福寺のその 後の2度の火災で頭部だけとなったこの仏像は、現在も興福寺に安置されている旧山田寺仏頭です。 【百済大寺】(奈良県桜井市吉備)  この寺院は、舒明天皇の発願により造営が開始され、大王家の 最初の寺だけあって、堂塔の規模や使用された瓦の大きさは、他の寺院に比べて群を抜いていて、 塔は、九重塔であったと推定されています。蘇我氏の権力からの離脱を試みた舒明天皇の強い意志 が働いた結果、この百済大寺は、飛鳥の地から離れて建てられたと考えられています。  伽藍配置は、東に金堂、西に塔を配し、中門から発した回廊が取り囲みます。講堂は回廊の北に 推定されていますが、現在そこには吉備池という池があり、詳しいことはわかっていません。  この寺院はそのすべてが大きいことが特徴ですが、その他に特筆すべきこととして、中門が金堂 と塔のそれぞれの正面に2カ所設けられていることです。百済大寺は、その後、高市大寺→大官 大寺となり、平城遷都後は大安寺となって続いていきます。 【川原寺】(奈良県高市郡明日香村川原)  この寺院は、斉明天皇が一時的に使用した飛鳥川原宮を 改修し、天智天皇が母である斉明天皇の菩提を弔うために建立したと考えられています。  1957( 昭和 32) 年に発掘調査が始まり、飛鳥寺と同じように奈良文化財研究所・明日香村教育委員 会・奈良県立橿原考古学研究所によって、調査は続けられています。  その伽藍配置は、中央北よりに中金堂を置き、中門から発して中金堂に取りついて閉じた回廊内 の西に金堂 ( 西金堂 )、東に塔を配し、中金堂の北側には講堂が三面 ( 東・西・北 ) を僧房に囲まれて 建っていました。これは「川原寺式伽藍配置」とよばれるもので、国内では滋賀県大津市にある南 滋賀廃寺にもみられます。この寺院は、天智天皇が大津に都を置いていた頃の寺院で、川原寺が天 智天皇建立であるならば、伽藍配置が似ていることもうなずけます。  川原寺は平安時代以降、3度の火災にみまわれ、1191( 建久2) 年の火災では塔が焼失しています。 北西にある川原寺裏山遺跡からは、大量の塼仏や塑像が出土しましたが、これらはいずれかの火災 で焼失した堂塔を荘厳していたも のだと思われます。  飛鳥やその周辺に宮が営まれた 頃は、「 飛 鳥 四 大 寺 」として、と くに天武~持統天皇の時代、国家 の厚い保護を受け、大きな力を もった川原寺ですが、平城遷都後、 他の官寺は平城に遷りますが、何 故か川原寺だけは飛鳥にとどま り、現在は、中金堂の一角に建つ 弘福寺が残るのみです。 図 22  川原寺復元模型

