タイトル
“extension”をめぐるマクルーハン研究の検証 : リ
チャード・キャヴェルの『空間におけるマクルーハン
』について
著者
柴田, 崇; SHIBATA, Takashi
引用
年報新人文学(10): 86-119
発行日
2013-12-20
[論文]
柴田
崇
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はじめに
個 々 の 事 実 を 統 一 的 に 説 明 す る 体 系 を 理 論 と 呼 ぶ な ら ば、 M ・ マ ク ル ー ハ ン( Marshall McLuhan 1911 〜 1979 ) の 思 想 に は 少 な く と も 一 つ の 理 論 を 認 め ら れ る。 本 稿 で 取 り 上 げ る マ ク ル ー ハ ン の 理 論 は、 「エクステンション extension 」 という概念に基づく身体論によって構成されている。ここであえて 「 構 成 」 と 言 っ た の に は 訳 が あ る。 マ ク ル ー ハ ン の 思 想 に お け る エ ク ス テ ン シ ョ ン は 少 な く と も 三 つ の 意味に分節でき、三つの意味からなる身体論の組み合わせによって理論が構成されているからである。 単に複数の意味を重ねるのではなく、複数の意味の構成による立体的な構造が存在する点に、マクルーハンの理論の特徴がある。 以上の理論については、既に別稿( 『マクルーハンとメディア論』 )で詳しく論じた。同書では、理論 の論証に加え、これまでのマクルーハン研究において上記の意味での理論研究がいかに疎かになってき たかも書いた。確かに、エクステンションに注目した先行研究はある。しかし、それら大部分が、この 概念がマクルーハンの理論を理解する手がかりになることを見落としており、一つ、または二つの意味 を分節するだけで満足してしまっていた。同書の主題は、三つのエクステンションを分節した上で、そ れらが構成する理論構造を提示するところにあったが、この主題は、これまでに書き綴ってきた小論を 集成するのに十分な字数を著書という体裁で与えられたことによって達成できた。 とはいえ、 『マクルーハンとメディア論』 では、一冊の著書として主題の一貫性を優先せざるを得なか った。論証に直接関わる議論を球体の太陽に喩えるならば、太陽の周囲に見える暈(光軸)の議論、特 に 先 行 研 究 の 紹 介 と 検 証 を 割 愛 せ ざ る を 得 な か っ た 嫌 い が あ る。 本 稿 の 目 的 は、 「 エ ク ス テ ン シ ョ ン 」 に 注 目 し た 先 行 研 究 の う ち、 最 も 問 題 の 核 心 に 接 近 し た と 思 わ れ る カ ナ ダ の R ・ キ ャ ヴ ェ ル( Richar d Cavell ( 1) )の議論を紹介し、その成果と課題を検証するところにある。 論述の便宜上、本稿でも『マクルーハンとメディア論』で展開した議論を再録することになる。三つ の意味への分節を中心にした「エクステンション」の議論には、方法論上、その起源を特定する手続き が随伴する。正統な系譜を描く作業は、同時に、正統から外れる異端を描く作業にもなる。同書では、 正統を明確にすべく、異端に属する文献を可能な限り網羅したが、小論の体裁の本稿にはその余裕はな い。したがって、第一章では、本稿の議論に必要な範囲で、同書で展開した「エクステンション」に関
する知見を抜粋して示すに留める。次いで第二章でエクステンションに着目したキャヴェルの議論を紹 介し、第三章で、第一章の知見に基づいてキャヴェルの議論を検証する。 『 マ ク ル ー ハ ン と メ デ ィ ア 論 』 で マ ク ル ー ハ ン の 思 想 の 理 論 的 側 面 を 論 じ 尽 く し た 直 後 に 発 表 す る 本 稿は、まず、同書の補遺の性格を持つ。テクスト内の構造分析に特化しがちな理論研究は、テクストが 置かれた文脈を捨象する危険を常にともなう。この点を想起するならば、マクルーハンの理論研究も、 テクストの外にあるジャンルの観点、この場合はマクルーハン研究の観点から理論を捉えなおす作業を 経 て 初 め て 完 成 す る。 理 論 研 究 の 核 で あ る エ ク ス テ ン シ ョ ン に つ い て 最 良 の 先 行 研 究 を 紹 介 す る 本 稿 は、書き落とした事項のまとめという以上に、同書を完成させるピースの一つであると言える。他方、 小論の体裁であることを理由に、本稿ではエクステンションの異端の議論を割愛してある。以上の意味 で、本稿は同書と相補的な関係にある。現時点での十全なマクルーハン理解のために、同書を併せて読 まれることをお願いしたい。 1. マクルーハンの思想における「エクステンション」 第一章の主題は、マクルーハンの思想から分節できる三つのエクステンションを紹介するところにあ るが、エクステンションがマクルーハン研究の重要課題の一つであることを確認するために、この概念 の「起源」と先取権をめぐる論争を概観しておきたい。 マクルーハンは、 『グーテンベルクの銀河系』 ( The Gutenber g galaxy , 1962 ) の中で文化人類学者の E ・ T ・ホール( Edwar d T witchell Hall 1914 〜 2009 )の『沈黙のことば』 ( The Silent language, 1959 )から
