平成27年度 青森市平和大使
「青少年ピースフォーラム」報告書
青森市平和大使
浪打中学校3年 佐々木瑛樹
佃中学校3年 鈴木 香奈
南中学校3年 髙橋 健元
古川中学校3年 田中 詩乃
この報告書は、私たち青森市平和大使が8月8日・9日、長崎市で開催された「青少年ピー スフォーラム」に参加して学んだこと・考えたこと・感じたことをまとめたものです。1
青少年ピースフォーラムに向けて
◆青森市平和大使任命式(6月25日) 鹿内市長から、青森市初の平和大使に任命されました。 ◆事前研修会 事前研修会は、計2回開催され、青少年ピースフォーラムで主体的に交流活動できるよう、交流 に必要な平和に関する基礎知識について学習しました。 ◇第1回事前研修会(6月25日) 任命式に引き続き、同日開催された「第1回青森市平和の日等検討委員会」の話合いを見学し、青 森市の平和への取組、「平和都市宣言」「非核・平和のまち宣言」などについて学びました。2 ◇第2回事前研修会(7月13日) 青森空襲で焼け残った建物や慰霊碑などを見学し、青森空襲の悲惨さ、平和の尊さを学びまし た。 青森空襲資料常設展示室(中央市民センター内) 諏訪神社 平和観音像(リンクステーションホール青森内) 空襲・戦災都市青森の碑(市役所前) 旧青森公会堂(現しあわせプラザ) 青函連絡船戦災の碑
3 ◆青森市戦没者慰霊祭式典への参加(7月28日) 青森空襲があった7月28日、平和大使として、初めて慰霊祭式典に参加しました。式典では折 り鶴を献上し、先の大戦で亡くなられた方々に対して、追悼の 誠まことを捧げ、平和を祈念しました。 ◆壮行会(7月28日) 慰霊祭式典の後、「青少年ピースフォーラム」参加に向けて、市長室で壮行会を行っていただき ました。その際、鹿内市長・月永教育長から、平和を祈念し市民の皆さんが折った千羽鶴を託さ れ、平和大使としてしっかりと平和について学んでこようとの決意を新たにしました。
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青少年ピースフォーラムへの参加
「青少年ピースフォーラム」とは、全国の自治体が派遣する青少年と長崎市の青少年とともに被 爆の実相や平和の尊さを学習し、交流を深めることで平和意識の醸成を図ることを目的に、長崎 市で開催されている行事です。<1日目(8月8日)>
・開会行事‐被爆体験講話など‐
・被爆建造物等のフィールドワーク
(原爆落下中心地、浦上
う ら か み天主堂
て ん し ゅ ど う)
・参加者交流会
<2日目(8月9日)>
・被爆70周年長崎原爆犠牲者
慰霊平和祈念式典への参加
・参加型平和学習(意見交換会)
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<1日目(8月8日)>
◆開会行事‐被爆体験講話など‐(平和会館ホール) 青少年ピースフォーラム1日目は開会行事から始まりました。 長崎市の田上た う え 富久 とみひさ 市長の挨拶では「戦争は絶対にあってはならないことであり、この会を通し て、平和について自分自身で考えて欲しい」という力強い言葉が述べられました。 <被爆体験講話> 次に被爆体験講話として、今年81歳になられる中村 一かず俊としさんのお話を聞きました。 中村さんは小学校6年生の時、爆心地から 1.5㎞離れた友人宅で被爆したそうです。中 村さんは原爆が投下された昭和20年8月9日 のことを、昨日のことのように感じるとおっし ゃっていました。また、これまでは原爆のこと を一日でも早く忘れたいと思いながら生きてき たそうです。しかし、年とともに体にもいろい ろな症状が出てきて、手術や入退院を繰り返す うちに、多くの人たちに戦争や原爆の悲惨さを 話し、この出来事を語り継いでいってもらいた いと思うようになったそうです。 担当:田中 詩乃6 原爆が投下されたその日、中村さんは友人宅にいたため、大きなケガをすることは免れたそうで すが、上空で原爆が爆発した瞬間、大地が揺れ動くようなごう音と目がくらむような閃光せんこうにより、 一度は意識を失いました。気がつくと家屋の下敷きになっていて、体が動くのを確認した後、一緒 に遊んでいた友人の声を手がかりに、暗闇の中を手探りで脱出したそうです。