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18 〜 20 世紀フランスにおける著名作家たちの肖像

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セレブリティの呪縛:

18 〜 20 世紀フランスにおける著名作家たちの肖像

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編者序

著名性を抱えながら書くことはいかにして可能か.

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世紀ヨーロッパにおけるメディアの(飛躍的な)発達以降,不特定 多数の,顔の見えぬ読者=公衆と向き合うという経験を,有名作家たちは 不可避の条件として受け入れてきた.著名であるということは,書く存在 あるいは描く存在(知識人,哲学者,画家,建築家)にとって単なる二次 的かつ表層的な成功の証にとどまるものではない.それは著名人のアイデ ンティティと自己認識を変容させ,その作品の性質を根底的に規定してし まうような力さえ持っている.メディアの網の目が社会全体を覆い,広大 な鏡面となって作者たちの眼前に差し出されるとき,彼らは常に乱反射す る自らの〈イメージ〉を見つめながら,思考を紡ぐことを,創作すること を,迫られてきたのではないだろうか.匿名の集合的人格によって簒奪さ れ,書き換えられた自らの〈名前〉と〈イメージ〉に直面して,抵抗の身 振りをとるにせよ,あるいは密かな共犯関係を読者(もしくは読者が作り 上げる自己像)と結ぶにせよ,作家たちのテクストに深く刻まれるのは 著名性というきわめて近代的な現象の烙印である.逆に言えば,作者たち が集合的な眼差しによって被る暴力(ないし特権)との間に繰り広げる闘 争や駆け引きを介して,私たちはジャンルや言語を異にするいくつかのテ クストを照応させ,それらを横断的に読解することができるのではないか.

2018

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24

日に立教大学で開催したシンポジウム「セレブリティ の呪縛:

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世紀フランスにおける著名作家たちの肖像」は,そのタ イトルが示す通り,扱われる時代についても,作家についても,主催者の 選択は極めて恣意的なものであった.また,著名性という問題をいわゆる 創造行為のみに結びつけることで,分析射程を極端に狭めておいた(映画 さえもあえてそこから排除した).今日,著名性が経済的現象,社会的現 象,政治的現象(例えばポピュリズム)等と不可分であることは誰もが「感 じ」ている.だが,このように恣意的に境界を引き,架空の領域を設定し たにもかかわらず,以下にお読みいただく論稿は,その多様性によって著 名性という主題の複雑さ,とらえどころのなさを示す結果となっている.

ところで,どうしても触れておかねばならない点がある.このシンポジ ウム開催直後にアントワーヌ・リルティの『セレブの誕生―「著名人」

の出現と近代社会』(名古屋大学出版会,

2019

年)の邦訳が刊行された.シ

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ンポジウム主催者の一人,齋藤山人はその共訳者であり,もう一人,桑瀬 章二郎はいわば共犯者としてリルティの書物について齋藤と議論を重ねて きた.だが,二人が準備したシンポジウム趣旨説明書においても,その後 の参加者との議論においても,リルティの書物に言及することは一度たり ともなかった.各論稿においてリルティの議論が参照されることもある が,それはあくまでも(おそらくは主催者への配慮から)事後的になされ た参照にすぎない.執筆者の名誉のために,この点を確認しておきたい.

このリルティの著作は,著名性ないし著名人が,近代の一つの兆候とし

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世紀半ばの西欧世界に出現し,それ以降,政治,文化,芸術・芸能,

社会といった分野を覆い尽くすようになる軌跡を辿ろうとした試みであ る.しかし,本特集に収められたいくつかの論稿が陰に陽に示しているよ うに,リルティの議論やその歴史的パースペクティヴは相対化の余地を含 んでいる.以下の各論稿で扱われる著名性の主題が,先述のような領域の 設定にもかかわらず,それでもなお依然として曖昧さを保ち,統一性を欠 いているとすれば,この主題がやはり明確な輪郭を持たぬ,ポレミックな 対象であるからだろう.いまだ十分に汲み尽されていない,このテーマの 可能性を解き放つことこそが,本特集の持つ意義のひとつである.繰り返 しになるが,ここに収められた各々の論稿に見られる関心や焦点は,文学 作品のテーマとしての著名性から,その概念の外縁や定義を問う試みま で,多岐にわたっている.しかし,そのことが逆に,この比較的新しい学 問的対象に今後アプローチをしていくための,いわばブレインストーミン グに等しい効果を生んだように思われる.

たとえば,著名性そのものの条件とも言えるメディアの 大衆化 や,

それと無関係でない,著名人の性(ないし性生活).また,このような卑 俗な関心に突き動かされる公衆の 未熟性 とほとんど鏡像的な関係にあ る,著名人の不安定な父性性.あらゆる著名人がそこからやってきて,自 伝的言説とともに象徴的に回帰する「無名性」のトポス.あるいは,著名 人たちが自らの神話化を夢見て,絶えず意識を向ける 死 のモメント(と モニュメント).そこで呼び出される「栄光」や「後世」といった古典的 カテゴリーは,著名性という新たな文化において,当の著名人たちがいか に真剣に演じようともはや茶番や笑劇にしかならないのだろうか.このよ うな問題系が各々の論稿の中でどのように展開されているのか,以下に簡 単に確認しておきたい.