エ ク ス テ ン シ ョ ン を 含 む 文 章 を 引 用 し て い る ( 2) 。 引 用 の 要 諦 を な す の が、 「 す べ て の 人 工 物 は、 か つ て 人 間 が 身 体、 ま た は 身 体 の 特 定 の 箇 所 を 使 っ て 行 っ て い た こ と の エ ク ス テ ン シ ョ ン extensions と 見 做 せる」 ( McLuhan, 1962, p.4 )という箇所である。ホールによれば、道具をつくる動物の人間は、身体の ある部分を 「エクステンド extend 」 し、本来身体が行うべき仕事を人工物に代行させてきた。例えば、 今日の発達した輸送網は、かつてわれわれが足と背で行っていたことのエクステンションである。この 意味で、ホールにとってすべての人工物は人間の身体のエクステンションなのである ( 3) 。 エクステンションの語の使用にあたってマクルーハンがホールを参照したのは間違いない。また、マ ク ル ー ハ ン の 記 述 か ら ホ ー ル と 同 じ 用 法 を 見 つ け 出 す こ と も で き る ( 4) 。 と は い え、 後 述 す る よ う に、 マ ク ル ー ハ ン が 使 う エ ク ス テ ン シ ョ ン に は 少 な く と も 三 つ の 意 味 が あ る。 ホ ー ル は、 『 沈 黙 の こ と ば 』 では、上記の意味でしかエクステンションを使っておらず、後年、この概念を複数の意味で使用し始め るが、その時期はマクルーハンが三つの意味を提示した後である。 論 争 が 起 き た 時 期 に 限 定 し て も、 マ ク ル ー ハ ン の 剽 窃 を 難 じ る の は 無 理 が あ る。 と い う の も、 ホ ー ル が エ ク ス テ ン シ ョ ン で 記 述 さ れ る 人 工 物 を 物 質 的 な も の に 限 定 し て い た の に 対 し、 マ ク ル ー ハ ン は、 当 初 か ら、 言 語 や 発 話 な ど の 非 物 質 的 な も の も エ ク ス テ ン シ ョ ン で 記 述 で き る 人 工 物 に 含 め て い た か ら で あ る。 マ ク ル ー ハ ン は、 『 グ ー テ ン ベ ル ク の 銀 河 系 』 の 段 階 で、 エ ク ス テ ン シ ョ ン を「 感 覚 の 外 化 outering 、 あ る い は、 こ と ば に 表 出 さ れ た も の uttering 」( McLuhan, 1962, p.5 ) と 言 い 換 え、 「 exter nalization 」( op. cit., p.265 ) と 同 義 で 使 用 す る 一 方、 『 沈 黙 の こ と ば 』 に は こ の 言 い 換 え は 登 場 し ない。論争の時点で二人は別の意味でこの語を使用しており、その後、ホールがマクルーハンと類似す
る意味でエクステンションの語を使い始たことで論争が複雑化したというのが事実なのである。 結局、両者の間で論争に決着は着かなかった。にもかかわらず、マクルーハン研究の分野では次第に 「 マ ク ル ー ハ ン の 無 断 使 用 」 が 定 説 に な っ て い っ た。 一 九 六 三 年 以 降 の マ ク ル ー ハ ン 研 究 を 集 め た『 マ クルーハン : 賛成? 反対?』 ( McLuhan : pr o & con, 1968 ) には編者による 「現在までの伝記」 ( “Cur rent biography”, 1967 ) ( 5) が収められているが、そこではホールの主張が全面的に支持されている ( 6) 。以後、 エ ク ス テ ン シ ョ ン は、 マ ク ル ー ハ ン の 無 断 使 用 癖 へ の 批 判 ( 7) を 中 心 に、 反 対 論 者( con ) た ち の 格 好 の攻撃目標になった。 マ ク ル ー ハ ン の 死 後、 彼 の 共 同 研 究 者 や 弟 子 た ち と ホ ー ル の 間 で こ の 論 争 の「 和 解 」 が 成 立 す る。 『 今 を 掴 め 』( T ake today , 1972 ) を マ ク ル ー ハ ン と 共 著 し た B ・ ネ ヴ ィ ッ ト( Bar rington Nevitt ( 8) ) は、 一 九 九 四 年 に『 マ ク ル ー ハ ン と は 何 者 だ っ た の か?』 ( Who was Marshall McLuhan? ) を 編 集 し た が、 同 書 は 当 事 者 で あ る ホ ー ル に 論 争 を 総 括 さ せ た。 「 マ ー シ ャ ル は 早 い 時 期 か ら 二 つ の プ ロ セ ス と 格 闘 し て い た。 彼 は そ れ ら を innering と outering と 呼 ん で い た。 悩 み の 種 は、 こ の メ タ フ ァ ー が 人 々 に 理 解 さ れ に く い こ と だ っ た。 私 の『 沈 黙 の こ と ば 』 を 読 ん だ 彼 は、 innering と outering の プ ロ セ ス を 表 現 で き て、 な お か つ 一 般 人 に も 理 解 し や す く す る ヒ ン ト を 得 た 」( Hall, 1994, p.149 )。 『 探 究 』 誌( Explorations ) の 創 刊 に 携 わ っ て 以 来、 マ ク ル ー ハ ン と 数 々 の 共 同 研 究 を 行 っ た E ・ カ ー ペ ン タ ー ( Edmund Carpenter 1922 〜 2011 )も、その後、ホールの総括を追認した ( 9) 。 マクルーハンは最期までエクステンションの起源にこだわり続けた。そのこだわりには相応の理由が あったはずである。以下、エクステンションの起源を探る作業を行い、こだわりの理由を解明する作業
