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タ ン 第 章 節 戦国時代から天下統一へ 第 章 節 戦国大名と全国統一 第 4 部第 章 戦乱から全国統一 追放 単元 5 豊臣秀吉の政治と朝鮮出兵 キリスト教の禁止 第 章 節 信長 秀吉の全国統一 第 4 章 節 ヨーロッパ人との出会いと全国統一 単元 4 織田信長 豊臣 節 中世から近世へ

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自由社 育鵬社 東京書籍 日本文教出版 教育出版 清水書院 帝国書院 学び舎

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①信長……有り ②秀吉……有り ③家康……朝廷による任命有り ① 第3 章 1 節「戦国時代から天下統一へ」 単元34【信長と秀吉の全国統一】 ■織田信長の台頭 日本人が広く国外に目を向けるようになる 一方、国内では群雄割拠する有力な戦国大名 が、我れ先にと京都にのぼり、朝廷の信任に よって全国の統治者になろうと競い合ってい た。 その中で尾張(愛知県西部)の織田信長が 斬新な戦略と京都に近い地の利を生かして頭 角をあらわした。 (116頁) ② 単元34【信長と秀吉の全国統一】 ■豊臣秀吉の全国統一 1585(天正 13)年、秀吉は関白に任ぜ られ、その翌年、朝廷より「豊臣」の姓を賜 わった。秀吉は天皇の名により全国の大名に、 停戦して秀吉に服属することを命令し(惣無 事令)、諸大名を次々と平定していった。1590 (天正18)年、秀吉に歯向かう大名がいなく なって戦火は止み、秀吉の全国統一事業は完 成した。翌年、関白を養子秀次に譲り、太閤 になった。 (117 頁) ③ 第3 章 2 節「江戸幕府の成立」 単元「37 江戸幕府の成立」 ■徳川家康と江戸幕府 1603(慶長8)年、家康は朝廷から征夷 大将軍に任命され、江戸幕府を開いた。(12 4頁) ①信長……なし ②秀吉……有り ③江戸幕府との関係……朝廷による任 命有り ①② 第 3 章 2 節「信長・秀吉の全国統一」 単元 27【織田信長と豊臣秀吉の全国統 一】 ■織田信長の登場 ■豊臣秀吉による全国統一 その後、朝廷から関白に任ぜられる と、朝廷の権威を後ろだてとして全国 の大名に戦いの中止を求めました。こ れに従わなかった九州の島津氏などを 攻めて降伏させ、1590(天正 18)年には、 関東の北条氏をほろぼし、奥州を平定 して、全国統一を果たしました。 (108 頁) ③江 第 3 章 3 節「江戸幕府の政治」 単元 30【江戸幕府の成立】 ■徳川家康と江戸幕府 家康は、1603(慶長 8)年、朝廷から征夷 大将軍に任じられ、江戸幕府を開きま した。(116 頁) ■幕府による統制 幕府にとって征夷大将軍という役職 は全国支配のよりどころであり、その 任命者は朝廷でした。幕府は朝廷を敬 いながらも禁中並公家諸法度を定め、 京都所司代を置くなどその動きを監視 し、幕府をおびやかさないよう注意を 払いました。 (117 頁) ①信長……半ばあり ②秀吉……半ば有り ③家康……朝廷による任命有り ① 第 4 章 1 節「ヨーロッパ人との出会い と全国統一」単元4【織田信長・豊臣 秀吉による統一事業】 ■織田信長の統一事業 信長は、朝廷に働きかけて義昭を第 15 代将軍にすることで実権をにぎり ました。しかし、1573 年には、敵対 するようになった義昭を京都から追 放しました(室町幕府の滅亡)。 (106 頁) ②秀吉 単元4【織田信長・豊臣秀吉による統 一事業】 ■豊臣秀吉の統一事業 朝廷から関白に任命され、豊臣の姓 をあたえられた秀吉は、全国に停戦を 命じ、1587 年に、九州を統一しよう としていた島津氏を降伏させました。 1590 年に、関東の北条氏をほろぼす と、奥羽の大名も秀吉に従い、全国統 一が完成しました。(107 頁)。 *「天皇の命令の形をとって」が無 くなる。 ③ 第 4 章 2 節「江戸幕府の成立と鎖国」 単元 1【江戸幕府の成立と支配の仕組 み】 1603 年、家康は朝廷から征夷大将 軍に任命され、江戸(東京都)に幕府を 開きました。(112 頁) ①信長……記述なし ②秀吉……天皇の伝統的権威利用 ③家康……朝廷による任命なし ① 第4 編「近世の日本」 1 節「中世から近世へ」 単元3【ヨーロッパ人の来航と信長】 ■織田信長の統一事業 16世紀の中ごろになると、全国 を支配しようとする者が現れまし た。尾張(愛知県)の織田信長は、 ……武力による天下統一の意志を示 す「天下布武」の印を使いはじめま した。 (105 頁) ②秀吉 第4 編「近世の日本」 1 節「中世から近世へ」 単元4【全国統一と近世社会の基礎 づくり】 ■豊臣秀吉の全国統一 信長の家臣の豊臣秀吉は山崎の戦い (京都府)で光秀をたおして信長の 後継者となり、次いで四国・九州、 さらに関東・東北地方の大名を従え て、1590 年に全国統一をなしとげま した。その間、秀吉は、全国に200 万石をこえる領地をもち、大阪・京 都・伏見に城を築いて、全国の金山・ 銀山を支配下におきました。さらに、 関白の地位について、天皇の伝統的 な権威をも利用して政治を行いまし た。(108 頁) ③家康 第4 編 2 節「江戸幕府の成立と東ア ジア」 単元1【全国支配のしくみ】 ■徳川260年の基礎 家康は、1603 年に征夷大将軍に任 じられて江戸幕府を開き、次に大阪 城の豊臣氏をほろぼして(大坂の 陣)、およそ260 年にわたって戦乱 のない徳川氏の支配の基礎を確立し ました。(116 頁) ①信長……なし ②秀吉……天皇の権威も利用し ③家康……朝廷による任命なし ① 第4章「近世の日本と世界」 単元5【天下統一を目ざして――織田信長 と豊臣秀吉】 ■信長の台頭と室町幕府の滅亡 16世紀の後半になると、戦国大名のな かに、都へ上がって全国の支配を目指す動 きが現れました。尾張(愛知県)の織田信 長は、駿河(静岡県)の今川義元を桶狭間 (愛知県)の戦いで破ったのち、京都に入 り、足利義昭を室町幕府の諸郡にして勢力 を強めました。 (98 頁) ② 小見出し「秀吉の天下統一」 ・・・秀吉は、朝廷から関白に任じられる と、天皇の権威も利用して、大名どうしの 領土争いを禁じる命令を出しました。さら に、徳川家康を家臣に従えた秀吉は、反抗 した九州の島津氏を降伏させました。1590 年には、関東を支配する北条氏をほろぼし、 奥州(東北地方)も征服して、天下統一を 実現しました。(99 頁) ③ 単元8【泰平の世の土台づくり】江戸幕府 の成立と幕藩体制 小見出し「江戸幕府の成立」 家康は、1603 年、征夷大将軍に任命され て江戸幕府を開くと、(104 頁) ①信長……なし ②秀吉……天皇の権威も利用し ③家康……朝廷による任命なし ①②③ 第3章「近世の日本と世界」 2節「戦国大名と全国統一」 単元1【戦国大名の登場】 ■戦国大名の領国支配 戦国大名のなかには、やがて、朝 廷や幕府のある京都に進出して、 天下を統一しようとするうごきが あらわれた。 (97 頁) ② 第3章「近世の日本と世界」 2節「戦国大名と全国統一」 単元3【信長・秀吉による全国統 一】 ■秀吉の全国統一 秀吉は、関白・太政大臣という 朝廷の最高官職につき、諸大名に 天皇と自分への忠誠を誓わせるな ど、朝廷の権威を利用しながら国 内の統一を進めた。大名の配置が えや取り立てをおこない、惣無事 令(停戦命令)を出し、大名たち の争いも禁止して、これに反する 大名は取りつぶした(101 頁)。 ③ 第3章第3節「江戸幕府の成立と 進展」 単元 1【江戸幕府の成立と大名統 制】 ■江戸幕府の成立 家康は 1600 年、関ヶ原の戦い(岐 阜県)で三成方を破り、全国の大名 を従え、1603 年には征夷大将軍と なって江戸幕府を開いた(108 頁)。 ①信長……天皇の権威の記載なし ②秀吉……「朝廷の権威を利用す る形」 ③家康……朝廷による任命 ①② 第4部第2章「戦乱から全国統一 へ」 単元 1【信長・秀吉による全国統 一】 ■織田信長の登場 (94 頁) ■豊臣秀吉の全国統一 秀吉は朝廷から関白に任ぜら れ、朝廷の権威を利用する形で諸 大名の争いに介入するようになり ました。