まず,著名性を歴史的な観点から分析した執筆者として,片岡大右が挙

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げられる.片岡は,「作家の聖別」を論じるポール・ベニシューとリルテ ィの議論を比較しつつ,この二人がいずれも,

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世紀と

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世紀を連続性 の相のもとにとらえていることを指摘する.その上で,片岡は「有名性の 明るみ」を「無名性のほの暗さ」と巧みに対比させつつ,シャトーブリア ンにおいて両者がそれぞれ,荒野と森のイメージを与えられていることに 注目している.さらに,「著名性」のテーマは文明と未開のトポスと関係 づけられ,その起源も(リルティの言うように)

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世紀に始まるもので はなく,

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世紀に遡る可能性が示唆される.著名人としての文学者の登 場を,脱キリスト教化と新たな聖別システムの形成と関係づけている点 で,片岡の論稿は小澤京子の論稿と表裏を成すパースペクティヴを提示し ている.

小澤は,「著名人」と隣接する形象である「偉人」の追悼施設に注目し つつ,

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世紀末のエティエンヌ=ルイ・ブレ,アレクサンドル・ルノワ ール,ジャック=ジェルマン・スフロの三者の霊廟建築を取り上げてい る.公衆の新たな関心と熱狂を支えるこのような建築構想から見えてくる のは,片岡も指摘したような,脱キリスト教化と新たな信仰の対象として の国家の偉人が,著名性と切り結ぶ関係である.この時,「セレブの誕生」

という現象は,国民=国家の歴史的生成と並行関係にあるプロセスとして 描き出される.

セレブリティを構成する重要な条件として,固有名や性といったアイデ ンティティの問題が挙げられるだろう.この点に注目したのが,ジョルジ ュ・サンドの著名性を分析した坂本千代の論稿である.ペンネームを通し て作家の性がどのように演出され,それによって 彼女 のパブリック・

イメージはいかなる陰影を帯びるようになったのか.このような問題意識 のもとに,文学史における女性作家と著名性という広大な問いが暗示され る.

松村博史の論稿は,バルザックの小説(特に『幻滅』)における「著名性」

の表象を分析している.そこから明らかになるのは,著名性という現象の 根幹にあるマス・メディアの発展に対して,作家が示す両義的な姿勢であ る.バルザックの作品において,ジャーナリズムは文学的理想の観点から 批判的に描かれるものの,現実に彼がどのような時も「書き続け」,作家 として成功することを可能にしたのは他ならぬジャーナリズムの力であ る.松村の分析するバルザックの文学観からは,一過性の,儚い著名性の 追求が,文学者の創作活動に対して持っている否定的側面が見えてくる.

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齋藤山人も,松村のように著名性の帯びる現在性や内在性の側面に注目 しつつ,セレブリティの虚栄心や子どもじみた性質に関心を寄せる.『孤 独な散歩者の夢想』は果たして,著名作家ルソーが晩年に体現した無垢で 透明な境地の産物なのか.このような問題意識から齋藤は,ルソーの自伝 的言説と教育論とのアイロニカルな邂逅を取り上げ,「著名人」という形 象の脆弱性が,啓蒙主義的な人間学との間に結んでいる緊張関係を指摘す る.

松井裕美の論稿はピカソの自画像を分析しながら,その芸術制作と著名 性との関係性を明らかにしようとしている.その際に松井が注目するの は,名声ないし有名性が芸術家の作風に及ぼす固定作用である.著名性を 得た後の創作活動が「自己模倣」に陥る危険性を説くピカソの発言を参照 しつつ,松井はピカソの韜晦的な自己表象に,彼自身の著名性との闘争の 痕跡と,後世に対する目配せを見出そうとする.このような分析から浮か び上がるのは,人間的「資料」を提供して人類に貢献するというピカソの 芸術的理想と,彼自身が他ならぬ「著名人」であることとの葛藤である.

松村や松井と同様に,著名性の内在性と超越性との相剋に注目している のが根木昭英の論稿である.根木は,サルトルのアンガージュマン文学と

「死後の栄光」という理想との緊張関係を分析しつつ,そこに作家の文学 論の対照的な二面性を見ようとする.この二面性の「一致なき一致」は,

文学やエクリチュールそのものの本質として解釈される.根木の描き出す サルトルの文学的肖像を通して見えてくるのは,著名性ときわめて親縁な テーマとしての「死」の問題である.