友人宅の奥の部屋に は生まれたばかりの赤ちゃんがいたそうですが、茅葺か や ぶき屋根に火が燃え移り、残念ながら助けるこ とができませんでした。その後、爆風で巻き上げられた塵ちりや放射線で汚染された真っ黒な空の中を 家族を捜しながら歩きまわったそうです。辺りは大火傷を負った人や、衣服が破れてほとんど裸同 然の格好をした大人たちがうめき声を上げながら歩き、中には道ばたに一度倒れたきり、そのまま 亡くなる人たちも多かったそうです。また、水を求めて川に入りそのまま力尽きてしまった人や、 真っ黒で油の浮いた水を飲んで死んでしまった人たちの死体の山を目にしたそうです。 中村さんは幸いなことに、造船所に勤めてい たお父さんと再会することができました。2人 でお母さんと弟たち4人を探したそうですが、 弟たちは全員、丸く円になって遊んでいた様子 のまま、亡くなっていたそうです。その4人の 遺体をお父さんと火葬し、遺骨を拾ったバケツ に入れて埋葬したそうです。その後、お母さん を3日間探したそうですが、どうしても見つけ られず、最後は諦めたそうです。 中村さんは最後に、原爆は生命や財産のみならず、人の心にも大きな傷を与えるものだ、被爆者 は一日、一時間でも早く核兵器の廃絶を願っているとおっしゃっていました。 私は今回、中村さんのお話を聞いてとても辛く悲しい体験をされたことに胸が痛みました。それ と同時に、自分たちが毎日、平和に生活できていることの素晴らしさも感じました。ただ、今の日 本が平和であるということに満足してはいけないと思います。 中村さんは質疑応答の中で、「平和な社会を作るには人と人、国と国とが信頼し合うことが大事 である。核兵器の根絶は難しいとは思うが、まずは皆さんの学級や学校の中でもいじめのない信頼 できる人間関係を作ること。それが平和につながるのではないか」とおっしゃっていました。 私はこの言葉にとても感動しました。この言葉を胸に、これからの学校生活の中で、誰もが信頼 し合える学校づくりに取り組みたいと思います。そして、社会に出た時にも今回の中村さんのお話 を忘れずに、平和の尊さについて語り継いでいきたいと思います。
7 ◆被爆建造物等のフィールドワーク 私たち青森市平和大使は、原爆落下中心地、浦上天主堂を巡る「浦上天主堂コース」に参加しま した。フィールドワークは、千葉県市川市の平和大使と一緒に、大学生や高校生の「ピースボラン ティア」の説明を受けながら見学し、被爆の実相を学習しました。 <フィールドワークで見学した場所> 原爆落下中心地碑 浦上天主堂の遺壁 被爆当時の地層 下しもの川 被爆した像・ 鐘 楼しょうろうドーム
8 ◇原爆落下中心地碑 連日暑い日が続く長崎。昭和20年8月9日、午前 11時2分に原子爆弾が投下されました。死者は約7 万4千人、負傷者は約7万5千人でした。当時の長崎 市の人口はおよそ24万人なので、実に半数以上の方 が被害に遭ったことになります。 投下された原子爆弾は多くの工場や民家が密集して いた松山町まつやままち、この碑がある上空約 500mで爆発しまし た。一瞬の閃光が全てを覆い隠し、原子爆弾から放た れた 3,000 度以上の熱線と放射線、そして強大な爆風 は街のあらゆるものを一瞬にして破壊し、焼き尽くし ました。特に熱線による被害が大きく、爆心地からお よそ4㎞離れたところにいた人も火傷を負うほどでし た。 爆心地の近くでは、凄まじいエネルギー により、燃えるものすべてが火を噴きまし た。ガラスは溶け、瓦や道端にある石まで もが沸騰して泡立ったと言われています。 重い火傷を負うと皮膚は焼けただれてズル ズルとはがれ落ち、その下の肉や骨までも が露出しました。一瞬にして亡くなった方 は、身体が炭化し、内臓の水分さえ蒸発し たと言われています。 私は、原爆投下によってもたらされた、とても凄惨せいさんな事実を知りました。そして、核の怖さ、戦 争の悲惨さについて考えました。私は世界の核兵器を無くしてほしいと改めて強く思いました。 私たちにできることは何か、これからしっかりと考えていきたいと思います。 担当:髙橋 健元
