―コー トジボワール・アジュクル社会の都市 と村一
茨木
透
*1
は じ め に 本論では,コ
ー トジボワールのアジュクル人 に とっての村 と都市の関係について検討 したい。 アジュクルの人び とはコー トジボワールの ダブ県出身で,かつてはダプ県の30あまりの村 にわか れて住んでいた。現在 その人口は推定約 10万 人で あるが ,約 半数がアビジャンなどの都市 に出て生 活 をしているもの と考 えられ る。人び との都市への流 出の歴史は古 く,1960年の独立以前 に さかの ぼる。 したがって現在では都市で生 まれ育 った第二世代,第
二世代 もみ られ る。 しか し,これ ら二 世や二世 をふ くめ都市のアジュクルの人は出身村の帰属 を失 なわない と考 えられ るので ある。 都市 に住む人び とが出身村への帰属 が失 なっていない ことは,次の三つの面 にみ られ る。第一 に, アジュクル人 に とって重要 な四つの人生儀礼で ある出生時の洗礼,成人儀礼,8年に1度
の年齢階梯 上昇儀礼 ,そ して葬儀 はすべて出身村でおこなわれ る。死後 に埋葬 され るの ももちろん村の墓地で ある。男性の場合 はこれ ら四つの儀礼 に加 えて さらに「アンバ ンジ」と呼ばれ る富者儀礼 も村 にた くさんの招待客 を呼び寄せてお こな う。これによ り村人 としてのアイデ ンテ ィテ ィが形成・維持 さ れ るで あろう。第二 に,都
市 に住むアジュクルの人び とは 日常的に頻繁 に村 との間を行 き来 し,親
族や村人 との交流 を維持 してい る。第二 に,人
び とは出身村へ投資 をす る。村 を出て得 られた多少 な りともの財産 は ,村 に持つ土地 に油ヤ シや ゴムを植 えプランテーシ ョン化す るために投資 され る とともに,現
在住 んでいる地 にではな く出身村 に家 を建て ることにまず使われているので ある。一 方,村に住む人び ともその多 くが都市生活の経験 を持 ち,日常的にも頻繁 に都市 とを往復す るなど, 純然たる村人 とは言 い難 い面がある。.
これ まで都市生活者側か らみた都市 と村の関係 についてはい くつかの研究がある[Chalreard 198働 Dozon 1983]。 本論ではこれ らの研究 を参考につつ 】都市生活者の側の出身村への意識 とともに ,村 に住む側 が都市や都市で暮 らす ことをどのような もの と考 えているかを検討 したい。2
モポ エム 村 と村民 コー トジボワールの最大の都市は首都であるヤムスクロではなく,ヤムスクロに遷都 され る1983 年 まで首都で あったアビジャンである。アビジャンの人口は約350万人で,コー トジボワールの人 口1600万人の20パーセン トほどがここに暮 らしている。この経済の中心地であるアビジャンか ら 西へ約 50キ ロメー トルの ところに,か つてのアビジャン県ダブ郡,現在 はダブ県の中心地であるダ ブの町が ある。この町は19世紀 中頃にフランスが建設 したエブ リエ潟 を一望できる城塞 を中心 に発 *地域社会講座 (社会人類学)達 した植民地都市である。20世紀初めにはコー トジボアール内陸部に到 る道路がダブを起点 として 開かれ,陸上交通 と水上交通の接点 となり交通の要所 として栄 えた。現在の人口は6万人であるが, その多数派を占めるのは地元のアジュクル人よりもむしろコー トジボワールの他地域や周辺諸国か らの移入民
0で
ある。ダブ県は歴史的にアジュクルの住む地域であるが;ア
ジュクルの人ぴ とはダ ブの町よりむ しろそれぞれの村に暮 らしている。アジュクルにとってダプの町はアジュクル語で「ガ ンガ・プグン」つまり「白人の町」であり,ア
ジュクルの町 とは考えられていない。 このダプの町からさらに西へ約10キロほど行 くと,わた しが調査 を続けているモポエム村がある。 村はエプリエ潟 に面 し,か つては地域の水上交通の中心 として栄 えた。今 日村のアジュクル人の現 住人口は約300人 たらず,戸
数は20戸 あまりである。ここで現住人口としたのは,人
ぴとの流動性 が非常に高いためはっきりとした数の確定が困難なためである。そのほかここにも移入民が,お も に「ジュラ・ブグン」と呼ばれる村の南はずれの一角に住んでいる。移入民の流動性はアジュクル 以上に高 くその数は季節的にも変動するが,定
住 しているのは 100人 たらず と考えられる。 村のアジュクル人の現住人口は300人 足 らずであるが,こ れに加 えて村出身者約 250人 が村 を離 れて暮 らしている。この非在住者の数は村人全員が信者であるメツジス ト派の教会の リス トか ら割 り出したもので ,村 の50歳代の男性が長年 この リス トを管理 している。リス トには村在住者 と非在 住者の区別はなく,村
で生まれた者は婚出者をのぞき全員の名があげられている。村の住民の リス トとしては,政
府のおこなう人口調査 を除 くとこれがおそらく唯―の ものであろう。在住者 と非在 住者 との区別がおこなわれていないという点から,人 びとにとってその区別は重要なものではない とも考 えられる。これ らの村 を離れて暮 らす人び とのほとんどはアビジャンに住んでいるが,コー トジボワールの他の町で働 く者や,外
国で生活 している者 もいる②。 村在住者 と村外者に区別がないことは,村