に取り掛かる。まず手始めに、ホールのエクステンションからこの語の系譜を辿り、その意味を画定し てみよう。 1 ︱ 1. 拡張 ホールのエクステンションは、道具が本来人間の身体に備わった機能を「代行 substitute 」し、 「拡張 extend 」 す る こ と に 重 点 が 置 か れ て い た。 こ の 意 味 と 論 理 を 持 つ エ ク ス テ ン シ ョ ン を、 以 下「 拡 張 」 と 表記する。道具が人間の仕事を代行し、人間に備わる機能や能力を拡張するという議論は、実は、ホー ルに特有なものではなく、同時代に限定しても、コンピューターの未来を考えた論者たちの記述に多く 登場する。 一九四〇年代にマイクロ波とミサイル技術の開発に能力を発揮した S ・ラモ( Simon Ramo 1913 〜) は、一九五〇年代から六〇年代には、草創期にあったコンピューター技術の利用法についても数々の論 文を発表するなど、コンピューター開発を主導した一人だった。コンピューターという新技術の未来像 を構想する際にラモが使用したのも、拡張のエクステンションだった。 一 九 六 五 年 の「 知 的 道 具 と し て の コ ン ピ ュ ー タ ー」 に は、 「 機 械、 そ し て 情 報 処 理 に お け る 人 間 と 機 械のパートナーシップによる人間の知性の大規模な拡張 extension は、今世紀(二〇世紀)の主要な技 術的進歩になるだろう」 ( Ramo, 1969 (1965) , p.47 )という予測とともに、本、ノート、計算尺やレジス ターが人間の脳の拡張であるのと同じく、諸々の電子システムは人間の脳のより広範な拡張である、と い う 拡 張 の 道 具 観 が 見 ら れ る ( 10) 。 一 九 六 三 年 の「 シ ス テ ム 工 学 の 本 質 」 に は、 さ ら に 明 快 に 拡 張 の 原
理 が 記 述 さ れ て い る。 「 私 た ち は 長 い 間、 筋 肉 の 機 械 に よ る 拡 張 と 置 き 換 え を 経 験 し て き た。 そ し て 今 日、 機 械 の 方 が 人 間 よ り う ま く 遂 行 す る 機 能 を 取 捨 選 択 す る の が よ い 工 学 技 術 の 条 件 で あ る 」( Ramo, 1969 (1963) , p. 376 )。 こ れ ま で 人 間 は、 筋 肉 を 使 う 仕 事 を 機 械 に 置 き 換 え る( 代 行 さ せ る ) こ と で 筋 肉 の機能を拡張してきた。ラモはこの発想を敷衍し、コンピューターが発達しつつあった時代に、脳と感 覚を使う仕事を機械に置き換える方法を模索したのである。 代行による拡張のエクステンションは、既に一九五〇年代後半には特異なものではなかった。コン ピューターにより人間の知性を拡張するという発想の嚆矢は、 V ・ブッシュ( Vannevar Bush 1890 〜 1974 )の知性増幅機械 ( IA : Intelligence Amplifier )にある。ブッシュは、 「われらが思考するごとく」 ( “As we may think”, 1945 )の中で、記憶拡張装置( memex : memor y extender )の構想を提唱した。また、 ブッシュとラモに触発された D ・エンゲルバート( Douglas Engelber t 1925 〜 2013 )は、後に、マウス やウィンドウの発明者としてコンピューターの歴史に名を刻むことになる。一九六二年にエンゲルバー トが著した論文もまた「人間の知性を増強するための概念フレームワーク
A conceptual framework for
the augmentation of men’s intellect
」 と題されていた。ブッシュ、ラモ、エンゲルバートのいずれもが、 コンピューターとの分業によって人間の知性を「拡張 extend 」、 「増強 augment 」、 「増幅 amplify 」、 「向 上 enhance 」 する可能性を論じた。 拡張の系譜は、一九五〇年代からさらに遡ることができる。唯物論の立場から科学技術を論じたイギ リ ス の 物 理 学 者 J ・ D ・ バ ナ ー ル( John Desmond Ber nal 1901 〜 1971 ) は、 一 九 二 〇 年 代 に 代 行 と 拡 張をもとに技術を考察し、大工業時代の後に来る未来を予測したが、拡張から人工物を考える視点は、