9 ◇浦上天主堂の遺壁 浦上天主堂の遺壁は、被爆当時から残っている建造物の一つです。昭和33年に 500m離れたと ころから移されたものですが、今でも原爆の凄まじさを知ることができます。 この遺壁には、原爆の爆風によって上下にずれているところがあります。私は最初見た時は、な ぜずれているのか全く分かりませんでした。しかし、原爆の爆風によって、長崎の家屋は壊滅的な 被害を被ったという説明を聞いてその理由を知り、すごく衝撃を受けました。私はこんなに大きく て丈夫そうな建物が風の力だけで動いてしまうなんて、とても信じられませんでした。そして、原 爆にはとてつもない破壊力があるということに、恐ろしさを感じました。 長崎の原爆被害を知る上で、浦上天主堂の遺壁はとても重要な建造物だと思います。 これからも多くの人に知ってもらい、戦争の悲惨さ、核の怖さについて考えてほしいと思いまし た。 担当:鈴木 香奈
10 ◇被爆当時の地層 被爆当時の地層には、私たちが普段見るような地層とは違う特徴がありました。それは、家の瓦 や茶碗、ガラスや針金など、普段家で使用したりするものが大量に埋まっているということです。 この地層を見るだけで、当時の爆風の凄さをすぐに感じ取ることができました。 当時、爆心地付近の松山町には、約 300 世帯 1,860 人ほどの一般市民が生活していたそうです。 しかし、町内にいた人たちは防空壕に避難していた9歳の少女を除き、全員が即死してしまったそ うです。私はこの事実を聞き、原爆が罪もない住民の命を一気に奪い、街を壊すとても恐ろしいも のだというのを改めて感じました。この地層は戦後の復興のために埋め立てられたそうですが、平 成8年に発見され、そのまま保存されているということでした。 私たちは「原爆」という言葉を何気なく使っていますが、実際に被爆した建物などを見ると、当 時の傷跡が今でも生々しく残っていて、戦争や原爆について簡単に口にして良いものか考えさせら れました。 原爆を体験していない私たちでも、世代を超えて、また、世界を越えてたくさんの人にこの光景 を見てもらうことで平和について考えてほしいと思いました。また、私自身も平和の尊さ、戦争の 悲惨さについて考えていきたいと思います。戦後70年が経ちましたが、決して風化させてはいけ ない事実を長崎で発見することができました。 担当:田中 詩乃
11 ◇下の川 この下の川は松山町という場所にあります。す ぐ近くには原爆落下中心地があります。原爆は上 空約 500mの場所で爆発し、爆風が真下に吹いた ので、倒れずに残った木もあったそうです。被爆 し、火傷を負ったたくさんの人がこの川に来て、 そのほとんどの人がそのままこの川で亡くなった ため、当時は死体で埋め尽くされていたそうで す。 あまりの熱さに喉が渇き、必死の思いで川に行き死んでしまった方たちのことを思うと、とても 心が痛みます。どれだけ痛かっただろう、どれだけ苦しかっただろうと考えると、本当に辛い気持 ちになります。亡くなられた方たちのためにも、これからも平和の大切さを伝えていくことが大事 だと思います。 下の川の斜面には、ピカソの「ゲルニカ」が描か れています。これは「キッズゲルニカ」という壁画 です。平和への思いを込めて小中学校の生徒たち約 400 人が描いたそうです。長崎の過去・現在・未来 をそれぞれ三つに分けて描かれていました。この絵 からも戦争を繰り返さないでほしいという思いが伝 わってきました。そして、このような活動を地道に 続けていくことが、未来の平和につながっていくと 強く感じました。 担当:佐々木瑛樹
12 ◇被爆した像・鐘楼ドーム 浦上天主堂の入口に、聖マリア像や聖ヨハネ像などいくつかの像がありました。その像は指が折 れていたり、頭や腕が取れていたり、黒くすすけている部分があります。それは全て原爆の影響で す。どれだけ強い風が吹いても壊れることのない像がこのような状況になっているということ、こ の様子そのものが原爆の破壊力や悲惨さを物語っていると思います。 浦上天主堂の隣には鐘楼ドームがあります。 これは、爆風によって崩れ落ちたものだそうで す。重量約50トンもある鐘楼が崩れ落ちるな んて想像することもできません。中にある鐘は 奇跡的にがれきの中から無傷で見つかり、建て 替えられた教会の鐘楼で、今もなお鐘の音を響 かせているそうです。私はこの様子を見て、原 爆の爆風がもたらす被害はとても大きいものだ と分かりました。 浦上天主堂は平和について一人一人が考えさせられる場所であり、このような場所をもっとたく さんの人に広めることが大切だと思いました。 担当:田中 詩乃