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年表

年 できごと 538( 欽明7) 仏教伝来 (『上宮聖徳法王帝説』『元興寺伽藍縁起幷流記資財帳』)。 552( 欽明 13) 仏教伝来。崇仏論争。 587( 用明2) 用明天皇が没し、磐余池上陵に葬られる。蘇我氏と物部氏による抗争が行われ、蘇我氏が勝利し、物部氏が滅びる。 588( 崇峻元 ) 崇峻天皇が即位する。飛鳥衣縫造の祖である樹葉の家を壊し、飛鳥寺の造営を開始する。 593( 推古元 ) 飛鳥寺の塔心礎に仏舎利を置き、心柱を立てる。厩戸皇子 ( 聖徳太子 ) が推古天皇の摂政になる。四天王寺の建立を開始する。 594( 推古2) 仏教興隆の詔を出す。 596( 推古4) 飛鳥寺が完成する。 600( 推古8) 遣隋使を派遣する (『隋書』倭国伝 )。 601( 推古9) 厩戸皇子 ( 聖徳太子 ) が斑鳩宮を造営する。 604( 推古 12) 憲法十七条を制定する。 606( 推古 14) 飛鳥大仏が完成する。 607( 推古 15) 法隆寺 ( 斑鳩寺 ) が完成する (『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』)。遣隋使として小野妹子を派遣する。 609( 推古 17) 飛鳥大仏が完成する (『元興寺伽藍縁起幷流記資財帳』)。 618( 推古 26) 隋が滅亡し、唐が建国される。 621( 推古 29) 厩戸皇子 ( 聖徳太子 ) が没し、磯長墓に葬られる。 626( 推古 34) 蘇我馬子が没し、桃原墓に葬られる。 639( 舒明 11) 百済大寺の建立を開始する。九重塔を建てる。 640( 舒明 12) 南淵請安・高向玄理らが唐から帰国する。 641( 舒明 13) 蘇我倉山田石川麻呂が山田寺発願・建立を開始する (『上宮聖徳法王帝説』)。 645( 大化元 ) 乙巳の変がおこる。仏法興隆の詔を出す。 646( 大化2) 改新の詔を出す。薄葬令を制定する。 672( 天武元 ) 壬申の乱がおこる。 673( 天武2) 百済大寺を高市大寺に移す。 677( 天武6) 高市大寺を大官大寺に改称する (『大安寺伽藍縁起幷流記資材帳』)。 680( 天武9) 薬師寺発願・建立を開始する ( 藤原京 )。 685( 天武 14) 山田寺が完成する (『上宮聖徳法王帝説』)。 694( 持統8) 藤原宮に遷都する。 698( 文武2) 薬師寺が完成する ( 藤原京 )。 701( 大宝元 ) 大宝律令を制定する。 表4 寺院に関する年表

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図 24 飛鳥 西からの風景 710( 和銅3) 平城宮に遷都する。 711( 和銅4) 大官大寺が焼失する (『扶桑略記』)。 716( 霊亀2) 大官大寺を平城京に移す。 741( 天平 13) 国分寺建立の詔を出す。 743( 天平 15) 大仏造立の詔を出す。大仏の造立を開始する。 745( 天平 17) 大官大寺を大安寺に改称する (『大安寺伽藍縁起幷流記資財帳』)。東大寺大仏の造立を開始する (『東大寺要録』)。 752( 天平勝宝4) 東大寺大仏の開眼供養を行う。 754( 天平勝宝6) 東大寺に戒壇院を設ける (『東大寺要録』)。 759( 天平宝字3) 唐招提寺を建立する (『東大和上東征伝』)。 761( 天平宝字5) 下野薬師寺・筑紫観世音寺に戒壇を建立する (『東大寺要録』)。  ※文献名を記したもの以外は、『日本書紀』『続日本紀』による。

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用語解説

【蹴鞠】 革製の鞠を落とさずに一定の高さを保持したまま蹴り上げることを繰り返し、その回数に よって優劣を競う競技のことですが、中国から伝来した当初、決まりは存在せず、院政期に一定の 決まりが定められました。日本での蹴鞠のはじまりは『日本書紀』皇極3年正月朔の条に見られる 中大兄皇子と中臣鎌足の出会いである槻木広場で中大兄皇子が行っていた「打毬」が初出とされま すが、蹴鞠伝来の時期はわかりません。  蹴鞠の愛好者は古代では貴族や官人が主でしたが、室町時代以降、武士から庶民まで幅広く行わ れるようになりました。明治期になり日本古来の文化が軽視され蹴鞠もいったん途絶えてしまいま すが、有志により蹴鞠保存会が結成され、現在まで保存会が蹴鞠の文化を継承しています。 【四神】  古代中国において創造された、青龍・朱雀・白虎・玄武のことをいいます。古代中国には、 太陽や木星の通り道にかかる 28 組の星座 ( 二十八宿 ) があり、これらのうち東の方角にある 7 組 の星座を龍に見たて、同様に南は鳳凰、西は虎、北は亀き蛇だに見たてたものとされています。さらに、 四神は五行説などの思想と結びつき、東の青龍は青色と春、南の朱雀は朱色と夏、西の白虎は白色 と秋、北の玄武は黒(玄)色と冬、というように色や季節を表します。「青春」「朱夏」といった言葉 はこれらの思想を背景にうまれたものです。  日本では、四神がいつどのような段階を経て取り入れられたのか明らかにされていませんが、既 に弥生時代の段階で龍を描いたとされる土器がみつかっています。7 世紀末から 8 世紀初頭に造ら れた明日香村の高松塚古墳やキトラ古墳の壁画等にもその姿が描かれています。本CGムービーに 登場しているスーとタイガは、関西大学文学部考古学研究室が朱雀と白虎をキャラクターにしたも のです。 【槻木広場】 ケヤキの木 がある広場であったと考 えられており、中大兄皇 子と中臣鎌足が出会った 場所とされるなど『日本 書紀』にも度々槻木広場 に関する記述がみられま す。その場所は明らかに されていませんが、「入鹿 の首塚」西側周辺で発見 された飛鳥寺西方遺跡が 候補地の一つとされてい ます。 図 25 飛鳥寺西方遺跡 発掘調査風景 ( 西から撮影 ) 