二 〇 世 紀 初 頭 の 技 術 哲 学 に 広 く 見 ら れ る も の だ っ た。 例 え ば、 U ・ ヴ ェ ン ト( Urich W endt ( 11) ) は、 技 術 の 進 歩 を 精 神 化 の 進 展 と 考 え、 機 械 化 に つ い て 次 の よ う に 説 明 し て い る。 「 機 械 に よ っ て 人 間 の 労 働力はより機械的な形態を保持するのではなく、反対により精神化された形態を保持するのである。粗 野で単調な労働は絶えずますます機械の世界へ引込まれ、そして人間労働力は絶えず肉体的により楽で より精神化された活動へ解放される。単に機械のみがこの方向に働くのではなく、一切の技術的操作も またこの方向に働くのである。たとえば運輸機関の改善、 道路、 海、 運河の諸工事の改善、 河川の修理、 仕事部屋と労働部屋とをもった地上工事、広大な焚火および照明装置など、これらはすべて人間の機械 労働力を節約し、筋力を少なく、思惟力を多く要求する一層高尚な労働型式へこの労働力を解放するこ と を 目 指 し て い る の で あ る 」( ヴ ェ ン ト , 1906 三 枝 他 訳 , 1953, pp.32 -33 )。 「 技 術 は そ の も ろ も ろ の 発 明 によって人間労働力を絶えずより高い課題へと導き、絶えず筋肉力を少なく思惟力を多く要求し、平均 的 な 労 働 水 準 を 常 に 高 め る。 こ れ は 技 術 の 本 質 で あ る 」( op. cit. p.33 )。 ヴ ェ ン ト の 技 術 哲 学 も、 「 粗 野 で単調な労働」を機械に代行させ、代行によって生じた人間の労働力をより思惟的で精神的な活動に振 り分けることで労働力全体の量と質が拡張するという論理から成り立っている。 代行と拡張の論理は、 K ・マルクス ( Karl Mar x 1818 〜 1883 ) の 『資本論』 ( Das kapital, 1867 〜 1894 ) に も 登 場 す る ( 12) 。 大 工 業 時 代 の 機 械 装 置 を 分 析 し た マ ル ク ス は、 機 械 装 置 が、 労 働 対 象 に 働 き か け る 道具機、原動力を供給する動力機、そして両者をつなぐ配力機構で構成されていることに着目する。そ の上で、機械装置の成立を、まず、それまで人間によって操作されていた道具が機械装置の道具に転化 し、 次 い で、 原 動 力 を 供 給 す る 動 力 機 が 転 化 さ れ る 歴 史 で あ っ た と 指 摘 す る ( 13) 。 こ こ で も、 手 工 業 の
道具から大工業の機械への発展が、人間が身体とは別の機構に仕事を移行し、代行させ、それまでの機 能を拡張するプロセスとして捉えられている ( 14) 。 拡 張 の「 原 型 」 探 し は、 プ ラ ト ン( Plato/ Plato ˉn 427? 〜 347? B.C. ) の『 パ イ ド ロ ス 』( Phaedr us ) に ま で 遡 る。 『 パ イ ド ロ ス 』 で は、 エ ジ プ ト の 発 明 神 テ ウ ト が エ ジ プ ト 王 タ モ ス に、 エ ジ プ ト 人 の 知 恵 と 記 憶 力 を 高 め る も の と し て 文 字 を 披 露 す る。 こ れ に 対 し、 タ モ ス は、 「 書 い た も の を 信 頼 し て、 も の を 思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出すようになり、自分で自 分 の 力 に よ っ て 内 か ら 思 い 出 す こ と を し な い よ う に な る か ら 」、 ま た、 そ の 場 合 の「 知 恵 は、 知 恵 の 外 見であって、 真実の知恵ではない」 から、 文字には、 テウトの言うのとは逆の影響があると反論する ( 15) 。 ここでも、道具が人間の機能 (知恵と記憶力) を代行すること、その結果として、本来の機能が拡張 (あ るいは縮小)されることの二点が主題になっている。 拡張は、新しい技術を記述する際に使われるオーソドクスな概念で、最近では、サイバネティクス学 者 の K・ ウ ォ ー リ ッ ク( Kevin W ar wick 1954 〜) が『 私 は サ イ ボ ー グ 』( I, cybor g, 2002 ) で 展 開 し た サ イ ボ ー グ 論 で も 中 心 的 な 役 割 を 果 た し て い る ( 16) 。 こ の よ う に、 拡 張 は、 プ ラ ト ン の 思 想 に そ の 原 型 を 求められ、以来、各時代の技術水準を反映しながら使われてきた。最もオーソドクスで最もありふれた 概念について使用の後先を論じるとすれば、その論争は不毛といわざるを得ない。 論 争 の 開 始 時 期 に 用 法 に つ い て 言 え ば、 ホ ー ル の エ ク ス テ ン シ ョ ン は 完 全 に こ の 系 譜 に 属 す る。 他 方、 マ ク ル ー ハ ン の エ ク ス テ ン シ ョ ン は「 感 覚 の 外 化 outering 、 あ る い は、 こ と ば に 表 出 さ れ た も の uttering 」( McLuhan, 1962, p.5 ) や、 「 exter nalization 」( op. cit., p.265 ) に言い換えられており、一見して、