四国・九州の大名を降伏 させ、1590 年には関東に勢力をも っていた北条氏をほろぼし、東北 の大名も従えることで、全国統一 をはたしました。(95 頁) ③ 第 4 部第3章「武士による支配の 完成」 単元1【幕藩体制の始まり】 ■江戸幕府の幕開け そして 1603 年に朝廷から征夷大 将軍に任命された家康は、江戸(東 京都)に幕府を開きました(江戸 幕府)。(102 頁) ①信長……天皇の権威の記載なし ②秀吉……なし ③家康……なし ① 第3 部「近世」 第4 章「世界がつながる時代」 単元5【町衆と信長―織田信長の 統一事業―】 ■京都に入った信長 織田信長は、尾張国(愛知県)の 小さな戦国大名でしたが、戦上手 で、型破りなことを好む人物でし た。駿河(静岡県)の今川義元を、 桶狭間の戦いでやぶって、勢いを つけ、1569 年に、他の戦国大名に 先んじて、将軍足利義明を助けて 京都に入りました。4 年後には義 昭を追放して、室町幕府を滅ぼし ました。(98 頁) ② 第3 部第 4 章「世界がつながる時 代」 単元6【 秀吉と黄金の夢―豊臣 秀吉と桃山文化―】 ■信長の死と秀吉の全国統一 徳川家康を従えたのち、1585 年、 関白となり、天下をとりました。 これは、下剋上の頂点ともいえま す。(100 頁) ③ 第3 部「近世」 第4 章「世界がつながる時代」 単元9【江戸の町づくり】 ■家康の江戸入り 次いで1603(慶長8)年、征夷大 将軍となり、江戸に幕府を開きま した。(106 頁) (20)

①秀吉のキリシタン追放の理由……スペイン の征服計画を防ぐため ②家康のキリシタン追放の理由……征服防止 ③備考 ①秀吉のキリシタン追放の理由……植 民地化防止 ②家康のキリシタン追放の理由……植 民地化防止 ①秀吉の時……きちんと理由書かれ る。 ②家康の時……西欧の侵略との関連、 書かれなくなる。 ①秀吉のキリシタン追放の理由…… 国防の観点なし ②家康のキリシタン追放の理由…… 国防の観点なし ①秀吉のキリシタン追放の理由……国防の 観点なし ②家康のキリシタン追放の理由……国防の 観点なし ①秀吉のキリシタン追放の理由… …国防の観点少し有り、無し ②家康のキリシタン追放の理由 …国防の観点なし ①秀吉のキリシタン追放の理由… …特に対外防衛の観点なし ②家康のキリシタン追放の理由… …侵略を恐れた ①秀吉のキリシタン追放の理由… …国防の観点半ば有り ②家康のキリシタン追放の理由― 説明無し

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第3 章 1 節「戦国時代から天下統一へ」 単元35【豊臣秀吉の政治と朝鮮出兵】 ■キリスト教の禁止 秀吉はキリスト教の保護者であったが、 1587(天正 15)年、突如としてバテレン追 放令を発し、キリシタンの禁教政策に転換し た。しかし、貿易による利益を重視して、南 蛮商人の入港は引きつ づき認めたため、禁教政策は不徹底なものと なり、バテレンの追放も実現しなかった。秀 吉は庶民の信仰までは禁じなかったので、キ リシタン信徒はその後も増えつづけた。 フィリピンを拠点にしていたスペインの宣 教師たちは、キリスト教を広めるため、南ア メリカやアジアと同じように、武力によって 中国や日本を征服する計画を立てていたとい われる。 (118 頁) 小コラム「秀吉とフェリペ2 世」 ちょうど秀吉が天下統一をなしとげたこ ろ、スペインでは、国王フェリペ2 世がイス ラム勢力を打ち負かし絶頂期にあった。アジ アに派遣されたスペイン人宣教師たちは、中 国の武力征服を進言し、日本の利用価値を書 簡でフェリペ2 世に説いた。 しかし秀吉と同じ1598 年にこの世を去っ たので、征服計画は実現しなかった。(119 頁) ① ・大コラム【秀吉はなぜバテレンを追放した か】 ■スペイン船の不覚 1596(慶長元)年、土佐沖で難破したスペ イン船サン・フェリ-ペ号の航海長が奉行に 対して「われらはまず宣教師を送り込んで先 住民を改宗させ、つづいて軍隊が入って多く の王国を征服してきた」と脅したという風説 が広まりました。このために秀吉はキリタン 取り締まりを強化したので、殉教者が出るま でになりました。一向一揆 のような権力に反 抗する宗教勢力の台頭をおそれていたからで す。 (121 頁) ② 第3 章 2 節「江戸幕府の政治」 単元38【朱印船貿易から鎖国へ】 ■貿易重視からキリスト教の禁止へ ① 第 3 章 2 節「信長・秀吉の全国統一」 単元 28【豊臣秀吉の政治と外交】 ■キリスト教の禁止 キリスト教の布教を認めていた秀吉 も、長崎の土地がキリシタン大名から イエズス会に寄進されていたことを知 ると、1587(天正 15)年、バテレン追放 令により宣教師の国外追放を命じ、キ リスト教を禁止しました。イエズス会 による布教が、ポルトガルやスペイン の植民地化政策と密接につながってい ることを危険とみたためでした。 (110~111 頁) ② 第 3 章3節「江戸幕府の政治」 単元 31【鎖国への道】 ■キリスト教の禁止(禁教)へ 幕府は貿易の利益を優先したため、 江戸時代の初めのころ、キリスト教は 強い取りしまりを受けませんでした。 しかしその教えは、幕府が求める道徳 や、わが国の慣習と合わない点が多く、 また、キリスト教はその地域の植民地 化のために利用されているという実態 もありました。そこで幕府は、キリス ト教を禁止する方針をかため、布教を きびしくとりしまるとともに、宣教師 を国外に追放しました。 (118 頁) ■島原・天草一揆と鎖国 スペイン・ポルトガルなどが世界各 地に植民地を広げているなかで、鎖国 はわが国の独立を守り、平和を維持す るための政策でした。(119 頁) ① 第 4 章 1 節「ヨーロッパ人との出会い と全国統一」単元4【織田信長・豊臣 秀吉による統一事業】 ■宣教師の追放 秀吉は、九州の大名を従えた後、長 崎がイエズス会に寄進されているこ とを知り、日本は「神国」であるとし て宣教師の国外追放を命じました(バ テレン追放令)。キリスト教の布教が、 スペインやポルトガルの軍事力と結 び付いていることが危険だと考えた ためです。(107 頁)。 *前回の「侵略政策」→今回「軍事 力」 ② 第4章第2節「江戸幕府の成立と鎖国」 単元3【貿易の振興から鎖国へ】 ■禁教と貿易統制の強化 家康は、貿易の利益のため、キリス ト教の布教を黙認していました。その ためキリスト教の信仰が全国に広ま りました。幕府は 1612 年、幕領にキ リスト教禁止令(禁教令)を出し、翌年 には全国におよぼしました。神への信 仰を領主への忠義よりも重んじるキ リスト教の教えが、幕府の考えに反し ていたためです。第 2 代将軍徳川秀忠 は、禁教令を強化し、信仰を捨てない 多くのキリスト教徒を処刑しました」 (116~117 頁)。 ① 第4編「近世の日本」 1節「中世から近世へ」 単元4【全国統一と近世社会の基礎 づくり】 ■刀狩り また、秀吉は、初めはキリスト教を 保護しましたが、長崎がイエズス会 の領地になったことなどからから、 国内統一のさまたげになると考え、 布教を禁止し、宣教師を追放しまし た。(109 頁) ② 第4 編 2 節「江戸幕府の成立と東ア ジア」 単元2【朱印船貿易から鎖国へ】 小見出し「朱印船貿易」 また、家康は、ポルトガル人・スペ イン人、さらに、あとから来たオラ ンダ人・イギリス人との貿易も許可 しました。しかし、領主より神を重 んじるキリスト教が急速に広まって いったことをおそれ、キリスト教を 禁止し、宣教師たちを国外に追放し ました。(118 頁) *当時のキリスト教国が、布教の名 のもとに侵略や人身売買をしたこと についての記述なし(播摩の感想) ① 第4章2節「天下統一への歩み」 単元6【近世社会への幕開け】 ■秀吉の外交と朝鮮侵略 秀吉は、長崎が教会領としてイエズス会 に寄進されていたことを知ると、キリスト 教が全国統一の妨げになると考えて、宣教 師の国外追放を命じました。しかし、貿易 は別として、外国の商船の来航をうながし、 倭寇を取りしまりました。 (宣教の意図の話やフェリペ2世の話はな し) ② 第4章3節「幕藩体制の確立と鎖国」 単元9【東南アジアに広がる日本町――キ リスト教と海外への行き来の禁止】 ■禁教と貿易の制限 海外への行き来が活発になると、キリス ト教の信者(キリシタン)がさらに増えま した。家康は、貿易の利益のために、初め はキリスト教を黙認していました。しかし、 キリシタンが幕府の支配に抵抗することを 恐れ、1612 年、キリスト教を禁じる禁教令 を出して、宣教師を国外に追放し、キリシ タンを弾圧しました。(108~109 頁) ・禁教令の経過については表有り。(109 頁) *トリデシリャス条約については触れてい ない。 ① 第 3 章 2 節「戦国大名と全国統一」 単元 4【秀吉の政策】 ■秀吉の対外政策 秀吉は、長崎が教会領になって いたことや、キリスト教が広がっ ていくいきおいをみて、1587 年に 宣教師の国外追放を命じ、取り締 まりをはじめた。 (103 頁) ② 第 3 章第 3 節「江戸幕府の成立と 進展」 単元4【貿易奨励から鎖国へ】 ■キリスト教禁止と海外情勢 はじめ家康は、海外との貿易を 重視して、キリスト教の布教活動 を黙認していた。このためキリト 教信者は増え、およそ 70 万人にも 達した。将軍の家臣にも多くの信 者がいることがわかると、幕府は あらためてキリスト教禁止令を出 し、宣教師や信者の取り締まりを 強めた。(112-113 頁)。 ① 第4部第2章「戦乱から全国統一 へ」 単元 2【秀吉が導いた近世社会】 ■秀吉によるキリスト教の禁止と 海外貿易 秀吉も初めキリスト教を保護して いましたが、長崎がキリシタン大 名によって寄進され教会領になっ たことなどから、その力をおそれ るようになり、1587 年に宣教師の 海外追放を命じてキリスト教を禁 止しました。しかし秀吉は、東南 アジアやそこを拠点とするヨーロ ッパとの貿易を豪商らに認めてい たため、キリスト教の禁止を徹底 することができませんでした。当 時の海外貿易は、キリスト教の布 教と一体化していたからです。(96 ~97 頁) ② 第4部第3章「武士による支配の 完成」 単元 2【朱印船貿易から貿易統制 へ】 ■キリスト教の禁止と貿易統制 キリシタンが急増すると、スペ インやポルトガルによる日本の侵 略のきっかけになると考え、1612 年に幕領で、翌 13 年には全国でキ リスト教を禁止し(禁教)、宣教師 を国外へ追放したり、キリシタン を迫害したりしました。(105 頁)。 ① 第3 部第 4 章「世界がつながる時 代」 単元6【秀吉と黄金の夢―豊臣秀 吉と桃山文化―】 ■信長の死と秀吉の全国統一 (前略)秀吉は、交易ルートを東 南アジアにまで広げました。台 湾・フィリピンなどに手紙を送っ て服属を求め、大帝国をつくるこ とを、夢見ました。また、キリス ト教は、国を侵略するものだとし て、危険視しました。これは、日 本は「神国」であるとの考え方に よるものでした。(100~101 頁) ② 第3 部第 4 章 単元11【日本町が消える―江戸幕 府の外交―】 ■大一揆とキリスト教の禁止 幕府は、交易の利益も重視しまし たが、キリスト教が広まることを おそれました。1635 年、3 代将軍・ 家光は、日本人が海外渡航や海外 から帰国することを禁止しまし た。…… 幕府はキリスト教の禁止を徹底 するために、宗門改をおこないま した。(111 頁)

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家康はキリシタン禁教よりも南蛮貿易の利 益を優先したため、信者が増えていった。幕 府はこれを脅威と感じ始め、その対策に苦慮 した。 遅れてアジア貿易に参入したオランダとイ ギリスは「スペインとポルトガルは日本を征 服しようとしているが、われわれプロテスタ ントは交易だけで布教はしない」と弁明して、 日本と の貿易に食い込んできた。 幕府は1612(慶長 17)年年からキリスト 教禁止令を3回発令し、スペインとポルトガ ルの来航を禁止した。1635(寛永 12)年に は、日本人の海外への渡航も帰国もすべて禁 止して 統制を強化した。 (126 頁)。 ③ 第3 章 1 節「戦国時代から天下統一へ」 単元32【ヨーロッパ人の世界進出】 ■ポルトガルとスペインによる地球分割計画 1492 年、コロンブスは西インド諸島に到達し た。ヨーロッパ人によるアメリカの「発見」 である。彼はそこをインドと信じ込んだため、 北米大陸の先住民は今でもインディアンとよ ばれている。2年後の1494 年、ローマ教皇 は大西洋を東西に分け、東半球で発見される ものはすべてポルトガル王に属し、西半球で 発見さるものはすべてスペイン王に属すると 取り決めた。これをトルデシリャス条約とい う。(113 頁) (21)

①朝鮮出兵の背景……秀吉の野望 ②朝鮮出兵を「侵略」としない ③備考……朝鮮からの陶工、陶器技術の伝達 をめぐって、その他 ①② 第3 章 1 節「戦国時代から天下統一へ」 単元35【秀吉の政治と朝鮮出兵】 ■朝鮮出兵 全国を統一した秀吉は明を征服して都を移 し、インドまでも支配するという壮大な野望 を抱いた。 (119 頁) ③ 2度にわたる戦いによって、朝鮮の国土や 人々の生活は荒廃した。(119 頁) 側注③ 朝鮮出兵で多くの朝鮮陶工が日本に 連れてこられた。薩摩焼の沈寿官、有田 焼の 李参平、萩焼の李 勺光らが陶磁器の技術を日 ①朝鮮出兵の背景…… ②朝鮮出兵を「侵略」としない ③備考…… ①②③ 第 3 章 2 節「信長・秀吉の全国統一」 単元 28【豊臣秀吉の政治と外交】 ■対外政策と朝鮮出兵 全国を統一した秀吉は、国力のおと ろえつつあった明にかわり、日本を東 アジアの中心とする新しい国際秩序を つくろうとしました。フィリピンや台 湾に服属を求めるとともに、明に出兵 しようとしました。…… この戦いは、朝鮮の国土と人々に大 きな被害を残すとともに、出兵した日 本側の大名にも重い負担となりまし た。 (111 頁) ①朝鮮出兵の背景書かれず、 ②単元見出しで「侵略」とする。 ①② 第4章第1節「ヨーロッパ人との出会 いと全国統一」 単元5【兵農分離と朝鮮侵略】 ■海外貿易と朝鮮侵略 朝鮮、高山国(台湾)、 ルソン(フィ リピン)などに手紙を送り、服属を求 めました。 1592(文禄元)年には、明の征服を目 指して、諸大名に命じ、15 万人の大 軍を朝鮮に派遣しました(文禄の役)。 ……また、各地で朝鮮の民衆による義 兵が抵抗運動を起こし、朝鮮南部で は、李舜臣の水軍が日本の水軍を破り ました。……7年にわたる戦いで、戦 ①朝鮮出兵の背景 ②小見出しで「侵略」とする ③備考……朝鮮からの陶工、陶器技 術の伝達をめぐって、その他 ①② 第4編「近世の日本」 1節「中世から近世へ」 単元5【秀吉の海外政策】 ■東アジアにおける貿易 南蛮貿易が盛んになるなか、日本の 商船も東南アジアへ出かけて貿易を 行いました。豊臣秀吉は、倭寇の海 賊行為を禁じるいっぽう、貿易を進 めました。そして、国内統一が終わ ると、貿易の拠点であるフィリピ ン・台湾に手紙を送り、日本に服従 して貿易を行うように求めました。 秀吉は、明に代わってアジアの盟主 ①朝鮮出兵の背景は、解説せず。 ②小見出しで朝鮮侵略と表記 ③朝鮮からの陶工について ①② 第4章2節「天下統一への歩み」 単元6【近世社会への幕開け――豊臣秀吉 の政治】 ■秀吉の外交と朝鮮侵略 一方、明やインドなどの征服も計画する ようになり、朝鮮に対して日本への服従と 協力を求めました。これを拒否された秀吉 は、1592 年、約 15 万の大軍を朝鮮に送りま した。…… 7年にわたる戦いで、朝鮮の土地は荒れ、 多くの人々が命をうばわれたり、日本に連 れてこられたりしました。 (101 頁) 側注③ このとき朝鮮から連れてこられた陶工や ①朝鮮出兵の背景は、解説せず。 ②サブ小見出しで朝鮮侵略と表記 ③ ①②③ 朝鮮出兵の背景書かれず、「侵略」 とされる。 第 3 章 2 節「戦国大名と全国統一」 単元 4【秀吉の政策】 ■秀吉の対外政策 秀吉は、全国統一後、ゴアのポル トガル政庁、マニラのスペイン政 庁、高山国(台湾)などに服属を 求めた。また、明への侵略をくわ だて、朝鮮にも服従してともに戦 うことを要求した(103 頁)。 サブ■秀吉の朝鮮侵略 ①朝鮮出兵の背景は、解説せず ②朝鮮侵略の小見出しが「文禄・ 慶長の役」に変わった ③儒学者、陶工 ①②③ 第4部第2章「戦乱から全国統一 へ」 単元 2【秀吉が導いた近世社会】 ■文禄・慶長の役 秀吉は、全国統一を果たしたの ち、さらに領土を広げるため、明 にかわって東アジアを支配しよう と考えました。秀吉は倭寇の取り しまりを行って海上の支配を強 め、フィリピンや台湾などには服 属を、朝鮮には明を征服するため の協力を求めました。朝鮮がこれ ①秀吉の朝鮮侵略の背景……秀吉 の夢 ②「朝鮮侵略」の単元副題 ③秀吉軍の「悪行」を列挙 ① 第3 部「近世」 第4 章「世界がつながる時代」 単元6【秀吉と黄金の夢―豊臣秀 吉と桃山文化―】 ■信長の死と秀吉の全国統一 (前略)秀吉は、交易ルートを東 南アジアにまで広げました。台 湾・フィリピンなどに手紙を送っ て服属を求め、大帝国をつくるこ とを、夢見ました。(100 頁) ①②③ 第3 部第 4 章 単元8【僧が見た朝鮮の民衆―秀