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図 27 壇正積基壇 模式図 面戸瓦 熨斗瓦 鬼瓦 丸瓦 平瓦 軒丸瓦 軒平瓦  青 龍 基壇 露盤 伏鉢 水煙 宝珠 竜車 九輪 相輪 請花 図 28 塔 模式図  図 29 四神図 青龍・白虎・玄武は高松塚古墳壁画、 朱雀はキトラ古墳壁画による 白 虎 玄 武 延石 羽目石 葛石 敷石 礎石 地覆石裏込土 版築 束石 朱 雀 図 26 瓦の名称 模式図

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飛鳥・藤原京の時代

 ユネスコ世界遺産委員会は 2007 年 1 月、「飛鳥 ・ 藤原の宮都とその関連資産群」( 以下、飛鳥 ・ 藤原 ) の世界遺産暫定リストへの登録を決定しました。この「飛鳥 ・ 藤原」の構成資産候補地は、 明日香村から橿原市、桜井市南部に散財する史跡と名勝 28 カ所で構成され、合計面積は 189ha に及びます。「飛鳥 ・ 藤原」の構成資産候補地は、東アジア世界における倭国 ・ 日本の国家形成と 文明化の過程を明瞭にし、中国や朝鮮半島との緊密な交流を示す、古代国家誕生の記憶が刻まれた ものですが、その多くは地上から見えない遺跡であり、「地下の収蔵庫」に保存されて体感しにく いという特徴があります。  このような「飛鳥 ・ 藤原」の構成資産候補地の特徴を前提に、本CG ・ 解説書シリーズは、その 文化遺産としての特質と意義の紹介を目的とした義務教育支援用教材の一つとして制作していま す。本書は、2011 年度に制作したCG『石舞台古墳~巨大古墳築造の謎~』の解説書に続いて制 作した、CG『飛鳥寺と飛鳥大仏』の解説書です。  一般的に、飛鳥時代は 588 年の飛鳥寺造営工事の開始、あるいは 592 年の推古女帝即位に始まり、 710 年に平城京へ遷都するまでの約 120 年間と把握されています。また、645 年に勃発した乙巳 の変 ( 大化の改新 ) を境にして、飛鳥時代前期と後期とに区分します。ここでは、飛鳥寺の造営が おこなわれた飛鳥時代前期 ( 推古 ・ 舒明 ・ 皇極天皇 ) の時代像の一端を概観します。  さて、春にはレンゲ ( 蓮華 ) 草が咲き乱れ、秋になると稲穂の黄金にヒガンバナ ( 彼岸花 ) の紅 が映える牧歌的な田園風景に代表される歴史的な景観、このような従来の飛鳥 ・ 藤原京の心象風景 は、過去 40 年間に本格化した発掘調査の成果が覆くつがえしつつあります。飛鳥時代前期の文化が華開い た飛鳥の地はその周囲を山々や丘陵に囲まれ、西北方向に開いた南北約3km、東西約 0.7km の小 さな範囲にすぎません。しかし、現在の地表面から1mも発掘すると、7世紀の飛鳥の地へとタイ ムスリップします。そこはまさに、『日本書紀』や『万葉集』が描く古いにしえの世界であり、時代を彩っ た歴史上の人物たちが闊か っ ぽ歩した息吹を感じることができる場所です。  飛鳥時代は、隋 ・ 唐帝国の成立・統一による東アジア国際社会の変化に対応して、倭国 ・ 日本が 大陸の制度や技術、文化を積極的に導入し、古墳時代から継続する伝統的なものと融合させながら 質的転換を図り、文明化を推し進めていった時代です。この観点から、木下正史氏はこの国のかた ちを決めた明治維新の文明開化にも例えられる、7世紀の「文明開化の時代」と評価されます。仏 教の伝来はこの新来の文化の先駆けであり、飛鳥寺の造営開始は新しい宗教観、世界観による都づ くり、国づくりの象徴とすることができます。  周知のように、わが国への仏教の伝来は 538 年あるいは 552 年とされますが、『元興寺縁起』や 『上宮聖徳法王帝説』によると、欽明天皇の 538 年に百済の聖明王から仏像と仏典がもたらされた と伝えています。この仏教の受容をめぐって対立した蘇我氏と物部氏は衝突し、蘇我馬子が物部守 屋を倒して結末を迎えますが、蘇我氏を中心とした崇仏派により仏教文化をはじめ、大陸 ・ 朝鮮半 島の文化の流入が本格化しました。  その結果、寺院や宮殿などの造営が進んだ7世紀の飛鳥の地には、古墳時代とは異なった、まっ たく新しい景観が形成されました。蘇我氏の飛鳥寺の建立開始をはじめ、宮殿や寺院、苑池などが ひしめく人工的な景観が創り出されていきました。しかし、平城京遷都の後は時代の推移とともに