拡張に回収できない意味を含んでいる。 ホ ー ル に よ る 論 争 の 総 括 を も う 一 度 見 て み よ う。 「 マ ー シ ャ ル は 早 い 時 期 か ら 二 つ の プ ロ セ ス と 格 闘 し て い た。 彼 は そ れ ら を innering と outering と 呼 ん で い た。 悩 み の 種 は、 こ の メ タ フ ァ ー が 人 々 に 理 解されにくいことだった。私の 『沈黙のことば』 を読んだ彼は、 innering と outering のプロセスを表現 できて、なおかつ一般人にも理解しやすくするヒントを得た」 ( Hall, 1994, p.149 )。明らかに拡張と異な る意味が含まれるにもかかわらず、ホールの総括で論争が決着したのは、引用中の意味が拡張のヴァリ エーションの一つと見做されたからだと推測できる。結論を言うと、マクルーハンの発言からは拡張と は別系統のエクステンションを分節できる。以下、拡張と同じく系譜をたどる作業を通じて、この点を 明らかにしたい。 1︱2 . 外化 ホ ー ル も 指 摘 し た よ う に、 マ ク ル ー ハ ン の エ ク ス テ ン シ ョ ン は、 outering 、 お よ び exter nalization に 言 い 換 え 可 能 で あ り、 さ ら に そ れ ら は innering と 対 で 使 用 さ れ て い る。 暫 定 的 に、 innering を 内 化、 outering を外化と訳出しよう。 『 グ ー テ ン ベ ル ク の 銀 河 系 』 で は、 外 化 が exter nalization と 言 い 換 え ら れ て い る の と 即 応 し て、 内 化 が interiorization に 言 い 換 え ら れ て い る。 「『 文 字 』 の よ う な メ デ ィ ア の interiorization は、 わ れ わ れ の 感 覚 比 率 を 変 え、 精 神 活 動 を 変 容 さ せ る か?」 と 題 し た 節 ( 17) の 議 論 を 踏 ま え る と、 interiorization お よび内化とは、ある文化圏に新しい技術が導入され、人々がその技術を慣習的に使用するようになる状
態を指すのが分かる。内化の結果、感覚間の比率が変化し、精神活動の変容としてあらわれる。 で は、 外 化 は 一 体 何 を 指 す の か。 そ れ を 理 解 す る 手 が か り が、 次 の 引 用 に あ る。 「 簡 単 に 言 う と、 あ る 新 し い 技 術 に よ っ て 一 つ ま た は 複 数 の 感 覚 を わ れ わ れ の 外 に あ る 社 会 に extend す る と、 当 該 文 化 の 内 部 で、 人 々 の 感 覚 間 に 新 し い 比 率 が 形 成 さ れ る( The Gutenber g galaxy , p.41 )」 。 新 し い 技 術 は、 一 つ ま た は 複 数 の 感 覚 を 身 体 の 内 部 か ら 外 部 に extend し た も の を 指 す。 引 用 の 主 題 は、 人 工 物 が 社 会 に 産 出される様子の描写にある。内化と併せて解釈すると、社会に生み出された新しい人工物、すなわち身 体から外化した人工物が内化されることで、人々の感覚間に新しい比率が形成される、となる。 引 用 中 の extend は、 第 一 義 的 に「 内 な る も の を 外 に 出 す 」 =「 外 化 」 を 意 味 し て い る 点 で あ り、 内 化 と 対 に な っ て 人 工 物 が 人 々 に 影 響 を 及 ぼ す 因 果 を 描 写 し て い る 点 で あ る ( 18) 。 こ れ ら の 点 を 導 き の 糸 として拡張とは別の系譜がたどれれば、マクルーハンの意図、すなわち拡張に還元されないエクステン ションの存在が証明できるだろう。 技 術 哲 学 の 歴 史 を ひ も と く と、 マ ク ル ー ハ ン が 依 拠 し た と 思 し き 思 想 の 系 譜 に 容 易 に 出 会 え る。 そ れ は、 E ・ カ ッ プ( Er nst Kapp 1808 〜 1896 ) の 器 官 射 影 Or ganpr ojektion の ア イ デ ィ ア で あ る。 カ ッ プ の 器 官 射 影 説 は、 人 体 の 諸 器 官 と 外 界 に 存 在 す る 道 具 が 形 態、 機 構 の 点 で 類 似 性 を 持 っ て い る こ と を 出 発 点 に す る。 道 具 は 人 体 を 意 識 的 に 模 倣 し て つ く ら れ た の で は な く、 無 意 識 的 に 体 内 の 機 構 を 射 影( 「 内 な る も の を 外 へ 投 げ 出 す、 前 の 方 へ と 投 げ 出 す、 前 方 へ す え る、 外 へ う つ す( das Vor-oder Her vor wer fen, Her vorstellen, Hinausversetzen und eines Innerlichen ins Äusser e ) 」(三枝 , 1977, p. 229/ Kapp, 1877, pp. 29 -30 ) し て つ く ら れ て き た。 そ こ か ら カ ッ プ は、 道 具 を 検 証 す れ ば 体 の 内 部 機 構 を 明
