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~} スン( ) の ジーキル 博 士 とハイド 氏 の 奇 妙 な 事 件 ~

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『ジーキル博士とハイド氏』を読む

一作品の限界一

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Akiba

Robert Louis Stevenson'sStrange CllSe of Dr Jekyll and Mr Hyde still survives for 120 years as a masterpiece of novella. It is basically a fable, deai1ng with man's consciousness of the good-evil dua1ity.

The story is developed interestingly enough iIke a mystery, and the theme is shown easily and e町ectivelyas a fable. But the characters around Dr Jekyll and Mr Hyde are what E. M. Forster calls‘t1at' characters and are almost‘types.' Any of them will not, and cannot, see Hyde as his other self. It seems in this point that this novella is not satisfactory to present-day readers. ( 1 ) 時空を越えて生き延びる作品とは、いったいどういうものか。そこに 共通の特徴が見出されるとすれば、それは何か。ややもすると傑作、秀作 という言葉で片付けられる、この問い掛けに、少なくとも主題の話題性 や普遍性を、まず第一に挙げることができる。それにまた、技法の斬新さ、 大胆かつ繊細さなどを付け加えてもよい。あるいは、ものごと追求の並 はずれた精織さなどもそうである。さらに物語展開面で、娯楽としての

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文教大γ:λ・Jltと 文 化 第 18~}

格段の面白さ、興味深さも忘れてはならないだろう。ちょうど今から120 年前に執筆され、発表された中編小説、ロパート・ルイス・スティーヴン

スン(1 850--1894) の『ジーキル博士とハイド氏の奇妙な事件~ (Strange Case ofDr Jeky/land Mr Hyde, 1886) (原作には、定冠詞Theが付かなし、) もまた、確かに生き延びてきた作品である。現在では、

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wジーキル 博士とハイド氏』は、ほとんどすべての言語に翻訳されている(1 ) Jと、 ハンター・デイヴ、ィーズは誇張して言-う。 1886年1月に出版されると、『ジーキル博士とハイド氏』は人々に大き な衝撃を与える。人間の変身が市井の話題の中心となり、作品は当時流 行の怪奇小説の流れに乗る。しかも主題として、人間の本質的な善と悪、 特に時代風潮として抑圧され、隠されてきた意識の追求が、それには端 的に含まれていた。作品の一般的評判はすこぶる良く、出版直後の半年 間で、これはイギリスだけで4万冊の売行きを示す。そしてアメリカで も、それは最初の10年間で、 25万冊以上も売れるのである。作家スティ ーヴンスンは、弱冠21歳にして糊口の道を執筆一本に絞ってきたが、お よそ15年の苦闘の末に、この作品の成功で初めて、経済的に少し落着く ことができる。 作品の人気は、やがて出版界から、演劇や映画の世界へ波及する。そ こでは、営業面が確実に重視され、原作の忠実な脚色は意外と少ない。 人間の変身という奇抜な着想はそのままだが、原作にない2人の女性 が登場し、ハイド氏の悪には「暴力jに加え、「肉欲Jを包含させるので ある。出版の翌年、つまり1887年5月に、それはアメリカのシカゴで初 めて上演された。注目の的は、やはり舞台上での変身場面で、緑色の照 明のもと、メイクなしで行われる役者の迫真の演技が、気絶者を出すほ ど大評判を呼んだというは}。その劇団が翌年の秋ロンドンで公演し、そ れがイギリス最初の上演となる。