の政治や村の共同作業の面でも明らかである。村では 週に1度 以上の頻度で村会が開催 され,村
のすべての問題がその場で処理 される。この村会に参加 することは村外居住者であっても何 ら問題なく,村に滞在 している時などむ しろ当然の ものとして 会合に出席 している。ところが多数の移入民にはい くら長期間この村に住んでいても村会への参加 権は与 えられない。同 じアジュクルの他の村出身者で村に長年住んでいる場合にも一般 には村会へ の参加資格はないとされる。同じことは,村
の共同作業や,村
の会計をみて もわかる。共同作業へ の欠席に対する罰金の対象は,村
外居住者にまでおよぶが,移
入民や他村出身者には作業参加の義 務はない。村の分担金の請求 も村外在住者には同様 におこなわれるが,移
入民および他村出身者に は課 されることはない。このように,モ ポエム村の人ぴとにとっては村に在住 しているかいないか を問わず,村
の出身者でありさえすれば村民であるということは明 らかであろう。このような村民 意識は重要な人生儀礼 をとお して形成 される。次節では村外在住者 と儀礼の関係に焦点をおきなが ら,村
でおこなわれる儀礼について述べたい。3
懐礼 と人びと 人ぴとは都市に出て も村 との関係 を消失するわけではない。このことの背景には,モ ポエム村の 人びとのみならずアジュクルの人び とすべてが村在住か都市在住かを問わず ,重要な人生儀礼 を出 身村でおこなうということが大きな要因としてある。アジュクルの人びとのおこなう人生儀礼は,洗 礼儀礼,成
人儀礼,年
齢階梯上昇儀礼,富
者儀礼 (男性のみ),葬
儀の五つの儀礼である①。順に述 べていきたい。洗礼式 は,村の出身者 が村以外 で子 どもを産んだ場合で も,その子の洗礼 は生後2ヶ月か ら3ヶ月 後 にかな らず村の教会でお こなわれ る。ちなみに,モポエム村の人び とはは全員がメソデ ィス ト派 のプロテスタン トの信徒であるが ,他 の村 にはカ トリックの信徒および土着化 したキ リス ト教の一 派であるハ リス教の信徒 もい る。モポエム村の唯下の教会であるメソデ ィス ト派教会には,2001年 の冬 まで常駐の牧師 はおかれてお らず ,村人の中で説教師の資格 を持 った者が 日曜の礼拝 を執 りお こなっていた。ただ洗礼の 日は特別で
,牧
師が巡回でやって きて儀式 を執 りお こなっていた。 もちろんメソデ ィス ト派の教会はアビジャンに もい くつかあり,アビジャン在住の村 出身者のな かで熱心 な信者は 日曜 日にはそこに通っている。その中には教会の役員まで勤めている者 もいる。し か し,洗
礼 はかな らず村の教会でおこなわれ る。 成人儀礼は,男性のそれが「ロウ」,女
性のそれが「デジヤ ップ」と呼ばれ る,どち らも村 で執 り お こなわれ る。男性の場合 は年齢組④ごとに集団で儀礼があるが,女
性 はひ とりずつ別 に儀礼 をお こない集 団的な儀礼 は持 たない。 男性の ロウ儀礼の場合 ,調 査ので きた5o年 あまりの間にお こなわれた儀礼への欠席者 は,各年齢 組 ごとに1人か ら3人
までで,村
在住の若者 は もちろん都市在住の若者 もほぼ全員が この儀礼 に参 加 してい ると言 って よい。欠席の主 な理由は,外国へ滞在 中,病気のため,父との不仲 などである。 新成人本人が欠席す る場合 も,その父はかな らず代理 をより年少の親族の一員か ら選んで立て,代 理 がすべての儀礼 をおこな う。これにより形式上本人は儀式 を完全におこなった ものとみなされ,ロ ウ儀礼 とともに形成 され る年齢組の一員 と認め られ る。年齢組は村 ごとの集団であり,人
び とはそ れぞれの年齢組 を通 して村の あ らゆる社会生活 に一生 を通 してかかわってい く。 年齢階梯上昇儀礼 は,8年 に一度 これ も村で執 りお こなわれ,それぞれの年齢組 が この儀礼 を境 に 年齢階悌 を一段上昇す る。アジュクル語の名称 では,最
上位の長老階梯の名称 か ら「工ベブ」儀礼 と呼ばれ ように,長
老就任儀礼で もある。同時 にすべての年齢組 が この儀礼 に参加す るとい うこと は,つまり成人式 を終 えた人び と全員が参加す ることであり,規模 としては村最大の儀礼で ある。女 性の場合 はロウ儀礼 をお こなわないので男性の年齢組の一員 とはみな されず ,は っきりとした女性 の年齢組 も存在 しない。しか しなが らそれぞれの女性 は同年齢の男性の年齢組 と同 じ年齢組名 を認 識 していて ,年齢組上昇儀礼や ロウ儀礼には同 じ年齢組の女性がそれぞれ別 に集 まってダンスをす るなど,非
公式の年齢組 として機能 している。 成人儀礼 をおこなったあと長老の階梯 に昇 るまでの間にすべての男性が一度 しなければな らない のが,「ア ンバ ンジ」 と呼ばれ る富者儀礼である [茨本 1995]。 これは個人儀礼であ り,多
大 な出 費 を要す る。儀礼 をいつ どのよ うにお こなうかは個人の財力次第で ある。そのため儀礼の規模 は大 小 さまざまであるが,一
般 に都市在住民の富者儀礼 は規模が大 きく,町
での知人 を村へ招 く機会 と もなっている。い うまで もな くこの儀礼 も村で執 りお こなわれる。 最後 に,葬