らかにできるのではないかと考えた。 「『視覚器官がひとそろいの力学的仕掛でもって射影を実現し、そ してそれの解剖学的構造に戻してみた関係を知らせてくれるようになってきてはじめて、視覚器官の生 理学的謎が解かれることができたのである。人間は、無意識的に生理的な視覚器官にならって形づくっ た器械から、 こんどは意識的なやり方で眼の中にある光線屈折のもともとの発生点へ、 つまり 『水晶体』 へと、名まえを移したのである』 」(三枝 , 1977, p. 232/ Kapp, 1877, p. 79 )。 射影幾何学の起源が一九世紀前半のモンジュ ( Gaspar d Monge 1746 〜 1818 ) と J ・ V ・ ポンスレ ( Jean V ictor Poncelet 1788 〜 1867 )の画法幾何学から B ・パスカル( Blaise Pascal 1623 〜 1662 )、 G ・デザル ク( Girar d Desar gues 1591 〜 1661 ) を 経 て ル ネ ッ サ ン ス 期 の イ タ リ ア の 透 視 図 法、 遠 近 法 な ど の 実 用 幾何学に遡れることを考えれば、器官射影説に流れ込む系譜を外化の源流と見做すのには相応の説得力 がある。しかし、器官射影説をより深化させた構図を持ちながら、西洋思想のさらなる古層を流れる系 譜 が 存 在 す る。 そ れ が、 古 代 ギ リ シ ャ の ヒ ポ ク ラ テ ス( Hippocrates/ Hippokráte ˉs 460? 〜 377? B.C. ) を 水源とする医学思想の系譜である。 科学哲学者の F ・ダゴニェ( François Dagognet 1924 〜)は、 X 線 CT や MRI などを駆使する現代 の 医 療 技 術 に つ い て 次 の よ う に 述 べ て い る。 「 現 代 医 学 は、 身 体 を 外 化 し な が ら も、 内 部 か ら 読 解 す る た め の 多 く の 手 段 を も っ て い ま す。 そ れ は 何 も 身 体 を 文 字 通 り 外 化 す る こ と extérioriser で は あ り ま せ ん。 そ れ は あ く ま で、 内 部 を 表 す 外 な の で す 」( Dagognet, 1996, p.24/ ダ ゴ ニ ェ , 1996 金 森 訳 , 1998, p. 20 )。 こ こ で ダ ゴ ニ ェ が 前 提 に し て い る 外 化 の 発 想 は、 西 洋 医 学 の 祖 と さ れ る ヒ ポ ク ラ テ ス の 記 述 に も 見 出 せ る。 「 何 を 見 る の に も 視 覚 に よ る の が 誰 に と っ て も い ち ば ん 良 い の で あ る が、 膿 瘍 の 患 者 や 肝 臓
もしくは腎臓の患者、総じて体腔部に疾患のある患者については目で見るわけには行かない。それにも かかわらず、医術は援けになる他の諸手段を発見したのである。すなわち音声の清濁、呼吸の遅速、そ れぞれ与えられた出口から排出される各種の体液の臭い、色、濃淡などの徴候を目安にして、すでに犯 されている体の部位や、これから犯され得る体の部位を判断するのである。もしこれらの徴候のないば あいと、自然(身体)がおのずとそれらの徴候を示さないばあいには、人体に害をおよぼすことを避け な が ら 強 制 的 に 排 泄 さ せ る 方 法 を 発 見 し た 」( ヒ ポ ク ラ テ ス , 小 川 訳 , 1976, p.97 )。 医 術 は、 ま ず は、 身 体が自ずと外化した物質を手がかりに、体内の状態を判断する技術である。しかし、もし身体が内部を 知る手がかりとなる物質を自ずと外化しない場合には、人体に害のない範囲で、例えば、酸性の食物や 飲物を飲ませるなどの手立てで身体に働きかけて強制的に外化を促す技術も備えている。意識的に外化 を促して内部を知ろうとする医術の最先端に、文字通り身体の組織を外化させるのではなく、 X 線や高 周波磁界を使って非侵襲的に、映像という表象の外化を実現した現代の医療技術が位置しているのであ る。 ヒポクラテスとカップの発想は、外化したものが内部を知るための手がかりになるという点で共通し ている。但し、外部からの働きかけで外化を意識的に引き起こせるとする点はカップの器官射影説にな い。 前者が後者の論理を包摂する点を考えると、 ヒポクラテスを外化の起源と見做して問題ないだろう。 カ ッ プ が 器 官 射 影 説 を 構 想 し た 当 時、 医 学 思 想 の 系 譜 が た び た び 文 化 の 表 層 に 現 わ れ て い た こ と を 示 す 記 述 が 存 在 す る。 「 カ ッ プ は、 感 覚 の 外 的 な も の へ の 関 係 を 説 明 す る た め に、 な お ま た 一 般 に 私 た ち が 表 象 を つ く り 出 す こ と に 対 し て、 こ の 語 Pr ojektion が 生 理 学 者 た ち や 心 理 学 者 た ち か ら 用 い ら れ
て い る こ と を 指 摘 し て い る 」( 三 枝 , 1977, p.229. c.f. Kapp, 1877, pp.29 -30 )。 カ ッ プ 自 身 は 固 有 名 を あ げ て い な い が、 外 化 に 相 当 す る 発 想 は、 実 験 医 学 の 提 唱 者 と し て 名 声 を 博 し た C ・ ベ ル ナ ー ル( Claude Ber nar d 1813 〜 1878 ) の 他、 や や 時 代 は 下 る が S ・ フ ロ イ ト( Sigmund Fr eud 1856 〜 1939 ) の 思 想 に もみられる。フロイトは、内部の好ましくない感情を無意識的に抑圧して外部の対象に帰属させる防衛 機制に投影 pr ojection の語を用いた。ここでも投影は、無意識を含む内部過程を解明する手がかりとし て捉えられている ( 19) 。 外化のアイディアは、ヒポクラテス以来、時に伏在し、時に顕在しながらヨーロッパ思想界に連綿と 受け継がれてきた。マクルーハンが依拠したのは、この系譜のエクステンションなのである。