「哲学・思想の基礎」配付資料 5 5.正義を考える その5:コミュニタリアニズムの立場
アラスデア・マッキンタイアの『美徳なき時代』(After Virtue: A Study in Moral Theory)によって、 「コミュニタリアニズム」〔共同体主義〕(communitarianism)の立場を考える。コミュニタリアニズ ムは個人を共同体という相互関係の中にある個人と考え、特に近代的個人のあり方を、徳や伝統と の関係から問い直す。コミュニタリアニズムの立場はアリストテレスの倫理学に遡る。われわれは 道徳が崩壊した時代、「美徳なき時代」に生きている。マッキンタイアによれば、われわれの手元に あるのは「道徳の幻影」(simulacra of morality)であり、われわれは道徳をめぐる大きな部分を失って しまった(マッキンタイア『美徳なき時代』2-3 頁参照; p.2)。 5.1 物語的人間と近代的個人―伝統的社会から近代社会へ― マッキンタイアは、近代の自律的な個人のあり方に批判的な眼を向ける。そして個人の人生 (human life)の統一性に注目する。それぞれの人生を一つの全体としてみるならば、われわれは近代 においてさまざまな障害に出くわす。近代は、各々の人生を、それ自身の規模と行動様式をもつ多 様な断片へと分割する。かくして仕事は余暇から、私的生活は公的生活から、協同的なものは個人的 なものから区別される。また人間の行為は原子論的に考えられ、複雑な行為と相互行為は単純な要 素から分析される(マッキンタイア『美徳なき時代』250 頁参照; Cf. p.204)。近代の人間はマッキンタイアに よれば、断片化され、人生の統一性というものは考えられなくなる。われわれは、本来「いかにして 人生は個々の行為と挿話の連続以上の何でありうるか」を問わねばならない。しかし、「人生の統一 性(unity of a human life)というものは、個人とその人〔彼あるいは彼女〕が演じる役割との間で、ま た個々の人生でのさまざまな役割の演出の間で鋭い分離がなされると、われわれには見えなくなっ てしまう。その結果、人生は単なる関連のない挿話の連続としてしか現れなくなる(マッキンタイア『美 徳なき時代』250 頁参照; Cf. p.204)。 そこでマッキンタイアは、「物語」(narrative)のもつ統一性のうちにその統一性が存在するような 自己の概念を提出する。この物語は、<誕生-生-死>を<物語の始まり-中間-終わり>として 連結させる(マッキンタイア『美徳なき時代』251-252 頁; p.205)。マッキンタイアは、特殊的には会話、一 般的には人間の相互行為の両者を、「演じられた物語」(enacted narrative)として提示する(マッキンタ イア『美徳なき時代』259 頁; p.211)。マッキンタイアによれば、人間はその行為と実践においてと同様 に、本質的に「物語を語る動物」(story-telling animal)である(マッキンタイア『美徳なき時代』264 頁; p.216)。 こうして、私とは、私の誕生から死に至るまでを貫く一つの物語を生き抜く過程で、他者によって そうであると正当に見なされているところの者である。つまり、私は、私自身のもので他の誰ので もない、それ自身の特殊な意味をもつ、一つの歴史の主体(subject of a history)である(マッキンタイア 『美徳なき時代』266 頁; p.217)。人格の同一性(personal identity)が語られるとすれば、人格の同一性とは、 物語の統一性が要求する登場人物(character)の統一性によって前提されている同一性にほかならな い。そうした統一性がなければ、物語が語られうるような主体は存在しないことになる(マッキンタ イア『美徳なき時代』267 頁参照; Cf.p.218)。 多くの前近代の伝統的社会においては、個人が自分自身を同定し、また他者によって同定される のは、さまざまな「社会集団の一員」であることを通してであった。私は兄弟であり、従兄弟であ り、孫であり、またこの家族、あの村、この部族の一員であるということである。それらは「私な るもの」(my substance)の部分であり、少なくとも部分的にそしてときには完全に「私の責務と私の 義務」を明確にするものである。諸個人は「連結した一揃いの社会的諸関係の内部における特定の 空間」を受け継ぐ(マッキンタイア『美徳なき時代』42 頁; p.33-34)。