13 ◆参加者交流会①(長崎新聞文化ホール) 長崎新聞文化ホールで、午後の行動を共にし た仲間と夕食を食べました。私はもともと人見 知りをしないほうなので、すぐに打ち解けるこ とができました。私は13班でしたが、沖縄、 千葉、広島、福島などから来た人や長崎のピー スレンジャーがテーブルにいました。テーブル では大学生のボランティアと話をしたり、生徒 会の子と文化祭のことを話題に話をしました。 小学5年生の子とは一緒にご飯を取りに行った り、学校のことを聞いてみると、嬉しそうに答 えてくれました。他の班の子とも話をし、郡山 から来た子と仲良くなりました。 普段、違う都道府県の人と話す機会があまりなく、こういうふうに交流することができて、本当 に良かったと思います。交流会は一時間半ほどの出来事でしたが、とても有意義な時間を過ごすこ とができました。これからもいろいろな県の人たちと話をする機会があれば良いと思いました。 ◆参加者交流会②(長崎新聞文化ホール) ピースフォーラムの参加者が集まった交流会、最初は知らない人ばかりで少し緊張していまし た。しかしいざ始まってみると、いろいろな人と自然に話をすることができました。 人見知りの私ですが、初めての人とも笑っ て過ごせて、とても楽しかったです。また、 全国各地から人が集まっているので、それぞ れの地域についてたくさん学ぶことができま した。特に盛り上がった話題は「方言」で す。私は京都、広島、沖縄の人とお話しまし たが、言葉の違いは面白かったし、それぞれ の地域の良さも感じることができました。楽 しい時間になったし、友達もできてとても良 かったと思います。 平和と結び付けて考えてみても、こうしてたくさんの人と仲良くすることはすごく大切なことだ と思うので、こうした経験ができたのは自分にとって良いことだったと思います。 交流会で素敵な思い出ができてとても良かったと思いました。 担当:髙橋 健元 担当:鈴木 香奈
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<2日目(8月9日)>
◆平和祈念式典(平和公園) 青少年ピースフォーラム2日目は平和祈念式典への参加から始まりました。 <式次第> ・被爆者合唱 ・長崎平和宣言 ・開式 ・平和への誓い ・原爆死没者名奉安 ・児童合唱 ・式辞 ・来賓挨拶 ・献水 ・合唱 千羽鶴 ・献花 ・閉式 ・黙とう <平和祈念像> この像は昭和30年8月8日、長崎県出身 の彫刻家 北村 西望せいぼう 氏によって制作され、 高さは9.7mあります。 天を指す右手は「原爆の恐さ」を、水平に 伸ばした左手は「平和」を示しています。ま た、軽く閉じた目は「戦争犠牲者の冥福を祈 る」という意味が込められています。 ◇託された千羽鶴の献上 平和祈念式典に参加する前に、平和公園に設置 されている鶴かけに千羽鶴を献上しました。 この千羽鶴は、本報告書3ページで紹介しまし た、壮行会の時、鹿内市長・月永教育長から託さ れた千羽鶴です。市民の皆さんの平和への想いが 込められた千羽鶴を、私たち平和大使も平和への 祈りを込めて、長崎に届けて来ました。15 ◆平和祈念式典①(平和公園) 平和祈念式典は被爆者の方たちの合唱から始まりま した。平和への思いが感じられる美しい歌でした。 70年前の8月9日、原爆が投下された午前11時 2分に黙とうを行いました。今年は被爆70周年とい うことで会場の平和公園にはたくさんの人が出席して いました。私も原爆で亡くなった方へ安らかに眠って ほしいという願いを込めて黙とうしました。「長崎平和 宣言」では田上市長が世界中の国々や日本の若い世代 に向け、世界平和に対して全力を尽くしていくことを 誓いました。また、その次の「平和への誓い」では被 爆者である谷口さんが当時の様子を語り、全世界にあ の日起きたことを伝え続けていくことを誓いました。 谷口さんの話は一言一言に重みがあって8月9日の様 子が目に浮かぶようでした。亡くなった方は本当に苦 しい思いをしたのだと思うと心がとても痛みました。 なぜ罪もない人たちが血を流し、命 を落とさなければならなかったのか、 今でも考えるとすごく辛い気持ちにな ります。そして、被爆された方のため にも、一日でも早く核兵器がなくなる ことを願い、平和の尊さを伝え続ける ことが大事だと思いました。 今回、被爆70周年の平和祈念式典に参加できて本当に良かったと思います。 私は多くの犠牲を払いながら今の生活があることに感謝すると同時に、これらの平和を守るため に、今回経験したことをこれからの自分の人生に生かしていきたいと思いました。 担当:佐々木瑛樹