儀 についてである。村外在住者が都市で息 をひ きとった場合お もかならずその葬儀は 村でお こなわれ,埋
葬 も村の墓地 に埋め られ る。同様の ことはヨー トジボワールの他の多 くの民族 に もみ られ [Tou距 1984],アテ ィエ人の例 は原口が紹介 している[原口19941。 原 回はまた,一般 に 葬儀の費用が相当の額 にのぼ ることも指摘 している。アビジャンで息 を引 き取 った人の葬儀 を村で お こな う場合 ,葬 儀の準備のための期間中は亡骸 を遺体安置所に保管 して もらい腐敗防止のための ホルマ リン処理 を施す こともある。亡骸 を霊柩車で村に運んで くるのにも多 くの費用がかかる [原 日1994:216‐217]。村出身者で村で葬儀がおこなわれない人には正式に結婚し村を出た女性があげられる
0。ここで
正式の結婚 とい うのは婚資が支払われたか場合の結婚である。現在では婚資が支払われないまま婚 関係 を長年続 けている例 も多 く,この場合 は亡 くなった女性の葬儀 は夫側ではな く実家の方でお こ なわれ る。 以上
,人
生 における重要 な五つの儀礼がすべて村でお こなわれることを簡単 に述べて きた。村の 人はどこで生 まれ どこで育 ちどこで死の うとも,儀
礼上 は村で生 まれ,村
で大人 にな り,そ して村 で死ぬのである。したがって,たとえ実際 には村外で生 まれ育 って も,自己アイデ ンテ ィテ ィとし て村人意識 を持つ ことは難 しくないで あろうと思われ る。4
町 と村 の移動 アビジャンに住む人び とは,たいていは勤務の関係で主 に週末 に村へや って くる。村へ来 る目的 は,周辺の村 をあわせ るとほ とん ど毎週のようにお こなわれる葬儀 に出席す る場合 が多い。しか し とくにこれ といった用のない場合 にもしば しば週末 を村です ごす人 もいる。大 きな葬儀 があるのは 土曜 日と決まっている。村での葬儀の場合 は特 に非常にた くさんの人び とが金曜 日の通夜 か ら村 に 戻 り,村
の人口は一時的にぶ くれ あがる。 都市の人び とが村 に戻 って くる一方で ,村 に在住 している人の中にも村 と外部 とを頻繁 に行 き来 している人がいる。たとえば,週
の半分 をアビジャンで暮 らし残 りの半分 を村 で暮 らす人や,週
末 はほぼ必ず村に戻って一晩ないし二晩を村で過ごす人が数名いる。1週間単位でアビジャンと村 を行 き来 している人 も数多い。これ らの人びとの場合,村
在住とすべ きなのかそうでないのか,判
断は むつか しい。その例 を女性 と男性 とそれぞれ一例ずつ あげておこう。 まずモポエム村の隣村のボ ドゥ村の女性 Aさ ん。年齢は60歳ぐらい。夫 もボ ドゥ村1こ住んでいる が,Aさ
んは実家であるモポエム村の村長の家にも頻繁にやって くる。夫がアビジャンに小 さな家 を所有 していて,それをAさ んの弟Bに
貸 している。このアビジャンの家 と隣村の間をAさ んやそ の娘は頻繁に行き来 しつづけている。Aさ
んはアビジャンでは「商人」としての身分証明証 も作 り, 娘とともにアチェケ0の 小売 りをおこなっている。 Aさ んの弟の借家人Bさ ん。年齢は50歳代前半である。1990年代はじめに仕事 を失い,以後失業 中。2人
の妻をもち0,同
じモポエム村出身のひとりがモポエム村に,別
の村出身の もうひ とりが アビジャンの借家に住んでいる。失業後は毎週のように村 とアビジャンを往復 し,村
にいるときに はときどき農作業をするほか,毎
日のように潟湖に漁にでている。現在は村在住だと人びとには考 えられている。 このように,成 人の場合は男女ともに仕事のためやつきあいのため,あ るいはこれ といった目的 もなく,村とアビジャンを行 き来 している。だがそれは大人だけではない。子 どもは村 と町 とを,大 人とはちがった形で行き来 している。5
子 どもと学生の移動 モポエム村には小学校がある。この小学校は第二次大戦後すぐに,ダ
ブの町以外では地域で初の 学校 として開設 されている。近 くに学校ができたことが理由だろうと思われるが,村 の50歳代以下 の男性はほぼ全員が小学校は卒業 している。コー トジボワールの教育制度では義務教育はこの小学 校までである。したがって子 どもは小学校 を出ると,試
験に受かった者だけが公立中学へ進むことができる。だが公立でない場合 も私立中学校あるいは専門学校に進む者が多いのが現状で,そ のた め小学校 を出るとほぼ全員が村を離れダブやアビジャンの学校の近 くに住む。 最初に述べたように
,村
とダブの間は約10キロメー トル,専
で 15分程度の距離である。この距 離だと村の家からダブの学校 まで毎 日通 うことは可能なはずである。事実,移入民の子 どもの場合, 村に隣接する工場がサービスする通学 トラックに乗って,村と学校の間を往復 している。このほか, ミニバスを利用 して通学することもバスの便があまり便利でないにしても可能だと思われるし,自 転車通学 もできるはずである。しか し,村
のアジュクルの子どもの中で村からダブの学校へ通って いる者はほとんどいない。ほぽ全員が知人宅や個人経営の寄宿寮に下宿をしているのである③。 中学生 をダプに住 まわせ理由を問 うと,親
たちは ミニバスだと毎 日交通費がかかること,工