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失われ、現在は「まほろばの飛鳥」と称される歴史的景観を形成し、「心のふるさと飛鳥」として 人びとを魅了しています。ただし、無尽蔵ともいえる歴史 ・ 文化の宝庫ですが、発掘で明らかにな った部分は、わずかであるという現状にあります。  この人工的な景観が生み出される最初の大陸風の建造物となった飛鳥寺は、『日本書紀』に百済 から渡来した僧はもとより、寺工や露盤博士、瓦博士、画工などの職人技術指導で造られたと伝え られています。また、馬具製作を専業とする在来の渡来系技術者のひとりである鞍作鳥が飛鳥大仏 を制作したように、新旧の技術を融合・協力しておこなわれた一大事業の結晶として、初めて本格 的な伽藍配置を備えた寺院・飛鳥寺が完成しました。1956・57 年の両年に 3 度に及んで実施され た発掘調査の結果では、当初予想された南門 ・ 中門 ・ 塔 ・ 金堂が伽藍中軸線上に南北に並ぶ四天王 寺式伽藍配置とは異なり、飛鳥寺は一塔三金堂の建物配置をとり、礎石建ち基壇建物で、丹塗りの 柱、白壁と緑の連子窓、屋根瓦という、朝鮮半島からの直接的な影響が随所にうかがえる煌きらやかな 建物であったと想定されています。  飛鳥寺の造営に続き、飛鳥では氏族たちが競って寺院を建立するようになりました。さらに、 639 年には天皇家最初の寺として、舒明天皇が大宮 ( 百済宮 ) と大寺 ( 百済大寺 ) の造営に着手し ました。1997 年から 5 年間に及んで実施された発掘調査により、巨大な金堂跡が確認された奈良 県桜井市にある吉備池廃寺がこの百済大寺にあたると、ほぼ断定されています。百済大寺の造営は 舒明天皇の崩御後も皇極天皇や天智天皇に引き継がれ、百済大寺から高市大寺、大官大寺と移建 ・ 改称され、大安寺になったことを記す『大安寺伽藍縁起幷流記資財帳』には、蘇我氏の飛鳥寺を遙 かに凌ぐ九重塔が建立されていたと伝えています。  飛鳥時代前期には推古朝の官制や官人制の整備をはじめ、全国的に天皇家の領有地である屯み倉やけの 設置や、畿内を中心に水利施設として池溝の開発などが推進され、国家基盤の確立が図られました。 やがて、国家の運営をめぐって天皇家と蘇我氏の政治的対立が表面化するようになりました。厩戸 皇子 ( 聖徳太子 ) を中心とする上宮王家が斑鳩の地に移ったこともあり、飛鳥の地に勢力を伸ばし た蘇我氏が優勢でしたが、両者の対立は皇極朝を迎えて頂点に達します。これには蘇我系 ・ 非蘇我 系という天皇家内部の政治的対立や、権力の集中を推し進めた蘇我本宗家と傍系一族との、蘇我氏 内部の亀裂なども影響しました。そして 643 年、蘇そ我がの入いる鹿かが聖徳太子の子である 山 やま 背 しろの 大 おお 兄 えの 王 おう を斑鳩宮に攻め、自害に追い 込んだことによる上宮王家の滅亡、続く 645 年には蘇我本宗家の滅亡という大事 件を迎えました。  中大兄皇子 ・ 中臣鎌足らによって蘇我 入鹿が殺害され、蝦夷が自刃した乙巳の 変の後には、白村江の戦いや壬申の乱を 経て、「倭国」から「日本」へ、「大王」 から「天皇」へとその名を変え、本格的 に東アジア国際社会に関与する激動の飛 鳥時代後期を迎えます。 図 30 7 世紀前半の東アジア