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-2-『ジーキルIWI:とハイド氏n.を読む 一作品の限界一 草創期の映画界では、『ジーキル博士とハイド氏』の映画化はそれから 10年ほど遅れるが、その製作は傑作、駄作を交え、ほとんど毎年のよう に続いてくる。最初の映画化は 1908年のアメリカで、これは最初から最 後まで舞台劇をそのまま撮影したものだ、った。その後、 1909年デンマー ク、 1910年イギリス、 1912年再びアメリカと続き、翌年の 1913年には初 のカラー映画化となる。実際、この種のホラー映画は興行的に確実にヒ ットするようで、今日までの映画化の数は、題名を変えたものも含める と70を下らない。 1920年名優ジョン・パリモアの「狂える悪魔Jは今や 古典的名作となり、 1932年の映画では、当時30代前半のフレデリック・ マーチが第5回アカデミー賞主演男優賞を獲得する。また、 1941年版で は、人気俳優スペンサー・トレイシーを主役に迎え、将来を嘱望されて いた新進女優イングリッド・パーグマンとラナ・ターナを起用するとい う、映画会社の熱の入れようである。ちなみに、近作「メアリー・ライ リーJ(1995年)は、ジーキル陣士の屋敷に履われる小間使いの物語に設 定している。彼女は原作に登場しない人物だが、ジーキル博士やハイド 氏と直接接触し、本筋に参加してゆく。そして、事件の展開に傑きなが ら、二人を見つめる彼女の視線が、従来の映画とは一味違う特徴を作り 上げる。 この小説の評判は、宗教界や医学の分野にも、少なからぬ影響を及ぼ す。出版後まもなく、「セント・ポール寺院のある説教者は、引用する聖 書の代わりに『ジーキル博士とハイド氏』を使った(:1)Jし、多くの説教 者がその様々な主題を作品から借用する。たとえ変身でも、生命の創造 は神を冒涜すると非難されたが、物語には性俸の二重性、つまり善と悪、 慈愛と暴力、崇向.さと獣性など興味深い論題が、あるいは薬品濫用、特 に麻薬依存の瞥錦、さらに神の領域を犯す人間への天罰などと、問題提 起の材料が容易に、数多く見出される。善かれ悪しかれ、道徳律の厳格

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文教大学言語と文化第 18~} な時代の反逆者、ジーキル博士の偽善、ハイド氏の残虐行為と結末は、 今日的話題を求める説教者たちにとって、まさに援軍到来の感があった に違いないのである。そしてまた医学の分野では、病的酪町の性格一変 に関する fジーキノレ・ハイド症候群Jという名称が、確固たる病名とし て立派に残った。 ただし、現在では総じて、いわば時代を重ねた通俗化のあまり、原作 の真のすがたがその弊害に曇らされる傾向も、見られない訳ではない。 この小論は、そのような中編小説『ジーキル博士とハイド氏の奇妙な事 件』の主題と方法を捉え、同時にその限界を探るものである。

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『ジーキル博士とハイド氏』は、基本的に寓話である。つまり、その程 度の多少、適否によって、作品の価値が左右される。ここでは、薬剤使 用の変身という、奇抜な着想が大いに注目され、主題の提示が平易、か っ興味深く行われた。その制作過程で、スティーヴンスンは妻ファニー の助言を聞き入れ、ものごとの寓意化を進める。ジーキル博士の善意、 善行を高め、一方ハイド氏の悪練な暴力はそのままにして、博士の悪の 存在をより衝撃的なものとする。また、ハイド氏の悪の実行にふさわし く、主要舞台をエジンパラから、霧深いロンドンのいかがわしい街区へ 移した。ただ、興味深いことだが、この作品は寓話であると同時に、怪 奇小説、科学小説、オカル卜小説、推理小説、写実小説、心理小説など の側面を併せ持っている。特に、それは当時人気の怪奇小説、プロット 展開に関わる推理小説、主人公の心理葛藤をえぐる心理小説といった色 彩が濃厚で、作品の知名度、そして通俗化も、善かれ悪しかれ、これら の相乗効果によるところが大きい。 寓話とは、いったいどういうものか。その表現法は、どんな特徴を持 -4

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『ジーキル博士とハイ I'!Uを読む 一作品の限界 っているか。一見写実小説に思える『ジーキル博士とハイド氏』の場合、 その寓話性はどの程度まで民かれているか。 寓話は少なくとも一つの例え話である。それは、

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ルイスの理 論では、抽象的なものを具体的なもので、非物質的なものを物質的なも ので表現すること(.j)Jと説明される。昔から、例えば教訓の伝達などに 寓話は使われ、調刺も同じ分野の表現法である。そしてこれは、端的に、 「親しみやすさ、興味深さや理解の平易さJとし、う特徴を持つ。そこでは、 動・植物の擬人化を初め、非科学性や非現実性は、少しも臨時なく使わ れる。また、例えばジョン・パニヤン(1 628...88) の『天路歴程~ (The Pl'lgrim包 丹vgress,from this Wor/d to that which is to come, 1678, 84)で見 られるように、登場人物や場所の名前でさえ、寓意の含まれることが多 し、。 『ジーキル博士とハイド氏』の場合はどうか。どの人物もありふれた 名前ではないが、やや奇妙な、主人公の名字に注意が肝要である。なぜ なら、そこにはやはり寓意が含まれ、それが主題の解明に繋がる仕掛け だ、からである。つまり、‘