客観的で非人称的な[個人に言及しない](impersonal)評価の第一の対象として、このように人生全 体を考えること、つまり所与の個人の特定の行為や事業に対する判断内容を供給するようなタイプ の評価の対象として人生全体を考えることは、近代に向かっての進歩の過程のある時点で一般的な 有効性をもたなくなった。その事態は、歴史的には大部分損失としてではなく、自画自賛すべき利 益として、すなわち、次のような「個人の出現」(emergence of the individual)として祝われた。その 個人とは、一方においては近代世界がその誕生時に拒否した窮屈な階級制度による社会的束縛から 自由にされ、他方においては近代が目的論の迷信であると受け取ってきたものから自由にされた個 人である(マッキンタイア『美徳なき時代』42 頁; p.34)。 5.2 道徳の正当化という啓蒙主義の企て―カントの道徳論に対する評価 (1)カントの道徳論の批判 マッキンタイアは、カントに典型的に見られる近代的人間観を批判する。カントの道徳哲学にお いて中核となっているのは、一見単純そうに見える二つのテーゼである。一つは、「もし道徳の規則 が理性的ならば、ちょうど算術の規則と同じ仕方で、それらはすべての理性的存在者にとって同一 でなければならない。」であり、他の一つは「もし道徳の規則がすべての理性的存在者に対して拘束 力を有する(binding)ならば、そうした存在者がそれらの規則を実践する能力をたまたまもっている かどうかは、重要ではないはずだ。―重要なことは、実践しようとする彼らの意志なのだ」 (マッキ ンタイア『美徳なき時代』54 頁; p.43-44)。 カントはすべての人が実際に幸福を望んでいることを疑っていないし、また考えられうる最高善 は、個人の道徳的完成がそれにふさわしい幸福によって報われるという善であることも疑っていな い。しかし彼は、にもかかわらず、われわれの幸福の概念は、頼りになる道徳的指針を与えるには、 余りにも曖昧で変わりやすい、と信じている。その上、われわれの幸福を確保するために作られた いかなる教え(precept)も、ただ条件つきで成立する規則の表現である。ところがカントによれば、 道徳法則のすべての真正な表現は無条件的な定言的性格をもっている。そうした表現はわれわれに 仮言的に命令するのではなく、端的に命令する。カントによれば、実践理性はそれ自身にとって外 的な基準を何も用いない。それは、経験から引き出されたいかなる内容にも訴えない。理性が普遍 的、定言的および内的に首尾一貫した諸原則を定めるのは、理性の本質に属することである (マッキ ンタイア『美徳なき時代』55-56 頁; p.44-45)。 カント自身は、「つねに真実を語れ」、「つねに約束を守れ」、「困っている人には親切にせよ」、「自 殺をするな」のような格率は彼のテストに合格し、他方で「あなたに好都合なときだけ約束を守れ」 のような格率は合格しないことを証明しようとしている(マッキンタイア『美徳なき時代』56-57 頁; p.45)。 カントは、道徳は普遍的に成り立たねばならないと考える。だから、個人の特殊な利害に関わるよ うな行為の主観的原理たる格率は道徳法則〔定言命法として表現される〕とはならない。格率が道 徳法則となるかどうかは、それが普遍的に成り立つかどうかでテストされる(普遍化可能性のテス ト)。しかしながら結局、カントが道徳の格率と見なすものを、彼が理性と見なすものの上に基礎づ ける試みは失敗している、とマッキンタイアは述べる(マッキンタイア『美徳なき時代』58 頁; p.46-47)。 すなわちマッキンタイアは、カントのように道徳を合理的に立証する企ては決定的に失敗したと考 えるのである。なぜ彼はそのように評価するのか。それはマッキンタイアが、カント等の近代の啓 蒙主義者の人間理解には目的論が欠けていると考えるからである。人間は道徳的人間になるのであ り、道徳的人間になるプロセスを欠いて、命令によって人間を強制的に道徳的人間にさせることを マッキンタイアは批判する。
(2)アリストテレスの倫理学の再評価 マッキンタイアによれば、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』の中で分析したものの目的論 的な枠組みのうちには、「偶然そうであるところの人間」と「自らの不可欠の本性を実現したならば 可能となるところの人間」の根本的な対照がある。倫理学とは、前者の状態から後者の状態への移 行の仕方を人びとに理解させるべき学である。さまざまな徳を命じ、それと対をなす悪徳を禁じる 教えは、可能態から現実態への移行の仕方を、つまりわれわれの本性を実現し、真の目的に到達す るその仕方を教示してくれる。それらの教えを無視するならば、われわれは挫折し不完全となるの である。すなわち、理性的幸福という善を成就し損なう。われわれの欲求や情動は、そうした教え を用いることによって、そして倫理学の学習が指示してくれる行為習慣を養うことによって、秩序 づけられ、教育されるべきなのだ。そして、理性が、われわれの真の目的は何か、およびいかにし てそこへ到達するかを教示してくれる。こうして、われわれは三要素からなる枠組みを目の当たり にしている。この枠組みにおいては、「偶然そうであるところの人間本性(未教化の状態における人 間本性)は、初めは倫理の教えと一致・調和しておらず、実践的な理性と経験からの教示によって、 「自らのテロスを実現したならば可能となるところの人間本性」へと形を変える必要がある。