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飛鳥寺建立に関する史料

 『日本書紀』587 年の記事によると、崇仏・排仏などをめぐって対立していた蘇我氏と物部氏の 間で戦いが起こりました。崇仏派は苦戦を強いられたため仏に戦勝を祈願し、厩戸皇子 ( 聖徳太子 ) は四天王寺の建立を、蘇我馬子は法興寺 ( 飛鳥寺 ) の建立を誓い、戦いに勝利した馬子は 588 年に 飛鳥寺の建立に着手したことが記されています。以下に掲載する史料は、『日本書紀』崇峻元年秋 七月の条に記された戦勝祈願についてのものです。 ︻原文︼ 秋 七 月、蘇 我 馬 子 宿 大 臣、觀 二 皇 子 與 二 臣 一 謀 レ 部 守 屋 大 連 一。泊 瀨 部 皇 子・竹 田 皇 子・ 廐 戶 皇 子・難 波 皇 子・春 日 皇 子・蘇 我 馬 子 宿 大 臣・ 紀 男 麻 呂 宿 ・巨 勢 臣 比 良 夫・膳 臣 賀 夫・ 城 臣 烏 那 羅、 率 二 旅 一、進 討 二 連 一。大 嚙 ・ 阿 倍 臣 人・ 群 臣 神 手・坂 本 臣 糠 手・春 日 臣、      率 二 兵 一、從 紀 郡 一、到 河 家 一。大 連 親 率 三 弟 與 二奴軍 一 、築 二稻城而戰。 於是、 大 昇 二衣揩朴枝間 臨 射 如 レ雨。其 軍 強 盛、塡 レ野。皇 子 等 軍 與 二 臣 衆 一 怯 恐 怖 、 三 却 。是 時 、 廐 戶 皇 子、 束 髪 於 額 、        而 隨 二 軍 後 一。自 忖 度 曰、將 無 レ敗。非 難 レ成。乃 白 膠 木 一、疾 作 二 四 天 王 像 一 置 二 頂 髪 一 而 發 レ 言 、        今若使 二我勝 一レ敵、 必當奉 二爲護世四王 一 、起 二立寺塔 蘇 我 馬 子 大 臣、又 發 レ 言、凡 諸 天 王・大 神 王 等、 助 二 於 我 一、使 益 一、願 當 奉 三 諸 天 與 二 神 王 一、起 寺 塔 一、流 二 通 三 寶 一。誓 已 嚴 二 種 々 兵 一 而 進 討 伐。爰 有 二 見 首 赤 檮 一、射 大 連 於 枝 下 一 而 誅 二 連 其 子 等 一。由是、大 連 之 軍、忽 然 自 敗。 合 レ 悉 被 二 衣 一、馳 廣 瀨 勾 原 一 散 之。是 役、 大 連 兒 息 與 二 屬 一、或 有 下 葦 原 一、改 換 レ 者 上。或 有 二 亡 不 レ レ レ 者 一。時 人 相 謂 曰、蘇 我 大臣之妻、 是物部守屋大連之妹也。大臣妄用 二妻計 而 殺 二 連 一矣。 之 後、於 二 津 國 一 天 王 寺 一。分 連 奴 半 與 一レ宅、爲 寺 奴 田 莊 一。以 二 田 一 萬 頃 一、賜 見 首 赤 檮 一。蘇 我 大 臣、亦 依 二 願 一 於 二飛鳥地、起法興寺 ︵﹃日本書紀   下﹄坂本太郎他校注 一 九六 五 よ り 引用 ︶ 闕 二 字 一 白膠木、此 云 二農利泥 ︻現代訳︼     秋 七 月 に 、 蘇 我 馬 子 宿 大 臣 は 諸 皇 子 と 群 臣 に よ び か け 、 物 部 守 屋 大 連 を 滅 ぼ す こ と を は か っ た 。 