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を作者のスティーヴンスンは

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の意味を表す。それではいったい、何を殺す (あるいは殺したい)というのか。それはやはり、自分の心の中の「悪J、 ハイド氏として現出するものである。そして、‘

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圃隠す、 隠 れ る 。 圏 (獣の)皮)とは、まず、「隠さ」なければ、あるいは「隠 れJていなければいけない者を意味している。さらにそれには、皮j替の 下に「獣性jを隠し持つ者、という意味も含まれるだろうか。最初の事 件発生後、物語の語り手の一人、弁護士アタスンは、その犯人がハイド と聞いて、当惑する。ハイドというのは、ジーキル博士のほとんどの財 産の相続人だからである。アタスン氏は、まだ実物のハイドと会っては

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文 教 大 学 言 語 と 文 化 第18号 いないので、「彼がハイド氏(隠れる人)なら、私はシーク氏(捜す人) に な ろ う 川Jと決心した。この台詞はもちろん、子供の遊び「かくれん ぼJ(Hide-and-Seek) が背景にあり、写実小説ふうのなかにあっては、 寓意もその使い方によって、作品の幼稚化を招き兼ねない。ただし、ハ イド氏の正体を突き止め、その実体を見つめることは、作品の主題に近 づくことで、実際、プロットの展開はその方向へ進むのである。 ジーキル博士の二重の性格は、その住居に反映される。博士の屋敷は、 高名な名士、そして慈善家にふさわしく、古い端正な家々の立ち並ぶ広 場にある。それは大半がアパートや貸部屋へ落ちぶれたなかで、今でも 個人の住居として、富と安楽の雰囲気を漂わせる。ところが、奥の一角 には、解剖室とか実験室といわれる部屋があり、一つしかないドアが外 部に通じている。その建物は二階建だが、異様な状況で、窓は一つもな いし、 ドアにはベルもノッカーも付けられず、ペンキは剥げ落ち、修繕 の跡も見えない。最初の事件のとき、語り手の一人、エンフィールド氏 に目撃されたように、ハイド氏は鍵を使って、そのドアから出入りする ことが出来るのである。それに、ハイド氏の隠れ家は、悪の実行者にふ さわしく、ロンドンのいかがわしい歓楽街、ソーホ一地区の一角にある。 馬車が指示された住所の前で止まったとき、霧が少し上がり、薄汚 れた通り、一杯飲屋、安っぽちいフランス料理応、安価な雑誌やサラ ダの小売庖、 ドア口にうずくまるぼろ服の多くの子供たち、それから 朝の一杯を引っ掛けに、手に鍵を持って通り過ぎる、様々な悶籍の女 たちが、弁護士の目に入ってきた。ところが次の瞬間には、赤褐色に 近い霧が再びその地区に垂れ込め、いかがわしい周囲から、彼の視線 を遮断してしまった。そしてこの場所こそ、ヘンリー・ジーキルのお 気に入り、