場の トラックには利用 させて もらうように交渉することが難 しいこと,自転車は危険であることなどを 理由として答 える。その反面,下
宿をさせると下宿代や食事代の負担のほか,村
にいれば小学生で も日々必ずおこなう家の手伝いへの期待ができなくなるのである。現在の40歳代の人たちが中学生 であったときも全員が家を離れていたということからも,中学生になれば下宿 をするというのが規 範のようになっているとも考えられる。 しか しなが ら,子どもが村 を離れるのは中学生になってからだけではないことがいくつかの例か らわかる。小学校高学年になると転校 し村 を離れる子どもが何人かいるのである。たとえば,先
のBの
息子は,小
学校4年
までは村の学校へ通っていたが,小
学校 5年 のときに10キロほどはなれた 村の知 り合いの所に預けられその村の学校に通い,6年の時にはアビジャンの伯父にあたるBの
兄の 所に移った。別の例では,Bの
妹の息子は小学校5年 までは村の小学校に通い,6年
時にアビジャン から北へ約100キロメー トルの所にあるアフェリ町の従姉妹の家に預けられた。現在は,ま た村に 戻 り村か らダプの中学校 に通っている0。 これ ら中学生 と小学校高学年の子どものいくつかの事例から,中学生になると子 どもは村 を離れ るとのはもちろんであるが,10歳を過 ぎた頃から親は子どもを積極的に手放 し生家外での生活 を経 験 させようとしていると考 えられるのである。、 次に,都市で生まれ育 った子どもたちについて検討 したい。2001年に成人儀礼をおこなった23名 の男性 (年齢はおよそ20歳 から22歳
)の
調査から,村
外生 まれで村外の小学校に通った者8名
で ある一方,村
外生まれで村の小学校に6年
間の一部でも通った者は 5名 におよぶ。村の学校に通 う 場合,就
学開始年齢がしば しば遅れ,ま た しば しば落第 もする。教育環境 としてはたとえ過密であ るとして もアビジャンの方が良好だと思われるが,子どもをわざわざ村の小学校に通わ している親 もいるのである。 村外の子どもと村 との関係はこれだけではない。体暇の間はほとんど子 どもは村に滞在す る。上 の調査で村外の小学校に通っていた者のうち,保護者の勤務の関係でコー トジボワールの内陸部で 育った者2名を除 く全員が,毎年2ヶ 月間の夏休みを村ですごした経験 を持つのである。このため夏 休み期間は村は子どもであふれかえり,学
校が始まると急に静かになる。期間中は毎 日のように子 どもたちは年齢ごとに男の子の場合サッカーなどをして遊ぶ。こうして村と都市の同年代の子 ども たちはお互いに知己となっていく。この結果,成
人儀礼の時にはなお誰が村在住かそうでないかの 意識はあるものの,同
じ年齢組としての集団形成が可能になるのであるう。 以上,大
人 と子 どもの例 を検討 した。大人の場合,週
の単位での町と村の往復がある。これに対 し,子
どもの場合は一年の単位での行 き来 といってよいかもしれない。そして年齢で往復の頻度に 差はあるものの,村
の側からは町へと出る動きが,町
の側からは村 との関係を継続 しようとする動きがみ られるのである。
6
失業者 の帰 村 この村の人ぴ とはほとんどの男性が村以外での生活の経験 を持つ。つ まり村は一度村外で生活 し た人 を再度受 け入れているので ある。調査でえられたデータか らは,すでに1920年 代生 まれの世代 か ら,多くがアビジャンその他の コー トジボアールの都市で働いた経験 を持つ。都市で働いて停年 などの退職後 にぶたたび村 に戻 って きているのである。1920年 代生 まれのアブルマン年齢組 に属す る5人の男性の うち4人
までがかつて村外で働 いていた経験 を持つ。また戦後生 まれの世代ではほ ぼ全員が村外で一度 は生活 した経験 を持 っている。現在50歳代前半の二ベ シ年齢組の男性のでは1 人 をのぞ き,その下の40歳代のボジ ョル年齢組 に属す る男性 は全員が ,一 度は都市で学校 に通 った か働 いたかの どち らかの経験 を持つ。この二つの世代で現在村 に在住 している人びとは,二ベ ンで 4人 ,ボ ジ ョルで7人で ある。この ■人の うちひ とりは高校 を辞めたあとに村へ戻 ってきている。残 りの 10人 はアビジャンほかで一度仕事に就いたあと,失
業 が原 因で村 に戻 って きた人び とである。 以下,本
節では失業での帰村の場合 を検討 したい。村への投資 と密接 に関連す る停年などによる比 較的高齢 での帰村 については,次
節で検討す る。 まず失業の原 因について説明を加 えておきたい。それは国の経済状況 と密接に関連 しているので ある。かつて コー トジボヮールの経済が好況 にわいた1970年 代QO,当時の若者 はほとんどが町で職 を得 ることがで きた。それにあたるのが,二ベ シ年齢組 とボジ ョル年齢組 に属する者なのである。こ の世代の者が最低で も小学校卒の資格 を有 していたことも,ほ ぼ全員が就職できた理由ではと考 え られ る。その結果 まった く村 を離れて働いたことのない着 攣 1名 だけと,村
か ら若者がいな くなっ た く過疎 〉が70年代 か ら80年代 にかけて一時的に出現 したので ある。 ところが,国