物 部 氏 の 軍 勢 は 強 く さ か ん で 、 家 に 満 ち 、 野 に あ ふ れ た 。 諸 皇 子 と 群 臣 の 軍 衆 は お じ 気 づ き 、 三 度 も 退 却 し た 。 こ の 時 、 戸 皇 子 は 自 分 で 戦 況 を 察 し て 、「 敗 れ る か も し れ な い 。誓 願 し な け れ ば 、 成 功 は お ぼ つ か な い 」 と い わ れ 、 白 膠 木 ( 木 の 一 種 ) を 切 り 取 っ て 素 早 く 四 天 王 の 像 に 作 り 、 頂 髪 に 安 置 し て 誓 願 を 発 し 、「 今 自 分 を 敵 に 勝 た し て い た だ け る な ら 、 き っ と 護 世 四 王 の み た め に 寺 塔 を 建 立 す る で あ り ま し ょ う 」 と い わ れ た 。 蘇 我 馬 子 大 臣 も ま た 誓 願 を 発 し 、「 お よ そ 諸 天 王 ・ 大 神 王 た ち よ 。 私 を 守 り 助 け 、 勝 利 を 与 え て く だ さ る な ら 、 き っ と 諸 天 と 大 神 王 と の み た め に 、 寺 塔 を 建 立 し 、 仏 法 を 広 め る で あ り ま し ょ う 」 と い っ た 。 誓 願 し 終 っ て 武 備 を 整 え 、 進 撃 し た と こ ろ 、 迹 見 首 赤 檮 が 大 連 を 木 の ま た か ら 射 落 し 、 大 連 と そ の 子 た ち と を 殺 し た 。 こ の た め 大 連 の 軍 は た ち ま ち 戦 い を や め て 敗 走 し 、 み な 衣 を 着 け 、 広 瀬 の 勾 原 で 狩 猟 す る ふ り を し て 逃 げ 散 っ た 。 こ の 戦 の た め 、 大 連 の 子 ど も や 一 族 は 、 あ る 者 は 葦 原 に 逃 げ 隠 れ て 姓 名 を 変 え 、 あ る 者 は 逃 亡 し て 行 方 不 明 に な っ た 。 当 時 の 人 々 は 、「 蘇 我 大 臣 の 妻 は 物 部 守 屋 大 連 の 妹 だ 。 大 臣 は み だ り に 妻 の 計 略 を 用 い て 大 連 を 殺 し た の だ 」 と 語 り 合 っ た 。 乱 の 平 定 後 、 摂 津 国 に 四 天 王 寺 を 造 り 、 大 連 の 奴 の 半 分 と 邸 宅 と を 分 か っ て 大 寺 ( 天 王 寺 ) の 奴 と 田 荘 ( 有 地 ) と に し た 。 ま た 田 一 万 頃 を 迹 見 首 赤 檮 に 賜 っ た 。 蘇 我 大 臣 も 、 当 初 の 誓 願 ど お り 、 飛 鳥 の 地 に 法 興 寺 ( 鳥 寺 ) を 建 立 し た 。 ︵﹃日本書紀   下﹄井 上 光貞監訳 一 九八 七 よ り 引用 、 一 部改変 ︶ ぬ り で くろ きぬ 古俗、年少兒年、十五六間、束髪於額。 十七八間、分爲 二角子。今亦然之。