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本に伝えた。 (119 頁) 側注欄で「有田焼」の写真説明 朝鮮出兵のさいに連れてこられた朝 鮮の陶工によって磁器の技術が伝えら れた。李参平は有田焼の祖とよばれて いる。(111 頁) 場になった朝鮮は荒廃し、日本に連行 される者もいました。(109 頁) ③ 小コラム「歴史にアクセス 有田焼の ルーツ」 「陶祖李参平」(109 頁)。 になり、天竺(インド)までも征服 しようと考えていました。(110~111 頁) ■秀吉の朝鮮への侵略 明を征服することで武士をまとめ ていこうとも考えた秀吉は、朝鮮に 日本への服従と日本軍の明への通行 許可とを要求しました。それが拒否 されると、1592 年、全国の大名を動 員し、九州の大名を主力とする大軍 を朝鮮に送りました。(111 頁) ③ 第4編「近世の日本」 1節「中世から近世へ」 単元6【安土桃山時代の文化】 ■桃山文化 豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に、多くの 朝鮮人陶工が日本につれてこられま した。彼らによって、有田(佐賀県)・ 萩(山口県)・薩摩(鹿児島県)など に技術が伝えられ、優れた陶磁器が つくられました。(112 頁) 「有田焼」写真 佐賀県有田町では、その祖である 李参平をたたえた碑が立てられ、彼 をまつる行事が催されています。 (113 頁) 学者、持ち去った書物などから、磁器や印 刷の技術、儒学が伝えられました。(101 頁) ③ 第4章2節「天下統一への歩み」 単元7【城と茶の湯】 小見出し「海外から流入する文化」 一方、東アジアからも文化が流入しまし た。朝鮮の陶工によって、有田焼・薩摩焼・ 萩焼などがつくられるようになったほか、 中国の三絃とよばれる楽器が琉球に入って 三線となり、それが日本に伝わって三味線 が生まれました。三味線は、近世の音楽を 支える楽器になっていきます。(103 頁) 7年間にわたる侵略を受けた朝 鮮では、国土や文物が荒らされ、 産業を破壊され、一般民衆も含む 多くの人命がうばわれた。また、 数万人ともいわれる朝鮮人が日本 に連れてこられた。そのなかにい た儒学者や陶工により、朝鮮の儒 学(朱子学)や陶磁器の技法が日本 に伝わった。なかでも陶磁器の技 法は、のちに萩焼(山口県)・有田焼 (佐賀県)・薩摩焼(鹿児島県)など各 地でさまざまな焼き物として発達 した。また、朝鮮に攻め込んだ日 本の武将のなかには、この出兵に 疑問をもつ者や朝鮮軍に味方した 者もいた。(103 頁) 儒学者、陶工が連れてこられた 云々(103 頁)。 を拒否すると、1592 年に 15 万人 の大軍で朝鮮へ攻め入り、…各地 を占領しました(文禄の役)。…… 7 年にわたる戦乱で朝鮮各地の 村々は焼かれ、寺院などの文化財 が失われたほか、人口が激減しま した。 (97 頁) ③ 第 4 部第 2 章「戦乱から全国統一 へ」 単元3【戦国大名と豪商が担った 安土桃山文化】 小コラム「朝鮮半島から伝わった 文化」 わび茶がさかんになると、朝鮮 で焼かれた茶碗などの評価が高ま り、諸大名は競ってそれを求めま した。文禄・慶長の役のとき、連 れてこられたり、みずからの意志 で移住したりした朝鮮の陶工によ って陶磁器づくりが伝わりまし た。また、とらえられた朝鮮の儒 学者が日本の学者に儒教を教え、 日本に儒教が広まるきっかけをつ くりました。(101 頁) 吉の朝鮮侵略―】 ■大軍が朝鮮を攻める 豊臣秀吉は、日本全国を統一する と、次には明の征服をめざし、朝 鮮に先導するよう命じました。朝 鮮は、明と朝貢する関係にあった ので、これを拒否しました。それ に対して、秀吉は全国の大名に明 治、名護屋城(佐賀県)を築いて 侵略の基地として、朝鮮への攻撃 を開始しました。 《中略》 この戦争に医師として従軍した 日本の僧・慶念は、戦場で見聞き したことを、日記に書き残しまし た。「人買い商人が日本の軍勢のあ とについて、朝鮮の老若男女を買 い集め、首を縄でひき連れている」 「牛馬を引かせ、荷物を運ばせて いるありさまは、見るにしのびな い」 (104 頁) ■朝鮮民衆のたたかい (前略)朝鮮の農民たちは、各地で、 まとまって日本に抵抗する戦いを 始め、朝鮮軍にいた兵士も加わり ました。これを、朝鮮では義兵と 呼びました。地の利を生かした作 戦で、日本軍を攻撃し、大きな打 撃をあたえました。 ■日本軍の敗戦と引きあげ (前略)戦場となった朝鮮では、 田畑が荒れはて、多くの人が飢え に苦しみました。日本では、多く の百姓が荷物の輸送などにかりだ されたため、農業生産が落ち込む ところもありました。海を渡った 日本軍の半数以上は、九州などの 百姓でした。明も、この戦争で大 きな痛手を受けました。 ・写真「薩摩焼」説明 戦争のとき連行されてきた、朝鮮 人の陶工が鹿児島ではじめた。西 日本各地で、このような陶磁器が つくられた。(105 頁) 小コラム「朝鮮の武将となった沙 也可」 戦争のなか、1 万人にものぼる日 本の武士や農民が、朝鮮側に投降

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したり、逃亡したりしたといわれ る。加藤清正の家臣だった武将は、 朝鮮側に降伏し、日本軍と戦った。 国王から金忠善という名をあたえ られた。日本名は沙也加だったと 伝えられる。投降した日本の武士 には、火縄銃のつくり方を教えた 人もいた。 日本軍が退却したとき、朝鮮の 役人がもどってきて重税をかけよ うとした。そのとき、僧や最下層 の身分の人びとが指導して、民衆 700 名が反乱をおこした。このと き金忠善は、朝鮮国王の命を受け て、弾圧の先頭に立った。(105 頁) ③ 第3 部第 5 章「百姓と町人の世」 単元5【江戸を行く朝鮮通信使― 朝鮮・琉球との外交―】 ■日本と朝鮮の国交回復 秀吉の朝鮮侵略によって、室町時 代以来つづいてきた通信使も中止 されていました。朝鮮は、日本が 国交の再開を望んでいることを確 かめるために、僧侶の松雲大師を 使いとして送りました。大師は、 義兵として日本軍と戦ったことも ありました。伏見城(京都府)で 将軍徳川家康と会見し、戦争のと きに連行されてきた多数の朝鮮人 を帰国させることになりました。 (125 頁) (22)