の経済 は 1980 代初 めか ら不況 に陥 り,それは現在 まで引 き続 いている。そのため 1980年 代後半にブルーカラー層 を中心に大量の解雇 がお こなわれた。現在 この世代で村 に暮 らす人び とは,いずれ も解雇後数年 間 アビジャンにとどまった後 ,80年代茉か ら90年代は じめにかけて村へふたたび戻 ってきた人たちな ので ある。一見,伝
統 的な村 に暮 らす農民であるかの ようにみ える人び とも,い
ちどはアビジャン ほかでのサ ラ リーマ ン生活の経験があるのである。それだけではな く,帰
村者のひ とりはアビジャ ン生 まれアビジャン育ちで,失
業後 は じめて村の生活 をは じめてい るとい う例 もある。 この帰村者 たち合計で10人 の帰村時の条件について,村に土地 があるか どうかと,村 にほかの家 族がすでに暮 らしているかの二点 について検討 しておきたい。まず帰村者たちは村 に帰 ると土地が あったのかどうかについてで ある。 最初 にこの村の土地制度 について簡単に説明 してお く。土地はそこに植 える作物が短期性か長期 性かによって扱 いが異 なる。まずキャッサバ (マニオク)な
どの比較的短期で収穫が終 わ り,ど
ち らか とい うと自給用の作物 を植 える場合,たとえ土地 を一切所有Qりしてぃな くて も,村
の地区や個 人が所有す る土地のなかの遊休地 を借 りて耕作す ることは簡単 にできる。もちろん自己の土地 に短 期作物 を植 えるのは何 ら問題ではない。一方,長
期性の作物,つ
まり油 ヤシやゴムなどの樹木作物 の場合 は土地の貸 し借 りは現在ではほぼおこなわれていない。自己の所有する土地にのみ これ らの 換金作物 は栽培可能なのである。したがって,帰
村者 が仮 に土地 を持 っていな くて も自給のための 主食作物の栽培 は可能であるが換金作物は植 えることがで きず,現金収入は農業か らは望 めない こ ととなる。調査 デー タか らは,10人
の帰村者 中本人 または親が土地 を有 し5ヘ
クタール程度の油 ヤシやゴムのプランテーシ ョンを経営 してい る者 が
3人 ,同
じく2ヘクタール程度のプランテーシ ョ ンを持つ者が3人 ,ま
った く換金作物植 えられ る権利の ある土地 を持 たない者 が4人
で ある。帰村 と土地所有 との関係 ,つ まり村 に帰 った場合 に も比較的裕福 な生活 がで きるか どうかの生活の展望 はあまり関係 がない こととなる。注 目しておきたいのは,少な くとも村で は最低限の主食用 自給作 物 は確保できるとい う点である。 一方,帰
村す る条件 として,村
に他の家族 が存在す るかどうかで ある。親子の同居や兄弟の同居 は村の中にもい くつか例 があるが ,帰 村者の場合 は帰村時に父がすでに死亡 してい るかかな りの高 齢で他には兄弟が村にいない場合が10例中8例 で大部分を占めている。残 りの2例 は帰村後に兄弟 同居がをはじめた例が 1例,親
子同居をはじめた例が 1例 であるが,ど
ちらの例で も個人の土地は 持っていない。つまり,土
地 を所有 しない場合には村にすでに家族が住んでいるかどうかは関係な く帰村 しているが,土
地を所有する場合には村の家族の存在,特
に父親の存在が帰村 をするかどう かの条件 となっていると考 えられるのである。 以上をまとめると,帰村は自給作物の栽培用の土地が容易に確保できるため村に土地を所有 しな い場合 も可能である。むしろ土地を所有する家族の一員の方が,帰
村 した場合に親族間におこる土 地問題,それに加 え絶大な父親の権威 とい うものを慎重に配慮 し,帰
村の時期を決定 していると考 えられるのである。7
停年による帰村 と投資 この節では,都市で働 く人びとが老後の生活設計の一環 として村にプランテーションや養魚場Oり を作ったり家を建築するすることで,富が都市か ら村へ と流れることを示 したい。その例 として,先 に取 りあげなかった停年者の事例 をいくつかみていく。村の高齢者の中には相当数の都市生活経験 者が含まれることは,す
でに指摘 したとおりである。9。 停年などによる比較的高齢の帰村者の場合,あらかじめ村に帰る準備が長年にわたってなされて いる。失業による帰村者が,村
へ帰ることをほとんど準備 していないまま帰ってきたのとは対照的 である。どのように準備がなされているかを二つの例か らみていきたい。最初に述べるのは2001年 に帰村 したCさ んの例で,次
にあと数年で帰村予定のDさ ん例 も参考 としてあげておく。 Cさ ん。もと軍警察官。つ。55歳を過 ぎて退職 して村へ戻ってきたところである。かれは15年以上 前か ら村に大 きな家を建て始めた。しか し資金が続かず,家は何 とか住めるまでにはなったものの, 内装などはほとんど手がつけられていないままの未完成状態である。この家に10年以上にわたって 住んでいるのはCさ んの兄夫婦。Cさ ん自身は仕事で国内のあちこちを転々としていたので,村
に ときどき帰 ることす らなかなかできず,退
職するまでこの家はほとんど利用 していなかった。村に 戻 った現在は,兄
夫婦 とは別の入 り日から入れる部屋 をCさ ん夫婦で使用 している。Cさ んの村へ の投資は,家
だけではない。退職の 1年前 ぐらい前から家の裏に養魚場 を建設 し始めた。兄弟で親 から受け継いだ土地の方は兄が利用 しているので,Cさ