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万ポンドを相続する男の住居だったいけ。 -6ー

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『ジーキル帥 I~ とハイド氏』を読む 一作品の限界一 実際、現存するロンドンの街区も、薄汚し、濃い霧で瞬く聞に覆い隠さ れ、作品の寓話的要素が写実を追い払うかに見える。スティーヴンスン の筆は、寓話と写実の聞で揺れ動き、一瞬ソーホーをどこか非現実の世 界へ送り込んでしまうのである。彼が草稿を改めたとき、舞台を大都市 ロンドンへ移すのも、ひとつにはそんな霧の効果を意図したからだ、と 推測される。当時のソーホーはならず者たちの住み着く、犯罪の街区と して悪名高く、その場所は寓意的に、 fジーキルの心lこ宿るハイドの地理 的表現(7)Jとなる。 物語の時代背景は19世紀、それも内容全般から推して、その後半であ る。この頃のイギリスは、多くの知識人が人格の二重性、多重性に深い 関心を寄せる。「彼らは、人間側人に内在する善と悪、知的欲望と肉体的 欲望、文明人的気品と原始人的獣性などに興味を持ち、かつ、それに悩 んだ。彼らは一般に、『仮面舞踏会の出席者』と呼ばれた (H)J という。 時代風潮として厳格な道徳律が先行し、人々は本心を隠して、体面維持 に苦慮せざるを得なくなる。『ジーキル博士とハイド氏』では、いわばそ の抑圧された意識が、ほとんど暴力の発散として ジーキルの変身、ハ イドの残虐行為で提出される。 1. S. サボスニックは、いみじくも、 「へンリー・ジーキルは、彼が属す不安な時代の、複雑な一例である 彼の声は『悲嘆のどん底』からの声、自ら課した秘密の深みからの、ヴ ィクトリア朝人間の叫びなのだけ)Jと書く。時代の申し子として、彼は 与えられた自分の役割を、苦しみながらも大胆に、演じて見せるのであ る。 物語の展開は、ちょうど推理小説の謎解きのように進む。一般に推理 小説では、事件を紐解く手掛かりがいくつか提示され、その錯綜した展 開へ読者を巻き込み、複雑な謎解きへ参加させる。手掛かりのなかには、 一見それと思われないものや、巧妙な伏線、あるいは読者の推理を惑わ

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文教大'下 e河台と文化 前IH日ー すものなど、いろいろ張り巡らされる。それらこそ、いわゆる高尚な読 者の謎解きに挑戦する、推理小説作家の手腕の見せ所である。『ジーキル 博士とハイド氏』の場合、その辺の状況はどうか。物語の展開は少しも 脇道へ逸れず、与えられる手掛かりはほとんどそのまま利用できる。お そらく普通の読者でも、かなり早めに、謎の答えの推測が付く。ただし、 その正解の確認を含め、謎解きを追って物語の先を一気に読ませる技量 には、スティーヴンスンの物語作家としての、面白躍如たるものが窺え るだろうか。 この小説の謎解きは、結局、ハイド氏の正体を突き止めることである。 物語の二番目の部分[ハイド氏を捜せj というのは、ただその章だけに 付けられたものではない。それは同時に、作品全体にも与えられていて、 物語の展開と主題のありかを平易に暗示する。 第 一 の 事 件 一 一 真 夜 中 の3時頃、ある小男が幼い少女と正面衝突し、 倒れた少女を踏み付け、そのまま無慈悲に立ち去った一一の犯人の名 前は、すぐにハイドだと示される。彼はジーキル博士の屋敷の裏口から、 鍵を使って出入りし、振出人の署名がジーキル博士となっている小切手 で、示談金を支払う。ここまでですでに、ハイドと博士の深い関わりが 提出され、この事件の語り手、エンフィールド氏は、真相は聞の中だと 断わりながらも、博士が若気の過ちを理由にハイドにゆすられているの だ、と推測する。もう一人の語り手、アタスン氏は、ハイドが博士のほ とんどの財産の相続人になる書類を、博士から預かっている。また、博 士の古い友達、ラニョン博士の口からは、「へンリー・ジーキルの空想に うんざりしてから、もう 10年以上になるよ。あいつは、おかしくなりか けているんだ、頭がね、・・・あんな非科学的なたわごとを振り回すなん て(10)Jという言葉が出る。アタスン氏は、ハイドを待ち伏せして出会っ たあと、彼が嫌悪と恐怖を感じさせる不快感、それに具体的に説明でき

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-8-『ジーキル博1:とハイド氏』を読む 一作品の限界一 ないものの、何か奇形といった印象を与える、と述べる。さらに彼は、