こう して、ここに「未教化の人間本性」、「理性的な倫理学の教え」そして「自らのテロスを実現したな らば可能となるところの人間本性」という三つの概念が区別される(マッキンタイア『美徳なき時代』65-66 頁; p.52-53)。 近代の啓蒙主義においては、「自らのテロスを実現したならば可能となるところの人間」といった 観念は除去されてしまった。理論と実践両面での規律(discipline)としての倫理の全要点は、人間に 現在の状態から自己の真の目的への移行を可能にさせることにあるのだから、本質的な人間本性と いった観念を一切除去し、それとともにテロスという観念を放棄してしまえば、そこに残されるの は、その関係がまったく不明瞭になった残る二つの要素から構成されたある道徳枠組みとなる。一 方の要素は、ある種の道徳内容、つまり目的論的文脈を奪い取られた一揃いの命令であり、他方の 要素は「あるがままの未教化の人間本性」についてのある種の見解である(マッキンタイア『美徳なき 時代』68 頁; p.54)。 5.3 古代世界での諸徳 そこでマッキンタイアは、近代の道徳の行き詰まりを打開するために、もう一度古代の道徳を見 直そうとする。その際、特に古代の徳についての考えの復権が計られる。 (1) 英雄社会における諸徳 「アレテー」(aretê)という言葉は、後に「徳」(virtue)と翻訳されるようになるが、ホメロスの叙 事詩においては、あらゆる種類の「卓越性」(excellence)を表わすために用いられている。古代ギリ シアにおいては、人間の生(human life)というものが一つの確定した形、ある種の物語(story)の形を もっていた。たとえば勇気を一つの徳として理解することは、たんに勇気がいかなる仕方で性格の 中に示されるのかのみならず、それが「ある種の演じられた物語」の中でいかなる位置をもちうる のかをも理解することである(マッキンタイア『美徳なき時代』153 頁; p.124, 125)。 マッキンタイアによれば、われわれが英雄社会から学ばねばならないことは二つある。第一は、 あらゆる道徳はつねにある程度、「社会的な地域性と特殊性」(the socially local and particular)に結び つけられているので、近代の道徳がもつ、あらゆる特殊性から解放された「普遍性への熱望」は幻 想だということである。第二は、ある伝統の要素としてでなければ、諸徳を所有する方法はないと いうことである。その伝統の中でわれわれは、英雄社会が最初の位置を占めている一連の先行諸社 会から、諸徳とそれらについての理解とを受け継ぐのである(マッキンタイア『美徳なき時代』155 頁;
p.126-127)。 (2) アテナイでの諸徳 アテナイ人に共通の想定は、諸徳が位置づけられるのはその「都市国家の社会的文脈」の内部であ る、ということである。「善き人であること」は、「善き市民であること」と少なくとも密接に結び つけられている(マッキンタイア『美徳なき時代』167 頁; p.135)。 ところが、ソフィストの結論では、それぞれの特定の都市において、諸徳とは、その都市でそう 見なされているものである。正義それ自体というようなものは何もなく、ただ「アテナイで理解さ れている正義」と「テーバイで理解されている正義」と「スパルタで理解されている正義」がある だけなのである。この相対主義は、「徳とは個人的成功に導く特質である」という見解と組み合わさ れると、その支持者たちをいくつもの関連した諸困難に巻き込むのである(マッキンタイア『美徳なき 時代』171 頁; p.139)。 (3)徳と理性、諸徳の調和 プラトンにおいて理性は、魂の各々の部分がその特有の機能を果たすことを命じるとされる。各々 の特有の機能の行使が個々の徳になる。そこで肉体的欲求は、理性の課す抑制を受け入れねばなら ない。こうして発揮される徳が思慮節制〔ソープロシュネー〕である。挑みかかる危険に応じる意 気軒昂な徳性は、それが理性が命じる通りに応答するとき、勇気〔アンドレイア〕として発揮され る。理性それ自身は、数学的・弁証法的探求によって訓練された結果、正義それ自体が何であるか、 美それ自体が何であるか、そして他のすべての形相の上位にあって、善の形相〔イデア〕とは何で あるのか、を識別する能力をもつようになる。そうすると、ソピアすなわち知恵、というそれ自身 の特有の徳を発揮するのである。これら三つの諸徳は、四番目のディカイオシュネーという徳がや はり発揮されて、はじめて発揮される。というのは、ディカイオシュネー〔正義〕は、近代の正義 概念のいずれとも大いに異なっている。このディカイオシュネーは、魂の各々の部分にその特定の 機能を割り当てるという徳である(マッキンタイア『美徳なき時代』173-174 頁; p.141)。 プラトンにとって、諸徳は互いに両立するばかりでなく、各々の徳が現存するためにはすべての 諸徳の現存が要求される。