①縄文とのつながり、書かれる。 日本語方言の一つ、九州からの移住 ②薩摩及び清と琉球……両属 備考③文化の書き方……三線記述なし ○自由社 ①琉球王国形成 第2 章 2 節「武家政治の展開」 単元26【日明貿易と朝鮮・琉球】 ■朝鮮と琉球 琉球では、北山・中山・南山の3つの勢力 が、それぞれ城(グスク)を拠点にして対立 していたが、1429(永享元)年、中山の尚氏 が3つの勢力を統一して、琉球王国をつくり あげた。 琉球王国は、明が民間貿易を禁止する海禁 政策をとるなかで、明の冊封を受け、日本、 ①日本語方言の一つ、九州からの移住、 共になし ②薩摩と琉球……両属 ③琉球から伝わった三線 ① 第 2 章 2 節「武家政治の動き」 単元 21「室町幕府と東アジア」 ■琉球と蝦夷地 琉球(沖縄県)は、長いあいだ小国に 分立していましたが、15 世紀初め、尚 氏が統一し、琉球王国が成立しました。 琉球は地理的な利点を生かし、東アジ アと東南アジアの国々を結ぶ中継貿易 によって栄えました。また、八重山諸 島などの島々の豪族を攻めて領域の支 ①日本語方言の一つ、九州からの移 住、共になし ②「侵攻」、両属 小見出しが■朝鮮と琉球王国 ③三線→三味線 ① 第 3 章第 2 節「東アジア世界との関わ りと社会の変動」 単元 3【東アジアとの交流】 ■琉球王国の成立 琉球(沖縄県)では、12、13 世紀を通 じて、城(グスク)を根拠地にして、 按司とよばれる豪族が勢力を争って いました。14 世紀になると北山、中 山、南山の三つの勢力にまとまり、そ れぞれが明と朝貢貿易を始めました。 ①日本語方言の一つ、九州からの移 住、共になし ②薩摩及び清と琉球……両属 ③文化の書き方……三味線 ① 第3編「中世の日本」 2節「室町幕府と下剋上」 単元2【東アジアとの交流】 ■中世の琉球やアイヌとのかかわり 琉球(沖縄県)では、按司と呼ば れる有力者たちが城(グスク)を拠 点にして争っていましたが、14 世紀 になると、北山・中山・南山の三つ の勢力(三山)にまとまり、それぞ れが明と関係を結ぼうとしていまし ①日本語方言の一つ、九州からの移住、共 になし ②薩摩及び清と琉球……両属 ③文化の書き方……三弦→三線→三味線 ① 第 3 章 2 節「ゆれ動く武家政治と社会」 単元 9【北と南で開かれた交易――琉球王国 とアイヌ民族】 小見出し「琉球王国の成立」 琉球(沖縄県)では、按司とよばれる支 配者たちが、各地にグスク(城)を築いて 勢力を争っていました。14世紀には、互 いに連合して山北(北山)・中山・山南(南 山)の三つの王国が並び立ち、中国で明が 成立すると、それぞれ明に朝貢しました。 そして、15世紀の初め、中山王の尚巴志 ①日本語方言の一つ、九州からの 移住、共になし ②征服 ③中国、琉球から伝わった三線を もとにして三味線 ① 第 2 章第 2 節「武家社会の展開と 民衆」 単元2【東アジア世界とのかかわ り】 ■琉球王国と蝦夷が島 沖縄本島では、15 世紀はじめに尚 氏が島を統一して琉球王国をつく った。琉球は明に朝貢をおこない、 東南アジア・日本と中国とをむす ぶ中継貿易をさかんにおこなっ ①日本語方言の一つ、九州からの 移住、共になし ②薩摩藩……「厳しく監督」 ③中国の三弦→琉球の三線→日本 の浄瑠璃、という文化伝達強調 第3部第2章「武家政権の内と外」 単元4【琉球とアイヌの人々がつ なぐ交易】 ■東アジアをつなぐ琉球 琉球(沖縄県)の島々では、10 世紀ごろに農耕が始まりました。 14世紀半ばには北山・中山・南 山の3王国が成立し、15世紀には、 中山の王である尚氏によって統一 され、首里(現在の那覇市)を都 ①日本語方言の一つ、九州からの 移住、共になし ・ただし、貝塚文化記される。 ②薩摩と琉球……「侵攻」 ③三線、出てこず *琉球に関する微細過ぎる記述は バランスを失している。 ① 第1 部第 1 章「文明のはじまりと 日本列島」 単元9【稲作がはじまる-弥生時 代-】 側注「北海道と南西諸島」 北海道では、漁・採集・狩りを 中心とした生活がつづいた(続縄

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朝鮮、さらには遠く東南アジアから各地の産 物を明にもたらす中継貿易で活躍し、繁栄し た。こうして、15 世紀中ごろには、東アジア の海上交易のネットワークができあがった。 (97 頁)。 ① 第4 章 2 節「開国から明治維新へ」 大コラム【琉球処分とは何か】 ■琉球王国の形成 奄美や沖縄を中心にした南島地域の人々の 主な祖先は、縄文時代に九州からわたってい った人々です。その地域の言語は琉球方言と よばれ、日本語の方言の一つです。 この地域では、漁労採集の生活から11 世紀 ごろ、農耕社会に移行しました。各地には按 司といわれる首長が生まれ、城(グスク)を 構えて相争いました。(174 頁) ② 第3 章 2 節「江戸幕府の政治」 単元39【鎖国日本の 4 つの窓口】 ■朝鮮・琉球・蝦夷地 1609(慶長 14)年、薩摩藩は琉球王国に 兵を送って尚氏を服属させた。琉球は清の冊 封も受けていたので、双方の支配に服し、将 軍の代がわりには江戸に使節を送るなど二重 外交をつづけた。清に朝貢して得られた物資 と情報は薩摩藩を通じて幕府にももたらされ た。 (128 頁)。 ・「琉球交易図」の絵(129 頁)。 ② 大コラム【琉球処分とは何か】 ■一種の奴隷解放 琉球は、薩摩と清国に両属し、人々には薩 摩への毎年の貢納のほか、清国から迎える使 節の接待の費用も大きな負担でした。薩摩と 清国への両属する状態を終わらせたのが琉球 処分でした。これを高く評価して、沖縄学の 父といわれる伊波普猷は「琉球処分は一種の 奴隷解放だ」と表現しました。 (174 頁) ③文化の書き方 第3 章 1 節「戦国時代から天下統一へ」 単元36【桃山文化】 三線→三味線の記述なし 配を強化し、16 世紀には最盛期をむか えました。 (85 頁) ②薩摩と琉球 第3章3節「江戸幕府の政治」 単元 32【「鎖国」の時代に開かれてい た窓口】 ■琉球との交易 1609(慶長 14)年、薩摩藩(鹿児島県)の島 津氏の支配を受け、将軍や琉球国王の 代がかわるたびに幕府に使節を送るよ うになりました。その一方で、琉球は 中国におこった清にも朝貢していまし た。幕府や薩摩藩は、琉球を仲立ちと して清との貿易を行おうと考えたた め、こうした琉球の立場を認めました。 (121 頁)。 ③文化の書き方 第 3 章 2 節「信長・秀吉の全国統一」 単元 29【雄大で豪華な桃山文化】 ■民衆の文化 琉球(沖縄県)から伝わった三味線に合 わせて物語を語る、浄瑠璃や小歌も 人々の楽しみとなりました。 (113 頁) 15 世紀初めに、中山の王となった 尚氏は、北山、南山の勢力をほろぼし て沖縄島を統一し、首里を都とする琉 球王国を建てました。琉球は、日本や 中国、朝鮮半島、遠く東南アジアにも 船を送り、産物をやりとりする中継貿 易で栄えました。(81 頁)。 ①②③ 第 3 章第 2 節「東アジア世界との関わ りと社会の変動」 大コラム【東アジア世界の朝貢体制と 琉球王国】 ■琉球王国と朝貢体制 明が中国人の海外渡航を禁じて、日 本からの貿易船を 10 年に一度と制限 していたのに対して、琉球にはほぼ毎 年のように貿易船を認めていたので、 琉球はその立場を利用して利益を得 ました。琉球からの輸出品は主に馬と 硫黄でした。……「おもろさうし」が 作られました。……琉球は薩摩藩の侵 攻によって服属しましたが、表向きは 独立国の形を保ち、清との朝貢関係を 継続し、清の暦も使われていました。 また、琉球の歴史を記した歴史書も作 られました。 (93 頁) ②薩摩藩と琉球 第4章第2節「江戸幕府の成立と鎖国」 単元4【鎖国下の対外政策】 ■朝鮮と琉球王国 それまで独立国だった琉球王国(沖 縄県)は、薩摩藩(鹿児島県)に攻められ 服属しました。しかし、幕府が琉球を 異国と位置付けました。そのため、国 際的には独立国で、明や清に朝貢し、 貿易も行っていました。薩摩藩は、役 人を琉球に派遣し、間接的に中国との 貿易を行って利益を 得ました。また薩摩藩は、将軍や琉球 国王に代がわりがあると、琉球からの 使節を江戸に連れてきて、将軍に面会 させました(琉球使節)。」(119 頁)。 絵「那覇港のにぎわい」 (119 頁) ③ 第 4 章 1 節「ヨーロッパ人との出会い と全国統一」単元 6【桃山文化】 ■豪華で壮大な文化 室町時代に琵琶などに合わせて恋 た。15 世紀初め、中山王となった尚 巴志が三山を統一して琉球王国をた て、首里を都としました。琉球の人々 は、明・日本・朝鮮、さらには東南 アジア各地に進出し、中継貿易に活 躍しました。 (81 頁) ② 第4編 近世の日本 2節 江戸幕府の成立と東アジア 単元3【隣接地域との関係】 ■琉球王国 琉球王国(沖縄県)は、朝鮮出兵の 軍役を果たさなかったなどの理由 で、17 世紀の初め、薩摩藩(鹿児島 県)の島津氏に征服されました。し かし、幕府が琉球を外国としたこと で、国際的には独立国として明に、 次いで清に朝貢し、貿易を行いまし た。この琉球を通して、中国の多く の文物が日本に持ちこまれました。 薩摩藩は、琉球の政治・外交を監督 し、琉球から年貢米・布などを取り 立て、将軍や琉球国王の代がわりご とに江戸へ使節を送らせました。 (120 頁) ③ 第4編「近世の日本」 1節「中世から近世へ」 単元6【安土桃山時代の文化】 ■桃山文化 京都では出雲阿国が歌舞伎を始め、 堺では琉球から伝わった三線をもと に三味線がつくられ、三味線を伴奏 に、物語に節をつけて語る浄瑠璃が 発達しました。(112 頁) が、三つの王国を統一して琉球王国を築き、 首里を都として独自の文化を発展させまし た。 琉球王国は、東アジアと東南アジアの 国々を結ぶ中継貿易で活躍し、那覇の港は 国際貿易港として栄えました。琉球の人々 は、季節風を利用して大きな船を乗りこな し、中国の陶磁器や日本の刀剣などを東南 アジアに運んだり、こしょうや染料などの 南方の珍しい産物を東アジアに運んだりし ました。(74 頁) ② 第4章3節「幕藩体制の確立と鎖国」 単元10【開かれた窓】江戸時代の国際関係 ■琉球王国と薩摩藩」 琉球王国は、17世紀の初め、薩摩藩の 島津の支配を受けるようになりました。薩 摩藩は、琉球がそれまでどおり中国に朝貢 することを認め、琉球を通じた貿易で利益 を上げました。さらに、将軍や琉球国王の 代替わりごとに使節を江戸に上らせ、幕府 と薩摩藩の権威が琉球まで及んでいること を、日本国内の人々に誇示しました。一方 で琉球の人々は、中国や日本との交流のな かで、王国としての独自の文化を発展させ、 自立を誇りとしました。 (111 頁) ② 第6章「近代の日本と世界」 1 節「明治維新と立憲国家への歩み」 単元5【知識を世界に求めて】 小見出し「領土の確定と沖縄県」 琉球王国は江戸時代以来、薩摩藩の支配 下にありましたが、同時に清にも朝貢して いました。政府は、琉球を日本の領土にし ようと、まず琉球藩をおき、台湾に漂着し た琉球の人々が殺害された事件を理由に、 1874 年、台湾に出兵しました。1879 年に は軍隊を送って琉球藩を廃止し、沖縄県を 設けました(琉球処分)(165 頁) ③ 第4章2節「天下統一への歩み」 単元7【城と茶の湯—南蛮文化と桃山文化】 小見出し「海外から流入する文化」 中国の三絃とよばれる楽器が琉球に入っ て三線となり、それが日本に伝わって三味 線が生まれました。三味線は、近世の音楽 を支える楽器になっていきます。(103 頁) た。東南アジアから輸入したこし ょうや染料は、中国に輸出された ほか、日本や朝鮮にも輸出された。 琉球王国は 15 世紀から16世紀 にかけて奄美諸島・宮古島・八重 山諸島などを支配するようになっ た。 (77 頁) ・側注欄に、「図 5 にぎわう那覇 の港」の説明 那覇の港は 15 世紀に尚氏が貿 易のために開いてから発展した。 (77 頁) ② 第 3 章 3 節「江戸幕府の成立と進 展」 単元 4【外国や周辺地域との関係】 ■琉球との関係 徳川家康は琉球に明との関係の 仲介を期待した。薩摩藩(鹿児島県) の島津氏が琉球との交渉をおこな ったが、それが行きづまると、薩 摩藩は幕府の許可をえて 1609 年 に武力で琉球を征服した。薩摩藩 は奄美諸島までを直接支配し、沖 縄諸島より先は、琉球王国の体制 を残したまま、役人を派遣して監 督した。琉球からは、徳川将軍や 琉球国王の代がわりに、江戸まで 使節をおくることが慣例になっ た。琉球は中国へも定期的に使節 を派遣し、朝貢貿易をおこなって いた。また、琉球国王の代がわり があれば、中国から使節が訪れ、 皇帝の命令を伝えて新しい国王に 任命する儀式をおこなった。こう した歴史的環境のもと、琉球では、 独自の文化や意識がはぐくまれ た。(117 頁) ③ 第 3 章 2 節「戦国大名と全国統一」 単元5【南蛮文化と桃山文化】 ■桃山文化 また、中国、琉球から伝わった三 線をもとにして三味線がつくら れ、これにあわせて語る浄瑠璃が 広がりはじめた。これはのちに人 とした琉球王国が成立しました。 奄美大島から八重山列島に及ぶ地 域がその領域でした。琉球は、以 前から東シナ海を舞台に独自の交 易活動を行っていました。14 世紀 末に、明との朝貢貿易を始めた琉 球は、日本・朝鮮・東南アジアの 国々ともさかんに交易を行いまし た。琉球は、琉球産の硫黄や日本 の武具・屏風、東南アジア産のめ ずらしい香辛料や象牙などを、明 にもっていき、その返礼として得 た生糸や絹織物・陶磁器などを諸 国に転売しました。日本の坊津(鹿 児島県)・博多・兵庫・堺の商人た ちも、琉球へやってきました。 こうした中継貿易によって琉球 王国は繁栄し、独自の文化を築き あげました。しかし、16 世紀半ば になると、明の商人が東南アジア へさかんに進出するようになり、 ポルトガル商人などの活動も活発 になりました。その影響を受け、 16 世紀後半になると、琉球船の活 動はおとろえていきました。(70 頁) ・図「日本の北と南の交易」(71 頁)。 ② 第4部第3章「武士による支配の 完成」 単元4 「琉球王国とアイヌの人々 への支配」 ■琉球への窓口 薩摩藩(鹿児島)は、明との貿易で 栄えていた琉球王国を 1,609 年に 支配し、検地を行って百姓から年 貢米を取り立てるなど、厳しく監 督しました。 琉球は、明に朝貢し、明の文化 や産物、海外情報を積極的に取り 入れていました。それらは幕府や 薩摩藩にとっても貴重であったた め、明のあとにできた清とも、幕 府や薩摩藩の管理のもとで朝貢を 続けることが認められました。… …… 琉球からは、将軍がかわるごと 文文化の時代とよぶ)。 南西諸島では、サンゴ礁の内海 での漁や貝の交易などがおこなわ れた(貝塚文化の時代とよぶ)。 (28 頁) ① 第2 部第3章「武士の世」 単元14【アジアの海をつなぐ王国 ー琉球王国ー】 ■船で万国のかけ橋に 九州の南から台湾の東にかけて、 転々とつらなる琉球の島々では、 魚や貝をとってくらす貝塚文化の 時代が長く続きました。ムラどう しの戦いが激しくなり、グスク (城)が築かれます。14世紀、 沖縄島では3つの国が争っていま したが、1429 年、統一されて、琉 球王国がつくられました。 琉球王国は、明の皇帝に毎年の ように朝貢しました。1434 年に は、日本刀や金箔の屏風とともに、 サメ皮4000 枚、矢公害 8500 個、 宝貝550 万個、ラッコの毛皮 100 枚を、皇帝に贈っています。 明は、朝貢以外には、海外との 自由な交易を禁じていたので、琉 球王国がその代わりをにないまし た。そのため、琉球王国はアジア のほかの国よりも優遇され、船を 送る回数に制限はありませんでし た。(84~85 頁) ② 第3部第4章「世界がつながる時 代」 単元7【村に入ってきた秀吉】 小コラム「島津氏の奄美群島と琉 球王国への侵攻」 奄美群島の与論島は、交易のほか 農業もさかんで、島の中心部には 大きなグスク(城)が築かれてい た。この島は、琉球王国と九州を 結ぶ交易の中継地となっていた が、15 世紀ごろに、琉球王国に征 服された。1609 年、薩摩(鹿児島 県)の島津氏が、奄美群島に攻め 入り、激しい戦闘が行われたが、 島津氏の支配下に入れられた。こ