んはこの養魚場か らの収入で食べていくつ もりだという。 Dさ ん。50歳過 ぎで停年 まであとわずか。弟がひとり同じくアビジャンに住んでいる。家は1980 年代に両親がまだ生 きていた頃に建て,父
母ががそこを使っていた。父につづいて母 も亡 くなった あとは,親 戚が家を管理 している。もちろん村に来たときはDさ んが家の長である。99年 には息子 の成人式を機会に家の増築 もしている。また,油ヤンのプランテーシ ョンを所有 しているほか,2年前か らCさんと同 じく養魚場 を家の裏 に作 った。Dさ んはアビジャンに住 んでいて毎 日の管理 はで きないので
,親
威 にこれ らも任せている。 このように二つの例 とも,在
職 中に村 に家 を建 て,村
のプランテーシ ョンない し養魚場へ投資 を お こなっている。村外者 が村 に家 を建てるのは,現
在の50歳代の人ぴ とに始 まったことではない。 村 に4軒
ある「ヴィラ」と呼 ばれ る立派 な作 りの家の うち3軒は,現
在70歳をこえる世代の人び と が都市で働 いている間に建てた ものである。投資はおそらく家への投資が優先 し,さ らに余裕があ れば村の土地 に油ヤシない しゴムのプランテーシ ョンを拓 くなどす るので ある。Dさ んの場合 は都 市にいる間にすでに く不在地主 〉的にプランテーシ ョンか ら収入 を得 るとともに,同
時 に退職後 に 備 えているのである。村外者 は退職後の生活設計 として,都市で得 た余剰 を村 に投資 してい るとい えるだろう。 しか しなが ら,村
へ家 を建 てることは,単
なる老後の生活の準備 だけではない と考 え られ る。節 を改めて この ことを論 じたい。8
村 に家 を建 てる モポエム村だけではな く周辺の村 を訪れ ると目につ くのは,農村 には不釣 り合いなほど豪華な家 で ある。たとえば,上
の4軒
の ヴ ィラの内装 にはすべて タイルが貼 ってあるなど,建
設費用が普通 以上 にかかったことをうかがわせ る点が多い。建物 自体 もまわ りに広 い庭 があるなど家 を建て る土 地が不足 しているとはとて も思 えない場合 にも2階建 を建てている例 が多い。その もっとも顕著 な 例 が,あ
る村 に建て られた4階
建てエ レベーター付の家ではと人び とも言 う。 この ような豪華 な家 を村 に建て るのはどうしてなのだろうか。アビジャンの】ヒのアキエ人の村 に ついて述べた ものに,次の よ うな指摘がある。それによれば,「都会で成功 した人 は ,自 分の出身の 村 に家 を構 えるのが成功の シンボルで,村
の一員 として,祭
りや葬儀の ときに中心 となって一役買 う。だか ら,アビジャンの人は しょちゅうオ↓へ帰 る。そ うしないと村の人たちか ら後 ろ指 をさされ て しまう」[大林2002:192],と
い うのである。 家 を建てることが成功の シンボルであることは,アフ リカに限 ったことではないだろう。そのた め人ぴ とは無理 をしてで も家 を建 て る。しか しどうして今住んでいるところではな く村 にその シン ボル を建て るのだろうか。 た とえばモポエム村の40歳代 中頃の男性Eさ
んの場合 は,村 に建てる理由がある。Eさ
んは1980 年代の終 わ りに一度失業 して,ア
ビジャンか ら村へ戻 っていた。その後仕事 がみつか り,ふ
たたび 5年ほど前か らアビジャンの会社 で運転手 として働 いている。このEさ
んの父親 は2000年に長老就 任の儀礼である工ベブ儀礼 をお こな うこととなった。父の人生最後の晴舞台 を前に,Eさ
んは (お そ らく)少ない給料か ら工面 し,父親の祭 に間に合 うように,3部屋 か らなる家 を村 に新築 したので ある。 この場合,父
のために建 てているので父の住む村 に建て るしかないだろ う。 一方,上
でみたCさんは軍警察官 を している間はず っと官舎住 まいだった。転勤 があったか らだ とはい うが,村以外 には家 を持 っていない。村 に家 を建て始めたのは15年 以上前の ことで あり,こ の間住んでいたのは兄である。Dさ
ん自身は地方勤務 だった期間 も長 くそれほど頻繁 には村 を訪問 していないのである。またほかに もCさんの家以外 に も建築 は始 まった ものの未完成の ままの家が もう1軒
村 にはある。建築主 は立て始めて しば らくして亡 くなって しまったが,一
応 は居住可能 な ので現在は親族が住んでいる。亡 くなったのは80年 代 中頃で,まだ40歳 ほ どで あった。つ まり,町 へ出て成功 した人は,か な り若い年齢か ら自らは当分の間暮 らす予定のない家 を村に建て始めているのである。しか も
,建
築 を始めた時点では建物 が完全 に完成す るほどの資金 は用意で きていない こともわかる。 若い うちか ら資金不足の まま村 に当分住む予定のない家 を建て る。将来の生活設計 として も早す ぎ,成 功のシンボル として建てるとして も中途半端 に思 えるような家 を建築す るのが どうしてか を 示唆す るのが,村人が語 って くれた村 に家 を建て ることに関す る次の寓話である。物語の話者 は50 歳前の失業 による帰村者である。アジュクルの別の村であるオルバ フ村の人か ら聞いた と語 で ある とい う。魔法が登場す るこの寓話の要点は,以