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、 やはや、あの男はほとんど人間とは思えなし、・・汚れた魂が肉体の 外へにじみ出るとき、自分の住むその肉体を変形させてしまうのか(11)J と、考えるのである。 物語開始からおよそ全体の 5分の l、つまり導入部と展開部の前半ま でで、謎解きの手掛かりが、これだけ次々に提供される。語り手の言葉 や憶測は文字通り信頼できる訳ではないが、いわば作者の注釈として、 かなり参考になる。推理小説的興味からいえば、ほとんどの読者がこの あたりで、ジーキル博士=ハイド氏であるとの推測が付く。目撃者の証 言を考慮すると、ハイドの姿は背丈、形状、顔付きから判断して、いわ ゆる変装ではない。特に、ラニョン博士の非難やアタスン氏の思惑は、 読者の推測をさらに一歩進んだ段階へ押し上げる。物語の次の展開では、 読者はその確認作業へ入ることとなるだろうか。 第二の事件、国会議員カルー殺害事件が起こる。目懲した小間使いの 証言によると、犯人は彼女の主人を訪れたことのあるハイドで、現場に 残されたステッキのもう半分は、ソーホーの隠れ家で見つかる。それは 何年か前に、アタスン氏がジーキル博士へ贈ったものだった。そこで彼 が博士の所へ赴くと、ハイドとは縁を切ったと告白され、彼から受け取 ったという手紙を手渡される。ただし、アタスン氏が執事のプールに確 認すると、そのH、使いの者は来なかったし、郵便は印刷物だけだ、と の答えである。そしてその筆跡がジーキル博士のものに酷似していると、 筆跡鑑定に長けたアタスン氏の主任者記は言う。謎解きの興味はすでに 終わっているが、その種別かしとなる章は、しばらく後に用意される。 物語の展開は、さらに、疑問の入り込む余地を消し去る、最後の詰め がある。ジーキル博士の書斎には、得体の知れない人聞が閉じ飽もり、 博士とは思えない声が聞こえる。中から薬品を求める手紙の筆跡は博士

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文教大学言語と文化第 18~} のだが、博士は大柄なのに、執事が一瞬見るのは小男である。また、注 意して聞くアタスン氏は、書斎の声はハイドのものだと確信する。そし て、ドアを壊し、突入した書斎の真ん中には、ジーキル博士に合いそう な衣服をまとう、ハイドの死体が横たわり、博士の姿はどこにも見当た らないのである。 冒頭からおよそ4分の3ほど進むと、まさに衝動的なクライマックス 部、「ラニョン博士の手記Jとなる。その長さは全体のほぼ10分の1で、 ここでの博士の役割は、信頼できる証言者、信じがたい出来事の語り手 を勤めることである。一方的にひた走るジーキル博士に対して、彼は突 き放すだけの、受動的な立場しか取れない。『手記jが開封される前に、 彼はあることに衝撃を受けたと謎めく告白をして、その3週間後には病 死する。ただ、これはほとんどショック死に近い。いったい、何故か。 『手記Jによれば、親友としてジーキル博士から頼まれること、その書斎 の陳列棚から引き出しを一つ、薬剤とノートブックの入ったまま持ち帰 り、夜半訪問する男にそれを渡すことを、ラニョン博士は忠実に果たし たと述べる。そして、やって来た横柄な小男は、皮肉にも博士の面前で、 薬剤を調合しそれを飲み干して、ジーキル博士に変身した、と説明され る。 物語の結論部は、最後に置かれた「本事件に関するへンリー・ジーキ ルの完全な陳述書jである。これは長さが全体のおよそ4分の1を占め、 一部分は二つの事件の弁明にすぎないものの、多くはジーキル博士の心 の苦悩、葛藤に当てられている。ものごとは『陳述書Jの名が示す通り、 「私Jを主語とする、博士自身の赤裸々な告白である。それによって、物 語はこれまでの推理小説的展開から、一転して心理小説の様相を帯びる。 「陳述書Jは博士の放蕩癖、「私の最悪の欠点は、ある種の我慢できな い快楽への欲求だ、った CI勺という、告白から始まる。そして、「思慮分別 -10ー