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物語などを語った浄瑠璃が、琉球(沖 縄県)から伝わった三線(さんしん)を 基につくられた三味線に合わせて語 られるようになりました。 (111 頁) *相変わらず、日本から琉球への 文化の伝わり書かれず。 形あやつりとむすびついて発達 し、人形浄瑠璃という演劇となっ た(105 頁)。 に慶賀使とよばれる就任祝いの使 節と、琉球王がかわるごとに謝恩 使とよばれる感謝の使節が江戸に 派遣されました。薩摩藩は、これ らの使節の行列を中国風に仕立て て行進させ、幕府と薩摩藩の権威 が遠く琉球まで及んでいることを 国内の人々に印象づけました。 (110 頁)。 ・側注「琉球からの謝恩使」 「江戸までの往復の費用は重い負 担でしたが、使節の派遣によって 王国としての地位を保てたので、 必要な外交儀礼でした。(110 頁) ② 大コラム【琉球とアイヌの人々の 暮らし】 ■①琉球の人々はどのような生活 をしていたのかな? 一方で、琉球を支配した薩摩藩は、 その実態を明や清に知られないよ うに琉球の人々が名字・髪型・衣 服などを日本風にすることを禁止 していました。(112 頁) ■③中国とはどんな関係だったの かな? 琉球の三線と呼ばれる楽器は、中 国の三弦が琉球風に変化したもの でした。(113 頁) ③ 第 4 部第 2 章「戦乱から全国統一 へ」 単元3【戦国大名と豪商が担った 安土桃山文化】 ■今を楽しむ庶民 また、中国起源である琉球の三 線をもとに三味線がつくられ、そ の演奏に合わせて語られる浄瑠璃 や、人形あやつりと結びついた人 形浄瑠璃が完成しました。(101 頁) こを足がかりにした島津氏は、軍 勢をさらに進め、琉球王国を服属 させた。(103 頁) ② 第3部第5 章「百姓と町人の世」 単元4【北の海から来た昆布―蝦 夷地と琉球―】 ■昆布は琉球から中国へ 薩摩藩の島津氏は、奄美大島など を直接支配し、琉球王国も服属さ せました。しかし、琉球王国が朝 貢使節を中国に派遣して、交易す ることはそのままつづけさせ、そ の公益での利益を吸い上げまし た。この琉球と中国との交易では、 蝦夷地からの昆布、琉球産の織物、 硫黄、海産物が輸出され、生糸・ 薬種(漢方薬の材料)・陶磁器など が輸入されました。 (123 頁) ② 第3部第5 章「百姓と町人の世」 単元5【江戸を行く朝鮮通信使- 朝鮮・琉球との外交-】 小コラム「琉球王国の使節」 琉球王国は、薩摩藩(鹿児島県) に服属した後、1634 年から国王や 将軍が代わるたびに、使節を江戸 に送るようになった。1850 年まで に、18 回を数える。(125 頁) (23)

①アイヌとは何か……縄文とのつながり ②和人とアイヌの関係……特になし ③④松前藩の商人の不正な交易のやり方に反 発してシャクシャインの反乱 ⑤先住民族なし ①② ①縄文とのつながり、なし ②和人とアイヌの関係……記述なし ③④不当な松前藩にシャクシャインの 反乱 ⑤先住民族なし ① ①縄文とのつながり、有り ②和人とアイヌの関係……対立的 ③④松前藩が大きな利益、アイヌが不 満でシャクシャインの戦い ・不利とか不公正とは書かれない。 ⑤先住民族なし 第 3 章第 2 節「東アジア世界との関わ ①アイヌとは何か……縄文とのつな がり、なし ②和人とアイヌの関係……対立的 ③松前藩とアイヌ ……不公正取引 ④シャクシャイン、だまし討ち ⑤先住民族 ①アイヌとは何か―縄文とのつながりは記 載なし。 ②和人とアイヌの関係……対立的 ③④松前藩との不利な交易に反発してシャ クシャインの乱 ⑤先住民族の言葉、あり ①②⑤ ①アイヌ登場 ②和人とアイヌの関係……和人の 圧迫 ③④アイヌに不利な取引に反発し てシャクシャインの乱 ⑤先住民 ①② ①アイヌ登場 ②和人とアイヌの関係……和人の 圧迫 ③アイヌに不利な取引 ④シャクシャイン、だまし討ち ⑤先住民、先住民族 ①アイヌとは何か……縄文とのつ ながり書く。しかし、先住民族と する ②和人とアイヌの関係……コシャ マインも出てこず、さして対立的 ではない。 ③松前藩とアイヌ……アイヌに不

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大コラム【日本の近代化とアイヌ】 ■アイヌの人たちの文化と生活 蝦夷地(北海道)では、日本本土が農耕社 会に変わってからも、狩猟採集の社会を維持 しました。蝦夷地の人々は、本土から移住し てきた人々の影響を受け、樺太からやってき た人々と交わり、アイヌといわれる人々にな っていきました。(175 頁) ① 第2 章 2 節「武家政治の展開」 単元26【日明貿易と朝鮮・琉球】 ■蝦夷地 蝦夷地(北海道)では、アイヌとよばれる 人々が、狩猟や漁業を行っていたが、14 世紀 ごろに、津軽(青森県)の十三湊を拠点にし た交易が始まり、鮭・昆布・毛皮などをもた らした。それらの産物は、日本海を通って畿 内へも運ばれるようになった。 (97 頁)。 ③④ 第3 章 2 節「江戸幕府の政治」 単元39【鎖国日本の 4 つの窓口】 ■朝鮮・琉球・蝦夷地 蝦夷地(北海道)の南部を支配した松前藩 は、漁労に従事するアイヌとの交易権を独占 し、海産物や熊・アザラシの毛皮などを入手 した。アイヌは千島列島や樺太、満州などと も交易をしており、彼らを通して蝦夷錦とよ ばれる中国産の織物も流入した。1669(寛文 9)年、アイヌは松前藩の商人の不正な交易 のやり方に反発し、シャクシャインを頭領と して蜂起したが松前藩の反撃により敗北し た。(128~129 頁)。 第 2 章 2 節「武家政治の動き」 単元 21「室町幕府と東アジア」 ■琉球と蝦夷地 また、蝦夷地(北海道)には、古くか らアイヌが暮らしていました。彼らは 狩猟や漁労、採集、さらには東北地方 や中国大陸、北方の島々との交易によ り、独自の社会と文化を築きました。 (85 頁) 側注③ 蝦夷地にもともと住んでいた人々の ことで、アイヌとは「人」を意味する。 ③④ 第3章3節「江戸幕府の政治」 単元 32【「鎖国」の時代に開かれてい た窓口】 ■蝦夷地との交易 蝦夷地では米の収穫ができず、松前 藩は毎年、米や酒、鉄製品などを仕入 れて取引場所にもっていき、アイヌの 人々のコンブやアワビ、サケ、毛皮な どと交換しました。また、アイヌの人々 は中国東北部とも交易をしていたた め、日本に蝦夷錦などの中国産の織物 がもたらされました。松前は外国に開 かれたわが国の北の窓の役割をしてい ました。 その後、交易場所を一方的に決めた り、不当な取り引きを行う松前藩に不 満をもったアイヌの人々は、シャクシ ャインを指導者として立ち上がり松前 藩と戦いましたが、鎮圧されました。 (120~121 頁)。 りと社会の変動」 単元3【東アジアとの交流】 ■アイヌ民族の交易 蝦夷地(北海道)では、アイヌ民族が 13 世紀から狩りや漁、交易を行って いました。14 世紀になると、津軽(青 森県) の十三湊を根拠地する豪族の 安藤氏がアイヌの人々との交易を行 うようになり、15 世紀には、蝦夷地 南部に本州の人々(和人)が進出して館 を築き進出しました。 交易をめぐり不満を持つようにな ったアイヌの人々は、15 世紀半ばに、 首長のコシャマインを中心に戦いを 起こしました。しかし和人はこの戦い に勝利し、支配をさらに強めました。 (81 頁)。 *アイヌ民族といえるか?民族では なく、部族社会ではないか。 *アイヌは農業にも従事したのでは ないか *和人が進出か。そうではなく、渡島 アイヌが和人になったのではないか。 ③④松前藩とアイヌ 第4章第2節「江戸幕府の成立と鎖国」 単元4【鎖国下の対外政策】 ■アイヌ民族との交易 蝦夷地(北海道)には、アイヌ民族が 住んでいました。アイヌの人々は、漁 業などを行うとともに、和人とだけで はなく、千島列島や樺太(サハリン)、 中国大陸の黒竜江流域の人々とも交 易していました。蝦夷地の南部に領地 をもつ松前藩は、幕府からアイヌの 人々との交易の独占を許され、米や食 器などの日用品を、さけやこんぶなど の海産物と交換して大きな利益を得 ました。こうした取り引きへの不満も あって、アイヌの人々は、17 世紀後 半に、首長のシャクシャインを中心に 松前藩との戦いを起こしました。 (119 頁)。 *前回は、「わずかな米や食器などの 日用品を、大量のさけやこんぶなどと 交換し大きな利益を得ました。」とあ った。 絵「蝦夷錦を着たアイヌの首長」 (119 頁) ①② 第3編 中世の日本 2節 室町幕府と下剋上 単元2「東アジアとの交流」 小見出し「中世の琉球やアイヌとの かかわり」 蝦夷地(北海道)では、古くから先 住民族が居住し、土器を用い、狩り や漁、オホーツク沿岸地域との交易 などをして生活していました。