下の通 りで ある。 村の若者が外国へ行 ったまま長い間昔信 がない。そこで父親 は息子の ことを心配 して, 魔法 を使 って息子のいる外国のアパ ー トまで飛 んでいった。着いたときには,息
子 は 勤めに出て不在で,白人の妻がアパ ー トにいた。妻は息子 に連絡 し,息
子 はただちに 家に戻 って きた。何年ぶ りかで出会った父 が息子 に言 ったのは次の ことである。村 に 帰 って こい。で も村 に帰 る前 にまず,家
を建てなければな らない。必要な金 を渡 して くれた ら自分が建 ててお く。できあがった ら知 らせ るので,そのあとで帰 って くるが いい。これだけ話す と父 はアパ ー トを出て ドアを閉めた。息子はあわてて ドアを開 け たがその時には父 は もういな くなっていた。 この物語 には二つの命令が含 まれ る。第一 に,村
を訪間せ よとの命令,つまり,外
国にいてす ら 村 との交流 を続 けなければな らない とい う強制。第二 に,村
を訪間す る前にその条件 と して,村
に 家 を建てろとの命令である。そ して,命
令 をす るのは魔法 を使 える父である。 ここで魔法 について簡単 に説明 しておきたい。ダブ県は魔法の地 としてコー トジボ ワールー般 に もよく知 られている。そ してそこに住むアジュクルの人 にとっては魔法 と魔法使いは恐れ るべ き存 在であると同時に ,そ の力 を使 えば不可能に思 えるもの も可能 になると考 えられてい る。あるいは 魔法 と魔法使いはアジュクル人にとっては単なる物語などではな く〈ほんとうの こと〉なのだ といっ て もよい。なにかの不幸が起 きてそれが不可解 な もので あれば,呪
いをかけた人物 が探 され,除
呪 の儀式 までおこなわれ る例 も実際 にい くつかあるので ある。この ような魔法のあ り方 を念頭 にお く と,たとえ魔法が語 られ るのは寓話の中であって も,魔
法や魔法使 いは恐 るべ き力を持 った現実の もの として捉 えられ ることがわかる。つ まり,物
語の中の命令 は,息
子に対 し強い力 を持つ父の命 令であるだけではな く魔法使いか らの命令 として,息
子 には受 け取 られ るのである。そ しておそ ら く息子 と同 じ境遇の (聞き手 となった)都
市生活者 に も同 じ効果が生 まれ るであろうことは,十
分 考 えられ るだろう。 都市に出て多少な りともの蓄積がで きた成功者 が ,ま だ若い頃か ら村 に家 を建築す るの は,家
が 成功の シンボル としてあるか らであろう。その ことを否定す るのではない。しか し家 を建て ること, その あとで村 を訪問す ることには,そ うしなかった場合 に恐 ろ しい結果になるか もしれない とい う 強制力 も働 いているので ある。これが先 に引用 した文の中で大林のい う「村の人たちか ら後 ろ指 を さされて しまう」 ことで あ り,さ らに言いかえれば,人
の嫉妬 を怖れ るゆえに,家
を建て村 を訪 間 す るのである。 調査 中に も実際 に,アビジャンに住む人が村 にそれな りの家 を建てていないとい う非難 を聞いた ことがある。しか も,その非難 を私 に語ったのは,村
の生 まれではあるがアビジャンに住 んでいた 当時 アビジャン大学の大学生であった。将来 自分 自身がその ように非難 される可能性の一番大 きい若者か らであったので ある。 村 を出てい る人び とが村 に家 を建てるのは,老後の住 まい を確保す るためだけではない。また,自 らの成功 を村 に誇示す るためだけで もない。人び とは村 を出て働 く人び とに村に家 を建てることを 期待 しそ して強制 してい るので ある。町で働 く人の多 くもまたそれ を受け入れることで,あるいは 建てなか った場合 に起 こるであろう災厄 をおそれて,まだ若 い うちか ら資金 は十分ではないに もか かわ らず
,建
設 に着手 して きたのであろう。9
お わ り に アフ リカの農村 は閉鎖的で人々はそこで昔なが らの生活 をお くっている,とい うようなイメー ジ とは裏腹 に,私
の調査 した村の人び との多くは都市での生活経験 を有 し,現
時点で都市で生活す る 人や都市二世・三世 も数多 くいる。人々が都市へ と向かいは じめて少な くとも半世紀は経過 してい るか らで ある。 しか し,こ うした人ぴ とか らか ら村民意識が消 え去 ってはいない。それは重要 な人 生儀礼がすべて村 でお こなわれ ることで,村
人 としてのアイデ ンテ ィテ ィが維持・形成 され ること が一つの要因 となっている。また制度的には,都
市 に住 んでいて も村出身者すべては認識上 も実際 の権利上 も村民の ままである。一方,実
際の行動の面 をみ ると,村
に都市在住民 を引 きつ ける力 と ともに,村
か ら人び とを都市へ排出する力が同時に働 いていると考 えられた。人び とは不断な く都 市へ と向か う一方で,村
とのつ なが りは維持 し続 け,仕
事がな くなるとまた村へ戻 る。そ して都市 へ出た人びとがその間に獲得 した富は,村
の側 にプランテーシ ョンや養魚場 あるいは家の形で く投 資〉され る。この投資は,一