16 ◆平和祈念式典②(平和公園) 8月9日、被爆者の方の合唱から平和祈念式典が始まりました。戦後70年となる今年、原爆の 被害による死没者は 168,767 人になりました。さらに、今なお障がいに苦しみ続けている被爆者の 方も多くいらっしゃいます。私は一発の原子爆弾が尊い命を奪い、人々の人生を狂わせたことをと ても恐ろしく思いました。 原爆が投下された午前11時2分、参加者全員で黙とうを行いました。原爆で亡くなられた方を 思い、静かに平和を願いました。たったの一分間でしたが、いろいろなことを考えました。 その後「長崎平和宣言」や「平和への誓い」を聞きました。被爆された方の話から戦争や核兵器 がどれだけ悲惨なものかを感じることができました。また、みんなが平和を願っていることを再確 認することができました。 最後に、この式典に参加して私が感じたことが二つあります。 一つは、しっかりと過去の事実を理解することが大事だと思いました。そしてもう一つは、少し ずつでも自分の思いを行動に移すことが大切だということです。それは、自分たち若い世代が平和 のために行動を起こさなければならないということです。これまでは戦争について学んでいただけ でしたが、もっと周りの人に伝えたり、若い世代が平和のイベントに参加する必要があると思いま した。 この平和祈念式典に参加できて、本当に良い経験になりました。 担当:鈴木 香奈
17 ◆参加型平和学習①(長崎ブリックホール) 青少年ピースフォーラム二日目、長崎ブリ ックホールで平和についての話し合いが行わ れました。各自治体の代表がそれぞれの班に 分かれ、平和に対する取組や目的、これから できることについてピースボランティアの方 が司会をしながら進めていきました。 私たち四人もそれぞれの班に分かれ、話し 合い活動に参加しました。 まず、各自治体で行っている平和への取組について同じ班員の話を聞いてみると、いろいろな地 域で空襲があったことが分かりました。そして、亡くなった方たちの慰霊祭を行ったり、被爆者を 招き講話を聞いたりしていることも分かりました。各自治体でそのような活動を行っていることは 素晴らしいと思いました。 次に、そのような活動をしている目的について話し合いました。戦争を経験した人が少なくなっ ていく中で、私たちの世代が次の世代に受け継がなければならないからという結論に至りました。 私も同じ国に住んでいた人が被害に遭われたというのは残念で悲しいことなので、もうこれ以上戦 争を起こしてほしくないという気持ちになりました。 これから私たちができることは、一人でも多くの人に平和の尊さを伝えることだと思います。学 校でも多くの人に伝えたいと思います。 ピースフォーラムに参加し、同世代の人たちと話ができたことは、とても有意義なものでした。 今まで知らなかったことを知り、今まで考えもしなかったことを考えることができました。この経 験を無駄にしないようにしたいと思います。 担当:髙橋 健元
18 ◆参加型平和学習②(長崎ブリックホール) 私は今まで「平和」について深く考えたことはあまりありませんでした。でも、意見交換会では たくさんの人の意見を聞き、自分なりに平和について考えることができました。 私が聞いた他の地域の取組を三つ紹介したいと思います。 一つ目は広島市では8月6日、長崎市では8月9日に学校に行って平和学習を行っているそうで す。二つ目は沖縄県では毎年、広島・長崎の原爆投下の日に黙とうをしているそうです。三つ目は 千葉県では総合的な学習の時間に広島や長崎について学習するそうです。 このような活動は、平和な世界を作るためにとても意義のある活動だと思いました。また、戦争 を経験していない私たちは、これからも平和を守るための活動を広めていくべきだと思いました。 そのことによって自分なりに平和について考え、さらに意識が高まるのではないかと思います。 もしこのような活動が無くなってしまったら、また人 類は戦争をし、核兵器が使われるかもしれません。平和 であることを当たり前と思わずに、私たち若い世代が平 和を守ることを理解し、広めていくことが大事だと思い ます。 意見交換会では他の地域の人たちの意見をたくさん聞 くことができ、平和についてさらに考えを深めることが できました。これからは私たちがたくさんの人たちに発 信し、一人一人が平和に対して真剣に考えてほしいと思 います。 担当:田中 詩乃