交易 が広がるにつれ、14 世紀ごろにはア イヌ民族としてのまとまりが生まれ ました。15 世紀になると、北海道の 南部に本州の人々(和人)が移り住 み、館とよばれる根拠地をつくって、 アイヌ民族と交易を行いました。和 人の進出はアイヌの人々のくらしを 圧迫し、コシャマインが率いるアイ ヌ軍が和人の館をおそうなど、争い がくり返されました。しかし、和人 に敗れ、和人の支配はさらに広がり ました。(81 頁) ③④ 第4編「近世の日本」 2節「江戸幕府の成立と東アジア」 単元3【隣接地域との関係】 ■蝦夷地とアイヌ 蝦夷地(北海道)の大部分には、漁 業や狩猟で生活するアイヌの人たち が住んでいました。16 世紀になる と、蝦夷地の南部にとりでをかまえ た松前氏が、強い力をもつようにな り、江戸時代には松前藩をつくって 蝦夷地を支配するようになりまし た。そうしたなかでも、アイヌの人 たちは、樺太をへて中国東北部とも 交易していました。松前藩は、わず かの米や鉄器をアイヌの人たちにわ たし、彼らが持ってくるサケ・こん ぶ・毛皮とひきかえました。このよ うなアイヌにとって不利な交易に対 し、1669 年アイヌの一首長であった シャクシャインは、全土のアイヌに よびかけて戦いに立ち上がり、松前 藩の交易船や金堀り場などをおそい ました(シャクシャインの戦い)。し かし、幕府の助けを得た松前藩によ って鎮圧されました。(121 頁) 第3章「中世の日本と世界」 単元9【北と南で開かれた交易――琉球王 国とアイヌ民族】 ■蝦夷地とアイヌ民族 蝦夷地(北海道)では、アイヌ民族が先 住民族として住み、古くから狩猟や漁、交 易をおこなってきました。アイヌの人たち は、蝦夷地を「アイヌ・モシリ(アイヌ「人 間」の静かなる土地)」とよび、しだいに地 域ごとにまとまりを強めました。なかには、 樺太(サハリン)に渡り、大陸に住む人々 と交易をしたり、元軍と戦ったりする人た ちも出てきました。また、明には朝貢をし て毛皮などを納めました。 14 世紀になると、本州から進出した和人 が、渡島半島の沿岸に館とよばれる根拠地 を幾つも築いて、アイヌの人たちと交易を 行いました。しかし、アイヌの人たちの生 活はしだいに圧迫されるようになり、和人 との争いがしばしば起こりました。15 世紀 の中ごろ、アイヌの人たちはコシャマイン を指導者として立ち上がり、和人の館に大 きな打撃を与えました また、津軽半島(青森県)の十三湊を中 心に活動した安藤(安東)氏が、アイヌ民 族との交易で勢力を伸ばしました。(75 頁) ③④ 第4章「近世の日本と世界」 3節「幕藩体制の確立と鎖国」 単元10【開かれた窓――江戸時代の国際関 係】 ■アイヌ民族と松前藩 蝦夷地(北海道)では、アイヌ民族が、 千島列島や樺太、中国にわたる広い地域で、 豊かな海産物や毛皮などの公益をしながら 暮らしていました。17世紀になると、渡 島半島の南部を領地とした松前藩が、アイ ヌの人たちとの交易を独占する権利を幕府 から認められました。アイヌの人たちは、 大量の鮭をわずかな米と交換させられるな ど、和人との不利な取り引きを強いられた ので、1669 年、シャクシャインを指導者に 団結して立ち上がりました。しかし松前藩 との戦いに敗れ、さらに厳しく支配される ようになりました。(111 頁) ・「シャクシャインの像」の写真(111 頁) 第 2 章第 2 節「武家社会の展開と 民衆」 単元2【東アジア世界とのかかわ り】 ■琉球王国と蝦夷が島 蝦夷が島とよばれていた北海道や 千島列島では、独自の文化をもつ アイヌが、漁業・狩猟・採集と交 易を中心に生活をおくつていた。 14世紀ころから渡島半島を中心に 本州人(和人)が移り住み、本州 との交易を進めた。和人が先住民 のアイヌを圧迫したため、15 世紀 なかばには、コシャマインが立っ てこれに反抗したが、和人によっ てしずめられた。(77 頁) ③④ 第 3 章 3 節「江戸幕府の成立と進 展」 単元 4【外国や周辺地域との関係】 ■アイヌとの関係 家康は、蝦夷地の松前氏にアイ ヌとの交易の権利を保証した。渡 島半島の松前の港には本州各地の 商人の船が集まって、米、酒、衣 類・漆器などと、アイヌがもちこ むにしん・昆布・鮭、毛皮などが 交換された。にしんは西日本の農 業の肥料として、昆布は西日本の 食料や長崎貿易での輸出品とし て、重要な品物になった。のちに は松前藩に上納金を納めた本州の 商人が、蝦夷地の各地で漁場を経 営することが多くなった。アイヌ は不利な取り引きに不満をもち、 ときには集団で立ち上がって、抵 抗することもあった」(115 頁)。 ・写真「シャクシャイン」説明 日高地方の有力アイヌで、松前 藩の政策や交易に不満をもち、 1669 年、武器をもって立ち上がっ たが、松前藩に暗殺された。 (115 頁)。 ・絵「年始のあいさつに来たアイ ヌの代表者」(115 頁)。 ①② 第3部第2章「武家政権の内と外」 単元4【琉球とアイヌの人々がつ なぐ交易】 ■アイヌの人々と交易 日本列島の北端では、狩りや漁 を中心とした生活が長く続いてい ましたが、13世紀までにはアイ ヌ文化が成立しました。アイヌの 人々は樺太に進出し、北方にある 沿海州地方と活発に交易・交流し ていました。また、津軽半島(青森 県)の十三湊も、アイヌの人々との 交易地となり、北の日本海交通の 中心でした。14世紀ごろには、 領主である安藤(安東)氏の下で繁 栄し、北方産の鮭や昆布・毛皮な どが日本海交通によって京都など へ送られていきました。 やがて和人(本州の人々)は、蝦夷 地(北海道)の南部へ進出し、館とよ ばれる根拠地をつくり、アイヌの 人々と交易しました。15世紀半 ば、和人の進出に圧迫されたアイ ヌの人々はコシャマインを指導者 として、和人と衝突を起こしまし た。この衝突によって、和人の居 住地は限定され、アイヌの人々と 和人の交易はしばらくの間、安定 したものとなりました。(71 頁)。 側注⑦「勝山舘の生活」 15 世紀後半につくられた山城で す。アイヌの人々の祭具なども発 見され、和人とアイヌの人々が共 に住んでいたことがわかっていま す。(71 頁) ・小コラム「地域史 北海道の独 自の文化」 ここで、オホーツク文化、擦文 文化、アイヌ文化の説明 ③④ 第4部3章「武士による支配の完 成」 単元 4【琉球王国とアイヌの人々 への支配】 ■蝦夷地への窓口 蝦夷地(北海道)の南西部を領地 とした松前藩は、……年貢米によ 利な交易強制 ④シャクシャイン、だまし討ち ⑤先住民、先住民族 *あまりにも詳細で膨大なアイヌ の記述は、日本の歴史を扱う上で、 著しくバランスを欠いている。 ① 第1 部第 1 章「文明のはじまりと 日本列島」 単元9【稲作がはじまる-弥生時 代-】 側注「北海道と南西諸島」 北海道では、漁・採集・狩りを 中心とした生活がつづいた(続縄 文文化の時代とよぶ)。(28 頁) ① 第1 部第 2 章「日本の古代国家」 単元8【インド洋へ、地中海へー8 世紀~10 世紀の世界ー】 ■激動の東アジアと北方のびと 日本列島の最北、現在の北海道で は、アイヌの祖先となる人びとが、 それまでの丸木舟より多くの荷物 を積める船をあやつって、北は、 カラフト(サハリン)やその対岸 の地域(沿海州)へ、南は、津軽 (青森県)へわたって交易しまし た。 (49 頁) ①⑤ 第2 部「中世」 第3 章「武士の世」 単元14【アジアの海をつなぐ王国 ー琉球王国ー】 小コラム「アイヌの人びとがにな う北方の貿易」 北海道の先住民は、アイヌの祖先 に当たる人びとである。13 世紀ご ろ、掘立式建物(チセ)に住み、 土器の代わりに漆器や鉄器を使う アイヌ文化が形成された。独自の 文様や、ユカラ(神と人との物語) が生み出され、伝えられた。アイ ヌの人びとは、(中略)14 世紀に は、本州から蝦夷地に渡った人た ちが、館を拠点にしてアイヌとの 交易をおこなった。和人(日本人) の鉄器・漆器・米・酒と、アイヌ の毛皮や魚が交換された。 (85

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