諸徳の一性[統一](unity of the virtues)に関するこの強力なテーゼは、アリ ストテレスとアクィナスの両者によって繰り返し唱えられている。これら三人すべてが共有してい る前提条件は、「ある宇宙秩序が存在し、それが、人間の生という全体的に調和のとれた枠組みの中 に各々の徳を位置づける」である。しかし、それとは鋭い対照を示す近代的な伝統があり、それが 奉じるところでは、人間にとっての諸善はきわめて多様で異質なものなので、それらの追求は単一 の道徳秩序ではどんな中でも調停されえず、したがって、そうした調停を試みるか、他のすべての 組み合わせに対する一組の諸善の覇権を強めるかするいかなる社会秩序も、人間の条件を締めつけ る装置、それもまず確実に全体主義的な装置に転化する運命にある、ということだ(マッキンタイア『美 徳なき時代』175-176 頁参照; Cf. p.142)。 5.4 アリストテレスの徳論 マッキンタイアは、アリストテレスを単に個人の理論家として見なすのではなく、一つの長い伝 統の代表者と見なす(マッキンタイア『美徳なき時代』179 頁; p.146)。あらゆる活動、あらゆる探求、あら ゆる実践は、何らかの善(good)を目指している (マッキンタイア『美徳なき時代』181 頁; p.148)。アリス トテレスは、地域的・特殊的でありながら、ポリスの諸特徴に根ざし、同時に宇宙的・普遍的でも ある善そのものを説明するという仕事を、自分自身に課している(マッキンタイア『美徳なき時代』182 頁; p.148)。
人間にとって善そのものとは何か。アリストテレスは善に、「エウダイモニア」という名を与える が、それは至福(blessedness)、幸福(happiness)、繁栄(prosperity)等々と翻訳される。それは「善くあ ること」(being well)、そして「善くあることにおいて善く行為すること」(doing well in being well) という状態であり、人間が神との関係において自分自身「十分に恵まれている」(well favored)とい う状態である。諸徳とはまさに、それを所有することで個人がエウダイモニアを達成できるように なる特質であり、それを欠くことでそのテロスに向かう個人の運動が挫折してしまう特質である(マ ッキンタイア『美徳なき時代』182 頁; p.148)。 諸徳は、特定の仕方で行為するだけではなく、「特定の仕方で感じる性向」でもある。有徳に行為 するとは、カントが後に考えることになったような、傾向性に反して行為することではない。それ は「諸徳の陶冶によって形成された傾向性から行為すること」である。「道徳教育」は、一つの「感 情教育」である(マッキンタイア『美徳なき時代』183 頁; p.149)。 諸徳のなかで中心的な徳は「プロネーシス」(phronêsis)〔思慮〕である。その言葉が特徴づける 人は、自分にふさわしいことを知っている人が、誇りをもって自分にふさわしいことを要求する人 である。それはもっと一般的に、個々の場合にどう判断力を行使するかを心得ている人を意味する ことになる (マッキンタイア『美徳なき時代』189 頁; p.154)。 5.5 諸徳、人間にとっての善き生 諸徳は、諸実践を維持してそれらに内的な善を達成することを可能にするだけでなく、善そのも のを求める重要な探求の中でわれわれを支えてくれる素質(disposition)として理解されるべきであ る(マッキンタイア『美徳なき時代』269 頁; p.219)。 人間にとっての善き生(good life)とは、人間にとっての善き生を求めて過ごされる生であり、それ を求めるのに必要な諸徳とは、人間にとっての善き生とは何かをよりいっそう、また別の面からわ れわれに理解させてくれるような徳である(マッキンタイア『美徳なき時代』269 頁参照; Cf.p.219)。しかし ながら、われわれが善き生を生きることは、置かれた状況によって異なる。私は誰かの息子か娘で あり、別の誰かの従兄弟か叔父である。私はこのあるいはあの都市の市民であり、特定のギルド、 職業団体の一員である。私はこの一族、あの部族、この民族に属している。したがって、私にとって 善いことは、これらの役割を生きている者にとっての善であるはずである。そういう者として私は、 私の家族、私の都市、私の部族、私の民族の過去から、責務と遺産、正当な期待と責務をいろいろ相 続している(マッキンタイア『美徳なき時代』270 頁; p.220)。 マッキンタイアは、近代社会において忘れられたアリストテレス的な徳、善の概念を復権させよ うとする。近代社会は、諸個人が自分にとって有益なもの、好ましいものを確保しようと務める闘 技場(arena)となってしまった。そこで、今や求められるのは、社会を、(個人的利益の総計に先立ち、 それとは独立の)人間にとっての善についての共有されたヴィジョンの中で、そしてそこから結果す る共有された諸徳の実践の中で、統一された共同体として見る考え方である(マッキンタイア『美徳な き時代』289 頁参照; Cf. p.236)。