その証拠 に、マクルーハンの著書における外化の概念は、 『グーテンベルクの銀河系』以後、 「内なるものを外に 出す」というベクトルを逆転し、身体内部を解明する意味で使用されるようになるのである ( 20) 。 マ ク ル ー ハ ン の 外 化 は、 こ の 概 念 に 特 有 の 論 理 を 正 確 に 継 承 し た と い う 意 味 で 正 統 に 位 置 づ け ら れ る。ホールは晩年、人工物の産出を描写するためにエクステンションを使用し始める。しかし、ホール の エ ク ス テ ン シ ョ ン に は 内 部 を 知 ろ う と す る 契 機 が 一 切 含 ま れ て い な い ( 21) 。 ホ ー ル は、 意 識 的 に そ れ を行ったかは疑わしいが、拡張に別の意味を上書きしつつエクスステンションの先取権を主張し続けた のである。 論争の決着については贅言を要しないだろう。一つ確認しておくならば、マクルーハンのエクステン ションは、マクルーハンのオリジナルではなく、外化の正統に位置づけられるアイディアである。マク ルーハンが主張しうるのは、外化の著作権ではなく、外化の系統の嗣子としての地位にすぎない。
さ て、 マ ク ル ー ハ ン の 思 想 を 特 徴 付 け る の は、 外 化 の ア イ デ ィ ア を 継 承 し た と い う 事 実 だ け で は な い。以下に説明するように、マクルーハンの著作からは、拡張と外化以外の、第三のエクステンション が分節できるのである。とはいえ、マクルーハンは、三つのエクステンションで人工物を重ね描いたわ けではない。エクステンションに焦点を絞ることで見えてくるマクルーハンの思想の特異性は、三つの エクステンションを立体的に組み合わせて理論を構築したところにあった。一九七〇年の著作で完成す る「探索の原理」がその理論である。 本稿で「探索の原理」の形成過程を追跡し、その全貌を提示する余裕はない。 「探索の原理」の掉尾を飾る第三のエクステンションを概観するに留めたい。 1︱3 . 延長 第三のエクステンションは、道具使用の記述で頻繁に使用されるアイディアである。道具を使いこな すとき、その道具が、あたかも身体の一部になったかのように感じる。このような現象は、盲人にとっ ての杖、剣の達人にとっての刀などの比較的単純な機構のものから、自動車や重機、航空機などの複雑 な機構を持つものにまで見られる。道具が身体の一部になり、道具の先端まで身体の感覚が伸びている ことから、このエクステンションを「延長」と訳出しておこう。 延 長 で 記 述 さ れ る 現 象 に つ い て は、 K ・ ヤ ス パ ー ス( Karl Jaspers 1883 〜 1969 ) ( 22) や M ・ メ ル ロ ー =ポンティ ( Maurice Merleau-Ponty 1908 〜 1961 ) ( 23) らのものが広く知られている。 「暗黙知」 や 「創発」 の概念で科学における発見過程の解明に挑んだ M ・ポラニー( Michael Polanyi 1891 〜 1976 )も延長で
道具使用の現象を説明している ( 24) 。 延長のエクステンションについても枚挙に暇がないが、その起源に至る道筋を明確に示してくれるも のはほとんど見当たらない。その理由は、延長を援用する者自身が、その起源に無関心であるからに他 ならない。次に見るギブソン( James Jer ome Gibson 1904 〜 1979 )の記述は、自覚的にこの概念を使用 した極めて稀な一例である。 ギ ブ ソ ン は、 一 九 六 六 年 ( 25) と 一 九 七 九 年 ( 26) の 著 作 で、 と も に ハ サ ミ を 例 に 挙 げ な が ら、 道 具 を 使 用する時、触覚が握りの部分から道具の先端に移動する「現象」を記述しているが、ここでは「現象」 を extension によって記述している後者の該当箇所を取り上げて、その意義を解釈する。 「 使 用 時 の 道 具 は 一 種 の 手 の 延 長 し た も の extension で あ り、 手 の 付 着 物、 ま た は 使 用 者 自 身 の 身 体 の一部になっている。したがって、道具はもはや環境の一部ではない。しかし、一旦使用を離れると、 道具は環境中の単なる遊離物になる。この時、確かに掴むことも運ぶこともできるが、道具は観察者の 外に存在するものでしかない。身体に何物かを付着させる能力は、生物と環境の境界が皮膚の表面で固 定されてはおらず、移動しうるということを物語る。より一般的に言えば、この事態は『主観』と『客 観 』 の 絶 対 的 二 元 論 が 間 違 っ て い る こ と を 示 唆 す る の で あ る 」( Gibson, 1986 (1979), p.41 )。 道 具 は、 使 用されていない時には環境の一部を構成する遊離物にすぎないが、使用される時には身体に付着して使 用者の身体の一部になる。この時、皮膚の表面で固定していると考えられてきた生物の境界は、使用者 の身体の一部となった道具の先端に移動する。 ギ ブ ソ ン が ユ ニ ー ク な の は、 「 現 象 」 を 記 述 す る 際 に 延 長 の 概 念 を 正 確 に 使 う こ と で、 こ の 系 譜 の