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主要参考・引用文献

飛鳥資料館 1986『飛鳥寺』飛鳥資料館図録第 15 冊 網干善教 1980『古代の飛鳥』学生社 石野 享 1977『鋳造:技術の源流と歴史』産業技術センター 井上光貞・門脇禎二編 1987『古代を考える 飛鳥』吉川弘文館 井上光貞監訳 1987『日本書紀 下』中央公論社 小澤 毅 2003『日本古代宮都構造の研究』青木書店 狩野 久編 1999『古代を考える 古代寺院』吉川弘文館 河上邦彦・菅谷文則・和田 萃編 1996『飛鳥学総論 飛鳥学第1巻』人文書院 岸 俊男 1988『日本古代宮都の研究』岩波書店 岸 俊男 1993『日本の古代宮都』岩波書店 木下正史・佐藤 信編 2010『飛鳥から藤原京へ 古代の都1』吉川弘文館 木下正史 2011「飛鳥・藤原京―「文明開化」の時代―」『考古学雑誌』第 95 巻第 1 号 日本考古学会  黒崎 直 2007『日本史リブレット 71 飛鳥の宮と寺』山川出版社 蹴鞠保存会 1997『蹴鞠保存会九十年誌』 坂本太郎ほか校注 1965『日本書紀 下』日本古典文学大系 岩波書店 田中嗣人 1983『日本古代仏師の研究』吉川弘文館 坪井清足 1985『飛鳥の寺と国分寺 古代日本を発掘する2』岩波書店 直木孝次郎 2009『直木孝次郎古代を語る9 飛鳥寺と法隆寺』吉川弘文館 濱島正士 1984 「塔における心柱立と棟上」『国立歴史民俗博物館研究報告』第 4 集 林部 均 2001『古代宮都形成過程の研究』青木書店 林部 均 2008『飛鳥の宮と藤原京 よみがえる古代王宮』歴史文化ライブラリー 249 吉川弘文館 奈良県立橿原考古学研究所 2008『飛鳥京跡Ⅲ』奈良県立橿原考古学研究所調査報告第 102 冊 奈良県立橿原考古学研究所 2011『飛鳥京跡Ⅳ』奈良県立橿原考古学研究所調査報告第 108 冊 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 2008『宮都飛鳥』特別展図録第 70 冊 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 2011『仏教伝来』特別展図録第 76 冊 奈良国立文化財研究所 1958『飛鳥寺発掘調査報告』奈良国立文化財研究所学報第5冊 奈良国立文化財研究所 1978「飛鳥寺北方の調査」『飛鳥・藤原宮発掘調査概報8』 奈良国立文化財研究所 1993「飛鳥寺の調査 (1992―1次 )」『飛鳥・藤原宮発掘調査概報 23』 奈良国立文化財研究所 1999「飛鳥寺の調査―第 91―8次、第 97 次」『奈良国立文化財研究所年報 1999 -Ⅱ』   奈良文化財研究所 2003『大和吉備池廃寺―百済大寺跡―』吉川弘文館 奈良文化財研究所・朝日新聞社 2002『奈良文化財研究所創立 50 周年記念 飛鳥・藤原京展-古代律令国家の創造-』 黛 弘道編 1991『古代を考える 蘇我氏と古代国家』吉川弘文館 森岡秀人・網干善教 1995『日本の古代遺跡を掘る6 高松塚古墳―飛鳥人の華麗な世界を映す壁画』読売新聞社 吉川真司 2011『飛鳥の都 シリーズ日本古代史③』岩波書店 和田 萃 2003『飛鳥―歴史と風土を歩く―』岩波書店 渡辺 融・桑山浩然 1994『蹴鞠の研究 公家鞠の成立』東京大学出版会