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原爆資料館を訪れて
原爆資料館では、原爆の怖さや戦争の悲惨さを 目で見ることができました。 まず私たちが目にしたのは、被爆した柱時計で した。時計はボロボロに壊れ、時計の針は原爆が 投下された午前11時2分を指していました。 次になぜ長崎に原爆が投下されたのか、その理 由を知ることができました。 最初の候補地には東京、横浜、大阪など日本 の中心地が選ばれ、次に京都、広島、横浜、小 倉の四カ所に絞られたそうです。 最終的には広島、小倉に投下することが決定 しましたが、8月9日当日、小倉上空が煙や雲 におおわれ視界が悪く、急遽長崎に投下されま した。このような過程を経て、長崎に悲劇が起 きてしまったのです。 一瞬にして約7万4千人もの命を奪った原爆。その中 の核の部分はわずかにソフトボールほどの大きさで、全 体の大きさも卵型の直径2mほどの大きさでした。この 原爆が長崎市の上空約 500mで爆発し、中心地では太陽 の黒点と同じ 3,000~4,000 度ほどの熱を放出しました。 人体はほとんどが水分なので、すぐに蒸発し、即死し た死体を見るとほとんどが炭化してボロボロになったと 言われています。大きなケガをしなかった人も放射線の 被害により、爆心地から半径1㎞以内にいた人はほとん どが死亡したそうです。また、長崎医科大学附属病院も 全壊・全焼し、手当てが遅れたのも亡くなる方が増えた 原因だということです。 担当:佐々木瑛樹20 最後に私が見た一枚の写真はとても衝撃的でした。 その写真はアメリカ海兵隊所属の写真家、ジョー・ オダネル氏が終戦後の長崎市で撮影したもので、一人 の少年が死んだ弟を背負い、火葬場の順番を待ってい るという写真でした。兄は幼いながらも真っ正面をじ っと見据えて、気を付けをしながら順番を待っていま す。表情は険しく、口を真一文字に結んで写っていま す。弟が死んで悲しいのは当然だと思いますが、決し て顔に出さない所に兄としての強さ、そして戦争の緊 張感を感じました。この写真が公表されてから、写真 の少年は自分であると名乗った人はいないそうです。 少年を知っていると名乗る人もいないそうです。今で は撮影後まもなく亡くなってしまったのではないかと 言われているそうです。 私はその一枚の写真を見て、戦争の悲惨さを感じま した。何の罪もない子どもたちが傷つけられ、どんな に小さな子でさえも苦しみを味わうことは絶対に許さ れないことだと思いました。 私は原爆資料館を訪問し、当時の戦争を振り返ることで、とても悔しい気持ちになりました。 それと同時に、二度と戦争を繰り返してはいけないと思いました。 戦後70年経ち、被爆された方を含め、当時の戦争を知る人たちが高齢化してきています。 近い将来、戦争を知る人が誰もいなくなります。 その時、日本を含め全世界の人たちが何を考え、どんな行動をするのか。少なくとも私は戦争反 対の立場に立って、何か言える大人になりたいと思いました。 イメージ
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青少年ピースフォーラムを振り返って
- 被爆建造物等のフィールドワーク -
フィールドワークを通じ、被爆の実相を学び、核の怖さ、戦争の悲惨さ、平和の尊さについて 改めて考えることができました。
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- 参加型平和学習 -
他の地域から参加した同世代の人たちとの意見交換会は、「平和とは何か」を深く考えること ができた、とても貴重な時間でした。
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