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ジーキル博1:とハイ 1''iUを読む 一作品の限界一 にふさわしい年齢に達し、昔を仮り返って、自分の社会的成功や地位を 検討し始めたとき、私はすでに深い二重生活の悪癖にはまつていた(川1口川3ω) と述ベる。物語では、その「快楽への欲求」は「無慈悲な暴力Jに代え られているが、スティーヴンスンは博士を名誉ある、立派な人物に仕立 てることで、その「悪Jの存在を皮肉に、くっきり浮かび上がらせる。 善悪、二重人格者としての苦悩が語られ、その解放のために、専門知識 を活かした薬剤調合の成功と、ハイド氏創造の経緯が続く。博士はあく まで「善と悪の混合体Jだが、ハイド氏は f純粋な悪Jが、「完全な道徳 不感症と悪への残忍な噌好(11)Jが、分身として強調される。実際、二つ の事件において、犠牲者に対するハイドの動機は何もなく、すべては彼 の悪徳の発散、自己中心的獄虐の遂行に他ならない。物語成立のために、 そこでは悪の存在が純粋に具体化されればよいのである。事件のあと、 追跡の身となるハイドを守るため、またその汚れた過去を償おうと、博 士は善行を重ねる。しかし数ヵ月経っと、再び悪への誘惑に抗しきれな くなる。そのような葛藤が生々しく告白されるなか、問題はある日、戸 外で、薬液を飲まずに、博士がハイドに変身してしまうことで、この苦 悩と解決策が、疎遠だ、った旧友ラニョン博士へ助けを求める、変身者ノ、 イドの行動へ繋がる。結果は、すでに見た、「ラニョン博士の手記jに詳 しし、。 この積の変身がその後も起こり、ジーキル博士の戦傑は深まる。ハイ ドから博士へ戻るには、より多くの薬品が必要となり、またそれに適し た薬剤の調達がうまく出来ない。結局、博士の書斎で見つかる自殺者の 死体は、大柄な博士に合いそうな衣服をまとう、小男のハイドだった。 ジーキル博士の「陳述書jは、他の語り手とは声の調子が違ってくる。 物語が博士とハイドの関係究明へ進むので、他人の声は表面的な事実と ものごとの憶測でしか伝えられない。「ラニョン博士の手記Jでさえ、そ

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文教人;"t 古語と文化 第18・り れが初めて、ジーキル博士とハイド氏の真相を教えるものの、自身の驚 {曹を語るにすぎない。ジーキル博士の心理の奥底、苦悩の実体は、当事 者本人からしか伝えられず、その点、この「陳述書Jでの告白は、読者 の心へ興味深く、切実に追ってくる。それによって、彼の精神的葛藤や 破滅の過程が、詳らかにされるだけではない。重要なのは、その苦悩の なかに、最も基本的な f人間の条件jが、ごく自然に伝えられることで ある。しかもそれに、歴史の観点が加えられると、その範聞は拡大され、 説得力はすこぶる僻.かなものとなる。 今や私は、これら二つの自己(つまり、本来の善良な自己と第二の 邪悪な自己)から、どちらか一方を選ばなければならないと感じた。 両者は記憶力は共有しているが、他の能力はまったく不均等に配分さ れていた。ジーキル(善と悪の混合体)は、時にこの上なく神経過敏 に心配したかと思うと、今度はまったく嬉々として、ハイドの快楽と 冒険へ積極的に参加する。しかし、ハイドの方は、ジーキルなんか少 しも関心がなかった・・ジーキルと運命を共にするには、私が長い 間秘かに楽しみ、最近は耽溺し始めていた、数々の欲望を放棄しなけ ればならない。でも、ハイドと運命を共にすれば、学問その他、無数 の関心事と抱負を捨てて、一挙に世間の信用と友人を永遠に失うこと になる。どちらを選んだらよし、かは、決まっているかもしれない0 .・・私の直面した状況はまことに奇妙だったが、この種の二者択一 のディレンマは、まさに人類の歴史と同じぐらい古臭く、ありふれた ものなのだ。これと同じような誘惑と恐怖とが、悪事の誘惑に藤え傑 く罪人を獲得しようと、運命のサイコロを投げる。その結果は、私の 場合も、大多数の私の仲間と同じになった。つまり、善良な自己を選択 したけれど、気が付くと、それを守り通す力を欠いていたのである((5)。 -12ー