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図版出典

1・2. 奈良文化財研究所・朝日新聞社 2002『奈良文化財研究所創立 50 周年記念 飛鳥・藤原京展―古代律令国 家の創造―』より、一部改変 3.  飛鳥資料館 1989『仏舎利埋納』飛鳥資料館図録第 21 冊 4.  奈良国立文化財研究所 1958『飛鳥寺発掘調査報告』奈良国立文化財研究所学報第5冊 5・6. 奈良文化財研究所・朝日新聞社 2002『奈良文化財研究所創立 50 周年記念 飛鳥・藤原京展―古代律令国 家の創造―』 7・8. 奈良国立文化財研究所 1958『飛鳥寺発掘調査報告』奈良国立文化財研究所学報第5冊 9.  飛鳥資料館 1983『渡来人の寺―檜隈寺と坂田寺―』飛鳥資料館図録第 10 冊 11・12. 奈良文化財研究所・朝日新聞社 2002『奈良文化財研究所創立 50 周年記念 飛鳥・藤原京展―古代律令 国家の創造―』 13. 飛鳥資料館 1995『蘇我三代』飛鳥資料館図録第 28 冊 16 ~ 20. 奈良文化財研究所・朝日新聞社 2002『奈良文化財研究所創立 50 周年記念 飛鳥・藤原京展―古代律令 国家の創造―』 21. 飛鳥資料館 2007『重要文化財指定記念 奇偉荘厳山田寺』飛鳥資料館図録第 47 冊 22. 奈良文化財研究所・朝日新聞社 2002『奈良文化財研究所創立 50 周年記念 飛鳥・藤原京展―古代律令国家 の創造―』 23. 奈良文化財研究所・朝日新聞社 2002『奈良文化財研究所創立 50 周年記念 飛鳥・藤原京展―古代律令国家 の創造―』より、一部改変 24. 梅原章一氏撮影・提供 25. 明日香村教育委員会 2013「飛鳥寺西方遺跡」『明日香村の文化財』⑱ 26・27. 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 2010『奈良時代の匠たち―大寺建立の考古学―』特別展図録 第 74 冊よりトレース、一部改変

関連本の紹介

古代寺院 関連本  坪井清足 1985 『飛鳥の寺と国分寺 古代日本を発掘する 2』 岩波書店 佐原 眞ほか 1986 『岩波講座日本考古学 4 集落と祭祀』 岩波書店 上原真人 1997 『瓦を読む 歴史発掘 11』 講談社 宮都 関連本 狩野 久・木下正史 1985 『飛鳥藤原の都 古代日本を発掘する 1』 岩波書店 町田 章編     1989 『古代史復元 8 古代の宮殿と寺院』 講談社 林部 均 2008 『飛鳥の宮と藤原京 よみがえる古代王宮』歴史文化ライブラリー 249 吉川弘文館 仏像 関連本 戸津圭之介監修   2000 『調べ学習日本の歴史3 奈良の大仏の研究』       ポプラ社 香取忠彦     2010  『新装版・奈良の大仏 世界最大の鋳造仏』 草思社

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飛鳥寺と飛鳥大仏   解 説 書

平成 25 年 3 月 印刷・発行

編集 関西大学文学部考古学研究室       発行 奈良県明日香村

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参照

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