桑瀬章二郎の論稿は,アントワーヌ・リルティが象徴的に取り上げる

「ヴォルテールの戴冠」という事件について,リルティとは異なる解釈を 提示することから出発している.「著名人」は果たして,「制御不能な」公 衆に翻弄されるだけの存在なのか.同時代の公共空間において,他ならぬ ヴォルテール自身が,自らの著名性を利用して自己像の管理・統制を図っ ていたこと,そして,離合集散を絶えず行う当時の知識人たちの世界にお いて,彼の著名性の意味と効果が常に流動的であったことを喚起しつつ,

桑瀬は

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世紀フランスにおける文化社会の複雑性を,リルティの還元論 的なパースペクティヴに鋭く突きつけている.

これらの多種多様な論稿が示唆するところは何か.

根木が,表面的にはリルティの図式に従うように見えながら,サルトル を例に―確かに何とも特殊な「例」ではあるが―,

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世紀の思想家

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につきまとっていた著名性の諸問題が,(桑瀬が再検討した)

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世紀ある いは(松村が正確に示した)

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世紀のそれと完全に別種のものであるこ とを示す時,また松井が,ピカソを例に,彼の時代の著名性の産出システ ムがそれ以前の産出システムとは大きく異なることを示す時,著名性とい う概念そのものの儚さと不安定性を確認できるように思われる.というこ とは,文字通り著名性の時代と見える「今」まさに起こっている諸現象は,

実は著名性の衰滅・瓦解・破砕,あるいは「小さな」著名人の無限の増殖 と(も)言えはしないか.

このような妄想は片岡の指摘―ハーバーマスであれアーレントであれ 自らの関心の過去への投影によって公共性・公共圏なるものの輪郭を描い たわけだが―の重要性を浮かび上がらせる.著名性をめぐってもおそら くは複数の「クロノロジー」が可能なのであろうし,複数の起源を措定す ることが可能なのであろう.そもそも,小澤が興味深い事例を通して示し たように,啓蒙知識人を脅迫観念のようにとらえていた,コスモポリタニ ズムをパトリオティズムにいかに関係づけるかという難問(汎ヨーロッパ 性)までもが「一夜にして」解を与えられてしまったではないか.

女性の著名性についての歴史というものさえ可能なのかもしれない.い や,坂本は,女性のエクリチュールの刊行・公開の問題から議論を始め,

名高いフローベールのサンド宛書簡で用いられる「第三の性」―ギルバ ート・ハートが編み,一時期話題となった論集のタイトルそのものである

―へと行きつくのだから,性的二型からこぼれおちる存在としての真の 著名人の歴史さえもが書かれる時が来ると,どうして想像してはならない のか.

著名性が性的カテゴリーにもたらす複雑性=複合性とも関わる問題とし て,齋藤は「著名人」と父性性の問題に触れている.ジャン=クロード・

ボネの分析をまつまでもなく,「偉人」が「国民の父」という相貌をまと うのと対照的に,「著名人」には父たることの不可能性(ないし不能性)

がつきまとう.このことは,彼らが「後世」の栄光を待ち望みながら,同 時に,現在性の桎梏と困難な戦いを強いられることと無関係ではないのか もしれない.小澤や根木が明示的に論じているように―そして,他の論 稿においても間接的に論じられているように―,死(を想うこと)は著 名性の問題の根源にある.ただし,彼らの墓標の向こう側に垣間見えるの は(古典的テーマとしての)永遠不滅の名声ではない.むしろ,著名人た ちの 父権 を掘り崩し,あらゆる 家庭的円満 を破壊して,孤独と独

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善と欺瞞を招き寄せるような,不安定な似像の伝達である.彼らにとっ て,真の意味で 子を残す ことは可能なのか.あるいは,それが適わぬ 場合,同時代性という果てしない「荒野」を歩まなければならないのか.

著名作家たちが常にモードの腐食作用を横目に見つつ,作品の創造に駆り 立てられていたのであれば,その仕事が不毛ないし虚無への恐怖と隣り合 わせだったとしても不思議はない.本論集で取り上げられた著名人の名前 がいかに現代まで残っているにせよ,生前の彼らの意識はこのような不能 性の影に絶えずおびやかされていたのではないだろうか.

シンポジウムの場では,吉岡知哉(立教大学名誉教授),小倉和子(立 教大学異文化コミュニケーション学部教授),森本淳生(京都大学人文科 学研究所准教授)の三氏が困難なコメンテーターの役割を務めてくださっ た.三氏の貴重な批判と助言は以下の論稿に反映されているはずである.

三氏に衷心よりお礼申し上げたい.

齋藤山人 桑瀬章二郎

参照

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Ross, Barbara, (ed.), Accounts of the stewards of the Talbot household at Blakemere 1392-1425, translated and edited by Barbara Ross, Shropshire Record series, 7, (Keele, 2003).

[r]

世紀転換期フランスの史学論争(‑‑)