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『ジーキル昨-1:とハイド氏』を読む 一作品の限界一 ものごとは寓話利用で単純化され、作品の主題は明白である。人間に は「善・悪」二重の性格が存在し、ジーキル博士は出来なかったが、そ の悲劇を避けるために、f人聞は自己の多重性と、不愉快だが折り合って、 暮らしてゆかねばならない(附Jというのが、少なくともこの作品のメッ セージとなる。しかも歴史的視点で見つめることで、今やジーキル博士 は、ただ19世紀のイギリス人であるだけではない。彼のような人聞は、 いつの時代、どこの国にもいるのである。博士がハイドに変身し、その 姿が奇形だというのは、おそらく不完全な薬液の結果だとしても、彼の 節くれ立った毛深い手は、いわば人間に近い類人猿を想起させるのでは ないか。 ただし、『ジーキル博士とハイド氏』は、物語として、あくまで人間の 変身が出発点である。種明かしは、後半の「ラニョン博士の手記J まで 待たされるが、この奇抜な着想、寓話的趣向が、善かれ悪しかれ、作品 のすべてであり、同時に限界ともなる。それをただ子供編し、笑止千万 として切り捨てるのではない。寓話は寓話であるとの認識に立ち、作品 の娯楽性を楽しみながら、その芸術性を見つめ直すのである。この中編 小説は、そういう視線にどこまで耐えられるのか。 第一の事件も第二の事件も、ともに犯人の名前は割れており、ハイド 捜索のかたちで物語は進む。やがて事件の性質、特に犯人の残虐さと、 その醜悪な外見が問題になっているのが分かり、疑問の余地を一つずつ 消し去る、作品の構成が透けて見えてくる。ところが、そこで重要なの は、ただハイドの肉体的正体を追うだけではない。その倫理的正体を捉 えなければ、作品の芸術性を高めるためには、いかにも不充分なことで ある。実際、ジーキル博士とハイド氏を取り囲む他の登場人物たちは、 ハイドをどれほど自分との関係で意識し、思案しているか。『ジーキル博 士とハイド氏』評価の分かれ目は、まさにこのあたりの是非にあると考

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文教大学~・Jlt と文化節目号 えられる。 たとえばジーキル博士とハイド氏が、それぞれ独立している存在だ と仮定しよう。博士は聡明、繊細で、自分の心に人間精神の「善悪j 二重性を意識しており、特に「悪jの衝動に悩んでいるとする。一方、 ノ、イド氏は残虐な破廉恥漢で、自分の悪らつ冷血な行為に、良心の阿 責を少しも感じない。ところが博士が、そんなハイドに何か惹かれる ものを覚え、彼はもしかしたら自分の分身、自分の「悪Jの側の外部 顕現ではないかと意識する。もし物語の展開がそのように進むなら、 そこには薬剤で人間の変身が可能だという、非科学性など少しも見ら れないので、それはけっして寓話ではない(li)。 ただし、このような意識の志向は、原作のままでも充分にできる。た とえばハイドを追い掛ける登場人物が誰か、もし繊細な性格で、自分の 『悪jの衝動に傑き、ハイドの倫理的正体との繋がりを意識すれば、作品 の趣、成行きはかなり異なってくる。しかし彼らは、そのような反応を 示さないし、示すことができない。彼らは皆、たとえ弁護士として、医 師として、また執事として、立派であっても、 E.M.フォースター(1879 ...1970) が『小説の諸相~ (Aspects ofthe Novel, 1927) で説く、「扇平人 物Jであり、いわば「典型Jに近い。彼らは物語を諮る、あるいはそれ に助力する、与えられた役を演じるにすぎないのである。それらの登場 人物たちは誰も、自分の心にハイドを意識できない、まさにそこに、こ の中編小説の弱点が潜み、作品の限界が顔を覗かせる。 G. K.チェスタートンは書いている、「この物語の本当の急所は、一 人の人聞が二人になる、という発見ではなく、二人の人間が一人なのだ、 という発見である。・・・物語の要点は、人間はその善悪の意識から自己