面では停年後の生活設計か らな され るものであるが,見
栄のためにな され るもので もあ り,ま
た嫉妬 を怖れてな され るもので あると考 えられた。 人び とが仕事 がな くなれば村へ戻 ることがで きるのは,ま た村の土地制度 が最低生活 を保障 して いるか らであ り,村
の人口がまだ飽和 していないか らである。急激な数の増加がみ られ る次の世代 では,は
た して現在 と同様の村 と都市の関係が維持で きるのであろうか。維持できなくなれば,村
とのつ なが りが希薄化 した都市の人び とはどの ような変化 をみせ るのだろうか。今後 とも注 目を し ていきたい。 注 (1)「移民」 と「出稼 ぎ民」 を合わせて「移入民」 としてお く。 (2)フ ランスに2人,イ ギ リスに 1人,アメ リカに4人がいる。 俗)も う一つの人生儀礼 として一般 に考えられ る儀礼には婚姻儀礼があげられる。アジュクルでは婚資の贈 与にともな う儀礼,キリス ト教式の教会での結婚式 とそのあとの宴会,役所への婚姻届時におこなわれ る フランス市民婚方式の簡単な儀礼の3つがそれにあたると考 えられる。しか しいづれの儀礼 もおこなって いない夫婦 も多 く,結婚式その ものがあまり重要性 を持 っていない。 (4)2001年 時点の年齢組はおよそ70歳 の「ンベデ ィエ」年齢組が最年長組で,以下「ンボルマン」,「ニベシ」, 「ボジョル」,「セテ」,「ンジョルマン」と続 き,「アプロマン」年齢組 は目下形成 中の最年少の組である。 年齢組の数は計7組,組
と組 との間隔は8年で ある。 (5)結婚後の居住は夫方居住である。 (6)マ ニオク (キャッサバ)を
小粒状に粉砕 し蒸 した主食食品。コー トジボワール独特の食品で,ダブ県ほ かアビジャンの周辺で多く生産 される [茨本 1996]。 (7)コー トジボヮール民法では一夫一妻制と定められているが,2人
以上の妻 を持つ人 も少なくない。(8)村からダブの学校へ通っていたのは1993年には1名 (病弱が理由),2001年 には2名 (経済的理由)で あっ た。 (9)親族間の子どもの移動については別に詳 しく検討する必要がある。 10コー トジボアール経済は1970年代には「象牙の奇跡」といわれたほどの発展 をした。
10正
確には土地を耕作する権利および売買する権利の二つを含んだ権利である所有権ではなく,耕作だけ ができる用益権がこの村の土地には設定されていて,用益権としては貸借のみが可能である。この用益権 を有するのは村人である個人および村の二つの地区である。土地が売買 されたことはこれまでのところな い。本論では煩雑 さを避けるため「用益権を有する」ことを「所有」 としておく。1290年
代末から例がみられる。09定
年退職後に村に戻 ることはアジュクルだけの現象ではないことについては次のような指摘がある。「ア ビジャンの人口のなかの老人は非常に少なく,しかもその大部分は地元のエブリエ人である。」(PhilipeAntohe et Claude Heny,1982,肋 ?″ιtt Jじ脇軽rpp力″廃 ,麻P,郎鱈盗 淀″力 ぬ ∫町
=わ
れど脇rわη
'4う切,2.Abttan:
Centre ORSrOM dc Pedt Bassamop.104.lToure 1984]か らの孫引 き。)
tゲgendann」 。直訳すれば「憲兵」で あるが
,実
際 には軍以外 の一般 の秩序維 持 もお こな う。参 考文献
ChЛreard,Jean‐Louis etAl n Dubresson,1989,` Un pied dedans,un pied dchors:占 pЮpos du mralet de lurbain
― en C6te dIIvoirei.BenoitAnheaume,,′ .edS.)2残 フ物
"¢
♂∫Ji9明″′形,♂∫′οガ″
=θ
α″″ ,P,″ JP''郎 セ′ ♂′C,′′θs S,レ放γ
.Ptts:OmM.pp.277‐
290.Dozon,Jean‐ Here,1981,`Lcs mる協morphoses urbaines dlun《 douЫe》 llageOiゞ.clp力 'ι お ′ID倣力♂ガ河ω力¢♂・ 81‐
83,剛
(1■),pp.389‐403. 茨木 透,1995,「アジュクル族の富者儀礼―一年齢階梯制社会における階層化の挫折」,『民族学研究』60巻 2号,123∼ 147頁。 茨木 透,1996,「コー トジボアールにおけるマニオクとアチェケーー近郊農村における家内制食品加工業と 女性の労働」1『アジア経済』37巻6号159∼78頁。 大林公子,2002,『アフリカの「小 さな国」――コー トジヴォワールで暮 らした12ヵ月』,集
英社新書。 原回武彦,1994,「コー トジボワールの葬儀と費用」,小島麗逸 (編 ),『アジア墳墓考』,到革書房1212∼ 219 頁。 Touに ,Abdou,1984,影 !ι 汚虜″¢rル `ケ,′J98ι"∫♂滋α力″″カルtrz♂フ♂rd9η打奮町虎♂伽6ひ″′′νο,監Communica‐Eon presen“e au colloque de gerOnt01ogle sodale organktte par!Universtt dlAix‐ Marceile CFranc0 9‐12 Hlai 1984.