原 型 に 斬 り 込 ん だ と こ ろ に あ る。 extension が R・ デ カ ル ト( Rene Descar tes 1596 〜 1650 ) の「 延 長 extensio 」 に 由 来 す る こ と は 容 易 に 推 測 で き る が、 「 主 観 」 と「 客 観 」 の 絶 対 的 二 元 論 の 誤 り を 指 摘 す るギブソンの記述は、デカルトの存在論の正確な読解を前提に展開しているだけでなくデカルトの二元 論を覆す点で、特筆に価するのである。 デカルトは、神なる無限的実体と、精神および物体からなる有限的実体とを区別した後に、思惟的存 在 た る 精 神 と 延 長 的 存 在 た る 物 体 を 分 離 し た。 後 者、 つ ま り 心 ︱ 身 の 二 元 論 は、 「 思 惟 す る も の 」 で あ る精神が存在するためにいかなる空間的場所をも必要としないのに対して「延長するもの」である物体 は端的に空間的な存在であるという、存在の資格の二元性を意味する。これら二つの存在の属性が、そ れぞれ 「思惟 cogitatio 」 と 「延長 extensio 」 である。この段階では、精神ならざる身体は、当然、 「延長」 の属性を有するものに分類される。心身二元論で問題になったのが、単なる精神でも単なる身体でもな い身心を兼ね備えた 「人間 Homo 」 の存在であった。デカルトは、精神がその身体と結合する場所を 「松 果体」に定め、物心分離的な理論哲学的立場と併設的に第三の実在としての「人間」を認めるという実 践的立場を構えることでこの問題に対処した ( 27) 。このような構制の結果、 デカルトの存在論は、 「延長」 の属性を有するいわゆる物体と、物体の属性を備えつつその他の物体とは異なる身体という、二つの異 なる物体を並存させることになったのである。 デ カ ル ト の 存 在 論 は、 心 ︱ 身 だ け で な く、 こ う し た 身 ︱ 物 の 二 元 論 も 包 含 す る。 延 長 extensio の 属 性を備えたものが extensum であることから、便宜的にいわゆる物体を extensum e (envir onment) 、身 体を extensum b (body) に置き換えてみると、ギブソンの記述の意義が鮮明になる。 「『主観』 と 『客観』
の絶対的二元論」 では、生物 (人間) と環境の境界は、皮膚の表面で固定されていて決して移動しない。 こ の 場 合、 道 具 は、 使 用 さ れ る 時 に も、 環 境 を 構 成 す る 物 体、 つ ま り extensum e と 考 え ら れ な け れ ば ならない。これに対し、ギブソンは、使用に供されている時、道具を単なる物体と考えるべきでないと 主 張 し た。 環 境 の 側 の 延 長 し た も の extensum e と 考 え ら れ て き た 道 具 は、 使 用 時 に 身 体( 手 ) の 延 長 extension of the hand 、 す な わ ち 身 体 の 側 の 延 長 し た も の extensum b に な る( 前 置 詞 of は「 所 属 」 の 意 味 で 解 釈 す べ き で あ る )。 そ し て、 身 体 と 物 体 の 間 に あ っ た は ず の 境 界 が 道 具 と 物 体 の 間 に 移 動 す る ことを指摘する。ギブソンの言う「主観」と「客観」は、デカルトの思想から論理的に導かれる身︱物 の 二 元 論、 す な わ ち、 extensum b と extensum e の 二 元 論 を 指 す。 ギ ブ ソ ン の「 現 象 」 の 記 述 は、 道 具 の使用時にこの二元論がゆらぐことを指摘するものだと、ひとまず理解できる。 ギ ブ ソ ン は、 道 具 の 考 察 を 次 の よ う に 締 め 括 っ た。 「 も っ と 語 る べ き こ と が あ っ た か も し れ な い が、 ともあれ、今後、道具を考えるための導入にはなってくれるだろう。ここでは議論を比較的小さくて持 ち運びのできる道具に限定してしまったが、 技術的存在である人間は、 もっと大きな切断、 掘削、 粉砕、 圧搾のための道具と機械や、土木機械、建設機械、そしてもちろん移動のための機械もつくってきた」 ( Gibson, 1986 (1979) , p.41 )。 ギ ブ ソ ン は、 ハ サ ミ を 例 に 展 開 し た 論 理 が よ り 大 き な 道 具 や 複 雑 な 人 工 物 にも適用できることを示唆して考察を終えた。 延長の議論はあまたあり、また拡張の議論の中にも道具の着脱を問題にするものが散見される。しか し、ギブソンのように「境界」という空間的な観点を一貫させなければ、デカルトに遡る系譜に正確に 定位することも、デカルト流の身︱物の二元論がゆらぐ事態として道具の使用を記述することもできな
い ( 28) 。 一見、機能の拡張が明白な人工物もあれば、身体内部の機構を写し取ったようにしか見えない人工物 もある。達人の域に及ばずとも、日常的に、筆記具や眼鏡は身体の一部として使用されている。そもそ も人工物の多くは、その多寡の違いはあるにせよ、三つのエクステンションの意味を併せ持っている。 この事実によって、三つの意味の分節が妨げられてきたと考えられる ( 29) 。 一人の思想の中に三つの意味が分節されて登場するという事態は、極めて稀と言わざるを得ない。マ クルーハン理解は、この極めて稀な事態に気づくことから始まるのである。 次章で紹介するキャヴェルの仕事は、三つの意味の分節に到達した点で、他のマクルーハン研究と一 線を画すものになっている。まずは、キャヴェルの分析を概観しよう。