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-14-『ジーキル問 j~ とハイド氏』を読む 一作品の限界一 を切り離すことが出来る、というのではなく、それは出来ないというこ となのだけ川Jと。少なくとも語り手の利点を活用し、自然な説明や意見 のかたちではなく、ちょっとした言及でも、『ジーキル博士とハイド氏』 は、何か子供じみた作品から本格的なものへ、一段と飛服する。たとえ 作品の限界は、また作家の限界でもある、と考えられようとも。 ところが一度だけ、語り手で弁護士アタスンが、自分の心の『悪Jへ 思いを馳せることがある。物語の前半で、彼がまだ、ジーキル博士は何 か過去の荻しいことで、ハイドに付きまとわれているのだ、と推測して いた頃である。 「何か心配なのだ、ジーキルが苦境に陥っているように思えて!若い 頃は、彼も放らつな生活だったから。確かに、ずっと昔のことなんだ が。神の法には、時効はないのだ・・J弁護士はそう考えてぎょっ とし、しばらく自分自身の過去に思いを巡らし、ひょっとして何か昔 の邪悪な行為が、ひeっくり箱のように飛び出してくるのではなし、かと、 記憶の隅々を探った。彼の過去にそれほど過ちはなかった。彼ほど不 安なく、自分の人生を回顧できる人間は少ないだろう。それでも弁護 士は、自分が犯した多くの善からぬ行為に、恥じ入らんばかりの気分 になり、そして実行寸前で避けた数々の悪事を考えて、恐怖と感謝の 混じる、もの寂しい気持ちを味わった(1ヘ 自分の心lこ「悪jの存在を感じながら、語り手アタスンは、それ以上 f悪Jへの関心を深めることはない。彼が進めるハイドの調査は、もっぱ らその肉体的正体の追求、彼とジーキル博士との関係だけである。ハイ ドの奇形、名状し難い顔付き、嫌悪と恐怖を催させる不快感など、その 外面的特徴が繰り返し強調されるものの、彼の体現する属性 f悪」への

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文教大学子?甜と文化第 18~・ 言及は、ほとんど見られない。アタスン氏にとって、ハイドはいわば遠 い存在であり、人間としての繋がりは少しも感じられないのである。語 り手アタスン氏を介する、人間の「心の閤Jについての認識は、実際、 物語の展開は好都合に進みながら、関心の不充分さによって、空振りに 終わってしまう。 発表後

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年経過した現在も、『ジーキル博士とハイド氏の奇妙な事件』 は、その知名度が抜群である。演劇、映画、ミュージ‘カルが続々と制作 され、それは興行界においても、最大級の人気を獲得している。それと いうのも、原作は骨格が確かであり、人々を惹き付ける魅力が豊富だか らである。奇抜な着想、明快な主題、物語の巧みな展開、それらはどれ も、人々の興味を捉えて離さない。細部には欠点、不満、もの足りない 部分が散見されても、それは充分看過できるに違いないのである。ステ ィーヴンスンは、まさにこの作品によって、その発表

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年後文壇に登場 する、

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世紀現代小説の先駆者の一人、人関心理の f暗黒Jに鋭く解剖 のメスを入れる、ジョウゼフ・コンラッド(1

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へ、バトン・ タッチをすることとなる。 注 この小論は、日本イギリス文学・文化研究所編『イギリス文学ガイド~ (東京: 荒地出版社、 1997年)所収の「ジーキル博士とハイド氏 J(pp.138-141、この項 目の執筆担当は筆者)と ごく一部重複するところがある。 なお、テキス卜として、 RobertMighall (ed.): Robert Louis Stevenson.The Strange Case of Dr Jekylllwd Mr Hyde and Other Tales of Terror(London: Penguin Books. 2002)を使用した。後注における頁数は、それによっている。

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『ジーキル附土・とハイド氏』を読む 一作品の限界一 ( 1) Hunter Davies: The Teller ofTales, In Search ofRobert Louis Stevenson (London: Sinclair-Stevenson, 1994), p.257. (2) DVD, Dr. Jekyll and Mr. Hyde (ワーナー・ホーム・ビデオ、 DL-67056), 音声解説。 (3) Bryan Bevan: Robert Louis Stevenson, Poet and Tel1er of Tales (New York: St.Martin's Press, 1993), p.120.

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前記『イギリス文学ガイド』、 p.292. (5) Dr lekyll and Mr Hyde, p.14. ( 6) lbid., p.23. ( 7) Robert Mighall :上記テキスト、 p.xxxii. (8 )前記『イギリス文学ガイド』、 p.141.

( 9) Irving S. Saposnik: Robert Lou.かStevenson(Boston: Twayne PubIishers,

1974), p.93. (10) Dr lekyll and Mr Hyde, p.12. (11)lbid.,p.16. (12) Ibid., p.55. (13)Ibid., p.55. (14) Ibid., p.64. (15)Ibid., p.63. (16) Irving S.Saposnik: op. cit.,p.96. (I7) 前記『イギリス文学ガイド』、 p.140.

(18) G.K. Chesterton: Robert Louis Stevenson (London: Hodder and Stoughton, 1927), p.72.

参照

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